新唐書

巻五十 志第四十 兵

古より天下国家を有する者は、その興亡治乱、未だ嘗て徳によらずとせず、然るに戦国・秦・漢以来、兵によらずとするもの少なし。夫れ兵は豈に重き事ならざらんや。然れども其の時に因りて制を変じ、苟も利に趨き便に就くを以てし、至る所為さざる無きに至る。而して其の法制を考うるに、一時に用いる可きも、後世に施すに足らざるもの多し。惟れ唐、府兵の制を立て、頗る称すべき有り。

蓋し古の兵法は井田より起こる。周衰えてより、王制壊れて復せず。府兵に至りて、始めて一たび之を農に寓す。其の居処・教養・畜材・待事・動作・休息、皆節目有り。古法に尽く合せずと雖も、蓋し其の大意を得たり。此れ高祖こうそ・太宗の盛んなる所以なり。其の後世に至り、子孫驕弱にして謹んで守る能わず、屡々其の制を変ず。夫れ兵を置くは乱を止めんが為なり。其の弊に及びては、適足らく乱を為すに至り、又其の甚だしきは、天下を困して以て乱を養い、遂に亡ぶに至る。

蓋し唐、天下を有すること二百余年、而して兵の大勢三変す。其の始め盛んなる時は府兵有り。府兵後廃れて彍騎と為り、彍騎又廃れ、而して方鎮の兵盛んなり。其の末に及びては、強臣悍将兵を天下に布き、而して天子亦自ら兵を京師に置く、禁軍と曰う。其の後、天子弱く、方鎮強く、而して唐遂に以て亡滅す。措置の勢之を然らしむるなり。若し乃ち将卒・営陣・車旗・器械・征防・守衛、凡そ兵の事は悉く記す可からず。其の廃置・得失・終始・治乱・興滅の跡を記し、以て後世の戒めと為す云う。

府兵の制は、西魏・後周より起こり、隋に備わり、唐興りて之に因る。隋制十二衛、翊衛・ぎょう騎衛・武衛・屯衛・禦衛・候衛と曰い、左右と為し、皆将軍有りて諸府の兵を分統す。府に郎将・副郎将・坊主・団主有り、以て相統治す。又驃騎・車騎二府有り、皆将軍有り。後、驃騎を改めて鷹揚郎将と曰い、車騎を副郎将と曰う。別に折衝・果毅を置く。

高祖初めに起り、大将軍府を開き、建成を以て左領大都督ととくと為し、左三軍を領せしめ、燉煌公を右領大都督と為し、右三軍を領せしめ、元吉中軍を統ぶ。太原より発し、兵三万人有り。及び諸の起義して相属与し、群盗を降して、兵二十万を得たり。武徳初め、始めて軍府を置き、驃騎・車騎両将軍府を以て之を領せしむ。関中を析いて十二道と為す、曰く、万年道・長安ちょうあん道・富平道・醴泉道・同州道・華州道・寧州道・岐州道・豳州道・西麟州道・涇州道・宜州道、皆府を置く。三年、更に万年道を参旗軍と為し、長安道を鼓旗軍と為し、富平道を玄戈軍と為し、醴泉道を井鉞軍と為し、同州道を羽林軍と為し、華州道を騎官軍と為し、寧州道を折威軍と為し、岐州道を平道軍と為し、豳州道を招搖軍と為し、西麟州道を苑游軍と為し、涇州道を天紀軍と為し、宜州道を天節軍と為す。軍に将・副各一人を置き、以て耕戦を督め、車騎府を以て之を統ぶ。六年、天下既定を以て、遂に十二軍を廃し、驃騎を改めて統軍と曰い、車騎を別将と曰う。歳余を居て、十二軍復び、而して軍に将軍一人を置き、軍に坊有り、主一人を置き、以て戸口を検察し、農桑を勧課す。

太宗貞観十年、統軍の号を更めて折衝都尉と為し、別将を果毅都尉と為し、諸府総て折衝府と曰う。凡そ天下十道、府六百三十四を置き、皆名号有り。而して関内二百六十有一、皆以て諸衛に隷す。凡そ府三等、兵千二百人を上と為し、千人を中と為し、八百人を下と為す。府に折衝都尉一人、左右果毅都尉各一人、長史・兵曹・別将各一人、校尉こうい六人を置く。士三百人を以て団と為し、団に校尉有り。五十人を隊と為し、隊に正有り。十人を火と為し、火に長有り。火に六馱馬を備う。凡そ火具、烏布幕・鉄馬盂・布槽・鍤・钁・鑿・碓・筐・斧・鉗・鋸皆一、甲牀二、鎌二。隊具、火鑽一、胸馬繩一、首羈・足絆皆三。人具、弓一、矢三十、胡祿・横刀・礪石・大觿・氈帽・氈装・行縢皆一、麦飯九斗、米二斗、皆自ら備え、へいせて其の介冑・戎具庫に蔵む。征行有る所は、則ち其の入を視て出だし之を給す。其の番上宿衛する者は、惟だ弓矢・横刀を給するのみ。

凡そ民年二十を兵と為し、六十にして免ず。其の騎射に能くする者を越騎と為し、其の余を歩兵・武騎・排䂎手・歩射と為す。

毎歳季冬、折衝都尉府に在る五校兵馬を率い、左右二校尉を置き、位百歩を距う。毎校歩隊十、騎隊一と為し、皆矟幡を巻き、刃旗を展べ、散立して俟つ。角手大角を吹くこと一通、諸校皆人騎を斂めて隊と為す。二通、旗矟を偃べ、幡を解く。三通、旗矟挙ぐ。左右校鼓を撃ち、二校の人合譟して進む。右校鉦を撃てば、隊少しく却き、左校進み逐いて右校の立つ所に至る。左校鉦を撃てば、少しく却き、右校進み逐いて左校の立つ所に至る。右校復た鉦を撃てば、隊還り、左校復た薄戦す。皆鉦を撃てば、隊各還る。大角復た鳴くこと一通、皆幡を巻き、矢を摂め、弓を弛め、刃を匣む。二通、旗矟挙がり、隊皆進む。三通、左右校皆引き還る。是の日、因りて縦に獵し、獲各其の人に入る。

其の衛に隷するや、左・右衛皆六十府を領し、諸衛五十より四十を領し、其の余を以て東宮六率に隷す。

凡そ府兵を発するは、皆符契を下し、州刺史と折衝契を勘えて乃ち発す。若し全府発すれば、則ち折衝都尉以下皆行く。尽さざれば、則ち果毅行く。少なければ則ち別将行く。馬を給す当たる者は、官其の直を予えて之を市い、毎匹に銭二万五千を予う。刺史・折衝・果毅歳に閲し、戦事に任せざる者を鬻ぎ、其の銭を以て更に市い、足らざれば則ち一府共に之を足す。

凡そ宿衛に当たる者番上するは、兵部遠近を以て番を給し、五百里を五番と為し、千里七番、一千五百里八番、二千里十番、外を十二番と為し、皆一月上る。若し簡留直衛する者は、五百里を七番と為し、千里八番、二千里十番、外を十二番と為し、亦月に上る。

先天二年に詔して曰く、「往時は府えいを分建し、戸を計って兵を充て、裁くに事を周らすに足るのみ。二十一にして募に入り、六十一にして軍を出づ。多く労を憚りて以て規避匿す。今は宜しく年二十五以上を取り、五十にして免ずべし。屡征鎮する者は、十年にして之を免ずべし」と。其の言有りと雖も、而して事克く行はれず。玄宗開元六年、始めて詔して折衝府兵毎六歳に一簡す。高宗・武后の時より、天下久しく兵を用いず、府兵の法漸く壊れ、番役更代多く時に以てせず、衞士稍々亡匿し、是に至りて益々耗散し、宿衞能く給せず。宰相張説乃ち請うて一切士を募りて宿衞せしむ。十一年、京兆・蒲・同・岐・華の府兵及び白丁を取り、而して潞州の長従兵を以て益し、合わせて十二万と為し、「長従宿衞」と号し、歳二番とし、尚書左丞蕭嵩に命じて州吏と共に之を選ばしむ。明年、更めて号して「彍騎」と曰ふ。又詔して曰く、「諸州府馬闕くは、官私共に之を補へ。今兵貧にして致し難し、乃ち監牧馬を以て給す」と。然れども是より諸府の士益々補はれず、折衝将又積歳遷を得ず、士人皆之を為すを恥づ。

十三年、始めて彍騎を以て十二衞に分隷し、総べて十二万、六番と為し、毎衞万人。京兆彍騎六万六千、華州六千、同州九千、蒲州一万二千三百、絳州三千六百、晉州千五百、岐州六千、河南府三千、陝・虢・汝・鄭・懷・汴の六州各六百、内弩手六千。其の制:皆下戸白丁・宗丁・品子の彊壮五尺七寸以上を択び、足らざれば則ち兼ねて戸八等五尺以上を以てし、皆征鎮・賦役を免ず。四籍を為し、兵部及び州・県・衞分ちて之を掌る。十人を火と為し、五火を団と為し、皆首長有り。又材勇なる者を択びて番頭と為し、頗る弩射を習はしむ。又羽林軍飛騎有り、亦弩を習ふ。凡そ伏遠弩は自ら能く施張し、矢を縦つること三百歩、四発にして二中す;擘張弩は二百三十歩、四発にして二中す;角弓弩は二百歩、四発にして三中す;単弓弩は百六十歩、四発にして二中す:皆及第と為す。諸軍皆近営を堋と為し、士に便習する者有れば、之を教試し、及第する者は賞有り。

天宝以後より、彍騎の法又稍々変壊し、士皆拊循を失ふ。八載、折衝諸府至る所兵無くして交ふ可く、李林甫遂に請うて上下の魚書を停む。其の後徒らに兵額・官吏有るも、而して戎器・馱馬・鍋幕・糗糧幷びに廃る。故に時府人は番上宿衞する者を目して侍官と曰ひ、言ふ、天子を侍衞すと;是に至り、衞佐悉く以て人に仮りて童奴と為し、京師人は之を恥づ、互ひに罵辱するに至りて必ず侍官と曰ふ。而して六軍宿衞皆市人、富者は繒綵を販ひ、粱肉を食ひ、壮者は角觝・拔河・ぎょう木・扛鉄の戯を為し、禄山の反するに及び、皆甲を受くる能はざりき。

初め、府兵の置かるるや、事無き時に居れば野に耕し、其の番上する者は、京師を宿衞するのみ。若し四方事有らば、則ち将を命じて以て出で、事解けて輒ち罷み、兵は府に散じ、将は朝に帰る。故に士は業を失はず、而して将帥は兵を握るの重き無く、以て微漸を防ぎ、禍乱の萌を絶つ所以なり。府兵の法壊れて方鎮盛んなるに及び、武夫悍将は事無き時と雖も、要険に拠り、方面を専にし、既に其の土地有り、又其の人民有り、又其の甲兵有り、又其の財賦有り、以て天下に布列す。然らば則ち方鎮は彊からざるを得ず、京師は弱からざるを得ず、故に措置の勢之を然らしむる者と曰ふは、此を以てなり。

夫れ所謂方鎮とは、節度使の兵なり。其の始を原れば、辺将の屯防する者に起る。唐初、辺を戍るの兵は、大なるを軍と曰ひ、小なるを守捉と曰ひ、城と曰ひ、鎮と曰ひ、而して之を総ぶる者を道と曰ふ。若し盧龍軍一、東軍等守捉十一、曰く平盧道。横海・北平・高陽・経略・安塞・納降・唐興・渤海・懐柔・威武・鎮遠・静塞・雄武・鎮安・懐遠・保定軍十六、曰く范陽道。天兵・大同・天安・横野軍四、岢嵐等守捉五、曰く河東道。朔方経略・豊安・定遠・新昌・天柱・宥州経略・横塞・天徳・天安軍九、三受降・豊寧・保寧・烏延等六城、新泉守捉一、曰く関内道。赤水・大斗・白亭・豆盧・墨離・建康・寧寇・玉門・伊吾・天山軍十、烏城等守捉十四、曰く河西道。瀚海・清海・静塞軍三、沙鉢等守捉十、曰く北庭道。保大軍一、鷹娑都督一、蘭城等守捉八、曰く安西道。鎮西・天成・振威・安人・綏戎・河源・白水・天威・楡林・臨洮・莫門・神策・寧辺・威勝・金天・武寧・曜武・積石軍十八、平夷・綏和・合川守捉三、曰く隴右道。威戎・安夷・昆明・寧遠・洪源・通化・松当・平戎・天保・威遠軍十、羊灌田等守捉十五、新安等城三十二、犍為等鎮三十八、曰く剣南道。嶺南・安南・桂管・邕管・容管経略・清海軍六、曰く嶺南道。福州経略軍一、曰く江南道。平海軍一、東牟・東萊守捉二、蓬萊鎮一、曰く河南道。此れ武徳より天宝以前に至る辺防の制なり。

其の軍・城・鎮・守捉には皆使有り、而して道には大将一人有り、大総管と曰ひ、已にして更めて大都督と曰ふ。太宗の時に至り、行軍征討するを大総管と曰ひ、其の本道に在るを大都督と曰ふ。高宗永徽以後より、都督使持節を帯ぶる者、始めて之を節度使と謂ふ、然れども猶未だ以て官を名とせず。景雲二年、賀抜延嗣を以て涼州都督・河西節度使と為す。此より而して後、開元に接ぎ、朔方・隴右・河東・河西諸鎮、皆節度使を置く。

范陽節度使安禄山の反するに及び、京師を犯し、天子の兵弱くして抗ふ能はず、遂に両京を陥す。粛宗霊武に起り、而して諸鎮の兵共に起ちて賊を誅す。其の後禄山の子慶緒及び史思明父子継ぎて起り、中国大乱し、粛宗李光弼等に命じて之を討たしめ、「九節度の師」と号す。久しくして、大盗既に滅び、而して武夫戦卒功を以て行陣より起り、列ねて侯王と為る者、皆節度使を除く。是に由りて方鎮内地に相望み、大なる者は州を連ぬること十余、小なる者は猶三四を兼ぬ。故に兵驕れば則ち帥を逐ひ、帥彊ければ則ち上に叛く。或は父死して子其の兵を握りて代らんことを肯はざり、或は取捨士卒に由り、往々自ら将吏を択び、「留後」と号し、以て朝に命を邀ふ。天子力を顧みて制すること能はざれば、則ち恥を忍び垢を含み、因りて之を撫で、之を姑息の政と謂ふ。蓋し姑息は兵驕より起り、兵驕は方鎮に由り、姑息愈甚しければ、而して兵将愈俱に驕る。是に由りて号令自ら出で、以て相侵撃し、其の将帥を虜ひ、其の土地を幷せ、天子熟視して為す所を知らず、反つて之を和解し、肯て命を聴かず。

初め朝廷の患いとなった者は、「河朔三鎮」と称された。その末に至り、朱全忠は梁の兵を以て、李克用は晋の兵を以て更に京師を犯し、而して李茂貞・韓建は近く岐・華に拠り、妄りに一たび喜怒すれば、兵は既に国門に至り、天子は大臣を殺し、己を罪して過ちを悔い、然る後に去った。及んで昭宗は崔胤を用いて梁兵を召し宦官を誅せしめ、天子を劫いて岐に奔らせ、梁兵は之を囲むこと一年を踰えた。この時に当たり、天下の兵に復た勤王する者無し。嚮に所謂三鎮と為す者は、徒らに禍を始むる能くするのみ。他の大鎮、南は則ち呉・浙・荊・湖・閩・広、西は則ち岐・しょく、北は則ち燕・晋、而して梁は盗みに其中に拠り、国門以外より自ら、皆方鎮に分裂せられた。

故に兵の初め外に重んぜられるや、土地・民賦は天子有に非ず。其の盛んなるに既にして、号令・征伐は其の有に非ず。又其の甚だしきに至りては、尺土無きに至り、而して其の妻子宗族を庇う能わず、遂に以て亡滅す。語に曰く、「兵は猶ほ火の如し、戢えざれば将に自ら焚く。」危乱を悪みて安全を欲する者は、庸君常主の能く知る所、措置の失に至りては、則ち所謂天下を困して以て乱を養うなり。唐の兵を置くこと、既に外柄を以て人に授け、而して末大本小、方に区区自ら捍衞の計を為す、哀しまざるべけんや。

夫れ所謂天子禁軍とは、南・北衙の兵なり。南衙は、諸衞の兵是なり。北衙は、禁軍なり。

初め、高祖は義兵を以て太原に起り、既に天下を定め、悉く罷め遣わし帰らしむ。其の宿衞に留まるを願う者三万人。高祖は渭北の白渠旁の民の棄つる腴田を以て分ちて之に給し、「元従禁軍」と号す。後に老いて事に任ぜず、其の子弟を以て代え、之を「父子軍」と謂う。貞観の初めに及び、太宗は善く射る者百人を択び、二番を北門に長上せしめ、「百騎」と曰い、田猟に従わしむ。又北衙七営を置き、材力驍壮なる者を選び、月に一営を以て番上せしむ。十二年、始めて左右の屯営を玄武門に置き、諸衞の将軍を以て領せしめ、「飛騎」と号す。其の法は、戸二等以上、長六尺闊壮なる者を取り、弓馬四次上・翹関五を挙ぐ・米五斛を負いて三十歩を行く者を試す。復た馬射を択びて百騎と為し、五色の袍を衣、六閑の駁馬に乗じ、虎皮の韉を以てし、游幸の翊衞と為す。

高宗龍朔二年、始めて府兵の越騎・歩射を取り左右羽林軍を置き、大朝会には則ち仗を執りて階陛を衞し、行幸には則ち馳道を夾みて内仗と為す。武后は百騎を改めて「千騎」と曰う。中宗は又千騎を改めて「万騎」と曰い、左・右営に分つ。玄宗の万騎を以て韋氏を平げるに及び、左右龍武軍と改め、皆唐元の功臣の子弟を用い、制は宿衞の兵の若し。是の時、良家の子に征戍を避くる者も、亦皆資を納めて軍に隷し、日を分ちて更に上ること羽林の如し。開元十二年、詔して左右羽林軍・飛騎の闕は、京旁の州府の士を取り、戸部の印を以て其の臂に印し、二籍と為し、羽林・兵部分ちて之を掌らしむ。末年、禁兵漸く耗し、禄山の反するに及び、天子西駕し、禁軍従う者は裁ち千人、粛宗の霊武に赴くに、士百に満たず、即位に及び、稍く復た北軍を調補す。至徳二載、左右神武軍を置き、元従・扈従の官の子弟を補い、足らざれば則ち他の色を取り、品を帯ぶる者は四軍に同じく、亦「神武天騎」と曰い、制は羽林の如し。総じて「北衙六軍」と曰う。又便騎射の者を択びて衙前射生手千人を置き、亦「供奉射生官」と曰い、又「殿前射生」と曰い、左・右廂に分ち、総号して「左右英武軍」と曰う。乾元元年、李輔国用事し、羽林の騎士五百人を選びて徼巡せんことを請う。李揆曰く、「漢は南・北軍を以て相い制す、故に周勃は北軍を以て劉氏を安んず。朝廷は南・北衙を置き、文武区列し、以て相い察伺す。今羽林を用いて金吾の警に代うれば、忽ち非常あらん、何を以て之を制せん。」遂に罷む。

上元中、北衙軍使衛伯玉を以て神策軍節度使と為し、陝州に鎮めしめ、中使魚朝恩を観軍容使と為し、其の軍を監せしむ。初め、哥舒翰は吐蕃を臨洮西の磨環川に破り、即ち其の地に神策軍を置き、成如璆を以て軍使と為す。禄山の反するに及び、如璆は伯玉に兵千人を将いて難に赴かしめ、伯玉は朝恩と皆陝に屯す。時に辺土陷蹙し、神策の故地淪没す、即ち詔して伯玉の所部の兵を、「神策軍」と号し、伯玉を以て節度使と為し、陝州節度使郭英乂と皆陝に鎮めしむ。其の後伯玉罷め、英乂を以て神策軍節度を兼ねしむ。英乂入りて僕射と為り、軍は遂に観軍容使に統せらる。

代宗即位し、射生軍を以て禁中に入りて難を清むるに、皆名を「宝応功臣」と賜い、故に射生軍は又「宝応軍」と号す。広徳元年、代宗は吐蕃を避けて陝に幸す、朝恩は陝に在る兵を挙げて神策軍と迎扈し、悉く「神策軍」と号す。天子其の営に幸す。京師平ぐるに及び、朝恩は遂に軍を以て禁中に帰し、自ら之を将う、然れども未だ北軍と歯せず。永泰元年、吐蕃復た寇に入り、朝恩は又神策軍を以て苑中に屯す、此より漸く盛んとなり、左・右廂に分かれ、勢北軍の右に居り、遂に天子の禁軍と為り、他の軍比ぶるに非ず。朝恩は乃ち観軍容宣慰処置使を以て神策軍兵馬使を知る。大暦四年、京兆の好畤、鳳翔の麟游・普潤を以て皆神策軍に隷せんことを請う。明年、復た興平・武功・扶風・天興を以て之に隷せしむ、朝廷遏むる能わず。又愛将劉希暹を用いて神策虞候と為し、不法を主とし、遂に北軍の獄を置き、坊市の不逞を募り、大姓を誣り捕え、産を没して賞と為し、選挙旅寓にして厚貲を挟みて横死する者多きに至る。朝恩罪を得て死し、希暹を以て代わりに神策軍使と為す。是歳、希暹復た罪を得、朝恩の旧校王駕鶴を以て代わりに将と為す。十数歳、徳宗即位し、白志貞を以て之に代う。是の時、神策兵は内に処すと雖も、多く裨将を以て兵を将いて征伐し、往々功有り。

及んで李希烈反し、河北の盗且つ起らんとし、数え禁軍を出して征伐す、神策の士多く鬬死す。建中四年詔を下して兵を募り、志貞を以て使と為し、蒐補峻切なり。郭子儀の婿端王傅呉仲孺は貲を殖やして累巨万、国家急有りて自ら安からず、請うて子を以て奴馬を率いて軍に従わんことを。徳宗喜び甚だし、其の子を官すること五品と為す。志貞は乃ち節度・都団練・観察使と世嘗て任ずる者家に、皆子弟馬奴に出だして装鎧し征を助けしめ、官を授くること仲孺の子の如くせんことを請う。ここに於て豪富の者縁りて幸いと為し、而して貧しき者は之を苦しむ。神策兵既に発すること殆んど尽き、志貞陰に市人を以て之を補い、名は籍に隷し而して身は市肆に居る。涇卒の潰変するに及び、皆戢伏して出でず、帝遂に出奔す。初め、段秀実は禁兵寡弱にして、非常を備うるに足らずと見て、上疏して曰く、「天子は万乗、諸侯は千、大夫は百、蓋し大を以て小を制し、十を以て一を制するなり、君を尊び臣を卑しめ幹を彁くして支を弱くするの道なり。今外に廷せざるの虜有り、内に命を梗ぐるの臣有り、而して禁兵精ならず、其の数削少なり、後猝然たる故有らば、何を以て之を待たん。猛虎の所以に百獣畏るるは、爪牙なり、爪牙廃れば、則ち孤豚特犬も悉く能く敵と為る。願わくは少しく留意せよ。」是に至りて方に秀実の言を然りと為す。

志貞らが流罪・左遷されると、神策都虞候李晟とその軍の他の将は、皆飛狐道を経て西から兵を率いて国難に赴き、遂に神策行営節度となり、渭北に駐屯して、軍勢は振るった。貞元二年、神策左右廂を左右神策軍と改め、特に監句當左右神策軍を置き、宦官を寵遇し、また大将軍以下を増置した。また殿前射生左右廂を殿前左右射生軍と改め、これも大将軍以下を置いた。三年、詔して射生・神策・六軍の将兵は、府県が事を処置するに当たり、先ず奏上してから軍に移すべきで、軽々しく逮捕してはならないとした。京兆尹鄭叔則が建言して、「京師の劇務は軽薄狡猾な者の集まる所で、悪事は常ならず、奏報を待っていては罪人を取り逃がすであろう。日暮れでない限り、皆その時に逮捕することを請う」と言った。そこでこれを許可した。やがて殿前左右射生軍を左右神策威軍と改め、監左右神威軍使を置いた。左右神策軍には皆将軍二員を加え、左右龍武軍には将軍一員を加え、諸道の大将で功ある者を待遇した。

粛宗以後、北軍は威武・長興等の軍を増置し、名称の類は頗る多く、廃置は一定しなかった。ただ羽林・龍武・神武・神策・神威が最も盛んで、総称して左右十軍と言った。その後、京畿の西は多く神策軍でこれを鎮め、皆屯営があった。軍司の者は、甸内に散在し、皆勢いに恃んで暴虐を振るい、民間はこれを苦しんだ。徳宗が梁より還幸して以来、神策兵に労があったので、皆「興元元従奉天定難功臣」と号し、死罪を赦した。中書・御史府・兵部はもはや毎年その戸籍を比較することができず、京兆もまた名実を総べて挙げることを敢えてしなかった。三輔の人は軍籍に仮託し、一通の文書で十数人に及んだ。長安の奸人は多く両軍に寄寓して籍を占め、自身は宿衛せず、銭を以って代行させ、これを納課戸と言った。ますます暴虐をほしいままにし、吏が少しこれを禁じようとすると、先んじて罪を得たので、当時の京尹・赤令は皆これに屈服した。十年、京兆尹楊於陵が挿名の勅を置くことを請い、五丁に二丁の軍籍在住を許し、残りは条限によって差配することとし、これによって豪強は少し畏れた。

十二年、監句當左神策軍・左監門衛大将軍・知内侍省事竇文場を左神策軍護軍中尉とし、監句當右神策軍・右監門衛将軍・知内侍省事霍仙鳴を右神策軍護軍中尉とし、監右神威軍使・内侍兼内謁者監張尚進を右神威軍中護軍とし、監左神威軍使・内侍兼内謁者監焦希望を左神威軍中護軍とした。護軍中尉・中護軍は皆古い官である。帝は既に禁衛を宦官に委ね、またこれをもって彼らを寵遇した。十四年、また詔して左右神策に統軍を置き、親衛を重んじること六軍の如くとした。当時、辺兵の衣糧は多く足りず、戍卒の屯防には、薬・茶・野菜・醤の支給が最も厚かった。諸将は詭弁を弄し、遙かに神策軍に隷属することを請い、給与は遂に旧来の三倍に達し、これによって塞上では往々にして神策行営と称し、皆内では中人に統轄され、その軍は十五万に至った。故事では、京城の諸司・諸使・府・県は、皆季ごとに御史が囚人を巡視した。後に北軍は地が機密であるため、未だ至らなかった。十九年、監察御史崔薳が近事を知らず、遂に右神策に入った。中尉がこれを奏上すると、帝は怒り、薳を四十回杖ち、崖州に流した。

順宗が即位し、王叔文が権力を用い、神策の兵権を取ろうとして、故将范希朝を用いて左右神策・京西諸城鎮行営兵馬節度使とし、宦官の権力を奪おうとしたが成功しなかった。元和二年、神武軍を廃した。翌年、また左右神威軍を廃し、一つに合して「天威軍」とした。八年、天威軍を廃し、その兵騎を左右神策軍に分属させた。僖宗が蜀に幸すると、田令孜が神策新軍を募って五十四都とし、十軍に分け、令孜自ら左右神策十軍兼十二衛観軍容使となり、左右神策大将軍を左右神策諸都指揮使とし、諸都はまた都将に率いさせ、これを「都頭」とも言った。

景福二年、昭宗は藩臣の跋扈・天子の孤弱を以て、宗室に禁兵を管轄させることを議した。李茂貞を討伐するに及んで、嗣覃王允を用いて京西招討使とし、神策諸都指揮使李鐬をその副とし、五十四軍を悉く発して興平に屯させたが、やがて兵は自ら潰え、茂貞は京師に迫った。昭宗は神策中尉西門重遂・李周𧬤を斬って、ようやく去らせた。乾寧元年、王行瑜・韓建及び茂貞が連合して兵を起こし闕を犯すと、天子はまた宰相韋昭度・李磎を殺して、ようやく去った。太原の李克用がその兵を以て行瑜らを討つと、同州節度使王行実が入って神策中尉駱全瓘・劉景宣に迫り天子を邠州に幸するよう請うた。全瓘・景宣及びその子継晟と行実は東市に放火し、帝は承天門に御し、諸王に命じて禁軍を率いさせてこれを防がせた。捧日都頭李筠がその軍を率いて楼を衛い、茂貞の将閻圭が筠を攻め、矢が楼扉に及んだ。帝は親王・公主と共に筠の軍に幸し、扈蹕都頭李君実もまた兵を率いて至り、帝に侍して莎城・石門に出幸した。詔して嗣薛王知柔を長安に入らせて禁軍を収め宮室を清めさせ、一月余りしてようやく還った。また詔して諸王に親軍を閲させ、神策の亡散を收拾し、数万を得た。安聖・捧宸・保寧・安化の軍を増置し、「殿後四軍」と言い、嗣覃王允と嗣延王戒丕がこれを率いた。三年、茂貞が再び闕を犯すと、嗣覃王は戦いに敗れ、昭宗は華州に幸した。翌年、韓建は諸王に兵があることを畏れ、皆十六宅に帰るよう請い、殿後兵三十人を留めて控鶴排馬官とし、飛龍坊に隷属させ、残りは悉く解散させ、また甲兵を並べて行宮を囲んだ。ここにおいて四軍二万余人は皆罷められた。また都頭李筠を誅するよう請うた。帝は恐れ、大雲橋で斬った。やがて十一王を殺した。

長安に還ると、左右神策軍をまた少し置き、六千人を定数とした。この年、左右神策中尉劉季述・王仲先がその兵千人を以て帝を廃し、幽閉した。季述らは誅された。やがて昭宗は朱全忠の兵を召し入れて宦官を誅させようとした。宦官はこれを察知し、天子を劫いて鳳翔に幸させた。全忠がこれを一年余り包囲すると、天子は中尉韓全誨・張弘彦ら二十余人を誅し、梁の兵を解かせ、ようやく長安に還った。ここにおいて宦官を悉く誅し、神策左右軍はこれによって廃された。諸司は悉く尚書省郎官に帰し、両軍の兵は皆六軍に隷属させ、崔胤に六軍十二衛事を判らせた。六軍とは、左右龍武・神武・羽林であり、その名が存するのみであった。これより軍司は宰相が領することとなった。

全忠が帰還するに及び、歩騎一万人を留めて旧両軍の地に駐屯させ、子の友倫を左右軍宿衛都指揮使とし、禁衛は皆汴の兵卒となった。崔胤は乃ち奏上して言う、「六軍は名のみ存して兵は亡び、京師を壮にする所以にあらず。各軍に皆歩軍四将、騎軍一将を置くべし。歩将は皆兵二百五十人、騎将は皆百人、総計六千六百人。番上は故事の如くせよ」。乃ち六軍諸衛副使京兆尹鄭元規に命じて市において格を立てて兵を募らしめたが、全忠は密かに汴人を応募させた。胤が死ぬと、宰相裴樞に左三軍を判らせ、獨孤損に右三軍を判らせ、先に募った兵士は悉く散り去った。全忠もまた左右六軍十二衛を兼ねて判った。東遷に及んで、唯小黄門打毬供奉十数人、内園小児五百人が従った。穀水に至り、又悉くこれを屠り、汴人と替えた。ここに於いて天子は一人の衛も無し。昭宗はしい害に遇い、唐は乃ち亡んだ。

馬は、兵の用いる所なり。監牧は、馬を蕃息させる所以なり。その制は近世に起こる。唐の初めに起ち、突厥の馬二千匹を得、又隋の馬三千を赤岸沢に得て、これを隴右に移し、監牧の制はここに始まる。その官は太僕をもって領とし、その属に牧監・副監あり。監には丞あり、主簿・直司・団官・牧尉・排馬・牧長・羣頭あり、正・副あり。凡そ羣には長一人を置き、十五長に尉一人を置き、歳ごとに功を課し、排馬を進める。又掌閑あり、馬を調習して上に習わしむ。

又尚乗をもって天子の御を掌らしむ。左右六閑あり。一に飛黄、二に吉良、三に龍媒、四に騊駼、五に駃騠、六に天苑と曰う。総じて十二閑を二廐となす。一に祥驎、二に鳳苑と曰い、以て繫飼す。その後禁中に又飛龍廐を増置す。

初め、太僕少卿張萬歳を用いて羣牧を領せしむ。貞観より麟徳に至る四十年の間、馬七十万六千、八坊を岐・豳・涇・寧の間に置き、地は千里に広がる。一に保楽、二に甘露、三に南普閏、四に北普閏、五に岐陽、六に太平、七に宜禄、八に安定と曰う。八坊の田は千二百三十頃、民を募ってこれを耕し、芻秣を給す。八坊の馬は四十八監と為り、馬多くして地狭く容れられず、又八監を分かちて河西の豊かで曠野なる地に列布す。凡そ馬五千を上監とし、三千を中監とし、余を下監とす。監には皆左・右あり、地に因りて名と為す。その時、天下は一縑をもって一馬に易う。萬歳は馬を掌ること久しく、恩信は隴右に行わる。

後に太僕少卿鮮于匡俗をもって隴右牧監を検校せしむ。儀鳳中、太僕少卿李思文をもって隴右諸牧監使を検校せしむ。監牧に使ありは是より始まる。後に又羣牧都使あり、閑廄使あり、使は皆副を置き、判官あり。又四使を立てる。南使十五、西使十六、北使七、東使九。諸坊たる涇川・亭川・闕水・洛・赤城は、南使これを統ぶ。清泉・温泉は、西使これを統ぶ。烏氏は、北使これを統ぶ。木硤・万福は、東使これを統ぶ。他は皆伝を失う。その後益々八監を塩州に置き、三監を嵐州に置く。塩州使八、白馬等の坊を統ぶ。嵐州使三、楼煩・玄池・天池の監を統ぶ。

凡そ征伐して牧馬を発するには、先ず強壮を尽くし、足らざれば則ちその次を取る。色・歳・膚第・印記・主名を録して軍に送り、帳をもってこれを馱し、数を省に上す。

萬歳が職を失いてより、馬政頗る廃れ、永隆中、夏州の牧馬の死失する者十八万四千九百九十。景雲二年、詔して羣牧に歳ごとに高品を出ださしめ、御史これを按察す。開元初、国馬益々耗減し、太常少卿姜晦乃ち空名の告身をもって六胡州に馬を市うことを請い、率三十匹に一游撃將軍を讎う。王毛仲に命じて内外閑廄を領せしむ。九年又詔す、「天下に馬ある者は、州県皆先ず郵遞・軍旅の役に以てし、戸を定め復た縁りて以てこれを升す。百姓畏苦し、乃ち多く馬を畜わず、故に騎射の士は曩時に減ず。今より諸州の民は蔭の有無を限らず、能く家に十馬以上を畜うれば、帖驛・郵遞・征行を免じ、戸を定むるに馬を以て貲と為すこと無からしめよ」。毛仲既に閑廄を領し、馬稍々復し、始め二十四万、十三年に至りて乃ち四十三万。その後突厥塞に款き、玄宗厚くこれを撫で、歳ごとに朔方軍西受降城を許して互市と為し、金帛をもって馬を市い、河東・朔方・隴右にこれを牧わしむ。胡種を雑うるに及び、馬乃ち益々壮なり。

天宝後、諸軍の戦馬動もすれば万を以て計る。王侯・将相・外戚の牛駝羊馬の牧は諸道に布き、県官の百倍にし、皆封邑の号名を以て印と為し自ら別つ。将校も亦私馬を備う。議うに秦・漢以来、唐の馬最も盛んなりと謂い、天子又武事に鋭志し、遂に西北蕃を弱らしむ。十一載、詔して二京の旁五百里に私牧を置くこと勿からしむ。十三載、隴右羣牧都使奏す、馬牛駝羊総計六十万五千六百、而して馬三十二万五千七百。

安禄山は内外閑廄都使を以て楼煩監を兼ねて知り、陰かに勝甲の馬を選びて范陽に帰す。故にその兵力は天下を傾け而して卒に反す。粛宗兵を収めて彭原に至り、官吏の馬を率いて平涼に抵り、監牧及び私羣を蒐め、馬数万を得、軍遂に振う。鳳翔に至り、又詔して公卿百寮に後乗を以て軍を助けしむ。その後辺に重兵無く、吐蕃隙に乗じて隴右を陥し、苑牧の畜馬皆没す。乾元後、回紇功を恃み、歳ごとに馬を入れて繒を取り、馬は皆病弱にして用うべからず。永泰元年、代宗親しく虜を撃たんと欲し、魚朝恩乃ち大いに城中の百官・士庶の馬を搜して官に輸することを請い、「団練馬」と曰う。制を下して馬の城を出づる者を禁じ、已にして復た罷む。徳宗建中元年、関輔の馬三万を市いて内廄を実す。貞元三年、吐蕃・羌・渾塞を犯す。詔して大馬の潼・蒲・武関を出づる者を禁ず。元和十一年蔡を伐つに、中使をして絹二万をもって河曲に馬を市わしむ。その始め四十八監を置くや、隴西・金城・平涼・天水に拠り、員広きこと千里、京より隴を度り、八坊を置いて会計都領と為し、その間の善水草・腴田は皆これに隷す。後監牧使と坊皆廃れ、故地存する者は一に閑廄に帰し、旋って以て貧民及び軍吏に給し、間には又仏寺・道館に賜うこと幾千頃。十二年、閑廄使張茂宗故事を挙げ、岐陽坊の地を尽く収め、民失業する者甚だ衆し。十三年、蔡州の牧地を以て龍陂監と為す。十四年、臨漢監を襄州に置き、馬三千二百を牧わしめ、田四百頃を費やす。穆宗即位す、岐人闕を叩いて茂宗の奪いし田を訟う。事御史に下して按治せしめ、悉く民に予う。

大和七年、度支塩鉄使言う、「銀州は水甘く草豊かなり。詔して刺史劉源に馬三千を市わしめ、河西に銀川監を置き、源を以て使と為さんことを請う」。襄陽節度使裴度臨漢監を停むるを奏す。開成二年、劉源奏す、「銀川の馬已に七千、若し水草乏しければ、則ち牧を綏州の境に徙すべし。今綏南二百里、四隅険絶し、寇路通ずること能わず、数十人を以て要を守らば、畜牧他患無し」。乃ち銀川監に隷せしむ。

その後闕け、復た紀すべからず。