新唐書

巻二十七下 志第十七下 暦三下

その八、躔盈縮略例に曰く、

北斉の張子信は合蝕の加時を積候し、日行に気差有るを覚えしも、然れども損益未だ其の正を得ず。劉焯に至り、盈縮躔衰の術を立て、四象の升降と為す。麟徳暦之に因り、更に躔差と名づく。凡そ陰陽の往来は、皆馴積して変ず。日南至すれば、其の行最も急なり、急にして漸く損じ、春分に至りて中に及びて後ち遅し。日北至に迨うて、其の行最も舒なり、舒にして漸く之を益し、秋分に至りて又中に及びて後ち益急なり。急極まりて寒若く、舒極まりて燠若く、中に及んで雨暘の気交わるは、自然の数なり。焯の術は春分の前一日最も急に、後一日最も舒なり。秋分の前一日最も舒に、後一日最も急なり。舒急二至と同じくして、中間一日は平行す。其の説是れ非なり。当に二十四気の景を以てし、日躔の盈縮を考へて加時に密ならしむべし。

その九、九道議に曰く、

洪範伝に云ふ、「日に中道有り、月に九行有り。」中道は、黄道を謂ふ。九行は、青道二、黄道の東に出で、朱道二、黄道の南に出で、白道二、黄道の西に出で、黒道二、黄道の北に出づ。立春・春分は、月東に青道に従ひ、立夏・夏至は、月南に朱道に従ひ、立秋・秋分は、月西に白道に従ひ、立冬・冬至は、月北に黒道に従ふ。漢の史官の旧事、九道の術廃れて久しく、劉洪頗る之を採りて遅疾陰陽暦を著すに用ゐたり。然れども本消息を以て奇と為し、而して術伝はらず。

陰陽暦の交を推して冬至・夏至に在れば、則ち月は青道・白道を行く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に青道は春分の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正東に在り。白道は秋分の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正西に在り。若し陰陽暦の交が立春・立秋に在れば、則ち月は朱道・黒道に循く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に朱道は立夏の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の西南に在り。黒道は立冬の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の東北に在り。若し陰陽暦の交が春分・秋分の宿に在れば、則ち月は朱道・黒道を行く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に朱道は夏至の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正南に在り。黒道は冬至の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正北に在り。若し陰陽暦の交が立夏・立冬に在れば、則ち月は青道・白道に循く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に青道は立春の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の東南に在り。白道は立秋の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の西北に在り。其の大紀は皆二道を兼ね、而して実に八節を分ちて主り、四正四維に合す。

陰陽暦の中終の交する所を按ずれば、則ち月行正に黄道に当る。交を去ること七日、其の行九十一度、一象の率に斉しくして、八行の中を得。八行と中道とを以て九と為す、是れを九道と謂ふ。凡そ八行春秋に正しければ、其の黄道を去ること六度、則ち交は冬夏に在り。冬夏に正しければ、其の黄道を去ること六度、則ち交は春秋に在り。易の九六・七八、終始の象として迭るなり。乾坤定位すれば、則ち八行各其の正に当る。其の寒暑相推し、晦朔相易するに及びては、則ち南に在る者は変じて北に居り、東に在る者は徙れて西と為り、屈伸・消息の象なり。

黄道の差は、春分・秋分より始まる。赤道の交する所の前後各五度を限と為す。初め、黄道赤道より二十四分の十二を増多す。毎限一を損じ、九限に極まり、数四に終る。率として赤道四十五度にして黄道四十八度、四立の際に至りては、一度少しく強く、平に依る。復た四より起り、初限五度、赤道黄道より二十四分の四を増多す。毎限一を益し、九限に極まりて止み、十二に終る。率として赤道四十五度にして黄道四十二度、復た冬・夏至の中を得たり。

月道の差は、交初・交中より始まる。黄道の交する所も亦交の前後五度を距けて限と為す。初限、月道黄道より四十八分の十二を増多す。毎限一を損じ、九限に極まりて止み、数四に終る。率として黄道四十五度にして月道四十六度半、乃ち一度強く、平に依る。復た四より起り、初限五度、月道黄道より四十八分の四を差少す。毎限一を益し、九限に極まりて止み、十二に終る。率として黄道四十五度にして月道四十三度半、陰陽暦二交の半に至る。凡そ交初に近き限十二分を増す者は、半交の末限に至りて十二分を減じ、交を去ること四十六度にして損益の平率を得。

夫れ日行は歳差と偕に遷り、月行は交限に随ひて変ず。遯伏相消し、朓朒相補すれば、則ち九道の数知るべし。其の月道の交する所が二分と度を同じくすれば、則ち赤道・黒道は交初に近き限、黄道は二十四分の十二を増し、月道は四十八分の十二を増す。半交の末に至れば、其の減ずるも亦之の如し。故に九限の際に於て、黄道は三度差ひ、月道は一度半差ふ。蓋し損益の数斉しきなり。若し交する所が四立と度を同じくすれば、則ち黄道は損益の中に在り、月道は四十八分の十二を差ふ。月道が損益の中に至れば、黄道は二十四分の十二を差ふ。九限の際に於て、黄道は三度差ひ、月道は四分度の三を差ふ。皆朓朒相補ふなり。若し交する所が二至と度を同じくすれば、則ち青道・白道は交初に近き限、黄道は二十四分の十二を減じ、月道は四十八分の十二を増す。半交の末に至れば、黄道は二十四分の十二を増し、月道は四十八分の十二を減ず。九限の際に於て、黄道と月道の差同じ。蓋し遯伏相消すなり。

日は赤道を出入すること二十四度、月は黄道を出入すること六度、相距るれば則ち四分の一。故に九道の変に於て、四立を以て中交と為す。二分に在れば、四分の一を増し、而して黄道の度と相半す。二至に在れば、四分の一を減じ、而して黄道の度と正に均し。故に其の数を推極め、引いて之を伸ばせば、毎気一候を移す。月道の差ふ所、九分の一を増損し、七十二候にして九道究まる。

凡そ月の交一終すれば、前に交する所の一度及び余八万九千七百七十三分度の四万二千五百三少半を退き、二百二十一月及び分七千七百五十三を積みて、而して交道天を周る。因りて之を半にすれば、将に九年にして九道終はる。

四象を以て之を考ふれば、各合朔の交する所に据り、七十二候に入る。則ち其の八道の行なり。朔交を以て交初と為し、望交を以て交中と為す。若し交初が冬至の初候に在りて陰暦に入れば、則ち青道を行く。又十三日七十六分日の四十六、交中に至りて衝する所の宿を得、変じて陽暦に入り、亦青道を行く。若し交初が陽暫に入れば、則ち白道なり。故に交初の入る所を考へて、周天の度知るべし。若し望交が冬至の初候に在れば、則ち十三日四十六分を減じ、大雪の初候の陰陽暦を視て其の行を正す。

その十、晷漏中星略例に曰く、

太陽の運行には南北があり、日影と漏刻には長短がある。しかし二十四節気の日影の差が緩やかであったり急であったりするのは、勾股の理によるものである。直規の中にあれば差は遅く、勾股の数と等しければ差は急である。辰極の高下に従い、遭遇するものが異なるのは、黄道の刻漏の如し。これは数理の浅近なものであるが、近代に至ってもなお未だ明らかでない。今、黄道の去極を推し、日影・漏刻・昏距・中星の四術を以て繰り返し互いに求め、消息同じ率にして、巡り合わせて中と為し、以て九服の変に合わしむ。

その十一、日蝕の議に曰く、

小雅に「十月の交、朔日辛卯」とある。虞𠠎が暦をもってこれを推すに、幽王六年にあたる。開元暦は交分四万三千四百二十九と定め、蝕限に入り、加時は昼にある。交会して蝕するは、数理の常である。詩に云う、「彼の月の食うは、則ち維れ其の常。此の日の食うは、于何ぞ臧からざる。」日は君道なり、朏魄の変なし。月は臣道なり、日に遠ざかるに従い益々明らかになり、日に近づくに従い益々虧ける。望に日軌と相会すれば、則ち移って次第に遠ざかり、遠く極まりてまた移って近く交わる。これ臣下の象を著わす所以なり。望にして黄道に正しむるは、これを臣が君の明を干すと謂い、則ち陽すなわちこれを蝕す。朔にして黄道に正しむるは、これを臣が君の明を壅ぐと謂い、則ち陽これを蝕す。かつ十月の交は、暦において蝕すべきにあたり、君子なお変と為し、詩人これを悼む。然らば則ち古の太平の世には、日蝕せず、星孛せず、蓋し有りしなり。

もし過至未分にあれば、月あるいは変行してこれを避く。あるいは五星ひそかに日の下に在り、侮りを禦ぎてこれを救う。あるいは交数浅くに渉り、あるいは陽暦に在り、陽盛んで陰微なれば則ち蝕せず。あるいは徳の休明にして、小眚有れば、則ち天これを隠し、交わりながらも蝕せず。この四者は、皆徳教の生ずる所以なり。

四序の中、分同道にして、至相過ぎ、交わって蝕有れば、則ち天道の常なり。劉歆・賈逵の如きは、皆近古の大儒なり、豈に軌道の交わる所、朔望同じ術なるを知らざらんや。日蝕は常ならずと以て、故に闕いて論ぜず。

黄初以来、暦を治むる者始めて日蝕の疎密を課し、張子信に至りて益々詳し。劉焯・張冑玄の徒は自ら其の術を負い、日月皆密率を以て求むべしと謂う。これは暦紀に専らする者なり。

戊寅暦・麟徳暦を以て春秋の日蝕を推すに、多くは皆蝕限に入る。暦において蝕すべきにして春秋に書かれざるもの尚多く有れば、則ち日蝕は必ず交限に在り、其の限に入る者は必ずしも尽く蝕せず。開元十二年七月戊午朔、暦において蝕半強すべし、交趾より朔方に至るまで、これを候うも蝕せず。十三年十二月庚戌朔、暦において蝕太半すべし、時に東に封禅して泰山に至り、還りて梁・宋の間に次す。皇帝饍を徹し、楽を挙げず、蓋せず、素服し、日も亦蝕せず。時に群臣と八荒の君長の来たりて祭を助くる者、物を降して需い、数うるに勝えず、皆寿を奉り慶を称え、粛然として神服す。算術乖舛たりと雖も、かくの如くあるべからず。然る後に徳の天を動かすは、終日を俟たざるを知る。もし開元の二蝕に因り、曲げて交限を変えてこれに従わば、則ち差者益々多からん。

開元より暦を治むるより、史官は毎歳節気の中晷を較べ、因りて加時の小余を検す。大数常ありと雖も、然れども亦時とともに推移し、毎歳同じからず。晷変じて長ければ、則ち日は黄道の南を行く。晷変じて短ければ、則ち日は黄道の北を行く。行いて南なれば、則ち陰暦の交も或いは失う。行いて北なれば、則ち陽暦の交も或いは失う。日黄道の中に在りて、尚且つ変有り、況んや月九道を行くをや。杜預云う、「日月は動物なり、行度大量有りと雖も、小しく盈縮せざる能わず。故に交会しながら蝕せざる者有り、或いは頻りに交わりて蝕する者有り。」是れなり。

故に暦を較ぶるには必ず古史を稽え、虧蝕の深浅・加時の朓朒陰陽、其の数相叶うものを、反覆相求め、暦数の中よりして、以て辰象の変に合わしむ。辰象の変を観、反って暦数の中を求む。其の同じき所を類して、則ち中知るべし。其の異なる所を弁えて、則ち変知るべし。其の度を循れば則ち暦に合い、行いを失えば則ち占に合う。占道は順成にして、常に中を執りて変を追う。暦道は逆数にして、常に中を執りて変を俟つ。此の説を知る者は、天道掌を視るが如し。

略例に曰く、旧暦は日蝕の浅深を考うるに、皆張子信の伝うる所よりす。云う、積候して得る所なりと。而して未だ其の然る所以を暁らざるなり。円儀を以て日月の径を度り、乃ち月径の半を以て入交初限一度半を減じ、余りを闇虚の半径と為す。月の黄道を去る毎度の差数を以て、二径を相掩せしめ、以て蝕分を験す。入る所の日の遅疾に径を乗じ、泛用の刻数と為す。大率交を去ること三度に及ばざれば、即ち月行闇虚に没し、皆既限に入る。又日月の径の半を以て、春分入交初限の相去る度数を減じ、余りを斜射の差と為す。乃ち差数を考へ、以て既限を立てる。而して優游進退すること二度の中間にし、亦二径を相掩せしめ、以て日蝕の分数を知る。月径既限の南を踰ゆれば、則ち陰暦に在ると雖も、虧くる所外道に類同す。斜望するが故なり。既限の外は、向かって外に蝕すべく、外道の交分は、此の例に準じて用う。以て古今の日蝕四十三事、月蝕九十九事を較ぶるに、課す皆第一なり。

日蝕を皆常数を以て求むべからざらしむれば、則ち暦数の疎密を稽うる由なし。若し皆常数を以て求むべくば、則ち政教の休咎を知る由なし。今更に日蝕或限の術を設けて考うるに、常を得れば則ち数に合う。又日月の交会大小相若く、而して月日の下に在り、京師より斜射してこれを望むに、仮に中国にて食既なれば、則ち南方戴日の下にて虧くる所纔かに半ばなり。月外より反観すれば、則ち交わりながら蝕せず。九服の日晷を歩みて以て蝕分を定め、晨昏の漏刻は地とともに変ずれば、則ち宇宙広しと雖も、一術を以てこれを斉うべし。

その十二、五星の議に曰く、

歳星は商・周より春秋の季に至るまで、率ね百二十余年にして一次を超ゆ。戦国後其の行い次第に急になり、漢に至りて尚微差有り、哀帝・平帝の間に及びて、余勢乃ち尽き、更に八十四年にして一次を超え、因りて以て常と為す。これ其の余の星と異なる所なり。姫氏は霊威仰の精より出で、木行の正気を受く。歳星は農祥を主り、后稷これに憑る。故に周人は常に其の禨祥を閲し、善敗を観る。其の始めて王たるや、鶉火に次ぎ、以て天黿に達す。其の衰えるに及びては、玄枵に淫し、以て鳥帑を害す。其の後群雄力争い、礼楽隕壊し、従衡攻守の術興る。故に歳星は常に上に贏行し、而して侯王は下に寧からず。則ち木緯の行いを失う勢いは、宜しく火運の中に極まるべし。理数然り。

開元十二年正月庚午、歳星は進賢の東北三尺三寸にあり、軫十二度に直す。麟徳暦によれば軫十五度に在る。これを推し上れば、漢の河平二年に至り、その十月下旬、歳星は軒轅の南端大星の西北一尺ばかりに在り。麟徳暦では張二度に在り、軒轅大星に直す。上下七百年を距て、その行度を考ふるに、未だ甚だ盈縮せず、則ち哀帝・平帝の後は復た毎歳漸次に差ずること無し。又百二十年を上り、孝景帝の中元三年五月に至る。星は東井・鉞に在り。麟徳暦では参三度に在る。又六十年を上り、漢の元年十月を得る。五星は東井に聚まり、歳星に従ふなり。秦の正にては歳は乙未に在り、夏の正にては甲午に当たるべし。麟徳暦では白露八日、歳星は觜觿一度に留まる。明年立夏、参に伏す。差行未だ尽きざるにより、而して常数を以て之を求めしめ然らしむるなり。又二百七十一年を上り、哀公十七年に至る。歳は鶉火に在り、麟徳暦では初見は輿鬼二度に在る。立冬九日、星三度に留まる。明年啓蟄十日、退りて柳五度に至るも、猶ほ鶉火に及ばず。又百七十八年を上り、僖公五年に至る。歳星は大火に当たるべし。麟徳暦では初見は張八度に在り、明年翼十六度に伏し、定めて鶉火に在り、三次を差せり。哀公以後は、差行漸く遅く、相去ること猶ほ近し。哀公以前は、率ね常に行遅し。而るに旧暦は猶ほ急率を用ひ、合変を知らず、故に差すこと弥だ多し。武王革命の時、歳星も亦た大火に在りしに、麟徳暦では東壁三度に在り、則ち唐・虞以上にては、周天を差せり。

太初暦・三統暦は歳星十二周天にして一次を超え、商・周の間の事を推すに、大抵皆合す。開元の注記を験すれば、九十余度を差し、蓋し歳星の後率を知らざる故なり。皇極暦・麟徳暦は七周天にして一次を超え、以て漢・魏の間の事を推すも未だ差せず。上りて春秋の載する所を験すれば、亦た九十余度を差し、蓋し歳星の前率を知らざる故なり。天保暦・天和暦は二率の中を得、故に上は春秋に合し、下は猶ほ記注に密なり。以て永平・黄初の間の事を推すに、遠き者は或は三十余度を差し、蓋し戦国後の歳星変行を知らざる故なり。漢の元始四年より、開元十二年を距てるまで、凡そ十二甲子、上りて隠公六年を距つるも、亦た十二甲子なり。而して二暦は其中に相合し、或は古に於て三次を差し、或は今に於て三次を差す。其の古今に両合する者は、中間も亦た乖けり。一術を以て之を求めんと欲すれば、則ち得べからず。

開元暦の歳星前率は、三百九十八日、余二千二百一十九、秒九十三。哀公二十年丙寅より後、毎に度余一分を加へ、四百三十九合を尽くし、次合に乃ち秒十三を加へて止む。凡そ三百九十八日、余二千六百五十九、秒六にして日と合す。是れ歳星の後率なり。此より因りて以て常と為し、漢の元始六年に入る。

歳星差合の術に曰く、哀公二十年の冬至合余を置き、差已来の中積分を加へ、前率を以て之を約し、差合数に入るを為す。尽きざる者は暦術の如く之に入れ、反りて冬至後の合日を求め、乃ち副列に差合数を置き、下位一算を増し、乗じて半にし、大衍通法に盈てば日と為し、尽きざれば日余と為し、以て合日に加へれば、即ち差合の所在なり。歳星差行の径術を求むるには、後終率を以て上元以来の中積分を約し、亦た求むる所を得。若し其の実行を稽ふるには、当に元始六年より差を置きて之を歩み、則ち前後相距ること、髪を容るる間も無く、而上元の首には、忽微の空積無からん。

成湯が桀を伐ちし時、歳は壬戌に在り、開元暦によれば星は日と角に合し、氐十度に次ぎて後退行す。其の明年、湯始めて国を建て元祀と為す。順行して日と房に合す。是れ商人の命を紀する所以なり。

後六百一算を経て紂の六祀に至る。周の文王初めて畢にて禴す。十三祀、歳は己卯に在り、星は鶉火に在り、武王位を嗣ぐ。商を克つ年、進みて輿鬼に及び、而して退きて東井を守る。明年、周始めて革命し、順行して日と柳に合し、進みて張に留まる。其の分野を考ふれば、則ち分陝の間、三監の封域の際なり。

成王三年、歳は丙午に在り、星は大火に在り、唐叔始めて封ぜらる。故に国語に曰く「晋の始封、歳は大火に在り」と。春秋伝に僖公五年、歳は大火に在り、晋の公子重耳、蒲より狄に奔る。十六年、歳は寿星に在り、斉に適し衛を過ぐ。野人塊を之に与ふ。子犯曰く「天の賜なり。天事は必ず象る。歳鶉火に及ばば必ず此れ有らん乎。寿星に復すれば、必ず諸侯を獲ん」と。二十三年、歳星は胃・昴に在り。秦伯晋の文公を納る。董因曰く「歳は大梁に在り、将に天行を集めんとす。元年、実沈の星、晋人の是に居る所なり。君の行くや、歳は大火に在り、閼伯の星なり、是を大辰と謂ふ。辰は以て善く成し、后稷是に相ひ、唐叔以て封ぜらる。且つ辰を以て出で而して参を以て入る、皆晋の祥なり」と。二十七年、歳は鶉火に在り、晋侯衛を伐ち五鹿を取り、城濮にて楚師を敗り、始めて諸侯を獲る。歳恰も寿星に及び、皆開元暦に合す。

襄公十八年、歳星は陬訾の口に在り。開元暦によれば大寒三日、星は日と合し危三度に在り、遂に順行して営室八度に至る。其の明年、鄭の子蟜卒す。将に葬らんとす。公孫子羽と裨竈、晨に会して事をす。伯有氏を過ぐ。其の門上に莠生ふ。子羽曰く「其の莠猶ほ在るか。是に於て歳は降婁中に在りて曙る」と。裨竈之を指して曰く「猶ほ以て歳を終ふべし。歳は此の次に及ばず」と。開元暦によれば、歳星は奎に在り。奎は降婁なり。麟徳暦によれば、危に在り。危は玄枵なり。二十八年春、冰無し。梓慎曰く「歳は星紀に在り、而して玄枵に淫す」と。裨竈曰く「歳其の次を棄て、而して明年の次に旅し、以て鳥帑を害す。周・楚之を悪む」と。開元暦によれば、歳星は南斗十七度に至り、而して退きて西建の間を守り、復た順行し、日と牛初に合す。応に星紀に在るべしに、盈行進みて虚宿に及び、故に「淫す」と曰ふ。玄枵に二年留まり、三十年に至る。開元暦によれば、歳星順行して営室十度に至り留まる。子蟜の卒を距つること一終なり。其の年八月、鄭人良霄を殺す。故に「其の亡ぶに及びて、歳は陬訾の口に在り」と曰ふ。其の明年、乃ち降婁に及ぶ。

昭公八年十一月、楚が陳を滅ぼす。史趙曰く、「未だならず。陳は顓頊の族なり。歳は鶉火に在り、是を以て卒に滅ぶ。今は析木の津に在り、猶ほ復た由らんとす」と。開元暦に、箕八度に在り、析木の津なり。十年春、進みて婺女の初に及び、玄枵の維首に在り。伝に曰く、「正月、星婺女に出づ」と。裨竈曰く、「今茲の歳は顓頊の墟に在り」と。是の歳、日と危に合す。其の明年、進みて營室に及び、復た豕韋の次を得たり。景王、萇弘に問ひて曰く、「今茲諸侯何れか実に吉ならん、何れか実に凶ならん」と。対へて曰く、「蔡凶なり。此れ蔡侯般其の君を殺せるの歳、歳は豕韋に在り、此を過ぎず、楚将に之を有たん。歳大梁に及びて、蔡復た楚凶ならん」と。十三年に至り、歳星昴・畢に在り、而して楚霊王をしいし、陳・蔡復た封ぜらる。初め、昭公九年、陳災有り。裨竈曰く、「後五年、陳将に復た封ぜられん。歳五たび鶉火に及び、而して後陳卒に亡ぶ」と。陳災より五年、而して歳大梁に在り、陳復た国を建つ。哀公十七年、五たび鶉火に及び、而して楚陳を滅ぼす。是の年、歳星日と張六度に合す。昭公三十一年夏、吳越を伐つ。始めて師を越に用ゐるなり、史墨曰く、「越歳を得て吳之を伐つ、必ず其の凶を受くべし」と。是の歳、星日と南斗三度に合す。昔、僖公六年、歳陰卯に在り、星析木に在り。昭公三十二年、亦た歳陰卯に在り、而して星星紀に在り。故に三統暦因りて以て超次の率と為す。其の実を考ふるに、猶ほ百二十餘年なり。近代諸暦、八十四年を以て之を斉せんと欲す、此れ其の惑ふ所なり。後三十八年にして越吳を滅ぼす、星三たび斗・牛に及び、已に差合二年に入れり。

夫れ五事中に感ずれば、而して五行の祥下に応じ、五緯の変上に彰る。声発して響和し、形動いて影随ふが若し、故に王者典刑の正を失へば、則ち星辰之が為に乱行し、彝倫の敍を汨せば、則ち天事之が為に象無し。其の乱行・象無きに当たり、又た暦紀を以て之を斉すべけんや。故に襄公二十八年、歳星紀に在りて、玄枵に淫す。三十年八月に至りて、始めて陬訾の口に及び、次を超えて前に進み、二年之を守る。

漢の元鼎中、太白天苑に入り、行を失ひ、黄道の南三十餘度に在り。間歳、武帝北巡守し、単于臺に登り、兵を勒して十八萬騎、及び大宛を誅し、馬大いに軍中に死す。

晉の咸寧四年九月、太白見るべくして見えず、占ひて曰く、「是れ失舎と謂ふ、破軍有らざれば、必ず亡国有らん」と。時に呉を伐たんとし、明年三月、兵出づ、太白始めて夕に西方に見え、而して呉亡ぶ。

永寧元年、正月より閏月に至るまで、五星天を経め、縦横常無し。永興二年四月丙子、太白狼星を犯し、行を失ひ、黄道の南四十餘度に在り。永嘉三年正月庚子、熒惑紫微を犯す。皆天変の未だ有らざる所なり、終に二帝塵を蒙り、天下大乱す。

後魏の神瑞二年十二月、熒惑瓠瓜星の中に在り、一夕忽ち亡せ、知る所在無し。崔浩日辰を以て之を推し、曰く、「庚午の夕、辛未の朝、天に陰雲有り、熒惑の亡するは、此の二日に在り。庚午未皆秦を主り、辛は西夷なり。今姚興咸陽に拠る、是れ熒惑秦に入るなり」と。其の後熒惑果たして東井に出で、留まり守り盤旋し、秦中大旱して赤地と成り、昆明水竭く。明年、姚興死に、二子兵を交ふ。三年、国滅ぶ。

齊の永明九年八月十四日、火星応に退くべく昴三度に在るに、先づ畢に歴り在り、二十一日始めて逆行し、北に転じ、立冬に垂れ及び、形色弥く盛ん。魏の永平四年八月癸未、熒惑氐に在り、夕に西方に伏し、亦た先期五十餘日、時に暦疎闊と雖も、此の若くあるべからず。

隋の大業九年五月丁丑、熒惑逆行して南斗に入り、色赤くして血の如く、大さ三斗の器の如く、光芒震耀し、長さ七八尺、斗の中に在りて句巳して行く、亦た天変の未だ有らざる所なり。後楊玄感反し、天下大乱す。

故に五星留逆伏見の効、表裏盈縮の行は、皆時に係り、而して政に之を象る。政小しく失すれば則ち小変し、事微なれば而して象微なり、事章なれば而して象章なり。已に吉凶の象を示して、則ち又た行を変じ、其の常度を襲ふ。然らずんば、則ち皇天何を以てか陰に下民を騭し、人主を警悟せん。

近代の算者は象に昧く、占者は数に迷ひ、五星の失行を覩て、皆之を暦の舛なりと謂ふ。七曜軌を循ふと雖も、猶ほ或は之を天災と謂ふ。終に数象相蒙りて、両つながら其の実を喪ふ。故に暦を較ぶるには必ず古今の注記を稽へ、気に入り均にして行度斉しく、上下相ひ距り、反復相ひ求む。苟くも常に独り異なれば、則ち失行知るべし。

凡そ二星相近きは、多く之が為に失行す。三星以上は、度を失ふこと弥だ甚し。天竺暦は九執の情を以てす、皆好悪有り。其の好む所の星に遇へば、則ち之に趣くは行疾く、之を捨つるは行遅し。

張子信の暦に辰星応に見るべくして見えざるの術、晨夕日前後四十六度内、十八度外に、木・火・土・金の一星有る者は見え、無ければ則ち見えず。張冑玄の暦、朔望交限に在り、星伏して日下に在り、木・土見を去ること十日外、火見を去ること四十日外、金見を去ること二十二日外なる者は、並びに加減差を加へず、皆精気相感して然らしむ。

夫れ日月の以て尊卑不易の象を著はす所以、五星の以て政教時に従ふの義を示す所以なり。故に日月の失行は、微にして少く、五星の失行は、著しくして多し。今略かに常数を考へ、以て疎密を課す。

略例に曰く、其の気に入り加減するは、亦た張子信に始まり、後人之を用ふるを遵はざる莫し。原始要終、多く叶はざる有り。今麟徳暦を較ぶるに、熒惑・太白の見伏行度過不及、熒惑凡そ四十八事、太白二十一事。餘星の差する所は、蓋し細くして考ふるに足らず。且つ盈縮の行は、宜しく四象と潜かに合すべく、而して二十四気の加減均しからず。更に易数を推して之を正し、又た各歳差を立て、以て五精の運周二十八舍の変を究む。史官の記する所を較ぶるに、歳星二十七事、熒惑二十八事、鎮星二十一事、太白二十二事、辰星二十四事、開元暦課皆第一と云ふ。

肅宗の時に至り、山人韓穎上言して大衍暦或は誤るとす。帝之を疑ひ、穎を以て太子宮門郎と為し、司天臺に直す。又た其の術を損益し、毎節二日を増し、更に名けて至徳暦と為し、乾元元年を起として之を用ゐ、上元三年に訖る。