肅宗張庶人
肅宗の廃后庶人張氏は、鄧州向城の人、家は新豊に移った。祖母の竇氏は、昭成皇后の妹である。玄宗は幼くして昭成を失い、母として姨を視て、養育慈愛篤く備わった。帝即位すると、鄧國夫人に封じられ、親寵比類なきものあり。五人の息子あり、去惑・去疑・去奢・去逸・去盈と曰い、皆顕官となった。去盈は常芬公主を尚した。去逸が后を生んだ。
肅宗が忠王であった時、韋元珪の女を孺人として納れた。太子に立てられて後、孺人を妃とし、后は良娣となった。妃の兄の堅が李林甫に陥れられて死すと、太子は懼れ、妃と絶つことを請い、喪服を毀ちて宮中に幽閉された。安祿山が反し、賊に陥ち、至徳年中に薨じた。
初め、妃が絶たれて後、良娣は専ら太子に侍することができ、聡明にして弁があり、意を迎え傅け合わせることができた。玄宗が西幸するに及び、娣は太子に従い、渭を渡り、民が道を遮って留まり長安を復することを乞うたが、太子は聴かなかった。中人李輔國が密かに啓し、娣もまたその謀を賛し、遂に計を定めて北に霊武に向かった。時に軍衛は単寡で、夕べに宿営すれば、娣は必ず前に寝た。太子曰く「暮夜は虞るべく、且つ賊を捍ぐは婦人の事に非ず、宜しく少しく戒むべし」と。対えて曰く「方に事多し、若し倉卒の事あらば、妾自ら之に当たるべく、殿下は徐やかに計らうべし」と。霊武に駐まり、子を産むこと三日にして、起ちて戦士の衣を縫う。太子は止むを敕したが、対えて曰く「今豈に自ら養う時ならんや」と。乾元初年、冊して淑妃と為し、其の父に尚書左仆射を贈り、姊妹は皆封号を賜わり、弟の清・潜は大寧・延和二郡主を尚した。遂に立って皇后と為し、詔して内外の命婦をして悉く光順門に朝せしむ。
肅宗章敬吳皇后
肅宗章敬皇后呉氏は、濮州濮陽の人。父は令珪、郫丞として事に坐して死す。故に后は幼くして掖廷に入る。
肅宗、東宮に在りし時、宰相李林甫陰に不測を構う。太子内に憂え、鬢髮班禿す。后入りて謁す。玄宗見て悦ばず。因りて其の宮に幸す。廷宇の汛掃せざるを顧み、楽器塵蠹し、左右に嬪侍無きを見て、帝は愀然として高力士に謂いて曰く「児の居処乃ち爾の如し。将軍は我をして知らしむることを得んや」と。詔して京兆の良家の子五人を選びて太子に虞侍せしむ。力士曰く「京兆の料択は、人藉口を得べし。掖廷の衣冠の子を取るに如かず。可ならんや」と。詔して可とす。三人を得て、而して后其の中に在り。因りて幸を蒙る。忽ち寝て厭れ覚めず。太子之を問う。辞して曰く「夢に神我に降り、介して剣を帯び、我が脅を決して入る。殆ど堪え難し」と。燭至れば、其の文尚ほ隠然たり。代宗を生む。嫡皇孫と為る。生まるること三日、帝臨みて之を澡う。孫の体攣弱なり。負姆醜陋を嫌い、更に他宮の児を取って進む。帝之を視て楽しまず。姆叩頭して是に非ずと言う。帝曰く「爾の知る所に非ず。趣く児を取って来たれ」と。ここに於いて嫡孫を見る。帝大いに喜び、日に向かって之を視て曰く「福其の父を過ぐ」と。帝還り、内楽の宴具を尽く留め、力士を顧みて曰く「太子と飲むべし。一日に三天子を見る。楽しいかな」と。
后の性謙柔なり。太子之を礼すること厚し。年十八にして薨ず。代宗即位す。群臣請うて后を以て肅宗廟に祔せんことを。乃ち追尊して皇后と為し、謚を上り、建陵に合葬す。故窆を啓くに、貌は沢いこと生けるが若く、衣は皆赭色なり。見る者嘆異し、聖子の符有りと謂う。
代宗貞懿獨孤皇后
代宗貞懿皇后獨孤氏は、其の何れの所の人なるかを失う。父は穎、左威衛録事参軍。
天宝中、帝広平王たりし時、貴妃楊氏の外家は戚裏に貴び冠たり。秘書少監崔峋の妻韓國夫人、其の女を以て皇孫に女せしめて妃と為す。妃は子の偲を生む。所謂召王と謂う者なり。妃は母家に倚り、頗る騎媢す。諸楊誅さるるに及び、礼次第に薄し。及び薨ず。后は姝艷を以て進み、居常に専夜す。王即位し、冊して貴妃と為し、韓王回・華陽公主を生む。
代宗睿真沈皇后
代宗睿真皇后沈氏は、呉興の人である。開元の末、良家の子として東宮に入り、太子が広平王に賜い、実に徳宗を生んだ。
天宝の乱に、賊は后を東都掖廷に囚う。王が洛に入り、再び宮中に留まる。時に方に北討し、未だ長安に帰らず、而して河南は史思明に没せられ、遂に后の所在を失う。代宗立ち、徳宗を皇太子と為し、詔して后の在亡を訪うも、得ること能わず。
徳宗即位し、乃ち先に詔を下し后の曾祖父士衡を太保に、祖父介福を太傅に、父易直を太師に、弟易良を司空に、易直の子震を太尉に贈る。一日に百二十七人を封拜し、詔制は皆錦翠を以て池飾し、廄馬を以て負載し其の家に賜う。易良の妻崔入謁す、帝は服を易え、王・韋美人を召し出でて拝せしめ、詔して崔に答へざらしむ。
故中官高力士の女は頗る能く禁中の事を言ひ、女官李真一と嘗て后に従ひ遊ぶ。李は高を見て、疑ひて之を問ふ、含糊にして堅からず、而して年状は后に差似す。又后は嘗て脯を削りて帝に哺し、左指を傷つけ、高も亦嘗て瓜を剖きて指を傷つく。是の時宮中に后を識る者無し。是に於て上陽宮に迎へ還し、馳せて以て聞す。帝喜び、群臣皆賀す。力士の子は是に非ざるを知り、具に其の情を言ふ、詔して之を貸す。帝左右に謂ひて曰く、「吾は寧ろ百の罔を受け、冀くは一の真を得ん」と。是に於て自ら太后と謂ふ者数矣、及んで左を索め験ふるに、皆辞窮し、終に帝の世に聞ゆる無し。貞元七年、詔して外高祖琳を司徒に贈り、徐国公に封じ、為に五廟を立て、琳を以て始祖と為し、詔して族子房を金吾将軍と為し、其の祀を奉らしむ。
憲宗即位し、有司建言す、「皇太后沈氏厭代二十有七年、大行皇帝至孝、哀思罔極、建中時、明詔を発し、使者を遣はし奉迎す、凡そ舟車の至る所逮はざる無く、歳推し月遷り、参訪理絶す。請ふ大行皇帝の啓殯に因り、詔して群臣をして皇太后の為に発哀し肅章を内殿にし、中人をして廞衣を奉り幄坐に置かしめ、宮中に朝夕上食し、天地宗廟に告げ、太皇太后の謚冊を上り、神主を作り代宗廟に祔し、法駕を備へ、袆衣を奉り、元陵祠至に納れん」と。詔して曰く「可」と。
徳宗昭徳王皇后
徳宗昭徳皇后王氏は、本仕家なり、其の譜系を失ふ。帝魯王たりし時嬪として納れ、順宗を生み、尤も寵礼を見る。既に即位し、冊して淑妃と号し、其の父遇を揚州大都督に贈り、子姓姻出悉く官を得しむ。
徳宗韋賢妃
徳宗賢妃韋氏は、戚裏の旧族なり。祖父濯は、定安公主を尚ふ。初め良娣と為り、徳宗貞元四年、冊して賢妃に拝す。宮壺の事聴かざる無く、而して性敏淑、言動皆繩矩有り、帝寵重し之を、後宮其の行を師とせざる無し。帝崩じ、自ら表して留まり崇陵園を奉ぜんことを請ふ。元和四年薨ず。
順宗莊憲王皇后
后は謹み畏れて、外戚を深く抑え、毫釐の仮借もなく、内職を訓戒し、古の后妃の風有り。十一年に崩じ、年五十四。遺令して曰く、「皇太后敬んで具位に問う。万物の理、必ず有極に帰す。未亡人霜露の疾に嬰り、日に衰頓す。天年を終うるを幸いし、陵寢に奉ずるを得、志願獲たり、何ぞ哀しむ所あらんや。易月の典、古今の共にするところ。皇帝は宜しく三日政を聴き、服二十七日にして釋すべし。天下の吏民、令到りて三日に臨みて止むべし。宮中にて朝暮の臨に非ざれば、輒ち哭くこと無かれ。昏嫁・祠祀・飲食酒肉を禁ずること無かれ。服已に釋せば、楽を挙ぐるを聴せよ。侍醫に罪を加うること無かれ。陪祔は旧制の如くせよ。」と。有司謚を上り、豐陵に葬る。
憲宗懿安郭皇后
穆宗位を嗣ぎ、上尊號して皇太后とし、曖に太尉を贈り、母に齊國大長公主を贈り、兄釗を擢て刑部尚書とし、鏦を金吾大將軍とす。后興慶宮に移禦し、凡そ朔望三朝には、帝百官を率いて宮門に詣で壽を為す。或いは歳時の慶問燕饗には、後宮戚裏内外の婦、車騎駢壅し、環佩の聲宮に満つ。帝亦豪矜にして、朝夕供禦し、務めて華衍侈大にして后の意に称す。后嘗て驪山に幸し、登覽裴回す。詔して景王に禁甲を督して従わしめ、帝自ら昭應に到り奉迎し、帳に留まり数日飲みて還る。帝崩ず。中人后の為に制を称せんと謀る者有り。后怒りて曰く、「吾武氏に效わんや。今太子幼しと雖も、尚ほ重德を選びて輔と為すべし。吾何ぞ外事にかかわらんや」と。
敬宗立ち、號して太皇太后とす。寶歷倉卒の際、后江王を召して皇帝の位を嗣がしめ、是を文宗と為す。文宗性謹孝にして、后に事うるに礼有り。凡そ羞果鮮珍及び四方の奇奉、必ず先ず宗廟・三宮に献じ、而して後之に禦す。
武宗畋遊を喜び、角武抃し、五坊の小兒を択びて禁中に出入りするを得しむ。它日后の起居を問う。従容として請うて曰く、「如何にして盛んなる天子と為すべけんや」と。后曰く、「諫臣の章疏宜しく審覧すべし。度り可用なれば之を用い、不可なれば、以て宰相に詢うべし。直言を拒むこと無かれ、偏言を納るる勿れ。忠良を以て腹心と為せ。此れ盛んなる天子なり」と。帝再拝し、還りて諫章を索め閲す。往々遊獵の事を道う。是より畋幸稀なり。小兒武抃等復た横賜せられず。
宣宗立ち。后に於いては諸子なり。而して母鄭は故に侍兒にして、曩怨有り。帝奉養の礼稍薄く、后郁郁聊えず、一二の侍人とともに勤政樓に登り、将に自ら隕らんとす。左右共に之を持す。帝聞きて喜ばず。是の夕后暴崩す。有司尊謚を上り、景陵の外園に葬る。太常官王暤后の景陵に合葬し、以て主を憲宗室に祔せんことを請う。帝悦ばず、宰相白敏中に令して之を譲らしむ。暤曰く、「后は乃ち憲宗東宮の元妃、順宗に事えて婦と為り、五朝を歴て天下の母たり。異論を容るべからず」と。敏中亦怒る。周墀又責して謂う。暤終に橈まず。墀曰く、「暤信に孤直なり」と。俄に暤を貶して句容令とす。懿宗咸通の中、暤還りて礼官と為り、前論を申抗す。乃ち詔して后の主を廟に祔す。
憲宗孝明鄭皇后
憲宗孝明皇后鄭氏は、丹楊の人。或いは言う、本爾硃氏なりと。元和の初、李锜反す。相者有りて言う、后当に天子を生ずべしと。锜聞き、納れて侍人と為す。锜誅され、掖廷に没入し、懿安后に侍る。憲宗之に幸し、宣宗を生む。宣宗光王たりし時、后は王太妃と為る。即位に及び、尊びて皇太后と為す。太后別処を肯ぜず。故に帝奉養して大明宮にし、朝夕躬自ら省候す。
穆宗恭僖王皇后
穆宗恭僖皇后王氏は、越州の人。本仕家の子なり。幼くして帝東宮に侍るを得、敬宗を生む。長慶の時、冊されて妃と為る。敬宗立ち、上尊號して皇太后と為し、后の父紹卿に司空を贈り、母張を追封して趙國夫人と為す。文宗の時、寶歷太后と称す。大和五年、宰相建白して、太皇太后と寶歷太后の稱號未だ辨ぜず、前代の詔令敢えて斥言せず、皆宮を以て稱と為す。今寶歷太后義安殿に居す。宜しく義安太后と曰うべしと。詔して可とす。會昌五年崩ず。有司謚を上り、光陵東園に葬る。
穆宗貞獻蕭皇后
穆宗貞獻皇后蕭氏は、閩の人なり。穆宗建安王たりし時、后侍るを得、文宗を生む。文宗立ち、上尊號して皇太后と曰う。
初め、后家を去りて長安に入り、復た家の存亡を知らず。惟だ弟有るを記す。帝之を訪わしむ。俄に男子蕭洪、后の姊婿呂璋に因りて白し之を見る。太后真の弟を得たりと謂い、悲しみ自ら勝えず。帝洪を拝して金吾將軍と為し、出でて河陽三城節度使と為し、稍々坊州に徙す。始め、節度神策より出づる者は、挙軍装を辨し、因りて三倍償いを取る。洪の代わる所未だ償わざるに及びて死す。軍中並びに償いを洪に責む。洪許さず。左軍中尉仇士良之を憾む。會うて閩に男子蕭本有り、又太后の弟と称す。士良以て聞く。坊より洪を召し下獄して按治せしむ。洪乃ち人に代わる。詔して驩州に流す。半道に至らずして賜死す。本を擢て贊善大夫と為し、寵贈三世に及び、帝真なりと以為す。淹うること旬ならずして賜うこと累鉅萬。然れども太后の真の弟庸軟にして自ら達する能わず。本紿して其の家系を得、士良之を主とす。遂に聽いて疑わず。衛尉卿・金吾將軍を歴る。會うて福建觀察使唐扶上言す。泉州男子蕭弘自ら太后の弟と言う。御史臺参治して是に非ず。昭義劉從諫又為に言し、本と辨ぜんことを請う。詔有りて三司高元裕・孫簡・崔郇雑問す。乃ち皆妄りなり。本は愛州に流し、弘は儋州に流す。而して太后終に弟を得ず。
初め、大和年間、懿安太后は興慶宮に、寶歷太后は義安殿に、皇后は大内に居し、『三宮太后』と号した。帝は毎五日ごとに安否を問い、また歳時の慶賀謁見には、必ず複道を経て南内に至り、群臣及び命婦は宮門に詣でて起居を伺った。有司が四時の新物を献じて三宮に送る時も、『賜』と称したが、帝は言う、「上三宮に、どうして『賜』と言えようか」と。急いで筆を求め『賜』を『奉』と改めた。開成年間、正月十五夜、帝は鹹泰殿に御し、大いに灯を燃やし音楽を奏し、三宮太后を迎え、杯を捧げて寿を進め、礼は家人の如く、諸王・公主皆侍することができた。
穆宗宣懿韋皇后
穆宗宣懿皇后韋氏、その先世は失われる。穆宗が太子の時、后は侍うを得、武宗を生んだ。長慶の時、冊立されて妃となった。
武宗が立つと、妃は既に亡く、追冊して皇太后とし、尊謚を上り、また后の二人の妹を夫人に封じた。有司が奏上して言う、「太后の陵は別に号を制すべきです」と。帝は乃ち葬る所の園を福陵と名付けた。既にしてまた宰相に問う、「光陵に従って葬るのと、ただ廟に祔するのと、どちらが安らかか」と。奏して言う、「神道は静を安しとし、光陵は山に因って固く、且つ二十年、更に穿つべからず。福陵は既に築く所あり、当に遂に就くべし。臣等は主を奉じて穆宗廟に祔するのを請う」と。帝は乃ち詔を下す、「朕は誕日に因り太皇太后に礼を展べし時、朕に謂いて言う、『天子の孝、継承に大なるは莫し』と。今穆宗皇帝は合享の位虚しく、而して宣懿太后は実に嗣君を生みし、当に廟に祔すべし」と。これにより后を奉じて穆宗室に合食した。
宋若昭
尚宮宋若昭、貝州清陽の人、代々儒をもって聞こえる。父は廷芬、辞章に能く、五女を生み、皆聡明で、文を属するに善くした。長は若莘、次は若昭・若倫・若憲・若荀。莘・昭の文は特に高し。皆性素より潔く、薰澤靚妝を鄙み、人に嫁ぐを願わず、学をもって家を名づけんと欲し、家も亦寒郷凡裔と姻対するを欲せず、その学ぶに任せた。若莘は諸妹を教うること厳師の如く、『女論語』十篇を著し、大抵『論語』に準じ、韋宣文君をもって孔子に代え、曹大家等を顔・冉となし、婦道の宜き所を推明した。若昭は又伝を為してこれを申釈した。
元和末、若莘卒す、河内郡君を贈られた。貞元七年より、秘禁の図籍を、詔して若莘に総領せしめ、穆宗は若昭の特に通練なるを以て、尚宮に拝し、若莘の職する所を嗣がせた。憲・穆・敬の三朝に歴り、皆先生と呼び、後妃と諸王・主は率ね師礼をもって見えた。宝暦初めに卒し、梁国夫人を贈り、鹵簿をもって葬った。
若憲は代わって秘書を司り、文宗は学を尚び、若憲の辞を属するに善く、議論の粹なるを以て、特に礼した。大和年間、李訓・鄭注が事を用い、宰相李宗閔を憎み、讒言して駙馬都尉沈〓が厚く若憲に賂して執政を求むと。帝怒り、若憲を外第に幽し、死を賜い、家属は嶺南に徙された。訓・注敗れると、帝その讒を悟り、恨みを追った。若倫・若荀は早く卒す。廷芬の男は独り愚にして教うべからず、民として終身を過ごした。
敬宗郭貴妃
敬宗貴妃郭氏、右威衛将軍義の子、義が何所の人なるかは失われる。長慶の時、后は容姿により選ばれて太子宮に入った。太子即位し、才人となり、晋王普を生んだ。帝は早く子を得、又淑麗にして後廷に冠たるを以て、故に寵異した。一年を逾え、貴妃となり、義に礼部尚書を贈り、兄の環は少府少監とし、大第を賜う。文宗立つ、晋王を愛すること己が子の如く、妃を待つ礼衰えず。その薨年は亡い。
武宗王賢妃
武宗賢妃王氏、邯鄲の人、その世は失われる。年十三、歌舞に善く、宮中に入るを得た。穆宗は以て潁王に賜う。性機悟なり。開成末、王帝位を嗣ぎ、妃は陰に助画を為し、故に才人に進号し、遂に寵有り。状は纖頎にして、頗る帝に類す。毎に苑中に畋する時、才人は必ず従い、袍して騎り、校服光侈にして、略ね至尊と同じく、相与に馳せ出入りし、観る者孰れが帝なるかを知る者なし。帝は立后せんと欲す、宰相李徳裕曰く、「才人は子無く、且つ家素より顕れず、恐らく天下の議を詒す」と。乃ち止む。
帝は稍々方士の説に惑い、薬を餌して長年ならんと欲し、後には臥して豫せず。才人は毎に親近に謂いて曰く、「陛下日々丹を燎き、我れ不死を取ると言う。膚澤消槁す、吾独り之を憂う」と。俄にして疾侵し、才人は左右に侍す、帝熟視して曰く、「吾が気奄奄たり、情慮耗盡す、顧みて汝と辞せん」と。答えて曰く、「陛下の大福未だ艾せず、安んぞ不祥を語る」と。帝曰く、「脱し我が言の如くならば、奈何」と。対えて曰く、「陛下万歳の後、妾は以て殉ずるを得ん」と。帝復た言わず。及び大漸す、才人は悉く常に貯うる所のものを取り散らして宮中に遺し、審らかに帝既に崩ずるや、即ち自ら経して幄の下に死す。当時嬪媛は常に才人の上に専らなるを妬みし者も、返って皆才人の義を感じ、之がために感動せり。宣宗即位し、その節を嘉し、賢妃を贈り、端陵の柏城に葬った。
宣宗元昭晁皇后
宣宗の元昭皇后晁氏、その家系は詳らかでない。年少にして邸に入り、最も寵愛を受けた。即位すると、美人とした。大中年間に薨じ、昭容を追贈し、詔して翰林学士蕭寘にその墓誌銘を撰せしめ、生んだ鄆王・万寿公主のことを詳しく載せた。後に夔王・昭王ら五王は内院に居たが、鄆王のみ出閣していた。即位すると、これが懿宗である。外間では帝が長子でないことを疑う者が多かった。蕭寘が銘文を外廷に示して、ようやく疑いは解けた。帝は昭容を追冊して皇太后とし、尊謚を上り、詔して后の二等親以上を悉く官に就け、宣宗廟に配祀し、建陵を慶陵と改め、宮寢を置いた。
懿宗惠安王皇后
懿宗の惠安皇后王氏、その来歴もまた失われている。咸通年間に、貴妃の号を冊立され、普王を生んだ。七年に薨じた。十四年、普王が即位し、これが僖宗である。皇太后を追尊し、謚号を冊上し、懿宗廟に祔祀し、その園を寿陵とした。后の緦麻以上の親族を、帝は悉く官に就けた。
懿宗郭淑妃
懿宗の淑妃郭氏、幼くして鄆王の邸に入った。宣宗が在位し、年齢が高く、人に太子を立てることを言われるのを嫌った。王は嫡長として外宮に居たが、心に常に憂い慄いていた。妃は左右に侍護し、起居を慰安し、ついに無事を得た。生んだ女が未だ言葉を話せぬうちに、突然「生き延びる」と言った。王は驚き怪しんだ。即位すると、妃を美人とし、進めて淑妃に拝した。
娘は同昌公主となり、韋保衡に降嫁した。保衡は内宅に居し、妃は公主の縁故により、出入りし遊宴飲酒を禁じられず、この時、妃が保衡と淫乱したとの喧しい噂があったが、その端緒を得る者はなかった。僖宗が立つと、保衡は他の罪により人に発覚し、かつ旧い誹謗に汚され、ついに貶死した。妃はなお禁中に居た。黄巢の難に、天子が蜀に出奔するに倉卒であり、妃は従うことが及ばず、遂に閭裏に流落し、その終わりを知らない。
懿宗恭憲王皇后
懿宗の恭憲皇后王氏、その出自は甚だ微賤である。咸通年間に後宮に列し、寵幸を得て、寿王を生んで卒した。王が立ち、これが昭宗である。皇太后を追号し、謚を上り、懿宗廟室に祔祀し、故葬を安陵と号し、后の弟の王瓌を召して官に就けた。
景福の初め、王瓌の位任は次第に重くなり、帝もまた外家としてこれを倚り頼み、中尉楊復恭に妬まれ、表して黔南節度使とした。王瓌が鎮に赴く途、吉柏江を過ぎる時、復恭は密かに楊守亮に命じてその家族を覆滅させた。
昭宗何皇后
昭宗の皇后何氏、梓州の人、家系は顕れない。帝が寿王であった時、后は侍することができ、婉麗で智謀多く、恩寵は甚だ厚かった。即位すると、淑妃と号した。華州に狩り従い、詔して冊立して皇后とした。
天復年中、帝に従って鳳翔に駐蹕し、李茂貞が帝に軍を労わることを請うた。已むなく、后は従って南楼に御した。時に朱全忠が帝を逼って東遷せしめ、后は帝に謂って「これより後、大家夫婦は賊の手に身を委ねましょう」と言い、涙を数行流した。帝は奔播すること既に屡々で、威柄は尽く喪われ、左右は皆悍逆な庸奴であったが、后は膳服に侍し、須臾も側を離れなかった。洛陽に至り、帝は憂い、忽ちとして后と相視みて死する所無きに至った。已にして弑逆に遇った。
哀帝が即位し、皇太后と尊んだ。宮中では敢えて哭することができず、積善宮に徙居し、積善太后と号した。帝が天下を禅譲せんとする時、后もまた害に遇った。初め、蔣玄暉が全忠のために九錫を邀え、入って諭すと、后は免れ難いと度り、玄暉を見て涙を垂れ哀れみを祈り、母子の命を托した。宣徽使趙殷衡が全忠に讒して「玄暉らは石像に銘を刻み積善宮に埋め、唐を復興せんとす」と言う。全忠怒り、遂に后を縊らせ、醜名を加えて、庶人に廃した。