新唐書

巻七十六 列傳第一 后妃上

巻七十六 列傳第一 后妃上

唐の制度:皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があり、これが夫人である。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛があり、これが九嬪である。婕妤・美人・才人が各九人、合わせて二十七人、これが世婦に代わる。宝林・御女・采女が各二十七人、合わせて八十一人、これが御妻に代わる。その他の六尚は、それぞれ乗輿や服御を分掌し、みな員数と序列がある。後世には改廃が一定しなかった。開元の時、皇后の下に四妃を置くのは正しくないとして、恵妃・麗妃・華妃の三妃、六儀、四美人、七才人を置き、尚宮・尚儀・尚服を各二人とし、前代の号と合わせて、おおむね『周官』に倣い増減したという。かくして尚の制度は古いものである。

原文唐制:皇后而下,有貴妃、淑妃、德妃、賢妃,是為夫人。昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛,是為九嬪。婕妤、美人、才人各九,合二十七,是代世婦。寶林、御女、采女各二十七,合八十一,是代御妻。自餘六尚,分典乘輿服御,皆有員次。後世改復不常。開元時,以後下復有四妃非是,乃置惠、麗、華三妃,六儀,四美人,七才人,而尚宮、尚儀、尚服各二,參合前號,大抵踵《周官》相損益云,然則尚矣。

礼は夫婦を本とし、『詩』は后妃から始まる。治乱はこれによって起こり、興亡はこれにかかわる。盛徳の君主は、帷薄を厳重にし、奥向きの請託が朝廷を乱すことなく、外の言葉が内閨に入ることはない。『関雎』の風が行き渡り、彤史の教化が修まれば、淑やかな範と美しい行いが、さらに内助となる。しかし艶麗な寵姫の出現は、常に中主の時に起こる。床笫の交わりがあれば、情は愛に移り変わり、顔色と言葉が媚び熟すれば、事は私利に奪われる。たやすく昏くなる明を乗じ、断ち切れぬ柔に引かれ、険しい言葉は忠のようであるから受け入れて詰問せず、醜い行いはすでに現れているのに、かえって慣れて良しとする。左右はこれに附き、邪佞の輩はこれを唆す。狡知に富む謀略が悟りを先んじて封じ、哀切な誓いが寵愛の初めに門を閉ざす。天下の事はすでに去ったのに、平然として自覚しない。これが武后・韋后がついに簒奪弑逆を遂げて王室を喪うに至った所以である。楊貴妃の未だ死なざるに、玄宗はその謀を乱し、張后が中宮を制して、粛宗はほとんど襟を正すばかりであった。ああ、嘆かわしいことである。中葉以降、時は多く変故あり、外には攻討の労があり、内には溺愛の私情は少なく、群閹が朋党して進み、外戚の勢力は分かれた。后妃に大なる善悪はなく、職位を充たすのみであった。故に列傳を篇に著す。

原文禮本夫婦,《詩》始后妃,治亂因之,興亡係焉。盛德之君,帷薄嚴奧,裏謁不忓於朝,外言不內諸閫,《關雎》之風行,彤史之化修,故淑範懿行,更為內助。若夫艷嬖之興,常在中主。笫裯既交,則情與愛遷;顏辭媚熟,則事為私奪。乘易昏之明,牽不斷之柔,險言似忠,故受而不詰,醜行已效,反狃而為好。左右附之,憸壬惎之,狡謀鉗其悟先,哀誓楗於寵初,天下之事已去,而恬不自覺,此武、韋所以遂篡弒而喪王室也。至於楊氏未死,玄亂厥謀;張后制中,肅幾斂衽。吁,可嘆哉!中葉以降,時多故矣,外有攻討之勤,內寡嬿溺之私,群閹朋進,外戚勢分,后妃無大善惡,取充職位而已,故列著於篇。

高祖太穆順聖皇后

原文高祖太穆順聖皇后

高祖太穆順聖皇后竇氏は、京兆平陵の人である。父の毅は、周において上柱国となり、武帝の姉の襄陽長公主を娶り、隋に入って定州総管・神武公となった。

原文高祖太穆順聖皇后竇氏,京兆平陵人。父毅,在周為上柱國,尚武帝姊襄陽長公主,入隋為定州總管、神武公。

后は生まれると、髪が首を過ぎて垂れ、三歳で身長と同じ長さになった。『女誡』・『列女伝』などを読み、一度読めば忘れなかった。武帝はこれを愛し、宮中で養い、他の甥とは異なった。時に突厥とっけつの女が后となっていたが寵愛がなく、后は密かに諫めて言うには、「わが国は未だ安らかでなく、虜は強盛です。どうか情を抑えて懐柔し、合従を結ばれますように。そうすれば江南・関東はわが国を妨げません」と。武帝は嘉して受け入れた。武帝が崩ずると、哀毀すること実母と同様であった。隋の高祖が禅譲を受けたと聞くと、自ら床の下に身を投げて言うには、「恨むらくは我が男子にあらず、舅家の禍を救うことができぬ」と。毅は急いでその口を掩いで言うには、「妄りに言うな、我が族を赤くするぞ」と。常に主(母の襄陽長公主)に言うには、「この娘は奇相があり、しかも識見が凡ならず、どうして妄りに人に与えられようか」と。そこで二羽の孔雀を屏風に描き、婚を請う者に二矢を射させ、ひそかに目に中れば許すと約束した。射る者は数十人を閲したが、皆合わなかった。高祖が最後に射て、各一目に中てたので、ついに帝に嫁した。

原文后生,髮垂過頸,三歲與身等。讀《女誡》、《列女》等傳,一過輒不忘。武帝愛之,養宮中,異它甥。時突厥女為后,無寵,后密諫曰:「吾國未靖,虜且強,願抑情撫接,以取合從,則江南、關東不吾梗。」武帝嘉納。及崩,哀毀同所生。聞隋高祖受禪,自投床下,曰:「恨我非男子,不能捄舅家禍。」毅遽掩其口,曰:「毋妄言,赤吾族!」常謂主曰:「此女有奇相,且識不凡,何可妄與人?」因畫二孔雀屏間,請昏者使射二矢,陰約中目則許之。射者閱數十,皆不合。高祖最後射,中各一目,遂歸於帝。

初め、元貞太后(高祖の母)は老衰して病があり、性格はもとより厳格で、諸々の嫁(兄嫁たち)は皆畏れて、敢えて侍る者はいなかった。后はこれに仕えて、ただ一人和やかに謹んで孝を尽くし、ある時は一ヶ月も衣履を解がなかった。篇章や規誡を作ることを得意とし、文には雅な体があった。また書を善くし、高祖の書と混ぜると、人は見分けがつかなかった。涿郡で崩じ、年四十五。

原文始,元貞太后羸老有疾,而性素嚴,諸姒娣皆畏,莫敢侍。后事之,獨怡謹盡孝,或淹月不釋衣履。工為篇章規誡,文有雅體。又善書,與高祖書相雜,人不辨也。崩於涿郡,年四十五。

帝(高祖)が煬帝の時に、多くの良馬を飼っていたが、后は見て言うには、「上(煬帝)はこれを好まれます。どうか献上なさいませ。ただ留めておけば罪を速めるだけで、益はありません」と。聞き入れず、間もなく果たして譴責を受けた。帝は後に隋の政が乱れ、多くの妄りな誅殺があるのを見て、自ら安泰を図り、しばしば鷹犬や珍しい駿馬を献上した。煬帝は果たして喜び、将軍の位に抜擢した。そこで泣きながら諸子に言うには、「早く汝らの母の言葉を用いていたなら、この位を得て久しかったであろうに」と。帝が天下を得ると、詔して葬られた園をそのまま寿安陵とし、謚して穆といった。献陵に合葬されるに及び、尊んで太穆皇后とした。

原文帝在煬帝時,多畜善馬,后見曰:「上性樂此,盍以獻?徒留之速罪,無益也。」不聽,頃果坐譴。帝後見隋政亂,多妄誅殛,乃為自安計,數奏鷹犬異駒,煬帝果喜,擢位將軍。因泣謂諸子曰:「早用而母言,得此久矣!」帝有天下,詔即所葬園為壽安陵,謚曰穆。及祔獻陵,尊為太穆皇后。

初め、太宗が生まれた時、二龍の符しるし瑞があり、后は諸子の中で最も篤く愛し顧みた。後に即位し、慶善宮に過ぎると、眺めては哽咽し、侍臣を顧みて言うには、「朕はここに生まれた。今、母后は永遠に別れ、我を育てた徳に報いることができない」と。そこで号泣慟哭し、左右は皆涙を流した。そして正寝で后を祭った。ある日、九成宮に幸し、夢に后が平生の如く現れ、覚めてからは、涙が止まらなかった。翌日、詔して有司に命じ倉を大いに開いて貧窮を賑済させ、后への報いとした。上元年間、謚を加えて太穆神皇后とした。

原文始,太宗生,有二龍之符,后於諸子中愛視最篤。後即位,過慶善宮,覽觀梗欷,顧侍臣曰:「朕生於此,今母后永違,育我之德不可報。」因號慟,左右皆流涕。乃享后於正寢。它日幸九成宮,夢后若平生,既悟,潸然不自勝。明日,詔有司大發倉賑貧瘠,以為后報焉。上元中,益謚太穆神皇后。

太宗文徳長孫皇后

原文太宗文德長孫皇后

太宗文徳順聖皇后長孫氏は、河南洛陽の人である。その先祖は魏の拓跋氏で、後に宗室の長となり、よって長孫と号した。高祖の稚は、大丞相・馮翊王。曾祖の裕は、平原公。祖の兕は、左将軍。父の晟は、字あざなを季といい、書史に通じ、敏捷で勇猛、兵事に明るく、隋に仕えて右驍衛将軍となった。

原文太宗文德順聖皇后長孫氏,河南洛陽人。其先魏拓拔氏,後為宗室長,因號長孫。高祖稚,大丞相、馮翊王。曾祖裕,平原公。祖兕,左將軍。父晟,字季,涉書史,趫鷙曉兵,仕隋為右驍衛將軍。

后は図伝を好み、古の善悪を見て自ら鑑とし、礼法を重んじ尊んだ。晟の兄の熾は、周の通道館学士であった。かつて太穆皇后(竇氏)が突厥の女を慰撫するよう勧めたことを聞き、心に銘記していた。常に晟に言うには、「これは明睿の人で、必ず奇子が生まれる。婚を図らないわけにはいかない」と。故に晟は娘を太宗に嫁がせた。后が里帰りした時、舅の高士廉の妾が、大きな馬二頭が丈二(約3.6m)ほどに立って后の舎の外にいるのを見て恐れ、占ったところ、『坤』の卦から『泰』の卦に出た。卜者は言うには、「『坤』は順って天を承け、物を載せて疆はてなし。馬は地の類なり。『泰』に之くは、これ天地交わりて万物通ずるなり。また以て天地の宜を輔相す。繇辞は『帰妹』の卦に協う。婦人の事なり。女、尊位に処り、中を履みて順に居るは、后妃の象なり」と。時に隠太子(建成)の争いの隙はすでに生じていたが、后は内では高祖に孝事を尽くし、諸妃を謹んで承け、猜疑嫌悪を消し去った。帝が宮中で甲冑を授ける時、后は自ら慰労激励し、兵士は皆感激奮発した。まもなく皇太子妃となり、やがて皇后となった。

原文后喜圖傳,視古善惡以自鑒,矜尚禮法。晟兄熾,為周通道館學士。嘗聞太穆勸撫突厥女,心誌之。每語晟曰:「此明睿人,必有奇子,不可以不圖昏。」故晟以女太宗。后歸寧,舅高士廉妾見大馬二丈立后舍外,懼,占之,遇《坤》之《泰》。卜者曰:「《坤》順承天,載物無疆;馬,地類也;之《泰》,是天地交而萬物通也,又以輔相天地之宜。繇協《歸妹》,婦人事也。女處尊位,履中而居順,后妃象也。」時隱太子釁鬩已構,后內盡孝事高祖,謹承諸妃,消釋嫌猜。及帝授甲宮中,后親慰勉,士皆感奮。尋為皇太子妃,俄為皇后。

性質は倹約質素で、衣服や車駕は用が足りればそれで止めた。ますます書物を読み、化粧や髪梳きの時も少しも廃さなかった。帝と話し、時に天下の事に及ぶと、辞して言うには、「牝鶏が晨を司るは、家の窮まりなり。よろしいでしょうか」と。帝が固く求めても、終いに答えなかった。後宮に罪を得た者がいると、必ず帝の怒りに助けて厳しく処罰を請うが、帝の気が解けるのを待ち、徐々に弁明して取り計らい、終いに冤罪を生じさせなかった。下の嬪が豫章公主を生んで死ぬと、后は実子のように育てた。侍女が病気になると、自分の飲む薬を止めて与えた。下々はその仁を懐いた。兄の無忌は、帝とはもと布衣の交わりで、天命を佐けた元功として、寝所に出入りした。帝がこれを用いて政を輔けようとすると、后は固く不可と言い、隙を見て言うには、「妾は紫宮に身を寄せ、尊貴はすでに極まっています。私的な親族がさらに朝廷で権力を握ることを願いません。漢の呂氏・霍氏は、戒めとすべきです」と。帝は聞き入れず、自ら無忌を尚書僕射に任用した。后は密かに諭して固く辞退させ、帝は已むを得ず、ようやく聞き入れ、后は喜びを顔に現した。異母兄の安業は品行がなく、父の喪中に、后と無忌を追い出して母方の実家に帰らせた。后が貴くなっても、一度もそのことを口にしなかった。(安業は)将軍の位に抜擢された。後に李孝常らと謀反し、誅殺されようとした時、后は叩頭して言うには、「安業の罪は死に値し赦されません。しかし以前、妾に慈しみをもって遇わなかったことは、人々が知っています。今、法の如くに論ずれば、人々は必ず妾が兄に恨みを晴らしたと言うでしょう。帝の累わずらいとならぬでしょうか」と。そこで減刑されて越巂に流されることとなった。太子承乾の乳母が東宮の什器を増やすよう請うと、后は言うには、「太子が患うべきは徳と名の無きことである。器を請うのは何のためか」と。

原文性約素,服御取給則止。益觀書,雖容櫛不少廢。與帝言,或及天下事,辭曰:「牝雞司晨,家之窮也,可乎?」帝固要之,訖不對。後廷有被罪者,必助帝怒請繩治,俟意解,徐為開治,終不令有冤;下嬪生豫章公主而死,后視如所生;媵侍疾病,輟所御飲藥資之。下懷其仁。兄無忌,於帝本布衣交,以佐命為元功,出入臥內,帝將引以輔政,后固謂不可,乘間曰:「妾托體紫宮,尊貴已極,不願私親更據權於朝。漢之呂、霍,可以為誡。」帝不聽,自用無忌為尚書僕射。后密諭令牢讓,帝不獲已,乃聽,后喜見顏間。異母兄安業無行,父喪,逐后、無忌還外家。后貴,未嘗以為言。擢位將軍。後與李孝常等謀反,將誅,后叩頭曰:「安業罪死無赦。然向遇妾不以慈,戶知之;今論如法,人必謂妾釋憾於兄,無乃為帝累乎!」遂得減流越巂。太子承乾乳媼請增東宮什器,后曰:「太子患無德與名,器何請為?」

帝が九成宮に行幸された際、ちょうど病にかかっていたが、柴紹らによる急変の報が届くと、帝は甲冑を着けて立ち上がり、后も病を押して輿に乗って従った。宮司が諫めて止めようとしたが、后は言った、「上様が驚き動揺されているのに、私が安らかでいられようか」。病が次第に重くなると、太子は大赦を請い、広く僧侶を度牒し、災厄を祓い塞ごうとした。后は言った、「死生は天命であり、人の力でどうにかできるものではない。もし福を修めれば延命できるというなら、私は悪事を働いたわけではない。善行が効き目がないなら、私は何を求めようか。しかも赦令は国家の大事である。仏教や道教は異方の教えに過ぎず、いずれも上様がなさらぬことである。どうして私のために天下の法を乱すことができようか」。太子は奏上できず、房玄齢に告げた。玄齢がこれを聞き届けると、帝は嘆賞した。群臣が赦を遂行するよう請うたが、帝が既に許諾した後、后は固く争って止めさせた。危篤に及んで帝と決別する際、当時玄齢は小過で邸に謹慎していたが、后は言った、「玄齢は長く陛下に仕え、奇計秘謀に参画してきました。大過がない限り、お咎めなきよう願います。妾の家は恩沢によって進み、徳なくして禄を食み、禍を招きやすいものです。枢要の地位につけず、外戚として朝請に奉ずるだけで十分です。妾は生きて時世に益なく、死して厚葬すべきではありません。山に因って墳墓とし、墳を築かず、棺槨を用いず、器は瓦木とし、葬送の費用を倹約することを願います。これが妾の忘れられぬことです」。また帝に忠言を容れ諫言を受け入れ、讒言を受けず、遊猟や労役を省くよう請い、死んでも恨みはないと言った。崩御、三十六歳。

原文從幸九成宮,方屬疾,會柴紹等急變聞,帝甲而起,后輿疾以從,宮司諫止,后曰:「上震驚,吾可自安?」疾稍亟,太子欲請大赦,汎度道人,祓塞災會。后曰:「死生有命,非人力所支。若修福可延,吾不為惡;使善無效,我尚何求?且赦令,國大事,佛、老異方教耳,皆上所不為,豈宜以吾亂天下法!」太子不敢奏,以告房玄齡,玄齡以聞,帝嗟美。而群臣請遂赦,帝既許,后固爭止。及大漸,與帝決,時玄齡小譴就第,后曰:「玄齡久事陛下,預奇計秘謀,非大故,願勿置也。妾家以恩澤進,無德而祿,易以取禍,無屬樞柄,以外戚奉朝請足矣。妾生無益於時,死不可以厚葬,願因山為壟,無起墳,無用棺槨,器以瓦木,約費送終,是妾不見忘也。」又請帝納忠容諫,勿受讒,省遊畋作役,死無恨。崩,年三十六。

后はかつて古の婦人の事跡を採り『女則』十篇を著し、また論じて漢の馬后が外戚を抑制できず、政事に関与させたことを斥け、その車馬の奢侈を戒めたのは、本源を開き末事を憂えたものだと述べた。常に保管者に戒めて言った、「私は自らを省みるために書いたので、条理が整っていない。至尊(帝)にお目にかけぬように」。崩御後、宮司がこれを奏上すると、帝はそのために慟哭し、近臣に示して言った、「后のこの書は後世に伝えるに足る。私は天命が通ぜず情を断ち切れぬわけではない。ただ内に我が良き補佐を失い、哀しみがやむことがないのだ」。謚して文徳と曰い、昭陵に葬る。九嵕山に因り、后の志を成した。帝自ら表を著して始末を序し、陵の左に掲げた。上元年中、謚を文徳聖皇后と加えた。

原文后嘗采古婦人事著《女則》十篇,又為論斥漢之馬后不能檢抑外家,使與政事,乃戒其車馬之侈,此謂開本源,恤末事。常誡守者:「吾以自檢,故書無條理,勿令至尊見之。」及崩,宮司以聞,帝為之慟,示近臣曰:「后此書可用垂後,我豈不通天命而割情乎!顧內失吾良佐,哀不可已已!」謚曰文德,葬昭陵,因九嵕山,以成后志。帝自著表序始末,揭陵左。上元中,益謚文德聖皇后。

太宗賢妃徐惠

原文太宗賢妃徐惠

太宗賢妃徐惠は、湖州長城の人である。生後五月にして言葉を発し、四歳で『論語』『詩経』を通じ、八歳で自ら文章を綴ることを悟った。父の孝徳が試みに『離騷』に擬えて『小山篇』を作らせると、「幽巖を仰ぎて流盼し、桂枝を撫でて凝想す。将に千齢兮此れに遇わんとす、荃何為ぞ兮独り往く」と詠んだ。孝徳は大いに驚き、隠しおおせぬと知り、以後その論著は盛んに伝わった。太宗がこれを聞き、才人として召し出した。手から書物を離さず、文辞は豊かで華やか、文章は滞る考えがなかった。帝はますます礼遇して顧み、孝徳を水部員外郎に抜擢し、惠は再び昇進して充容となった。

原文太宗賢妃徐惠,湖州長城人。生五月能言,四歲通《論語》、《詩》,八歲自曉屬文。父孝德,嘗試使擬《離騷》為《小山篇》曰:「仰幽巖而流盼,撫桂枝以凝想。將千齡兮此遇,荃何為兮獨往?」孝德大驚,知不可掩,於是所論著遂盛傳。太宗聞之,召為才人。手未嘗廢卷,而辭致贍蔚,文無淹思。帝益禮顧,擢孝德水部員外郎,惠再遷充容。

貞観末年に、しばしば兵を調発して四夷を討定し、次第に宮室を造営したため、百姓は労苦し怨んだ。惠は上疏して極諫し、かつ言った、「東は遼海を戍り、西は崑丘を討ち、士馬は疲弊消耗し、漕運の糧秣は漂没する。尽きることある農力を棄て、窮まりなき壑(戦場)に赴き、未だ獲ざる衆を図り、既に成れる軍を喪う。故に地広きは、常に安んずるの術にあらず。人労するは、乱れ易き符なり」。また言った、「翠微宮・玉華宮などは、山に因り水を藉りて築構の苦しみはないが、工力や雇役の費用は煩わしからぬとは言えない。有道の君は、逸をもって人を逸らす。無道の君は、楽をもって身を楽しませる」。また言った、「伎巧は国を喪う斧斤であり、珠玉は心を蕩かす酖毒である。侈麗で繊細な美は、遏とどめざるべからず。志は業の泰(安泰)に驕り、体は時の安(平安)に逸する」。その切実で精妙な趣旨は、おおむねこのようであった。帝はその言を善しとし、厚く賜物を与えた。帝が崩御すると、哀慕のあまり病となり、薬を進めようとせず、言った、「帝は私を厚く遇してくださった。犬馬に先んじて園寢(陵墓)に侍ることができれば、これが私の志です」。また詩や連珠を作って意を表した。永徽元年に卒去、二十四歳。賢妃を贈られ、昭陵の石室に陪葬された。

原文貞觀末,數調兵討定四夷,稍稍治宮室,百姓勞怨。惠上疏極諫,且言:「東戍遼海,西討崑丘,士馬罷耗,漕饟漂沒。捐有盡之農,趨無窮之壑;圖未獲之眾,喪已成之軍。故地廣者,非常安之術也;人勞者,為易亂之符也。」又言:「翠微、玉華等宮,雖因山藉水,無築構之苦,而工力和僦,不謂無煩。有道之君,以逸逸人;無道之君,以樂樂身。」又言:「伎巧為喪國斧斤,珠玉為蕩心酖毒,侈麗纖美,不可以不遏。志驕於業泰,體逸於時安。」其剴切精詣,大略如此。帝善其言,優賜之。帝崩,哀慕成疾,不肯進藥,曰:「帝遇我厚,得先狗馬侍園寢,吾志也。」復為詩、連珠以見意。永徽元年卒,年二十四,贈賢妃,陪葬昭陵石室。

惠の弟の斉聃、斉聃の子の堅は、ともに学問で知られ、妹は高宗の婕妤となり、また文藻があり、世間は漢の班氏一族に擬えた。

原文惠之弟齊聃,齊聃子堅,皆以學聞,女弟為高宗婕妤,亦有文藻,世以擬漢班氏。

高宗廃后王氏

原文高宗廢后王氏

高宗廃后王氏は、并州祁県の人で、魏の尚書左僕射王思政の孫である。従祖母の同安長公主が后の婉淑なるを以て、太宗に言上して晋王妃とした。王が東宮に居ると、妃も冊立され、父の仁祐は陳州刺史に抜擢された。帝が即位すると、皇后に立てられた。仁祐は特進として魏国公に封ぜられ、母の柳氏は本国夫人となった。仁祐が卒すると、司空を贈られた。

原文高宗廢后王氏,并州祁人,魏尚書左僕射思政之孫。從祖母同安長公主以后婉淑,白太宗以為晉王妃。王居東宮,妃亦進冊,擢父仁祐陳州刺史。帝即位,立為皇后。仁祐以特進封魏國公;母柳,本國夫人。仁祐卒,贈司空。

初め、蕭良娣が寵愛されていたが、武才人は貞観末年に先帝の宮人として召し出されて昭儀となり、やがて后や良娣と寵を争い、互いに誹謗し合った。昭儀は詭険であり、すぐに后とその母が媚道を用いて帝を蠱惑したと誣告した。帝はこれを信じ、魏国夫人(后の母)の宮門への出入り許可を取り消し、后の舅の柳奭を中書令から罷免した。李義府らが陰で昭儀を助け、偏った言葉で帝を怒らせ、遂に詔を下して后と良娣をともに庶人に廃し、宮中に囚禁した。后の母と兄、良娣の宗族は悉く嶺南に流された。許敬宗がまた奏上した、「仁祐には他に功績がなく、宮掖の縁故で三事(三公)の列を超えました。今、庶人(王皇后)が宗廟社稷を乱そうと謀り、その罪は宗族を誅滅すべきです。仁祐の棺を斬るべきであり、陛下がその誅罰を窮めず、家は流竄に止められましたが、仁祐が庇護の蔭をもって逆臣の子孫を宥すべきではありません」。詔があり、仁祐の官爵を全て奪った。そして后と良娣はやがて武后に殺され、后の姓を「蟒」、良娣の姓を「梟」と改められた。

原文初,蕭良娣有寵,而武才人貞觀末以先帝宮人召為昭儀,俄與后、良娣爭寵,更相毀短。而昭儀詭險,即誣后與母挾媚道蠱上,帝信之,解魏國夫人門籍,罷后舅柳奭中書令。李義府等陰佐昭儀,以偏言怒帝,遂下詔廢后、良娣皆為庶人,囚宮中。后母兄、良娣宗族悉流嶺南。許敬宗又奏:「仁祐無他功,以宮掖故,超列三事,今庶人謀亂宗社,罪宜夷宗,仁祐應斫棺,陛下不窮其誅,家止流竄,仁祐不宜引庇廕宥逆子孫。」有詔盡奪仁祐官爵。而後及良娣俄為武后所殺,改后姓為「蟒」,良娣為「梟」。

初め、帝は后を思い、密かに囚禁所に行き、門が厳重に閉ざされているのを見て、穴から飲食を差し入れ、哀れに思い悲しんで、呼びかけた、「皇后、良娣、無事か?今どこにおる?」。二人は同じ言葉で答えた、「妾どもは罪を以て婢に棄てられました。どうして尊称を得られましょうか」。涙を流して嗚咽した。また言った、「陛下がかつての日を思い出してくださり、妾どもが死して更に生まれ、再び日月(帝后)を見ることができますよう、ここを『回心院』と名付けてくださるよう乞います」。帝は言った、「朕はすぐに処置する」。武后がこれを知ると、詔を促して二人を百回杖打ち、手足を切断し、手を後ろに縛って醸甕に投げ込み、言った、「二人の老婆の骨を酔わせよ!」。数日後に死に、屍をばらばらにした。初め、詔旨が到ると、后は再拝して言った、「陛下万歳!昭儀が恩寵を受け、死ぬのは私の本分です」。良娣のところに至ると、罵って言った、「武氏の狐媚がここまで事を覆した!私は後に猫となり、武氏を鼠として、その喉を扼して報いよう」。后(武后)はこれを聞き、六宮に猫を飼うことを禁じる詔を出した。武后はしばしば二人が髪を振り乱し血を滴らせて厲鬼となるのを見て、これを憎み、巫祝を用いて謝罪させたが、すぐに蓬萊宮に移っても、厲鬼が再び現れたため、多く東都に駐在した。中宗が即位すると、皆その姓を復した。

原文初,帝念后,間行至囚所,見門禁錮嚴,進飲食竇中,惻然傷之,呼曰:「皇后、良娣無恙乎?今安在?」二人同辭曰:「妾等以罪棄為婢,安得尊稱耶?」流淚嗚咽。又曰:「陛下幸念疇日,使妾死更生,復見日月,乞署此為『回心院』。」帝曰:「朕即有處置。」武后知之,促詔杖二人百,剔其手足,反接投釀甕中,曰:「令二嫗骨醉!」數日死,殊其屍。初,詔旨到,后再拜曰:「陛下萬年!昭儀承恩,死吾分也。」至良娣,罵曰:「武氏狐媚,翻覆至此!我後為貓,使武氏為鼠,吾當扼其喉以報。」后聞,詔六宮毋畜貓。武后頻見二人被髮瀝血為厲,惡之,以巫祝解謝,即徙蓬萊宮,厲復見,故多駐東都。中宗即位,皆復其姓。

高宗則天武皇后

原文高宗則天武皇后

高宗則天順聖皇后武氏は、并州文水県の人である。父は士彠、『外戚伝』に見える。文徳皇后が崩御して久しく、太宗が士彠の娘の美しさを聞き、才人として召し出した。時に十四歳。母の楊氏は慟哭して別れを惜しんだが、后は平然として言った、「天子に会うことがどうして福でないと分かりましょうか、どうして子供のように悲しむのですか」。母はその意に従い、泣き止んだ。帝に謁見すると、武媚の号を賜った。帝が崩御すると、嬪御らとともに比丘尼となった。高宗が太子の時、入侍して、彼女を気に入った。王后はその後長く子がなく、蕭淑妃が寵愛されていたため、后(武氏)は内心快く思わなかった。ある日、帝が仏寺を通りかかると、才人(武氏)が会って泣いたので、帝は感動した。后(王皇后)はその様子を察知し、彼女を後宮に引き入れて、妃の寵愛を撹乱しようとした。

原文高宗則天順聖皇后武氏,并州文水人。父士彠,見《外戚傳》。文德皇后崩,久之,太宗聞士彟女美,召為才人,方十四。母楊,慟泣與訣,后獨自如,曰:「見天子庸知非福,何兒女悲乎?」母韙其意,止泣。既見帝,賜號武媚。及帝崩,與嬪御皆為比丘尼。高宗為太子時,入侍,悅之。王后後久無子,蕭淑妃方幸,后陰不悅。它日,帝過佛廬,才人見且泣,帝感動。后廉知狀,引內後宮,以撓妃寵。

才人は権謀術数に長け、詭変窮まるところがなかった。初め、辞を下げて身を低くして皇后に仕えたとき、皇后は喜び、しばしば帝に彼女を誉めたので、昭儀に進んだ。ある日、寵愛が蕭淑妃を上回ると、次第に皇后と不和になった。皇后の性質は簡素で重厚であり、上下に媚び諂うことをせず、母の柳氏も宮人や尚宮に対して軽薄な礼を取らなかった。そこで昭儀は皇后が疎んじる者を窺い、必ず手厚く結びつけ、賜り物があれば全て分け与えた。これにより皇后や淑妃の行動は必ず知ることができ、知ればすぐに帝に報告したが、まだ中傷する材料はなかった。昭儀が女児を産むと、皇后が見舞いに来て弄び、去った後、昭儀は密かに児を衾の下で窒息させ、帝が来るのを待ち、陽に嬉しそうに話し、衾を開けて児を見せると、死んでいた。また驚いて左右に問うと、皆が言うには「皇后がちょうど来られました」。昭儀はすぐに悲しんで泣き、帝は真相を察することができず、怒って言った「皇后が我が子を殺したのか。以前より妃と互いに讒言し嫉んでいたが、今またこのようなことをするのか」。これにより昭儀はその誹謗を入れることができ、皇后は自ら弁解する術がなく、帝はますます昭儀を信愛し、初めて皇后を廃する意を抱いた。久しくして、昭儀に「宸妃」の号を進めようとしたが、侍中韓瑗・中書令来済が言うには「妃嬪には定数があり、今別に号を立てることはできない」。昭儀はそこで皇后とその母が厭勝を行ったと誣告し、帝は以前の遺恨を抱き、その言葉を真実と認め、遂に廃そうとした。長孫無忌・褚遂良・韓瑗及び来済が死を賭して固く争い、帝は躊躇した。しかし中書舍人李義府・衛尉卿許敬宗は元来陰険で、勢いを窺って即座に上表して昭儀を皇后とすることを請うた。帝の決意は固まり、詔を下して皇后を廃した。李勣・于志寧に詔して璽綬じじゅを奉じて昭儀を皇后に進め、群臣及び四夷の酋長に命じて肅義門で皇后に朝賀させ、内外の命婦に入謁させた。皇后への朝賀はこれより始まった。

原文才人有權數,詭變不窮。始,下辭降體事后,后喜,數譽於帝,故進為昭儀。一旦顧幸在蕭右,寖與后不協。后性簡重,不曲事上下,而母柳見內人尚宮無浮禮,故昭儀伺后所薄,必款結之,得賜予,盡以分遺。由是后及妃所為必得,得輒以聞,然未有以中也。昭儀生女,后就顧弄,去,昭儀潛斃兒衾下,伺帝至,陽為歡言,發衾視兒,死矣。又驚問左右,皆曰:「后適來。」昭儀即悲涕,帝不能察,怒曰:「后殺吾女,往與妃相讒媢,今又爾邪!」由是昭儀得入其訾,后無以自解,而帝愈信愛,始有廢后意。久之,欲進號「宸妃」,侍中韓瑗、中書令來濟言:「妃嬪有數,今別立號,不可。」昭儀乃誣后與母厭勝,帝挾前憾,實其言,將遂廢之。長孫無忌、褚遂良、韓瑗及濟瀕死固爭,帝猶豫;而中書舍人李義府、衛尉卿許敬宗素險側,狙勢即表請昭儀為后,帝意決,下詔廢后。詔李勣、于志寧奉璽綬進昭儀為皇后,命群臣及四夷酋長朝后肅義門,內外命婦入謁。朝皇后自此始。

皇后は宗廟に謁見し、再び武士彠を司徒に追贈し、爵は周国公、諡は忠孝とし、高祖廟に配食させた。母の楊氏は再び代国夫人に封じられ、家は魏で千戸を食んだ。皇后はそこで『外戚誡』を撰して朝廷に献上し、世間の非難を解釈した。ここにおいて長孫無忌・褚遂良を追放し、死と流刑に次々と陥れ、寵勢は赫々たるものとなった。皇后は城府が深く、痛みを忍び屈辱を恥じず、大事を成就するために、帝は自分を奉じることができると考え、故に公議を引き立てて彼女を立てた。既に志を得ると、すぐに威福を盗み、得意げに畏れ避けることなく、帝もまた懦弱で昏く、全く彼女を制御できず、専断させないようにしたが、久しくして次第に不満を抱いた。麟徳初年、皇后は方士郭行真を召し禁中に入れて蠱道の祈祷を行わせたが、宦官王伏勝がこれを発覚させた。帝は怒り、これにより西台侍郎上官儀を召し、儀は皇后の専横恣肆を指摘し、海内の声望を失い、宗廟を承けることができないと言い、帝の意と合致した。そこで急いで詔を草させて皇后を廃そうとした。左右の者が駆け告げると、皇后は急いで帝の許に行き自ら訴え、帝は恥じて縮み上がり、以前のように彼女を遇したが、まだ彼女が恨んでいると思い、かつ言った「これは全て上官儀が私に教えたのだ」。皇后は許敬宗に諷して上官儀を陥れ、殺させた。

原文后見宗廟,再贈士彠至司徒,爵周國公,謚忠孝,配食高祖廟。母楊,再封代國夫人,家食魏千戶。后乃製《外戚誡》獻諸朝,解釋譏譟。於是逐無忌、遂良,踵死徙,寵煽赫然。后城宇深,痛柔屈不恥,以就大事,帝謂能奉己,故扳公議立之。已得志,即盜威福,施施無憚避,帝亦懦昏,舉能鉗勒,使不得專,久稍不平。麟德初,后召方士郭行真入禁中為蠱祝,宦人王伏勝發之,帝怒,因是召西臺侍郎上官儀,儀指言后專恣,失海內望,不可承宗廟,與帝意合,乃趣使草詔廢之。左右馳告,后遽從帝自訴,帝羞縮,待之如初,猶意其恚,且曰:「是皆上官儀教我!」后諷許敬宗構儀,殺之。

初め、元舅の大臣(長孫無忌)が旨に逆らい、一年も経たずに誅滅され、路上では目配せで噂した。上官儀が誅殺されると、政は房帷に帰し、天子は拱手するのみとなった。群臣の朝賀・四方からの奏章は、皆「二聖」と称した。毎朝政を見るとき、殿中に簾を垂れ、帝と皇后は並んで座り、生殺賞罰は全てその命によるものだった。その忍びて断ずる時は、たとえ甚だ愛する者でも、少しも隠さなかった。帝は晩年ますく中風を病んで支えられず、天下の事は全て皇后に委ねた。皇后はさらに太平の文治事業を行い、大いに諸儒を内禁殿に集め、『列女伝』・『臣軌』・『百僚新誡』・『楽書』などを撰定し、およそ千余篇に及んだ。そこで学士に命じて密かに裁可すべき奏議を裁定させ、宰相の権力を分かたせた。

原文初,元舅大臣怫旨,不閱歲屠覆,道路目語,及儀見誅,則政歸房帷,天子拱手矣。群臣朝、四方奏章,皆曰「二聖」。每視朝,殿中垂簾,帝與后偶坐,生殺賞罰惟所命。當其忍斷,雖甚愛,不少隱也。帝晚益病風不支,天下事一付后。后乃更為太平文治事,大集諸儒內禁殿,撰定《列女傳》、《臣軌》、《百僚新誡》、《樂書》等,大氐千餘篇。因令學士密裁可奏議,分宰相權。

初め、武士彠は相里氏を娶り、子に元慶・元爽を生んだ。また楊氏を娶り、三人の娘を生んだ。長女は賀蘭越石に嫁ぎ、早く寡婦となり、韓国夫人に封ぜられた。次女が即ち皇后である。三女は郭孝慎に嫁ぎ、以前に死んだ。楊氏は皇后の故により、寵愛日増しに盛んとなり、栄国夫人に徙封された。初め、兄の子の惟良・懐運と元慶らが楊氏及び皇后に対して礼が薄かったので、皇后は恨みを抱いて忘れなかった。この時、元慶は宗正少卿、元爽は少府少監、惟良は司衛少卿、懐運は淄州刺史となっていた。ある日、夫人(楊氏)が酒宴を設け、酣になったとき、惟良に言った「汝らは昔の事を覚えているか。今どう思うか」。惟良は答えて言った「幸い功臣の子として朝廷に位し、後には外戚として進んだことを憂い、栄誉とは思わない」。夫人は怒り、皇后に諷して偽りの退譲をさせ、惟良らを外任させるよう請わせ、天下に私を示さないようにした。これにより、惟良は始州刺史、元慶は龍州刺史、元爽は濠州刺史となり、まもなく事に坐して振州で死んだ。元慶は任地に至り、憂死した。韓国夫人は禁中に出入りし、一人の娘は国の美人で、帝は皆寵愛した。韓国夫人が卒去すると、娘は魏国夫人に封ぜられ、嬪職に備えようとしたが、皇后を憚って決めかねた。皇后は内心甚だ忌み、ちょうど泰山封禅の際、惟良・懐運が嶽牧として参集し、従って京師に還った。皇后は魏国夫人を毒殺し、罪を惟良らに帰し、皆殺しにし、姓を「蝮」と改めた。韓国夫人の子の敏之に武士彠の祭祀を奉ぜさせた。初め、魏国夫人が卒去した時、敏之が弔問に来ると、帝は慟哭したが、敏之は泣いて答えなかった。皇后は言った「この子は私を疑っている」。彼を憎んだ。まもなく貶死した。楊氏は酇・衛二国夫人に徙封され、咸亨元年に卒去し、魯国夫人を追封し、諡は忠烈とし、文武官九品以上及び五等親と外命婦に赴弔させ、王礼をもって咸陽に葬り、班剣・葆杖・鼓吹を給した。時に天下は旱魃に見舞われたが、皇后は偽って表を上って避位を求め、許されなかった。まもなくまた武士彠を太尉兼太子太師・太原郡王に追贈し、魯国忠烈夫人を妃とした。

原文始,士彠娶相里氏,生子元慶、元爽。又娶楊氏,生三女:伯嫁賀蘭越石,蚤寡,封韓國夫人;仲即后;季嫁郭孝慎,前死。楊以后故,寵日盛,徙封榮國。始,兄子惟良、懷運與元慶等遇楊及后禮薄,后銜不置。及是,元慶為宗正少卿,元爽少府少監,惟良司衛少卿,懷運淄州刺史。它日,夫人置酒,酣,謂惟良曰:「若等記疇日事乎?今謂何?」對曰:「幸以功臣子位朝廷,晚緣戚屬進,憂而不榮也。」夫人怒,諷后偽為退讓,請惟良等外遷,無示天下私。繇是,惟良為始州刺史;元慶,龍州;元爽,濠州,俄坐事死振州。元慶至州,憂死。韓國出入禁中,一女國姝,帝皆寵之。韓國卒,女封魏國夫人,欲以備嬪職,難於后,未決。后內忌甚,會封泰山,惟良、懷運以嶽牧來集,從還京師,后毒殺魏國,歸罪惟良等,盡殺之,氏曰「蝮」,以韓國子敏之奉士彠祀。初,魏國卒,敏之入弔,帝為慟,敏之哭不對。后曰:「兒疑我!」惡之。俄貶死。楊氏徙酇、衛二國,咸亨元年卒,追封魯國,謚忠烈,詔文武九品以上及五等親與外命婦赴弔,以王禮葬咸陽,給班劍、葆杖、鼓吹。時天下旱,后偽表求避位,不許。俄又贈士彠太尉兼太子太師、太原郡王,魯國忠烈夫人為妃。

上元元年、天后の号を進め、十二事を建言した。一、農桑を勧め、賦役を薄くすること。二、三輔の地に給復すること。三、兵を休め、道德をもって天下を化すること。四、南北中尚において浮巧を禁ずること。五、功費力役を省くこと。六、言路を広くすること。七、讒言の口を杜ぐこと。八、王公以下皆『老子』を習うこと。九、父在りて母のためには斉衰三年を服すること。十、上元以前の勲官で既に告身を与えられた者は追核しないこと。十一、京官八品以上は俸給を増すこと。十二、百官で任事久しく、材高く位下の者は進階して滞りを申し述べ得ること。帝は皆詔を下して大略施行した。

原文上元元年,進號天后,建言十二事:一、勸農桑,薄賦徭;二、給復三輔地;三、息兵,以道德化天下;四、南北中尚禁浮巧;五、省功費力役;六、廣言路;七、杜讒口;八、王公以降皆習《老子》;九、父在為母服齊衰三年;十、上元前勛官已給告身者無追核;十一、京官八品以上益稟入;十二、百官任事久,材高位下者得進階申滯。帝皆下詔略施行之。

蕭淑妃の娘の義陽・宣城公主は掖廷に幽閉され、四十に近くまで嫁がせなかった。太子の弘が帝に言上すると、皇后は怒り、弘を毒殺した。帝は将に詔を下して后に位を譲ろうとしたが、宰相郝処俊が固く諫めたので、やめた。皇后は外に寛裕を示し、人心を劫いて己に帰せしめようとし、即ち上奏して言った「今、群臣は半俸を納め、百姓は口数錢を出して辺兵を贍っているが、四方が妄りに虚実を商うことを恐れます。一斉にこれを罷めるよう請います」。詔して可とした。

原文蕭妃女義陽、宣城公主幽掖廷,幾四十不嫁,太子弘言於帝,后怒,酖殺弘。帝將下詔遜位於后,宰相郝處俊固諫,乃止。后欲外示寬裕,劫人心使歸已,即奏言:「今群臣納半俸、百姓計口錢以贍邊兵,恐四方妄商虛實,請一罷之。」詔可。

儀鳳三年、群臣・蕃夷の長が光順門で皇后に朝賀した。即ち并州に太原郡王廟を建てた。帝は頭眩を病んで視ることができず、侍医の張文仲・秦鳴鶴が言うには「風が上逆しているので、頭を砭って血を出せば治ります」。皇后は内心、帝が危篤になって己が専断できることを幸いとし、怒って言った「これは斬るべきである。帝の体にどうして刺血する場所があろうか」。医師は頓首して命を請うた。帝は言った「医師が疾病を議するのに、どうして罪とせん。かつ我は眩暈に耐えがたい。そのまま行わせよ」。医師が一再に刺すと、帝は言った「我が目が明るくなった」。言い終わらぬうちに、皇后は簾中で再拝して謝し、言った「天が我が師を賜うた」。自ら絹帛と宝物を負って医師に賜った。

原文儀鳳三年,群臣、蕃夷長朝後於光順門。即并州建太原郡王廟。帝頭眩不能視,侍醫張文仲、秦鳴鶴曰:「風上逆,砭頭血可愈。」后內幸帝殆,得自專,怒曰:「是可斬,帝體寧刺血處邪?」醫頓首請命。帝曰:「醫議疾,烏可罪?且吾眩不可堪,聽為之!」醫一再刺,帝曰:「吾目明矣!」言未畢,后簾中再拜謝,曰:「天賜我師!」身負繒寶以賜。

帝崩じ、中宗即位す。天后皇太后と称し、遺詔して軍国の大務は参決を聴かしむ。嗣聖元年、太后帝を廃して廬陵王と為し、自ら臨朝し、睿宗を以て即帝位せしむ。后武成殿に坐し、帝群臣を率いて号冊を上る。三日を越え、太后軒に臨み、礼部尚書太尉を摂る武承嗣・太常卿司空を摂る王徳真に命じて嗣皇帝を冊す。是より太后常に紫宸殿に御し、惨紫の帳を施して臨朝す。五世の祖後魏散騎常侍克己を追贈して魯国公と為し、妣裴は即ち其の国を以て夫人と為す。高祖斉殷州司馬居常を太尉・北平郡王と為し、妣劉を王妃と為す。曾祖永昌王諮議参軍・贈斉州刺史儉を太尉・金城郡王と為し、妣宋を王妃と為す。祖隋東郡丞・贈并州刺史・大都督華を太尉・太原郡王と為し、妣趙を王妃と為す。皆園邑を置き、戸五十。考を太師・魏王と為し、実戸を加えて五千に満たし、妣を王妃と為し、王の園邑守戸百。時に睿宗立ちたれども、実に之を囚ふ。而して諸武命を擅にす。又魯国公を謚して靖と曰ひ、裴を靖夫人と為す。北平郡王を恭肅と曰ひ、金城郡王を義康と曰ひ、太原郡王を安成と曰ひ、妃は夫の謚に従ふ。太后冊を武成殿に遣はし、使者をして五世の廟室に告げしむ。

原文帝崩,中宗即位,天后稱皇太后,遺詔軍國大務聽參決。嗣聖元年,太后廢帝為廬陵王,自臨朝,以睿宗即帝位。后坐武成殿,帝率群臣上號冊。越三日,太后臨軒,命禮部尚書攝太尉武承嗣、太常卿攝司空王德真冊嗣皇帝。自是太后常御紫宸殿,施慘紫帳臨朝。追贈五世祖後魏散騎常侍克己為魯國公,妣裴即其國為夫人;高祖齊殷州司馬居常為太尉、北平郡王,妣劉為王妃;曾祖永昌王諮議參軍、贈齊州刺史儉為太尉、金城郡王,妣宋為王妃;祖隋東郡丞、贈并州刺史、大都督華為太尉、太原郡王,妣趙為王妃。皆置園邑,戶五十。考為太師、魏王,加實戶滿五千,妣為王妃,王園邑守戶百。時睿宗雖立,實囚之,而諸武擅命。又謚魯國公曰靖,裴為靖夫人;北平郡王曰恭肅,金城郡王曰義康,太原郡王曰安成,妃從夫謚。太后遣冊武成殿使者告五世廟室。

ここに柳州司馬李敬業・括蒼令唐之奇・臨海丞駱賓王、太后の天子を脅迫し逐はるるを疾み、憤りに勝へず、乃ち兵を募り揚州大都督府長史陳敬之を殺し、州に拠りて廬陵王を迎へんと欲す。衆十萬に至る。楚州司馬李崇福連和す。盱眙の人劉行挙城を嬰して肯て従はず、敬業之を攻むるも克たず。太后行挙を拝して遊撃将軍と為し、其の弟行実を擢て楚州刺史と為す。敬業南し江を度り潤州を取り、刺史李思文を殺す。曲阿令尹元貞拒戦して死す。太后詔して左玉鈐衛大将軍李孝逸を揚州道行軍大総管と為し、兵三十萬を率いて之を討たしむ。高郵に戦ひ、前鋒左豹韜果毅成三朗、唐之奇に殺さる。又左鷹揚衛大将軍黒歯常之を以て江南道行軍大総管と為し、力を併せしむ。敬業興ること三月にして敗れ、首を東都に伝へ、三州平ぐ。

原文於是柳州司馬李敬業、括蒼令唐之奇、臨海丞駱賓王疾太后脅逐天子,不勝憤,乃募兵殺揚州大都督府長史陳敬之,據州欲迎廬陵王,眾至十萬。楚州司馬李崇福連和。盱眙人劉行舉嬰城不肯從,敬業攻之,不克。太后拜行舉遊擊將軍,擢其弟行實楚州刺史。敬業南度江取潤州,殺刺史李思文,曲阿令尹元貞拒戰死。太后詔左玉鈐衛大將軍李孝逸為揚州道行軍大總管,率兵三十萬討之,戰於高郵,前鋒左豹韜果毅成三朗為唐之奇所殺。又以左鷹揚衛大將軍黑齒常之為江南道行軍大總管,並力。敬業興三月敗,傳首東都,三州平。

初め、武承嗣太后に請ひて七廟を立てしむ。中書令裴炎沮み止む。及び敬業の興るに及び、炎を獄に下し、之を殺し、並びに左威衛大将軍程務挺を殺す。太后方に怫恚す。一日、群臣を召して廷に譲りて曰く、「朕天下に負ふ所無し。若等之を知るや」と。群臣唯唯す。太后曰く、「朕先帝を輔くること三十年を踰え、天下を憂労す。爵位富貴は朕の与ふる所なり。天下の安佚は朕の養ふ所なり。先帝群臣を棄て、社稷を以て托す。朕敢へて身を愛するも、人を愛するを知る。今戎首と為る者は皆将相なり。何ぞ負はるるの遽きを見るや。且つ遺を受くる老臣、伉扈にして制し難きこと裴炎の若き有るか。世将の種、亡命を合する能ふこと徐敬業の若き有るか。宿将戦に善くすること程務挺の若き有るか。彼は皆人豪にして、朕に利あらず。朕能く之を戮す。公等の才彼に過ぐる有らば、早く之を為せ。然らずんば、謹んで朕に事へ、天下に笑はるるを遺すなかれ」と。群臣頓首し、敢へて仰ぎ視ること無く、曰く、「惟だ陛下の命に従ふ」と。

原文始,武承嗣請太后立七廟,中書令裴炎沮止,及敬業之興,下炎獄,殺之,並殺左威衛大將軍程務挺。太后方怫恚,一日,召群臣廷讓曰:「朕於天下無負,若等知之乎?」群臣唯唯。太后曰:「朕輔先帝逾三十年,憂勞天下。爵位富貴,朕所與也;天下安佚,朕所養也。先帝棄群臣,以社稷為托,朕不敢愛身,而知愛人。今為戎首者皆將相,何見負之遽?且受遺老臣伉扈難制有若裴炎乎?世將種能合亡命若徐敬業乎?宿將善戰若程務挺乎?彼皆人豪,不利於朕,朕能戮之。公等才有過彼,蚤為之。不然,謹以事朕,無詒天下笑。」群臣頓首,不敢仰視,曰:「惟陛下命。」

久しくして、詔を下し陽に復辟する者の若くす。睿宗情に非ざるを揣り、固より臨朝を請ふ。制して可とす。乃ち銅匭を冶めて一室と為し、東に署して「延恩」と曰ひ、干賞自ら言ふを受く。南に「招諫」と曰ひ、時政の失得を受く。西に「申冤」と曰ひ、抑枉の言はんと欲する所を受く。北に「通玄」と曰ひ、讖歩の秘策を受く。詔して中書門下一官に典領せしむ。

原文久之,下詔陽若復辟者。睿宗揣非情,固請臨朝,制可。乃冶銅匭為一室,署東曰「延恩」,受干賞自言;南曰「招諫」,受時政失得;西曰「申冤」,受抑枉所欲言;北曰「通玄」,受讖步秘策。詔中書門下一官典領。

太后爵位を惜しまず、以て四方の豪傑を籠絡し自ら助けと為す。妄男子と雖も、言ふ所合ふ有らば、輒ち次を不にして之を官し、職に称せざるに至れば、尋ねて亦廃し誅し少も縦せず、務めて実材真賢を取る。又天下に謀反逆する者有るを畏れ、詔して変を上るを許し、在所に軽伝を給し、五品の食を供へ、京師に送らしむ。即日に召見し、厚く餌爵賞を以て之を歆動す。凡そ変を言ふ者は、吏何ぞ詰むるを得ず。耘夫蕘子と雖も必ず親しく延見し、之を客館に稟す。敢へて稽へて送らざる者は、以て告ぐる所の罪に之を罪す。故に変を上る者天下に遍く、人々屏息し、敢へて議する者無し。

原文太后不惜爵位,以籠四方豪傑自為助,雖妄男子,言有所合,輒不次官之,至不稱職,尋亦廢誅不少縱,務取實材真賢。又畏天下有謀反逆者,詔許上變,在所給輕傳,供五品食,送京師,即日召見,厚餌爵賞歆動之。凡言變,吏不得何詰,雖耘夫蕘子必親延見,稟之客館。敢稽若不送者,以所告罪之。故上變者遍天下,人人屏息,無敢議。

新豊に山有り、震に因りて突出す。太后以て美祥と為し、其の県を赦し、名を更めて慶山と曰ふ。荊の人俞文俊上言して曰く、「人和せざれば、疣贅生ず。地和せざれば、堆阜出づ。今陛下女主を以て陽位に処る。山変して災と為るは、慶に非ず」と。太后怒り、嶺外に投ず。

原文新豐有山因震突出,太后以為美祥,赦其縣,更名慶山。荊人俞文俊上言:「人不和,疣贅生;地不和,堆阜出。今陛下以女主處陽位,山變為災,非慶也。」太后怒,投嶺外。

詔して乾元殿を毀ちて明堂と為し、浮屠薛懐義を以て使と為し督作せしむ。懐義は鄠の人、本姓は馮氏、名は小寶、偉岸にして淫毒、佯狂して洛陽市にあり。千金公主之を嬖す。主上言して「小宝入侍す可し」と。后召して与に私し、之を悦ぶ。跡を掩はんと欲し、通籍出入を得しめ、祝髮して浮屠と為さしめ、拝して白馬寺主と為す。詔して太平公主の婿薛紹と昭穆を通ぜしめ、紹父として之に事ふ。廄馬を給し、中官を以て騶侍と為す。承嗣・三思と雖も皆尊事して惟だ謹む。是に至りて護作し、士数萬、巨木率一章千人にして乃ち能く引く。又明堂の後を度りて天堂と為し、鴻麗巖奥之に次ぐ。堂成り、拝して左威衛大将軍・梁国公と為す。

原文詔毀乾元殿為明堂,以浮屠薛懷義為使督作。懷義,鄠人,本馮氏,名小寶,偉岸淫毒,佯狂洛陽市,千金公主嬖之。主上言:「小寶可入侍。」后召與私,悅之。欲掩跡,得通籍出入,使祝髮為浮屠,拜白馬寺主。詔與太平公主婿薛紹通昭穆,紹父事之。給廄馬,中官為騶侍,雖承嗣、三思皆尊事惟謹。至是護作,士數萬,巨木率一章千人乃能引。又度明堂後為天堂,鴻麗巖奧次之。堂成,拜左威衛大將軍、梁國公。

初め崇先廟を西京に作り、武氏を享く。承嗣偽りて洛水の石に款き、導きて帝と為さしめ、雍の人唐同泰を遣はして之を献ぜしむ。后号して「宝図」と為し、同泰を擢て遊撃将軍と為す。ここに汜の人又瑞石を上る。太后乃ち上帝を郊みて謝況し、自ら聖母神皇と号し、神皇璽を作り、宝図を改めて「天授聖図」と曰ひ、洛水を号して永昌水と曰ひ、図の在る所を聖図泉と曰ひ、石を勒して洛壇の左に「天授聖図之表」と曰ひ、汜水を改めて広武と曰ふ。時に柄王室を去り、大臣重将皆撓みて逞ふるを得ず。宗室孤外に寄足の地無し。ここに、韓王元嘉等謀りて兵を挙げ天下に唱へ、中宗を迎へ還さんとす。瑯邪王沖・越王貞先づ発す。諸王倉卒として応ずる者無く、遂に敗る。元嘉と魯王霊夔等皆自殺し、余悉く坐して誅さる。諸王牽連して死滅すること殆んど尽くし、子孫嬰褓と雖も亦嶺南に投ず。太后身を洛に拝して図を受け、天子太子・群臣・蛮夷を率ひて以て次に列し、大いに珍禽・奇獣・貢物・鹵簿を壇下に陳べ、礼成りて去る。

原文始作崇先廟於西京,享武氏。承嗣偽款洛水石,導使為帝,遣雍人唐同泰獻之,后號為「寶圖」,擢同泰遊擊將軍。於是汜人又上瑞石,太后乃郊上帝謝況,自號聖母神皇,作神皇璽,改寶圖曰「天授聖圖」,號洛水曰永昌水,圖所曰聖圖泉,勒石洛壇左曰「天授聖圖之表」,改汜水曰廣武。時柄去王室,大臣重將皆撓不得逞,宗室孤外無寄足地。於是,韓王元嘉等謀舉兵唱天下,迎還中宗。瑯邪王沖、越王貞先發,諸王倉卒無應者,遂敗。元嘉與魯王靈夔等皆自殺,餘悉坐誅,諸王牽連死滅殆盡,子孫雖嬰褓亦投嶺南。太后身拜洛受圖,天子率太子、群臣、蠻夷以次列,大陳珍禽、奇獸、貢物、鹵簿壇下,禮成去。

永昌元年、万象神宮を享け、服を改めて袞冕と為し、大圭を裯め、鎮圭を執る。睿宗亜献、太子終献。天地を合祭し、五方帝・百神従ひ、高祖・太宗・高宗を以て配し、魏王士彠を引いて従配と為す。九条を班し、百官を訓す。遂に大いに群臣を饗す。士彠を号して周忠孝太皇と為し、楊を忠孝太后と為す。文水の墓を以て章徳陵と為し、咸陽の墓を以て明義陵と為す。太原安成王を周安成王と為し、金城郡王を魏義康王と為し、北平郡王を趙粛恭王と為し、魯国公を太原靖王と為す。

原文永昌元年,享萬象神宮,改服袞冕,裯大圭,執鎮圭,睿宗亞獻,太子終獻。合祭天地,五方帝、百神從,以高祖、太宗、高宗配,引魏王士彠從配。班九條,訓百官。遂大饗群臣。號士彠周忠孝太皇,楊忠孝太后。以文水墓為章德陵,咸陽墓為明義陵。太原安成王為周安成王,金城郡王為魏義康王,北平郡王為趙肅恭王,魯國公為太原靖王。

載初年中、また萬象神宮を饗け、太穆・文德の二皇后を以て皇地祇に配し、周の忠孝太后を引いて従配と為す。曌・𠀑・埊・𡆠・囝・〇・𠺞・𢘑・𡕀・𡔈・𠡦・𠙺の十有二文を作る。太后自ら名を曌とす。詔書を改めて制書と為す。周・漢を以て二王の後と為し、虞・夏・殷の後を三恪と為し、唐の属籍を除く。薛懷義を輔國大將軍に拝し、鄂國公に封じ、群の浮屠と『大雲経』を作らしめ、神皇の命を受くる事を言わしむ。春官尚書李思文詭りて言う、「『周書・武成』篇と為り、辞に『垂拱天下治』有り、是れ受命の符なり」と。后喜び、皆天下に班示し、稍々革命を図る。然れども人心の附かざるを畏れ、乃ち陰に忍びて鷙害し、斬殺を肆にして天下を怖しむ。内に酷吏周興・来俊臣等数十人を縦して爪吻と為し、慊かず若しくは素より疑憚する者有らば、必ず危法を以て之を中つ。宗姓の侯王及び他の骨鯁の臣・将相は駢頸して鈇に就き、血は狴戸に丹く、家自ら保つ能わず。太后は奩具を操りて重幃に坐し、而して國命移る。

原文載初中,又享萬象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祗,引周忠孝太后從配。作曌、𠀑、埊、𡆠、囝、〇、𠺞、𢘑、𡕀、𡔈、𠡦、𠙺十有二文。太后自名曌。改詔書為制書。以周、漢為二王後,虞、夏、殷後為三恪,除唐屬籍。拜薛懷義輔國大將軍,封鄂國公,令與群浮屠作《大雲經》,言神皇受命事。春官尚書李思文詭言:「《周書·武成》為篇,辭有『垂拱天下治』,為受命之符。」后喜,皆班示天下,稍圖革命。然畏人心不肯附,乃陰忍鷙害,肆斬殺怖天下。內縱酷吏周興、來俊臣等數十人為爪吻,有不慊若素疑憚者,必危法中之。宗姓侯王及它骨鯁臣將相駢頸就鈇,血丹狴戶,家不能自保。太后操奩具坐重幃,而國命移矣。

御史傅遊藝、關内の父老を率いて革命を請い、帝の氏を武に改む。又群臣を脅して固く請わしめ、妄りに鳳上陽宮に集まり、赤雀朝堂に見ゆと言う。天子自ら安からず、亦氏を武と請い、一尊を示す。太后威柄の己に在るを知り、因って大赦天下し、國號を周に改め、自ら聖神皇帝と称し、旗幟は赤を尚び、皇帝を以て皇嗣と為す。武氏の七廟を神都に立てる。周の文王を尊んで文皇帝と為し、號して始祖とし、妣姒を文定皇后と曰う。武王を康皇帝と為し、號して睿祖とし、妣姜を康惠皇后と曰う。太原靖王を成皇帝と為し、號して嚴祖とし、妣を成莊皇后と曰う。趙肅恭王を章敬皇帝と為し、號して肅祖とし、妣を章敬皇后と曰う。魏義康王を昭安皇帝と為し、號して烈祖とし、妣を昭安皇后と曰う。祖の周安成王を文穆皇帝と為し、號して顯祖とし、妣を文穆皇后と曰う。考の忠孝太皇を孝明高皇帝と為し、號して太祖とし、妣を孝明高皇后と曰う。唐廟を罷めて享德廟と為し、四時に高祖以下の三室を祠い、余は廃して饗けず。至日に、上帝を萬象神宮に祀り、始祖及び考妣を以て配し、百神を以て従祀と為す。諸武を尽く王とす。詔して并州文水縣を武興と為し、漢の豊・沛に比し、百姓世に復を給す。始祖の冢を以て德陵と為し、睿祖を喬陵と為し、嚴祖を節陵と為し、肅祖を簡陵と為し、烈祖を靖陵と為し、顯祖を永陵と為し、章德陵を昊陵と為し、明義陵を順陵と為す。

原文御史傅遊藝率關內父老請革命,改帝氏為武。又脅群臣固請,妄言鳳集上陽宮,赤雀見朝堂。天子不自安,亦請氏武,示一尊。太后知威柄在己,因大赦天下,改國號周,自稱聖神皇帝,旗幟尚赤,以皇帝為皇嗣。立武氏七廟於神都。尊周文王為文皇帝,號始祖,妣姒曰文定皇后;武王為康皇帝,號睿祖,妣姜曰康惠皇后;太原靖王為成皇帝,號嚴祖,妣曰成莊皇后;趙肅恭王為章敬皇帝,號肅祖,妣曰章敬皇后;魏義康王為昭安皇帝,號烈祖,妣曰昭安皇后;祖周安成王為文穆皇帝,號顯祖,妣曰文穆皇后;考忠孝太皇為孝明高皇帝,號太祖,妣曰孝明高皇后。罷唐廟為享德廟,四時祠高祖以下三室,餘廢不享。至日,祀上帝萬象神宮,以始祖及考妣配,以百神從祀。盡王諸武。詔并州文水縣為武興,比漢豐、沛,百姓世給復。以始祖冢為德陵,睿祖為喬陵,嚴祖為節陵,肅祖為簡陵,烈祖為靖陵,顯祖為永陵,章德陵為昊陵,明義陵為順陵。

太皇は春秋高しと雖も、善く自ら塗沢し、左右と雖も其の衰たるを悟らず。俄かに二歯生じ、詔を下して元を改めて長壽と為す。明年、神宮を饗け、自ら大樂を製し、舞工九百人を用い、武承嗣を以て亞獻と為し、三思を終献と為す。帝の皇嗣と為るや、公卿往々之を見る。会に尚方監裴匪躬・左衛大將軍阿史那元慶・白澗府果毅薛大信・監門衛大將軍范雲仙潜かに帝に謁す。皆都市に腰斬せらる。是より公卿復た上謁せず。

原文太皇雖春秋高,善自塗澤,雖左右不悟其衰。俄而二齒生,下詔改元為長壽。明年,享神宮,自製大樂,舞工用九百人,以武承嗣為亞獻,三思為終獻。帝之為皇嗣,公卿往往見之,會尚方監裴匪躬、左衛大將軍阿史那元慶、白澗府果毅薛大信、監門衛大將軍范雲仙潛謁帝,皆腰斬都市,自是公卿不復上謁。

封事を上ぐる者有りて嶺南の流人の謀反を言う。太后摂右臺監察御史萬國俊を遣わして就き按ぜしめ、実を得れば即ち論決せしむ。國俊廣州に至り、流人を尽く召し、詔を矯って自尽を賜う。皆号哭して服さず。國俊之を水曲に駆り、逃るるを得ざらしめ、一日に三百余人を戮す。乃ち誣奏して流人の怨望するを請い、悉く之を除かんことを請う。是に於て太后右衛翊府兵曹參軍劉光業・司刑評事王德壽・苑南面監丞鮑思恭・尚輦直長王大貞・右武衛兵曹參軍屈貞筠を遣わし、皆摂監察御史と為し、分かち劍南・黔中・安南等六道に往きて訊鞫せしめ、而して國俊を左臺侍御史に擢つ。光業等も亦上に功を希い、惟だ人の殺す少なきを恐る。光業の殺す者九百人、德壽の殺す者七百人、其の余も亦五百人を減ぜず。太后久しくして其の冤なるを知り、詔して六道の使の殺す所の者を其の家に還す。國俊等も亦相踵いで死す。皆物有りて厲と為るを見ると云う。

原文有上封事言嶺南流人謀反者,太后遣攝右臺監察御史萬國俊就按,得實即論決。國俊至廣州,盡召流人,矯詔賜自盡,皆號哭不服,國俊驅之水曲,使不得逃,一日戮三百餘人。乃誣奏流人怨望,請悉除之。於是太后遣右衛翊府兵曹參軍劉光業、司刑評事王德壽、苑南面監丞鮑思恭、尚輦直長王大貞、右武衛兵曹參軍屈貞筠,皆攝監察御史,分往劍南、黔中、安南等六道訊鞫,而擢國俊左臺侍御史。光業等亦希功於上,惟恐殺人之少。光業殺者九百人,德壽殺七百人,其餘亦不減五百人。太后久乃知其冤,詔六道使所殺者還其家。國俊等亦相踵而死,皆見有物為厲云。

太后又自ら號を加えて金輪聖神皇帝と為し、七寶を廷に置く。曰く金輪寶、曰く白象寶、曰く女寶、曰く馬寶、曰く珠寶、曰く主兵臣寶、曰く主藏臣寶。率ね大朝会すれば則ち之を陳ぶ。又其の顯祖を尊んで立極文穆皇帝と為し、太祖を無上孝明皇帝と為す。延載二年、武三思蕃夷諸酋及び耆老を率いて天樞を作るを請い、太后の功德を紀し、以て唐を黜し周を興す。制して可とす。納言姚璹を使わして護作せしむ。乃ち大いに銅鐵を裒めて合冶し、署して「大周萬國頌德天樞」と曰い、端門外に置く。其の制柱の若く、度高さ一百五尺、八面、面別に五尺、鐵を冶して象山と為し之が趾と為し、銅龍を負いて以てし、石に怪獸を鑱ちて之を環らす。柱の顛は雲蓋と為り、大珠を出だす。高さ丈、圍之を三つす。四蛟を作り、丈二尺を度り、以て珠を承く。其の趾の山周百七十尺、二丈を度る。慮る無く銅鐵二百萬斤を用う。乃ち悉く群臣・蕃酋の名氏を其上に鏤る。

原文太后又自加號金輪聖神皇帝,置七寶於廷:曰金輪寶,曰白象寶,曰女寶,曰馬寶,曰珠寶,曰主兵臣寶,曰主藏臣寶,率大朝會則陳之。又尊其顯祖為立極文穆皇帝,太祖為無上孝明皇帝。延載二年,武三思率蕃夷諸酋及耆老請作天樞,紀太后功德,以黜唐興周,制可。使納言姚璹護作。乃大裒銅鐵合冶之,署曰「大周萬國頌德天樞」,置端門外。其制若柱,度高一百五尺,八面,面別五尺,冶鐵象山為之趾,負以銅龍,石鑱怪獸環之。柱顛為雲蓋,出大珠,高丈,圍三之。作四蛟,度丈二尺,以承珠。其趾山周百七十尺,度二丈。無慮用銅鐵二百萬斤。乃悉鏤群臣、蕃酋名氏其上。

薛懷義寵稍々衰え、而して御醫沈南璆進む。懷義大いに望み、因って明堂に火を放つ。太后之を羞じ、掩いて発せず。懷義愈々很く恣に怏怏たり。乃ち密詔して太平公主健婦を択びて之を殿中に縛らしめ、建昌王武攸寧・将作大匠宗晉卿に命じ壮士を率いて撃殺せしめ、畚車を以て屍を載せて白馬寺に還す。懷義幸昵に負い、気一時を蓋い、百官の上に出づ。其の徒多く法を犯す。御史馮思勖其の姦を劾す。懷義怒り、諸道に遇い、左右に命じて之を毆わしめ、幾くんか死せんとす。言うを敢えず。默啜塞を犯すに及び、新平・伐逆・朔方道大總管に拝し、十八將軍の兵を提げて胡を撃つ。宰相李昭德・蘇味道至って之が長史・司馬と為る。後禁中に入るを猒い、陰かに力少年千人を募りて浮屠と為し、逆謀有り。侍御史周矩状を劾して治験を請う。太后曰く、「第に出でよ、朕将に獄に詣わしめんとす」と。矩臺に坐す。少選、懷義怒馬して廷に造り、直ちに往きて大榻上に坐す。矩吏を召して辞を受けしむ。懷義即ち馬に乗りて去る。矩以て聞す。太后曰く、「是の道人素より狂す、治むるに足らず。力少年は窮劾を聴け」と。矩悉く之を投じて醜裔に放つ。懷義矩を構う。俄に官を免ぜらる。

原文薛懷義寵稍衰,而御醫沈南璆進,懷義大望,因火明堂,太后羞之,掩不發。懷義愈很恣怏怏。乃密詔太平公主擇健婦縛之殿中,命建昌王武攸寧、將作大匠宗晉卿率壯士擊殺之,以畚車載屍還白馬寺。懷義負幸昵,氣蓋一時,出百官上,其徒多犯法。御史馮思勖劾其姦,懷義怒,遇諸道,命左右歐之,幾死,弗敢言。默啜犯塞,拜新平、伐逆、朔方道大總管,提十八將軍兵擊胡,宰相李昭德、蘇味道至為之長史、司馬。後猒入禁中,陰募力少年千人為浮屠,有逆謀。侍御史周矩劾狀請治驗,太后曰:「第出,朕將使詣獄。」矩坐臺,少選,懷義怒馬造廷,直往坐大榻上,矩召吏受辭,懷義即乘馬去。矩以聞,太后曰:「是道人素狂,不足治,力少年聽窮劾。」矩悉投放醜裔。懷義構矩,俄免官。

太后天を南郊に祀り、文王・武王・士彠を以て唐高祖と並び配す。太后號を加えて天冊金輪聖神皇帝と為す。遂に嵩山を封じ、少室に禪し、山の神を冊して帝と為し、配を后と為す。封壇の南に大槲有り、赦の日其の杪に雞を置き、號を「金雞樹」と賜う。自ら『升中述志』を制し、石に刻して後に示す。明堂を改めて通天宮と為し、九州の鼎を鑄り、各其の方に位し、廷中に列ぶ。又天下の黃金を斂めて大儀鐘を作らんとす。克せず。久しくして崇先廟を以て崇尊廟と為し、禮太廟に視す。旋って崇尊廟を復た太廟と為す。

原文太后祀天南郊,以文王、武王、士彠與唐高祖並配。太后加號天冊金輪聖神皇帝。遂封嵩山,禪少室,冊山之神為帝,配為后。封壇南有大槲,赦日置雞其杪,賜號「金雞樹」。自制《升中述志》,刻石示後。改明堂為通天宮,鑄九州鼎,各位其方,列廷中。又斂天下黃金作大儀鐘,不克。久之,以崇先廟為崇尊廟,禮視太廟,旋復崇尊廟為太廟。

懐義が死ぬと、張易之・昌宗が寵愛を受けるようになり、控鶴府を設置した。監・丞・主簿・録事などがあり、監は三品で、易之がこれに任じられた。太后は諸武の王たちが天下の意に合わぬことを自ら見て取り、以前中宗が房州から帰還し、再び皇太子となった際、百年の後唐の宗室に踏み躙られて死に場所もないことを恐れ、直ちに諸武及び相王・太平公主を引き連れて明堂で誓い、天地に告げ、鉄券を作って史館に蔵めさせた。昊陵署を攀龍臺と改めた。久視の初め、控鶴監を天驥府とし、また奉宸府と改め、監を廃して令とし、左右控鶴を奉宸大夫とし、易之が再び令となった。

原文自懷義死,張易之、昌宗得幸,乃置控鶴府,有監,有丞及主簿、錄事等,監三品,以易之為之。太后自見諸武王非天下意,前此中宗自房州還,復為皇太子,恐百歲後為唐宗室躪藉無死所,即引諸武及相王、太平公主誓明堂,告天地,為鐵券使藏史館。改昊陵署為攀龍臺。久視初,以控鶴監為天驥府,又改奉宸府,罷監為令,以左右控鶴為奉宸大夫,易之復為令。

神龍元年、太后は病に罹り、長く平癒せず、迎仙院に居た。宰相張柬之と崔玄暐らが策を立て、中宗に兵を率いて入り易之・昌宗を誅殺するよう請うた。そこで羽林将軍李多祚らが兵を率いて玄武門より入り、二張を院の左で斬った。太后は変事を聞いて起き上がり、桓彦範が進み出て位を譲るよう請うた。太后は寝床に戻り、再び語らなかった。中宗はここに於いて再び即位した。太后を上陽宮に移し、帝は百官を率いて観風殿に赴き起居を問い、その後十日に一度宮に詣でることを常とし、やがて朔日・望日にも朝見した。奉宸府の官を廃し、東都の武氏廟を崇尊廟に選び、名を崇恩と改め、唐の宗廟を復した。諸武の王者は皆爵を降ろされた。この年、后は崩じ、八十一歳。遺制では則天大聖皇太后と称し、帝号を去った。諡して則天大聖后といい、乾陵に合葬された。

原文神龍元年,太后有疾,久不平,居迎仙院。宰相張柬之與崔玄暐等建策,請中宗以兵入誅易之、昌宗,於是羽林將軍李多祚等帥兵自玄武門入,斬二張於院左。太后聞變而起,桓彥範進請傳位,太后返臥,不復語。中宗於是復即位。徙太后上陽宮,帝率百官詣觀風殿問起居,後率十日一詣宮,俄朝朔、望。廢奉宸府官,選東都武氏廟於崇尊廟,更號崇恩,復唐宗廟。諸武王者咸降爵。是歲,后崩,年八十一。遺制稱則天大聖皇太后,去帝號。謚曰則天大聖后,祔乾陵。

時に武三思が韋庶人と私通し、再び政事を用いた。ここにおいて大旱があり、陵に祈ると雨が降った。三思は帝を唆して詔を下し、崇恩廟の祭祀を太廟の如くせしめ、斎郎に五品の子を用いさせた。博士楊孚が言うには、「太廟の諸郎は七品の子を取る。今崇恩が五品を取るは不可なり」と。帝曰く、「太廟を崇恩の如くするは可か」と。孚曰く、「崇恩は太廟の私なり。臣を以て君に準うれば僭上、君を以て臣に準うれば惑乱なり」と。そこで止めた。韋・武の党が誅殺されると、詔して則天大聖皇后を再び天后と号し、崇恩廟及び陵を廃した。景雲元年、大聖天后と号した。太平公主が奸政を為し、二陵の官を復するよう請い、また后を尊んで天后聖帝と称し、やがて聖后と号した。太平が誅せられると、詔して周孝明皇帝の号を削り、再び太原郡王とし、后を妃とし、昊陵・順陵などを廃した。開元四年、則天皇后と追号した。太常卿姜晈が建言して、「則天皇后は高宗廟に配す。主題を天后聖帝とするは是れず、題を則天皇后武氏と改むるを請う」と。制これを可とした。

原文會武三思蒸韋庶人,復用事。於是大旱,祈陵輒雨。三思訹帝詔崇恩廟祠如太廟,齋郎用五品子。博士楊孚言:「太廟諸郎取七品子,今崇恩取五品,不可。」帝曰:「太廟如崇恩可乎?」孚曰:「崇恩太廟之私,以臣準君則僭,以君準臣則惑。」乃止。及韋、武黨誅,詔則天大聖皇后復號天后,廢崇恩廟及陵。景雲元年,號大聖天后。太平公主奸政,請復二陵官,又尊后曰天后聖帝,俄號聖后。太平誅,詔黜周孝明皇帝號,復為太原郡王,后為妃,罷昊、順等陵。開元四年,追號則天皇后。太常卿姜晈建言:「則天皇后配高宗廟,主題天后聖帝,非是,請易題為則天皇后武氏。」制可。

中宗和思趙皇后

原文中宗和思趙皇后

中宗和思順聖皇后趙氏は、京兆長安の人。祖父の綽は、武徳年間に戦功があり、終に右領軍将軍となった。父の瓌は、高祖の常楽公主を娶った。

原文中宗和思順聖皇后趙氏,京兆長安人。祖綽,武德中,戰有功,終右領軍將軍。父瓌,尚高祖常樂公主。

帝が英王であった時、后を妃として聘した。高宗は公主に恩寵特に厚かった。武后は喜ばず、妃を内侍省に幽閉した。瓌は定州刺史・駙馬都尉から括州に貶され、主の朝謁を絶ち、瓌に従って任地に赴いた。妃は囚われた後、戸鍵を厳重に閉ざされ、日に飼料を与えられた。衛士がその竈煙が数日出ないのを窺い、戸を開けて見ると、死んで腐っていた。瓌は寿州刺史として主と共に越王の事に与し、死んだ。神龍元年、妃を追謚して恭皇后とし、瓌に左衛大将軍を贈った。中宗が崩じ、陵事を終えると、韋庶人は臣に非ざるにより合葬できず、有司が上って尊謚を加え、后を定陵に合葬した。

原文帝為英王,聘后為妃。高宗於公主恩尤隆。武后不喜,乃幽妃內侍省。瓌自定州刺史、駙馬都尉貶括州,絕主朝謁,隨瓌之官。妃既囚,扃鍵牢謹,日給飼料。衛者候其突煙數日不出,披戶視之,死腐矣,瓌以壽州刺史與主預越王事,死。神龍元年,追謚妃曰恭皇后,贈瓌左衛大將軍。中宗崩,蕆陵事,韋庶人不臣,不得祔,有司加上尊謚,以后祔定陵。

中宗韋皇后

原文中宗韋皇后

中宗庶人韋氏は、京兆万年の人。祖父の弘表は、貞観年間に曹王府典軍であった。

原文中宗庶人韋氏,京兆萬年人。祖弘表,貞觀中曹王府典軍。

帝が東宮に在った時、后は選ばれて妃となった。嗣聖の初め、皇后に立てられた。やがて帝と共に房陵に在った。使者が至る度に、帝は常に恐れて自殺しようとした。后が止めて言うには、「禍福は何ぞ常ならん。早晩死は同じ。急ぐなかれ」と。帝が再び即位すると、后は中宮に居た。

原文帝在東宮,后被選為妃。嗣聖初,立為皇后。俄與帝處房陵,每使至,帝輒恐,欲自殺。後止曰:「禍福何常,早晚等死耳,無遽!」及帝復即位,后居中宮。

この時、上官昭容が政事に関与し、丁度敬暉らが諸武を尽く誅さんとしていた。武三思は恐れ、昭容を通じて入り請い、后に寵愛を得て、遂に暉らを謀って誅殺させた。初め、帝が幽閉廃位された時、后と約して、「一朝天日を見るに至れば、互いに制せず」と。ここに至って三思と御床に昇り博戯し、帝は傍らで籌を取り、忤わなかった。三思は群臣に唆して后の号を順天皇后と上奏させた。そこで親しく宗廟に謁し、父の玄貞に上洛郡王を贈った。左拾遺賈虚己が建言して、「李氏に非ざる王者は、盟書にて共にこれを棄つ。今国を復して未だ幾ばくもなく、急ぎ后の家を私す。かつ先朝の禍の鑑遠からず。甚だ懼るべし。もし今皇后が固く辞し、天下に後宮の謙譲を知らしむるは、亦善からずや」と。聞き入れなかった。神龍三年、節愍太子が兵を挙げて敗れた。宗楚客が群臣を率いて号を「翊聖」と加えるよう請い、詔これを可とした。禁中に誤って五色の雲が后の衣笥より起つと伝わり、帝は図を描いて朝廷の諸臣に示し、ここにおいて大赦天下し、百官の母・妻に封号を賜った。太史の迦葉志忠が表を上って『桑条歌』十二篇を献じ、后が天命を受くべきと説き、「昔高祖の時、天下は『桃李』を歌い、太宗の時は『秦王破陣』を歌い、高宗は『堂堂』を歌い、天后の世は『武媚娘』を歌い、皇帝が天命を受けては『英王石州』を歌い、后が今天命を受けては『桑条韋』を歌う。蓋し后妃の徳は専ら蠶桑にあり、宗廟の事を共にす」と言った。そこで志忠に第一等の邸宅一区、綵七百段を賜った。太常少卿鄭愔はこれに因って楽府に編入した。楚客はまた補闕の趙延禧に唆して『桑条』を離釈して九十八代と為させ、帝は大いに喜び、延禧を諫議大夫に抜擢した。

原文是時,上官昭容與政事,方敬暉等將盡誅諸武,武三思懼,乃因昭容入請,得幸於后,卒謀暉等誅之。初,帝幽廢,與后約:「一朝見天日,不相制。」至是與三思升御床博戲,帝從旁典籌,不為忤。三思諷群臣上后號為順天皇后。乃親謁宗廟,贈父玄貞上洛郡王。左拾遺賈虛己建言:「非李氏王者,盟書共棄之。今復國未幾,遽私后家,且先朝禍鑒未遠,甚可懼也。如今皇后固辭,使天下知後宮謙讓,不亦善乎?」不聽。神龍三年,節愍太子舉兵敗。宗楚客率群臣請加號「翊聖」,詔可。禁中謬傳有五色雲起后衣笥,帝圖以示諸朝,因大赦天下,賜百官母、妻封號。太史迦葉志忠表上《桑條歌》十二篇,言后當受命,曰:「昔高祖時,天下歌《桃李》;太宗時,歌《秦王破陣》;高宗歌《堂堂》;天后世,歌《武媚娘》;皇帝受命,歌《英王石州》;后今受命,歌《桑條韋》,蓋后妃之德專蠶桑,共宗廟事也。」乃賜志忠第一區,綵七百段。太常少卿鄭愔因之被樂府。楚客又諷補闕趙延禧離釋《桑條》為九十八代,帝大喜,擢延禧諫議大夫。

ここにおいて昭容は武氏の事を以て后を動かした。即ち表を上って出母の喪服を増やし、民は二十三歳を丁とし、五十九歳を限りて免じ、五品以上の母・妻で夫・子の封を受けない者は、喪に鼓吹を用いることを得るとした。数度制度を改め、陰に人望を儲けた。次第に親族を寵愛して立て、封拜した。昭容と母及び尚宮の賀婁らは多く金銭を受けた。巫の趙を隴西夫人に封じ、禁中に出入りし、勢いは上官と等しかった。ここより墨敕斜封が出た。三年、帝は親しく郊祀し、后を引きて亜献とした。翌年、正月の望の夜、帝と后は微行して市を過ぎ、彷徨い観覧し、宮女を出遊させ、皆淫奔して還らなかった。国子祭酒の葉靜能は禁架の術に長け、常侍の馬秦客は医術が高く、光禄少卿の楊均は調理が巧みで、皆後廷に引き入れられた。均・秦客は后と私通し、嘗て喪に服して免官となったが、十日も経たずして復職した。

原文於是昭容以武氏事動后。即表增出母服;民以二十三為丁,限五十九免;五品而上母、妻不繇夫、子封者,喪得用鼓吹。數改制度,陰儲人望。稍寵樹親屬,封拜之。昭容與母及尚宮賀婁等多受金錢。封巫趙隴西夫人,出入禁中,勢與上官埒。繇是墨敕斜封出矣。三年,帝親郊,引后亞獻。明年,正月望夜,帝與后微服過市,彷徉觀覽,縱宮女出遊,皆淫奔不還。國子祭酒葉靜能善禁架,常侍馬秦客高醫,光祿少卿楊均善烹調,皆引入後廷。均、秦客蒸於后,嘗喪免,不歷旬輒起。

帝が弑されると、議する者は囂々として秦客及び安楽公主を咎めた。后は大いに懼れ、親しい者を引き入れて計を議し、刑部尚書の裴談・工部尚書の張錫を以て政を輔けさせ、東都を留守させ、詔して将軍の趙承福・薛簡に兵五百を以て譙王重福を衛させ、兄の溫と策を定め、溫王重茂を皇太子に立て、府兵五万を分けて二営とし京師に屯させ、然る後に喪を発した。太子が即位し、これが殤帝である。皇太后が臨朝し、溫が内外の兵を総べ、宮省を検護した。族弟の濯・播、宗子の捷・璿、璿の甥の高崇及び武延秀が、左右屯営・羽林・飛騎・万騎を分領した。京師は大いに恐れ、革命有らんと伝言した。播・璿が軍中に入り、鞭で万騎を督して威を立てようとしたが、兵士は怨んで用いられなかった。やがて臨淄王が兵を率いて夜に玄武門を抜けて羽林に入り、璿・播・崇を寝所で殺し、斧で関を叩いて太極殿に至り、后は飛騎営に逃げ込み、乱兵に殺された。延秀・安楽公主を斬った。諸韋・諸武とその支党を分捕して悉く誅し、后及び安楽の首を東市に梟した。翌日、追貶して庶人とし、一品の礼を以て葬った。

原文帝遇弒,議者讙咎秦客及安樂公主。后大懼,引所親議計,乃以刑部尚書裴談、工部尚書張錫輔政,留守東都,詔將軍趙承福、薛簡以兵五百衛譙王重福,與兄溫定策,立溫王重茂為皇太子,列府兵五萬分二營屯京師,然後發喪。太子即位,是為殤帝。皇太后臨朝,溫總內外兵,檢護宮省。族弟濯、播,宗子捷、璿,璿甥高崇及武延秀,分領左右屯營、羽林、飛騎、萬騎。京師大恐,傳言且革命。播、璿入軍中,鞭督萬騎欲立威,士怨不為用。俄而臨淄王引兵夜披玄武門入羽林,殺璿、播、崇於寢,斧關叩太極殿,后遁入飛騎營,為亂兵所殺。斬延秀、安樂公主。分捕諸韋、諸武與其支黨,悉誅之,梟后及安樂首東市。翌日,追貶為庶人,葬以一品禮。

上官昭容

原文上官昭容

上官昭容は、名を婉兒といい、西臺侍郎上官儀の孫である。父は廷芝、儀と共に武后の時に死す。母は鄭氏、太常少卿鄭休遠の姉なり。

原文上官昭容者,名婉兒,西臺侍郎儀之孫。父廷芝,與儀死武后時。母鄭,太常少卿休遠之姊。

婉兒は生まれてすぐ、母と共に掖廷に配された。天性聡明で、文章をよくした。十四歳の時、武后に召し見え、制作する所あり、あたかも平素より構えしが如し。通天年間以来、内において詔命を掌り、その文は華麗にして見るべきものあり。かつて旨に忤い誅に当たるも、后はその才を惜しみ、ただ黥するのみで殺さず。然れども群臣の奏議及び天下の事は皆これに関与せしむ。

原文婉兒始生,與母配掖廷。天性韶警,善文章。年十四,武后召見,有所制作,若素構。自通天以來,內掌詔命,掞麗可觀。嘗忤旨當誅,後惜其才,止黥而不殺也。然群臣奏議及天下事皆與之。

帝即位の後、大いに信任を受け、進んで昭容に拝され、鄭沛国夫人に封ぜらる。婉兒は武三思と通じ、故に詔書は武氏を推し右し、唐家を抑え、節愍太子これを不平とす。及んで兵を挙げ、肅章門を叩き婉兒を索めしに、婉兒曰く「我れ死なば、次には皇后・大家(帝)を索めん」と。以て帝を激怒せしめ、帝と后は婉兒を挟みて玄武門に登り避く。会に太子敗れ、乃ち免る。婉兒は帝に勧めて書館を侈大にし、学士の員を増し、大臣名儒を引いて選に充てしむ。数たび宴を賜い詩を賦し、群臣これに賡和す。婉兒は常に帝及び后、長寧・安楽二公主に代わり、衆篇並び作るも、その采麗益々新たなり。又群臣の賦する所を差第し、金爵を賜う。故に朝廷靡然として風を成す。当時属辞する者は、大抵浮靡なれども、得る所皆見るべきものあり、是れ婉兒の力なり。鄭氏卒し、節義夫人と謚す。婉兒は秩を降ろし服を行わんことを請う。詔して婕妤として起し、俄かに昭容に還す。帝は即ち婉兒の居に沼を穿ち巌を築き、飾りを窮め勝趣を尽くし、即ち侍臣を引いて其の所に宴す。是の時、左右の内職は皆外に出るを聴し、何ぞ止めん。婉兒と近嬖至るまで皆外宅を営み、衺人穢夫争いて門下に候い、肆に狎昵し、因りて以て劇職要官を求む。崔湜と乱り、遂に知政事に引く。湜は商山道を開く、未だ半ばせず、帝の遺制に因り、虚しく其の功を列し、甄賞を加う。韋后の敗るるに及び、闕下に斬らる。

原文帝即位,大被信任,進拜昭容,封鄭沛國夫人。婉兒通武三思,故詔書推右武氏,抑唐家,節愍太子不平。及舉兵,叩肅章門索婉兒,婉兒曰:「我死,當次索皇后、大家矣!」以激怒帝,帝與后挾婉兒登玄武門避之。會太子敗,乃免。婉兒勸帝侈大書館,增學士員,引大臣名儒充選。數賜宴賦詩,群臣賡和,婉兒常代帝及后、長寧安樂二主,眾篇並作,而采麗益新。又差第群臣所賦,賜金爵,故朝廷靡然成風。當時屬辭者,大抵雖浮靡,然所得皆有可觀,婉兒力也。鄭卒,謚節義夫人。婉兒請降秩行服,詔起為婕妤,俄還昭容。帝即婉兒居穿沼築巖,窮飾勝趣,即引侍臣宴其所。是時,左右內職皆聽出外,不何止。婉兒與近嬖至皆營外宅,衺人穢夫爭候門下,肆狎昵,因以求劇職要官。與崔湜亂,遂引知政事。湜開商山道,未半,因帝遺制,虛列其功,加甄賞。韋后之敗,斬闕下。

初め、鄭氏方に妊める時、巨人の大なる称を畀えて曰く「此の称を持して天下を量れ」と夢みし。婉兒生まれて一月を逾えし時、母戯れて曰く「称量する者は豈に爾か」と。輒ち啞然として応ず。後に内に機政を秉るに及び、其の夢に符す。景雲年中、追って昭容を復し、惠文と謚す。初め、従母子の王昱は拾遺となり、昱戒めて曰く「上往昔房陵に囚われし時、武氏志を得たり、卒に中興し、天命の在る所、幸いすべからず。三思は釁に乗ずと雖も、天下必ず敗るるを知る。今昭容は上に信ぜらるる所、而してこれに附くは、将に族を滅ぼさん」と。鄭氏以て婉兒を責むるも従わず。節愍三思を誅し、果たしてこれを索め、始めて憂懼す。及んで遺制を草するに、即ち相王を引いて政を輔えしむ。臨淄王兵を起こし、収めらる。婉兒は詔の草稿を以て劉幽求に示す。幽求これを王に言うも、王許さず、遂に誅さる。開元初年、其の文章を裒次し、詔して張説に篇を題せしむ。

原文初,鄭方妊,夢巨人畀大稱曰:「持此稱量天下。」婉兒生逾月,母戲曰:「稱量者豈爾邪?」輒啞然應。後內秉機政,符其夢云。景雲中,追復昭容,謚惠文。始,從母子王昱為拾遺,昱戒曰:「上往囚房陵,武氏得志矣,卒而中興,天命所在,不可幸也。三思雖乘釁,天下知必敗,今昭容上所信,而附之,且滅族!」鄭以責婉兒,不從。節愍誅三思,果索之,始憂懼。及草遺制,即引相王輔政。臨淄王兵起,被收。婉兒以詔草示劉幽求,幽求言之王,王不許,遂誅。開元初,裒次其文章,詔張說題篇。

睿宗肅明劉皇后

原文睿宗肅明劉皇后

睿宗肅明順聖皇后劉氏、祖は徳威、自ら傳あり。儀鳳年中、帝藩に在りし時、孺人として納れ、俄かに妃と為る。寧王、寿昌・代国二公主を生む。帝即位し、皇后と為る。会に帝皇嗣に降号せらるるに及び、復た妃と為る。長寿二年、戸婢に誣えられて竇徳妃と共に蠱道を挟み武后を祝詛すとし、並びにこれを宮中に殺し、葬る所秘にして知る莫し。景雲元年、追って肅明皇后と謚す。

原文睿宗肅明順聖皇后劉氏,祖德威,自有傳。儀鳳中,帝在籓,納為孺人,俄為妃。生寧王、壽昌代國二公主。帝即位,為皇后。會帝降號皇嗣,復為妃。長壽二年,為戶婢誣與竇德妃挾蠱道祝詛武后,並殺之宮中,葬秘莫知。景雲元年,追謚肅明皇后。

睿宗昭成竇皇后

原文睿宗昭成竇皇后

睿宗昭成順聖皇后竇氏、曾祖は抗、父は孝諶、自ら傳あり。

原文睿宗昭成順聖皇后竇氏,曾祖抗,父孝諶,自有傳。

后は婉淑にして、特に礼則に循う。帝相王たりし時、孺人として納る。即位し、徳妃に進む。玄宗及び金仙・玉真二公主を生む。肅明と同様に追謚せられ、並びに魂を招きて東都の南に葬る。肅明は惠陵と曰い、后は靖陵と曰い、別廟を立てて儀坤と曰い以て享る。帝崩じ、皇太后と追称し、肅明と共に橋陵に祔す。后は子を以て貴しと為る故に、先ず睿宗の廟室に祔す。肅明は開元二十年に至りて乃ち廟に祔するを得。

原文后婉淑,尤循禮則。帝為相王,納為孺人;即位,進德妃。生玄宗及金仙、玉真二公主。與肅明同追謚,並招魂葬東都之南,肅明曰惠陵,後曰靖陵,立別廟曰儀坤以享云。帝崩,追稱皇太后,與肅明祔橋陵。後以子貴,故先祔睿宗室。肅明以開元二十年乃得祔廟。

初め、太常は后に謚を加えて「大昭成」と曰えり。或る人言う「法宜しく『聖真』を引きて謚に冠すべし。而して『大昭成』と曰うは、非なり。単言を以てこれに配せば、応に『聖昭』若しくは『睿成』と曰うべし。復言を以てこれに配せば、応に『大聖昭成』『聖真昭成』と曰うべし」と。又太穆皇后初め穆と謚し、高祖崩ずるに及び、帝の謚に合して太穆と曰い、追って太穆神皇后を増す。文徳皇后初め文徳と謚し、太宗崩ずるに及び、合謚して文徳聖皇后と曰うを引き、又范曄の著す漢の光烈等を援いて比とす。太常謂う「曄は帝号を以て后の謚を標す、是れ史家の記事の体なり。婦人は必ずしも夫と同じからず。廟に入りて后と称するは、夫に繫る。朝に在りて太と称するは、子に繫る。『文母』は生ける時の号なり。『文王』は既に没したる後の謚なり。周公豈に夫を以て婦に従わしめんや。漢の法は以て据と為すべからず」と。制して「可」と曰う。天宝八載制詔し、太穆より下六皇后に自り、並びに上に「順聖」の二謚を増すと云う。

原文初,太常加謚後曰「大昭成」。或言:「法宜引『聖真』冠謚,而曰『大昭成』,非也。以單言配之,應曰『聖昭』若『睿成』;以復言配之,應曰『大聖昭成』、『聖真昭成』。」又引太穆皇后始謚穆,及高祖崩,合帝謚曰太穆,追增太穆神皇后;文德皇后始謚文德,及太宗崩,合謚文德聖皇后。又援范曄著漢光烈等為比。太常謂:「曄以帝號標后謚,是史家記事體,婦人非必與夫同也。入廟稱后,繫夫;在朝稱太,繫子。『文母』,生號也;『文王』,既沒謚也。周公豈以夫從婦乎?漢法不可以為據。」制曰「可」。天寶八載制詔,自太穆而下六皇后,並增上「順聖」二謚云。

玄宗王皇后

原文玄宗王皇后

玄宗皇后王氏、同州下邽の人。梁の冀州刺史王神念の裔孫。帝臨淄王たりし時、妃として聘す。将に内難を清めんとし、大計に預かる。先天元年、立てて皇后と為る。久しく子無く、武妃稍々寵有り。后不平とし、顕かにこれを詆る。然れども下を撫ずるに素より恩有り、終に肯て譖短する者無し。帝密かに后を廃せんと欲し、以て姜晈に語る。晈言を漏らし、即ち死す。后の兄守一懼れ、厭勝を求めしむ。浮屠明悟、北斗を祭り、霹靂木を取りて天地の文及び帝の諱いみなを刻み合わせて佩かしめ、曰く「後に子有らば、則天に比せん」と。開元十二年、事覚え、帝自ら臨みて劾するに状有り。乃ち制詔して有司に「皇后は天命祐さず、華にして実ならず、無将の心有り、以て宗廟を承け天下を母儀すべからず。其れ庶人に廃せよ」と。守一に死を賜う。

原文玄宗皇后王氏,同州下邽人。梁冀州刺史神念之裔孫。帝為臨淄王,聘為妃。將清內難,預大計。先天元年,立為皇后。久無子,而武妃稍有寵,后不平,顯詆之。然撫下素有恩,終無肯譖短者。帝密欲廢后,以語姜晈。晈漏言,即死。后兄守一懼,為求厭勝,浮屠明悟教祭北斗,取霹靂木刻天地文及帝諱合佩之,曰:「後有子,與則天比。」開元十二年,事覺,帝自臨劾有狀,乃制詔有司:「皇后天命不祐,華而不實,有無將之心,不可以承宗廟、母儀天下,其廢為庶人。」賜守一死。

初め、后は愛弛れて、自ら安からず。間を承けて泣きて曰く「陛下独り阿忠が紫の半臂を脱ぎて斗の麵を易え、生日の湯餅を為りしを念わざるか」と。帝憫然として容動く。阿忠は、后その父仁皎を呼ぶ云う所なり。繇りて久しくして乃ち廃す。当時王諲『翠羽帳賦』を作りて帝を諷す。未だ幾ばくもせず卒す。一品の礼を以て葬る。後宮これ思慕し、帝も亦悔ゆ。宝応元年、追って后の号を復す。

原文始,后以愛弛,不自安。承閒泣曰:「陛下獨不念阿忠脫紫半臂易斗麵,為生日湯餅邪?」帝憫然動容。阿忠,后呼其父仁皎云。繇是久乃廢。當時王諲作《翠羽帳賦》諷帝。未幾卒,以一品禮葬。後宮思慕之,帝亦悔。寶應元年,追復后號。

玄宗貞順武皇后

原文玄宗貞順武皇后

玄宗貞順皇后武氏、恒安王武攸止の女、幼くして宮に入る。帝即位し、漸く幸を得。時に王皇后廃せらるる故に、進めて冊し惠妃と為し、其の礼秩は皇后に比す。

原文玄宗貞順皇后武氏,恒安王攸止女,幼入宮。帝即位,寖得幸。時王皇后廢,故進冊惠妃,其禮秩比皇后。

初め、帝が潞州に在りし時、趙麗妃は倡優として寵愛を受け、容貌・挙措優れ、歌舞を善くした。開元初年、父と兄は皆美官を得た。及んで楊妃が進み出ると、麗妃の恩寵も弛み、十四年に卒し、謚して和と曰う。太子瑛を生む。而して皇甫徳儀は鄂王を生み、劉才人は光王を生む。皆、藩邸の旧臣なりしが、後に愛薄く、楊妃のみが専寵するに至る。生母楊氏を鄭国夫人に封じ、弟の楊忠を国子祭酒とし、楊信を秘書監とした。遂に皇后に立てんとす。御史潘好礼上疏して曰く、「『礼』に、父母の仇は天を共にせずと。『春秋』に、子として仇を復せざれば、子に非ずと。陛下、武氏を以て后と為さんと欲す。何を以て天下の士に示さんや。妃の再従叔は武三思、従父は武延秀なり。皆、紀を干し常を乱し、天下共に疾む。悪木蔭を垂るるも、志士は息まず。盗泉溢るるも、廉夫は飲まず。匹夫匹婦尚お相択ぶ。況や天子においてをや。願わくは華族を慎選し、神祇の心に称せよ。『春秋』に、宋人の夏父の会、妾を以て夫人と為すこと無し。斉の桓公、葵丘に誓いて曰く、『妾を以て妻と為すこと無し』と。これ聖人の嫡庶の分を明らかにする所以なり。分定まれば、則ち窺競の心息む。今、人間咸に言う、右丞相張説、立后の功を取らんとして復相を図る、と。今、太子は恵妃の生む所に非ず。而して妃に子あり。若し宸極に儷すれば、則ち儲位安からん。古人其の漸を諫むる所以のもの、以て有るなり」と。遂に果たさず。

原文初,帝在潞,趙麗妃以倡幸,有容止,善歌舞。開元初,父兄皆美官。及妃進,麗妃恩亦弛,以十四年卒,謚曰和。生太子瑛。而皇甫德儀生鄂王,劉才人生光王,皆藩邸之舊,後愛薄,而妃乃專寵。封所生母楊鄭國夫人,弟忠國子祭酒,信秘書監。將遂立皇后,御史潘好禮上疏曰:「《禮》,父母讎,不共天。《春秋》,子不復讎,不子也。陛下欲以武氏為后,何以見天下士!妃再從叔三思也,從父延秀也,皆干紀亂常,天下共疾。夫惡木垂蔭,志士不息;盜泉飛溢,廉夫不飲。匹夫匹婦尚相擇,況天子乎?願慎選華族,稱神祇之心。《春秋》:宋人夏父之會,無以妾為夫人;齊桓公誓葵丘曰:『無以妾為妻。』此聖人明嫡庶之分。分定,則窺競之心息矣。今人間咸言右丞相張說欲取立后功圖復相,今太子非惠妃所生,而妃有子,若一儷宸極,則儲位將不安。古人所以諫其漸者,有以也!」遂不果立。

妃の生む子は必ず秀でて聡明なり。凡そ二王・一主、皆、育たず。及んで寿王を生むに及び、帝は寧王に命じて外邸で養わしむ。又、盛王・咸宜・太華の二公主を生む。後に李林甫、寿王の母の寵愛を以て、妃の意に希い、太子・鄂・光の二王を陥れ、皆、廃されて死す。会うこと妃薨じ、年四十余、皇后を追贈し謚を賜い、敬陵に葬る。

原文妃生子必秀嶷,凡二王、一主,皆不育。及生壽王,帝命寧王養外邸。又生盛王、咸宜太華二公主。後李林甫以壽王母愛,希妃意陷太子、鄂光二王,皆廢死。會妃薨,年四十餘,贈皇后及謚,葬敬陵。

玄宗元献楊皇后

原文玄宗元獻楊皇后

玄宗元献皇后楊氏は、華州華陰の人なり。曾祖の楊士達は、隋の納言たり。天授年中、武后の母の党たりしを以て、士達を追封して鄭王と為し、父の楊知慶を太尉とす。

原文玄宗元獻皇后楊氏,華州華陰人。曾祖士達,為隋納言。天授中,以武后母黨,追封士達為鄭王,父知慶太尉。

帝が東宮に在りし時、后は景雲初年に宮中に入り良媛と為る。時に太平公主、帝を忌み、宮中の左右は両端を持し、些細な事も必ず聞こゆ。媛、娠す。帝自ら安からず、密かに侍読張説に語りて曰く、「用事者、吾が子多きを欲せず。奈何」と。説に命じて薬剤を挟みて入らしめ、帝は曲室に於いて自らこれを煮る。夢に、介冑を着て戈を執る者が鼎を三たび巡る有り。而して三たび煮て尽く覆る。以て説に告ぐ。説曰く、「天命なり」と。乃ち止む。男児を生む。これ即ち粛宗なり。

原文帝在東宮,后以景雲初入宮為良媛。時太平公主忌帝,而宮中左右持兩端,纖悉必聞。媛方娠,帝不自安,密語侍讀張說曰:「用事者不欲吾多子,奈何?」命說挾劑以入,帝於曲室自煮之。夢若有介而戈者環鼎三,而三煮盡覆。以告說,說曰:「天命也!」乃止。生男,是為肅宗。

帝即位し、貴嬪と為る。其の姉は、節愍太子の妃なり。初め、粛宗生まる。卜して云く、「養うに宜しからず」と。乃ち王皇后に命じてこれを挙げしむ。后に子無く、粛宗を撫すること己が生むが如し。後又、寧親公主を生みて、乃ち薨ず。説は旧恩有りし故に、子の張垍、寧親公主を尚うことを得たり。粛宗即位し、至徳二載、太上皇蜀より有司に誥して「其の尊称を議せよ」と。遂に上冊して謚す。宝応末、泰陵に祔す。

原文帝即位,為貴嬪。其姊,節愍太子妃也。初,肅宗生,卜云:「不宜養。」乃命王皇后舉之。后無子,撫肅宗如所生。後又生寧親公主,乃薨。說以舊恩,故子垍得尚寧親。肅宗即位,至德二載,太上皇自蜀誥有司「其議尊稱」,遂上冊謚。寶應末,祔泰陵。

玄宗貴妃楊氏

原文玄宗貴妃楊氏

玄宗貴妃楊氏は、隋の梁郡通守楊汪の四世の孫なり。蒲州に籍を移し、遂に永楽の人と為る。幼くして孤となり、叔父の家に養わる。初め寿王妃と為る。開元二十四年、武恵妃薨じ、後宮に帝の意に当たる者無し。或いは言う、妃の姿質は天挺し、掖廷に充つるに宜し、と。遂に召して内禁中にし、之を異とす。即ち自ら妃の意に出づる者と為し、女官の籍を丐い、号して「太真」とす。更に寿王の為に韋昭訓の女を聘し、而して太真は寵幸を得たり。歌舞を善くし、音律に邃く通暁し、且つ智算警穎にして、意を迎えれば輙ち悟る。帝大いに悦び、遂に房宴を専らにす。宮中に号して「娘子」と曰い、儀体は皇后に等し。

原文玄宗貴妃楊氏,隋梁郡通守汪四世孫。徙籍蒲州,遂為永樂人。幼孤,養叔父家。始為壽王妃。開元二十四年,武惠妃薨,後廷無當帝意者。或言妃姿質天挺,宜充掖廷,遂召內禁中,異之,即為自出妃意者,丐籍女官,號「太真」,更為壽王聘韋昭訓女,而太真得幸。善歌舞,邃曉音律,且智算警穎,迎意輒悟。帝大悅,遂專房宴,宮中號「娘子」,儀體與皇后等。

天宝初年、進めて貴妃に冊す。父の楊玄琰を追贈して太尉・斉国公と為す。叔父の楊玄珪を擢て光禄卿とし、宗兄の楊銛を鴻臚卿とし、楊錡を侍御史とし、太華公主を尚わしむ。公主は恵妃の生む所、最も寵遇を見る。而して楊釗も亦漸く顕る。釗は楊国忠なり。三姉皆美しく麗し。帝は姨と呼び、韓・虢・秦の三国に封じて夫人と為し、宮掖に出入りし、恩寵声焰天下を震わす。命婦の班に入る毎に、持盈公主等は皆譲りて敢えて位に就かず。台省・州県、請托を奉じ、奔走期会すること詔勅を過ぐ。四方、献餉結納し、門市の若し。建平・信成の二公主は妃の家と忤るを以て、内封物を追収するに至り、駙馬都尉独孤明は官を失う。

原文天寶初,進冊貴妃。追贈父玄琰太尉、齊國公。擢叔玄珪光祿卿,宗兄銛鴻臚卿,錡侍御史,尚太華公主。主,惠妃所生,最見寵遇。而釗亦寖顯。釗,國忠也。三姊皆美劭,帝呼為姨,封韓、虢、秦三國,為夫人,出入宮掖,恩寵聲焰震天下。每命婦入班,持盈公主等皆讓不敢就位。臺省、州縣奉請托,奔走期會過詔敕。四方獻餉結納,門若市然。建平、信成二公主以與妃家忤,至追內封物,駙馬都尉獨孤明失官。

他日、妃は譴りに因りて楊銛の第に還る。日も中頃に傾き、帝尚お食を御せず、左右を笞りて怒る。高力士、帝の意を験さんと欲し、乃ち白して、殿中の供帳・司農の酒餼百余車を以て妃の所に送らしむ。帝は即ち御膳を分ちて賜う。力士、帝の旨を知り、是の夕、妃を召し還すことを請い、安興坊の門の鍵を下ろして馳せ入らしむ。妃、帝を見て、伏地して謝す。帝釋然とし、撫尉すること甚だ厚し。明日、諸姨食を上る。楽作る。帝、驟に左右に賜うこと資すべからず。是より愈々寵を見、諸姨に賜う錢、歳百万、脂粉の費と為す。楊銛は上柱国に以て門に戟を列ね、楊銛・国忠・諸姨の五家、第舎連亙し、宮禁に擬し、一堂の費み千万緡に率ゆ。他の第に勝るもの有れば、輙ち壊して復た造り、務めて瓌侈を以て相誇詡し、土木の工息まず。帝の得る所の奇珍及び貢献を分ち賜う。使者、道に相銜み、五家一の如し。

原文它日,妃以譴還銛第,比中仄,帝尚不御食,笞怒左右。高力士欲驗帝意,乃白以殿中供帳、司農酒餼百餘車送妃所,帝即以御膳分賜。力士知帝旨,是夕,請召妃還,下鑰安興坊門馳入。妃見帝,伏地謝,帝釋然,撫尉良渥。明日,諸姨上食,樂作,帝驟賜左右不可貲。由是愈見寵,賜諸姨錢歲百萬為脂粉費。銛以上柱國門列戟,與銛、國忠、諸姨五家第舍聯亙,擬憲宮禁,率一堂費緡千萬。見它第有勝者,輒壞復造,務以瓌侈相誇詡,土木工不息。帝所得奇珍及貢獻分賜之,使者相銜於道,五家如一。

妃、遊幸に従う毎に、馬に乗れば則ち力士が轡と策を授く。錦繡官に充て及び金玉を冶瑑する者、凡そ千人、須索を奉じ、奇服秘玩、変化すること神の若し。四方、争って怪珍を為して貢入し、動もすれば耳目を駭す。ここに於いて嶺南節度使せつどし張九章・広陵長史王翼、献ずる所最も優れたりを以て、九章を銀青の階に進め、翼を戸部侍郎に擢つ。天下風靡す。妃は荔枝を嗜み、必ず生きたるを致さんと欲す。乃ち騎を置きて伝送せしめ、数千里を走らせ、味未だ変ぜざるに已に京師に至る。

原文妃每從遊幸,乘馬則力士授轡策。凡充錦繡官及冶瑑金玉者,大抵千人,奉須索,奇服秘玩,變化若神。四方爭為怪珍入貢,動駭耳目。於是嶺南節度使張九章、廣陵長史王翼以所獻最,進九章銀青階,擢翼戶部侍郎,天下風靡。妃嗜荔支,必欲生致之,乃置騎傳送,走數千里,味未變已至京師。

天宝九載、妃復た譴りを得て外第に還る。国忠、吉温に謀る。温、因りて帝に見えて曰く、「婦人の過ち忤うは当に死すべし。然れども何ぞ宮中の一席を惜しみて広く鈇鑕の地と為し、更に外に辱しめんや」と。帝感動し、食を輟み、中人張韜光に詔して之を賜わしむ。妃、韜光に因りて帝に謝して曰く、「妾罪有りて万誅に当たるべし。然れども膚髪の外は皆上の賜う所、今且に死せんとす。報ゆる無し」と。刀を引きて一繚の髪を断ちて之を奏し、曰く、「此を以て留訣とす」と。帝之を見て駭惋し、遽に召し入れて、礼遇初めの如し。因りて又、秦国夫人の第及び国忠の第に幸し、両家に鉅万を賜う。

原文天寶九載,妃復得譴還外第,國忠謀於吉溫。溫因見帝曰:「婦人過忤當死,然何惜宮中一席廣為鈇鑕地,更使外辱乎?」帝感動,輟食,詔中人張韜光賜之。妃因韜光謝帝曰:「妾有罪當萬誅,然膚髮外皆上所賜,今且死,無以報。」引刀斷一繚髮奏之,曰:「以此留訣。」帝見駭惋,遽召入,禮遇如初。因又幸秦國及國忠第,賜兩家鉅萬。

国忠は剣南節度使を遙領するや、毎年十月、帝が華清宮に幸するとき、五家の車騎は皆これに従い、家ごとに別隊をなし、隊ごとに一色を揃え、やがて五家の隊が合わされば、爛漫として万花の如く、川谷は錦繡をなし、国忠は剣南の旗節を先導とした。遺された鈿や堕ちた舄、瑟瑟の珠玉の連なりが、道に狼藉を極め、香気は数十里に聞こえた。十載正月の望夜、妃の家と広寧公主の僮騎が闤門を争い、鞭や棒を振るって喧嘩し、公主は馬から落ち、辛うじて逃げ去った。公主が帝に会って泣いたので、詔して楊氏の奴を殺し、駙馬都尉程昌裔を官位から貶めた。国忠が政を輔けるとき、その息の昢は万春公主を娶り、暄は延和郡主を娶り、弟の鑑は承榮郡主を娶った。また詔して玄琰のために家廟を立て、帝自らその碑を書した。銛と秦国夫人は早く死んだので、韓国夫人・虢国夫人と国忠とは最も久しく貴盛であった。而して虢国夫人は平素より国忠と私通し、頗る人に知られていたが、恥じるところとしなかった。毎回入謁するとき、道中を並び駆け、従監や侍姆百余騎を従え、炬火は蜜の如く尽きず、靚妝が里巷に満ち、幃障を施さず、当時の人はこれを「雄狐」と称した。諸王の子孫で婚聘をなすときは、必ず先ず韓国・虢国を介して請うと、ことごとく遂げられ、数百金乃至千金を謝礼とした。

原文國忠既遙領劍南,每十月,帝幸華清宮,五宅車騎皆從,家別為隊,隊一色,俄五家隊合,爛若萬花,川谷成錦繡,國忠導以劍南旗節。遺鈿墮舄,瑟瑟璣琲,狼藉於道,香聞數十里。十載正月望夜,妃家與廣寧主僮騎爭闤門,鞭挺讙競,主墮馬,僅得去。主見帝泣,乃詔殺楊氏奴,貶駙馬都尉程昌裔官。國忠之輔政,其息昢尚萬春公主,暄尚延和郡主;弟鑑尚承榮郡主。又詔為玄琰立家廟,帝自書其碑。銛、秦國早死,故韓、虢與國忠貴最久。而虢國素與國忠亂,頗為人知,不恥也。每入謁,並驅道中,從監、侍姆百餘騎,炬蜜如盡,靚妝盈里,不施幃障,時人謂為「雄狐」。諸王子孫凡婚聘,必先因韓、虢以請,輒皆遂,至數百千金以謝。

初め、安禄山は辺功あり、帝これを寵し、詔して諸姨と兄弟の約を結ばしめ、而して禄山は妃を母の如く事え、来朝すれば必ず宴餞して歓を結んだ。禄山が反するとき、国忠を誅するを名とし、且つ妃及び諸姨の罪を指して言った。帝は皇太子に軍を撫せしめ、因って禅位せんと欲したが、諸楊は大いに懼れ、廷に哭した。国忠が入って妃に告げると、妃は塊を銜んで死を請い、帝の意は沮まれ、乃ち止んだ。西幸して馬嵬に至ると、陳玄禮らは天下の計をもって国忠を誅し、既に死した後も、軍は解けなかった。帝は力士を遣わして故を問わしめると、曰く「禍本なお在り」と。帝は已むを得ず、妃と訣別し、引き去らせ、路傍の祠の下に縊らせ、屍を紫茵に包み、道側に瘞し、年三十八。

原文初,安祿山有邊功,帝寵之,詔與諸姨約為兄弟,而祿山母事妃,來朝,必宴餞結歡。祿山反,以誅國忠為名,且指言妃及諸姨罪。帝欲以皇太子撫軍,因禪位,諸楊大懼,哭於廷。國忠入白妃,妃銜塊請死,帝意沮,乃止。及西幸至馬嵬,陳玄禮等以天下計誅國忠,已死,軍不解。帝遣力士問故,曰:「禍本尚在!」帝不得已,與妃訣,引而去,縊路祠下,裹屍以紫茵,瘞道側,年三十八。

帝が蜀より還り、その地を通り過ぎるとき、使を遣わしてこれを祭らせ、且つ詔して改葬せしめんとした。礼部侍郎李揆曰く「龍武の将士は国忠が上に負いて乱を速めたとして、天下のためにこれを殺しました。今妃を葬れば、恐らく反仄して自ら疑うでしょう」と。帝は乃ち止めた。密かに中使を遣わして棺槨を具えさせ、他に葬らせた。瘞を啓くとき、故の香囊なお在り、中人がこれを献上すると、帝これを見て、凄然として感し涕を流し、工に命じて別殿に妃の像を描かせ、朝夕往きて、必ず鯁欷した。

原文帝至自蜀,道過其所,使祭之,且詔改葬。禮部侍郎李揆曰:「龍武將士以國忠負上速亂,為天下殺之。今葬妃,恐反仄自疑。」帝乃止。密遣中使者具棺槨它葬焉。啟瘞,故香囊猶在,中人以獻,帝視之,淒感流涕,命工貌妃於別殿,朝夕往,必為鯁欷。

馬嵬の難に、虢国夫人と国忠の妻裴柔らは陳倉に奔った。県令が吏を率いてこれを追うと、賊と心得て、馬を棄てて林に走った。虢国は先ずその二子を殺し、柔は曰く「我に死を丐え」と。即ちその女と並べて刺し殺し、乃ち自ら剄したが、絶えず、吏は載せて獄に置いた。問うて曰く「国家か、賊か」と。吏曰く「互いにこれ有り」と。乃ち死し、陳倉の東郭外に瘞した。

原文馬嵬之難,虢國與國忠妻裴柔等奔陳倉,縣令率吏追之,意以為賊,棄馬走林。虢國先殺其二子,柔曰:「丐我死!」即並其女刺殺之,乃自剄,不殊,吏載置於獄,問曰:「國家乎?賊乎?」吏曰:「互有之。」乃死,瘞陳倉東郭外。

賛して曰く、或いは武后・韋后の唐を乱すこと同一轍なりと称し、武は持久し、韋は亟に滅びしは何ぞやと。議者これを否とす。武后は高宗の時より天子の威福を挟み、四海を脅制し、嗣帝を逐い国号を改むるも、然れども賞罰は己より出で、群臣を仮借せず、上に僭するも下に治まるが故に、能く天年を終え、乱に臨みて亡びず。韋氏は夫に乗じ、朝に淫蒸し、斜封四出し、政放れて一ならず、既に帝を鴆殺し、睿宗を引いて政を輔けしむるも、権の手を去れるを自ら知らず、戚地既に疏く、人心相い挻ぎ、玄宗その事を藉りて豪英を撼かすが故に、取ること遺物を掻くが如く、踵を旋らさずして宗族夷丹し、勢奪われて事浅きなり。然れども二后の後王に遺す戒め、顧みて厚からずや。

原文贊曰:或稱武、韋亂唐同一轍,武持久,韋亟滅,何哉?議者謂否。武后自高宗時挾天子威福,脅制四海,雖逐嗣帝,改國號,然賞罰己出,不假借群臣,僭於上而治於下,故能終天年,阽亂而不亡。韋氏乘夫,淫蒸於朝,斜封四出,政放不一,既鴆殺帝,引睿宗輔政,權去手不自知,戚地已疏,人心相挻,玄宗藉其事以撼豪英,故取若掇遺,不旋踵宗族夷丹,勢奪而事淺也。然二后遺後王戒,顧不厚哉!