新唐書

巻五十二 志第四十二 食貨二

巻五十二 志第四十二 食貨二

租庸調の法は、人丁を本とす。開元以後より、天下の戸籍久しく更造せず、丁口は転死し、田畝は売易し、貧富の升降実ならず。その後国家侈費して節なく、大盗起こり、兵興り、財用益々屈し、租庸調の法弊壊す。

原文租庸調之法,以人丁為本。自開元以後,天下戶籍久不更造,丁口轉死,田畝賣易,貧富升降不實。其後國家侈費無節,而大盜起,兵興,財用益屈,而租庸調法弊壞。

代宗の時より、始めて畝を以て税を定め、斂むるに夏秋を以てす。徳宗の相楊炎に至り、遂に両税法を作り、夏輸は六月を過ぎず、秋輸は十一月を過ぎず。両税使を置きて之を総べ、量出して制入す。戸に主・客なく、居る者を以て簿と為し、人に丁・中なく、貧富を以て差と為す。商賈は税三十の一、居る者と均しく役す。田税は大暦十四年の墾田の数を視て定と為す。黜陟使を遣わし諸道の丁産等級を按比し、鰥寡惸独にして済わざる者を免ず。敢えて加斂する有らば、枉法を以て論ず。議者、租・庸・調は高祖・太宗の法なり、軽く改むべからずと為す。而して徳宗方に炎を信用し、疑わず。旧戸三百八十万五千、使者按比して主戸三百八十万、客户三十万を得たり。天下の民、土断せずして地著し、版籍を更えずして其の虚実を得たり。歳に錢二千五十余万緡、米四百万斛こくを斂めて、以て外に供し、錢九百五十余万緡、米千六百余万斛を以て京師に供す。

原文自代宗時,始以畝定稅,而斂以夏秋。至德宗相楊炎,遂作兩稅法,夏輸無過六月,秋輸無過十一月。置兩稅使以總之,量出制入。戶無主、客,以居者為簿;人無丁、中,以貧富為差。商賈稅三十之一,與居者均役。田稅視大曆十四年墾田之數為定。遣黜陟使按比諸道丁產等級,免鰥寡惸獨不濟者。敢有加斂,以枉法論。議者以租、庸、調,高祖、太宗之法也,不可輕改。而德宗方信用炎,不疑也。舊戶三百八十萬五千,使者按比得主戶三百八十萬,客戶三十萬。天下之民,不土斷而地著,不更版籍而得其虛實。歲斂錢二千五十餘萬緡,米四百萬斛,以供外;錢九百五十餘萬緡,米千六百餘萬斛,以供京師。

税法既に行わるるや、民力未だ寬ならざるに、朱滔・王武俊・田悦合従して叛き、用益々給せず、借商の令出づ。初め、太常博士韋都賓・陳京、富商の錢を借らんことを請う。徳宗以て度支杜佑に問う。軍費裁数箇月を支え、幸いに商錢五百万緡を得ば、半歳を支う可しと為す。乃ち戸部侍郎趙贊を以て度支を判し、佑に代わりて借錢令を行わしめ、約して兵を罷すれば乃ち之を償わしむ。京兆少尹韋楨・長安丞薛萃、搜督甚だ峻しく、民に其の冤に勝えず自経する者有り、家盗まれたるが若し。然れども京師豪人の田宅・奴婢の估を総べ、裁八十万緡を得たり。又僦櫃納質錢及び粟麥巿に糶する者を取り、四に其の一を取る。長安罷巿を為し、市民相率いて遮り邀えて宰相に哭訴す。盧杞疾駆して過ぐ。韋楨懼れ、乃ち錢百緡に及ばず、粟麥五十斛に及ばざる者は免ぜしむるを請う。而して獲る所裁二百万緡。淮南節度使せつどし陳少游其の本道の税錢を増し、毎緡二百、因りて詔して天下皆之を増さしむ。

原文稅法既行,民力未及寬,而朱滔、王武俊、田悅合從而叛,用益不給,而借商之令出。初,太常博士韋都賓、陳京請借富商錢,德宗以問度支杜佑,以為軍費裁支數月,幸得商錢五百萬緡,可支半歲。乃以戶部侍郎趙贊判度支,代佑行借錢令,約罷兵乃償之。京兆少尹韋楨、長安丞薛萃,搜督甚峻,民有不勝其冤自經者,家若被盜。然總京師豪人田宅、奴婢之估,裁得八十萬緡。又取僦櫃納質錢及粟麥糶於巿者,四取其一,長安為罷市,市民相率遮邀宰相哭訴,盧杞疾驅而過。韋楨懼,乃請錢不及百緡、粟麥不及五十斛者免,而所獲裁二百萬緡。淮南節度使陳少游增其本道稅錢,每緡二百,因詔天下皆增之。

太宗の時より義倉及び常平倉を置きて以て凶荒に備う。高宗以後、稍く義倉を仮りて以て他の費に給す。神龍中に至り略く尽く。玄宗即位し、復た之を置く。其の後第五琦、天下の常平倉皆庫を置き、以て本錢を畜えんことを請う。是に至り趙贊又言す、「軍興より、常平倉廃れて垂三十年、凶荒潰散し、餧死相食し、紀すべからず。陛下即位し、京城両市に常平官を置く。頻年少雨と雖も、米騰貴せず。推して之を広むべし、兼ねて布帛を儲うべし。請う、両都・江陵・成都・揚・汴・蘇・洪に常平軽重本錢を置き、上は百万緡に至り、下は十万に至り、米・粟・布・帛・絲・麻を積み、貴ければ則ち下価を以て之を出し、賤ければ則ち估を加えて之を収めん。諸道の津会に吏を置き、商賈の錢を閲し、毎緡二十を税し、竹・木・茶・漆は十の一を税し、以て常平本錢を贍せん」と。徳宗其の策を納る。軍用迫蹵に属し、亦随いて耗竭し、常平の積を備うる能わず。

原文自太宗時置義倉及常平倉以備凶荒,高宗以後,稍假義倉以給他費,至神龍中略盡。玄宗即位,復置之。其後第五琦請天下常平倉皆置庫,以畜本錢。至是趙贊又言:「自軍興,常平倉廢垂三十年,凶荒潰散,餧死相食,不可勝紀。陛下即位,京城兩市置常平官,雖頻年少雨,米不騰貴,可推而廣之,宜兼儲布帛。請於兩都、江陵、成都、揚、汴、蘇、洪置常平輕重本錢,上至百萬緡,下至十萬,積米、粟、布、帛、絲、麻,貴則下價而出之,賤則加估而收之。諸道津會置吏,閱商賈錢,每緡稅二十,竹、木、茶、漆稅十之一,以贍常平本錢。」德宗納其策。屬軍用迫蹵,亦隨而耗竭,不能備常平之積。

是の時、諸道賊を討ち、兵外に在る者は、度支出界糧を給す。毎軍、臺省官一人を以て糧料使と為し、供億を主どる。士卒出境すれば、則ち酒肉を給す。一卒出境すれば、三人の費を兼ぬ。将士之に利し、境を逾えて屯す。

原文是時,諸道討賊,兵在外者,度支給出界糧。每軍以臺省官一人為糧料使,主供億。士卒出境,則給酒肉。一卒出境,兼三人之費。將士利之,逾境而屯。

趙贊復た間架を税し、除陌を算せんことを請う。其の法、屋二架を間と為し、上間錢二千、中間一千、下間五百、一間を匿せば杖六十、告する者賞錢五万。除陌法、公私貿易、千錢旧算二十、加えて五十と為す。物両相易する者、直を約して率と為す。而して民益々愁怨す。涇原の兵反するに及び、大いに長安市中に謼びて曰く、「爾が商戶の僦質を奪わず、爾が間架・除陌を税せず」と。是に於いて間架・除陌・竹・木・茶・漆・鉄の税皆罷む。

原文趙贊復請稅間架,算除陌。其法:屋二架為間,上間錢二千,中間一千,下間五日;匿一間,杖六十,告者賞錢五萬。除陌法:公私貿易,千錢舊算二十,加為五十;物兩相易者,約直為率。而民益愁怨。及涇原兵反,大謼長安市中曰:「不奪爾商戶僦質,不稅爾間架、除陌矣。」於是間架、除陌、竹、木、茶、漆、鐵之稅皆罷。

朱泚平ぎ、天下の戸口三に其二を耗す。貞元四年、詔して天下の両税、等第の高下を審らかにし、三年ごとに一定の戸とせしむ。初め両税を定むるより、貨重く錢軽し。乃ち錢を計りて綾絹を輸す。既にして物価愈々下り、納むる所愈々多し。絹一匹錢三千二百と為る。其の後一匹錢一千六百と為る。一を輸する者二を過ぐ。賦旧に増えざるも、民愈々困す。度支、税物を以て諸司に頒ち、皆本価を増して虚估を以て之を給し、而して濫悪を繆りて以て州県に剝価を督め、之を折納と謂う。復た「進奉」「宣索」の名有り、科役を改めて「召雇」と曰い、率配を「和市」と曰いて、以て微文を巧みに避け、大暦の数に比して再倍す。又癘疫水旱有り、戸口減耗す。刺史戸を析き、虚数を張りて以て責を寬む。逃死闕税、居る者に取り、一室空しくして四鄰亦尽く。戸版緝めず、浮游の禁無し。州県小恵を行いて以て鄰境を傾誘し、新たに収むる者を優仮す。唯だ安居遷らざるの民、賦役日々重し。帝以て宰相陸贄に問う。贄上疏して其の甚だ害する者を釐革せんことを請う。大略六有り。其の一曰く。

原文朱泚平,天下戶口三耗其二。貞元四年,詔天下兩稅審等第高下,三年一定戶。自初定兩稅,貨重錢輕,乃計錢而輸綾絹。既而物價愈下,所納愈多,絹匹為錢三千二百,其後一匹為錢一千六百,輸一者過二,雖賦不增舊,而民愈困矣。度支以稅物頒諸司,皆增本價為虛估給之,而繆以濫惡督州縣剝價,謂之折納。復有「進奉」、「宣索」之名,改科役曰「召雇」,率配曰「和市」,以巧避微文,比大曆之數再倍。又癘疫水旱,戶口減耗,刺史析戶,張虛數以寬責。逃死闕稅,取於居者,一室空而四鄰亦盡。戶版不緝,無浮游之禁,州縣行小惠以傾誘鄰境,新收者優假之,唯安居不遷之民,賦役日重。帝以問宰相陸贄,贄上疏請釐革其甚害者,大略有六:其一曰:

国家の賦役の法は、租・調・庸という。その法を取ることは遠く、その財を斂めることは均しく、その人を域することは固い。田有れば則ち租有り、家有れば則ち調有り、身有れば則ち庸有り、天下の法制均一にして、転徙するも其の姦を容るる莫し、故に人に揺るぐ心無し。天宝の末、海内波蕩し、版図は避地に隳ち、賦法は奉軍に壊る。賦役の旧法、之を行ふこと百年、人以て便と為す。兵興り、供億常ならず、誅求制を隳し、此時の弊にして、法の弊に非ざるなり。時に弊有りて未だ理めず、法に弊無くして已に更む。両税の新制、編氓を竭耗し、日に日に滋甚なり。陛下初めに即位し、宜しく上を損じて下を益し、用を嗇みて財を節し、而して郡邑を摘み、簿書を験し、州に大暦中の一年科率多き者を取りて両税の定法と為す、此れ総べて名無き暴賦を立てて常規と為すなり。夫れ財の生ずる所は、必ず人力に因る。両税は資産を以て宗と為し、丁身を以て本と為さず、資産少なき者は税軽く、多き者は税重し。襟懐囊篋に蔵し、物貴くして人窺ふ莫き者有るを知らず、場圃・囷倉有りて、直軽くして衆以て富と為す者有り、流通蕃息の貨有りて、数寡なきも日に其の贏を収むる者有り、廬舍器用有りて、価高くして終歳利寡なき者有るを。計估算緡、平を失ひ偽を長じ、軽費を挟みて転徙する者は傜税を脱し、本業を敦むる者は斂求に困む。此れ之を誘いて姦を為さしめ、之を駆りて役を避けしむるなり。今傜賦軽重相百し、而して旧を以て準と為し、重き処は流亡益多く、軽き処は帰附益衆し。流亡有れば則ち攤出し、已に重き者は愈々重く、帰附有れば則ち散出し、已に軽き者は愈々軽し。人其の弊を嬰く。願くは有司に詔して宰相と年支を量り、不急なる者は之を罷め、広費なる者は之を節せしむべし。軍興の加税、諸道権宜の増す所は、皆停む可し。税物の估価は、宜しく月平を視、京に至り色様に符する者は、虚に折估と称することを得ず。濫悪有れば、官吏を罪し、百姓を督むること勿れ。毎道に両税判官を知る者一人を以て度支と参計し戸数を計ひ、土地の沃瘠・物産の多少を量りて二等と為し、州等下なる者は銭少なく配し、高き者は銭多く配す。法を変へずして逋逃漸く息まん。

原文國家賦役之法,曰租、曰調、曰庸。其取法遠,其斂財均,其域人固。有田則有租,有家則有調,有身則有庸,天下法制均壹,雖轉徙莫容其姦,故人無搖心。天寶之季,海內波蕩,版圖隳於避地,賦法壞於奉軍。賦役舊法,行之百年,人以為便。兵興,供億不常,誅求隳制,此時弊,非法弊也。時有弊而未理,法無弊而已更。兩稅新制,竭耗編甿,日日滋甚。陛下初即位,宜損上益下,嗇用節財,而摘郡邑,驗簿書,州取大曆中一年科率多者為兩稅定法,此總無名之暴賦而立常規也。夫財之所生,必因人力。兩稅以資產為宗,不以丁身為本,資產少者稅輕,多者稅重。不知有藏於襟懷囊篋,物貴而人莫窺者;有場圃、囷倉,直輕而衆以為富者;有流通蕃息之貨,數寡而日收其贏者;有廬舍器用,價高而終歲利寡者。計估算緡,失平長偽,挾輕費轉徙者脫傜稅,敦本業者困斂求。此誘之為姦,敺之避役也。今傜賦輕重相百,而以舊為準,重處流亡益多,輕處歸附益衆。有流亡則攤出,已重者愈重;有歸附則散出,已輕者愈輕。人嬰其弊。願詔有司與宰相量年支,有不急者罷之,廣費者節之。軍興加稅,諸道權宜所增,皆可停。稅物估價,宜視月平,至京與色樣符者,不得虛稱折估。有濫惡,罪官吏,勿督百姓。每道以知兩稅判官一人與度支參計戶數,量土地沃瘠、物產多少為二等,州等下者配錢少,高者配錢多。不變法而逋逃漸息矣。

其二に曰く、

原文其二曰:

播殖は力に非ざれば成らず、故に先王は賦を布・麻・繒・纊・百穀に定めて、人の功を勉む。又物の貴賤の平を失ひ、交易準じ難きを懼れ、乃ち貨泉を定めて軽重を節す。蓋し国の利権と為す、之を守るは官に在り、以て下に任せず。然らば則ち穀帛は人の為す所なり、銭貨は官の為す所なり。人の為す所の者は租税之を取り、官の為す所の者は賦斂之を捨つ。国朝令を著し、租は穀を出だし、庸は絹を出だし、調は繒・纊・布・麻を出だす、何ぞ嘗て人を禁じて銭を鋳し、以て銭を以て賦と為さんや。今両税は算緡の末法を効ひ、資産を估して差と為し、銭穀を以て税を定め、雑物を折供し、歳目頗る殊なり。供する所は業と為す所に非ず、業と為す所は供する所に非ず、価を増して以て無き所を市ひ、価を減して以て有る所を貿ふ、耕織の力有限にして、物価貴く銭無常なり。初め両税を定むるに、万銭を以て絹三匹と為し、価貴くして数多からず。及んで軍装を給するに、数を計りて価を計らず、此れ税少なくして国用充たざるなり。近くは万銭を以て絹六匹と為し、価賤くして数加はる。口を計りて蚕織殊ならずして、輸する所倍す、此れ供税多くして人力給はざるなり。宜しく有司に令し、初め両税を定めし歳の絹・布の定估を覆し、布帛の数と為し、庸・調の旧制に復し、土の宜に随ひ、各々家技を脩めしむべし。物甚だ賤ければ、出づる所加へず、物甚だ貴ければ、入る所減ぜず。且つ経費の資とする所、銭に在る者は独り月俸・資課のみ、銭数の多少を以て布を給し、広く鋳して銅器を禁用すれば、則ち銭乏しからず。糴塩有りて以て直を入れ、榷酒有りて以て資を納む、何ぞ与ふる所無きを慮らんや。

原文播殖非力不成,故先王定賦以布、麻、繒、纊、百穀,勉人功也。又懼物失貴賤之平,交易難準,乃定貨泉以節輕重。蓋為國之利權,守之在官,不以任下。然則穀帛,人所為也;錢貨,官所為也。人所為者,租稅取焉;官所為者,賦斂捨焉。國朝著令,租出穀,庸出絹,調出繒、纊、布、麻,曷嘗禁人鑄錢而以錢為賦?今兩稅効算緡之末法,估資產為差,以錢穀定稅,折供雜物,歲目頗殊。所供非所業,所業非所供,增價以市所無,減價以貿所有,耕織之力有限,而物價貴錢無常。初定兩稅,萬錢為絹三匹,價貴而數不多。及給軍裝,計數不計價,此稅少國用不充也。近者萬錢為絹六匹,價賤而數加。計口蠶織不殊,而所輸倍,此供稅多人力不給也。宜令有司覆初定兩稅之歲絹、布定估,為布帛之數,復庸、調舊制,隨土所宜,各脩家技。物甚賤,所出不加;物甚貴,所入不減。且經費所資,在錢者獨月俸、資課,以錢數多少給布,廣鑄而禁用銅器,則錢不乏。有糴鹽以入直,榷酒以納資,何慮無所給哉!

其三に曰く、

原文其三曰:

廉使の奏する吏の能なる者に四科有り、一に曰く戸口増加、二に曰く田野墾闢、三に曰く税銭長数、四に曰く率弁先期。戸口増加を貴べば、詭情を以て姦浮を誘ひ、苛法を以て親族を析ち、誘はるる所の者は将に薄征を議せんとすれば則ち遽かに散じ、析かるる所の者は重税に勝へずして亡び、州県破傷の病有り。田野墾闢を貴べば、民を率ひて荒田を殖し、年限を以て租を免ず、新畝闢くると雖も、旧畬蕪る。人免租の年満ち、復た汚萊と為り、稼穡増えざるの病有り。税銭長数を貴べば、重く疲羸を困し、骨を捶ぎ髄を瀝し、苟くも聚斂の司に媚び、人を恤はざるの病有り。率弁先期を貴べば、威を作して人を残し、絲織を容れず、粟舂く暇無く、貧者奔迸し、物を恕さざるの病有り。四病は考覈の事情を切らざるに由る過ちなり。実を以て之を験すれば、則ち租賦の加ふる所、固より其の損を受くる者有り、此の州若し客戶を増せば、彼の郡必ず居人を減ず。増す処は賞を邀けて税数加はり、減ずる処は罪を懼れて税数降らず。国家考課の法を設くるは、聚斂を崇めんと欲するに非ざるなり。宜しく有司に命じ、詳かに考課の績を考へ、州税定まり有り、傜役等有り、実を覆して然る後に戸部に報ぜしむべし。若し人益々阜実し、税額余り有らば、戸に据へて均しく十三を減ずるを上課と為し、二を減ずるを之に次ぎ、一を減ずるを又之に次ぐ。若し流亡多く、税を加へて見戸する者は、殿すること亦之が如し。民の租を納むるは去歳の輸数を以て常と為し、額に据る所の率する者を罷めよ。増闢するも租を益す勿れ、耕を廃するも数を降す勿れ。戸を定むるの際、雑産を視て以て之を校せよ。田既に常租有れば、則ち復た両税に入るる宜しからず。此くの如くせば、課を督めずして人人耕すことを楽しまん。

原文廉使奏吏之能者有四科,一曰戶口增加,二曰田野墾闢,三曰稅錢長數,四曰率辦先期。夫貴戶口增加,詭情以誘姦浮,苛法以析親族,所誘者將議薄征則遽散,所析者不勝重稅而亡,有州縣破傷之病。貴田野墾闢,率民殖荒田,限年免租,新畝雖闢,舊畬蕪矣。人以免租年滿,復為污萊,有稼穡不增之病。貴稅錢長數,重困疲羸,捶骨瀝髓,苟媚聚斂之司,有不恤人之病。貴率辦先期,作威殘人,絲不容織,粟不暇舂,貧者奔迸,有不恕物之病。四病繇考覈不切事情之過。驗之以實,則租賦所加,固有受其損者,此州若增客戶,彼郡必減居人。增處邀賞而稅數加,減處懼罪而稅數不降。國家設考課之法,非欲崇聚斂也。宜命有司詳考課績,州稅有定,傜役有等,覆實然後報戶部。若人益阜實,稅額有餘,據戶均減十三為上課,減二次之,減一又次之。若流亡多,加稅見戶者,殿亦如之。民納租以去歲輸數為常,罷據額所率者。增闢勿益租,廢耕不降數。定戶之際,視雜產以校之。田既有常租,則不宜復入兩稅。如此,不督課而人人樂耕矣。

其四に曰く、

原文其四曰:

明君は資する所を厚くして養ふ所を害さず、故に先づ人事して其の暇力を借り、家給して然る後に余財を斂む。今収を督めて迫促し、蚕事方に興りて縑を輸し、農功未だ艾ならずして穀を斂む。有る者は急ぎ売りて半直を耗し、無き者は仮を求めて費倍す。両税を定むるの初、期約詳ならず、征役多故に属し、率先限を以て収む。宜しく税期を定め、風俗時候に随ひ、務めて人を紓すに在るべし。

原文明君不厚所資而害所養,故先人事而借其暇力,家給然後斂餘財。今督收迫促,蠶事方興而輸縑,農功未艾而斂穀。有者急賣而耗半直,無者求假費倍。定兩稅之初,期約未詳,屬征役多故,率先限以收。宜定稅期,隨風俗時候,務於紓人。

其五に曰く、

原文其五曰:

頃に師旅亟に興り、官司の儲ふる所、唯だ軍食を給するのみ、凶荒賑救に遑あらず。人小乏すれば則ち息利を取り、大乏すれば則ち田廬を鬻ぐ。斂穫始めて畢り、契を執りて行ひ貸し、饑歳室家相棄て、奴僕たらんことを乞ふも、猶之を售ぐる莫く、或いは道途に縊死す。天災流行し、四方代はり有り。茶税の銭戸部に積む者は、宜しく諸道の戸口を計りて之に均すべし。穀麦熟すれば則ち平糴し、亦た義倉を以て名と為し、巡院を以て主とせよ。時稔みて農を傷すれば則ち優価広く糴し、穀貴くして止む、小歉すれば則ち借貸す。循環斂散し、穀を聚めて災を幸ふ者して以て大利を牟る無からしめよ。

原文頃師旅亟興,官司所儲,唯給軍食,凶荒不遑賑救。人小乏則取息利,大乏則鬻田廬。斂穫始畢,執契行貸,饑歲室家相棄,乞為奴僕,猶莫之售,或縊死道途。天災流行,四方代有。稅茶錢積戶部者,宜計諸道戶口均之。穀麥熟則平糴,亦以義倉為名,主以巡院。時稔傷農,則優價廣糴,穀貴而止;小歉則借貸。循環斂散,使聚穀幸災者無以牟大利。

其六に曰く、

原文其六曰:

古は百畝の地を号して一夫とす、蓋し一夫田を授くるに百畝を過ぐるを得ず、人をして業を廃せず、田をして曠耕無からしめんと欲す。今富者は万畝、貧者は容足の居無く、彊家に依託し、其の私属と為り、終歳服労し、常に充たざるを患ふ。田有るの家坐して租税を食む、京畿の田畝税五升、而して私家の収租は畝一石、官は一を取り、私は十を取り、穡する者安んぞ足食を得ん。宜しく占田の条限を為し、租価を裁ち、余有るを損じ、足らざるを優し、此れ富を安んじ窮を恤ふの善経にして、捨つ可からざるなり。

原文古者百畝地號一夫,蓋一夫授田不得過百畝,欲使人不廢業,田無曠耕。今富者萬畝,貧者無容足之居,依託彊家,為其私屬,終歲服勞,常患不充。有田之家坐食租稅,京畿田畝稅五升,而私家收租畝一石,官取一,私取十,穡者安得足食?宜為占田條限,裁租價,損有餘,優不足,此安富恤窮之善經,不可捨也。

贄の言切なりと雖も、讒に以て逐はれ、事施行する者無し。

原文贄言雖切,以讒逐,事無施行者。

十二年、河南尹の齊抗がまたその弊を論じて言うには、「軍興に際し、国用がやや広がり、必要に応じて税を徴し、吏は民を煩わせ、人は労苦した。陛下が両税法に改め、督納に時を定め、貪暴な者がその奸を働く余地がなくなった。二十年の間、府庫は充満した。ただ定税の初め、銭が軽く貨が重かったので、陛下は銭をもって税とした。今は銭が重く貨が軽い。もしさらに税の名目を改め、その軽いものに就かせれば、その利は六つある。吏がその奸を絶つ、一なり。人の用が煩わされない、二なり。静かにして利を得る、三なり。用に銭が乏しくない、四なり。労せずして容易に知る、五なり。農桑が自ら勧む、六なり。百姓は本来布帛を出し、税はかえって銭を配する。輸納の時になるとまた布帛を取る。さらに三つの估を立てて折合し、州県が升降して奸を成す。もし直接布帛を定めれば、估を折る必要がない。およそ銭をもって税とすれば、人力は尽きるが有司はそれに気づかない。今の両税は農人から出る。農人の所有するものは、ただ布帛のみである。布帛を用いる処は多く、銭を用いる処は少ない。また鼓鑄があって国計を助けている。どうして必ず農人から取る必要があろうか」と。疏が入ったが、また答えなかった。

原文十二年,河南尹齊抗復論其弊,以為:「軍興,國用稍廣,隨要而稅,吏擾人勞。陛下變為兩稅,督納有時,貪暴無容其姦。二十年間,府庫充牣。但定稅之初,錢輕貨重,故陛下以錢為稅。今錢重貨輕,若更為稅名,以就其輕,其利有六:吏絕其姦,一也;人用不擾,二也;靜而獲利,三也;用不乏錢,四也;不勞而易知,五也;農桑自勸,六也。百姓本出布帛,而稅反配錢,至輸時復取布帛,更為三估計折,州縣升降成姦。若直定布帛,無估可折。蓋以錢為稅,則人力竭而有司不之覺。今兩稅出於農人,農人所有,唯布帛而已。用布帛處多,用錢處少,又有鼓鑄以助國計,何必取於農人哉?」疏入,亦不報。

初め、徳宗が奉天に在った時、儲蓄は空しく窮し、嘗て卒を遣わして賊を視させたが、寒さが苦しいので襦袴を乞うたが、帝は与えることができず、親王の帯の金を削って売った。朱泚が既に平定されると、ここにおいて帝は聚斂に意を属し、常賦の外、進奉が止まなかった。剣南西川節度使の韋皋に「日進」があり、江西観察使の李兼に「月進」があった。淮南節度使の杜亜、宣歙観察使の劉贊、鎮海節度使の王緯・李錡は皆、恩沢を狙って、常賦を以て貢ぎ入れ、名を「羨余」といった。代易に至ってまた「進奉」があった。当時、戸部の銭物は、所在の州府及び巡院が皆擅かに留めることができ、或いは密旨を偽って加徴し、官吏を貶し、禄稟を削り、津の通行税を増やし、死人及び蔬果に課した。凡そ代易の進奉は、税入から取り、十のうち二三を献じ、敢えて問う者はいなかった。常州刺史の裴肅は薪炭案紙を売って進奉とし、浙東観察使に遷ることができた。刺史の進奉は、裴肅から始まった。劉贊が宣州で卒すると、その判官の厳綬が軍府を傾けて進奉とし、召されて刑部員外郎となった。判官の進奉は、厳綬から始まった。裴延齢が用いられてから、益々天子のために私財を積み、生民は重く困窮した。延齢が死ぬと、人々は互いに賀した。

原文初,德宗居奉天,儲畜空窘,嘗遣卒視賊,以苦寒乞襦絝,帝不能致,剔親王帶金而鬻之。朱泚既平,於是帝屬意聚斂,常賦之外,進奉不息。劍南西川節度使韋皋有「日進」,江西觀察使李兼有「月進」,淮南節度使杜亞、宣歙觀察使劉贊、鎮海節度使王緯李錡皆徼射恩澤,以常賦入貢,名為「羨餘」。至代易又有「進奉」。當是時,戶部錢物,所在州府及巡院皆得擅留,或矯密旨加斂,謫官吏、刻祿稟,增稅通津、死人及蔬果。凡代易進奉,取於稅入,十獻二三,無敢問者。常州刺史裴肅鬻薪炭案紙為進奉,得遷浙東觀察使。刺史進奉,自肅始也。劉贊卒于宣州,其判官嚴綬傾軍府為進奉,召為刑部員外郎。判官進奉,自綬始也。自裴延齡用事,益為天子積私財,而生民重困。延齡死,而人相賀。

この時、宮中が市から物を取るのに、中官を宮市使とした。両市に「白望」数十百人を置き、塩の估や敝衣・絹帛を以て、尺寸に分裂してその直を酬いた。また進奉門戸及び脚価銭を求め、物を持って市に入りながら空しく帰る者もあった。中官が出る毎に、漿を売り餅を売る家は皆、店を撤げ門を塞いだ。諫官御史が数度上疏して諫めたが、聞き入れず、人はその弊に堪えられなかった。戸部侍郎の蘇弁が言うには、「京師の游手数千万家、生業のない者は宮市に仰いで生きている。どうして罷めようか」と。帝は悦び、もっともだと思った。京兆尹の韋湊が奏して言うには、「小人が宮市に因って奸を為し、真偽が弁じ難い。宜しく府県に下して供送させるべし」と。帝はこれを許した。中官が「百姓は宮市に頼って養われている」と言ったので、韋湊はかえって罪を得た。

原文是時,宮中取物於市,以中官為宮市使。兩市置「白望」數十百人,以鹽估敝衣、絹帛,尺寸分裂酬其直。又索進奉門戶及脚價錢,有齎物入市而空歸者。每中官出,沽漿賣餅之家皆徹肆塞門。諫官御史數上疏諫,不聽,人不堪其弊。戶部侍郎蘇弁言:「京師游手數千萬家,無生業者仰宮市以活,奈何罷?」帝悅,以為然。京兆尹韋湊奏:「小人因宮市為姦,真偽難辨,宜下府縣供送。」帝許之。中官言百姓賴宮市以養者也,湊反得罪。

順宗が即位すると、宮市使及び塩鉄使の月進を罷めた。憲宗はまた、除官に代わる進奉及び諸道の両税外の榷率を罷め、天下の賦を分けて三つとし、一を上供、二を送使、三を留州といった。宰相の裴垍はまた、諸道の節度・観察が調費をその治める州から取り、不足すれば属州から取るように命じ、属州が送使の余りとその上供するものは、皆度支に輸送させた。

原文順宗即位,乃罷宮市使及鹽鐵使月進。憲宗又罷除官受代進奉及諸道兩稅外榷率;分天下之賦以為三,一曰上供,二曰送使,三曰留州。宰相裴垍又令諸道節度、觀察調費取於所治州,不足則取於屬州,而屬州送使之餘與其上供者,皆輸度支。

この時、徳宗の府庫の積みに因り、費用を頗る倹約し、天子は身に浣濯した服を着た。劉闢・李錡が平定されると、貯蔵は皆内庫に入った。山南東道節度使の于頔・河東節度使の王鍔の進献は甚だ厚く、翰林学士の李絳が嘗て諫めて言うには、「方鎮の進献は、縁故を以て奸を為し、百姓を侵す。聖政の宜しくすべきところにあらず」と。帝は喟然として言うには、「誠に至徳の事にあらざるを知る。しかし両河は中夏の貢賦の地であり、朝覲は久しく廃れ、河・湟は陥没し、烽候が郊甸に列なる。今まさに祖宗の恥を雪がんとし、人に重斂を忍びないのである」と。しかしただ、進献が人から取るものが重いことを知らなかった。

原文是時,因德宗府庫之積,頗約費用,天子身服澣濯。及劉闢、李錡既平,訾藏皆入內庫。山南東道節度使于頔、河東節度使王鍔進獻甚厚,翰林學士李絳嘗諫曰:「方鎮進獻,因緣為姦,以侵百姓,非聖政所宜。」帝喟然曰:「誠知非至德事,然兩河中夏貢賦之地,朝覲久廢,河、湟陷沒,烽候列於郊甸。方刷祖宗之恥,不忍重斂於人也。」然獨不知進獻之取於人者重矣。

淮西を討つに及んで、判度支の楊於陵が饋餫が継がずに坐して貶され、司農卿の皇甫鎛をもって代え、ここにおいて益々刻剝を為した。司農卿の王遂・京兆尹の李翛は聚斂が能いと号し、乃ち宣歙・浙西観察使とし、富饒の地を与えて財賦を弁ぜしめた。塩鉄使の王播が言うには、「劉晏が使を領した時、自ら租庸を按じ、然る後に州県の銭穀の利病虚実を知った」と。乃ち副使の程异に江・淮を巡行させ、州府の上供銭穀を覈めさせた。异が江・淮に至り、銭百八十五万貫を得た。その年、遂に王播に代わって塩鉄使となった。この時、河北の兵が王承宗を討ち、ここにおいて人を募って河北・淮西に粟を入れる者、千斛以上から皆官を授けた。度支塩鉄と諸道の貢獻は特に甚だしく、「助軍銭」と号した。賊が平定されると、賀礼及び助賞設物があった。群臣が尊号を上ると、また献賀物があった。

原文及討淮西,判度支楊於陵坐饋餫不繼貶,以司農卿皇甫鎛代之,由是益為刻剝。司農卿王遂、京兆尹李翛號能聚斂,乃以為宣歙、浙西觀察使,予之富饒之地,以辦財賦。鹽鐵使王播言:「劉晏領使時,自按租庸,然後知州縣錢穀利病虛實。」乃以副使程异巡江、淮,覈州府上供錢穀。异至江、淮,得錢百八十五萬貫。其年,遂代播為鹽鐵使。是時,河北兵討王承宗,於是募人入粟河北、淮西者,自千斛以上皆授以官。度支鹽鐵與諸道貢獻尤甚,號「助軍錢」。及賊平,則有賀禮及助賞設物。羣臣上尊號,又有獻賀物。

穆宗が即位すると、一切これを罷め、両税の外に一銭でも加率する者は、枉法贓をもって論じた。しかし、藩邸に在った時から、用兵の弊を見慣れ、戎臣武卒は法として姑息すべきだと思っていた。即位すると、神策諸軍から、時を定めない賞賜は数え切れなかった。やがて幽州の兵が張弘靖を囚え、鎮州が田弘正を殺し、両鎮で用兵し、南北供軍院を置いた。而行営の軍十五万は、両鎮の万余の衆に抗することができなかった。而して饋運は給することができず、帛粟が未だ至らぬうちに諸軍が或いは道で強奪した。

原文穆宗即位,一切罷之,兩稅外加率一錢者,以枉法贓論。然自在藩邸時,習見用兵之弊,以謂戎臣武卒,法當姑息。及即位,自神策諸軍,非時賞賜,不可勝紀。已而幽州兵囚張弘靖,鎮州殺田弘正,兩鎮用兵,置南北供軍院。而行營軍十五萬,不能亢兩鎮萬餘之眾。而饋運不能給,帛粟未至而諸軍或彊奪於道。

およそ建中に両税を定めて以来、物軽く銭重く、民は患いとし、ここに至るまで四十年であった。当時絹二匹半であったものが八匹となり、大率三倍を加えた。豪家大商は銭を積んで軽重を逐い、故に農人は日に困窮し、末業は日に増えた。帝もまた貨軽く銭重く、民が困窮して用が充たされないことを以て、百官に詔してその弊を革むることを議させた。而して議する者は多く、銅を挟む律を重くすることを請うた。戸部尚書の楊於陵が言うには、「王者は銭を制して以て百貨を権衡し、貿易して有無を通じ、変通して倦まず、物をして甚だ貴くも甚だ賤くもならしめない。その術は他にあらず、上に在るのみである。何となれば、上で重んずるものは、人は必ずこれに従う。古は上でこれを権衡し、今は下でこれを求める。昔は四方に散じ、今は公府に蔵す。昔は広く鑄して以て用に資し、今は鑪を減らして以て功を廃す。昔は中原に行い、今は辺裔に洩らす。また閭井に送終の唅あり、商賈に貸挙の積みあり、江湖に圧覆の耗あり。則ち銭どうして重くならず、貨どうして軽くならんや。開元の中、天下に銭を鑄する七十余鑪、歳に百万を盈たす。今は僅かに十数鑪、歳入十五万に過ぎない。大曆以前、淄青・太原・魏博は鉛鉄を雑えて以て時用を通じ、嶺南は金・銀・丹砂・象歯を雑えた。今は一に泉貨を用いるので、故に銭が足りない。今は宜しく天下の両税・榷酒・塩利・上供及び留州・送使銭を、悉く布帛穀粟を以て輸納させれば、人は求めるに寛かになり、然る後に内府の積みを出し、市廛の滞りを収め、山鑄の数を広め、辺裔の出を限り、私家の積みを禁ずれば、則ち貨は日に重く而して銭は日に軽くなるであろう」と。宰相はその議を善しとした。ここにおいて両税・上供・留州は、皆布帛・絲纊に易え、租・庸・課・調は銭を計らずして布帛を納め、ただ塩酒は本来榷率を以て銭を計り、両税と異なるので、銭を去くことはできなかった。

原文蓋自建中定兩稅,而物輕錢重,民以為患,至是四十年。當時為絹二匹半者為八匹,大率加三倍。豪家大商,積錢以逐輕重,故農人日困,末業日增。帝亦以貨輕錢重,民困而用不充,詔百官議革其弊。而議者多請重挾銅之律。戶部尚書楊於陵曰:「王者制錢以權百貨,貿遷有無,通變不倦,使物無甚貴甚賤,其術非它,在上而已。何則?上之所重,人必從之。古者權之於上,今索之於下;昔散之四方,今藏之公府;昔廣鑄以資用,今減鑪以廢功;昔行之於中原,今洩之於邊裔。又有閭井送終之唅,商賈貸舉之積,江湖壓覆之耗,則錢焉得不重,貨焉得不輕?開元中,天下鑄錢七十餘鑪,歲盈百萬,今纔十數鑪,歲入十五萬而已。大曆以前,淄青、太原、魏博雜鉛鐵以通時用,嶺南雜以金、銀、丹砂、象齒,今一用泉貨,故錢不足。今宜使天下兩稅、榷酒、鹽利、上供及留州、送使錢,悉輸以布帛穀粟,則人寬於所求,然後出內府之積,收市廛之滯,廣山鑄之數,限邊裔之出,禁私家之積,則貨日重而錢日輕矣。」宰相善其議。由是兩稅、上供、留州,皆易以布帛、絲纊,租、庸、課、調不計錢而納布帛,唯鹽酒本以榷率計錢,與兩稅異,不可去錢。

文宗大和九年、天下の回残銭を以て常平義倉の本銭を置き、歳ごとに増やしてこれを買い入れた。水旱に遭わなければ増やさない者は、判官は俸禄を罰せられ、考課は下考と記される。州県がこれを仮借する者は、枉法を以て論ずる。

原文文宗大和九年,以天下回殘錢置常平義倉本錢,歲增市之。非遇水旱不增者,判官罰俸,書下考;州縣假借,以枉法論。

文宗は嘗て監倉御史崔虞を召して太倉の粟の数を問うた。対えて曰く、「粟二百五十万石あり」と。帝曰く、「今年は費用が広くて蓄えが少ない、どうしたものか」と。乃ち詔して出使の郎官・御史に、州県で銭穀を壅遏する者を督察せしめた。時に豪民は産業を侵噬して戸籍を移さず、州県は敢えて徭役ようえきを課さず、而して徴税は皆下貧より出づ。富室に依って奴客となり、役罰は州県よりも峻しきに至る。長吏は歳ごとに吏を遣わして田税を巡覆し、民はその擾りを苦しむ。

原文文宗嘗召監倉御史崔虞問太倉粟數,對曰:「有粟二百五十萬石。」帝曰:「今歲費廣而所畜寡,奈何?」乃詔出使郎官、御史督察州縣壅遏錢穀者。時豪民侵噬產業不移戶,州縣不敢傜役,而征稅皆出下貧。至於依富室為奴客,役罰峻於州縣。長吏歲輒遣吏巡覆田稅,民苦其擾。

武宗即位し、浮図法を廃し、天下に寺四千六百を毀ち、招提蘭若四万を毀ち、僧尼二十六万五千人を籍して民と為し、奴婢十五万人、田数千万頃、大秦穆護・祆二千余人を籍す。上都・東都は毎街に寺二を留め、毎寺僧三十人、諸道は僧を三等に留め、二十人を過ぎず。腴田は銭に鬻いで戸部に送り、中下田は寺家の奴婢で丁壮なる者に給して両税戸と為し、人十畝ずつ。僧尼既に尽きたるを以て、両京の悲田養病坊には寺田十頃を給し、諸州には七頃を給し、耆寿を以て主とす。

原文武宗即位,廢浮圖法,天下毀寺四千六百、招提蘭若四萬,籍僧尼為民二十六萬五千人,奴婢十五萬人,田數千萬頃,大秦穆護、祅二千餘人。上都、東都每街留寺二,每寺僧三十人,諸道留僧以三等,不過二十人。腴田鬻錢送戶部,中下田給寺家奴婢丁壯者為兩稅戶,人十畝。以僧尼既盡,兩京悲田養病坊,給寺田十頃,諸州七頃,主以耆壽。

会昌末より、備辺庫を置き、度支・戸部・塩鉄の銭物を収む。宣宗は更に延資庫と号す。初めは度支郎中を以てこれを判じ、至るに宰相に属せしめ、その任益々重し。戸部は歳ごとに銭帛二十万を送り、度支塩鉄の送る者は三十万、諸道の進奉助軍銭は皆ここに輸す。

原文自會昌末,置備邊庫,收度支、戶部、鹽鐵錢物。宣宗更號延資庫。初以度支郎中判之,至是以屬宰相,其任益重。戶部歲送錢帛二十萬,度支鹽鐵送者三十萬,諸道進奉助軍錢皆輸焉。

懿宗の時、雲南蛮数たび内寇し、兵を徙して嶺南に戍らしむ。淮北大水し、征賦を弁じ難く、人人乱を思う。龐勛の反するに及び、附する者六七万。関東より海に至るまで大旱し、冬の蔬皆尽き、貧者は蓬子を以て麺と為し、槐葉を以て齏と為す。乾符初、大水し、山東饑う。中官田令孜は神策中尉となり、権を怙って事を用い、賦を督むること益々急なり。王仙芝・黄巢等起こり、天下遂に乱れ、公私困竭す。昭宗は鳳翔に在りて、梁兵に囲まれ、城中人相食い、父はその子を食い、而して天子は粥を食い、六宮及び宗室多く餓死す。その窮まり此くの如きに至り、遂に以て亡ぶ。

原文懿宗時,雲南蠻數內寇,徙兵戍嶺南。淮北大水,征賦不能辦,人人思亂。及龐勛反,附者六七萬。自關東至海大旱,冬蔬皆盡,貧者以蓬子為麵,槐葉為齏。乾符初,大水,山東饑。中官田令孜為神策中尉,怙權用事,督賦益急。王仙芝、黃巢等起,天下遂亂,公私困竭。昭宗在鳳翔,為梁兵所圍,城中人相食,父食其子,而天子食粥,六宮及宗室多餓死。其窮至於如此,遂以亡。

初め、乾元末、天下上計する所百六十九州、戸百九十三万三千百二十四、課せざる者百十七万四千五百九十二。口千六百九十九万三百八十六、課せざる者千四百六十一万九千五百八十七。天宝の戸五百九十八万二千五百八十四、口三千五百九十二万八千七百二十三を減ず。

原文初,乾元末,天下上計百六十九州,戶百九十三萬三千一百二十四,不課者百一十七萬四千五百九十二;口千六百九十九萬三百八十六,不課者千四百六十一萬九千五百八十七。減天寶戶五百九十八萬二千五百八十四,口三千五百九十二萬八千七百二十三。

元和中、歳賦を供する者は、浙西・浙東・宣歙・淮南・江西・鄂岳・福建・湖南の八道、戸百四十四万、天宝に比べて僅かに四分の一。兵で官に食む者八十三万、天宝の三分の一を加え、通じて二戸をもって一兵を養う。京西北・河北は屯兵広きを以て、上供無し。長慶に至り、戸三百三十五万、而して兵九十九万、率として三戸を以て一兵を奉ず。武宗即位に至り、戸二百十一万四千九百六十。会昌末、戸増えて四百九十五万五千百五十一となる。

原文元和中,供歲賦者,浙西、浙東、宣歙、淮南、江西、鄂岳、福建、湖南八道,戶百四十四萬,比天寶纔四之一。兵食於官者八十三萬,加天寶三之一,通以二戶養一兵。京西北、河北以屯兵廣,無上供。至長慶,戶三百三十五萬,而兵九十九萬,率三戶以奉一兵。至武宗即位,戶二百一十一萬四千九百六十。會昌末,戶增至四百九十五萬五千一百五十一。

宣宗既に河・湟を復し、天下の両税・榷酒茶塩銭、歳入九百二十二万緡、歳の常費率として三百余万少なく、有司は遠く後年の分を取って乃ち済む。及び群盗起こり、諸鎮は復た上計せずと云う。

原文宣宗既復河、湟,天下兩稅、榷酒茶鹽錢,歲入九百二十二萬緡,歲之常費率少三百餘萬,有司遠取後年乃濟。及羣盜起,諸鎮不復上計云。