新唐書

巻七十六 列傳第一 后妃上

唐の制度:皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があり、これが夫人である。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛があり、これが九嬪である。婕妤・美人・才人が各九人、合わせて二十七人、これが世婦に代わる。宝林・御女・采女が各二十七人、合わせて八十一人、これが御妻に代わる。その他の六尚は、それぞれ乗輿や服御を分掌し、みな員数と序列がある。後世には改廃が一定しなかった。開元の時、皇后の下に四妃を置くのは正しくないとして、恵妃・麗妃・華妃の三妃、六儀、四美人、七才人を置き、尚宮・尚儀・尚服を各二人とし、前代の号と合わせて、おおむね『周官』に倣い増減したという。かくして尚の制度は古いものである。

礼は夫婦を本とし、『詩』は后妃から始まる。治乱はこれによって起こり、興亡はこれにかかわる。盛徳の君主は、帷薄を厳重にし、奥向きの請託が朝廷を乱すことなく、外の言葉が内閨に入ることはない。『関雎』の風が行き渡り、彤史の教化が修まれば、淑やかな範と美しい行いが、さらに内助となる。しかし艶麗な寵姫の出現は、常に中主の時に起こる。床笫の交わりがあれば、情は愛に移り変わり、顔色と言葉が媚び熟すれば、事は私利に奪われる。たやすく昏くなる明を乗じ、断ち切れぬ柔に引かれ、険しい言葉は忠のようであるから受け入れて詰問せず、醜い行いはすでに現れているのに、かえって慣れて良しとする。左右はこれに附き、邪佞の輩はこれを唆す。狡知に富む謀略が悟りを先んじて封じ、哀切な誓いが寵愛の初めに門を閉ざす。天下の事はすでに去ったのに、平然として自覚しない。これが武后・韋后がついにさんさんだつしいしいぎゃくを遂げて王室を喪うに至った所以である。楊貴妃の未だ死なざるに、玄宗はその謀を乱し、張后が中宮を制して、粛宗はほとんど襟を正すばかりであった。ああ、嘆かわしいことである。中葉以降、時は多く変故あり、外には攻討の労があり、内には溺愛の私情は少なく、群閹が朋党して進み、外戚の勢力は分かれた。后妃に大なる善悪はなく、職位を充たすのみであった。故に列傳を篇に著す。

高祖太穆順聖皇后竇氏は、京兆平陵の人である。父の毅は、周において上柱国となり、武帝の姉の襄陽長公主を娶り、隋に入って定州総管・神武公となった。

后は生まれると、髪が首を過ぎて垂れ、三歳で身長と同じ長さになった。『女誡』・『列女伝』などを読み、一度読めば忘れなかった。武帝はこれを愛し、宮中で養い、他の甥とは異なった。時に突厥の女が后となっていたが寵愛がなく、后は密かに諫めて言うには、「わが国は未だ安らかでなく、虜は強盛です。どうか情を抑えて懐柔し、合従を結ばれますように。そうすれば江南・関東はわが国を妨げません」と。武帝は嘉して受け入れた。武帝が崩ずると、哀毀すること実母と同様であった。隋の高祖が禅譲を受けたと聞くと、自ら床の下に身を投げて言うには、「恨むらくは我が男子にあらず、舅家の禍を救うことができぬ」と。毅は急いでその口を掩いで言うには、「妄りに言うな、我が族を赤くするぞ」と。常に主(母の襄陽長公主)に言うには、「この娘は奇相があり、しかも識見が凡ならず、どうして妄りに人に与えられようか」と。そこで二羽の孔雀を屏風に描き、婚を請う者に二矢を射させ、ひそかに目に中れば許すと約束した。射る者は数十人を閲したが、皆合わなかった。高祖が最後に射て、各一目に中てたので、ついに帝に嫁した。

初め、元貞太后(高祖の母)は老衰して病があり、性格はもとより厳格で、諸々の嫁(兄嫁たち)は皆畏れて、敢えて侍る者はいなかった。后はこれに仕えて、ただ一人和やかに謹んで孝を尽くし、ある時は一ヶ月も衣履を解がなかった。篇章や規誡を作ることを得意とし、文には雅な体があった。また書を善くし、高祖の書と混ぜると、人は見分けがつかなかった。涿郡で崩じ、年四十五。

帝(高祖)が煬帝の時に、多くの良馬を飼っていたが、后は見て言うには、「上(煬帝)はこれを好まれます。どうか献上なさいませ。ただ留めておけば罪を速めるだけで、益はありません」と。聞き入れず、間もなく果たして譴責を受けた。帝は後に隋の政が乱れ、多くの妄りな誅殺があるのを見て、自ら安泰を図り、しばしば鷹犬や珍しい駿馬を献上した。煬帝は果たして喜び、将軍の位に抜擢した。そこで泣きながら諸子に言うには、「早く汝らの母の言葉を用いていたなら、この位を得て久しかったであろうに」と。帝が天下を得ると、詔して葬られた園をそのまま寿安陵とし、謚して穆といった。献陵に合葬されるに及び、尊んで太穆皇后とした。

初め、太宗が生まれた時、二龍の符瑞があり、后は諸子の中で最も篤く愛し顧みた。後に即位し、慶善宮に過ぎると、眺めては哽咽し、侍臣を顧みて言うには、「朕はここに生まれた。今、母后は永遠に別れ、我を育てた徳に報いることができない」と。そこで号泣慟哭し、左右は皆涙を流した。そして正寝で后を祭った。ある日、九成宮に幸し、夢に后が平生の如く現れ、覚めてからは、涙が止まらなかった。翌日、詔して有司に命じ倉を大いに開いて貧窮を賑済させ、后への報いとした。上元年間、謚を加えて太穆神皇后とした。

太宗文徳長孫皇后

太宗文徳順聖皇后長孫氏は、河南洛陽らくようの人である。その先祖は魏の拓跋氏で、後に宗室の長となり、よって長孫と号した。高祖の稚は、大丞相・馮翊王。曾祖の裕は、平原公。祖の兕は、左将軍。父の晟は、字を季といい、書史に通じ、敏捷で勇猛、兵事に明るく、隋に仕えて右ぎょう衛将軍となった。

后は図伝を好み、古の善悪を見て自ら鑑とし、礼法を重んじ尊んだ。晟の兄の熾は、周の通道館学士であった。かつて太穆皇后(竇氏)が突厥の女を慰撫するよう勧めたことを聞き、心に銘記していた。常に晟に言うには、「これは明睿の人で、必ず奇子が生まれる。婚を図らないわけにはいかない」と。故に晟は娘を太宗に嫁がせた。后が里帰りした時、舅の高士廉の妾が、大きな馬二頭が丈二(約3.6m)ほどに立って后の舎の外にいるのを見て恐れ、占ったところ、『坤』の卦から『泰』の卦に出た。卜者は言うには、「『坤』は順って天を承け、物を載せてはてなし。馬は地の類なり。『泰』に之くは、これ天地交わりて万物通ずるなり。また以て天地の宜を輔相す。繇辞は『帰妹』の卦に協う。婦人の事なり。女、尊位に処り、中を履みて順に居るは、后妃の象なり」と。時に隠太子(建成)の争いの隙はすでに生じていたが、后は内では高祖に孝事を尽くし、諸妃を謹んで承け、猜疑嫌悪を消し去った。帝が宮中で甲冑を授ける時、后は自ら慰労激励し、兵士は皆感激奮発した。まもなく皇太子妃となり、やがて皇后となった。

性質は倹約質素で、衣服や車駕は用が足りればそれで止めた。ますます書物を読み、化粧や髪梳きの時も少しも廃さなかった。帝と話し、時に天下の事に及ぶと、辞して言うには、「牝鶏が晨を司るは、家の窮まりなり。よろしいでしょうか」と。帝が固く求めても、終いに答えなかった。後宮に罪を得た者がいると、必ず帝の怒りに助けて厳しく処罰を請うが、帝の気が解けるのを待ち、徐々に弁明して取り計らい、終いに冤罪を生じさせなかった。下の嬪が章公主を生んで死ぬと、后は実子のように育てた。侍女が病気になると、自分の飲む薬を止めて与えた。下々はその仁を懐いた。兄の無忌は、帝とはもと布衣の交わりで、天命を佐けた元功として、寝所に出入りした。帝がこれを用いて政を輔けようとすると、后は固く不可と言い、隙を見て言うには、「妾は紫宮に身を寄せ、尊貴はすでに極まっています。私的な親族がさらに朝廷で権力を握ることを願いません。漢の呂氏・霍氏は、戒めとすべきです」と。帝は聞き入れず、自ら無忌を尚書僕射に任用した。后は密かに諭して固く辞退させ、帝は已むを得ず、ようやく聞き入れ、后は喜びを顔に現した。異母兄の安業は品行がなく、父の喪中に、后と無忌を追い出して母方の実家に帰らせた。后が貴くなっても、一度もそのことを口にしなかった。(安業は)将軍の位に抜擢された。後に李孝常らと謀反し、誅殺されようとした時、后は叩頭して言うには、「安業の罪は死に値し赦されません。しかし以前、妾に慈しみをもって遇わなかったことは、人々が知っています。今、法の如くに論ずれば、人々は必ず妾が兄に恨みを晴らしたと言うでしょう。帝のわずらいとならぬでしょうか」と。そこで減刑されて越巂に流されることとなった。太子承乾の乳母が東宮の什器を増やすよう請うと、后は言うには、「太子が患うべきは徳と名の無きことである。器を請うのは何のためか」と。

帝が九成宮に行幸された際、ちょうど病にかかっていたが、柴紹らによる急変の報が届くと、帝は甲冑を着けて立ち上がり、后も病を押して輿に乗って従った。宮司が諫めて止めようとしたが、后は言った、「上様が驚き動揺されているのに、私が安らかでいられようか」。病が次第に重くなると、太子は大赦を請い、広く僧侶を度牒し、災厄を祓い塞ごうとした。后は言った、「死生は天命であり、人の力でどうにかできるものではない。もし福を修めれば延命できるというなら、私は悪事を働いたわけではない。善行が効き目がないなら、私は何を求めようか。しかも赦令は国家の大事である。仏教や道教は異方の教えに過ぎず、いずれも上様がなさらぬことである。どうして私のために天下の法を乱すことができようか」。太子は奏上できず、房玄齢に告げた。玄齢がこれを聞き届けると、帝は嘆賞した。群臣が赦を遂行するよう請うたが、帝が既に許諾した後、后は固く争って止めさせた。危篤に及んで帝と決別する際、当時玄齢は小過で邸に謹慎していたが、后は言った、「玄齢は長く陛下に仕え、奇計秘謀に参画してきました。大過がない限り、お咎めなきよう願います。妾の家は恩沢によって進み、徳なくして禄を食み、禍を招きやすいものです。枢要の地位につけず、外戚として朝請に奉ずるだけで十分です。妾は生きて時世に益なく、死して厚葬すべきではありません。山に因って墳墓とし、墳を築かず、棺槨を用いず、器は瓦木とし、葬送の費用を倹約することを願います。これが妾の忘れられぬことです」。また帝に忠言を容れ諫言を受け入れ、讒言を受けず、遊猟や労役を省くよう請い、死んでも恨みはないと言った。崩御、三十六歳。

后はかつて古の婦人の事跡を採り『女則』十篇を著し、また論じて漢の馬后が外戚を抑制できず、政事に関与させたことを斥け、その車馬の奢侈を戒めたのは、本源を開き末事を憂えたものだと述べた。常に保管者に戒めて言った、「私は自らを省みるために書いたので、条理が整っていない。至尊(帝)にお目にかけぬように」。崩御後、宮司がこれを奏上すると、帝はそのために慟哭し、近臣に示して言った、「后のこの書は後世に伝えるに足る。私は天命が通ぜず情を断ち切れぬわけではない。ただ内に我が良き補佐を失い、哀しみがやむことがないのだ」。謚して文徳と曰い、昭陵に葬る。九嵕山に因り、后の志を成した。帝自ら表を著して始末を序し、陵の左に掲げた。上元年中、謚を文徳聖皇后と加えた。

太宗賢妃徐惠

太宗賢妃徐惠は、湖州長城の人である。生後五月にして言葉を発し、四歳で『論語』『詩経』を通じ、八歳で自ら文章を綴ることを悟った。父の孝徳が試みに『離騷』に擬えて『小山篇』を作らせると、「幽巖を仰ぎて流盼し、桂枝を撫でて凝想す。将に千齢兮此れに遇わんとす、荃何為ぞ兮独り往く」と詠んだ。孝徳は大いに驚き、隠しおおせぬと知り、以後その論著は盛んに伝わった。太宗がこれを聞き、才人として召し出した。手から書物を離さず、文辞は豊かで華やか、文章は滞る考えがなかった。帝はますます礼遇して顧み、孝徳を水部員外郎に抜擢し、惠は再び昇進して充容となった。

貞観末年に、しばしば兵を調発して四夷を討定し、次第に宮室を造営したため、百姓は労苦し怨んだ。惠は上疏して極諫し、かつ言った、「東は遼海を戍り、西は崑丘を討ち、士馬は疲弊消耗し、漕運の糧秣は漂没する。尽きることある農力を棄て、窮まりなき壑(戦場)に赴き、未だ獲ざる衆を図り、既に成れる軍を喪う。故に地広きは、常に安んずるの術にあらず。人労するは、乱れ易きしるしなり」。また言った、「翠微宮・玉華宮などは、山に因り水を藉りて築構の苦しみはないが、工力や雇役の費用は煩わしからぬとは言えない。有道の君は、逸をもって人を逸らす。無道の君は、楽をもって身を楽しませる」。また言った、「伎巧は国を喪う斧斤であり、珠玉は心を蕩かす酖毒である。侈麗で繊細な美は、とどめざるべからず。志は業の泰(安泰)に驕り、体は時の安(平安)に逸する」。その切実で精妙な趣旨は、おおむねこのようであった。帝はその言を善しとし、厚く賜物を与えた。帝が崩御すると、哀慕のあまり病となり、薬を進めようとせず、言った、「帝は私を厚く遇してくださった。犬馬に先んじて園寢(陵墓)に侍ることができれば、これが私の志です」。また詩や連珠を作って意を表した。永徽元年に卒去、二十四歳。賢妃を贈られ、昭陵の石室に陪葬された。

惠の弟の斉聃、斉聃の子の堅は、ともに学問で知られ、妹は高宗の婕妤となり、また文藻があり、世間は漢の班氏一族に擬えた。

高宗廃后王氏

高宗廃后王氏は、へい州祁県の人で、魏の尚書左僕射王思政の孫である。従祖母の同安長公主が后の婉淑なるを以て、太宗に言上して晋王妃とした。王が東宮に居ると、妃も冊立され、父の仁祐は陳州刺史に抜擢された。帝が即位すると、皇后に立てられた。仁祐は特進として魏国公に封ぜられ、母の柳氏は本国夫人となった。仁祐が卒すると、司空しくうを贈られた。

初め、蕭良娣が寵愛されていたが、武才人は貞観末年に先帝の宮人として召し出されて昭儀となり、やがて后や良娣と寵を争い、互いに誹謗し合った。昭儀は詭険であり、すぐに后とその母が媚道を用いて帝を蠱惑したと誣告した。帝はこれを信じ、魏国夫人(后の母)の宮門への出入り許可を取り消し、后の舅の柳奭を中書令から罷免した。李義府らが陰で昭儀を助け、偏った言葉で帝を怒らせ、遂に詔を下して后と良娣をともに庶人に廃し、宮中に囚禁した。后の母と兄、良娣の宗族は悉く嶺南に流された。許敬宗がまた奏上した、「仁祐には他に功績がなく、宮掖の縁故で三事(三公)の列を超えました。今、庶人(王皇后)が宗廟社稷を乱そうと謀り、その罪は宗族を誅滅すべきです。仁祐の棺を斬るべきであり、陛下がその誅罰を窮めず、家は流竄に止められましたが、仁祐が庇護の蔭をもって逆臣の子孫を宥すべきではありません」。詔があり、仁祐の官爵を全て奪った。そして后と良娣はやがて武后に殺され、后の姓を「蟒」、良娣の姓を「梟」と改められた。

初め、帝は后を思い、密かに囚禁所に行き、門が厳重に閉ざされているのを見て、穴から飲食を差し入れ、哀れに思い悲しんで、呼びかけた、「皇后、良娣、無事か?今どこにおる?」。二人は同じ言葉で答えた、「妾どもは罪を以て婢に棄てられました。どうして尊称を得られましょうか」。涙を流して嗚咽した。また言った、「陛下がかつての日を思い出してくださり、妾どもが死して更に生まれ、再び日月(帝后)を見ることができますよう、ここを『回心院』と名付けてくださるよう乞います」。帝は言った、「朕はすぐに処置する」。武后がこれを知ると、詔を促して二人を百回杖打ち、手足を切断し、手を後ろに縛って醸甕に投げ込み、言った、「二人の老婆の骨を酔わせよ!」。数日後に死に、屍をばらばらにした。初め、詔旨が到ると、后は再拝して言った、「陛下万歳!昭儀が恩寵を受け、死ぬのは私の本分です」。良娣のところに至ると、罵って言った、「武氏の狐媚がここまで事を覆した!私は後に猫となり、武氏を鼠として、その喉を扼して報いよう」。后(武后)はこれを聞き、六宮に猫を飼うことを禁じる詔を出した。武后はしばしば二人が髪を振り乱し血を滴らせて厲鬼となるのを見て、これを憎み、巫祝を用いて謝罪させたが、すぐに蓬萊宮に移っても、厲鬼が再び現れたため、多く東都に駐在した。中宗が即位すると、皆その姓を復した。

高宗則天武皇后

高宗則天順聖皇后武氏は、并州文水県の人である。父は士彠、『外戚伝』に見える。文徳皇后が崩御して久しく、太宗が士彠の娘の美しさを聞き、才人として召し出した。時に十四歳。母の楊氏は慟哭して別れを惜しんだが、后は平然として言った、「天子に会うことがどうして福でないと分かりましょうか、どうして子供のように悲しむのですか」。母はその意に従い、泣き止んだ。帝に謁見すると、武媚の号を賜った。帝が崩御すると、嬪御らとともに比丘尼となった。高宗が太子の時、入侍して、彼女を気に入った。王后はその後長く子がなく、蕭淑妃が寵愛されていたため、后(武氏)は内心快く思わなかった。ある日、帝が仏寺を通りかかると、才人(武氏)が会って泣いたので、帝は感動した。后(王皇后)はその様子を察知し、彼女を後宮に引き入れて、妃の寵愛を撹乱しようとした。

才人は権謀術数に長け、詭変窮まるところがなかった。初め、辞を下げて身を低くして皇后に仕えたとき、皇后は喜び、しばしば帝に彼女を誉めたので、昭儀に進んだ。ある日、寵愛が蕭淑妃を上回ると、次第に皇后と不和になった。皇后の性質は簡素で重厚であり、上下に媚び諂うことをせず、母の柳氏も宮人や尚宮に対して軽薄な礼を取らなかった。そこで昭儀は皇后が疎んじる者を窺い、必ず手厚く結びつけ、賜り物があれば全て分け与えた。これにより皇后や淑妃の行動は必ず知ることができ、知ればすぐに帝に報告したが、まだ中傷する材料はなかった。昭儀が女児を産むと、皇后が見舞いに来て弄び、去った後、昭儀は密かに児を衾の下で窒息させ、帝が来るのを待ち、陽に嬉しそうに話し、衾を開けて児を見せると、死んでいた。また驚いて左右に問うと、皆が言うには「皇后がちょうど来られました」。昭儀はすぐに悲しんで泣き、帝は真相を察することができず、怒って言った「皇后が我が子を殺したのか。以前より妃と互いに讒言し嫉んでいたが、今またこのようなことをするのか」。これにより昭儀はその誹謗を入れることができ、皇后は自ら弁解する術がなく、帝はますます昭儀を信愛し、初めて皇后を廃する意を抱いた。久しくして、昭儀に「宸妃」の号を進めようとしたが、侍中韓瑗・中書令来済が言うには「妃嬪には定数があり、今別に号を立てることはできない」。昭儀はそこで皇后とその母が厭勝を行ったと誣告し、帝は以前の遺恨を抱き、その言葉を真実と認め、遂に廃そうとした。長孫無忌・褚遂良・韓瑗及び来済が死を賭して固く争い、帝は躊躇した。しかし中書舍人李義府・衛尉卿許敬宗は元来陰険で、勢いを窺って即座に上表して昭儀を皇后とすることを請うた。帝の決意は固まり、詔を下して皇后を廃した。李勣・于志寧に詔して璽綬を奉じて昭儀を皇后に進め、群臣及び四夷の酋長に命じて肅義門で皇后に朝賀させ、内外の命婦に入謁させた。皇后への朝賀はこれより始まった。

皇后は宗廟に謁見し、再び武士彠を司徒しとに追贈し、爵は周国公、諡は忠孝とし、高祖廟に配食させた。母の楊氏は再び代国夫人に封じられ、家は魏で千戸を食んだ。皇后はそこで『外戚誡』を撰して朝廷に献上し、世間の非難を解釈した。ここにおいて長孫無忌・褚遂良を追放し、死と流刑に次々と陥れ、寵勢は赫々たるものとなった。皇后は城府が深く、痛みを忍び屈辱を恥じず、大事を成就するために、帝は自分を奉じることができると考え、故に公議を引き立てて彼女を立てた。既に志を得ると、すぐに威福を盗み、得意げに畏れ避けることなく、帝もまた懦弱で昏く、全く彼女を制御できず、専断させないようにしたが、久しくして次第に不満を抱いた。麟徳初年、皇后は方士郭行真を召し禁中に入れて蠱道の祈祷を行わせたが、宦官王伏勝がこれを発覚させた。帝は怒り、これにより西台侍郎上官儀を召し、儀は皇后の専横恣肆を指摘し、海内の声望を失い、宗廟を承けることができないと言い、帝の意と合致した。そこで急いで詔を草させて皇后を廃そうとした。左右の者が駆け告げると、皇后は急いで帝の許に行き自ら訴え、帝は恥じて縮み上がり、以前のように彼女を遇したが、まだ彼女が恨んでいると思い、かつ言った「これは全て上官儀が私に教えたのだ」。皇后は許敬宗に諷して上官儀を陥れ、殺させた。

初め、元舅の大臣(長孫無忌)が旨に逆らい、一年も経たずに誅滅され、路上では目配せで噂した。上官儀が誅殺されると、政は房帷に帰し、天子は拱手するのみとなった。群臣の朝賀・四方からの奏章は、皆「二聖」と称した。毎朝政を見るとき、殿中に簾を垂れ、帝と皇后は並んで座り、生殺賞罰は全てその命によるものだった。その忍びて断ずる時は、たとえ甚だ愛する者でも、少しも隠さなかった。帝は晩年ますく中風を病んで支えられず、天下の事は全て皇后に委ねた。皇后はさらに太平の文治事業を行い、大いに諸儒を内禁殿に集め、『列女伝』・『臣軌』・『百僚新誡』・『楽書』などを撰定し、およそ千余篇に及んだ。そこで学士に命じて密かに裁可すべき奏議を裁定させ、宰相の権力を分かたせた。

初め、武士彠は相里氏を娶り、子に元慶・元爽を生んだ。また楊氏を娶り、三人の娘を生んだ。長女は賀蘭越石に嫁ぎ、早く寡婦となり、韓国夫人に封ぜられた。次女が即ち皇后である。三女は郭孝慎に嫁ぎ、以前に死んだ。楊氏は皇后の故により、寵愛日増しに盛んとなり、栄国夫人に徙封された。初め、兄の子の惟良・懐運と元慶らが楊氏及び皇后に対して礼が薄かったので、皇后は恨みを抱いて忘れなかった。この時、元慶は宗正少卿、元爽は少府少監、惟良は司衛少卿、懐運は淄州刺史となっていた。ある日、夫人(楊氏)が酒宴を設け、酣になったとき、惟良に言った「汝らは昔の事を覚えているか。今どう思うか」。惟良は答えて言った「幸い功臣の子として朝廷に位し、後には外戚として進んだことを憂い、栄誉とは思わない」。夫人は怒り、皇后に諷して偽りの退譲をさせ、惟良らを外任させるよう請わせ、天下に私を示さないようにした。これにより、惟良は始州刺史、元慶は龍州刺史、元爽は濠州刺史となり、まもなく事に坐して振州で死んだ。元慶は任地に至り、憂死した。韓国夫人は禁中に出入りし、一人の娘は国の美人で、帝は皆寵愛した。韓国夫人が卒去すると、娘は魏国夫人に封ぜられ、嬪職に備えようとしたが、皇后を憚って決めかねた。皇后は内心甚だ忌み、ちょうど泰山封禅の際、惟良・懐運が嶽牧として参集し、従って京師に還った。皇后は魏国夫人を毒殺し、罪を惟良らに帰し、皆殺しにし、姓を「蝮」と改めた。韓国夫人の子の敏之に武士彠の祭祀を奉ぜさせた。初め、魏国夫人が卒去した時、敏之が弔問に来ると、帝は慟哭したが、敏之は泣いて答えなかった。皇后は言った「この子は私を疑っている」。彼を憎んだ。まもなく貶死した。楊氏は酇・衛二国夫人に徙封され、咸亨元年に卒去し、魯国夫人を追封し、諡は忠烈とし、文武官九品以上及び五等親と外命婦に赴弔させ、王礼をもって咸陽に葬り、班剣・葆杖・鼓吹を給した。時に天下は旱魃に見舞われたが、皇后は偽って表を上って避位を求め、許されなかった。まもなくまた武士彠を太尉兼太子太師・太原郡王に追贈し、魯国忠烈夫人を妃とした。

上元元年、天后の号を進め、十二事を建言した。一、農桑を勧め、賦役を薄くすること。二、三輔の地に給復すること。三、兵を休め、道德をもって天下を化すること。四、南北中尚において浮巧を禁ずること。五、功費力役を省くこと。六、言路を広くすること。七、讒言の口を杜ぐこと。八、王公以下皆『老子』を習うこと。九、父在りて母のためには斉衰三年を服すること。十、上元以前の勲官で既に告身を与えられた者は追核しないこと。十一、京官八品以上は俸給を増すこと。十二、百官で任事久しく、材高く位下の者は進階して滞りを申し述べ得ること。帝は皆詔を下して大略施行した。

蕭淑妃の娘の義陽・宣城公主は掖廷に幽閉され、四十に近くまで嫁がせなかった。太子の弘が帝に言上すると、皇后は怒り、弘を毒殺した。帝は将に詔を下して后に位を譲ろうとしたが、宰相郝処俊が固く諫めたので、やめた。皇后は外に寛裕を示し、人心を劫いて己に帰せしめようとし、即ち上奏して言った「今、群臣は半俸を納め、百姓は口数錢を出して辺兵を贍っているが、四方が妄りに虚実を商うことを恐れます。一斉にこれを罷めるよう請います」。詔して可とした。

儀鳳三年、群臣・蕃夷の長が光順門で皇后に朝賀した。即ち并州に太原郡王廟を建てた。帝は頭眩を病んで視ることができず、侍医の張文仲・秦鳴鶴が言うには「風が上逆しているので、頭を砭って血を出せば治ります」。皇后は内心、帝が危篤になって己が専断できることを幸いとし、怒って言った「これは斬るべきである。帝の体にどうして刺血する場所があろうか」。医師は頓首して命を請うた。帝は言った「医師が疾病を議するのに、どうして罪とせん。かつ我は眩暈に耐えがたい。そのまま行わせよ」。医師が一再に刺すと、帝は言った「我が目が明るくなった」。言い終わらぬうちに、皇后は簾中で再拝して謝し、言った「天が我が師を賜うた」。自ら絹帛と宝物を負って医師に賜った。

帝崩じ、中宗即位す。天后皇太后と称し、遺詔して軍国の大務は参決を聴かしむ。嗣聖元年、太后帝を廃して廬陵王と為し、自ら臨朝し、睿宗を以て即帝位せしむ。后武成殿に坐し、帝群臣を率いて号冊を上る。三日を越え、太后軒に臨み、礼部尚書太尉を摂る武承嗣・太常卿司空を摂る王徳真に命じて嗣皇帝を冊す。是より太后常に紫宸殿に御し、惨紫の帳を施して臨朝す。五世の祖後魏散騎常侍さんきじょうじ克己を追贈して魯国公と為し、妣裴は即ち其の国を以て夫人と為す。高祖斉殷州司馬居常を太尉・北平郡王と為し、妣劉を王妃と為す。曾祖永昌王諮議参軍・贈斉州刺史儉を太尉・金城郡王と為し、妣宋を王妃と為す。祖隋東郡丞・贈并州刺史・大都督ととく華を太尉・太原郡王と為し、妣趙を王妃と為す。皆園邑を置き、戸五十。考を太師・魏王と為し、実戸を加えて五千に満たし、妣を王妃と為し、王の園邑守戸百。時に睿宗立ちたれども、実に之を囚ふ。而して諸武命を擅にす。又魯国公を謚して靖と曰ひ、裴を靖夫人と為す。北平郡王を恭肅と曰ひ、金城郡王を義康と曰ひ、太原郡王を安成と曰ひ、妃は夫の謚に従ふ。太后冊を武成殿に遣はし、使者をして五世の廟室に告げしむ。

ここに柳州司馬李敬業・括蒼令唐之奇・臨海丞駱賓王、太后の天子を脅迫し逐はるるを疾み、憤りに勝へず、乃ち兵を募り揚州大都督府長史陳敬之を殺し、州に拠りて廬陵王を迎へんと欲す。衆十萬に至る。楚州司馬李崇福連和す。盱眙の人劉行挙城を嬰して肯て従はず、敬業之を攻むるも克たず。太后行挙を拝して遊撃将軍と為し、其の弟行実を擢て楚州刺史と為す。敬業南し江を度り潤州を取り、刺史李思文を殺す。曲阿令尹元貞拒戦して死す。太后詔して左玉鈐衛大将軍李孝逸を揚州道行軍大総管と為し、兵三十萬を率いて之を討たしむ。高郵に戦ひ、前鋒左豹韜果毅成三朗、唐之奇に殺さる。又左鷹揚衛大将軍黒歯常之を以て江南道行軍大総管と為し、力を併せしむ。敬業興ること三月にして敗れ、首を東都に伝へ、三州平ぐ。

初め、武承嗣太后に請ひて七廟を立てしむ。中書令裴炎沮み止む。及び敬業の興るに及び、炎を獄に下し、之を殺し、並びに左威衛大将軍程務挺を殺す。太后方に怫恚す。一日、群臣を召して廷に譲りて曰く、「朕天下に負ふ所無し。若等之を知るや」と。群臣唯唯す。太后曰く、「朕先帝を輔くること三十年を踰え、天下を憂労す。爵位富貴は朕の与ふる所なり。天下の安佚は朕の養ふ所なり。先帝群臣を棄て、社稷を以て托す。朕敢へて身を愛するも、人を愛するを知る。今戎首と為る者は皆将相なり。何ぞ負はるるの遽きを見るや。且つ遺を受くる老臣、伉扈にして制し難きこと裴炎の若き有るか。世将の種、亡命を合する能ふこと徐敬業の若き有るか。宿将戦に善くすること程務挺の若き有るか。彼は皆人豪にして、朕に利あらず。朕能く之を戮す。公等の才彼に過ぐる有らば、早く之を為せ。然らずんば、謹んで朕に事へ、天下に笑はるるを遺すなかれ」と。群臣頓首し、敢へて仰ぎ視ること無く、曰く、「惟だ陛下の命に従ふ」と。

久しくして、詔を下し陽に復辟する者の若くす。睿宗情に非ざるを揣り、固より臨朝を請ふ。制して可とす。乃ち銅匭を冶めて一室と為し、東に署して「延恩」と曰ひ、干賞自ら言ふを受く。南に「招諫」と曰ひ、時政の失得を受く。西に「申冤」と曰ひ、抑枉の言はんと欲する所を受く。北に「通玄」と曰ひ、讖歩の秘策を受く。詔して中書門下一官に典領せしむ。

太后爵位を惜しまず、以て四方の豪傑を籠絡し自ら助けと為す。妄男子と雖も、言ふ所合ふ有らば、輒ち次を不にして之を官し、職に称せざるに至れば、尋ねて亦廃し誅し少も縦せず、務めて実材真賢を取る。又天下に謀反逆する者有るを畏れ、詔して変を上るを許し、在所に軽伝を給し、五品の食を供へ、京師に送らしむ。即日に召見し、厚く餌爵賞を以て之を歆動す。凡そ変を言ふ者は、吏何ぞ詰むるを得ず。耘夫蕘子と雖も必ず親しく延見し、之を客館に稟す。敢へて稽へて送らざる者は、以て告ぐる所の罪に之を罪す。故に変を上る者天下に遍く、人々屏息し、敢へて議する者無し。

新豊に山有り、震に因りて突出す。太后以て美祥と為し、其の県を赦し、名を更めて慶山と曰ふ。荊の人俞文俊上言して曰く、「人和せざれば、疣贅生ず。地和せざれば、堆阜出づ。今陛下女主を以て陽位に処る。山変して災と為るは、慶に非ず」と。太后怒り、嶺外に投ず。

詔して乾元殿を毀ちて明堂と為し、浮屠薛懐義を以て使と為し督作せしむ。懐義は鄠の人、本姓は馮氏、名は小寶、偉岸にして淫毒、佯狂して洛陽市にあり。千金公主之を嬖す。主上言して「小宝入侍す可し」と。后召して与に私し、之を悦ぶ。跡を掩はんと欲し、通籍出入を得しめ、祝髮して浮屠と為さしめ、拝して白馬寺主と為す。詔して太平公主の婿薛紹と昭穆を通ぜしめ、紹父として之に事ふ。廄馬を給し、中官を以て騶侍と為す。承嗣・三思と雖も皆尊事して惟だ謹む。是に至りて護作し、士数萬、巨木率一章千人にして乃ち能く引く。又明堂の後を度りて天堂と為し、鴻麗巖奥之に次ぐ。堂成り、拝して左威衛大将軍・梁国公と為す。

初め崇先廟を西京に作り、武氏を享く。承嗣偽りて洛水の石に款き、導きて帝と為さしめ、雍の人唐同泰を遣はして之を献ぜしむ。后号して「宝図」と為し、同泰を擢て遊撃将軍と為す。ここに汜の人又瑞石を上る。太后乃ち上帝を郊みて謝況し、自ら聖母神皇と号し、神皇璽を作り、宝図を改めて「天授聖図」と曰ひ、洛水を号して永昌水と曰ひ、図の在る所を聖図泉と曰ひ、石を勒して洛壇の左に「天授聖図之表」と曰ひ、汜水を改めて広武と曰ふ。時に柄王室を去り、大臣重将皆撓みて逞ふるを得ず。宗室孤外に寄足の地無し。ここに、韓王元嘉等謀りて兵を挙げ天下に唱へ、中宗を迎へ還さんとす。瑯邪王沖・越王貞先づ発す。諸王倉卒として応ずる者無く、遂に敗る。元嘉と魯王霊夔等皆自殺し、余悉く坐して誅さる。諸王牽連して死滅すること殆んど尽くし、子孫嬰褓と雖も亦嶺南に投ず。太后身を洛に拝して図を受け、天子太子・群臣・蛮夷を率ひて以て次に列し、大いに珍禽・奇獣・貢物・鹵簿を壇下に陳べ、礼成りて去る。

永昌元年、万象神宮を享け、服を改めて袞冕と為し、大圭を裯め、鎮圭を執る。睿宗亜献、太子終献。天地を合祭し、五方帝・百神従ひ、高祖・太宗・高宗を以て配し、魏王士彠を引いて従配と為す。九条を班し、百官を訓す。遂に大いに群臣を饗す。士彠を号して周忠孝太皇と為し、楊を忠孝太后と為す。文水の墓を以て章徳陵と為し、咸陽の墓を以て明義陵と為す。太原安成王を周安成王と為し、金城郡王を魏義康王と為し、北平郡王を趙粛恭王と為し、魯国公を太原靖王と為す。

載初年中、また萬象神宮を饗け、太穆・文德の二皇后を以て皇地祇に配し、周の忠孝太后を引いて従配と為す。曌・𠀑・埊・𡆠・囝・〇・𠺞・𢘑・𡕀・𡔈・𠡦・𠙺の十有二文を作る。太后自ら名を曌とす。詔書を改めて制書と為す。周・漢を以て二王の後と為し、虞・夏・殷の後を三恪と為し、唐の属籍を除く。薛懷義を輔國大將軍に拝し、鄂國公に封じ、群の浮屠と『大雲経』を作らしめ、神皇の命を受くる事を言わしむ。春官尚書李思文詭りて言う、「『周書・武成』篇と為り、辞に『垂拱天下治』有り、是れ受命の符なり」と。后喜び、皆天下に班示し、稍々革命を図る。然れども人心の附かざるを畏れ、乃ち陰に忍びて鷙害し、斬殺を肆にして天下を怖しむ。内に酷吏周興・来俊臣等数十人を縦して爪吻と為し、慊かず若しくは素より疑憚する者有らば、必ず危法を以て之を中つ。宗姓の侯王及び他の骨鯁の臣・将相は駢頸して鈇に就き、血は狴戸に丹く、家自ら保つ能わず。太后は奩具を操りて重幃に坐し、而して國命移る。

御史傅遊藝、關内の父老を率いて革命を請い、帝の氏を武に改む。又群臣を脅して固く請わしめ、妄りに鳳上陽宮に集まり、赤雀朝堂に見ゆと言う。天子自ら安からず、亦氏を武と請い、一尊を示す。太后威柄の己に在るを知り、因って大赦天下し、國號を周に改め、自ら聖神皇帝と称し、旗幟は赤を尚び、皇帝を以て皇嗣と為す。武氏の七廟を神都に立てる。周の文王を尊んで文皇帝と為し、號して始祖とし、妣姒を文定皇后と曰う。武王を康皇帝と為し、號して睿祖とし、妣姜を康惠皇后と曰う。太原靖王を成皇帝と為し、號して嚴祖とし、妣を成莊皇后と曰う。趙肅恭王を章敬皇帝と為し、號して肅祖とし、妣を章敬皇后と曰う。魏義康王を昭安皇帝と為し、號して烈祖とし、妣を昭安皇后と曰う。祖の周安成王を文穆皇帝と為し、號して顯祖とし、妣を文穆皇后と曰う。考の忠孝太皇を孝明高皇帝と為し、號して太祖とし、妣を孝明高皇后と曰う。唐廟を罷めて享德廟と為し、四時に高祖以下の三室を祠い、余は廃して饗けず。至日に、上帝を萬象神宮に祀り、始祖及び考妣を以て配し、百神を以て従祀と為す。諸武を尽く王とす。詔して并州文水縣を武興と為し、漢の豊・はいに比し、百姓世に復を給す。始祖の冢を以て德陵と為し、睿祖を喬陵と為し、嚴祖を節陵と為し、肅祖を簡陵と為し、烈祖を靖陵と為し、顯祖を永陵と為し、章德陵を昊陵と為し、明義陵を順陵と為す。

太皇は春秋高しと雖も、善く自ら塗沢し、左右と雖も其の衰たるを悟らず。俄かに二歯生じ、詔を下して元を改めて長壽と為す。明年、神宮を饗け、自ら大樂を製し、舞工九百人を用い、武承嗣を以て亞獻と為し、三思を終献と為す。帝の皇嗣と為るや、公卿往々之を見る。会に尚方監裴匪躬・左衛大將軍阿史那元慶・白澗府果毅薛大信・監門衛大將軍范雲仙潜かに帝に謁す。皆都市に腰斬せらる。是より公卿復た上謁せず。

封事を上ぐる者有りて嶺南の流人の謀反を言う。太后摂右臺監察御史萬國俊を遣わして就き按ぜしめ、実を得れば即ち論決せしむ。國俊廣州に至り、流人を尽く召し、詔を矯って自尽を賜う。皆号哭して服さず。國俊之を水曲に駆り、逃るるを得ざらしめ、一日に三百余人を戮す。乃ち誣奏して流人の怨望するを請い、悉く之を除かんことを請う。是に於て太后右衛翊府兵曹參軍劉光業・司刑評事王德壽・苑南面監丞鮑思恭・尚輦直長王大貞・右武衛兵曹參軍屈貞筠を遣わし、皆摂監察御史と為し、分かち劍南・黔中・安南等六道に往きて訊鞫せしめ、而して國俊を左臺侍御史に擢つ。光業等も亦上に功を希い、惟だ人の殺す少なきを恐る。光業の殺す者九百人、德壽の殺す者七百人、其の余も亦五百人を減ぜず。太后久しくして其の冤なるを知り、詔して六道の使の殺す所の者を其の家に還す。國俊等も亦相踵いで死す。皆物有りて厲と為るを見ると云う。

太后又自ら號を加えて金輪聖神皇帝と為し、七寶を廷に置く。曰く金輪寶、曰く白象寶、曰く女寶、曰く馬寶、曰く珠寶、曰く主兵臣寶、曰く主藏臣寶。率ね大朝会すれば則ち之を陳ぶ。又其の顯祖を尊んで立極文穆皇帝と為し、太祖を無上孝明皇帝と為す。延載二年、武三思蕃夷諸酋及び耆老を率いて天樞を作るを請い、太后の功德を紀し、以て唐を黜し周を興す。制して可とす。納言姚璹を使わして護作せしむ。乃ち大いに銅鐵を裒めて合冶し、署して「大周萬國頌德天樞」と曰い、端門外に置く。其の制柱の若く、度高さ一百五尺、八面、面別に五尺、鐵を冶して象山と為し之が趾と為し、銅龍を負いて以てし、石に怪獸を鑱ちて之を環らす。柱の顛は雲蓋と為り、大珠を出だす。高さ丈、圍之を三つす。四蛟を作り、丈二尺を度り、以て珠を承く。其の趾の山周百七十尺、二丈を度る。慮る無く銅鐵二百萬斤を用う。乃ち悉く群臣・蕃酋の名氏を其上に鏤る。

薛懷義寵稍々衰え、而して御醫沈南璆進む。懷義大いに望み、因って明堂に火を放つ。太后之を羞じ、掩いて発せず。懷義愈々很く恣に怏怏たり。乃ち密詔して太平公主健婦を択びて之を殿中に縛らしめ、建昌王武攸寧・将作大匠宗晉卿に命じ壮士を率いて撃殺せしめ、畚車を以て屍を載せて白馬寺に還す。懷義幸昵に負い、気一時を蓋い、百官の上に出づ。其の徒多く法を犯す。御史馮思勖其の姦を劾す。懷義怒り、諸道に遇い、左右に命じて之を毆わしめ、幾くんか死せんとす。言うを敢えず。默啜塞を犯すに及び、新平・伐逆・朔方道大總管に拝し、十八將軍の兵を提げて胡を撃つ。宰相李昭德・蘇味道至って之が長史・司馬と為る。後禁中に入るを猒い、陰かに力少年千人を募りて浮屠と為し、逆謀有り。侍御史周矩状を劾して治験を請う。太后曰く、「第に出でよ、朕将に獄に詣わしめんとす」と。矩臺に坐す。少選、懷義怒馬して廷に造り、直ちに往きて大榻上に坐す。矩吏を召して辞を受けしむ。懷義即ち馬に乗りて去る。矩以て聞す。太后曰く、「是の道人素より狂す、治むるに足らず。力少年は窮劾を聴け」と。矩悉く之を投じて醜裔に放つ。懷義矩を構う。俄に官を免ぜらる。

太后天を南郊に祀り、文王・武王・士彠を以て唐高祖と並び配す。太后號を加えて天冊金輪聖神皇帝と為す。遂に嵩山を封じ、少室に禪し、山の神を冊して帝と為し、配を后と為す。封壇の南に大槲有り、赦の日其の杪に雞を置き、號を「金雞樹」と賜う。自ら『升中述志』を制し、石に刻して後に示す。明堂を改めて通天宮と為し、九州の鼎を鑄り、各其の方に位し、廷中に列ぶ。又天下の黃金を斂めて大儀鐘を作らんとす。克せず。久しくして崇先廟を以て崇尊廟と為し、禮太廟に視す。旋って崇尊廟を復た太廟と為す。

懐義が死ぬと、張易之・昌宗が寵愛を受けるようになり、控鶴府を設置した。監・丞・主簿・録事などがあり、監は三品で、易之がこれに任じられた。太后は諸武の王たちが天下の意に合わぬことを自ら見て取り、以前中宗が房州から帰還し、再び皇太子となった際、百年の後唐の宗室に踏み躙られて死に場所もないことを恐れ、直ちに諸武及び相王・太平公主を引き連れて明堂で誓い、天地に告げ、鉄券を作って史館に蔵めさせた。昊陵署を攀龍臺と改めた。久視の初め、控鶴監を天驥府とし、また奉宸府と改め、監を廃して令とし、左右控鶴を奉宸大夫とし、易之が再び令となった。

神龍元年、太后は病に罹り、長く平癒せず、迎仙院に居た。宰相張柬之と崔玄暐らが策を立て、中宗に兵を率いて入り易之・昌宗を誅殺するよう請うた。そこで羽林将軍李多祚らが兵を率いて玄武門より入り、二張を院の左で斬った。太后は変事を聞いて起き上がり、桓彦範が進み出て位を譲るよう請うた。太后は寝床に戻り、再び語らなかった。中宗はここに於いて再び即位した。太后を上陽宮に移し、帝は百官を率いて観風殿に赴き起居を問い、その後十日に一度宮に詣でることを常とし、やがて朔日・望日にも朝見した。奉宸府の官を廃し、東都の武氏廟を崇尊廟に選び、名を崇恩と改め、唐の宗廟を復した。諸武の王者は皆爵を降ろされた。この年、后は崩じ、八十一歳。遺制では則天大聖皇太后と称し、帝号を去った。諡して則天大聖后といい、乾陵に合葬された。

時に武三思が韋庶人と私通し、再び政事を用いた。ここにおいて大旱があり、陵に祈ると雨が降った。三思は帝を唆して詔を下し、崇恩廟の祭祀を太廟の如くせしめ、斎郎に五品の子を用いさせた。博士楊孚が言うには、「太廟の諸郎は七品の子を取る。今崇恩が五品を取るは不可なり」と。帝曰く、「太廟を崇恩の如くするは可か」と。孚曰く、「崇恩は太廟の私なり。臣を以て君に準うれば僭上、君を以て臣に準うれば惑乱なり」と。そこで止めた。韋・武の党が誅殺されると、詔して則天大聖皇后を再び天后と号し、崇恩廟及び陵を廃した。景雲元年、大聖天后と号した。太平公主が奸政を為し、二陵の官を復するよう請い、また后を尊んで天后聖帝と称し、やがて聖后と号した。太平が誅せられると、詔して周孝明皇帝の号を削り、再び太原郡王とし、后を妃とし、昊陵・順陵などを廃した。開元四年、則天皇后と追号した。太常卿姜晈が建言して、「則天皇后は高宗廟に配す。主題を天后聖帝とするは是れず、題を則天皇后武氏と改むるを請う」と。制これを可とした。

中宗和思趙皇后

中宗和思順聖皇后趙氏は、京兆長安ちょうあんの人。祖父の綽は、武徳年間に戦功があり、終に右領軍将軍となった。父の瓌は、高祖の常楽公主を娶った。

帝が英王であった時、后を妃として聘した。高宗は公主に恩寵特に厚かった。武后は喜ばず、妃を内侍省に幽閉した。瓌は定州刺史・駙馬都尉から括州に貶され、主の朝謁を絶ち、瓌に従って任地に赴いた。妃は囚われた後、戸鍵を厳重に閉ざされ、日に飼料を与えられた。衛士がその竈煙が数日出ないのを窺い、戸を開けて見ると、死んで腐っていた。瓌は寿州刺史として主と共に越王の事に与し、死んだ。神龍元年、妃を追謚して恭皇后とし、瓌に左衛大将軍を贈った。中宗が崩じ、陵事を終えると、韋庶人は臣に非ざるにより合葬できず、有司が上って尊謚を加え、后を定陵に合葬した。

中宗韋皇后

中宗庶人韋氏は、京兆万年の人。祖父の弘表は、貞観年間に曹王府典軍であった。

帝が東宮に在った時、后は選ばれて妃となった。嗣聖の初め、皇后に立てられた。やがて帝と共に房陵に在った。使者が至る度に、帝は常に恐れて自殺しようとした。后が止めて言うには、「禍福は何ぞ常ならん。早晩死は同じ。急ぐなかれ」と。帝が再び即位すると、后は中宮に居た。

この時、上官昭容が政事に関与し、丁度敬暉らが諸武を尽く誅さんとしていた。武三思は恐れ、昭容を通じて入り請い、后に寵愛を得て、遂に暉らを謀って誅殺させた。初め、帝が幽閉廃位された時、后と約して、「一朝天日を見るに至れば、互いに制せず」と。ここに至って三思と御床に昇り博戯し、帝は傍らで籌を取り、忤わなかった。三思は群臣に唆して后の号を順天皇后と上奏させた。そこで親しく宗廟に謁し、父の玄貞に上洛郡王を贈った。左拾遺賈虚己が建言して、「李氏に非ざる王者は、盟書にて共にこれを棄つ。今国を復して未だ幾ばくもなく、急ぎ后の家を私す。かつ先朝の禍の鑑遠からず。甚だ懼るべし。もし今皇后が固く辞し、天下に後宮の謙譲を知らしむるは、亦善からずや」と。聞き入れなかった。神龍三年、節愍太子が兵を挙げて敗れた。宗楚客が群臣を率いて号を「翊聖」と加えるよう請い、詔これを可とした。禁中に誤って五色の雲が后の衣笥より起つと伝わり、帝は図を描いて朝廷の諸臣に示し、ここにおいて大赦天下し、百官の母・妻に封号を賜った。太史の迦葉志忠が表を上って『桑条歌』十二篇を献じ、后が天命を受くべきと説き、「昔高祖の時、天下は『桃李』を歌い、太宗の時は『秦王破陣』を歌い、高宗は『堂堂』を歌い、天后の世は『武媚娘』を歌い、皇帝が天命を受けては『英王石州』を歌い、后が今天命を受けては『桑条韋』を歌う。蓋し后妃の徳は専ら蠶桑にあり、宗廟の事を共にす」と言った。そこで志忠に第一等の邸宅一区、綵七百段を賜った。太常少卿鄭愔はこれに因って楽府に編入した。楚客はまた補闕の趙延禧に唆して『桑条』を離釈して九十八代と為させ、帝は大いに喜び、延禧を諫議大夫に抜擢した。

ここにおいて昭容は武氏の事を以て后を動かした。即ち表を上って出母の喪服を増やし、民は二十三歳を丁とし、五十九歳を限りて免じ、五品以上の母・妻で夫・子の封を受けない者は、喪に鼓吹を用いることを得るとした。数度制度を改め、陰に人望を儲けた。次第に親族を寵愛して立て、封拜した。昭容と母及び尚宮の賀婁らは多く金銭を受けた。巫の趙を隴西夫人に封じ、禁中に出入りし、勢いは上官と等しかった。ここより墨敕斜封が出た。三年、帝は親しく郊祀し、后を引きて亜献とした。翌年、正月の望の夜、帝と后は微行して市を過ぎ、彷徨い観覧し、宮女を出遊させ、皆淫奔して還らなかった。国子祭酒の葉靜能は禁架の術に長け、常侍の馬秦客は医術が高く、光禄少卿の楊均は調理が巧みで、皆後廷に引き入れられた。均・秦客は后と私通し、嘗て喪に服して免官となったが、十日も経たずして復職した。

帝が弑されると、議する者は囂々として秦客及び安楽公主を咎めた。后は大いに懼れ、親しい者を引き入れて計を議し、刑部尚書の裴談・工部尚書の張錫を以て政を輔けさせ、東都を留守させ、詔して将軍の趙承福・薛簡に兵五百を以て譙王重福を衛させ、兄の溫と策を定め、溫王重茂を皇太子に立て、府兵五万を分けて二営とし京師に屯させ、然る後に喪を発した。太子が即位し、これが殤帝である。皇太后が臨朝し、溫が内外の兵を総べ、宮省を検護した。族弟の濯・播、宗子の捷・璿、璿の甥の高崇及び武延秀が、左右屯営・羽林・飛騎・万騎を分領した。京師は大いに恐れ、革命有らんと伝言した。播・璿が軍中に入り、鞭で万騎を督して威を立てようとしたが、兵士は怨んで用いられなかった。やがて臨淄王が兵を率いて夜に玄武門を抜けて羽林に入り、璿・播・崇を寝所で殺し、斧で関を叩いて太極殿に至り、后は飛騎営に逃げ込み、乱兵に殺された。延秀・安楽公主を斬った。諸韋・諸武とその支党を分捕して悉く誅し、后及び安楽の首を東市に梟した。翌日、追貶して庶人とし、一品の礼を以て葬った。

上官昭容

上官昭容は、名を婉兒といい、西臺侍郎上官儀の孫である。父は廷芝、儀と共に武后の時に死す。母は鄭氏、太常少卿鄭休遠の姉なり。

婉兒は生まれてすぐ、母と共に掖廷に配された。天性聡明で、文章をよくした。十四歳の時、武后に召し見え、制作する所あり、あたかも平素より構えしが如し。通天年間以来、内において詔命を掌り、その文は華麗にして見るべきものあり。かつて旨に忤い誅に当たるも、后はその才を惜しみ、ただげいするのみで殺さず。然れども群臣の奏議及び天下の事は皆これに関与せしむ。

帝即位の後、大いに信任を受け、進んで昭容に拝され、鄭沛国夫人に封ぜらる。婉兒は武三思と通じ、故に詔書は武氏を推し右し、唐家を抑え、節愍太子これを不平とす。及んで兵を挙げ、肅章門を叩き婉兒を索めしに、婉兒曰く「我れ死なば、次には皇后・大家(帝)を索めん」と。以て帝を激怒せしめ、帝と后は婉兒を挟みて玄武門に登り避く。会に太子敗れ、乃ち免る。婉兒は帝に勧めて書館を侈大にし、学士の員を増し、大臣名儒を引いて選に充てしむ。数たび宴を賜い詩を賦し、群臣これに賡和す。婉兒は常に帝及び后、長寧・安楽二公主に代わり、衆篇並び作るも、その采麗益々新たなり。又群臣の賦する所を差第し、金爵を賜う。故に朝廷靡然として風を成す。当時属辞する者は、大抵浮靡なれども、得る所皆見るべきものあり、是れ婉兒の力なり。鄭氏卒し、節義夫人と謚す。婉兒は秩を降ろし服を行わんことを請う。詔して婕妤として起し、俄かに昭容に還す。帝は即ち婉兒の居に沼を穿ち巌を築き、飾りを窮め勝趣を尽くし、即ち侍臣を引いて其の所に宴す。是の時、左右の内職は皆外に出るを聴し、何ぞ止めん。婉兒と近嬖至るまで皆外宅を営み、衺人穢夫争いて門下に候い、肆に狎昵し、因りて以て劇職要官を求む。崔湜と乱り、遂に知政事に引く。湜は商山道を開く、未だ半ばせず、帝の遺制に因り、虚しく其の功を列し、甄賞を加う。韋后の敗るるに及び、闕下に斬らる。

初め、鄭氏方に妊める時、巨人の大なる称を畀えて曰く「此の称を持して天下を量れ」と夢みし。婉兒生まれて一月を逾えし時、母戯れて曰く「称量する者は豈に爾か」と。輒ち啞然として応ず。後に内に機政を秉るに及び、其の夢に符す。景雲年中、追って昭容を復し、惠文と謚す。初め、従母子の王昱は拾遺となり、昱戒めて曰く「上往昔房陵に囚われし時、武氏志を得たり、卒に中興し、天命の在る所、幸いすべからず。三思は釁に乗ずと雖も、天下必ず敗るるを知る。今昭容は上に信ぜらるる所、而してこれに附くは、将に族を滅ぼさん」と。鄭氏以て婉兒を責むるも従わず。節愍三思を誅し、果たしてこれを索め、始めて憂懼す。及んで遺制を草するに、即ち相王を引いて政を輔えしむ。臨淄王兵を起こし、収めらる。婉兒は詔の草稿を以て劉幽求に示す。幽求これを王に言うも、王許さず、遂に誅さる。開元初年、其の文章を裒次し、詔して張説に篇を題せしむ。

睿宗肅明劉皇后

睿宗肅明順聖皇后劉氏、祖は徳威、自ら傳あり。儀鳳年中、帝藩に在りし時、孺人として納れ、俄かに妃と為る。寧王、寿昌・代国二公主を生む。帝即位し、皇后と為る。会に帝皇嗣に降号せらるるに及び、復た妃と為る。長寿二年、戸婢に誣えられて竇徳妃と共に蠱道を挟み武后を祝詛すとし、並びにこれを宮中に殺し、葬る所秘にして知る莫し。景雲元年、追って肅明皇后と謚す。

睿宗昭成竇皇后

睿宗昭成順聖皇后竇氏、曾祖は抗、父は孝諶、自ら傳あり。

后は婉淑にして、特に礼則に循う。帝相王たりし時、孺人として納る。即位し、徳妃に進む。玄宗及び金仙・玉真二公主を生む。肅明と同様に追謚せられ、並びに魂を招きて東都の南に葬る。肅明は惠陵と曰い、后は靖陵と曰い、別廟を立てて儀坤と曰い以て享る。帝崩じ、皇太后と追称し、肅明と共に橋陵に祔す。后は子を以て貴しと為る故に、先ず睿宗の廟室に祔す。肅明は開元二十年に至りて乃ち廟に祔するを得。

初め、太常は后に謚を加えて「大昭成」と曰えり。或る人言う「法宜しく『聖真』を引きて謚に冠すべし。而して『大昭成』と曰うは、非なり。単言を以てこれに配せば、応に『聖昭』若しくは『睿成』と曰うべし。復言を以てこれに配せば、応に『大聖昭成』『聖真昭成』と曰うべし」と。又太穆皇后初め穆と謚し、高祖崩ずるに及び、帝の謚に合して太穆と曰い、追って太穆神皇后を増す。文徳皇后初め文徳と謚し、太宗崩ずるに及び、合謚して文徳聖皇后と曰うを引き、又范曄の著す漢の光烈等を援いて比とす。太常謂う「曄は帝号を以て后の謚を標す、是れ史家の記事の体なり。婦人は必ずしも夫と同じからず。廟に入りて后と称するは、夫に繫る。朝に在りて太と称するは、子に繫る。『文母』は生ける時の号なり。『文王』は既に没したる後の謚なり。周公豈に夫を以て婦に従わしめんや。漢の法は以て据と為すべからず」と。制して「可」と曰う。天宝八載制詔し、太穆より下六皇后に自り、並びに上に「順聖」の二謚を増すと云う。

玄宗王皇后

玄宗皇后王氏、同州下邽の人。梁の冀州刺史王神念の裔孫。帝臨淄王たりし時、妃として聘す。将に内難を清めんとし、大計に預かる。先天元年、立てて皇后と為る。久しく子無く、武妃稍々寵有り。后不平とし、顕かにこれを詆る。然れども下を撫ずるに素より恩有り、終に肯て譖短する者無し。帝密かに后を廃せんと欲し、以て姜晈に語る。晈言を漏らし、即ち死す。后の兄守一懼れ、厭勝を求めしむ。浮屠明悟、北斗を祭り、霹靂木を取りて天地の文及び帝の諱を刻み合わせて佩かしめ、曰く「後に子有らば、則天に比せん」と。開元十二年、事覚え、帝自ら臨みて劾するに状有り。乃ち制詔して有司に「皇后は天命祐さず、華にして実ならず、無将の心有り、以て宗廟を承け天下を母儀すべからず。其れ庶人に廃せよ」と。守一に死を賜う。

初め、后は愛弛れて、自ら安からず。間を承けて泣きて曰く「陛下独り阿忠が紫の半臂を脱ぎて斗の麵を易え、生日の湯餅を為りしを念わざるか」と。帝憫然として容動く。阿忠は、后その父仁皎を呼ぶ云う所なり。繇りて久しくして乃ち廃す。当時王諲『翠羽帳賦』を作りて帝を諷す。未だ幾ばくもせず卒す。一品の礼を以て葬る。後宮これ思慕し、帝も亦悔ゆ。宝応元年、追って后の号を復す。

玄宗貞順武皇后

玄宗貞順皇后武氏、恒安王武攸止の女、幼くして宮に入る。帝即位し、漸く幸を得。時に王皇后廃せらるる故に、進めて冊し惠妃と為し、其の礼秩は皇后に比す。

初め、帝が潞州に在りし時、趙麗妃は倡優として寵愛を受け、容貌・挙措優れ、歌舞を善くした。開元初年、父と兄は皆美官を得た。及んで楊妃が進み出ると、麗妃の恩寵も弛み、十四年に卒し、謚して和と曰う。太子瑛を生む。而して皇甫徳儀は鄂王を生み、劉才人は光王を生む。皆、藩邸の旧臣なりしが、後に愛薄く、楊妃のみが専寵するに至る。生母楊氏を鄭国夫人に封じ、弟の楊忠を国子祭酒とし、楊信を秘書監とした。遂に皇后に立てんとす。御史潘好礼上疏して曰く、「『礼』に、父母の仇は天を共にせずと。『春秋』に、子として仇を復せざれば、子に非ずと。陛下、武氏を以て后と為さんと欲す。何を以て天下の士に示さんや。妃の再従叔は武三思、従父は武延秀なり。皆、紀を干し常を乱し、天下共に疾む。悪木蔭を垂るるも、志士は息まず。盗泉溢るるも、廉夫は飲まず。匹夫匹婦尚お相択ぶ。況や天子においてをや。願わくは華族を慎選し、神祇の心に称せよ。『春秋』に、宋人の夏父の会、妾を以て夫人と為すこと無し。斉の桓公、葵丘に誓いて曰く、『妾を以て妻と為すこと無し』と。これ聖人の嫡庶の分を明らかにする所以なり。分定まれば、則ち窺競の心息む。今、人間咸に言う、右丞相張説、立后の功を取らんとして復相を図る、と。今、太子は恵妃の生む所に非ず。而して妃に子あり。若し宸極に儷すれば、則ち儲位安からん。古人其の漸を諫むる所以のもの、以て有るなり」と。遂に果たさず。

妃の生む子は必ず秀でて聡明なり。凡そ二王・一主、皆、育たず。及んで寿王を生むに及び、帝は寧王に命じて外邸で養わしむ。又、盛王・咸宜・太華の二公主を生む。後に李林甫、寿王の母の寵愛を以て、妃の意に希い、太子・鄂・光の二王を陥れ、皆、廃されて死す。会うこと妃薨じ、年四十余、皇后を追贈し謚を賜い、敬陵に葬る。

玄宗元献楊皇后

玄宗元献皇后楊氏は、華州華陰の人なり。曾祖の楊士達は、隋の納言たり。天授年中、武后の母の党たりしを以て、士達を追封して鄭王と為し、父の楊知慶を太尉とす。

帝が東宮に在りし時、后は景雲初年に宮中に入り良媛と為る。時に太平公主、帝を忌み、宮中の左右は両端を持し、些細な事も必ず聞こゆ。媛、娠す。帝自ら安からず、密かに侍読張説に語りて曰く、「用事者、吾が子多きを欲せず。奈何」と。説に命じて薬剤を挟みて入らしめ、帝は曲室に於いて自らこれを煮る。夢に、介冑を着て戈を執る者が鼎を三たび巡る有り。而して三たび煮て尽く覆る。以て説に告ぐ。説曰く、「天命なり」と。乃ち止む。男児を生む。これ即ち粛宗なり。

帝即位し、貴嬪と為る。其の姉は、節愍太子の妃なり。初め、粛宗生まる。卜して云く、「養うに宜しからず」と。乃ち王皇后に命じてこれを挙げしむ。后に子無く、粛宗を撫すること己が生むが如し。後又、寧親公主を生みて、乃ち薨ず。説は旧恩有りし故に、子の張垍、寧親公主を尚うことを得たり。粛宗即位し、至徳二載、太上皇しょくより有司に誥して「其の尊称を議せよ」と。遂に上冊して謚す。宝応末、泰陵に祔す。

玄宗貴妃楊氏

玄宗貴妃楊氏は、隋の梁郡通守楊汪の四世の孫なり。蒲州に籍を移し、遂に永楽の人と為る。幼くして孤となり、叔父の家に養わる。初め寿王妃と為る。開元二十四年、武恵妃薨じ、後宮に帝の意に当たる者無し。或いは言う、妃の姿質は天挺し、掖廷に充つるに宜し、と。遂に召して内禁中にし、之を異とす。即ち自ら妃の意に出づる者と為し、女官の籍を丐い、号して「太真」とす。更に寿王の為に韋昭訓の女を聘し、而して太真は寵幸を得たり。歌舞を善くし、音律に邃く通暁し、且つ智算警穎にして、意を迎えれば輙ち悟る。帝大いに悦び、遂に房宴を専らにす。宮中に号して「娘子」と曰い、儀体は皇后に等し。

天宝初年、進めて貴妃に冊す。父の楊玄琰を追贈して太尉・斉国公と為す。叔父の楊玄珪を擢て光禄卿とし、宗兄の楊銛を鴻臚卿とし、楊錡を侍御史とし、太華公主を尚わしむ。公主は恵妃の生む所、最も寵遇を見る。而して楊釗も亦漸く顕る。釗は楊国忠なり。三姉皆美しく麗し。帝は姨と呼び、韓・虢・秦の三国に封じて夫人と為し、宮掖に出入りし、恩寵声焰天下を震わす。命婦の班に入る毎に、持盈公主等は皆譲りて敢えて位に就かず。台省・州県、請托を奉じ、奔走期会すること詔勅を過ぐ。四方、献餉結納し、門市の若し。建平・信成の二公主は妃の家と忤るを以て、内封物を追収するに至り、駙馬都尉独孤明は官を失う。

他日、妃は譴りに因りて楊銛の第に還る。日も中頃に傾き、帝尚お食を御せず、左右を笞りて怒る。高力士、帝の意を験さんと欲し、乃ち白して、殿中の供帳・司農の酒餼百余車を以て妃の所に送らしむ。帝は即ち御膳を分ちて賜う。力士、帝の旨を知り、是の夕、妃を召し還すことを請い、安興坊の門の鍵を下ろして馳せ入らしむ。妃、帝を見て、伏地して謝す。帝釋然とし、撫尉すること甚だ厚し。明日、諸姨食を上る。楽作る。帝、驟に左右に賜うこと資すべからず。是より愈々寵を見、諸姨に賜う錢、歳百万、脂粉の費と為す。楊銛は上柱国に以て門に戟を列ね、楊銛・国忠・諸姨の五家、第舎連亙し、宮禁に擬し、一堂の費み千万緡に率ゆ。他の第に勝るもの有れば、輙ち壊して復た造り、務めて瓌侈を以て相誇詡し、土木の工息まず。帝の得る所の奇珍及び貢献を分ち賜う。使者、道に相銜み、五家一の如し。

妃、遊幸に従う毎に、馬に乗れば則ち力士が轡と策を授く。錦繡官に充て及び金玉を冶瑑する者、凡そ千人、須索を奉じ、奇服秘玩、変化すること神の若し。四方、争って怪珍を為して貢入し、動もすれば耳目を駭す。ここに於いて嶺南節度使張九章・広陵長史王翼、献ずる所最も優れたりを以て、九章を銀青の階に進め、翼を戸部侍郎に擢つ。天下風靡す。妃は荔枝を嗜み、必ず生きたるを致さんと欲す。乃ち騎を置きて伝送せしめ、数千里を走らせ、味未だ変ぜざるに已に京師に至る。

天宝九載、妃復た譴りを得て外第に還る。国忠、吉温に謀る。温、因りて帝に見えて曰く、「婦人の過ち忤うは当に死すべし。然れども何ぞ宮中の一席を惜しみて広く鈇鑕の地と為し、更に外に辱しめんや」と。帝感動し、食を輟み、中人張韜光に詔して之を賜わしむ。妃、韜光に因りて帝に謝して曰く、「妾罪有りて万誅に当たるべし。然れども膚髪の外は皆上の賜う所、今且に死せんとす。報ゆる無し」と。刀を引きて一繚の髪を断ちて之を奏し、曰く、「此を以て留訣とす」と。帝之を見て駭惋し、遽に召し入れて、礼遇初めの如し。因りて又、秦国夫人の第及び国忠の第に幸し、両家に鉅万を賜う。

国忠は剣南節度使を遙領するや、毎年十月、帝が華清宮に幸するとき、五家の車騎は皆これに従い、家ごとに別隊をなし、隊ごとに一色を揃え、やがて五家の隊が合わされば、爛漫として万花の如く、川谷は錦繡をなし、国忠は剣南の旗節を先導とした。遺された鈿や堕ちた舄、瑟瑟の珠玉の連なりが、道に狼藉を極め、香気は数十里に聞こえた。十載正月の望夜、妃の家と広寧公主の僮騎が闤門を争い、鞭や棒を振るって喧嘩し、公主は馬から落ち、辛うじて逃げ去った。公主が帝に会って泣いたので、詔して楊氏の奴を殺し、駙馬都尉程昌裔を官位から貶めた。国忠が政を輔けるとき、その息の昢は万春公主を娶り、暄は延和郡主を娶り、弟の鑑は承榮郡主を娶った。また詔して玄琰のために家廟を立て、帝自らその碑を書した。銛と秦国夫人は早く死んだので、韓国夫人・虢国夫人と国忠とは最も久しく貴盛であった。而して虢国夫人は平素より国忠と私通し、頗る人に知られていたが、恥じるところとしなかった。毎回入謁するとき、道中を並び駆け、従監や侍姆百余騎を従え、炬火は蜜の如く尽きず、靚妝が里巷に満ち、幃障を施さず、当時の人はこれを「雄狐」と称した。諸王の子孫で婚聘をなすときは、必ず先ず韓国・虢国を介して請うと、ことごとく遂げられ、数百金乃至千金を謝礼とした。

初め、安禄山は辺功あり、帝これを寵し、詔して諸姨と兄弟の約を結ばしめ、而して禄山は妃を母の如く事え、来朝すれば必ず宴餞して歓を結んだ。禄山が反するとき、国忠を誅するを名とし、且つ妃及び諸姨の罪を指して言った。帝は皇太子に軍を撫せしめ、因って禅位せんと欲したが、諸楊は大いに懼れ、廷に哭した。国忠が入って妃に告げると、妃は塊を銜んで死を請い、帝の意は沮まれ、乃ち止んだ。西幸して馬嵬に至ると、陳玄禮らは天下の計をもって国忠を誅し、既に死した後も、軍は解けなかった。帝は力士を遣わして故を問わしめると、曰く「禍本なお在り」と。帝は已むを得ず、妃と訣別し、引き去らせ、路傍の祠の下に縊らせ、屍を紫茵に包み、道側に瘞し、年三十八。

帝が蜀より還り、その地を通り過ぎるとき、使を遣わしてこれを祭らせ、且つ詔して改葬せしめんとした。礼部侍郎李揆曰く「龍武の将士は国忠が上に負いて乱を速めたとして、天下のためにこれを殺しました。今妃を葬れば、恐らく反仄して自ら疑うでしょう」と。帝は乃ち止めた。密かに中使を遣わして棺槨を具えさせ、他に葬らせた。瘞を啓くとき、故の香囊なお在り、中人がこれを献上すると、帝これを見て、凄然として感し涕を流し、工に命じて別殿に妃の像を描かせ、朝夕往きて、必ず鯁欷した。

馬嵬の難に、虢国夫人と国忠の妻裴柔らは陳倉に奔った。県令が吏を率いてこれを追うと、賊と心得て、馬を棄てて林に走った。虢国は先ずその二子を殺し、柔は曰く「我に死を丐え」と。即ちその女と並べて刺し殺し、乃ち自ら剄したが、絶えず、吏は載せて獄に置いた。問うて曰く「国家か、賊か」と。吏曰く「互いにこれ有り」と。乃ち死し、陳倉の東郭外に瘞した。

賛して曰く、或いは武后・韋后の唐を乱すこと同一轍なりと称し、武は持久し、韋は亟に滅びしは何ぞやと。議者これを否とす。武后は高宗の時より天子の威福を挟み、四海を脅制し、嗣帝を逐い国号を改むるも、然れども賞罰は己より出で、群臣を仮借せず、上に僭するも下に治まるが故に、能く天年を終え、乱に臨みて亡びず。韋氏は夫に乗じ、朝に淫蒸し、斜封四出し、政放れて一ならず、既に帝を鴆殺し、睿宗を引いて政を輔けしむるも、権の手を去れるを自ら知らず、戚地既に疏く、人心相い挻ぎ、玄宗その事を藉りて豪英を撼かすが故に、取ること遺物を掻くが如く、踵を旋らさずして宗族夷丹し、勢奪われて事浅きなり。然れども二后の後王に遺す戒め、顧みて厚からずや。