新唐書

巻七十八 列傳第三 宗室

江夏王李道宗、広寧県公李道興、永安王李孝基、漢王李涵、淮陽王李道玄、長平王李叔良、郇国公李孝協、彭国公李思訓、新興郡王李晋、長楽王李幼良、襄武王李琛、河間王李孝恭、漢陽王李晦、廬江王李瑗、淮安王李神通、膠東王李道彦、梁郡公李孝逸、李国貞、李暠、李説、李斉物、李復、襄邑王李神符、李従晦、隴西公李博義、渤海王李奉慈、李戡

太祖の子

太祖に八子あり。長は延伯、次は真、次は世祖皇帝、次は璋、次は絵、次は禕、次は蔚、次は亮。

南陽公李延伯は、早くに薨じ、嗣子なし。高祖こうそ武徳年間、六王とともに追封された。

譙王李真は、太祖に従って戦死し、嗣子なし。

畢王李璋は、周に仕えて梁州刺史となり、趙王宇文祐とともに隋の文帝を殺害しようと謀ったが、果たせずに死んだ。二子を生む。韶と孝基である。李韶は隋の世に死に、武徳時に追封されて東平王となり、子に道宗を生んだ。

江夏郡王李道宗、字は承範。高祖が即位すると、左千牛備身・略陽郡公を授かった。裴寂が劉武周と度索原で戦い、裴寂は敗れ、賊は河東に迫った。道宗は十七歳で、秦王に従って賊を討った。王は玉壁城に登って眺め、道宗に言った。「賊は衆を恃んで戦おうとしている。汝の計略はどうか。」答えて言った。「武周は勝ちに乗じており、その鋭鋒は当たるべからず、正に計略をもってこれを摧くべきです。かつ烏合の衆は持久を恐れます。堅壁を以てその鋭気を頓挫させ、食尽き気老いるを待てば、戦わずして擒にすることができます。」王は言った。「汝の考えは我と合う。」やがて賊は糧食欠乏し、夜に引き去った。追撃してこれを滅ぼした。

霊州総管として出向した。時に梁師都の弟洛仁が突厥の兵数万を連れて城塁に迫った。道宗は城を閉じて守り、隙を伺って出戦し、これを破った。高祖は裴寂に言った。「昔、魏の任城王曹彰には敵を退ける功があった。道宗はこれに似ている。」よって任城王に封じた。

初め、突厥の郁射設が五原に入居した。道宗はこれを逐い出し、威武を震耀し、地を斥けて千里余りを広げた。貞観元年、召されて鴻臚卿に拝され、大理寺卿に遷った。太宗がまさに突厥を経略しようとしていたので、再び霊州都督ととくを授かった。三年、大同道行軍総管となり、李靖を助けて虜を破り、みずから頡利可汗を捕らえ、封戸六百を賜り、還って刑部尚書となった。吐谷渾が辺境を寇した。李靖が昆丘道より出撃するにあたり、詔して侯君集とともに李靖の副将となる。賊は兵が来ると聞き、嶂山へ数千里逃げた。諸将は止めようとしたが、道宗のみが窮追を請うた。李靖は言った。「善し。」侯君集は従わなかった。道宗は単独の軍を率いて進み、大軍から十日離れて、これを追いついた。吐谷渾は険阻に拠って死闘を挑んだ。道宗は密かに千騎を引き連れて山を越えその背後に乗じた。賊は驚き、ついに大潰した。江夏王に徙封され、鄂州刺史を授かった。久しくして、貪贓の罪に坐し、帝は聞いて怒って言った。「朕は四海の富を提げ、士馬は林の如し。もし轍跡を天下に環らし、遊観に度を過ごし、絶域の玩び、海表の珍を採るとも、顧みて得られぬことがあろうか。ただ民を労して自ら楽しむことをせぬだけである。人心には際限がない。誼をもってこれを制すべきだ。今、道宗は既に王であり、稟賜多くして貪り止まず、顧みて卑しからぬか。」乃ち官を免じ、封戸を削り、王のまま邸宅に就かせた。明年、召されて茂州都督となったが、未だ行かず、晋州刺史に拝された。礼部尚書に遷った。

侯君集が高昌を破って還り、頗る怨望した。道宗は嘗て従容として奏上して言った。「君集は智小さくして言大なり。かつ戎首たらんとす。」帝は必ず反することを知る所以を問うた。答えて言った。「その功を忌み矜り、房玄齢・李靖の下に在るを恥じ、官は尚書でありながら、常に鬱々として平らかならぬのを見ます。」帝は言った。「君集は誠に功あり、その材不堪なるはない。朕はどうして爵位を惜しまんや。ただ未だ及ばぬだけだ。軽々に憶度して、自ら猜疑危惧させるのは宜しくない。」やがて君集が反した。帝は笑って言った。「卿の平素の揣摩の通りであった。」

帝が高麗を討たんとし、先に営州都督張儉に軽騎で遼を渡り形勢を窺わせた。張儉は畏れて深く入らなかった。道宗は百騎を以て往くことを請うた。帝はこれを許し、その還るを約して言った。「臣は二十日で行き、十日留まって山川を覧観し、還って天子に謁見することを請います。」よって馬に秣をやり兵を束ね、南山の傍らより賊地に入り、険易を相し、営陣の便なる処を度った。将に還らんとするに、高麗の兵がその路を断った。別に間道を走り、期の如く帝に謁した。帝は言った。「孟賁・夏育の勇もどうしてこれを過ぎようか。」金五十斤、絹千匹を賜った。

乃ち詔して李勣とともに前鋒となり、遼を渡り、蓋牟城を抜いた。時に賊の援兵が至った。道宗と総管張君乂が率いる騎兵はわずか四千、虜はその十倍であった。皆、溝を浚り険を保って帝の到着を待とうとした。道宗は言った。「賊は急ぎ来る。その兵は必ず疲れている。我が一鼓してこれを摧けば、固し。昔、耿弇は賊を君父に遺さなかった。我は前軍たり。道を清めて乗輿を迎えるべきである。何を尚お待たんや。」李勣はこれを善しとした。壮騎数十を選び、賊営に突進し、左右より出入りした。李勣が合撃し、大いにこれを破った。帝が至り、賞美し、奴婢四十口を賜った。乃ち拒闉を築き、安市城を攻めた。闉が崩れて城に傅わった時、道宗は部署を失い、かえって賊に占拠された。帝はその果毅都尉傅伏愛を斬った。道宗は跣行して罪を請うた。帝は言った。「漢武帝が王恢を殺したのは、秦の穆公が孟明を赦したに如かぬ。」よって置いて問わなかった。陣中で足を傷つけた。帝はみずから砭治を加え、御膳を賜った。還って、病を以て劇務を辞し閑職に就き、太常卿に改めた。

高宗永徽初め、房遺愛が反逆の罪で誅せられた。長孫無忌・褚遂良は道宗と宿怨があり、遺愛と親善していたと誣った。象州に流され、道中病んで薨じた。年五十四。無忌らが罪を得た後、詔して爵邑を復した。道宗は晚年に学を好み、士大夫と接するに貴をもって倨らず。国初の宗室では、道宗と孝恭のみが最も賢であった。子の景恒は、盧国公に封ぜられ、相州刺史となった。

道宗の弟道興は、武徳初め、広寧郡王の爵位を賜ったが、属疏により県公に降封された。貞観九年、交州都督となり、南方の瘴癘を恐れ、年を保てぬと思い、頗る忽忽として憂悵し、官において卒した。交州都督を追贈された。

永安壯王孝基は、武德初年に王を得、陝州總管・鴻臚卿を歴任し、罪により官を奪われた。

二年、劉武周が太原を寇し、夏人の呂崇茂が県を挙げて賊に応じた。詔して孝基を行軍總管としこれを攻めさせ、工部尚書獨孤懷恩・内史侍郎唐儉・陝州總管於筠を隷属させた。筠は急ぎ城を攻め、外援を絶ち、且つ変有るべしと請うた。時に懷恩は異計を抱き、孝基を誑かして説いて曰く、「夏城は堅く、これを攻むれば日を引き、宋金剛は近くに在り、内に拒ぎ外に強し、一敗塗地す。兵を頓して秦王の賊を破るを待つに如かず、然らば夏自ら孤となり、これ不戦にして人を屈するを謂うなり」と。孝基は然りと謂う。尉遲敬德の至るに会し、崇茂と官軍を挟撃し、遂に大敗す。孝基及び筠等は皆賊に執られ、亡帰を謀るも、賊に害せらる。高祖は為に哀を発し、其の家を優しく賜う。晋陽平らぎ、屍を購うも獲ず、魂を招きて以て葬り、左衛大將軍及び謚を贈る。

子無く、兄の子道立を以て嗣がしめ、高平王に封じ、後に降って県公に封ぜられ、陳州刺史に終わる。曾孫涵。

涵は、簡素にして忠謹、宗室の俊たり。累ねて贊善大夫を授かる。郭子儀表して関内鹽池判官と為す。肅宗平涼に至り、従う所を知らず。朔方留後杜鴻漸等、士馬倉廥を条列し、涵をして箋を奉じて馳せ謁せしむ。涵既に見え、敷奏明辯、肅宗悦び、左司員外郎を除し、再び宗正少卿に遷る。

寶應初め、河朔平らぎ、涵方に母喪に在り、哀を奪いて節を持ち宣慰し、至る所の州県、公事に非ざれば未だ嘗て言わず、蔬飯水飲し、地を席として以て瞑す。使い還り、固く終制を請う、代宗其の臒毀を見て、之を許す。服除け、給事中に擢でられ、兵部侍郎に遷る。

硃希彩李懷仙を殺し、復た河北を宣慰し、還りて浙西觀察使と為る。五歳居り、朝に入り、御史大夫・京畿觀察使を拝す。德宗嗣位し、涵の和易にして繩挙する所無きを以て、太子少傅・山陵副使を除す。父の諱を以て光祿卿に徙る。未だ幾ばくもあらず、左散騎常侍さんきじょうじに遷り、尚書右僕射を以て致仕し、累ねて襄武県公に封ぜられ、卒し、太子太保を贈らる。

子鰅、貞元初め饒州別駕と為る。妾高は善歌を以て宮に入り、鰅御醫許泳に因りて書を通ず、坐して誅せらる。

雍王繪は隋の夏州總管と為る。子贄、追って河南王に爵し、道玄を生む。

淮陽壯王道玄は、性謹厚、技撃を習い、然れども進止都雅なり。武德初め、例にて王と為る。年十五、秦王に従い介州に於いて宋金剛を撃ち、先登し、王之を壮とし、賞予良く厚し。王世充を討ち、戦多くす。竇建德虎牢に屯し、王軽騎を以て賊に致し、道玄を遣わし伏して以て待たしむ、賊至り、之を走らす。範汜水に戦い、南坡に登り、賊陣を貫き其の背に出で、復た引き還り、賊皆靡き、発する所命中す。王喜び、副騎を以て之を与う。毎に敵に赴くに、飛矢身に著くこと猖の如く、気益々厲し。東都平らぎ、洛州總管と為る。府廃せられ、更に刺史を授かる。俄に山東道行軍總管と為り劉黑闥を討ち、多く見るを以て褒めらる。

黒闥再び乱れ、道玄史萬宝を率いて下博に戦い、濘を越えて馳せ、萬宝に継進を約す、萬宝素より之を少なしとし、肯えて前まず、曰く、「吾詔を被り、王を以て児子の名を大将とす、而して軍の進退実に我に在り。今其の軽闘するは、若し大軍竭きて馳せば、必ず濘に陥らん、王を以て賊に啖らわんに如かず、我陣を結びて之を待たん、王に不利と雖も、而して国に利あらん」と。道玄遂に戦歿す、年十九。萬宝賊に乗ぜられ、挙軍潰え、身独り免る。太宗悼みて曰く、「兵興より以来、児常に我に従い、我の深入するを見る毎に輒ち克つを以て、故に之を慕う。其の少なるを惜しむ、遠図究めず、哀しいかな」と。因りて涕を流す。左ぎょう衛大將軍及び謚を贈る。

子無く、弟道明を以て王を嗣がしめ、左驍衛大將軍に遷る。貞観十四年、武衛將軍慕容寶節と弘化公主を吐谷渾に送るに与かり、坐して主の帝女に非ざるを漏らし言う、王を奪われ、鄆州刺史に終わる。六世孫漢。

漢字は南紀、少く韓愈に事え、古学に通じ、辞を属するに雄蔚、人と為り剛、略く愈に類す。愈愛重し、子を以て之に妻す。進士第に擢でられ、累ねて左拾遺に遷る。

敬宗宮室を侈にし、舶買沈香亭の材を献ず、帝之を受け、漢諫めて曰く、「沈香を以て亭と為すは、何ぞ瑤臺瓊室に異ならんや」と。是の時、王政謬僻し、漢の言切にして、救補する所多し。婞訐に坐し出でて興元幕府を佐く。

文宗立ち、召して屯田員外郎・史館修撰と為す。《憲宗実録》を論次し、宰相李吉甫の事を書するに仮借せず、子の徳裕之を悪む。李宗閔の国に当たるに会し、知制誥に擢でられ、稍く進みて御史中丞、吏部侍郎と為る。初め、徳裕袁州に貶せらるるや、漢助けて排擠を為し、後徳裕復た政を輔くるに及び、漢宗閔の党に坐し出でて汾州刺史と為り、宗閔再び逐わるるに及び、州司馬に改む。詔して有司に二十年を経ずして用うることを得ざらしむ。然れども数歳ならずして、絳州長史に徙り、遂に復た振わず。大中時、召して宗正少卿を拝し、卒す。

初め、漢中丞と為り、孔温業を表して御史と為し、漢の晩に召し見えらるるに及び、温業既に中丞と為り、毎に燕集するに、人以て栄と為す。

郇王李祎は、隋の上儀同三司であった。子に叔良、徳良、幼良を生む。

長平粛王李叔良は、武徳初年に例により王となり、涇州を鎮守し、薛仁杲を防いだ。仁杲の内史令翟長孫が衆を率いて降った。この時大飢饉があり、米一斗が千銭となり、叔良は士卒を憐れまず、食糧を減らして利を漁り、下の者は皆怨んだ。仁杲はこれを知り、食糧が尽きたと偽って言い、去り、高〓人を遣わして偽りの降伏をさせた。叔良は驃騎劉感を遣わしてこれを受けさせたが、城に至らぬうちに三つの烽火が上がり、仁杲の兵が南原から騒ぎながら戻り、百里細川で大戦し、劉感は賊に捕らえられた。叔良は恐れ、金を全て出して軍を労い、事を長孫に委ねて、ようやく安んじることができた。

久しくして、突厥が侵入した。詔により叔良は五将軍を率いてこれを撃ち、流れ矢に当たり、途中で薨じた。左翊衛大将軍・霊州総管を追贈された。

子の孝協が嗣いだ。

孝協は、初め范陽王に封ぜられたが、まもなく郇国公・魏州刺史に降格された。麟徳年中、贓罪に坐して死罪に当たり、司宗卿隴西王李博義らが高宗に言上して赦免を求めたが、帝は許さず、遂に自殺した。

弟の孝斌は原州都督府長史となった。子に思訓を生み、江都令となった。武后は宗室を多く殺したので、思訓は官を棄てて去った。中宗が復位すると、耆旧として宗正卿に抜擢され、隴西郡公に封ぜられ、益州都督府長史を歴任した。開元初年、彭国公に進み、封戸を四百満たして加増され、右武衛大将軍に進んだ。卒し、秦州都督を追贈され、橋陵に陪葬された。思訓は絵画に優れ、世にいう「李将軍山水」である。弟の思誨は揚州参軍事となった。子の林甫は、別に伝がある。

新興郡王李徳良は、若くして病により職務に堪えなかった。薨じ、涼州都督を追贈された。

孫の李晉は、先天年中、雍州長史となり、治績に名があり、王を襲封した。太平公主の謀に与した罪に坐して誅殺され、氏を「厲」と改められた。李晉が刑に就くとき、僚吏は逃げ去ったが、ただ司功参軍李捴のみが王に従うこと平素の如くであり、李晉が死ぬと、その屍に哭して哀しみを尽くした。姚元崇は嘆じて言った、「欒布・向雄の類いか!」。彼を尚書郎に抜擢した。

長楽郡王李幼良は、性質が暴烈でせっかちであり、高祖は幾度も諭し戒めたが、改めなかった。その馬を盗んだ者がいると、すぐに殺した。帝は怒って言った、「盗人が確かに罪があるとしても、王が専断で殺してよいものか」。詔して礼部尚書李綱に宗室を召し出し朝堂で百回杖打たせ、ようやく釈放した。涼州都督として出され、不逞の徒を嘯集して側近とし、市井の人々を苦しめた。

太宗が立つと、ある者が王が密かに士を養い、境外と交わっていると告げた。詔して中書令宇文士及を遣わして代えさせ、併せて事実関係を調べさせた。士及が厳しく追及したので、側近は恐れ、王を劫いて間道から長安ちょうあんへ向かい自ら潔白を明らかにしようとし、すぐに北へ逃れて突厥に奔ることはしなかった。士及が上表して弾劾すると、帝はまた侍御史孫伏伽を遣わして審問させたが、異なる供述はなく、遂に死を賜った。六世孫の李回は、別に伝がある。

蔡烈王李蔚は、周の朔州総管となり、子に安、哲を生む。

西平懐王李安は、隋に仕えて右領軍大将軍となり、趙公に封ぜられた。武徳の時、例により王となった。子に琛、孝恭、瑊、〓を生む。

襄武郡王李琛は字を仲寶という。朴訥で文才に乏しかった。隋の義寧初年、襄武郡公に封ぜられ、太常卿鄭元〓と共に女伎を携えて突厥の始畢可汗に赴き、和親を約した。始畢は礼遇し、贈り物は豊かで、骨吐祿特勒を遣わして李琛に随従させて入朝献上させ、刑部侍郎に任ぜられた。武徳初年、初めて王となり、利・蒲・絳の三州総管を歴任した。宋金剛が澮州を陥落させると、稽胡が多く叛いた。詔して李琛を隰州に鎮守させたが、政令は寛大簡素で、夷夏ともに親しみ便利とした。薨じ、子の李儉が王を襲封したが、例により公に降格された。

河間元王李孝恭は、若くして沈着聡明で、識見と度量があった。

高祖がすでに京師を平定すると、詔して山南招尉大使に拝し、しょくはしょくを巡行して三十余州を降した。進んで朱粲を撃ち、これを破り、その衆を捕虜にした。諸将は言った、「朱粲の徒は人を食らう者、凶悪な賊です。これを坑に埋めることを請います」。孝恭は言った、「そうではない。今、並び立つ城は皆我が敵である。もし捕らえて殺せば、後に降伏する者があろうか」。全て釈放した。これによって飛檄の至るところ、すぐに降伏した。

翌年、信州総管に任ぜられ、詔を承って官爵を授ける権限を得た。当時、蕭銑が江陵を占拠しており、孝恭はたびたび策を進めて銑を討つことを図り、帝はこれを嘉して採用した。趙郡王に進封され、信州を夔州と改めた。そこで大いに舟艦を整備し、水戦を訓練した。ちょうど李靖が江南に使いしたので、孝恭はその謀略を頼りに、江陵攻略を図り、巴蜀の首領の子弟をことごとく召し出して任用したが、外見は抜擢しているように見せて、内実は人質としたのである。まもなく荊湘道総管に進み、水陸十二軍を統率して夷陵から出発し、銑の二つの鎮を破り、戦艦を江中に流した。諸将が言うには、「得た舟は我が用に供すべきであり、これを棄てればかえって賊に与えることになる、どうしたものか」と。孝恭は言った、「銑の境域は、南は嶺に接し、左は洞庭に迫り、地は険しく士衆は多い。もし城が陥ちないうちに援軍が来れば、我々は内外の憂いを抱えることになる。舟が多くとも、何に用いようか。今、銑の江辺の鎮戍は、艫舠が江を覆い下るのを見れば、必ずや銑が既に敗れたと思い、直ちに進兵せず、偵察の往復によって救いの時期を引き延ばすであろう。そうすれば我々は既に江陵を陥としているのだ」と。やがて救兵が巴陵に到着し、船を見て疑い進まなかった。銑は内外の連絡を絶たれ、ついに降伏した。帝は喜び、荊州大総管に遷し、詔して銑撃破の状況を図示して進上させた。

孝恭は荊州を治め、屯田を設置し、銅の冶を立て、百姓はその利益を得た。襄州道行台左僕射に遷った。当時、嶺表はまだ平定されていなかったので、使者を分遣して綏撫し、帰順したものは四十九州に及び、朝廷の号令は南海まで暢達した。

まもなく、輔公祏が反乱を起こし、寿陽を寇した。詔して孝恭を行軍元帥とし、これを討たせた。兵を率いて九江に向かい、李靖・李勣・黄君漢・張鎮州・盧祖尚はいずれもその節度を受けた。出発に際し、士卒に大いに饗宴を施したところ、杯の水が血に変わった。座中の者たちはみな色を失ったが、孝恭は平然として、ゆっくりと言った、「禍福には基づくところがなく、ただ人が招くだけである。顧みるに私は物に背かないから、諸君の憂いを重ねることはない。公祏の禍悪は天に貫き、今、威霊を仗って罪を問う。杯中の血は、賊臣が首を授ける祥兆であろうか」と。飲み尽くして宴を終えると、衆心は安らかになった。公祏の将馮恵亮らは険阻に拠って邀撃しようとしたが、孝恭は堅く壁を守って出撃せず、奇兵を遣わして糧道を絶った。賊は飢え、夜間に営を攻めたが、孝恭は臥して動かなかった。明日、疲弊した兵士を使わせて賊の陣営を叩き挑発させ、祖尚は精騎を選んで陣を整えて待った。やがて兵が退却し、賊が追撃して騒がしくなったところで祖尚の軍に遭遇し、激戦して遂に大敗させた。恵亮は梁山に退いて守りを固めたが、孝恭は勝ちに乗じてその別の鎮を破り、賊で水に投じて死んだ者は数千を数えた。公祏は窮し、丹楊を棄てて逃げたが、騎兵が執拗に追撃し、生け捕りにした。江南は平定された。璽書をもって褒め称え、甲第一区・女楽二部・奴婢七百口・宝玩数えきれぬほどを賜った。東南道行台左僕射に進めて授けられた。行台が廃止されると、揚州大都督に改めた。

孝恭は再び大賊を破り、北は淮から、東は江を包み、嶺を越えて南に至るまで、ことごとく統轄した。威重をもって遠俗を誇ろうとし、石頭城に邸宅を築き、廬僥を陳べて自衛した。ある者が彼が謀反を企てていると誣告したので、召還され、かなり御史台から詰問されたが、証拠がなく、赦されて宗正卿となった。実封千二百戸を賜った。涼州都督・晋州刺史を歴任した。貞観初年、礼部尚書となり、河間王に改封された。

性格は奢侈で豪放、後房には歌舞伎百余人を置いたが、寛恕で退譲し、驕り高ぶる色はなく、太宗はこれをもって親しく重んじ、宗室で比べる者はいなかった。かつて人に言った、「私の住まいはかなり壮麗だが、本心ではない。別に一区画を営み、粗末でも用を足す程度にしたい。私が死んだ後、子に才があれば、守りやすい。才がなければ、他人に利用されることもないだろう」と。十四年、酒宴中に急死した。五十歳。帝は慟哭し、司空しくう・揚州都督を追贈し、諡を賜い、献陵に陪葬された。

そもそも隋が滅び、盗賊が天下に遍在したが、すべて太宗が自ら討伐平定し、謀臣驍帥はみな麾下に隷属し、独自に将軍として専有する勲功はなかった。ただ孝恭のみが方面の功績をもって自らを顕わしたのである。子に崇義・晦がいる。

崇義は王位を嗣ぎ、譙国公に降封され、蒲・同二州刺史・益州都督府長史を歴任し、威名があった。宗正卿で終わった。

晦は乾封年中に営州都督となり、治績を以て聞こえ、璽書を賜って労った。右金吾将軍に遷り、検校雍州長史となり、奸悪隠伏を摘発して隠し残すことなく、吏下は彼を畏れた。高宗が洛陽らくように行幸しようとしたとき、詔して晦に留守を命じ、言った、「関中のことは一切公に任せる。しかし法令に拘束されては善政を成し得ない。法令の外で、もし人々に利益があるならば実行せよ。必ずしも上聞するには及ばない」と。故に晦の治績には異例のものがあった。武后の時、秋官尚書に遷った。卒し、幽州都督を追贈された。初め、晦が邸宅に観閣を建て、下に市場の区域を見下ろしたところ、その者が晦に待ち構えて言った、「庶人は礼に及ばないが、家内の私事は外から窺われることを望みません。今、公にお別れを申し上げます」と。晦は驚き、急いでこれを取り壊した。子の栄は、呉王恪の祭祀を奉じた。

済北郡王瑊は、武徳年中、尚書左丞となり、例によって王となった。始州刺史で終わった。

漢陽郡王瑰は、初め郡公となり、王に進んだ。高祖が幣を持たせて突厥の頡利可汗のもとに遣わし、和親のことを言わせた。頡利が初めて瑰を見たとき、非常に傲慢であった。瑰が説き示し、厚い幣を見せると、ようやく大喜びし、顔色を改めて礼を加え、使者を遣わして随行させ名馬を献上させた。後度の聘問のとき、頡利は配下に言った、「前に瑰が来たとき、少しも屈服させなかったことを悔いる。今度は我に拝礼させよう」と。瑰もこれを知っていたが、頡利に会うと、即座に長揖した。頡利は怒り、留めて帰さなかった。瑰の様子は泰然自若として、屈服しなかった。虜は脅し得ないと知り、ついに礼を以て送還した。

左武候将軍に遷り、孝恭に代わって荊州都督となり、政務は清静であった。嶺外の酋豪がたびたび互いに攻撃し合ったが、瑰は使者を遣わして威徳を諭すと、皆約束に従い、乱すことはなかった。後、例によって公となった。長史の馮長命という者は、かつて御史大夫を務め、元来尊貴であり、事柄を多く専断したので、瑰は怒り、杖罰を加え、これに坐して免官された。宜州刺史・散騎常侍として起用され、薨じた。

済南郡王哲は、隋の柱国・備身将軍であり、追封して王とされた。

子に瑗がいる。

廬江郡王瑗、字は徳圭。武徳の時、例によって王となり、累遷して山南東道行台右僕射となった。河間王孝恭と共に蕭銑を討ったが、功績がなかった。幽州都督に改めた。瑗は元来懦弱であり、朝廷はその職務を全うできないことを恐れ、右領軍将軍王君廓を輔佐として随行させた。君廓は元来盗賊であり、その勇は人に絶し、瑗はこれを頼りとし、婚姻を約束し、心腹として寄せた。

時に隠太子(李建成)は陰謀を有し、王瑗を厚く結びつけていた。太子が死ぬと、太宗は通事舍人崔敦禮をして王瑗を召させたが、王瑗は変事あるを懼れた。君廓は内に険賊にして、計を以て王瑗を陥れ己の功を取らんと欲し、即ち王瑗に謂ひて曰く、「事変未だ知るべからず、大王は国の懿親にして、命を受けて辺を守り、兵十万を擁す、而して一使者に従ひて召されんや。且つ趙郡王(李孝恭)は前に既に吏に属せられ、今太子・斉王又復た爾り、大王の勢自ら保つ能はんや」と。因りて泣く。王瑗之を信じ、曰く、「命を以て公に累す」と。乃ち敦禮を囚へ、兵を勒し、北燕州刺史王詵を召して事を計らはしむ。兵曹参そうしん軍王利涉、王瑗に説きて曰く、「王今詔なくして擅に兵を発すれば、則ち反なり。須らく権に衆心を結ぶべし。若し諸刺史召して至らざれば、将た何を以て全からん」と。王瑗曰く、「奈何」と。対へて曰く、「山東の豪傑嘗て竇建徳に用ゐらる、今職を失ひ編戸と夷す、此れ其の乱を思ふこと、旱の雨を望むが若し。王能く使を発し、使ひ悉く旧職に復せしめ、在所に随ひて兵を募り、従はざる有らば、得て輒ち之を誅せば、則ち河北の地は呼吸して有つべし。然る後に王詵を遣はして外に突厥に連り、太原より蒲・絳に南趨せしめ、大王は駕を整へて西に関に入り、両軍勢を合せば、旬月を経ずして天下定まれり」と。王瑗之に従ひ、内外の兵を悉く君廓に付す。利涉は君廓の翻覆多きを以て、兵を詵に属せんことを請ふ。王瑗猶す。君廓密かに之を知り、馳せて詵の首を斬り、軍に徇して曰く、「李瑗と王詵は反し、勅使を錮し、擅に兵を追ひ、今詵已に斬らる、独り王瑗在り、為す能はざるなり。諸君之に従はば将に族滅せん、我を助くる者は富貴を得べし」と。衆曰く、「願くは賊を討たん」と。乃ち敦禮を獄より出だす。王瑗之を聞き、左右数百を率ひ甲を被りて出づ。君廓呼びて曰く、「王瑗誖乱す、諸君皆詿誤す、何ぞ之に従ひて以て夷戮を取らんや」と。衆反走す。王瑗君廓を駕して曰く、「小人我を売り、行くとして自ら及ばん」と。即ち王瑗を禽へて之を縊し、首を京師に伝へ、庶人に廃し、属籍を絶つ。

鄭孝王亮は、隋に仕へて海州刺史となり、追王せらる。子神通・神符を生む。

淮安靖王神通は、少くして軽俠なり。隋の大業末、長安に在り。会ふ高祖の兵興るに、吏逮捕す、亡命して南山に入り、豪英史万宝・裴勣・柳崇禮等と兵を挙げて太原に応じ、司竹の賊帥何潘仁と連和を約し、進みて平陽公主の兵と合し、鄠を徇ひて之を下す。自ら関中道行軍総管を署し、万宝を副とし、勣を長史とし、崇禮を司馬とし、令狐徳棻を記室とす。京師を平ぐるに従ひ、宗正卿となり、兵を典し宿衛す。永康郡に王たり、俄に淮安に徙る。

武徳初、山東安撫大使に拝せられ、黄門侍郎崔幹之に副ふ。魏に於て宇文化及を撃つ。化及敗走して聊城す。神通之を追北す。賊糧尽きて降らんと願ふ。神通肯へて受けず。幹之を納るるを請ふ。神通曰く、「師久しく暴露す、今賊食尽く、克つこと旦暮に在り、正に之を破り、以て玉帛を戦力に酬ふべし。若し降らば、吾何をか藉手せん」と。幹曰く、「竇建徳危きに至り、而して化及未だ平がらず、我両賊の間に転側し、勢必ず危し、王又其の玉帛を貪り、敗るること日に在らん」と。神通怒り、幹を軍中に囚ふ。

会ふ士及済北より軍を饋るに、化及復振ふ。神通兵を進めて其の壘に薄る。貝州刺史趙君德先づ登りて堞を扳ず。神通其の功を忌み、軍を止めて進まず。君德怒り、詈りて還り、城復た堅し。神通兵を遣はして魏州に走り攻具を取らしむ、莘人の乗ずる所となり、引き却く。後二日、建徳聊城を抜き、勢遂に張る。山東の州県靡然として之に帰す。神通麾下多く亡ぶ。乃ち退きて黎陽を保ち、李世勣に依る。俄に建徳の虜と為る。後に同安公主と賊より帰る。及び建徳滅び、復た河北行台左僕射を授く。劉黒闥を平ぐるに従ひ、左武衛大将軍に遷る。薨じ、司空を贈らる。

神通十一子有り、王たるを得る者七人、道彦・孝詧・孝同・孝慈・孝友・孝節・孝義、後皆王を降さる。孝逸は公に爵す。孝鋭は封を得ず、子斉物顕はる。

膠東郡王道彦は、幼くして孝謹なり。初め、神通吏を鄠に避け、疾を山谷の間に被り、累旬食尽き、道彦羸服して人間に丐ひ、或は野実を采りて以て進む。神通未だ食はざれば、敢へて先づせず、即ち分くる所有らば、飽ると辞して、乃ち蔵棄して以て待つ。高祖の初、義興郡公に封ぜられ、例にて王を得。貞観初、相州都督となり、岷州に徙る。父喪に因り解く。土を荷ひて墳に就き、躬ら松柏を蒔き、廬に偃み柴毀し、親友と雖も復た識らず。太宗嗟嘆し、勅して侍中王珪をして臨み諭さしむ。

服除け、復た岷州都督に拝せらる。間を遣はして党項に入り国威霊を諭す。区落降る。李靖に従ひ吐谷渾を撃つ。詔して道彦を赤水道総管とす。帝厚く利を以て党項を啖ひ、郷導たらしむ。其の酋拓拔赤辞、靖に詣りて自ら言す、「隋吐谷渾を撃つに、我其の軍を資す、而るに隋信無く、反って仇剽を見る。今将軍若し它無くば、我願くは糧を資せん、将た復た隋の如くせんや」と。諸将之と歃血して遣す。道彦闊水に至り、備無きを見て、因りて其の牛羊を掠む。諸羌怨み、即ち兵を引いて野狐峡を障り、道彦進むを得ず、赤辞の乗ずる所となり、軍大敗し、死者数万、退きて松州を保つ。詔して死を減じ、辺に謫戍す。久しくして、媯州都督に召さる。卒し、礼部尚書を贈らる。

初め、武徳五年に同封せらるる者、孝詧は高密王、孝同は淄川王、孝慈は広平王、孝友は河間王、孝節は清河王、孝義は膠西王。是に於て唐始めて興り、務めて支を広くし天下を蕃鎮せんとす、故に従昆弟子勝衣以上より、皆郡王に爵す。太宗即位し、属籍を挙げて大臣に問ひて曰く、「蓋し王宗子を天下に於てせば、可ならんや」と。封徳彜曰く、「漢の封ずる所は、惟だ帝子若くは親昆弟のみ。其の属遠きは、大功非ざれば王せず。周の郇滕・漢の賈澤の如き尚ほ茆土を得ず、以て親疏を別つ所以なり。先朝一切之を封じ、爵命崇くして力役多し、天下を以て私奉と為すは、以て至公を示す所以に非ず」と。帝曰く、「朕天下に君たりて以て百姓を安んず、百姓を労して以て己が親を養はしむるを容れず」と。是に於て疏属の王なる者皆公に降り、唯だ嘗て功有る者は降さず。故に道彦等並びに公に降封せらる。

孝逸は、少くして学を好み、頗る文に属す。始め梁郡公に封ぜらる。高宗の時、四遷して益州大都督府長史となる。武后国を擅にするに、入りて左衛将軍となり、親遇せらる。

徐敬業が兵を挙げると、孝逸を左玉鈐衛大将軍・揚州行軍大総管とし、軍を率いて南征させた。淮水に至った時、敬業は既に潤州を攻めており、弟の敬猷を遣わして淮陰に陣を構えさせ、偽将の韋超に都梁山を占拠させて孝逸を防がせた。韋超の軍勢は険阻に拠り陣営を堅固にしていた。孝逸は諸将を集めて議して言うには、「賊は今、山を背にしている。攻撃すれば兵士は力を用いる所なく、騎兵も駆けることができず、賊は死を救わんとし、傷つく者は必ず多いであろう。偏師をもってこれを引きつけ、全軍で揚州に向かうのがよい。その勢いで数日を待たずして破ることができよう。」支度使の薛克構が言うには、「韋超は険阻に拠ってはいるが、兵は少ない。もし小敵を放置して撃たなければ、威を示すことができない。多くの兵を分けて守れば、戦いに欠けが生じる。これを捨てれば後顧の憂いとなる。撃つに如かず。もし韋超を撃破すれば、淮陰は自ら震え上がり、淮陰が破られれば、楚の諸県は門を開いて官軍を待つであろう。これによって江都に向かえば、逆賊の首魁を取ることができる。」孝逸はこれに従い、山に登って韋超を急撃し、数百人を殺し、日暮れ近くになって包囲を解くと、韋超は夜中に逃走した。進軍して淮陰の敬猷を撃ち、これを破った。敬業は軍を返して下阿渓に至り、孝逸は兵を率いて直ちに渡河し、敬業は大敗し、ついに揚州を陥落させた。功績により鎮軍大将軍に進み、封を改めて呉国公とされ、威名は厳然としていた。

武承嗣らは彼を妬み、讒言によって施州刺史に左遷させた。また人を遣わして悪口を飛ばして上聞に達せしめると、武后はこれを信じ、かつて功績があったことを以て、死罪を免じて儋州に流し、そこで没した。景雲の初め、金州大都督を追贈された。

孝同の曾孫に国貞がいる。

国貞の父は広業、剣州長史であった。国貞は剛直で、吏才があった。乾元年中、長安令より河南尹に遷った。史思明が東都を寇すると、李光弼が河陽に陣を構え、国貞は官吏を率いて西へ陝に逃れた。数か月後、召されて京兆尹となった。

上元の初め、剣南節度使に拝され、召されて殿中監となり、戸部尚書として節を持ち朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭節度行営兵馬及び河中節度都統処置使を兼ね、絳に治所を置いた。まもなく晋・絳・慈・隰・沁等州観察処置使を加えられた。着任すると、兵糧が乏しく、蓄えは陳腐しており、民は貧しく急に徴収するに忍びず、上書してこれを報告した。しかし軍中では喧噪と誹謗が起こり、突将の王振が衆の怨みに乗じて欺いて言うには、「畚と鍤を用意して労役に備えよ。」と。衆は皆怒り、夜に牙門を焼いた。左右が駆けつけて告げ、避難を請うたが、国貞は言う、「我は命を受けて将となった。城を棄てることができようか。」と。固く請われると、獄中に逃れた。王振が衆を率いて彼を奪い取り、食物を前に置いて言うには、「これを食わせてその力を役に使うのは、よろしいか。」と。国貞は言う、「お前たちと共に賊を討とうとしているのに、何の労役があろうか。ただ蓄えの食糧が腐り乏しいため、既に朝廷に請うたまでだ。我に何の背くところがあろうか。」と。衆はその言葉に服し、引き去ろうとした。王振は言う、「都統が死ななければ、我々は危うい。」と。ついに彼を害し、二人の子と三大将をも殺した。

詔があり、郭子儀を以て彼に代えさせた。国貞は清廉で法を善く用い、世に能吏と称されたが、部下を統制するのに峻厳であったため、その衆は子儀を得ることを思い、王振はその悪をほしいままにしたのである。子儀が到着すると、王振は自ら恩恵を受けると思ったが、子儀は怒って言う、「汝は賊の境に臨みながら主将を害した。賊もし虚に乗ずれば、これで絳は無くなる。また功を為そうというのか。」と。即座に斬って示しにした。詔して国貞に揚州大都督を追贈した。

子の錡は、独自に伝がある。

孝節の曾孫に暠がいる。幼くして孤となり、母に仕えて孝行であった。初め枝江丞となり、荊州長史の張柬之が言うには、「帝室の宗族の千里駒、我はその人を得た。」と。累進して衛尉少卿に至った。母の喪に服し、柴のように痩せ衰え、喪が明けるまで、家人は一度もその笑い言を見聞きしなかった。兄の昇、弟の暈と仲睦まじくした。

開元の初め、汝州刺史となり、政令は厳しく簡潔で、治績の称えがあった。兄弟が東都から訪ねて来ると、いつも質素な服装で出向き、州人は知る者がなく、その清廉・謹慎ぶりはこのように挙げられた。四度の遷転を経て黄門侍郎となり、検校太原以北諸軍節度使を兼ねた。太原の風俗で浮屠法を行う者は、死んでも葬らず、屍を郊外に棄てて鳥獣に食べさせ、その地を「黄坑」と号していた。数百頭の犬がおり、腐肉を食べるのに慣れ、ひどく人々の患いとなっていたが、役人は敢えて禁じなかった。暠が到着すると、群犬を捕らえて殺させ、禁令を厳しく申し渡し、再犯しないよう約束させ、ついにその風習を改めさせた。二十一年、工部尚書として節を持ち吐蕃に使いし、帰還すると、金城公主が国境を明確にすることを請い、赤嶺上に石碑を立て、盟約は堅く定まった。帰還し、使いを奉じて旨に適ったことを以て、再び遷って吏部尚書となった。

暠は風采が美しく、荘重と称され、当時に宰相の声望があった。累進して太子少傅・武都県伯となった。卒し、益州大都督を追贈された。

暈は太僕少卿に至った。暈の子の進もまた名を知られ、当世の賢士と交遊することを好み、人の急難を救い、累進して給事中に至った。至徳の初め、広平王に従って東征し、工部侍郎として雍王元帥府行軍司馬を兼ねたが、回紇に鞭打たれてほとんど死にかけた。兵部侍郎に遷った。卒し、礼部尚書を追贈された。

孝節の四世孫に説がいる。字は巖甫。父の遇及は、天宝の時に御史中丞・東畿採訪使であった。説は蔭補により率府兵曹参軍となった。馬燧が太原を節度すると、召し出して少尹とし、汾州刺史に遷った。李自良が馬燧に代わると、再び奏して少尹とした。大将の張瑤は兵士の心を得ており、かつて休暇を請うたが許されず、自良が卒すると、説は監軍の王定遠と共にその喪を秘し、先に張瑤に休暇を与え、毛朝陽を以て彼に代え、その後で喪を告げた。詔して通王を節度大使とし、説を行軍司馬・節度留後に任じた。

定遠は自ら説に功労があったと思い、甚だ横暴に振る舞い、別に印を賜ることを請うた。監軍に印があるのは定遠から始まった。そこで勝手に官吏を補任し、諸将を更迭した。彭令茵という者は、長く労苦して服さず、定遠は怒ってこれを殺し、馬の糞の中に埋めた。その家族が屍体を請うたが許さず、全軍が怨んだ。説はこの事を上奏し、徳宗は奉天扈従の功績を以て、死罪を恕して官を免じた。詔が未だ到らぬうちに、定遠は説を刺殺しようと謀り、説は逃れて難を免れた。定遠は諸将を召集し、箱の中から詔書を出して欺いて言うには、「詔により李景略が留後を執り、説を召還する。公ら皆に除目がある。」と。諸将が拝礼しようとした時、大将の馬良輔が叫んで言う、「妄言である。受けられぬ。」と。定遠は恐れ、乾陽楼に走り、麾下を召集したが皆来ず、自ら飛び降りて死んだ。説は同謀者を全て斬り、ようやく安定させた。説を抜擢して検校礼部尚書・節度使とした。累封して隴西県男となった。

説は職務に精励し、天成軍を築き、辺備を充実させた。晩年に病に罹り、職務を執ることができず、軍はほとんど乱れた。卒し、尚書右僕射を追贈された。

斉物は字を道用という。天宝の初め、累進して陝州刺史に至った。砥柱を開き、漕路を通じ、重い石を掘り下げると、古い鉄戟が鋤のようになって現れ、銘に「平陸」とあった。これを献上すると、詔してこれによって県名とした。河南尹に遷り、李適之と親善したことで罪に坐し、竟陵太守に貶された。還され、京兆尹、太子太傅、兼宗正卿となった。卒し、太子太師を追贈された。性格は苛察で恩恵に乏しく、人の私事を暴くのを好んだが、清廉を自ら喜び、吏は敢えて欺く者はいなかった。陝尉の裴冕に憤り、枷をかけて折辱したが、裴冕が国政を執ると、斉物を太子賓客に任じ、世は裴冕が怨みを減ずることができたと善しとした。

子は復。

復は字を初陽と為し、蔭によりて仕え、累ねて江陵司録参軍と為る。衛伯玉これを才とし、江陵令に表す。少尹に遷り、饒・蘇二州刺史を歴任す。李希烈叛き、荊南節度使張伯儀数たび賊に窘しめらる。朝廷は復が江陵に在りて士心を得たるを以て、即ち母喪を奪いて少尹と為し、行軍司馬を充て、伯儀を輔佐せしむ。会に伯儀罷めらる。容州刺史に改め、兼ねて本管招討使と為る。是に先立ち、西原乱れ、吏は反者を獲て奴婢に没し、長く之を役す。復至りて、親戚を訪わしめ、一皆原きて縦す。容に在ること三年、人以て安んずるを頼む。嶺南節度使に転ず。時に安南経略使高正平・張応相継いで卒す。其の佐李元度・胡懐義等、兵を阻みて州県を脅し、奸贓を肆にするに因る。復至りて、懐義を誘いて杖死せしめ、元度を流す。南裔粛然たり。民を教えて陶瓦を作らしめ、蛮獠を鐫諭し、瓊州を収め、都督府を置き、以て其の人を綏定す。召されて宗正卿を拝す。華州刺史を歴任す。貞元十年、鄭滑節度使李融卒し、軍乱る。復を以て検校兵部尚書と為し、融に代わりて節度す。復下令して営田を墾きて以て其の軍に稟し、而して賦は民に及ばず。衆悦ぶ。検校尚書右僕射を加う。卒す。年五十九。司空を贈られ、謚して昭と曰う。復は方鎮を更め、所在治まりを称せらる。然れども頗る財を嗜み、世に譏らる。

従父若水は、左金吾大将軍、兼通事舎人と為り、容貌瑰偉、朝に在ること三十年、旧儀を多く識り、毎に宣労揖賛するに、進止閑華、観るべき者有り。

襄邑恭王神符は字を神符と為し、少くして孤となり、兄に事えて謹み。高祖兵を興す。神符は長安に留まり、衛文昇に囚われらる。京師平らぎ、安吉郡公に封ぜらる。帝禅を受く。例にて王と為る。へい州総管に遷る。

頡利可汗辺を盗む。神符と汾東に戦い、級五百を斬り、馬二千を獲る。又た沙河に戦い、乙利達官を獲、可汗の乗る馬及び鎧を得る。召されて太府卿と為る。揚州大都督に遷る。丹楊より江を渡り、隋の江都故郡を治む。揚人之を利す。然れども少く威厳有り、下の畏るる所と為らず。累ねて宗正卿に擢でらる。足不良を以て光禄大夫に改め、第に帰り、月に羊酒を給す。太宗第に就きて尉問し、又た小輿に乗じて紫微殿に入ることを令し、三衛輿を挟みて以て升らしむ。開府儀同三司に遷る。永徽二年薨ず。年七十三。司空・荊州都督を贈られ、献陵に陪葬す。

子七人、並びに郡王に爵し、例にて公に降る。惟だ徳懋・文暕知名なり。徳懋は、官は少府監・臨川郡公。五世の孫は従晦。文暕は、幽州都督・魏国公。垂拱中、累に坐して藤州別駕に貶せられ、誅せらる。子は挺・捷。捷は封を襲ぐ。挺の曾孫は程。捷の曾孫は石。別に伝す。

従晦の祖は模、至徳中に仕えて猗氏令と為る。史思明洛陽を陥す。賊帥諸県を掠む。模衆を率いて拒ぎて之を平らぐ。稍く遷りて黔中観察使と為る。終に太子賓客、太子太保を贈られ、謚して敬と曰う。

従晦は宝暦初め進士第に及び、累ねて太常博士に擢でらる。甘露の禍に、御史中丞李孝本誅せらる。従晦は族昆弟を以て郎州司戸参軍に貶せらる。澶王府諮議に改め、東都に分司す。忌む者重ねて前の坐を発し、下って亳州司馬に遷す。久しくして乃ち転じて吏部郎中、兼侍御史、知雑事と為る。出でて常州刺史、鎮海軍節度使と為る。李琢其の政を表し、金紫を賜う。京兆尹・工部侍郎・山南西道節度使を歴任す。又以て最を以て銀青光禄大夫に進む。卒す。年六十三。吏部尚書を贈らる。

従晦は姿質偉岸、至る所に風力を以て聞こゆ。少くして崔亀従・李景譲・裴休と善し。後進を奨目し、人を知る名有り。楊收方に布衣たり。進謁す。従晦一見して雅識の如く、即ち公輔を以て待つ。後果たして宰相と為る。

世祖の子

世祖四子:長は澄と曰い、次は湛、次は洪、次は高祖神堯皇帝。

梁王澄は、蚤く薨ず。嗣無し。武徳初め、二王と同く追封せらる。

蜀王湛は、子に博義・奉慈を生む。

隴西恭王博義は、武徳初め、奉慈と例にて王と為る。高宗の時、累ねて礼部尚書に擢でらる。特進。驕侈にして法度に循わず、伎妾数百、羅紈を曳き、粱肉を甘んじ、声楽に放ちて以て自ら娯しむ。其の弟奉慈も亦た荒縱、皆帝に鄙まらる。嘗て曰く、「吾が仇人に善有りて且つ之を用う、況んや親戚をや。王等は小人に昵し、専ら不軌を為す。先王の墳典を学ぶを聞かず、何を以て善と為さんや」と。各市書の絹二百疋を賜い、以て之を愧切す。然れども自ら克つ能わず。薨ず。開府儀同三司・荊州都督を贈らる。

渤海敬王奉慈は、顕慶の時、原州都督と為り、薨ず。

七世の孫に戡あり。

戡は字を定臣といい、幼くして孤となれり。十歳ばかりの時よりすでに学を好み、大寒の折には薪を掻き集めて自ら炙り、夜には灯油なくとも黙して記したる所を念ず。三十歳にして『六経』に通じ、進士に挙げられ、礼部の試に就くも、吏が名を唱えて初めて入るを恥じ、翌日、まっすぐに江東に帰り、陽羨の里に隠棲す。陽羨の民に争い決せざるものあれば、官に至らずして戡に詣りて弁ず。凡そ論著数百篇あり。常に元和の元稹・白居易の詩を憎み、多くは繊艷にして不逞なるを以て、世競ってこれを重んずるを悪む。乃ち詩人の類いで古に法る者を集め、断じて唐詩と為し、以てその失を譏り正すと云う。平盧節度使王彦威、表して巡官と為し、府の遷転に従い、洛陽に還りて卒す。

【贊】

贊に曰く、景皇帝・元皇帝の子孫は、草昧の初めに当たり、運に乗じて奮い起こり、高祖が四方を攘除せんとする時、力を宣べたる所は、皆顕々として世の豪英たり。河間王の功、江夏郡王の略に至っては、宗室の標的と謂うべき者なり。

初め、唐興りてより、疏属は皆王と為るも、太宗に至りて、稍々封を降す。時に天下既に定まり、帝は名臣蕭瑀等と喟然として封建の事を講じ、三代の隆盛に比せんと欲すれども、魏徴・李百薬は皆然らずと謂う。徴の意は、唐が大乱を承け、民人凋喪し、始めて生業を復するに、遽かに起ちてこれを瓜分せんとする故に、五不可の説あり。百薬は帝王自ら命あり、歴祚の短長は封建に縁らずと称し、又春秋二百四十二年の禍を挙げ、哀帝・平帝・桓帝・霊帝の時に於いて亟しとし、曹元首・陸士衡の言を詆して繆悠と為す。而して顔師古独り諸侯を建つるを議し、その力を少なくし、州県と雑治して、以て相維持すべしとす。然れども天子是に由りて罷め、復た議せず。

名儒劉秩に至りて、武氏の禍を目するに、則ち論を建てて、爵を設けて土なく、官を署して職せざるは、古の道に非ず、故に権は外家に移り、宗廟絶えて更に存すと為す。これを存するの理は、順を取って逆に難きに在り;これを絶つ原は、単弱にして憚る所無きに在りと。郡県は以て小寧すべくも、久安すべからずと謂うに至る。大抵曹・陸の説と上下す。而して杜佑・柳宗元は深くその本を探り、古に拠り今を験し、反復す。

佑の言に曰く、「人為に君を置くは、その蕃息せんことを欲すれば則ち郡県に在り、然れども主の胙は常に促し;君為に人を置くは、その寡なるを病まざれば則ち建国に在り、然れども主の胙は常に永し。故に曰く、建国は一宗に利あり、列郡は百姓に利あり。且つ法を立つるに未だ敝れざる無き者なく、聖人はその患の長短を度りてこれを為す。建国の制は、初め磐石の若く、然れども敝るれば則ち鼎峙して力争い、陵遲して後已む、故に患と為すこと長し。列郡の制は、始め天下一軌、敝るれば則ち世崩れて俱に潰ゆ、然れども戡定する者は功を為し易し、故にその患と為すこと短し」と。又謂く、「三王以来、未だ郡県の利を見ず、為さざるに非ず、後世の諸儒古に泥りて強いて之を説くは、非なり」と。

宗元曰く、「封建は聖人の意に非ず、然れども堯・舜・三王を歴て之を去ること能わず、之を去らんと欲せざるに非ず、勢不可なり。秦は六国を破り、都会を列ね、守宰を置き、天下の図に据わり、四海を摂制す、此れその得る所なり。二世にして亡ぶ、由あり。威刑を暴にし、人力を竭し、天下相合し、令を劫し守を殺し、圜視して並び起つ、時に則ち叛民有りて、叛吏無し。漢は秦の枉を矯め、海内を剖ち、宗子功臣を立て、数十年の間奔命扶傷して給わず、時に則ち叛国有りて、叛郡無し。唐興り、州県を制すれども、桀黠時として起る、失は州に在らずして兵に在り、時に則ち叛将有りて、叛州無し」と。以て「之を矯めて革むること、二百年を垂るるも、諸侯に在らざること明らかなり」と為す。又言く「湯の興るや、諸侯帰する者三千、以て夏に勝つを資とす;武王の興るや、会する者八百、以て商を滅すを資とす。之に徇うて安んずるを故とし、仍って以て俗と為す、是れ湯・武の已むを得ざるなり。已むを得ざるは、公の大なるに非ず、その力を己に私するなり。秦の之を革むる者は、その制と為す、公の大なる者なり;その情は、私なり。然れども天下を公にするの端は秦より始まる」と云う。

諸儒の言を観るに、誠に然り。然れども侯を建て守を置くことは、質文の救いを遞するが如く、一概に責むべからず。土崩の難を救うには、諸侯を建つるに如かず;尾大の勢を削ぐには、守宰を置くに如かず。唐に鎮帥有り、古の諸侯に比す。故に王者は救わんとする所を視てこれを為し、敝れに及ばざれば則ち善し。若し乃ち百薬の天命を推し、佑の郡県は百姓に利ありて主の胙は促しと言うは、乃ち臆論なり。