文字サイズ
新唐書
巻三十五 志第二十五 五行二
五行伝に曰く、「宮室を治め、台榭を飾り、内に淫乱にして、親戚を犯し、父兄を侮れば、則ち稼穡成らず」と。土がその性を失えば、則ち水旱の災あり、草木百穀熟さざるなり。又曰く、「思心睿ならず、是れを不聖と謂ふ。厥れ咎は霿、厥れ罰は常風、厥れ極は凶短折。時に則ち脂夜の妖有り、時に則ち華孽・臝蟲の孽有り、時に則ち牛禍有り、時に則ち心腹の痾有り、時に則ち黄眚黄祥有り、時に則ち木・火・金・水の土に沴る有り」と。
農作物が実らないこと。
貞観元年、関内飢饉。
総章二年、諸州四十余り飢饉、関中特に甚だし。
儀鳳四年春、東都飢饉。
調露元年秋、関中飢饉。
永隆元年冬、東都飢饉。
永淳元年、関中及び山南の州二十六飢饉、京師人相食む。
垂拱三年、天下飢饉。
大足元年春、河南諸州飢饉。
景龍二年春、飢饉。三年三月、飢饉。
先天二年冬、京師・岐・隴・幽州飢饉。
開元十六年、河北飢饉。
乾元三年の春、饑饉あり、米一斗の価銭千五百文。
広徳二年の秋、関輔に饑饉あり、米一斗の価銭千文。
永泰元年、饑饉あり、京師にて米一斗の価銭千文。
貞元元年の春、大饑饉あり、東都・河南・河北にて米一斗の価銭千文、死者相枕す。二年五月、麦の登らんとするに霖雨あり、米一斗の価銭千文。十四年、京師及び河南に饑饉あり。十九年秋、関輔に饑饉あり。
元和七年の春、饑饉あり。八年、広州に饑饉あり。九年春、関内に饑饉あり。十一年、東都・陳許州に饑饉あり。
長慶二年、江淮に饑饉あり。
大和四年、河北及び太原に饑饉あり。六年春、剣南に饑饉あり。九年春、饑饉あり、河北は特に甚だし。
開成四年、温州・台州・明州等に饑饉あり。
大中五年の冬、湖南に饑饉あり。六年夏、淮南に饑饉あり、海陵・高郵の民、官河の中にて異なる米を漉き得、これを「聖米」と号す。九年秋、淮南に饑饉あり。
咸通三年夏、淮南・河南に饑饉あり。九年秋、江左及び関内に饑饉あり、東都は特に甚だし。
乾符三年の春、京師に饑饉あり。
中和二年、関内に大饑饉あり。四年、関内に大饑饉あり、人相食らう。
光啓二年二月、荊州・襄州に大饑饉あり、米一斗の価銭三千文、人相食らう。三年、揚州に大饑饉あり、米一斗の価銭万文。
大順二年の春、淮南に大饑饉あり。
天祐元年十月、京師に大饑饉あり。
常なる風。
武徳二年十二月壬子、大風木を抜く。易に巽を風と為す、「重巽以て命を申ぶ」と。其れ物に及ぶや、人君の誥命に象り、其れ天地の間に鼓動するや、時に沙を飛ばし塵を揚ぐ、怒りなり、屋を発し木を抜くは、怒り甚だしきなり。其の占いは「大臣専恣にして気盛んにして、衆逆同志し、君行蒙暗にして、事に施すは則ち皆傷害す、故に常風と為す」と。又「飄風宮闕に入り、一日再三、若し風声雷の如く地に触れて起るは、兵将興らんと為す」と。
貞観十四年六月乙酉、大風木を抜く。
咸亨四年八月己酉、大風太廟の鴟尾を落とす。
永隆二年七月、雍州大風稼を害す。
弘道元年十二月壬午晦、宋州大風木を抜く。
嗣聖元年四月丁巳、寧州大風木を抜く。
垂拱四年十月辛亥、大風木を抜く。
永昌二年五月丁亥、大風木を抜く。
神龍元年三月乙酉、睦州大風木を抜く。崔玄暐博陵郡王に封ぜらるるや、大風其の輅蓋を折る。二年六月乙亥、滑州大風木を抜く。
景龍元年七月、郴州大風、屋を発し木を抜く。八月、宋州大風木を抜き、廬舍を壊す。二年十月辛亥、滑州暴風屋を発す。三年三月辛未、曹州大風木を抜く。
開元二年六月、京師大風屋を発し、大木抜かるるもの十に七八。四年六月辛未、京師・陝・華大風木を抜く。九年七月丙辰、揚州・潤州暴風雨、屋を発し木を抜く。十四年六月戊午、大風木を抜き屋を発し、端門の鴟尾尽く落つ。端門は、号令の出づる所なり。十九年六月乙酉、大風木を抜く。二十二年五月戊子、大風木を抜く。
天宝十一載五月甲子、東京大風木を抜く。十三載三月辛酉、大風木を抜く。
永泰元年三月辛亥、大風木を抜く。
大暦七年五月乙酉、大風木を抜く。十年五月甲寅、大風木を抜く。
貞元元年(七八五年)七月庚子、大風が木を抜く。六年(七九〇年)四月甲申、大風雨。八年(七九二年)五月己未、暴風が太廟の屋瓦を飛ばし、門闕・官署・廬舎を毀ち、数え切れぬ。十年(七九四年)六月辛未、大風が木を抜く。十四年(七九八年)八月癸未、広州に大風、屋を壊し舟を覆す。
元和元年(八〇六年)六月丙申、大風が木を抜く。三年(八〇八年)四月壬申、大風が含元殿の欄檻二十七間を毀つ。占うに兵の起こる兆しとす。四年(八〇九年)十月壬午、天に煙の如き気あり、燔皮の如く臭く、日昳に大風にして止む。五年(八一〇年)三月丙子、大風が崇陵上宮の衙殿の鴟尾及び神門の戟竿六つを毀ち、行垣四十間を壊す。八年(八一三年)六月庚寅、京師に大風雨、屋を毀ち瓦を飛ばし、人多く圧死す。丙申、富平に大風、棗木千余株を抜く。十二年(八一七年)春、青州に一夕暴風西北より起こり、天地晦冥し、空中有りて旌旗の状の如く、屋瓦の上に蹂躪の声の如し。日者有りて占いて曰く、「五年に及ばず、茲の地大いに殺戮すべし」と。
長慶二年(八二二年)正月己酉、大風霾。十月、夏州に大風、飛沙堆を為し、高さ城堞に及ぶ。三年(八二三年)正月丁巳朔、大風、昏霾終日す。四年(八二四年)六月庚寅、大風が延喜門及び景風門を毀つ。
大和八年(八三四年)六月癸未、暴風が長安県署及び経行寺の塔を壊す。九年(八三五年)四月辛丑、大風が木万株を抜き、含元殿の四鴟尾を堕とし、殿廷の樹三つを抜き、金吾仗舎を壊し、城門楼観内外三十余所を発し、光化門西城十数雉を壊す。
開成三年(八三八年)正月戊辰、大風が木を抜く。五年(八四〇年)四月甲子、大風が木を抜く。五月壬寅、亦た之の如し。七月戊寅、亦た之の如し。
会昌元年(八四一年)三月、黔南に大風、瓦を飛ばす。
咸通六年(八六五年)正月、絳州に大風、木を抜く、十囲の者有り。十一月己卯晦、潼関に夜中大風、山吼雷の如く、河石を噴きて鳴り、群烏乱飛し、重関傾側す。十二月、大風が木を抜く。
乾符五年(八七八年)五月丁酉、大風が木を抜く。
広明元年(八八〇年)四月甲申、京師及び東都・汝州に雨雹、大風が木を抜く。四年(八八三年)六月乙巳、太原に大風雨、木千株を抜き、稼を百里に害す。
光化三年(九〇〇年)七月乙丑、洺州に大風、木を抜き屋を発す。
天復二年(九〇二年)、昇州に大風、屋を発し大木を飛ばす。
大和九年(八三五年)十一月戊辰、昼晦し。
咸通七年(八六六年)九月辛卯朔、天闇し。
乾符二年(八七五年)二月、宣武境内に黒風、雨土。
天祐元年閏四月乙未朔、大風吹き、土雨降る。
華孽。
延載元年九月、内より梨の華一枝を出して宰相に示す。万木揺れ落ちて華を生ずるは、陰陽の黷なり。伝に曰く、「天時に反するは災なり」と。また常燠に近し。
神龍二年十月、陳州に李に華あり、鮮茂にして春の如し。
元和十一年十二月、桃杏華く。
大和二年九月、徐州・滑州に李に華あり、実は食すべし。
会昌三年冬、沁源に桃李華く。
広明元年冬、桃李華き、山の華皆発す。
中和二年九月、太原諸山に桃杏華き、実あり。
景福中、滄州の城塹中の氷に文あり、大樹の華葉芬敷くを画けるが如し。時に人、その地に兵難あらんとすと為す。華孽に近し。
臝蟲の孽。
貞観二十一年八月、萊州に螟あり。
開元二十二年八月、榆関に虸蚄蟲稼を害し、平州界に入る。群雀来りてこれを食い、一日にして尽く。二十六年、榆関に虸蚄蟲稼を害し、群雀来りてこれを食う。
三載、青州に紫蟲田を食い、鳥ありてこれを食う。
広徳元年秋、虸蚄蟲稼を害し、関中特に甚だしく、米一斗千銭。
貞元十年四月、江西の溪澗にて魚の頭に皆蚯蚓を戴く。
長慶四年、絳州に虸蚄蟲ありて禾稼を害す。
大和元年秋、河東・同・虢等州に虸蚄蟲ありて禾稼を害す。
開成元年、京城に蟻の聚まるあり、長さ五六十歩、闊さ五尺より一丈に至り、厚さ五寸より一尺に至る者あり。四年、河南に黒蟲ありて田を食う。
牛禍。
調露元年春、牛大いに疫す。京房易傳に曰く、「牛少なきは穀成らず」と。又占に曰く、「金革動く」と。
長安中、牛を献ずる者あり、前膊なく、三足にして行く。又牛に膊上に数足を生じ、蹄甲皆備わる者あり。武太后の從姉の子、司農卿宗晉卿の家の牛、三角を生ず。
神龍元年春、牛疫す。二年冬、牛大いに疫す。
先天初、洛陽市に牛あり、左脅に人手あり、長さ一尺、或いはこれを牽きて以て乞丐す。
開元十五年春、河北にて牛大いに疫す。
大曆八年、武功・櫟陽の民家の牛、犢を生む、二首。
貞元二年、牛疫す。四年二月、郊牛犢を生む、六足。足多きは、下一つならず。郊は以て天に奉ずる所なり。七年、關輔にて牛大いに疫し、死者十五六。
咸通七年、荊州の民家の牛、犢を生む、五足。十五年夏、渝州江陽に水牛驢駒を生む、駒死す。
光啟元年、河東に牛人言あり、其の家これを殺して食らう。二年、延州膚施に牛死して復た生くるあり。
黃眚黃祥。
貞観七年三月丁卯、土が降る。二十年閏三月己酉、黄雲あり、広さ一丈、東西天に際す。黄は土功の象なり。
永徽三年三月辛巳、土が降る。
景龍元年六月庚午、陝州に土が降る。十二月丁丑、土が降る。
天宝十三載二月丁丑、黄土が降る。
大暦七年十二月丙寅、土が降る。
貞元二年四月甲戌、土が降る。八年二月庚子、土が降る。
大和八年十月甲子、土霧あり、昼も暗く、十一月癸丑に至るまで続く。
開成元年七月乙亥、土が降る。
咸通十四年三月癸巳、黄土が降る。
中和二年五月辛酉、大風、土が降る。
天復三年二月、土が降り、天地昏霾す。
天祐元年閏四月甲辰、大風、土が降る。
木・火・金・水が土を害す。
武徳二年十月乙未、京師地震す。陰盛にして常に反すれば則ち地震す、故にその占いは臣強く、后妃専恣し、夷華を犯し、小人の道長く、寇至り、叛臣あるを為す。七年七月、巂州地震し、山崩れて江を塞ぎ、水噎びて流る。
貞観七年十月乙丑、京師地震す。十二年正月壬寅、松・叢二州地震し、廬舎を壊す。二十年九月辛亥、霊州地震し、声雷の如し。二十三年八月癸酉朔、河東地震し、晋州特に甚だしく、五十余人を圧殺す。乙亥、また震う。十一月乙丑、また震う。
永徽元年四月己巳朔、晋州に地震あり。己卯、また震う。六月庚辰、また震い、声雷の如し。二年十月、また震う。十一月戊寅、定襄地震す。帝は初め晋王に封ぜられ、即位の初めにして地しばしば震う、天下将に帝によりて動揺する象なり。
儀鳳二年正月庚辰、京師地震す。
永淳元年十月甲子、京師地震す。
垂拱三年七月乙亥、京師地震す。四年七月戊午、また震う。八月戊戌、神都地震す。
延載元年四月壬戌、常州地震す。
大足元年七月乙亥、揚・楚・常・潤・蘇の五州地震す。二年八月辛亥、剣南六州地震す。
景龍四年五月丁丑、剣県地震す。
景雲三年正月甲戌、幷・汾・絳の三州地震し、廬舎を壊し、圧死すること百余人。
開元二十二年二月壬寅、秦州地震す。西北に隠々として声あり、裂けてまた合し、時を経て止まず、廬舎殆ど尽く壊れ、圧死すること四千余人。二十六年三月癸巳、京師地震す。
至徳元載十一月辛亥朔、河西に地震し裂けて声あり、廬舎陥没し、張掖・酒泉特に甚だしく、二載三月癸亥に至りて乃ち止む。
大暦二年十一月壬申、京師地震し、東北より来たり、その声雷の如し。三年五月丙戌、また震う。十二年、恒・定の二州に地大いに震い、三日にして乃ち止み、束鹿・寧晋に地数丈裂け、沙石水に随い流れて平地に出で、廬舎を壊し、圧死者数百人。
建中元年四月己亥、京師地震す。三年六月甲子、また震う。四年四月甲子、また震う。五月辛巳、また震う。
貞元二年五月己酉、また震う。三年十一月丁丑夜、京師・東都・蒲・陝地震す。四年正月庚戌朔夜、京師地震す。辛亥・壬子・丁卯・戊辰・庚午・癸酉・甲戌・乙亥、皆震い、金・房の二州特に甚だしく、江溢れ山裂け、屋宇多く壊れ、人皆露処す。二月壬午、京師また震う。甲申・乙酉・丙申、三月甲寅・己未・庚午・辛未、五月丙寅・丁卯、皆震う。八月甲午、また震い、声雷の如し。甲辰、また震う。九年四月辛酉、また震い、声雷の如し、河中・関輔特に甚だしく、城壁廬舎を壊し、地裂け水湧く。十年四月戊申、京師地震す。癸丑、また震い、侍中渾瑊の第に樹湧き出で、樹枝皆蚯蚓を戴く。十三年七月乙未、また震う。
元和七年八月、京師地震し、草樹皆揺る。九年三月丙辰、巂州地震し、昼夜八十度、圧死すること百余人、地陥ること三十里。十年十月、京師地震す。十一年二月丁丑、また震う。十五年正月、穆宗即位し、戊辰、始めて宣政殿に群臣を朝す、是の夜地震す。
大和二年正月壬申、地震す。七年六月甲戌、また震う。九年三月乙卯、京師地震し、屋瓦皆墜ち、戸牖の間に声あり。
開成元年二月乙亥、また震動す。二年十一月乙丑の夜、また震動す。四年十一月甲戌、また震動す。
會昌二年正月癸亥、宋・亳二州地震す。十二月癸未、京師地震す。
大中三年十月辛巳、上都及び振武・河西・天徳・霊武・塩夏等州地震し、廬舎を壊し、数十人を圧死す。十二年八月丁巳、太原地震す。
咸通元年五月、上都地震す。六年十二月、晋・絳二州地震し、廬舎を壊し、地裂けて泉湧き、泥青色を出す。八年正月丁未、河中・晋・絳三州に地大いに震い、廬舎を壊し、人に死者あり。十三年四月庚子朔、浙東・西地震す。
乾符三年六月乙丑、雄州地震し、七月辛巳に至りて止む。州城の廬舎尽く壊れ、地陥ちて水湧き、傷死甚だ衆し。是の月、濮州地震す。十二月、京師地震し声あり。四年六月庚寅、雄州地震す。六年二月、京師地震し、声雷の如く、藍田山裂けて水湧く。
中和三年秋、晋州地震し、声雷の如し。
光啓二年春、成都地震し、月中十数度。占いて曰く「兵・饑」。十二月、魏州地震す。
乾寧二年三月庚午、河東地震す。
山崩る。
貞観八年七月、隴右山崩る。山とは高峻なるもの、上より隕つ象なり。
垂拱二年九月己巳、雍州新豊県露台郷に大風雨あり、震電し、山湧き出で、高さ二十丈、池周囲三百畝あり。池中に龍鳳の形、禾麦の異あり。武后これを休応と為し、名づけて「慶山」と曰う。荊州人俞文俊上言す「天気和せずして寒暑隔たり、人気和せずして贅疣生じ、地気和せずして堆阜出づ。今陛下、女主を以て陽位に居り、剛柔を反易する故に、地気隔塞し、山変じて災と為る。陛下『慶山』と為すも、臣は慶に非ざるを以為う。宜しく身を側めて徳を脩め以て天譴に答うべし。然らずんば、恐らくは災禍至らん」と。后怒り、嶺南に流す。
永昌中、華州赤水の南岸大山、昼日忽ち風昏く、声隠隠として雷の如く、頃にして漸く東に数百歩移り、赤水を擁し、張村民三十余家を圧す。山高さ二百余丈、水深さ三十丈、坡上の草木宛然たり。金縢に曰く「山徙る者は人君道を用いず、禄公室を去り、賞罰君に由らず、佞人政を執り、政女主に在り。五年を出でずして、走王有り」と。
開元十七年四月乙亥、大風震電し、藍田山摧裂すること百余歩、畿内の山なり。国は山川を主る。山摧け川竭くるは、亡ぶの証なり。占いて曰く「人君徳消え政易わるれば則ち然る」と。
大暦九年十一月戊戌、同州夏陽に山河上に徙る有り、声雷の如し。十三年、郴州黄岑山崩れ、数百人を圧死す。
建中二年、霍山裂く。
元和八年五月丁丑、大隗山が崩壊す。十五年七月丁未、苑中の土山崩壊し、二十人を圧死す。
光啓三年四月、維州にて山崩れ、数日にわたり止まず、塵埃天に亘り、江水を塞ぎて逆流す。占いに曰く、「国破る」と。
山鳴く。
武徳二年三月、太行山の聖人崖に声有り。占いに曰く、「寇至る有り」と。
開元二十八年六月、吐蕃安戎城を囲み、水路を断つ。城東の山鳴き石裂け、泉二つ湧く。
土が変怪を為す。
垂拱元年九月、淮南に地毛を生ず。或いは白く或いは蒼く、長きは尺餘に及び、人の牀下に遍く居る。揚州は特に甚だしく、馬の鬣の如く大にして、これを焚けば臭燎毛の如し。占いに曰く、「兵起こり、民安からず」と。
長寿年中、東都天宮寺の泥像皆汗を流し、霢霂の如し。
天宝十一載六月、虢州閺郷の黄河中の女媧墓、大雨晦冥に因り、その所在を失う。乾元二年六月乙未の夜に至り、河に瀕する人風雷の声有るを聞き、暁にその墓踊り出づるを見る。下に巨石有り、上に双柳有り、各長さ丈餘。時に風陵堆と号す。占いに曰く、「塚墓自ら移るは、天下破る」と。十三載、汝州葉県の南に土塊鬬い、中に血出で、数日にわたり止まず。
大暦六年四月戊寅、藍田西原の地陥る。
建中初め、魏州魏県西四十里、地数畝忽ち数尺に崇く長ず。四年四月甲子、京師に地毛を生ず。或いは黄く或いは白く、長さ尺餘有る者有り。
貞元四年四月、淮南及び河南に地毛を生ず。
元和十二年四月、呉元済の郾城守将鄧懐金、城を以て降る。城自ら五十餘歩壊る。
大和六年二月、蘇州地震し、白毛を生ず。
長慶年中、新都大道観の泥人、数寸の須を生ず。これを抜けば復た生ず。
咸通五年十月、貞陵の隧道が崩壊した。神策軍に浮屠の像があり、懿宗はかつて跪いて礼拝したが、像が地中に四尺沈んだ。
五行伝に曰く、「攻戦を好み、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、則ち金は革に従わず」と。金がその性を失って変怪をなすというのである。また曰く、「言うことを従わざるは、是れ乂めざるという。その咎は僭にあり、その罰は常暘にして、その極は憂なり。時に則ち詩妖・訛言あり、時に則ち毛蟲の孽あり、時に則ち太禍あり、時に則ち口舌の痾あり、時に則ち白眚白祥あり、惟れ木金を沴す」と。
金は革に従わず。
堯君素が隋のために蒲州を守った時、兵器が夜ごとに光を放ち火のようであった。火は金を鑠かす、金の畏れるところなり、敗亡の象である。劉武周が幷州を占拠した時、兵勢は甚だ盛んで、城上の矟の刃に夜毎に火光があった。
貞観十七年八月、涼州昌松県の鴻池谷に五つの石があり、青質に白文で字を成し、「高皇海出多子李元王八十年太平天子李世民千年太子李治書燕山人士楽太国主尚汪譂奬文仁邁千古大王五王六王七王十風毛才子七仏八菩薩及上果仏田天子文武貞観昌大聖延四方上不治示孝仙戈八為善」とあった。太宗は使者を遣わしてこれを祭り、「天に成命あり、貞石に瑞を表し、文字昭然として、曆数惟れ永し。既に高廟の業を旌し、又眇身の祚を錫う。皇太子治に迨びても、亦た貞符を降し、姓氏を具に紀す。惟れ寡薄なるを甫め、弥寅懼を増す」と言った。昔、魏が土徳をもって漢に代わった時、涼州の石に文があった。石は金の類、五勝をもってこれを推す。故に当時の人はこれを魏氏の妖、晋室の瑞と謂った。唐も亦た土徳に王たり、石に文あり、事頗る相類す。然れどもその文は初めは解し難く、後人因りて已が事を推し以てこれを験す。蓋し武氏が革命し、自ら金徳に王たると為す。その「仏菩薩」とは、慈氏金輪の号なり。「楽太国主」は則ち鎮国太平公主・安楽公主、皆女をもって国を乱す。「五王六王七王」とは、唐世十八の数なり。
垂拱三年七月、魏州に地より鉄出で、船の如く数十丈。広州に金を雨らす。金の位は正秋、刑・兵を為す。占いに曰く、「人君多く無辜を殺せば、一年にして兵災朝にあり」と。
開元二十三年十二月乙巳、龍池聖徳頌の石自ら鳴く、その音清遠にして鐘磬の如し。石は金と同類。春秋伝に「怨讟民に動けば、則ち言わざる物の言うこと有り」と。石鳴くは、石言いに近し。
天宝十載六月乙亥、大同殿前の鐘自ら鳴く。占いに曰く、「庶雄乱を為す」と。
至徳二載、昭陵の石馬汗を出す。昔、周武帝の晋州を克つや、斉に石像あり、汗流れて地を湿す、これ其の類なり。
乾元二年七月乙亥昼、渾天儀に液有り、汗の如く下流す。
上元二年、楚州宝玉十三を献ず。曰く「玄黄天符」、形は笏の如く、長さ八寸、孔有り、兵疫を辟くと云う。曰く「玉鶏毛」、白玉なり。曰く「穀璧」、亦た白玉なり、粟粒自然にして、雕鐫の迹無し。曰く「西王母白環」二。曰く「如意宝珠」、鶏卵の如く大。曰く「紅靺鞨」、巨粟の如く大。曰く「琅玕珠」二、形は玉環の如く、四分の一を缺く。曰く「玉印」、半手の如く大、理は鹿の如く、印中に陷入す。曰く「皇后採桑鉤」、箸の如くして其の末を屈す。曰く「雷公石斧」、孔無し。其の一は闕く。凡そ十三。日に寘けば、白気天に連なる。
元和中、文水の武士彠の碑、其の亀頭を失う。翰林院に鈴有り、夜中文書入れば、則ちこれを引いて以て伝呼に代う。長慶中、河北に兵を用うるや、夜輒ち自ら鳴き、軍中の息耗と相応ず。声急なれば則ち軍事急なり、声緩なれば則ち軍事緩なり。資州に石有り、方丈、数畝を行き走る。
大和三年、南蛮成都を囲み、玉晨殿を毀ちて礧と為す。吼声三有り、乃ち止む。四年五月己卯、通化南北二門の鎖開く可からず、鑰を入るるも、持つ者有るが如し。其の管を破りて、門乃ち啓く。又、浙西観察使王璠、潤州の城隍を治むるに、中に方石を得、刻文有りて曰く、「山に石有り、石に玉有り、玉に瑕有り、瑕即ち休す」と。
広明元年、華岳廟の玄宗御製碑、隠隠然として声有り、数里の間聞こえ、浹旬にして乃ち止む。石言いに近し。
光化三年冬、武徳殿前の鐘声忽ち嘶嗄す。天復元年九月、声又変じて小となる。
常暘。
武德三年の夏、旱魃あり、八月に至ってようやく雨降る。四年、春より雨なく、七月に至る。雨は少陰の気なり、その気毀つれば則ち雨降らず。少陰とは金なり、金は刑・兵を為す、罪なき者を刑し、兵を収めざれば則ち金気毀つ、故に常に旱魃を為す。火は盛陽を為し、陽気強悍なり、故に聖人は礼を制してこれを節す。礼失すれば則ち僭越して驕炕し、以て盛陽を導く、火勝てば則ち金衰え、故に亦旱魃なり。五行に於いて、土は実に水を制す、土功興れば則ち水気壅閼し、又常に旱魃を為す。天官に東井あり、水事を主る、天漢・天江も亦水の祥なり。水は火と仇にして、土に制せられ、土火の謫見は、日蝕が分を過ぎて未だ至らず、七曜が中道の南を循るが如きは、皆旱の祥なり。七年秋、関内・河東旱魃す。
貞観元年夏、山東大旱す。二年春、旱魃す。三年春・夏、旱魃す。四年春、旱魃す。太上皇の位を伝えて此に至り、而して比年水旱す。九年秋、剣南・関東の州二十四、旱魃す。十二年、呉・楚・巴・蜀の州二十六、旱魃す。冬、雨降らず、明年五月に至る。十七年春・夏、旱魃す。二十一年秋、陝・絳・蒲・夔等の州旱魃す。二十二年秋、開・万等の州旱魃す。冬、雨降らず、明年三月に至る。
永徽元年、京畿雍・同・絳等の州十、旱魃す。二年九月、雨降らず、明年二月に至る。四年夏・秋、旱魃す、光・婺・滁・潁等の州特に甚だし。
顕慶五年春、河北の州二十二、旱魃す。
総章元年、京師及び山東・江淮大旱す。二年七月、剣南の州十九、旱魃す。冬、雪なし。
咸亨元年春、旱魃す。秋、復た大旱す。
儀鳳二年夏、河南・河北旱魃す。三年四月、旱魃す。
永隆二年、関中旱魃し、霜あり、大饑す。
永淳元年、関中大旱し、饑す。二年夏、河南・河北旱魃す。
永昌元年三月、旱魃す。
神功元年、黄・隋等の州旱魃す。
久視元年夏、関内・河東旱魃す。
長安二年春、雨降らず、六月に至る。三年冬、雪なし、明年二月に至る。
神龍二年冬、雨降らず、明年五月に至る、京師・山東・河北・河南旱魃し、饑す。
太極元年の春、旱魃あり。七月、また旱魃あり。
開元二年の春、大旱あり。十二年七月、河東・河北に旱魃あり、帝は宮中にて雨を祈り、壇席を設け、三日間立ち続けた。九月、蒲州・同州等に旱魃あり。十四年秋、諸道州十五に旱魃あり。十五年、諸道州十七に旱魃あり。十六年、東都・河南・宋州・亳州等に旱魃あり。二十四年夏、旱魃あり。
永泰元年の春・夏、旱魃あり。二年、関内に大旱あり、三月より雨なく、六月に至る。
大暦六年の春、旱魃あり、八月に至る。
建中三年、五月より雨なく、七月に至る。
興元元年の冬、大旱あり。
貞元元年の春、旱魃あり、麦の苗なく、八月に至り、旱魃甚だしく、灞水・滻水は尽きんとし、井戸は皆水なし。六年春、関輔に大旱あり、麦の苗なし。夏、淮南・浙西・福建等の道に大旱あり、井泉は尽き、人は暑さにやられて疫病にかかり、死者甚だ衆し。七年、揚州・楚州・滁州・寿州・澧州等に旱魃あり。十四年春、旱魃あり、麦なし。十五年夏、旱魃あり。十八年夏、申州・光州・蔡州に旱魃あり。十九年正月、雨なく、七月甲戌に至ってようやく雨あり。
永貞元年の秋、江浙・淮南・荊南・湖南・鄂岳陳許等の州二十六に旱魃あり。
元和三年、淮南・江南・江西・湖南・広南・山南東西、皆旱魃あり。四年春・夏、大旱あり。秋、淮南・浙西・江西・江東に旱魃あり。七年夏、揚州・潤州等に旱魃あり。八年夏、同州・華州の二州に大旱あり。十五年夏、旱魃あり。
宝暦元年の秋、荊南・淮南・浙西・江西・湖南及び宣州・襄州・鄂州等に旱魃あり。
大和元年の夏、京畿・河中・同州に旱魃あり。六年、河東・河南・関輔に旱魃あり。七年秋、大旱あり。八年夏、江淮及び陝州・華州等に旱魃あり。九年秋、京兆・河南・河中・陝華同等の州に旱魃あり。
開成二年の春・夏、旱魃あり。四年夏、旱魃あり、浙東は特に甚だし。
会昌五年の春、旱魃あり。六年春、雨なく。冬、また雨なく、明年の二月に至る。
大中四年、大旱あり。
咸通二年の秋、淮南・河南に雨なく、明年の六月に至る。九年、江淮に旱魃あり。十年夏、旱魃あり。十一年夏、旱魃あり。
廣明元年の春・夏、大いに旱魃す。
中和四年、江南大いに旱魃し、饑饉あり、人相食らう。
景福二年秋、大いに旱魃す。
光化三年冬、京師旱魃し、四年の春に至る。
詩妖。
竇建德未だ敗れざる時、謡ありて曰く、「豆牛の口に入り、勢い久しきを得ず」。
貞観十四年、交河道行軍大総管侯君集、高昌を伐つ。是に先立ち其の国中に童謡ありて曰く、「高昌の兵馬は霜雪の如く、漢家の兵馬は日月の如し、日月霜雪を照らせば、首を回らして自ら消滅す」。
永徽の後、民、武媚娘の曲を歌う。
調露の初め、京城の民謡に「側堂堂、橈堂堂」の言あり。太常丞李嗣真曰く、「側とは正しからざるなり、橈とは安からざるなり。隋より以来、楽府に堂堂の曲あり、再び堂堂と言うは、唐の再び命を受くる象なり」。
永淳元年七月、東都大雨、人多に殍殕す。先に童謡ありて曰く、「新禾箱に入らず、新麥場に入らず、迨及八九月、狗垣牆に吠ゆ」。
高宗、調露中より嵩山を封ぜんと欲すれども、突厥の叛に属して止む。後又封ぜんと欲すれども、吐蕃の寇に入るを以て遂に停む。時に童謡ありて曰く、「嵩山凡そ幾層ぞ、登るを得ざるを畏れず、但だ登るを得ざるを恐る、三度兵馬を徴し、傍道朾騰騰たり」。
永徽の末、里歌に桑條韋也、女時韋也楽あり。
龍朔中、時人酒を飲む令に曰く、「子母相去り離れ、臺を連ねて拗倒す」。俗に盃盤を子母と謂い、又盤を臺と名づく。又里歌に突厥鹽あり。
永淳の後、民歌に曰く、「楊柳楊柳漫頭駝」。
垂拱の後、東都に契苾兒の歌あり、皆淫豔の詞なり。契苾は、張易之の小字なり。
如意の初め、里歌に曰く、「黄麞黄麞草裏に蔵れ、彎弓して爾を射て傷つく」と。其の後、王孝傑黄麞谷に敗る。
神龍以後、民謠に曰く、「山南は烏鵲の巣、山北は金の駱駝、鎌の柄は孔を鑿たず、斧の柄は柯を施さず」と。山南は唐なり、烏鵲の巣とは人の居ること寡きなり。山北は胡なり、金の駱駝とは虜獲して重く載せるなり。安楽公主洛州に安楽寺を造る、童謠に曰く、「憐れむべし安楽寺、了々として樹頭に懸かる」と。
景龍の中、民謠に曰く、「黄牸犢子紖を挽きて断ち、両足地を踏みて鞵𪎱断ち、城南の黄牸犢子韋なり」と。又阿緯娘の歌有り。時に又謠に曰く、「憐れむべし聖善寺、身に緑毛衣を著け、牽き来たりて河裏に飲ましめ、踏み殺す鯉魚児」と。
玄宗潞州に在りし時、童謠有りて曰く、「羊頭山の北に朝堂を作る」と。
天寶の中、術士李遐周有りて玄都観の院廡の間に詩を為りて曰く、「燕市の人皆去り、函関の馬帰らず、人山下の鬼に逢い、環上に羅衣を繫ぐ」と。而して人皆悟らず、詩妖に近し。又安禄山未だ反せざる時、童謠に曰く、「燕燕飛びて天に上り、天上の女兒白氈を鋪き、氈上に千錢有り」と。時に幽州に又謠有りて曰く、「旧来戴竿を誇るも、今日は看るに堪へず、但だ五月の裏を見よ、清水の河辺に契丹を見ん」と。
徳宗の時、或る者詩を為りて曰く、「此の水涇水に連なり、双眸血川に満つ、青牛朱虎を逐い、方に太平の年と号す」と。詩妖に近し。朱泚未だ敗れざる前両月、童謠有りて曰く、「一隻の筯、両頭朱、五六月、化して胆と為る」と。
元和の初め、童謠に曰く、「朾麥朾麥三三三」と。乃ち身を転じて曰く、「舞ひ了ぬ」と。
大中の末、京師の小児布を疊みて水に漬け、之を紐ぎて日に向かひ、之を「拔暈」と謂ふ。
咸通七年、童謠に曰く、「草青青、厳霜に被はれ、鵲始めて後れ、顛狂を見よ」と。十四年、成都の童謠に曰く、「咸通癸巳、出づるに之く所無し、蛇去り馬来たり、道路稍く開く、頭に片瓦無く、地に残灰有り」と。是の歳、歳陰巳に在り、明年は午に在り。巳は蛇なり、午は馬なり。
僖宗の時、童謠に曰く、「金色の蝦蟆眼を努めて爭ひ、却って曹州を翻して天下反す」と。
乾符六年、童謠に曰く、「八月霜無く寒草青し、將軍馬に騎りて空城を出づ、漢家の天子西に巡狩し、猶向かふ江東に更に兵を索む」と。
中和の初め、童謠に曰く、「黄巢走り、泰山の東、翁家の翁に死在す」と。
訛言。
貞観十七年七月、民訛言す、官棖棖を遣はして人を殺し、以て天狗に祭らむと。云ふ其の来るや、身に狗皮を衣、鐵爪、毎に闇中に人心肝を取りて去ると。是に於いて更に相震怖し、毎夜驚擾し、皆弓劍を引きて自ら防ぎ、兵器無き者は竹を剡りて之を為り、郊外独り行くを敢へず。太宗之を悪み、令して諸坊の門を通夜開かしめ、旨を宣べて慰諭せしむ、月餘にして乃ち止む。
武后の時、民酒を飲みて謳歌し、曲終はりて盡きざる者を、「族鹽」と謂ふ。
開元二十七年十月、東都明堂を改作す。訛言あり、官、小児を取って明堂の下に埋め、厭勝と為すと。村野の児童、山谷に隠れ、都城騷然たり。或いは兵至ると言ふ。玄宗之を悪み、使を遣わして慰諭す。久しうして乃ち止む。
天寶三載二月辛亥、星有り月の如く、東南に墜つ。墜ちて後、声有り。京師に訛言あり、官、棖棖を遣わして人を捕へ、肝を取って天狗を祭ると。人頗る恐懼し、畿内尤甚し。使を遣わして安んじ諭す。貞観十七年の占と同し。
天寶の後、詩人多く憂苦流寓の思ひを為し、及び興を江湖僧寺に寄す。而して楽曲も亦多く辺地を以て名と為し、伊州・甘州・涼州等有り。其の曲遍繁声に至りては、皆之を「入破」と謂ふ。又胡旋舞有り、本康居に出づ。旋転便捷を以て巧と為す。時に又之を尚ぶ。破とは、蓋し破碎と云ふなり。
建中三年秋、江淮に訛言あり、毛人其の心を食ふと。人情大いに恐る。朱泚既に號を僭す。其の舊第を名づけて潜龍宮と曰ひ、内府の珍貨を移して以て之を實す。占者以爲く、易に「潜龍用ふる勿れ」と稱す、此れ敗祥なりと。
大和九年、京師に訛言あり、鄭注、上為に金丹を合し、生に小児の心肝を取ると。密旨にて小児を捕ふる事算無し。往往陰に相告げて曰く、「某處幾児を失へり」と。方士言ふ、金丹は神仙を致す可しと。蓋し誕妄不經の語なり。或ひは信じて之を服すれば、則ち發熱多く死す。戒むる有るが如しと云ふ。小児は辜無き者、其の心肝を取るは、将に殺戮の象有らんとす。
劉從諫未だ死せざる時、潞州に狂人有り、市に腰を折りて曰く、「石雄七千人至れり」と。從諫之を捕へ斬る。
咸通十四年秋、成都に訛言あり、㹫母鬼夜に人家に入ると。民皆恐れ、夜は則ち聚坐す。或ひは曰く、某家鬼を見たり、眼晃然として燈焰の如しと。民益々懼る。
黃巢未だ京師に入らざる時、都人黄米及び黒豆屑を以て蒸し食ひ、之を「黄賊黒賊を打つ」と謂ふ。僖宗の時、里巷鬬ふ者激怒し、言ふ、「任せて右廂の天子を見よ」と。
毛蟲の孽。
永徽中、河源軍に狼三頭有り、晝に軍門に入る。之を射て、斃す。
永淳中、嵐・勝州に兔、稼を害す。千万を羣と為し、苗を食ひ盡くす。兔亦復た見えず。
開元三年、熊有り、晝に揚州城に入る。
乾元二年十月、詔して百官をして勤政樓に上り、安西兵の陝州に赴くを觀せしむ。狐有り樓上に出づ。之を獲る。
大曆四年八月己卯、虎、京師長壽坊の宰臣元載家廟に入る。之を射殺す。虎は西方の屬、威猛吞噬、刑戮の象なり。六年八月丁丑、白兔を太極殿の内廊に獲る。占に曰く、「國に憂有り。白は喪祥なり」と。
建中三年九月己亥夜、虎、宣陽里に入り、人二を傷つく。詰朝之を獲る。
貞元二年二月乙丑、野鹿が含元殿前に至り、これを獲たり。壬申、また鹿が含元殿前に至り、これを獲たり。占いに曰く、「大喪有り」と。四年三月癸亥、鹿が京師西市門に至り、これを獲たり。
開成四年四月、麞が太廟より出で、これを獲たり。
犬の禍。
武徳三年、突厥の処羅可汗、将に寇に入らんとす。夜、犬の群れ嘷くを聞くも犬を見ず。
武后の初め、酷吏丘神勣の家の狗、子を生むこと皆首無く、項に当たり孔有りて口の如く、昼夜鳴吠し、俄かに所在を失す。
神功元年、安国、両首の犬を献ず。首多きは、上一つならざるなり。
天宝十一載、李林甫、晨起して盥飾し将に朝せんとす。書囊を取りてこれを視るに、中に物有りて鼠の如く、地に躍れば即ち狗に変じ、壮大にして雄目、牙を張りて林甫を視る。林甫これを射るに、中り、殺然として声有り、箭に随いて没す。
貞元七年、趙州柏郷の民李崇貞の家の黄犬、犢を乳す。
会昌三年、定州深沢の令の家の狗、角を生ず。
大中初、狗、角を生ず。京房曰く、「正を執る者将を失い害するの応なり」と。又曰く、「君子危きに陥れば、則ち狗角を生ず」と。
咸通中、会稽に狗有りて生まれながら吠えること能わず、これを撃つも声無し。狗の職は吠えて以て守禦す。その能わざるは、鎮守の者寇を禦ぐこと能わざるの兆に象る。
成汭、荊南節度使と為る。城中の犬皆夜吠す。日者向隠、以て城郭将に丘墟と為らんとす。
中和二年秋、丹徒にて狗と彘と交わる。占いに曰く、「諸侯に国を謀害する者有り」と。
白眚白祥。
調露元年十一月壬午、秦州神亭冶の北、霧開けて日初めて耀くが如く、白鹿・白狼見ゆ。白祥に近し。
神龍二年四月己亥、越州の鄮縣に毛を雨ふる。占ひて曰く、「邪人進み、賢人遁る」と。
大曆二年七月甲戌、日入の時、白氣天に亙る。九月戊午の夜、白霧西北より起こり、天に亙る。五年五月甲申、西北に白氣天に亙る。
貞元二十年九月庚辰、甲夜に白氣八あり、東西天に際る。
大和三年八月、西方に白氣柱の如きものあり。七年十月已酉、西方にまた白氣柱の如きもの三あり。
光啟二年四月、白氣あり、頭黒く髮の如く、東南より揚州に入りて滅す。
光化二年三月乙巳、日中に白氣天に亙り、西南より東北に貫く。
天復元年八月己亥、西方に白雲履底の如くあり、中より白氣匹練の如きを出だし、長さ五丈、天に衝き、分かれて三彗となり、頭垂れ下がる。占ひて曰く、「天下に兵あり。白きは、戰の祥なり」と。
木、金を沴つ。
神龍の中、東都白馬寺の鐵像の頭、故なくして自ら殿門外に落つ。
天寶五載四月、宰臣李適之常に鼎を列ねて膳羞を具ふ。中夜、鼎躍り出でて相鬬ひ解けず、鼎の耳及び足皆折る。