新唐書

巻七十九 列傳第四 高祖諸子

巻七十九 列傳第四 高祖諸子

 

目次

原文宋歐陽修宋祁等

高祖に二十二子あり。竇皇后は建成、太宗皇帝、玄覇、元吉を生み、万貴妃は智雲を生み、莫嬪は元景を生み、孫嬪は元昌を生み、尹徳妃は元亨を生み、張氏は元方を生み、郭婕妤は元礼を生み、宇文昭儀は元嘉及び第十九子霊夔を生み、王才人は元則を生み、張宝林は元懿を生み、張美人は元軌を生み、楊美人は鳳を生み、劉婕妤は元慶を生み、崔嬪は元裕を生み、小楊嬪は元名を生み、楊嬪は元祥を生み、魯才人は元暁を生み、柳宝林は元嬰を生む。

原文高祖二十二子:竇皇后生建成、太宗皇帝、玄霸、元吉,萬貴妃生智雲,莫嬪生元景,孫嬪生元昌,尹德妃生元亨,張氏生元方,郭婕妤生元禮,宇文昭儀生元嘉及第十九子靈夔,王才人生元則,張寶林生元懿,張美人生元軌,楊美人生鳳,劉婕妤生元慶,崔嬪生元裕,小楊嬪生元名,楊嬪生元祥,魯才人生元曉,柳寶林生元嬰。

隠太子

原文隱太子

隠太子建成、小字あざなは毘沙門。資性は簡易で弛み、常の行いを治めず、色を荒らし酒を嗜み、畋猟は度を過ぎ、従う者は皆博徒大侠なり。

原文隱太子建成小字毘沙門。資簡弛,不治常檢,荒色嗜酒,畋獵無度,所從皆博徒大俠。

隋末、高祖は詔を受けて汾・晋の間に賊を捕らえ、建成を留めて家を護らしめ、河東に居住す。高祖既に兵を起こし、密かに召して元吉と共に太原に赴かしむ。隋人は急に購い求むるも、間道より至り、左領軍大都督を授けられ、隴西郡公に封ぜらる。兵を率いて西河を略定し、京師平定に従う。唐国建つや、世子となり、開府して官属を置く。また撫軍大將軍に遷り、東討元帥となり、万人を将いて洛陽を徇り、尚書令を授かる。

原文隋末,高祖被詔捕賊汾、晉間,留建成護家,居河東。高祖已起兵,密召與元吉赴太原,隋人購之急,從間道至,授左領軍大都督,封隴西郡公。引兵略定西河,從平京師。唐國建,為世子,開府置官屬。又遷撫軍大將軍,為東討元帥,將萬人徇洛陽,授尚書令。

高祖禅を受け、皇太子に立てらる。詔して将軍桑顕和を率いて司竹の群盗を撃ち、これを平らぐ。涼州人安興貴、李軌を殺し、衆を以て降る。詔して原州に趣き応接せしむ。建成は素より驕り、士卒を恤れず、甚だ暑きも、昼夜馳猟し、衆はその労に堪えず、亡ぶ者過半なり。帝はその事に習わしめんと欲し、乃ち軍国の大務に非ざれば裁決を聴かしむ。また李綱・鄭善果を宮官と為し、謀議ぼうぎに参ぜしむ。稽胡の劉屳成、辺を寇す。詔して建成に進討せしめ、鄠州にこれを破り、斬虜千計、渠長を引きて悉く官と為し、還りて群胡を招かしむ。屳成は他の大帥と降る。建成はその衆を畏れ、州県に城せんと欲するを紿し、降胡に築を操らしめ、陰に兵を勒して六千人を殺す。屳成は梁師都に奔る。嘗て北辺を循行し、賊四百人降るに出遇い、悉くその耳を馘りてこれを放つ。

原文高祖受禪,立為皇太子。詔率將軍桑顯和擊司竹群盜,平之。涼州人安興貴殺李軌,以眾降,詔趣原州應接。建成素驕,不恤士,雖甚署,晝夜馳獵,眾不堪其勞,亡者過半。帝欲其習事,乃敕非軍國大務聽裁決之。又以李綱、鄭善果為宮官,參謀議。稽胡劉屳成寇邊,詔建成進討,破之鄠州,斬虜千計,引渠長悉官之,使還招群胡。屳成與它大帥降,建成畏其眾,紿欲城州縣者,使降胡操築,陰勒兵殺六千人,屳成奔梁師都。嘗循行北邊,遇賊四百出降,悉馘其耳縱之。

中允王珪・洗馬魏征、帝の初め興りしに、建成は謀を知らず、而して秦王は数たび劇寇を平らげ、功は天下に冠たり、英豪これに帰す。陰に皇太子に立つるを許し、勢い甚だ危し。会に劉黒闥、河北に乱る。珪等進みて説いて曰く、「殿下は特だ嫡長を以て東宮に居るも、功德有りて人の称道する所に非ず。今黒闥は痍叛の残孽、衆は万に盈たず、利兵を以てこれを鏖すは、唾手にして決すべし。請う往きて討ち、因りて山東の英俊の心を結び、自ら封殖せんことを。」建成遂に行くを請う。黒闥、洺水に敗る。建成、征に問うて曰く、「山東は其れ定まらんか。」対えて曰く、「黒闥は敗るるも、殺傷甚だし。その魁党は皆県名に処して死し、妻子は係虜と為り、降らんと欲するも繇無し。赦令有りと雖も、獲る者は必ず戮せらる。大いに蕩宥せざれば、恐らくは残賊嘯結し、民未だ安んずべからず。」既にして黒闥復た振い、廬江王瑗、洺州を棄つ。山東乱る。斉王元吉を命じてこれを討たしむ。詔有りて降る者は罪を赦すと雖も、衆信ぜず。建成至り、俘を獲れば皆撫でて遣わす。百姓欣悦す。賊懼れ、夜奔る。兵追い戦う。黒闥の衆猶お盛んなり。乃ち囚を放ちて相告げしめて曰く、「爾が甲を褫ぎて郷里に還れ。若し妻子獲らるれば、既に已に釈かる。」衆乃ち散じ、或いはその渠長を縛りて降る。遂に黒闥を禽す。

原文中允王珪、洗馬魏征以帝初興,建成不知謀,而秦王數平劇寇,功冠天下,英豪歸之,陰許立為皇太子,勢危甚。會劉黑闥亂河北,珪等進說曰:「殿下特以嫡長居東宮,非有功德為人所稱道。今黑闥痍叛殘孽,眾不盈萬,利兵鏖之,唾手可決,請往討,因結山東英俊心,自封殖。」建成遂請行。黑闥敗洺水,建成問征曰:「山東其定乎?」對曰:「黑闥雖敗,殺傷太甚,其魁黨皆縣名處死,妻子系虜,欲降無繇,雖有赦令,獲者必戮,不大蕩宥,恐殘賊嘯結,民未可安。」既而黑闥復振,廬江王瑗棄洺州,山東亂。命齊王元吉討之,有詔降者赦罪,眾不信。建成至,獲俘皆撫遣之,百姓欣悅。賊懼,夜奔,兵追戰。黑闥眾猶盛,乃縱囚使相告曰:「褫而甲還鄉里,若妻子獲者,既已釋矣。」眾乃散,或縛其渠長降,遂禽黑闥。

帝は晩年に内寵多く、張婕妤・尹徳妃最も幸いす。親戚宮府に分事す。建成と元吉は謀を通じ、内に妃禦を結びて以て自ら固めんとす。是の時に当たり、海内未だ定まらず、秦王は数たび兵を将いて外に在り、諸妃見る所稀なり。洛陽平定に及び、帝は諸妃を遣わして後宮を馳せて閲せしむ。府庫の服玩を見て、皆私に求索し、兄弟の為に官を請う。秦王は既に帑簿を封じ、及び官爵は功無き者は得ざるを以てす。妃媛曹これを怨む。会に陝東道行臺と為り、詔有りて内に属する者は専ら処決を得。王は美田を以て淮安王神通に給す。而して張婕妤は父の為にこれを丐う。帝手詔して田を賜う。詔至るも、神通は既に前に得て、肯て与えず。婕妤妄りに曰く、「詔は妾が父に田を賜うと雖も、王は奪いて人に与う。」帝怒り、秦王を召して譲りて曰く、「我が詔令は爾が教の如くならざるか。」他日、裴寂に謂いて曰く、「児久しく兵を典り、儒生に誤らる。我が昔日の子に非ず。」秦府の属杜如晦、騎を以て尹妃の父の門を過ぐるに、その傲りを恚り、家童を率いて捽毆し、一指を折る。父懼れ、即ち妃をして前に訴えしめて秦王の左右その父を暴にするを訴う。帝察せず、大いに怒り、王を詰めて曰く、「児の左右乃ち我が妃の家を淩ぐ。況んや百姓をや。」王自ら辨曉すも、終に置かず。これより疎んぜらる。帝は諸王を召して燕す。秦王は母の天下を有つに及ばざるを感し、偶々独り泣く。帝顧みて楽しからず。妃媛因りて中傷するを得、建成の為に遊説して曰く、「海内事無し。陛下春秋高し。当に自ら娯ぶべし。秦王輒ち悲泣するは、正に妾属を嗔忌するが為のみ。陛下万歳の後、王志を得ば、妾属遺類無からん。東宮は慈愛、必ず能く全養せん。」乃ち皆悲しくして自ら勝えず。帝惻然たり。遂に太子を易うるの意無し。

原文帝晚多內寵,張婕妤、尹德妃最幸,親戚分事宮府。建成與元吉通謀,內結妃禦以自固。當是時,海內未定,秦王數將兵在外,諸妃希所見。及洛陽平,帝遣諸妃馳閱後宮,見府庫服玩,皆私有求索,為兄弟請官。秦王已封帑簿,及官爵非有功不得,妃媛曹怨之。會為陜東道行臺,有詔屬內得專處決。王以美田給淮安王神通,而張婕妤為父丐之,帝手詔賜田,詔至,神通已得前,不肯與。婕妤妄曰:「詔賜妾父田,而王奪與人。」帝怒,召秦王讓曰:「我詔令不如爾教邪?」他日,謂裴寂曰:「兒久典兵,為儒生所誤,非復我昔日子。」秦府屬杜如晦騎過尹妃父門,恚其傲,率家童捽毆,折一指。父懼,即使妃前訴秦王左右暴其父,帝不察,大怒,詰王曰:「兒左右乃淩我妃家,況百姓乎?」王自辨曉,訖不置,繇是見疏。帝召諸王燕,秦王感母之不及有天下也,偶獨泣,帝顧不樂,妃媛因得中傷之,為建成遊說曰:「海內無事,陛下春秋高,當自娛,秦王輒悲泣,正為嗔忌妾屬耳。使陛下萬歲後,王得誌,妾屬無遺類。東宮慈愛,必能全養。」乃皆悲不自勝。帝惻然,遂無易太子意。

突厥とっけつ入寇す。帝は遷都を議す。秦王苦諫して止む。建成、帝に見えて曰く、「秦王は外に寇を禦え、遷都の議を沮ぎ、以てその兵を久しくし、而して謀を謀りて篡奪せんとす。」帝浸に悦ばず。

原文突厥入寇,帝議遷都,秦王苦諫止。建成見帝曰:「秦王欲外禦寇,沮遷都議,以久其兵,而謀篡奪。」帝浸不悅。

初め、帝は秦王をして西宮の承乾殿に居らしめ、元吉を武徳殿に居らしむ。上臺・東宮と昼夜往来し、皆弓刀を携え、相遇うれば家人の礼の如し。ここにより皇太子令・秦斉二王の教と詔勅雑行し、内外懼れ、従う所を知らず。建成等は四方の驍勇及び長安の悪少年二千人を私募して宮甲と為し、左右長林門に屯し、「長林兵」と号す。また左虞候率可達志に令して幽州の突厥兵三百を募りて内宮中に入れ、将に西宮を攻めんとす。或いは帝に告ぐ。帝は建成を召して責め謂う。乃ち志を巂州に流す。

原文初,帝令秦王居西宮承乾殿,元吉居武德殿,與上臺、東宮晝夜往來,皆攜弓刀,相遇如家人禮。由是皇太子令、秦齊二王教與詔敕雜行,內外懼,莫知所從。建成等私募四方驍勇及長安惡少年二千人為宮甲,屯左右長林門,號「長林兵」。又令左虞候率可達誌募幽州突厥兵三百內宮中,將攻西宮。或告於帝,帝召建成責謂,乃流誌巂州。

華陰の楊文幹は元来凶暴で邪悪であり、建成は彼を親しみ、慶州総管に任じ、兵を募って京師に送らせ、変事を起こそうとした。時に帝は仁智宮に行幸し、秦王・元吉が従った。建成は元吉に言うには、「秦王はまもなく諸妃に遍く会うであろう。彼は金宝が多く、それをもって賄賂を贈るであろう。我どうして安閑として禍を受けることができようか。安危の計は今日決すべきである。」と。元吉は「善し」と言った。そこで郎将の尒朱煥・校尉の橋公山に命じて甲冑を持たせて文幹に届けさせ、兵を起こすよう急がせた。煥らは恐れ、豳郷に至って反状を告げ、寧州の人杜鳳もまた変事を上告した。帝は司農卿の宇文穎を駅馬で走らせて文幹を召したが、元吉は密かに穎と結び、文幹に告げさせたので、文幹は直ちに兵を率いて反した。帝は建成が首謀であることを知りながら、まだ忍んで処罰せず、ただちに詔して王珪・魏徴及び左衛率の韋挺・舍人の徐師謩・左衛車騎の馮世立を捕らえ、彼らを殺して太子の罪を軽くしようとした。そこで手詔を下して建成を召したが、建成は恐れて行こうとしなかった。師謩は挙兵するよう勧めたが、詹事主簿の趙弘智は建成に車服を捨て、軽装で行って謝罪するよう諫めた。そこで行在所に赴いたが、未だ到らぬうちに官属を退け、直ちに入って謁し、叩頭して死を請い、地に投身して起き上がれなかった。帝は怒り、夜に幕中に囚え、兵士に守衛させた。ちょうど文幹が寧州を陥落させたので、帝は驚き、宮が賊に近いため、夜に衛士を率いて南へ急ぎ、山を行くこと十余里、明るくなってから宮に戻った。秦王を召して計を問うと、対えて言うには、「文幹は小僧に過ぎず、官司が直ちに捕らえるべきです。たとえ時間がかかったとしても、ただ一将を遣わせば事足ります。」と。帝は言うには、「事は建成に連なり、応ずる者が多いであろう。汝自ら行け。帰ったら、我は汝を太子とし、建成を蜀王とさせよう。蜀の地は狭く、変事を起こすには足りない。もし汝に仕えられなければ、取るのは容易である。」と。秦王は衆を率いて寧州へ急ぎ、文幹はその部下に殺され、その首をもって降伏し、宇文穎を捕らえて京師に送った。秦王が出発した後、元吉及び内寵の者らが更に建成のために請い、封徳彜もまた密かに帝を説いたので、ここに意が解け、再び詔して建成に居守を命じたが、ただ兄弟が相容れないことを責め、王珪・韋挺・天策兵曹参軍の杜淹を遠方に貶した。しかし怨みと猜疑は日に結ばれた。

原文華陰楊文幹素兇诐,建成昵之,使為慶州總管,遣募兵送京師,欲為變。時帝幸仁智宮,秦王、元吉從,建成謂元吉曰:「秦王且遍見諸妃,彼金寶多,有以賂遺之也。吾安得箕踞受禍?安危之計決今日。」元吉曰:「善。」乃命郎將尒硃煥、校尉橋公山賫甲遺文幹,趣興兵。煥等懼,至豳鄉白反狀,寧州人杜鳳亦上變。帝遣司農卿宇文穎驛召文幹,元吉陰結穎,使告文幹,文幹遽率兵反。帝以建成首謀,未忍治,即詔捕王珪、魏征及左衛率韋挺、舍人徐師謩、左衛車騎馮世立,欲殺之以薄太子罪。乃手詔召建成,建成懼,不敢往。師謩勸遂舉兵,詹事主簿趙弘智諫建成捐車服,輕往謝罪。乃詣行在所,未至,屏官屬,徑入謁,叩頭請死,投身於地,不能起。帝怒,夜囚幕中,使兵衛守。會文幹陷寧州,帝驚,以宮近賊,夜率衛士南趣,山行十餘里,明乃還宮。召秦王問計,對曰:「文幹豎子耳,官司當即禽之,就使假刻漏之久,正須遣一將可辦。」帝曰:「事連建成,恐應者眾。爾自行,還,吾以爾為太子,使建成王蜀,蜀地狹,不足為變,若不能事汝,取之易也。」秦王率眾趣寧州,文幹為其下所殺,以其首降,執宇文穎送京師。秦王之行,元吉及內嬖更為建成請,封德彜亦陰說帝,由是意解,復詔建成居守,但責兄弟不相容,而謫王珪、韋挺、天策兵曹參軍杜淹於遠方。然怨猜日結。

建成らは秦王を招いて夜宴を開き、毒酒を進めた。王は突然病に倒れ、数升の血を吐き、淮安王が支えて宮に戻した。帝が病を問うと、ついでに建成に命じて言うには、「秦王は酒に強くない。夜に集まるな。」と。また秦王に言うには、「我は晋陽より起ち、天下を平らげたのは、全て汝の力である。東宮を定めようとした時、汝はしきりに譲ったので、我は汝の美しい志を成就させた。また太子が立ってから多年を経ており、我は重ねてこれを奪うことを憚る。汝ら兄弟は終に相下がらず、同じく京師にいるのは、忿争が深まるばかりである。汝は洛陽の行台に戻り、陝以東を全て主とせよ。天子の旌旗を建て、梁孝王の故事の如くせよ。」と。王は泣いて言うには、「願うところではありません。膝下を遠く離れることはできません。」と。帝は言うには、「陸賈は漢の臣であるが、なお諸子を順番に訪ねて過ごした。まして我は天下の主であり、東西両宮があって、汝を思えば即ち往くことができる。何を悲しむことがあろうか。」と。王が出発しようとした時、建成らは謀って言うには、「秦王が土地と甲兵を得れば、必ず禍となろう。京師に留めておけば、ただの一匹夫に過ぎない。」と。そこで密かに人を遣わして帝を説き、言うには、「秦王の左右は皆山東の人であり、洛陽に戻ると聞いて皆喜んでいる。その意を観るに、再び戻って来ることはないであろう。」と。事は果たして中止となった。

原文建成等召秦王夜宴,毒酒而進之,王暴疾,衉血數升,淮安王扶掖還宮。帝問疾,因敕建成:「秦王不能酒,毋夜聚。」又謂秦王曰:「吾起晉陽,平天下,皆爾力,將定東宮,爾亟讓,故成而美誌。又太子立多歷年,吾重奪之。觀而兄弟終不相下,同在京師,忿鬩且深。爾還洛陽行臺,自陜以東悉主之,建天子旌旗,如梁孝王故事。」王泣曰:「非所願也,不可遠膝下。」帝曰:「陸賈,漢臣也,猶遞過諸子,況我天下主,東西兩宮,思汝即往,何所悲邪?」王將行,建成等謀曰:「秦王得土地甲兵,必為患;留之京師,一匹夫耳。」因密使人說帝,言「秦王左右皆山東人,聞還洛,皆灑然喜,觀其意,不復來矣」。事果寢。

やがて突厥が辺境を侵したので、太子は元吉を推薦して北討させ、その兵を利用して乱を起こそうとした。長孫無忌・房玄齢・杜如晦・尉遅敬徳・侯君集らは秦王に先手を打つよう勧めた。王は密かに建成らが後宮と淫乱であることを奏上し、ついで言うには、「臣は兄弟に背くことはありません。今や臣を殺そうとしているのは、王世充・竇建徳の仇を討とうとするものです。臣が死んでも、地下においても、諸賊に会うのが恥ずかしい。」と。帝は大いに驚き、答えて言うには、「明朝に厳しく取り調べるであろう。汝は必ず早朝に参内せよ。」と。張婕妤が馳せて建成に告げたので、建成は元吉を呼んで謀り、言うには、「宮中の甲兵を整え、病気と称して朝参しないように請おう。」と。建成は言うには、「善い。しかし共に入朝しなければ、事の成り行きを知る由もない。」と。夜明け前に、馬に乗って玄武門に至ると、秦王は先に到着しており、勇士九人で自衛していた。時に帝は既に裴寂・蕭瑀・陳叔達・封徳彜・宇文士及・竇誕・顔師古らを召し入れていた。建成・元吉が臨湖殿に至り、変事を察知して、急いで引き返して逃げた。秦王が声をかけて呼ぶと、元吉は弓を引いて射ようとしたが、三度も引き絞ることができなかった。秦王が建成を射ると即死し、元吉は矢に中って逃げ、敬徳が追いかけてこれを殺した。やがて東宮・斉府の兵三千が玄武門を攻めたが、閉ざされて入れなかった。戦いが長く続き、矢が殿屋に及んだ。王の左右の数百騎が到着し、合撃したので、衆は遂に潰走した。帝は裴寂らに言うには、「事は今どうすればよいか。」と。蕭瑀・陳叔達は言うには、「臣聞く、内外に限りなく、父子親しまず、過ちて断ぜざれば、反ってその乱に蒙ると。建成・元吉は草昧以来、未だ曾て謀に与からず、既に立てられて後も、また功徳なく、疑いと二心が相済って、蕭墻の憂いとなっています。秦王の功は天下を蓋い、内外帰心しています。太子に立て、軍国の大務を付せば、陛下は重荷を解かれるでしょう。」と。帝は言うには、「これ我が志である。」と。そこで秦王を召し至らせ、慰撫して言うには、「朕は幾らか投杼の惑いがあった。」と。秦王は号泣して止まなかった。

原文俄而突厥寇邊,太子薦元吉北討,欲因其兵作亂。長孫無忌、房玄齡、杜如晦、尉遲敬德、侯君集等勸秦王先圖之。王乃密奏建成等與後宮亂,因曰:「臣無負兄弟,今乃欲殺臣,是為世充、建德復仇。使臣死,雖地下,愧見諸賊。」帝大驚,報曰:「旦日當窮治,而必早參。」張婕妤馳語建成,乃召元吉謀,曰:「請勒宮甲,托疾不朝。」建成曰:「善,然不共入朝,事何繇知?」遲明,乘馬至玄武門,秦王先至,以勇士九人自衛。時帝已召裴寂、蕭瑀、陳叔達、封德彜、宇文士及、竇誕、顏師古等入。建成、元吉至臨湖殿,覺變,遽反走,秦王隨呼之,元吉引弓欲射,不能彀者三。秦王射建成即死,元吉中矢走,敬德追殺之。俄而東宮、齊府兵三千攻玄武門,閉不得入。接戰久之,矢及殿屋。王左右數百騎至,合擊之,眾遂潰。帝謂裴寂等曰:「事今奈何?」蕭瑀、陳叔達曰:「臣聞內外無限,父子不親,失而弗斷,反蒙其亂。建成、元吉自草昧以來,未始與謀,既立,又無功德,疑貳相濟,為蕭墻憂。秦王功蓋天下,內外歸心,立為太子,付軍國大務,陛下釋重負矣。」帝曰:「此吾誌也!」乃召秦王至,尉撫之曰:「朕幾有投杼之惑。」秦王號泣不能止。

建成は死ぬとき三十八歳であった。長子の承宗は太原王となったが早逝した。承道は安陸王、承徳は河東王、承訓は武安王、承明は汝南王、承義は巨鹿王で、皆連座して誅殺された。詔して建成・元吉の属籍を除いた。その党与は疑惧し、互いに告発し合ったので、廬江王の李瑗が遂に反した。そこで詔を下して建成・元吉・李瑗の支党は互いに告発し合ってはならないとし、これによって遂に安んじた。太宗が立つと、建成を追封して息王とし、諡して隠とし、礼を以て改葬し、詔して東宮の旧臣を皆会わせ、帝は宜秋門においてこれを哭し、子の李福を後嗣とした。十六年、今の贈位を追った。

原文建成死年三十八。長子承宗為太原王,早卒;承道安陸王,承德河東王,承訓武安王,承明汝南王,承義巨鹿王,皆坐誅。詔除建成、元吉屬籍。其黨疑懼,更相告,廬江王瑗遂反。乃下詔建成、元吉、瑗支黨不得相告訐,由是遂安。太宗立,追封建成為息王,謚曰隱,以禮改葬,詔東宮舊臣皆會,帝於宜秋門哭之,以子福為後。十六年,追今贈。

宇文穎は代の人である。李密の下から来降し、農圃監となり、化政郡公に封ぜられた。性貪婪で愚昧であり、元吉と親しくしたので、文幹の謀に与った。事が敗れると、帝は責めて言うには、「朕は文幹が叛いたので、卿を遣わしたのに、どうして同逆したのか。」と。穎は答える言葉がなく、斬られた。

原文宇文穎者,代人。自李密所來降,為農圃監,封化政郡公。性貪昏,與元吉厚善,故豫文幹謀。事敗,帝責曰:「朕以文幹叛,故遣卿,乃同逆邪?」穎無以對,斬之。

衛懐王

原文衛懷王

衛懐王の玄霸は字を大徳という。幼少より弁慧であった。隋の大業十年に薨じ、十六歳、子がなかった。武徳元年、王位と諡を追贈し、また秦州総管・司空を贈られた。太宗の子の李泰を宜都王としてその祭祀を奉らせ、芷陽に葬った。李泰が越に転封されると、更に宗室の西平王李瓊の子の保定を後嗣とした。薨じ、子がなく、国は除かれた。

原文衛懷王玄霸字大德。幼辯惠。隋大業十年薨,年十六,無子。武德元年,追王及謚,又贈秦州總管、司空。以太宗子泰為宜都王,奉其祀,葬芷陽。泰徙封越,更以宗室西平王瓊子保定嗣。薨,無子,國除。

巣刺王

原文巢刺王

巣刺王の元吉は小字を三胡という。高祖の兵が既に西進した時、太原を留守し、姑臧郡公に封ぜられ、斉国公に進み、十五郡諸軍事を総管し、鎮北将軍・太原道行軍元帥を加えられた。帝が禅を受けると、斉王に進み、并州総管となった。

原文巢刺王元吉小字三胡。高祖兵已西,留守太原,封姑臧郡公,進齊國,總十五郡諸軍事,加鎮北將軍、太原道行軍元帥。帝受禪,進王齊,為并州總管。

初め、元吉が生まれた時、太穆皇后はその容貌を嫌い、育てようとしなかったが、侍女の陳善意が密かに乳を与えた。成長すると、猜疑心が強く残忍で兵事を好み、辺境に長く居たので、ますます驕慢奢侈となった。常に奴僕・客・諸妾数百人に甲冑を着せて戦いを習わせ、互いに撃ち刺し合わせ、死傷者が甚だ多かった。後に元吉が傷を負うと、善意が止めたので、元吉は怒り、壮士に命じて撲殺させ、私諡して慈訓夫人とした。

原文初,元吉生,太穆皇后惡其貌,不舉,侍媼陳善意私乳之。及長,猜鷙好兵,居邊久,益驕侈。常令奴客、諸妾數百人被甲習戰,相擊刺,死傷甚眾。後元吉中創,善意止之,元吉恚,命壯士拉死,私謚慈訓夫人。

劉武周が汾・晉を攻略すると、詔を下して右衛将軍宇文歆を派遣し守備を助けさせた。元吉は鷹や狗を好み、外出するときは常に三十車の網罟を載せて、「私は三日食べなくともよいが、一日狩りをしないわけにはいかぬ」と言った。夜ひそかに出て民家で淫行し、府門を閉ざさなかった。歆がしばしば諫めたが、聞き入れられず、そこで帝に顕わに上表して言うには、「王はたびたび出て竇誕と狩猟にふけり、民の田を踏み荒らし、左右の者に略奪を許して、家畜や産物をことごとく尽くさせた。しばしば道で射て、人が矢を避けるのを見て楽しみとする。百姓は怨み憎む。ともに守ることはできぬ」と。詔があって召還された。元吉はひそかに民に唆して闕に赴き請願させ、ようやく帰ることができた。武周が五千騎を率いて黄蛇嶺に駐屯すると、元吉は将軍張達に歩卒百人で賊を試させた。達は兵が少ないと辞したが、強いて行かせたところ、到着すると全滅した。達は怒り、武周を導いて榆次を陥落させた。元吉は祁を守ったが、賊が急攻したので、逃げ帰って并州に至り、賊の勢いは甚だ盛んとなった。元吉は司馬劉德威に欺いて言うには、「公は老弱を率いて守り、私は精鋭の兵士を率いて賊を防ごう」と。そこで宝物を携え、妻妾を連れて夜に出て、軍を捨てて京師に奔り、并州は陥落した。帝は怒り、これより常に秦王に従って征討させ、もはや軍を専らにすることはなかった。

原文劉武周略汾、晉,詔遣右衛將軍宇文歆助守。元吉喜鷹狗,出常載罝罔三十車,曰:「我寧三日不食,不可一日不獵。」夜潛出淫民家,府門不閉。歆驟諫,不納,乃顯表於帝曰:「王數出與竇誕縱獵,蹂民田,縱左右攘奪,畜產為盡。每射於道,觀人避矢以為樂。百姓怨毒。不可與共守。」有詔召還。元吉密諷民詣闕請,乃得歸。武周以五千騎屯黃蛇嶺,元吉使將軍張達以步卒百人嘗寇,達辭兵少,強之,至則盡沒。達怒,導武周陷榆次。元吉保祁,賊急攻之,遁還并州,賊張甚。元吉紿司馬劉德威曰:「公以老弱守,吾率銳士拒賊。」因賫寶物、攜妻妾夜出,委軍奔京師,并州陷。帝怒,自是嘗令從秦王征討,不復顓軍矣。

まもなく侍中・襄州道行臺尚書令・稷州刺史を授けられた。秦王が東都を包囲すると、竇建德が救援に来た。王は精騎を率いて迎え撃ち、元吉と屈突通を留めて守らせた。世充がこれを侮り、たびたび出兵したので、元吉は伏兵を設けてこれを襲い、八百級を斬首し、その将を捕らえた。東都が平定されると、司空に任じられ、袞冕の服・鼓吹二部・班剣二十人・黄金二千斤を賜り、太子・秦王とともに三炉で銭を鋳造することを許された。累進して司徒となり、侍中・并州大都督を兼ねた。

原文尋授侍中、襄州道行臺尚書令、稷州刺史。秦王圍東都,竇建德來援,王以精騎逆戰,留元吉、屈突通守,而世充易之,輒出兵,元吉設伏劫之,斬首八百級,禽其將。東都平,拜司空,賜袞冕服、鼓吹二部、班劍二十人、黃金二千斤,與太子、秦王得三爐鑄錢。累進司徒,兼侍中、并州大都督。

時に秦王は功績があり、太子は中外の属望を得ていなかった。元吉は乱を喜び、ともにこれを図ろうとした。そこで太子に構えて言うには、「秦王の功業は日に日に盛んとなり、上に愛されています。殿下は太子であっても、位は安泰ではありません。早く計らわねば、やがて禍いを受けるでしょう。殿下のために彼を殺すことを請います」と。太子は忍びなかったが、元吉がたびたび唆してもやまないので、許した。ここにおいて宮掖に結びつき、中書令封徳彜に厚く賄賂して、遊説させた。帝はついに秦王を疎んじ、太子を愛するようになった。元吉は多くの亡命の壮士を匿い、厚く賜って使役させた。元吉の記室参軍栄九思が詩を作ってこれを諷した。「丹青飾成慶、玉帛礼専諸」と。元吉はこれを見ても悟らなかった。その典籤裴宣儼が免官され、かつて秦王府に仕えた。元吉は事が漏れたと疑い、毒を飲ませて殺した。これより人は敢えて言う者なくなる。秦王がかつて帝に従って元吉の邸に幸したとき、護軍宇文宝を寝室に伏せさせ、王を刺そうとした。太子が固く止めたので、元吉は憤って言うには、「兄のためを計るのに、私に何の害があろうか」と。

原文時秦王有功,而太子不為中外所屬,元吉喜亂,欲並圖之。乃構於太子曰:「秦王功業日隆,為上所愛,殿下雖為太子,位不安,不早計,還踵受禍矣,請為殿下殺之。」太子不忍,元吉數諷不已,許之。於是邀結宮掖,厚賂中書令封德彜,使為遊說,帝遂疏秦王,愛太子。元吉乃多匿亡命壯士,厚賜之,使為用。元吉記室參軍榮九思為詩刺之曰:「丹青飾成慶,玉帛禮專諸。」元吉見之,弗悟也。其典簽裴宣儼免官,往事秦府,元吉疑事泄,鴆殺之。自是人莫敢言。秦王嘗從帝幸元吉第,伏護軍宇文寶寢內,將以刺王,太子固止之,元吉慍曰:「為兄計,於我何害?」

突厥の郁射設が入って烏城を包囲した。建成は元吉を推薦して北討させ、そこで秦王府の驍将秦叔宝・尉遅敬徳・程知節・段志玄を多く引き連れて行かせ、また秦府の精兵を籍に入れて麾下に加えた。帝はこれを知ったが、禁じることができなかった。元吉は隙を見て密かに秦王を害することを請うた。帝は言う、「彼は四海を平定する功績がある。殺すに名目がない」と。元吉は言う、「王はかつて東都を平定したとき、顧みてすぐに西に向かわず、金帛を散じて私恩を植えつけました。これこそ反逆ではありますまいか」と。帝は答えなかった。太子と元吉は謀った。「兵が行くとき、私と秦王が昆明池に至り、壮士を伏せてこれを引きずり倒し、急死と発表すれば、上は必ず信じるであろう。それから帝を説いて国を私に授けさせ、私はお前を皇太弟とし、叔宝らをことごとく撃ち殺そう」と。率更令王晊が密かにこの謀を秦王に告げた。王は僚属を召して謀ると、皆言うには、「元吉は凶暴で、志を得れば、その兄に仕えることさえできないでしょう。かつて護軍薛宝が元吉の字を合わせると、その文は『唐』となりました。元吉は喜んで言いました、『ただ秦王を除くだけで、東宮を取るのは手のひらを返すようだ』と。乱を為しても未だ成らず、すでにまた傾き奪おうとしています。大王が早くこれを正さねば、社稷はもはや唐の所有ではなくなります」と。秦王はここにおいて計を定めた。

原文突厥郁射設入圍烏城,建成薦元吉北討,乃多引秦王府驍將秦叔寶、尉遲敬德、程知節、段誌玄與行,又籍秦府精兵益麾下。帝知之,不能禁。元吉承間密請害秦王,帝曰:「是有定四海功,殺之無名。」元吉曰:「王昔平東都,顧望不即西,散金帛樹私惠,豈非反邪?」帝不應。太子與元吉謀:「兵行,吾與秦王至昆明池,伏壯士拉之,以暴卒聞,上無不信。然後說帝付吾國,吾以爾為皇太弟,而盡擊殺叔寶等。」率更令王晊密以謀告秦王,王召僚屬謀,皆曰:「元吉戾很,使得誌,且不能事其兄。往者護軍薛寶以元吉字合之,其文成『唐』,元吉喜曰:『但除秦王,取東宮如反掌耳!』為亂未克,已復傾奪,大王不蚤正之,社稷非復唐有。」秦王由是定計。

死年二十四。子の承業は梁郡王、承鸞は漁陽王、承奨は普安王、承裕は江夏王、承度は義陽王となり、ともに誅殺された。貞観初年、改葬し、海陵郡王を追爵し、諡を贈った。後に巢に改封し、曹王明を嗣がせた。

原文死年二十四。子承業為梁郡王,承鸞漁陽王,承獎普安王,承裕江夏王,承度義陽王,並伏誅。貞觀初,改葬,追爵海陵郡王及謚。後改封巢,以曹王明嗣。

楚哀王

原文楚哀王

楚哀王智雲は初め名を稚詮といった。射を善くし、書と弈に巧みであった。隋の大業末、建成に従って河東に寓居した。高祖の初め、建成が太原に逃げると、吏が智雲を捕らえて長安に送り、陰世師に害され、年十四。武徳元年、王を追封し、諡を贈った。

原文楚哀王智雲初名稚詮。善射,工書、弈。隋大業末,從建成寓河東。高祖初,建成走太原,吏捕智雲送長安,為陰世師所害,年十四。武德元年,追王及謚。

母の万貴妃は、性恭順で、帝に礼遇され、宮中の事はすべて諮問して決裁した。

原文母萬貴妃,性恭順,為帝所禮,宮中事一一咨決。

三年、太宗の子寛を嗣とし、また涼州総管・司徒を贈った。寛は早く薨じ、国は除かれた。貞観二年、また済南公世都の子霊亀を嗣とし、魏州刺史を歴任し、政は威厳があり、盗賊は起こらなかった。永済渠を開鑿し、新市に通じ、百姓はこれを利した。薨じ、子の福が嗣ぎ、公に降格した。卒し、子の承況が嗣ぎ、神龍年中に右羽林将軍となり、節湣太子とともに難に死した。

原文三年,以太宗子寬為嗣,又贈涼州總管、司徒。寬早薨,國除。貞觀二年,復以濟南公世都子靈龜嗣,歷魏州刺史,為政威嚴,盜賊不發;鑿永濟渠,通新市,百姓利之。薨,子福嗣,降為公。卒,子承況嗣,神龍中為右羽林將軍,同節湣太子死於難。

荊王

原文荊王

荊王元景は、武徳三年に初めて趙王に封ぜられ、魯・酆の二王とともに封ぜられた。貞観初年、累遷して雍州牧となった。十年、転封して荊王となった。

原文荊王元景,武德三年始王趙,與魯、酆二王同封。貞觀初,累遷雍州牧。十年,徙封荊。

明年、詔して荊州都督荊王元景・梁州都督漢王元昌・徐州都督徐王元礼・潞州都督韓王元嘉・遂州都督彭王元則・鄭州刺史鄭王元懿・絳州刺史霍王元軌・虢州刺史虢王鳳・豫州刺史道王元慶・鄧州刺史鄧王元裕・寿州刺史舒王元名・幽州都督燕王霊夔・蘇州刺史許王元祥・安州都督呉王恪・相州都督魏王泰・齊州都督齊王祐・益州都督蜀王愔・襄州刺史蔣王惲・揚州都督越王貞・并州都督晉王治・秦州都督紀王慎の任ずる刺史はすべて功臣とともに世々襲封せしめるとした。長孫無忌らが固く辞したので、ついに廃止して行われなかった。鄠州に転じた。永徽初年、位を進めて司徒とし、実封千五百戸を賜った。

原文明年,詔荊州都督荊王元景、梁州都督漢王元昌、徐州都督徐王元禮、潞州都督韓王元嘉、遂州都督彭王元則、鄭州刺史鄭王元懿、絳州刺史霍王元軌、虢州刺史虢王鳳、豫州刺史道王元慶、鄧州刺史鄧王元裕、壽州刺史舒王元名、幽州都督燕王靈夔、蘇州刺史許王元祥、安州都督吳王恪、相州都督魏王泰、齊州都督齊王祐、益州都督蜀王愔、襄州刺史蔣王惲、揚州都督越王貞、并州都督晉王治、秦州都督紀王慎所任刺史並功臣令世世襲。會長孫無忌等固讓,遂廢不行。徙鄠州。永徽初,進位司徒,賜實封至千五百戶。

房遺愛が謀反し、子の則がこれと往来したことで連座して獄に繋がれた。時に呉王もまた罪に当たった。高宗は大臣に言う、「朕は公に従って叔父と兄の死を請いたい」と。兵部侍郎崔敦礼が言う、「陛下は恩を伸べられても、天下の法を曲げることはできません」と。ついに死を賜った。久しくして、沈黎王を追封し、渤海王奉慈の子長沙を嗣がせ、侯に降格した。神龍初年、王爵を回復し、孫の逖を嗣がせた。薨じ、子がなく、国は除かれた。

原文房遺愛謀反,坐子則與往還繫獄。時吳王亦抵罪,高宗謂大臣曰:「朕欲從公丐叔及兄死。」兵部侍郎崔敦禮曰:「陛下雖申恩,不可詘天下法。」遂賜死。久之,追封沈黎王,以渤海王奉慈子長沙嗣,降為侯。神龍初,復王爵,以孫逖嗣。薨,無子,國除。

漢王

原文漢王

漢王元昌は、初め魯王に封ぜられ、累遷して梁州都督となり、後に転封して漢王となった。勇力があり、騎射に巧みであった。たびたび法規に触れ、太宗は手詔で教え戒めたが、かえって怨望を抱き、太子承乾に附き、贈り物をやり取りした。来朝して京師に至り、東宮に宿泊し、かつて醜い言葉があった。また帝の側に琵琶の巧みな宮人がいるのを見て、言うには、「事が成ったら幸いにこれを私に賜りたい」と。承乾はこれを許し、臂の血を割いて盟った。事が敗れると、帝は誅するに忍びず、死を免じようとしたが、高士廉・李勣らが固く争って詔に奉じず、ついに死を賜い、国は除かれた。

原文漢王元昌,初王魯,累遷梁州都督,後徙封漢。有勇力,善騎射。數觸軌憲,太宗手詔誨督,乃怨望,附太子承乾,通饋謝。來朝京師,宿東宮,嘗有醜語;又見帝側有宮人善琵琶,乃曰:「事成幸賜我。」承乾許之,割臂血盟。事敗,帝弗忍誅,欲免死,高士廉、李勣等固爭不奉詔,乃賜死,國除。

酆悼王

原文酆悼王

酆悼王李元亨は、貞観二年に金州刺史を授かり、封国に赴いた。太宗はその幼さを憐れみ、思いを寄せて、しばしば使者を遣わして労を問い、金盞を賜って楽しませた。六年に薨じ、子がなく、封国は除かれた。

原文酆悼王元亨,貞觀二年,授金州刺史,之籓,太宗憐其幼,思之,數遣使為勞問,賜金盞以娛樂之。六年薨,無子,國除。

周王

原文周王

周王李元方は、武徳四年に初めて王に封ぜられ、鄭・宋・荊・滕の四王と同時に封ぜられた。貞観三年に薨じ、子がなく、封国は除かれた。

原文周王元方,武德四年始王,與鄭、宋、荊、滕四王同封。貞觀三年薨,無子,國除。

徐康王

原文徐康王

徐康王李元礼は性質恭順で慎み深く、騎射に巧みであった。初め鄭王に封ぜられ、直ちに鄭州刺史を授かった。後に徐王に転じ、徐州都督に遷った。絳州刺史として、治績の名声があり、璽書を賜って労い奨励され、実封は千戸に至った。永徽年中、司徒を加えられ、潞州刺史を兼ねた。薨じ、太尉・冀州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

原文徐康王元禮性恭畏,善騎射。始王鄭,即授鄭州刺史。後徙王徐,遷徐州都督。為絳州刺史,有治名,璽書勞勉,實封至千戶。永徽中,加司徒,兼潞州刺史。薨,贈太尉、冀州大都督,陪葬獻陵。

三人の子があり、李茂は淮南王、その他は公の爵位であった。

原文三子,茂為淮南王,餘爵公。

李茂は陰険で薄情、品行がなかった。初め、元礼が病んだ時、側室の趙氏が美しい容色であったので、茂は強いてこれと淫通し、元礼が厳しく責めたところ、茂は恨み、侍衛や薬膳を退けて言うには、「王として五十年は十分である、どうして薬を服する必要があろうか」と。食を絶って薨じた。茂が嗣いだ。上元年中、事が露顕し、振州に流されて死んだ。

原文茂險薄無行。初,元禮疾,姬趙有美色,茂逼蒸之,元禮切責,茂恚,屏侍衛藥膳,曰:「為王五十年足矣,何服藥為?」以不食薨。茂嗣。上元中,事泄,流死振州。

神龍初年、茂の子李璀を嗣がせた。開元年中、宗正員外卿となった。薨じ、子の李延年が嗣いだ。抜汗那王が入朝した時、延年は娘をこれに嫁がせようとしたが、右相李林甫に弾劾上奏され、文安郡別駕に貶ぜられ、ついに餘杭司馬となり、封国は除かれた。永泰初年、延年の婿である黔中観察使趙国珍が朝廷に奏上し、詔してその子李諷に王を嗣がせた。

原文神龍初,以茂子璀嗣,開元中,為宗正員外卿。薨,子延年嗣。拔汗那王入朝,延年將以女嫁之,為右相李林甫劾奏,貶文安郡別駕,終餘杭司馬,國除。永泰初,延年婿黔中觀察使趙國珍言諸朝,詔以其子諷嗣王。

韓王

原文韓王

韓王李元嘉は字を元嘉という。初め宋王に封ぜられ、後に徐王に改め、潞州刺史となった。母の昭儀は宇文述の娘で、高祖に寵愛され、即位後、皇后に立てようとしたが、固く辞した。元嘉は母の寵愛の故に、特に帝に愛され、後には諸子の中で及ぶ者はいなかった。潞州にいた時、十五歳で、太妃の病を聞き、涕泣して食を絶った。喪に服しては甚だ憔悴し、太宗はしばしば慰め励ました。若くして学問を好み、蔵書は万巻に至り、皆古文字を用いて異同を参酌校定した。弟の霊夔と友愛し、私的な面会では終日布衣の礼の如く、閨門は整斉として、当世に称された。

原文韓王元嘉字元嘉。始王宋,後改王徐,為潞州刺史。母昭儀,宇文述女也,寵於高祖,既即位,欲立為後,固辭。元嘉以母寵故,特為帝愛,後出諸子無及者。在潞時,年十五,聞太妃病,涕泣不食。居喪毀甚,太宗數尉勉。少好學,藏書至萬卷,皆以古文字參定同異。與弟靈夔友愛,燕見終日如布衣禮,閨門修整,當世稱之。

貞観九年、韓王に改封され、滑州都督に遷った。高宗の末、沢州刺史となった。武后が政権を得ると、太尉に進授され、定州刺史に転じ、霍王元軌を司徒に、舒王元名を司空に、滕王元嬰を開府儀同三司に、魯王霊夔を太子太師に、越王貞を太子太傅に、紀王慎を太子太保とし、外には尊寵を示しながら、内にはこれを除こうと図った。

原文貞觀九年,更封韓,遷滑州都督。高宗末,為澤州刺史。武後得政,進授太尉,徙定州刺史,以霍王元軌為司徒,舒王元名為司空,滕王元嬰開府儀同三司,魯王靈夔太子太師,越王貞太子太傅,紀王慎太子太保,外示尊寵,而內將圖之。

垂拱年中、元嘉は絳州刺史に転じ、子の李譔および越王の子李沖と共に宗室を糾合して挙兵しようとしたが、未だ発しなかった。時に武后が詔して宗室に明堂に朝参させたので、元嘉は使者を遣わして諸王に告げて言うには、「大享の後、太后は必ず諸王を尽く誅殺するであろう、事前に挙兵するに如くはない。そうでなければ、李氏は種を絶つであろう」と。そこで中宗の詔と偽り、諸王に督して兵を起こさせた。沖は直ちに兵五千で済州を攻めたが、諸王の兵は倉卒に至らず、遂に敗れた。元嘉は京師に至り、謀が漏れ、后は逼って自殺を命じ、年七十。詔して元嘉・魯王・越王の氏を「虺」と改めさせた。

原文垂拱中,元嘉徙絳州刺史,與子譔及越王子沖糾合宗室同舉兵,未發。會武後詔宗室朝明堂,元嘉遣使告諸王曰:「大享後,太后必盡誅諸王,不如先事起。不然,李氏無種矣。」乃為中宗詔,督諸王發兵。沖即以兵五千攻濟州,而諸王倉卒兵不至,遂敗。元嘉至京師,謀泄,後逼令自殺,年七十。詔改氏元嘉、魯王、越王為「虺」。

元嘉に六子あり。李訓は潁川王、早卒。李誼は武陵王。李諶は上党公。李譔は黄公、文章を作ることに巧みで、孟利貞はかつてその文を称して言うには、「劉鄰之・周思茂も及ばない」と。通州刺史として出され、病を理由に辞して帰り、かつ越王と謀を図った。李諶は音律に通じ、杭州別駕を歴任し、譔と共に死んだ。当時籍没された者は多かったが、ただ沖・譔の家の書物が最も多く、皆文句が詳しく正確で、秘府の及ぶところではなかった。神龍初年、元嘉の爵位封土を追復し、第五子の李訥を嗣がせた。薨じ、子の李叔璩が嗣ぎ、国子司業を歴任した。薨じ、子の李煒が嗣いだ。建中年中、鄆王に改封された。後に懿宗が鄆王として即位したので、再び嗣ぎを韓王に改めたという。

原文元嘉六子。訓,潁川王,蚤卒。誼,武陵王。諶,上黨公。譔,黃公,工為辭章,孟利貞嘗稱其文曰:「劉鄰之、周思茂不過也。」出為通州刺史,辭疾歸,且謀慮越王也。諶通音律,歷杭州別駕,與譔俱死。時籍沒者眾,惟沖、譔家書為多,皆文句詳正,秘府所不及。神龍初,追復元嘉爵士,以第五子訥嗣。薨,子叔璩嗣,歷國子司業。薨,子煒嗣。建中中,改王鄆。後懿宗以鄆王即位,復改嗣韓王雲。

彭思王

原文彭思王

彭思王元則、字は彜。初め荊王に封ぜられ、出て婺州刺史となる。貞観十年に王を改封され、遂州都督となり、冠服の奢侈・僭越により免官せらる。久しくして、澧州刺史となり、節を折り行いを厲ます。薨じ、司徒・荊州大都督を贈られ、献陵に陪葬せらる。高宗、望春宮に登り、その喪に過ぎ、慟哭せり。

原文彭思王元則字彜。初王荊,出為婺州刺史。貞觀十年徙王,為遂州都督,以冠服奢僭免。久之,為澧州刺史,更折節厲行。薨,贈司徒、荊州大都督,陪葬獻陵。高宗登望春宮,過其喪,哭之慟。

子なく、霍王の子絢を嗣がしめ、龍朔年中、南昌王に封ぜらる。薨じ、子の誌暕が嗣ぎ、開元年中、宗正卿となる。

原文無子,以霍王子絢嗣,龍朔中,封南昌王。薨,子誌暕嗣,開元中,為宗正卿。

鄭惠王

原文鄭惠王

鄭惠王元懿、初め滕王に封ぜられ、貞観年中、出て兗州刺史となり、王を改封され、鄭・潞・絳の三州刺史を歴任し、実封千戸。経術を喜び、数たび大獄を断じ、寛平を務む。高宗これを嘉し、璽書を以て褒賞を賜う。薨じ、司徒・荊州大都督を贈られ、献陵に陪葬せらる。

原文鄭惠王元懿,始王滕,貞觀中,出為兗州刺史,徙王,厲鄭、潞、絳三州刺史,實封千戶。喜經術,數斷大獄,務寬平,高宗嘉之,璽詔褒錫。薨,贈司徒、荊州大都督,陪葬獻陵。

十子あり、長子の璥が王を嗣ぎ、鄂州刺史となる。薨じ、子の希言が嗣ぎ、開元年中、右金吾大將軍となり、再び太子詹事となる。弟の察言、二子を生む、曰く自仙・䎖。自仙は楚州別駕となり、夷簡を生む。䎖は陳留公となり、宗閔を生む。璥の弟の琳は安德郡公となり、擇言を生み、擇言は勉を生む。勉・宗閔・夷簡は皆宰相の位に至り、別に傳あり。時に小鄭王の後と稱し、亦た惠鄭王の後と曰い、鄭王亮と區別す。

原文十子,長子璥嗣王,為鄂州刺史。薨,子希言嗣,開元中,為右金吾大將軍,再為太子詹事。弟察言,生二子,曰自仙、䎖。自仙為楚州別駕,生夷簡。䎖為陳留公,生宗閔。璥弟琳,安德郡公,生擇言,擇言生勉。勉、宗閔、夷簡皆位宰相,別有傳,時稱小鄭王後,亦曰惠鄭王後,以別鄭王亮雲。

霍王

原文霍王

霍王元軌、武德六年に初めて蜀王に封ぜられ、豳王・漢王と同封され、後に吳王に改封せらる。材藝多く、高祖これを愛す。

原文霍王元軌,武德六年始王蜀,與豳、漢二王同封,後徙吳。多材藝,高祖愛之。

太宗嘗て群臣に問いて曰く、「朕が子弟、孰れか賢なる。」魏征曰く、「臣愚にして其の能を盡く知らず、唯だ吳王數たび臣と言うに、未だ嘗て自ら失せず。」帝曰く、「朕も亦た之を器とす、然れども卿以爲らくは前代孰れか比すべき。」對へて曰く、「經學文雅は、漢の河間・東平なり。至孝の行に至りては、曾・閔も過ぐること能はず。」帝是よりして遇すること益厚し。詔して魏征の女を納れて妃とす。嘗て獵に從い、群豕に遇う。帝射しむるに、筈虚しく彀せず、豕盡く爲る。帝其の背を撫でて曰く、「爾が藝人に過ぐ、顧みるに今施す所無し。方に天下未だ定まらず、若しを得ば豈に用いざらんや。」

原文太宗嘗問群臣曰:「朕子弟孰賢?」魏征曰:「臣愚不盡知其能,唯吳王數與臣言,未嘗不自失。」帝曰:「朕亦器之,然卿以為前代孰比?」對曰:「經學文雅,漢河間、東平也。至孝行,曾、閔不能過。」帝由是遇益厚。詔納征女為妃。嘗從獵,遇群豕,帝使射之,筈不虛彀,豕為盡。帝撫其背曰:「爾藝過人,顧今無所施。方天下未定,得若豈不用乎?」

貞観七年、壽州刺史となる。高祖崩じ、官を去り、毀瘠甚だしく、服除くに及び、遂に菜食布衣終身と爲り、忌日に至れば、輒ち累晝食せず。十年、王を改封され、絳・徐・定の三州刺史を歴任し、実封千戸に至る。至る所にて閣を閉ざし讀書し、吏事を長史・司馬に委ぬ。謙慎にして未だ嘗て物と忤わず。數たび處士劉玄平を引見し、布衣の交わりを爲す。或る人王の長ずる所を玄平に問う。答えて曰く、「長ずる所無し。」問う者解せず。玄平曰く、「人に短あり、以て長を見る所以なり。若し王に備はらざる所無くば、吾何を以て之を稱せん。」

原文貞觀七年,為壽州刺史。高祖崩,去官,毀瘠甚,服除,遂菜食布衣終身,至忌日,輒累晝不食。十年,徙王,歷絳、徐、定三州刺史,實封至千戶。所至閉閣讀書,以吏事委長史、司馬。謙慎未嘗與物忤。數引見處士劉玄平,為布衣交。或問王所長於玄平,答曰:「無長。」問者不解,玄平曰:「人有短,所以見長。若王無所不備,吾何以稱之。」

突厥定州を寇す。元軌城門を開き、旗幟を偃すことを令す。虜疑い、敢えて入らず、夜遁ぐ。州人李嘉運潜かに賊と結ぶ。詔して支黨を窮めて誅せんとす。元軌、寇近く且つ強く、人心危うきを以て、但だ嘉運を殺し、餘は詰むる所無く、因りて自ら劾す。帝喜びて曰く、「朕固より之を悔ゆ。王の明無くば、幾くにか定州を失わんとす。」

原文突厥寇定州,元軌令開城門,偃旗幟,虜疑,不敢入,夜遁。州人李嘉運潛結賊,詔窮誅支黨,元軌以寇近且強,人心危,但殺嘉運,餘無所詰,因自劾。帝喜曰:「朕固悔之。非王之明,幾失定州矣。」

王文操なる者、賊と戰い敗る。二子の鳳・賢更に身を以て父を蔽い、全きを得、二子死す。縣抑えて言わず。元軌廉みて之を知り、使いを遣わして弔祭し、其の事を上る。詔して鳳・賢に朝散大夫を贈り、其の閭を旌禮す。

原文王文操者,與賊戰,敗,二子鳳、賢更以身蔽父,得全,二子死。縣抑不為言,元軌廉知之,遣使員祭,上其事。詔贈鳳、賢朝散大夫,旌禮其閭。

元軌每たび朝すに、數たび上疏して得失を陳べ、裨益正す所多し。帝尊重し、大事有れば、常に密驛を以て咨逮す。帝崩じ、侍中劉齊賢と同知して山陵の事を掌る。元軌故事に淹練なり。齊賢嘆じて曰く、「是れ吾等の及ぶ所に非ず。」嘗て國令を遣わして封租を督めしむ。令貿易して贏を取らんことを請う。答えて曰く、「汝當に吾を正すべきなり、反って利を以て吾を訹えんとするか。」納れず。司徒に進み、出でて襄・青二州刺史となる。越王敗るるに及び、嘗て謀に通ぜしに坐し、黔州に徙せらる。檻車に載せられて陳倉に至り、薨ず。

原文元軌每朝,數上疏陳得失,多所裨正,帝尊重之,有大事,常密驛咨逮。帝崩,與侍中劉齊賢同知山陵事。元軌淹練故事,齊賢嘆曰:「是非吾等及已!」嘗遣國令督封租,令請貿易取贏,答曰:「汝當正吾矣,反訹吾以利邪?」不納。進司徒,出為襄、青二州刺史。越王敗,坐嘗通謀,徙黔州,檻車載至陳倉,薨。

六子あり、緒は江都王、純は安定王、餘は皆公に爵せらる。緒は名譽有り、金州刺史となり、誅せらる。神龍初、並びに官爵を復し、緒の孫の暉を以て王を嗣がしむ。開元年中、左千牛員外將軍となる。

原文六子,緒為江都王,純安定王,餘皆爵為公。緒有名譽,為金州刺史,誅。神龍初,並復官爵,以緒孫暉嗣王,開元中,為左千牛員外將軍。

虢莊王

原文虢莊王

虢莊王鳳、字は季成。初め豳王に封ぜられ、鄧州刺史となる。俄かに王を改封され、虢・豫・青の三州刺史を歴任し、実封千戸。畋遊を喜び、官屬に遇うこと尤も嫚なり。奴に虎皮を蒙らせ、其の參軍陸英俊を怖しめて幾くにか死せしめ、因りて大笑して樂しみと爲す。薨じ、司徒・揚州大都督を贈られ、献陵に陪葬せらる。

原文虢莊王鳳字季成。始王豳,為鄧州刺史。俄徙王,歷虢、豫、青三州刺史,實封千戶。喜畋遊,遇官屬尤嫚。使奴蒙虎皮,怖其參軍陸英俊幾死,因大笑為樂。薨,贈司徒、揚州大都督,陪葬獻陵。

七人の子あり、長子の翼が嗣ぎ、平陽王となる。薨じ、子の寓が嗣ぐ。寓に子なく、爵は伝わらず。次子の茂融は勇をもって聞こえ、垂拱年中に申州刺史となる。黄公譔が越王と謀り兵を挙げんとし、これに倚りて助けとす。時に詔して諸王公を東都に赴かしむ。茂融は密かに親しい高子貢に問う。子貢報いて曰く、「来れば必ず死す」と。乃ち疾ありと称して朝せず、以て兵期を俟つ。越王の書を得るに及び、倉卒にして応ずる能わず。僚属、その書を白くするを勧む。太子右賛善大夫に擢げられ、俄にして党属に引かれて誅さる。

原文七子,長子翼嗣,為平陽王。薨,子寓嗣。寓無子,爵不傳。次子茂融,以勇聞,垂拱中為申州刺史。黃公譔與越王謀舉兵,倚以為助。時詔諸王公赴東都,茂融私問所親高子貢,子貢報曰:「來必死。」乃稱疾不朝,以俟兵期。及得越王書,倉卒不能應,僚屬勸白其書,擢太子右贊善大夫,俄為黨屬所引,誅。

中宗は更に鳳の孫の邕を以て王に嗣がしめ、韋后の妹を娶る。累遷して秘書監となり、隴右三使仗内諸廄を知る。汴に王徙す。未だ幾ばくもせず、韋氏敗る。邕、その妻を殺し、首を朝に送る。議者これを鄙む。爵を削り、沁州刺史に貶せられ、事に就かず。後に爵を復し、戸二百を還し、累遷して衛尉卿となる。薨じ、子の巨が嗣ぐ。

原文中宗更以鳳孫邕嗣王,娶韋後妹,累遷秘書監,知隴右三使仗內諸廄。徙王汴。未幾,韋氏敗,邕殺其妻,送首於朝,議者鄙之。削爵,貶沁州刺史,不事。後復爵,還戶二百,累還衛尉卿。薨,子巨嗣。

巨は剛鋭果決にして、書史を略通し、属辞を好む。天宝五載、出でて西河太守となる。柳勣の支党に資給したるに坐し、義陽司馬に貶せらる。明年、御史中丞楊慎矜が罪を得、その附離の史敬忠は巨と善し、また坐して官を免ぜられ、南賓郡に錮置せらる。召されて夷陵太守に拝す。

原文巨剛銳果決,略通書史,好屬辭。天寶五載,出為西河太守。坐資給柳勣支黨,貶義陽司馬。明年,御史中丞楊慎矜得罪,其附離史敬忠與巨善,又坐免官,錮置南賓郡。召拜夷陵太守。

安禄山東京を陥す。玄宗方に将帥を択ばんとす。張垍、巨に謀あり、大事を属すべしと言う。召して京師に至らしむ。楊国忠これを忌み、人に謂いて曰く、「小児豈に天子に対せしむべけんや」と。一月を踰えても見ゆること得ず。帝これを知り、召して禁中に入れ、合旨に対す。帝大いに悦び、勅して宰相と語らしむ。久しく罷むるを得ず。国忠怠り、巨に謂いて曰く、「比来人多く口に賊を打つと云う、君は爾らざるか」と。巨曰く、「誰か相公の手に賊を打つ者あらんや」と。乃ち陳留・譙郡太守を授け、御史大夫・河南節度使せつどしを摂せしむ。明日謝す。帝驚きて曰く、「何ぞ摂を為さん」と。即ち詔して御史大夫を兼ぬ。巨奏す、「方に艱難の時、賊多く詐りあり。もし陛下臣を召さば、何を以て信を取らん」と。乃ち契を析ちてこれを授く。

原文安祿山陷東京,玄宗方擇將帥,張垍言巨有謀,可屬大事。召至京師,楊國忠忌之,謂人曰:「小兒詎可使對天子?」逾月不得見。帝知之,召入禁中,對合旨,帝大悅,敕宰相與語,久不得罷,國忠怠,謂巨曰:「比來人多口打賊,君不爾乎?」巨曰:「誰為相公手打賊者乎?」乃授陳留、譙郡太守,攝御史大夫、河南節度使。明日謝,帝驚曰:「何攝為?」即詔兼御史大夫。巨奏:「方艱難時,賊多詐,有如陛下召臣,何以取信?」乃析契授之。

俄にして嶺南の何履光・黔中の趙国珍・南陽の魯炅の三節度使事を兼ねて統ぶ。時に炅戦いて数屈す。詔して果毅に貶し、来瑱を以てこれに代う。巨奏す、「炅もし能く孤城を存すれば、功過を補うに足らん。則ち何を以てこれを処せん」と。帝曰く、「卿の随う所に処置せよ」と。巨内郷に至る。賊将畢思琛囲みを解きて走る。遂に南陽に趣く。炅を白衣従軍に貶す。その暮、詔を称して職を復す。

原文俄兼統嶺南何履光、黔中趙國珍、南陽魯炅三節度使事。時炅戰數屈,詔貶為果毅,以來瑱代之。巨奏:「炅若能存孤城,功足補過,則何以處之?」帝曰:「卿隨所處置。」巨至內鄉,賊將畢思琛解圍走,遂趣南陽,貶炅白衣從軍,其暮,稱詔復職。

京師平らぐ。留守に拝し、御史大夫を兼ぬ。明年、太子少師に拝し、河南尹・東畿採訪使を兼ぬ。牛に乗りて市に出入する者を徴し、得る所を斥けて用度を佐く。然れども稍々自ら盗みて没す。その妃は即ち張皇后の従女弟なり。内睦まず。巨は府県の官を選び使令に備う。妃も亦蒲博の少年を引き、党を分ち貨賄を招き、政事を橈ます。宗正卿李遵、素より張に私し、巨の贓事を発す。遂州刺史に貶せらる。会に段子璋反す。道すがら遂州。巨倉卒として出ずる所を知らず。即ち迎え謁す。子璋のために殺さる。

原文京師平,拜留守,兼御史大夫。明年,拜太子少師,兼河南尹、東畿采訪使。征乘牛之出入市者,斥所得佐用度,然稍自盜沒。其妃即張皇后從女弟,內不睦。巨選府縣官備使令,妃亦引蒲博少年分黨招貨賄,橈政事。宗正卿李遵素私張,發巨贓事,貶遂州刺史。會段子璋反,道遂州,巨倉卒不知所出,即迎謁,為子璋所殺。

子の則之、学を嗜む。年五十餘にして、尚お経を太学に執り、嗣曹王臯これを薦む。貞元二年、睦王府長史より繇りて左金吾衛大将軍に遷る。従甥の竇申と善きに坐し、昭州司馬に貶せらる。

原文子則之,嗜學,年五十餘,尚執經太學,嗣曹王臯薦之。貞元二年,繇睦王府長史遷左金吾衛大將軍。坐與從甥竇申善,貶昭州司馬。

道孝王

原文道孝王

道孝王元慶、初め漢に王たり。後に陳に徙り、出でて趙州刺史となる。貞観十年、王に徙り、豫州刺史を授かり、累ねて実封千戸。時に諸王の奉給は帝子に薄く、数寠乏に至る。大臣敢えて言う者なし。十八年、黄門侍郎褚遂良、太宗の為に従容としてこれを言うも、行う能わず。高宗の時、歴て滑州刺史となり、治績を以て聞こえ、数たび褒賜を蒙る。徐・沁・衛の三州刺史に遷る。母に事うること謹み、喪に及び、躬ら墳墓を修めんことを請う。詔して聴かず。薨じ、司徒・益州都督を贈られ、献陵に陪葬す。

原文道孝王元慶,始王漢,後徙陳,出為趙州刺史。貞觀十年,徙王,授豫州刺史,累實封千戶。時諸王奉給薄於帝子,至數寠乏,大臣莫敢言。十八年,黃門侍郎褚遂良為太宗從容言之,不能行。高宗時,歷滑州刺史,以治績聞,數蒙褒賜。遷徐、沁、衛三州刺史。事母謹,及喪,請躬修墳墓,詔不聽。薨,贈司徒、益州都督,陪葬獻陵。

九子あり、誘が嗣ぎ、臨淮に王たり、澧州刺史となり、贓に坐して爵を削らる。更に次子の詢の子の微を以て嗣がしむ。終に宗正卿。子の煉が嗣ぐ。広徳中、亦た宗正卿に至る。

原文九子,誘為嗣,王臨淮,為澧州刺史,坐贓削爵。更以次子詢之子微嗣,終宗正卿。子煉嗣,廣德中,亦至宗正卿。

鄧康王

原文鄧康王

鄧康王元裕、貞観五年初め鄶に王たり、十一年王に徙る。初め王たる及び徙る、皆譙・魏・許・密の四王と同封。累ねて実封千二百戸に至る。

原文鄧康王元裕,貞觀五年始王鄶,十一年徙王。始王及徙,皆與譙、魏、許、密四王同封。累實封至千二百戶。

学を好み、名理を談ずるに善く、典籤の盧照鄰と布衣の交わりを為す。五たび州刺史となり、兗州都督に遷る。薨じ、司徒・益州大都督を贈られ、献陵に陪葬す。子なく、江王の子の広平公炅を以て嗣がしむ。薨じ、子の孝先が嗣ぐ。開元中、冠軍大将軍となる。

原文好學,善談名理,與典簽盧照鄰為布衣交。五為州刺史,遷兗州都督。薨,贈司徒、益州大都督,陪葬獻陵。無子,以江王子廣平公炅嗣。薨,子孝先嗣,開元中,為冠軍大將軍。

舒王

原文舒王

舒王元名、初め譙に王たり、後に王に徙る。高祖の大安宮に在すとき、太宗晨夕に尚宮をして起居を問わしむ。元名纔かに十歳、保媼言う、「尚宮は品あり、拝すべし」と。元名曰く、「これ帝の侍婢のみ、何ぞ拝せん」と。太宗これを壮とし、曰く、「真に吾が弟なり」と。長ずるに及び、矜厳にして財を疏にし、未だ嘗て家人の生業を問わず。五州刺史を歴とり、実封千戸に至る。

原文舒王元名,始王譙,後徙王。高祖之在大安宮,太宗晨夕使尚宮問起居,元名才十歲,保媼言:「尚宮有品當拜。」元名曰:「此帝侍婢耳,何拜為?」太宗壯之,曰:「真吾弟也!」及長,矜嚴疏財,未嘗問家人生業。歷五州刺史,實封至千戶。

子の豫章王李亶は、江州刺史となり、善政を施した。高宗は元名が子をよく訓導したとして、手詔を下して褒め称えた。また元名に大州を授けようとしたが、辞して曰く、「臣は宗籍に連なる身、どうして州郡を仕進の資とすることができましょうか」と。石州刺史を二十年治め、しばしば山林に遊び、隠遁の志があった。垂拱年間、鄭州に転じ、境は東都の近郊に接し、諸王貴戚が刺史となる者は家人を放任して百姓を暴虐にしたが、元名が着任すると、一挙にこれを改め、治績は清廉で威厳があった。司空に進み加えられた。

原文子豫章王亶,洛江州,有美政。高宗以元名善訓子,手詔褒美。又欲授元名大州,辭曰:「臣忝屬籍,豈以州郡為仕進資邪?」治石州二十年,數遊山林,有高蹈意。垂拱中,徙鄭州,境接東畿,諸王貴戚為刺史者縱家人暴百姓,元名至,一革之,為治廉威。進加司空。

武后の時、李亶は丘神勣に誣告され、詔獄に繋がれて死に、元名は連座して利州に左遷され、まもなく殺害された。神龍初年、詔して官爵を復し、司徒を追贈した。時に末子の鄅国公李昭は既に卒していたので、李亶の子李津を嗣がせ、開元年間、左威衛将軍となった。薨じ、子の李万が嗣いだ。薨じ、子の李藻が嗣いだ。

原文武後時,亶為丘神勣所構,系詔獄死,元名坐遷利州,尋被殺。神龍初,詔復官爵,贈司徒。時少子鄅國公昭已卒,乃以亶子津嗣,開元中,為左威衛將軍。薨,子萬嗣。薨,子藻嗣。

魯王

原文魯王

魯王李霊夔は、学問に篤く、草書・隷書に優れ、音律に通じた。初め魏王に封ぜられ、後に燕王となり、幽州都督となった。やがて王を改封され、実封は千戸に至った。頻繁に五州刺史を歴任し、太子太師に遷った。垂拱元年、相州に転じ、越王と謀り兵を起こそうとした罪に坐し、振州に流され、自殺した。

原文魯王靈夔,篤學,善草隸,通音律。初王魏,後王燕,為幽州都督。已而徙王,實封至千戶。頻歷五州刺史,遷太子太師。垂拱元年,徙相州,坐與越王謀起兵,流振州,自殺。

子の李詵は清河王となり、早世した。李藹は范陽王となり、越王が必ず敗れることを知り、自らその謀を告発したため、誅殺を免れた。右散騎常侍を歴任し、酷吏に害された。神龍初年、ことごとく王爵を追復され、李藹の子李道堅が嗣いだ。

原文子詵,為清河王,早夭。藹為范陽王,知越王必敗,白髮其謀,得不誅。歷右散騎常侍,為酷吏所害。神龍初,悉追復王爵,以藹子道堅嗣。

道堅は方正厳格で礼法を重んじ、閨門は厳粛であった。七度州刺史となり、国子祭酒に遷った。開元年間、選ばれて汴州刺史・河南道採訪使を授かった。州は水陸の要衝に位置し、前後の刺史は多く利に溺れたが、ただ道堅のみが清廉剛毅と称された。入朝して宗正卿となった。薨じ、礼部尚書を追贈された。子の李宇が嗣ぎ、玄宗に従って蜀に至り、右金吾将軍となった。宝応初年、皇太子の子が魯王に封ぜられたため、李宇を改めて嗣鄒王に封じた。弟の道邃は戴国公に封ぜられ、恭しく沈黙を守り、山東の婚姻旧事を修め、数度清職を任じられ、ついに尚書右丞で終わった。

原文道堅方嚴有禮法,閨門肅如也。七為州刺史,遷國子祭酒。開元中,選授汴州刺史、河南道采訪使。州據水陸都會,前後刺史多瀆利,唯道堅以清毅稱。入為宗正卿。薨,贈禮部尚書。子宇嗣,從玄宗至蜀,為右金吾將軍。寶應初,皇太子子封魯王,更封宇為嗣鄒王。弟道邃封戴國公,恭默自守,以修山東婚姻故事,數任清職,終尚書右丞。

江安王

原文江安王

江安王李元祥は、初め許王に封ぜられ、後に王を改封され、四度州刺史となり、実封は千戸に至った。性質は凡庸で貪欲であり、赴任地ごとに飽くことなく財産を営んだ。時に滕王・蔣王・虢王の三王はいずれも貪暴で、その府官に任ぜられる者はこれを嫌って赴任を望まず、故に当時の言葉に曰く、「儋・崖・振・白に向かうとも、江・滕・蔣・虢に事えず」と。元祥は体躯魁偉で、帯は十囲じゅうい、食事は数人分を兼ねた。韓王・虢王・魏王もまた体が大きく立派であったが、及ばなかった。薨じ、司徒・并州大都督を追贈され、献陵に陪葬された。

原文江安王元祥,始王許,後徙王,四為州刺史,實封至千戶。性庸遴,所至營財產無厭。時滕、蔣、虢三王皆貪暴,得其府官者惡之不願行,故時語曰:「寧向儋、崖、振、白,不事江、滕、蔣、虢。」元祥魁大,帶十圍,食兼數人。韓、虢、魏亦鴻偉,然不逮也。薨,贈司徒、并州大都督,陪葬獻陵。

七人の子があり、李晫は永嘉王となったが、禽獣のような行いがあり、誅殺された。李皎は武陽王となり、その余は皆国公に封ぜられたが、武后の時、多く誅殺に及んだ。李皎の子李叢は、幼少のため嶺表に流されて死に、南安に葬られ、人はその冢を「天孫墓」と号した。中宗が即位すると、従子の李欽をして王を嗣がせたが、また李皎の封が絶えたため、改めて弟の子李継宗を嗣がせた。後に郡王は世襲しないとして、澧国公に降格された。

原文七子,晫為永嘉王,有禽獸行,誅死;皎為武陽王,餘皆爵公,武後時,多及誅。皎子叢,以幼流死嶺表,葬南安,人號其冢為「天孫墓」。中宗立,以從子欽嗣王,又以皎封絕,更取弟子繼宗嗣,既而以郡王不襲,降澧國公。

密貞王

原文密貞王

密貞王李元暁は、貞観年間に虢州刺史となり、実封は千戸に至った。沢州に転じた。薨じ、司徒・揚州都督を追贈され、献陵に陪葬された。

原文密貞王元曉,貞觀中為虢州刺史,實封至千戶。徙澤州。薨,贈司徒、揚州都督,陪葬獻陵。

子の李穎が嗣ぎ、南安王となった。薨じ、子の李勖が嗣いだが、早世した。神龍初年、李穎の弟李亮の養子李曇を嗣がせた。開元五年、更に詔して元暁の再従孫の東莞郡公李徹を嗣がせ、濮陽郡王に改封し、宗正卿・金紫光禄大夫を歴任した。

原文子穎嗣,為南安王。薨,子勖嗣,早薨。神龍初,以穎弟亮養子曇嗣。開元五年,更詔元曉再從孫東莞郡公徹嗣,徙封濮陽郡王,歷宗正卿、金紫光祿大夫。

滕王

原文滕王

滕王李元嬰は、貞観十三年に初めて王に封ぜられ、実封千戸であった。金州刺史となり、驕慢放縦で度を失った。太宗の喪中に、官属を集めて宴飲歌舞し、賤しい者たちと親昵し、管内を巡省する際は、民から犬を借りて罝(網)を求め、通過する地に害をなした。丸を弾いて人に当て、その走り避けるのを見て楽しみ、城門を夜間に開き、もはや規律がなかった。高宗は書を以て厳しく責めて曰く、「朕は王が至親であるゆえ、法に致すに忍びず、今下上の考課を署し、王の心に愧じることを望む」と。

原文滕王元嬰,貞觀十三年始王,實封千戶。為金州刺史,驕縱失度。在太宗喪,集官屬燕飲歌舞,狎昵廝養;巡省部內,從民借狗求罝,所過為害;以丸彈人,觀其走避則樂;城門夜開,不復有節。高宗以書切責曰:「朕以王至親,不忍致於法,今署下上考,冀愧王心。」

久しくして、洪州都督に遷った。官属の妻で美しい者を、妃が召すと偽って呼び出し、強いて私通した。かつて典籤崔簡の妻鄭氏に罵倒され、履で元嬰の面を打って流血したため、やっと免れた。元嬰は慚愧し、十日余り政務を視なかった。後に法に坐して封戸と親事帳内の半分を削られ、滁州に謫置された。起用されて寿州刺史に授かり、隆州に転じたが、またも法に従わなかった。隷事参軍事裴聿がその過失を諫めて正すと、元嬰は彼を引きずり出して辱めた。裴聿が上計に入り詳細に奏上すると、帝は裴聿を六品上階に昇進させた。帝はかつて諸王に彩絹五百匹を賜わろうとしたが、元嬰と蔣王が貪婪であるため、ただ詔書を下して曰く、「滕叔・蔣弟には賜う必要なく、麻二車を与え、銭緡作りの助けとせよ」と。二王は大いに慚じた。武后の時、開府儀同三司・梁州都督に進んだ。薨じ、司徒・冀州都督を追贈され、献陵に陪葬された。

原文久之,遷洪州都督。官屬妻美者,紿為妃召,逼私之。嘗為典簽崔簡妻鄭嫚罵,以履抵元嬰面血流,乃免。元嬰慚,歷旬不視事。後坐法削戶及親事帳內之半,謫置滁州。起授壽州刺史,徙隆州,復不循法。隸事參軍事裴聿諫正其失,元嬰捽辱之。聿入計具奏,帝遷聿六品上階。帝嘗賜諸王彩五百,以元嬰及蔣王貪黷,但下書曰:「滕叔、蔣弟不須賜,給麻二車,助為錢緡。」二王大慚。武後時,進拜開府儀同三司、梁州都督。薨,贈司徒、冀州都督,陪葬獻陵。

子は十八人あり、長子修琦が嗣ぎ、長楽王となり、余は公の爵を受く。垂拱年中、六人は詔獄にて死す。神龍初、更に少子修信の子涉を以て嗣がしむ。開元年中、左驍衛将軍を授かる。薨じ、子湛然が嗣ぐ。玄宗に従ひ蜀に至り、左金吾将軍に擢でらる。

原文子十八人,長子修琦嗣,為長樂王,餘爵公。垂拱中,六人死詔獄。神龍初,更以少子修信子涉嗣,開元中,授左驍衛將軍。薨,子湛然嗣,從玄宗至蜀,擢左金吾將軍。