常山王
楚王
郁林王
琨、武后のとき六州刺史を歴任し、皆名有り。聖歴中、嶺南招慰使と為り、反獠を安輯す。甚だその宜しきを得たり。卒し、司衛卿を贈らる。神龍初年、張掖郡王を贈らる。開元中、子の祎の貴きに因り、呉王に追封せらる。
祎は少にして志尚有り。継母に事うること謹み、異母弟の祗を撫するに、友と称せらる。当に封を襲うべきに、固く祗に譲る。中宗その意を嘉し、特ち嗣江王に封じ、以て囂の後を継がしむ。開元のとき、また傍継に因りて信安郡王に徙封せらる。累ねて州刺史と為り、治め厳にして辦ず。礼部尚書・朔方節度使に遷る。
初め、吐蕃が石堡城を占拠し、しばしば辺境を侵したので、詔して王祎に河西・隴右とともに攻め取ることを議わせた。既に駐屯地に到着し、日を選んで進軍しようとした。ある者が言うには、「城は険阻で、賊の大切な拠点であるから、必ず固く守るであろう。今、兵を深入りさせて、もし勝たなければ、我が軍は必ず敗走する。慎重を保って賊の情勢を窺うに如くはない」と。祎は言う、「人臣の節義として、どうして険阻を恐れて進まないことがあろうか。もし衆寡敵せざる場合には、我は死をもってこれに継ごう」と。ここにおいて兵を分けて賊の通路を遮り、諸将を督して倍道で進軍させ、ついにこれを陥落させた。これより河・隴の諸軍は遊弈し、拓地すること千里に及んだ。玄宗は喜び、その城の名を改めて振武軍と号した。契丹の牙官可突於が叛いたので、詔して忠王を河北道行軍元帥に拝し、これを討たせ、祎を副とせよと勅した。王は出発しなかったので、祎は裴耀卿ら諸将を率いて分道して范陽の北より出撃し、二蕃を撃ち破り、酋長を生け捕りにして還り、残部は逃げ隠れた。開府儀同三司を加えられ、関内支度営田採訪処置使を領し、二子に官を授けられた。祎の功績は多かったが、執政者がこれを妬み、賞は功に相応せず、当時の人々に恨まれた。久しくして、兵部尚書に抜擢され、朔方節度大使となった。事に坐して衢州刺史に降格された。滑・懐の二州を歴任した。天宝初年、太子少師をもって致仕した。翌年、太師に遷ったが、拝せずに薨去した。祎は家を治めるに厳しく、子を教えるに法度があり、故に王峘・王嶧・王峴はいずれも顕達した。
王祗は嗣呉王に封ぜられ、東平太守として出向した。安禄山が反乱を起こすと、河南・陳留・滎陽・霊昌が相次いで陥落したので、祗は兵を募って賊を防ぎ、玄宗はこれを壮とした。累遷して陳留太守となり、持節して河南道節度採訪使となった。太僕卿・宗正卿を歴任した。代宗の大暦の時、祗は既に宗室の長老であり、太子賓客として集賢院待制となった。この時、勲望ある大臣で職事のない者は皆、院において待詔することができ、餐銭と官舎を給されて礼遇を厚くされ、左僕射裴冕ら十三人がこれに任じられた。子の王巘は、蔭をもって五品官に補せられた。祗が薨ずると、兄の王岵が罪を得たので、巘をして王を嗣がせた。累進して宗正卿となり、検校刑部尚書に至った。薨じ、太子少保を追贈された。性質は剛直で、人の短所を面と向かって指摘した。官歴は清廉で、住居は風雨を凌ぐことができなかった。甥や姪を収め慈しみ、慈愛は人に過ぎ、家には蓄えがなく、公卿が合わせて賻を贈って初めて葬ることができた。王璄は、神龍初年に帰政郡王に封ぜられ、宗正卿を歴任したが、王千里の事に坐し、南州司馬に貶せられた。
濮王
濮恭王泰は字を惠褒という。初め宜都王に封ぜられ、衛王に転封され、懷王の後を継いだ。また越王に転封され、揚州大都督となった。さらに雍州牧、左武候大將軍に遷った。魏王に改封された。帝は泰が士を好み、文章をよくするのを以て、詔して府に文学館を置かせ、自ら学士を引くことを得させた。また泰の腰腹が大きいのを以て、小輿に乗って朝に至ることを聴した。司馬蘇勖が泰に賓客を延いて書を著わし、古の賢王の如くするを勧めた。泰は乃ち奏して『括地志』を撰せしめ、ここに著作郎蕭德言、秘書郎顧胤、記室参軍蔣亞卿、功曹参軍謝偃等を引いて撰次せしめた。衛尉は帳を供し、光祿は食を給し、文学ある士多く与り、而して貴遊の子弟更に相因藉し、門市の若きがごとし。泰その過ちを悟り、速成せんと欲し、乃ち道を分かち州を計り、繙緝疏録し、凡そ五百五十篇、四期を歴て成る。詔して秘閣に蔵し、賜うところ万段。後に帝泰の延康坊の第に幸し、長安の死罪を曲赦し、坊人の一年の租を免じ、府僚に差に以て帛を賜う。又泰の月稟は皇太子を過ぐること遠く甚だしく、諫議大夫褚遂良諫めて曰く、「聖人は嫡を尊び庶を卑しむ、之を儲君と謂う、故に用物は会せず、王とこれを共にし、庶子は比するを得ず、以て嫌いの萌を塞ぎ、禍の源を杜ぐ。先王の法制は、諸れ人情に本づく、国を有つ者は必ず嫡庶有るを知り、庶子は愛すと雖も、嫡子を過ぐるを得ず。もし親とすべき者を疏にし、尊とすべき者を卑にせば、則ち私恩公を害し、志を惑わし国を乱す。今魏王の稟料は東宮を過ぐ、議者は是に非ずと為す。昔漢の竇太后は梁王を愛し、四十余城を封ず。王苑を三百里に築き、宮室を治め、復道を為し、財を費やすこと巨万、出では警し入りは蹕し、一たび意を得ず、遂に発病して死す。宣帝も亦淮陽王を驕らせ、幾くんぞ敗に至らんとし、退譲の臣を以て輔け、乃ち克く免る。今魏王新たに閤を出づ、且つ節儉を以て示すべく、自ら後月に在りて加え歳に増すを得べし。又宜しく師傅を択び、謙儉を以て教え、文学を以て勉め、就いて徳器を成すべし、これ所謂聖人の教え、粛せずして成るなり。」帝また泰を勅して武徳殿に入居せしむ。侍中魏徵も亦言う、「王は陛下の愛子、之を安全せんと欲せば、則ち嫌疑の地に居らしむべからず。今武徳殿は東宮の西に在り、昔海陵(元吉)ここに居れり、論者は不可と為す。時に与に事異なると雖も、人の多言は、尚ほ或いは畏るべし。又王の心も亦遑かに舍つること弗し、願わくはこれを罷め、王の寵を以て懼れを為すの美を成さん。」帝悟り、乃ち止む。時に皇太子承乾は病蹇あり、泰は計を以て之を傾け、乃ち駙馬都尉柴令武、房遺愛等を引いて腹心を布き、而して韋挺、杜楚客相継いで府事を摂る。二人の者は、泰の為に中朝の臣を要結し、津介賂遺し、群臣更に附いて朋党を為す。承乾懼れ、陰に人を遣わし泰府の典簽と称して玄武門に詣り封事を上る。帝之を省み、書に泰の罪を言う。帝怒り、即ち遣わして捕え詰むるも獲ず。既にして太子敗る。帝陰に泰を立つるを許す。岑文本、劉洎請うて遂に泰を立てて太子と為さんとす。長孫無忌固く晋王を立てんと欲す。帝は太原の石文に「治万吉」有るを以て、復た無忌に従わんと欲す。泰微かに之を知り、因りて晋王に語りて曰く、「爾元昌に善し、及ばざるを得ざるか。」王甚だ憂う。帝之を怪しみ、故を以て対う。帝憮然として悟る。会に承乾を召して譴勒す。承乾曰く、「臣貴きこと太子と為り、尚ほ何をか求む。但だ泰に図らるるが為に、朝臣と謀りて自ら安からんとす。無状の人、遂に臣を教えて不軌の事を為さしむ。若し泰を太子と為さば、正に其の計を得しむるのみ。」帝曰く、「是なり、もし泰を立てば、則ち副君詭り求めて得べし。泰を立たしめば、承乾、治倶に死す。治を立てば、泰、承乾他無かるべし。」即ち泰を将作監に幽し、雍州牧、相州都督、左武候大將軍を解き、王を東萊に降す。因りて詔して曰く、「今より太子道に非ず、藩王窺望する者は、両つながら之を棄つ、令として著す。」然れども帝猶お無忌に謂いて曰く、「公我を勧めて雉奴を立てしむ、雉奴仁懦、宗社の憂いを為すこと無からんや、奈何。」雉奴は高宗の小字なり。泰尋いで順陽王に改まり、均州の鄖郷に居る。帝嘗て泰の表を把りて左右に語りて曰く、「泰の文辞喜ぶべし、豈に才士に非ざらんや。我が心泰を念う已む時無し。但だ社稷の計の為に、外に居らしめ、両つながら相完からしむるなり。」二十一年、濮王に進む。高宗即位し、詔して泰に開府し僚属を置き、車服羞膳を異等とせしむ。鄖郷に薨ず、年三十五、太尉、雍州牧を贈る。二子:欣、徽。欣王を嗣ぐ。武后の時酷吏に陥れられ、昭州別駕に貶せられ、薨ず。子嶠、神龍初め王を嗣ぐことを得。開元中、国子祭酒と為り、罪に坐し鄧州別駕に貶せられ、薨ず。徽は新安郡王に封ぜらる。
庶人 李祐
庶人李祐、字は贊。武徳八年、宜陽王に封ぜられ、進んで楚王となり、また燕王となり、後に斉王に封ぜられ、斉州都督を領す。貞観十一年に初めて封国に帰る。翌年入朝し、病により京師に留まる。その舅の尚乗直長陰弘智は、奸佞の者にして、祐に説いて曰く、「王は兄弟多し、即ち上万歳の後、何を以て自ら全からんや。要は士を得て自助すべし」と。乃ち客の燕弘亮を引いて祐に謁せしむ。祐悦び、金帛を賜ひ、剣客を募らしむ。十五年、州に還る。初め、帝は王府の長史・司馬を用ふるに、必ず骨鯁敢言の者を取り、過失あれば輒ち聞かしむ。而るに祐は群小に溺れ、弋猟を好む。長史薛大鼎屡諫すれども聴かず。帝は王を輔くるに状無きを以て、之を免じ、更に権万紀を用ふ。万紀は性剛急にして、法を以て祐を縄す。昝君謨・梁猛虎と云ふ者有り、騎射に幸を得たり。万紀之を斥く。祐は私に引きて狎昵す。帝数たび書を以て祐を譲る。万紀は並びに罪を得んことを恐れ、即ち祐に説いて曰く、「王は上の愛子なり。上は王の改悔を欲し、故に数たび王を教責す。誠に能く躬を飭み咎を引かば、万紀請ふ朝に入りて之を言はん。上意宜しく解くべし」と。祐因り上書して罪を謝す。万紀帝に見え、祐且に自新すと言ふ。帝悦び、厚く万紀に賜ひ、而して仍ひ祐を譙戒す。祐、万紀の労せられしを聞き、而して己は責めを蒙る。以て己を売りしと為し、益々平らかならず。会ふに万紀又疑貳を以て君謨等を繫ぎ、祐を制して国門を出でしめず、悉く祐の罪を朝に暴く。祐忿に勝へず。詔有りて刑部尚書劉徳威に臨訊せしむ。頗る実なり。帝祐・万紀を召して京師に還す。祐は燕弘亮等と謀り、万紀を射殺し、支解す。左右祐に勧めて遂に兵を発せしむ。乃ち城中の男子年十五以上を募り悉く発し、私に左右上柱国・光禄大夫・開府儀同三司・托東・托西等の王を署し、庫の貲を斥けて賞を行ひ、人を駆りて堞を築き隍を浚ひ、甲兵を繕ふ。人之を悪み、皆夜縋りて亡去す。詔して兵部尚書李勣と劉徳威に便道の兵を発して之を討たしむ。祐日夜弘亮等五人を引きて其の妃に対し宴楽す。官軍に語れば、則ち弘亮妄りに言ふ、「王憂ふること毋かれ、右手に酒を持ち啗ひ、左手に刀を以て之を払はん」と。祐弘亮を信愛し、之を聞きて喜ぶ。帝手敕して祐に曰く、「吾常に汝に戒めて小人に近づくこと勿れとす。正に此の為の耳。往ては吾が子、今は国の仇。我上は皇天に慚じ、下は后土に愧づ」と。題し畢りて涕して遣す。祐諸県に檄す。県輒ち以て聞す。祐窮蹙し、上表して曰く、「臣、帝子なり。万紀の讒構に遭ひ、上天霊を降し、罪人斯に得たり。臣狂ひて心を失ひ、惝怳驚悸す。左右兵無く、即ち顛走せんと欲す。所以に頗る仗械を以て自ら衛護す」と。時に勣未だ至らず、而して青・淄等州の兵已に集まる。或る祐に勧めて子女を虜ひ豆子に走りて盗と為らんとす。計未だ決せず。兵曹杜行敏夜兵を勒し垣を鑿ちて入る。祐と弘亮等門を閉ぢて拒ぐ。日中に至り、行敏呼んで曰く、「吾国為りに賊を討つ。速やかに降らざれば、且つ焚かん」と。士薪を積む。祐乃ち出で、執へて京師に送る。内侍省に賜死し、庶人に貶せられ、国公の礼を以て葬る。詔して斉州に復を給すること一年とし、行敏を擢て巴州刺史と為し、南陽郡公に封ず。祐は闘鴨を養ふを喜ぶ。未だ反せざる方、狸鴨四十餘を齚み、其の頭を絶ちて去る。敗るるに及び、牽連して誅死する者凡そ四十餘人。祐の乱、州人羅石頭祐の罪を数へ、刀を以て直ちに前に進み祐を刺す。克たず、之を殺す。詔して亳州刺史を贈る。祐嘗て騎を引きて邑聚を徇ふ。野人高君状曰く、「上親しく寇難を平ぐ。土地甲兵計ふるに勝へず。今王数千人を以て乱を為すは、猶ほ一手を以て泰山を揺るがすが如く、又君父を如何にせん」と。祐之を撃ち禽ふ。其の言を愧ぢて、殺す能はず。詔して榆社令に擢つ。
蜀王
蜀悼王李愔、貞観五年に初めて梁王に封ぜられ、郯王・漢王・申王・江王・代王の五王と同封。蜀王に徙封、実封八百戸。岐州刺史として出づ。数たび畋遊し、非法を為す。帝頻りに責教すれども悛めず、怒りて曰く、「禽獣は人に擾はれ、鉄石は器と為る可し。愔は曾て之に如かず」と。乃ち封戸及び国官の半を削り、虢州に徙す。久しくして戸を還し、千に増す。復た出でて馳弋し、民の稼を敗る。典軍楊道整馬に叩きて諫む。愔之を捽撃す。御史大夫李乾祐愔の罪を劾す。高宗怒り、黄州刺史に貶す。道整を擢て匡道府折沖都尉と為す。呉王恪罪を得、愔は母弟を以て庶人に廃せられ、巴州に徙す。俄かに涪陵王に封ぜられ、薨ず。咸亨初め、復た爵士し、益州大都督を贈られ、昭陵に陪葬す。子璠を以て王を嗣がしむ。璠は武后の時に謫死して帰誠州に至る。神龍初め、朗陵王瑋の子䄖を以て嗣がしむ。
蔣王
越王
越王李貞は、初め漢王に封ぜられ、後に原王に移り、やがて越王に封ぜられた。李貞は騎射に優れ、文史に通じ、吏才があり、宗室の中でも有能な王であった。武后の初め、累進して太子太傅・豫州刺史となった。中宗が廃されて房陵に幽居すると、李貞は韓王李元嘉およびその子の黄公李譔、魯王李霊夔・その子の范陽王李藹、霍王李元軌・その子の江都王李緒、および自分の子の瑯邪王李沖と共に、帝位を復することを謀議した。垂拱四年、明堂が完成し、宗室を悉く召して享礼を行わせたが、一同は武后がやがて大いに誅戮を加えて種を残さぬのではないかと疑い、事態が切迫したので、李譔は偽って皇帝の璽書を作り李沖に賜り、「朕は幽閉されている。諸王は直ちに兵を起こすべし」と伝えた。そこで長史蕭徳琮に命じて兵を募り、諸王に挙兵の期日を告げた。八月、李沖が先に挙兵したが、諸王は応ずる者がなく、ただ李貞のみが兵を率いて上蔡を攻め、これを破ったが、李沖は既に敗れていた。李貞は次第に属県を巡り、兵七千を得て、五営を設けた。李貞は中営とし、裴守徳を大将軍として中営を統率させ、趙成美を左中郎将として左営を、閭弘道を右中郎将として右営を、安摩訶を郎将として後軍を、王孝誌を右将軍として前軍を統率させた。韋慶礼を司馬とし、官を五百人任命した。しかし脅迫や誘いでは闘志がなく、家童も皆符を佩いて兵災を避けようとした。九月、武后は左豹韜衛大将軍曲崇裕・夏官尚書岑長倩に兵十万を率いて討伐させ、鳳閣侍郎張光輔を諸軍節度とし、詔を下して李貞父子の属籍を削り、姓を「虺」に改めさせた。崇裕らが豫州に到着すると、李貞の末子李規と裴守徳が防戦したが、兵は潰え、李貞は門を閉めて守った。守徳は勇猛な武士であった。李貞が挙兵した初め、娘を娶らせて腹心に委ねた。この時、李貞を殺して自ら罪を贖おうとした。ちょうど軍が城に迫り、家人が李貞に告げた、「今事ここに至りました。王はどうして戮辱を受ける者でありましょうか」。即ち仰薬して死んだ。李規は自殺し、守徳と公主は共に縊死した。挙兵して凡そ二十日で敗れた。初め、李貞が水に臨んで自らを映すと、首が見えず、これを嫌ったが、間もなく禍に及んだ。李沖は李貞の長子である。学を好み、勇猛で才があり、累進して博州刺史となった。挙兵の初め、兵五千を有し、河を渡って武水に向かった。武水県令が魏州に急を告げると、州は莘県令馬玄素に兵を率いて先に城に登らせた。李沖がこれを攻め、風に乗じて積み薪を門に焚きつけたが、火が起こると風向きが変わり、衆の心は沮喪した。その配下の董元寂が声を上げて言うには、「王は国家と戦っているのに、かえってこのようなことをするのか」。李沖はこれを斬って示し、衆は恐れて遂に潰走し、ただ家僮数十人が従ったのみであった。そこで博州に逃れたが、関所の守に刺し殺された。武后は丘神勣に討伐を命じたが、兵が到着する前に李沖は既に死んでおり、挙兵して七日で敗れた。弟二人、李茜・李温。李茜は常山公で、連座して死んだ。李温は事前に告発したため、嶺南に流された。初め、李貞が檄を飛ばして寿州刺史趙瓌に伝え、挙兵して且つ道を借りることを告げた。瓌は檄を得て、応ずるふりをした。瓌の妻の常楽長公主も諸王に早く功を立てるよう促したので、瓌と公主は共に死んだ。済州刺史薛顗は弟の薛紹と謀って李沖に応じ、配下の庸・調を率い、兵を整え士を募ったが、李沖が敗れると、獄に下されて死んだ。薛顗は駙馬都尉薛瓘の子で、母は城陽長公主、河東県侯に封ぜられた。薛紹は太平公主に尚し、累進して右玉鈐衛員外将軍となったが、公主の婿であるため殺されず、河南の獄で餓死した。神龍初年、敬暉らが上奏して李沖父子が社稷のために死んだことを述べ、爵土を復するよう請うたが、武三思らに阻まれて取りやめとなった。開元四年、ようやく爵土を復し、有司が死して君を忘れざるを敬と諡した。五年、また詔して、「王の後嗣絶え国除となるは、朕甚だ悼む。貞の従孫で故許王子の夔国公李琳をもって王を嗣がせ、王の祭祀を奉ぜしむべし」とした。李琳が薨じると、爵は伝わらなかった。李貞の最年少の子李珍子は嶺表に謫され、数世にわたって帰ることができなかった。開成年中、孫娘が四世の柩を北に持ち帰り、王の塋域に合葬することを求めた。詔して嘉憫し、宗正寺・京兆府に命じてその墓域を訪ねさせ、陪陵でない者は葬ることを許した。女の名は元真、道士となった。
紀王
江王
江殤王李囂は、封ぜられた翌年に薨じ、後嗣がなかった。
代王
代王李簡は、封ぜられた後に薨じ、後嗣がなかった。
趙王
曹王
明年、母喪を奉じて江陵に至る。会に梁崇義反す、奪はれて左衛大将軍と為り、復た湖南を観察す。李希烈反す、江西節度使に遷る。命を受くる日、家に宿らず、豫章に至り、将吏に大令して曰く、「功有りて未だ申さずと器を懐き謀りて発せざる者は、皆自ら言へ」と。裨校伊慎・李伯潛・劉旻を得て、悉く大将に補ふ。王鍔を擢て中軍と為し、馬彜・許孟容を以て幕府と為す。戦艦を治め、兵二万を裒め、士二千五百を以て慎等に委ねて之を教へしむ。自ら五百人を将ひ、秦兵団力法を以て教へ、其の賞罰を聯ね、弛張一の如くし、乃ち約して五百人を以て慎の卒二千五百を撃たしむ、其の鋒に当る莫く、即ち尽く以て之を教ふ。初め、慎嘗て希烈に従ひ襄州を平らぐ、是に至り、希烈懼れて臯に用ひらるるを、即ち反間し、徳宗之を信じ、将に慎を誅せんとす、臯之を赦すを請ひ、使はして自ら効せしむ。会に賊と江を夾みて陣す、臯慎を勉めて功を立てしめ、乗する所の馬及び其の鎧を之に賜ひ、使はして先鋒を将ひしめ、賊数百級を斬りて、乃ち免る。
賊柵蔡山攻むべからず、臯声言して西に蘄を取らんとし、兵艦を引きて崖に循ひ江を溯りて上る。賊聞き、羸師を以て柵を保ち、軍を悉く江北に行かしめ、臯と直にす。西に蔡山を去ること三百里、臯歩士を遣はして悉く舟に登らしめ、流れに順ひて下り、蔡山を攻め、之を抜く。一日を間ひ、賊の救ひ至り、遂に大敗し、乃ち蘄州を取り、其の将李良を降し、黄州を平らげ、兵益々振ふ。
時に舒王が元帥となり、李臯に前軍兵馬使を授けた。やがて天子が奉天に狩り(行幸)し、鹽鐵使包佶が陳少遊に窘迫され、運艚を江に溯らせて蘄口に停泊したところ、李希烈が杜少誠に歩騎三萬を率いさせて江道を遮断せんとした。李臯は伊慎に兵七千を率いさせて永安で防がせ、これを撃退した。功により工部尚書に進んだ。帝が梁州に駐蹕すると、李臯の貢物や援助が途絶えることなく続いた。天子が外に在ることを以て、敢えて城府に居らず、出て西塞山大洲に屯し、郡縣を移して軍市とした。戸部尚書に改めた。また伊慎・王鍔を遣わして安州を攻めたが、未だ下さず、李希烈が劉戒虛に歩騎八千を率いさせてこれを救援した。李臯は李伯潛に命じて應山で迎撃させ、これを俘虜とし、遂に安州を陥とし、偽刺史王嘉祥を斬った。李希烈が別に兵を遣わして隋州を救援したので、李臯は厲郷でこれを破り、因って平靜・白雁關を下し、賊は遂に南略することを敢えずした。荊南節度使に遷り、實封三百戸を賜った。凡そ戦うこと大小三十二、州五・縣二十を取、斬首三萬三千、生擒萬六千、未だ嘗て敗れたることなし。師の過ぐる所、桑棗を伐ち禾稼を践むことを敢えずした。朝廷は江淮に食を仰ぎ、而して西道は九江より出で、大別に至るまで皆賊と接す。李臯は數千里に轉戰し、餉路遂に通じ、江漢は李臯を倚りて固しと為す。淮西平らぎ、乃ち喪を護りて東都に帰ることを請う。帝は中人を走らせて賻弔せしむ。葬を終えて來朝し、還って鎮に就く。初め、江陵の東北、漢に傍うに古鄣有り、治めず、歳毎に輒ち溢れたり。李臯これを修塞し、其の下良田五千頃を得たり。江南の廢洲を規りて廬舍と為し、二橋を構えて江に跨ぎ、而して流人自ら占う者二千餘家。荊より樂郷に至る二百里、其の間の墟聚凡そ數十、井を飲まず。李臯始めて命じて井を鑿りて人の便とす。貞元初め、吳少誠蔡に擅にす。故に李臯を徙めて山南東道に鎮せしめ、隋・汝を割きて軍を益し、兵を練り糧を峙え、回鶻の馬を市いて戰騎を益し、歳時大いに畋して以て士を教う。少誠之を畏る。李臯性勤儉、能く人の疾苦を知る。微隱を參聽し、盡く吏下の短長を得、其の賞罰必ず信なり。至る所常に物價を平らげ、豪舉其の利を擅にすること能わず。戰艦を教え作り、二輪を挾みて之を蹈み、水を鼓して疾く進み、陣馬よりも駛し。造作する所有れば、皆用を省して利長し。物を以て人に遺わば、必ず自ら衡量を視、庫帛皆印署し、以て吏の謾を杜ぐ。扶鳳の馬彜未だ名を知られず、李臯之を識り、卒に正直を以て称せらる。張柬之園圃を襄陽に有り、李臯嘗て宴集し、将に市いて之を取らんとす。彜曰く「漢陽(張柬之)に中興の功有り、今遺業は当に百世共に保つべし、奈何ぞ其の子孫をして鬻がしむるや」と。李臯謝して曰く「主吏言を失い、以て君を羞じしむ。君微んば安んぞ能く此の言を聞かんや」と。卒年六十、尚書右僕射を贈り、謚して成と曰う。李臯嘗て自ら意を創めて欹器を為り、飖木を以て上に五觚を出だし、下は銳圓く、盂の形と為し、容るる所二豆、少なければ則ち水弱く、多ければ則ち強く、中なれば則ち水器力均しく、動搖すと雖も、乃ち覆さずと云う。
子に象古・道古有り。
象古は、元和年中、衡州刺史より擢て安南都護と為る。貪縦にして法に不法なり。驩州刺史楊清なる者は、蠻酋なり。象古其の豪を忌み、召して牙門将と為し、常に鬱鬱として亂を思う。會て黃賊を討つに、象古甲を發して之を助け、乃ち清に兵三千を授く。清子の誌烈と還り襲いて安南し、象古並びに其の家を殺す。詔して清を赦して瓊州刺史と為し、桂仲武を以て都護と為す。清命を拒み、仲武分ちて渠酋に諭す。兵皆附き、城を破り、清を斬り、其の族を夷す。