新唐書

巻二十七下 志第十七下 暦三下

巻二十七下 志第十七下 暦三下

その八、躔盈縮略例に曰く、

原文其八日躔盈縮略例曰:

北斉の張子信は合蝕の加時を積候し、日行に気差有るを覚えしも、然れども損益未だ其の正を得ず。劉焯に至り、盈縮躔衰の術を立て、四象の升降と為す。麟徳暦之に因り、更に躔差と名づく。凡そ陰陽の往来は、皆馴積して変ず。日南至すれば、其の行最も急なり、急にして漸く損じ、春分に至りて中に及びて後ち遅し。日北至に迨うて、其の行最も舒なり、舒にして漸く之を益し、秋分に至りて又中に及びて後ち益急なり。急極まりて寒若く、舒極まりて燠若く、中に及んで雨暘の気交わるは、自然の数なり。焯の術は春分の前一日最も急に、後一日最も舒なり。秋分の前一日最も舒に、後一日最も急なり。舒急二至と同じくして、中間一日は平行す。其の説是れ非なり。当に二十四気の晷景を以てし、日躔の盈縮を考へて加時に密ならしむべし。

原文北齊張子信積候合蝕加時,覺日行有入氣差,然損益未得其正。至劉焯,立盈縮躔衰術,與四象升降。麟德曆因之,更名躔差。凡陰陽往來,皆馴積而變。日南至,其行最急,急而漸損,至春分及中而後遲。迨日北至,其行最舒,而漸益之,以至秋分又及中而後益急。急極而寒若,舒極而燠若,及中而雨暘之氣交,自然之數也。焯術於春分前一日最急,後一日最舒;秋分前一日最舒,後一日最急。舒急同于二至,而中間一日平行。其說非是。當以二十四氣晷景,考日躔盈縮而密於加時。

その九、九道議に曰く、

原文其九九道議曰:

洪範伝に云ふ、「日に中道有り、月に九行有り。」中道は、黄道を謂ふ。九行は、青道二、黄道の東に出で、朱道二、黄道の南に出で、白道二、黄道の西に出で、黒道二、黄道の北に出づ。立春・春分は、月東に青道に従ひ、立夏・夏至は、月南に朱道に従ひ、立秋・秋分は、月西に白道に従ひ、立冬・冬至は、月北に黒道に従ふ。漢の史官の旧事、九道の術廃れて久しく、劉洪頗る之を採りて遅疾陰陽暦を著すに用ゐたり。然れども本消息を以て奇と為し、而して術伝はらず。

原文洪範傳云:「日有中道,月有九行。」中道,謂黃道也。九行者,青道二,出黃道東;朱道二,出黃道南;白道二,出黃道西;黑道二,出黃道北。立春、春分,月東從青道;立夏、夏至,月南從朱道;立秋、秋分,月西從白道;立冬、冬至,月北從黑道。漢史官舊事,九道術廢久,劉洪頗採以著遲疾陰陽曆,然本以消息為奇,而術不傳。

陰陽暦の交を推して冬至・夏至に在れば、則ち月は青道・白道を行く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に青道は春分の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正東に在り。白道は秋分の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正西に在り。若し陰陽暦の交が立春・立秋に在れば、則ち月は朱道・黒道に循く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に朱道は立夏の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の西南に在り。黒道は立冬の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の東北に在り。若し陰陽暦の交が春分・秋分の宿に在れば、則ち月は朱道・黒道を行く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に朱道は夏至の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正南に在り。黒道は冬至の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の正北に在り。若し陰陽暦の交が立夏・立冬に在れば、則ち月は青道・白道に循く。交は則ち同じくして、出入の行異なり。故に青道は立春の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の東南に在り。白道は立秋の宿に至り、及び其の衝する所は、皆黄道の西北に在り。其の大紀は皆二道を兼ね、而して実に八節を分ちて主り、四正四維に合す。

原文推陰陽曆交在冬至、夏至,則月行青道、白道,所交則同,而出入之行異。故青道至春分之宿,及其所衝,皆在黃道正東;白道至秋分之宿,及其所衝,皆在黃道正西。若陰陽曆交在立春、立秋,則月循朱道、黑道,所交則同,而出入之行異。故朱道至立夏之宿,及其所衝,皆在黃道西南;黑道至立冬之宿,及其所衝,皆在黃道東北。若陰陽曆交在春分、秋分之宿,則月行朱道、黑道,所交則同,而出入之行異。故朱道至夏至之宿,及其所衝,皆在黃道正南;黑道至冬至之宿,及其所衝,皆在黃道正北。若陰陽曆交在立夏、立冬,則月循青道、白道,所交則同,而出入之行異。故青道至立春之宿,及其所衝,皆在黃道東南;白道至立秋之宿,及其所衝,皆在黃道西北。其大紀皆兼二道,而實分主八節,合于四正四維。

陰陽暦の中終の交する所を按ずれば、則ち月行正に黄道に当る。交を去ること七日、其の行九十一度、一象の率に斉しくして、八行の中を得。八行と中道とを以て九と為す、是れを九道と謂ふ。凡そ八行春秋に正しければ、其の黄道を去ること六度、則ち交は冬夏に在り。冬夏に正しければ、其の黄道を去ること六度、則ち交は春秋に在り。易の九六・七八、終始の象として迭るなり。乾坤定位すれば、則ち八行各其の正に当る。其の寒暑相推し、晦朔相易するに及びては、則ち南に在る者は変じて北に居り、東に在る者は徙れて西と為り、屈伸・消息の象なり。

原文按陰陽曆中終之所交,則月行正當黃道,去交七日,其行九十一度,齊於一象之率,而得八行之中。八行與中道而九,是謂九道。凡八行正於春秋,其去黃道六度,則交在冬夏;正於冬夏,其去黃道六度,則交在春秋。易九六、七八,迭為終始之象也。乾坤定位,則八行各當其正。及其寒暑相推,晦朔相易,則在南者變而居北,在東者徙而為西,屈伸、消息之象也。

黄道の差は、春分・秋分より始まる。赤道の交する所の前後各五度を限と為す。初め、黄道赤道より二十四分の十二を増多す。毎限一を損じ、九限に極まり、数四に終る。率として赤道四十五度にして黄道四十八度、四立の際に至りては、一度少しく強く、平に依る。復た四より起り、初限五度、赤道黄道より二十四分の四を増多す。毎限一を益し、九限に極まりて止み、十二に終る。率として赤道四十五度にして黄道四十二度、復た冬・夏至の中を得たり。

原文黃道之差,始自春分、秋分,赤道所交前後各五度為限。初,黃道增多赤道二十四分之十二,每限損一,極九限,數終于四,率赤道四十五度而黃道四十八度,至四立之際,一度少強,依平。復從四起,初限五度,赤道增多黃道二十四分之四,每限益一,極九限而止,終于十二,率赤道四十五度而黃道四十二度,復得冬、夏至之中矣。

月道の差は、交初・交中より始まる。黄道の交する所も亦交の前後五度を距けて限と為す。初限、月道黄道より四十八分の十二を増多す。毎限一を損じ、九限に極まりて止み、数四に終る。率として黄道四十五度にして月道四十六度半、乃ち一度強く、平に依る。復た四より起り、初限五度、月道黄道より四十八分の四を差少す。毎限一を益し、九限に極まりて止み、十二に終る。率として黄道四十五度にして月道四十三度半、陰陽暦二交の半に至る。凡そ交初に近き限十二分を増す者は、半交の末限に至りて十二分を減じ、交を去ること四十六度にして損益の平率を得。

原文月道之差,始自交初、交中,黃道所交亦距交前後五度為限。初限,月道增多黃道四十八分之十二,每限損一,極九限而止,數終于四,率黃道四十五度而月道四十六度半,乃一度強,依平。復從四起,初限五度,月道差少黃道四十八分之四,每限益一,極九限而止,終于十二,率黃道四十五度而月道四十三度半,至陰陽曆二交之半矣。凡近交初限增十二分者,至半交末限減十二分,去交四十六度得損益之平率。

夫れ日行は歳差と偕に遷り、月行は交限に随ひて変ず。遯伏相消し、朓朒相補すれば、則ち九道の数知るべし。其の月道の交する所が二分と度を同じくすれば、則ち赤道・黒道は交初に近き限、黄道は二十四分の十二を増し、月道は四十八分の十二を増す。半交の末に至れば、其の減ずるも亦之の如し。故に九限の際に於て、黄道は三度差ひ、月道は一度半差ふ。蓋し損益の数斉しきなり。若し交する所が四立と度を同じくすれば、則ち黄道は損益の中に在り、月道は四十八分の十二を差ふ。月道が損益の中に至れば、黄道は二十四分の十二を差ふ。九限の際に於て、黄道は三度差ひ、月道は四分度の三を差ふ。皆朓朒相補ふなり。若し交する所が二至と度を同じくすれば、則ち青道・白道は交初に近き限、黄道は二十四分の十二を減じ、月道は四十八分の十二を増す。半交の末に至れば、黄道は二十四分の十二を増し、月道は四十八分の十二を減ず。九限の際に於て、黄道と月道の差同じ。蓋し遯伏相消すなり。

原文夫日行與歲差偕遷,月行隨交限而變,遯伏相消,朓朒相補,則九道之數可知矣。其月道所交與二分同度,則赤道、黑道近交初限,黃道增二十四分之十二,月道增四十八分之十二。至半交之末,其減亦如之。故於九限之際,黃道差三度,月道差一度半,蓋損益之數齊也。若所交與四立同度,則黃道在損益之中,月道差四十八分之十二。月道至損益之中,黃道差二十四分之十二。於九限之際,黃道差三度,月道差四分度之三,皆朓朒相補也。若所交與二至同度,則青道、白道近交初限,黃道減二十四分之十二,月道增四十八分之十二。至半交之末,黃道增二十四分之十二,月道減四十八分之十二。於九限之際,黃道與月道差同,蓋遯伏相消也。

日は赤道を出入すること二十四度、月は黄道を出入すること六度、相距るれば則ち四分の一。故に九道の変に於て、四立を以て中交と為す。二分に在れば、四分の一を増し、而して黄道の度と相半す。二至に在れば、四分の一を減じ、而して黄道の度と正に均し。故に其の数を推極め、引いて之を伸ばせば、毎気一候を移す。月道の差ふ所、九分の一を増損し、七十二候にして九道究まる。

原文日出入赤道二十四度,月出入黃道六度,相距則四分之一,故於九道之變,以四立為中交。在二分,增四分之一,而與黃道度相半。在二至,減四分之一,而與黃道度正均。故推極其數,引而伸之,每氣移一候。月道所差,增損九分之一,七十二候而九道究矣。

凡そ月の交一終すれば、前に交する所の一度及び余八万九千七百七十三分度の四万二千五百三少半を退き、二百二十一月及び分七千七百五十三を積みて、而して交道天を周る。因りて之を半にすれば、将に九年にして九道終はる。

原文凡月交一終,退前所交一度及餘八萬九千七百七十三分度之四萬二千五百三少半,積二百二十一月及分七千七百五十三,而交道周天矣。因而半之,將九年而九道終。

四象を以て之を考ふれば、各合朔の交する所に据り、七十二候に入る。則ち其の八道の行なり。朔交を以て交初と為し、望交を以て交中と為す。若し交初が冬至の初候に在りて陰暦に入れば、則ち青道を行く。又十三日七十六分日の四十六、交中に至りて衝する所の宿を得、変じて陽暦に入り、亦青道を行く。若し交初が陽暫に入れば、則ち白道なり。故に交初の入る所を考へて、周天の度知るべし。若し望交が冬至の初候に在れば、則ち十三日四十六分を減じ、大雪の初候の陰陽暦を視て其の行を正す。

原文以四象考之,各據合朔所交,入七十二候,則其八道之行也,以朔交為交初,望交為交中。若交初在冬至初候而入陰曆,則行青道。又十三日七十六分日之四十六,至交中得所衝之宿,變入陽曆,亦行青道。若交初入陽曆,則白道也。故考交初所入,而周天之度可知。若望交在冬至初候,則減十三日四十六分,視大雪初候陰陽曆而正其行也。

その十、晷漏中星略例に曰く、

原文其十晷漏中星略例曰:

太陽の運行には南北があり、日影と漏刻には長短がある。しかし二十四節気の日影の差が緩やかであったり急であったりするのは、勾股の理によるものである。直規の中にあれば差は遅く、勾股の数と等しければ差は急である。辰極の高下に従い、遭遇するものが異なるのは、黄道の刻漏の如し。これは数理の浅近なものであるが、近代に至ってもなお未だ明らかでない。今、黄道の去極を推し、日影・漏刻・昏距・中星の四術を以て繰り返し互いに求め、消息同じ率にして、巡り合わせて中と為し、以て九服の変に合わしむ。

原文日行有南北,晷漏有長短。然二十四氣晷差徐疾不同者,句股使然也。直規中則差遲,與句股數齊則差急。隨辰極高下,所遇不同,如黃道刻漏。此乃數之淺者,近代且猶未曉。今推黃道去極,與晷景、漏刻、昏距、中星四術返覆相求,消息同率,旋相為中,以合九服之變。

その十一、日蝕の議に曰く、

原文其十一日蝕議曰:

小雅に「十月の交、朔日辛卯」とある。虞𠠎が暦をもってこれを推すに、幽王六年にあたる。開元暦は交分四万三千四百二十九と定め、蝕限に入り、加時は昼にある。交会して蝕するは、数理の常である。詩に云う、「彼の月の食うは、則ち維れ其の常。此の日の食うは、于何ぞ臧からざる。」日は君道なり、朏魄の変なし。月は臣道なり、日に遠ざかるに従い益々明らかになり、日に近づくに従い益々虧ける。望に日軌と相会すれば、則ち移って次第に遠ざかり、遠く極まりてまた移って近く交わる。これ臣下の象を著わす所以なり。望にして黄道に正しむるは、これを臣が君の明を干すと謂い、則ち陽すなわちこれを蝕す。朔にして黄道に正しむるは、これを臣が君の明を壅ぐと謂い、則ち陽これを蝕す。かつ十月の交は、暦において蝕すべきにあたり、君子なお変と為し、詩人これを悼む。然らば則ち古の太平の世には、日蝕せず、星孛せず、蓋し有りしなり。

原文小雅「十月之交,朔日辛卯」。虞𠠎以曆推之,在幽王六年。開元曆定交分四萬三千四百二十九,入蝕限,加時在晝。交會而蝕,數之常也。詩云:「彼月而食,則維其常。此日而食,于何不臧。」日,君道也,無朏魄之變;月,臣道也,遠日益明,近日益虧。望與日軌相會,則徙而浸遠,遠極又徙而近交,所以著臣人之象也。望而正於黃道,是謂臣干君明,則陽斯蝕之矣。朔而正於黃道,是謂臣壅君明,則陽為之蝕矣。且十月之交,於曆當蝕,君子猶以為變,詩人悼之。然則古之太平,日不蝕,星不孛,蓋有之矣。

もし過至未分にあれば、月あるいは変行してこれを避く。あるいは五星ひそかに日の下に在り、侮りを禦ぎてこれを救う。あるいは交数浅くに渉り、あるいは陽暦に在り、陽盛んで陰微なれば則ち蝕せず。あるいは徳の休明にして、小眚有れば、則ち天これを隠し、交わりながらも蝕せず。この四者は、皆徳教の生ずる所以なり。

原文若過至未分,月或變行而避之;或五星潛在日下,禦侮而救之;或涉交數淺,或在陽曆,陽盛陰微則不蝕;或德之休明,而有小眚焉,則天為之隱,雖交而不蝕。此四者,皆德教之所由生也。

四序の中、分同道にして、至相過ぎ、交わって蝕有れば、則ち天道の常なり。劉歆・賈逵の如きは、皆近古の大儒なり、豈に軌道の交わる所、朔望同じ術なるを知らざらんや。日蝕は常ならずと以て、故に闕いて論ぜず。

原文四序之中,分同道,至相過,交而有蝕,則天道之常。如劉歆、賈逵,皆近古大儒,豈不知軌道所交,朔望同術哉?以日蝕非常,故闕而不論。

黄初以来、暦を治むる者始めて日蝕の疎密を課し、張子信に至りて益々詳し。劉焯・張冑玄の徒は自ら其の術を負い、日月皆密率を以て求むべしと謂う。これは暦紀に専らする者なり。

原文黃初已來,治曆者始課日蝕疎密,及張子信而益詳。劉焯、張冑玄之徒自負其術,謂日月皆可以密率求,是專於曆紀者也。

戊寅暦・麟徳暦を以て春秋の日蝕を推すに、多くは皆蝕限に入る。暦において蝕すべきにして春秋に書かれざるもの尚多く有れば、則ち日蝕は必ず交限に在り、其の限に入る者は必ずしも尽く蝕せず。開元十二年七月戊午朔、暦において蝕半強すべし、交趾より朔方に至るまで、これを候うも蝕せず。十三年十二月庚戌朔、暦において蝕太半すべし、時に東に封禅して泰山に至り、還りて梁・宋の間に次す。皇帝饍を徹し、楽を挙げず、蓋せず、素服し、日も亦蝕せず。時に群臣と八荒の君長の来たりて祭を助くる者、物を降して需い、数うるに勝えず、皆寿を奉り慶を称え、粛然として神服す。算術乖舛たりと雖も、かくの如くあるべからず。然る後に徳の天を動かすは、終日を俟たざるを知る。もし開元の二蝕に因り、曲げて交限を変えてこれに従わば、則ち差者益々多からん。

原文以戊寅、麟德曆推春秋日蝕,大最皆入蝕限。於曆應蝕而春秋不書者尚多,則日蝕必在交限,其入限者不必盡蝕。開元十二年七月戊午朔,於曆當蝕半強,自交趾至于朔方,候之不蝕。十三年十二月庚戌朔,於曆當蝕太半,時東封泰山,還次梁、宋間,皇帝徹饍,不舉樂,不蓋,素服,日亦不蝕。時羣臣與八荒君長之來助祭者,降物以需,不可勝數,皆奉壽稱慶,肅然神服。雖算術乖舛,不宜如此,然後知德之動天,不俟終日矣。若因開元二蝕,曲變交限而從之,則差者益多。

開元より暦を治むるより、史官は毎歳節気の中晷を較べ、因りて加時の小余を検す。大数常ありと雖も、然れども亦時とともに推移し、毎歳同じからず。晷変じて長ければ、則ち日は黄道の南を行く。晷変じて短ければ、則ち日は黄道の北を行く。行いて南なれば、則ち陰暦の交も或いは失う。行いて北なれば、則ち陽暦の交も或いは失う。日黄道の中に在りて、尚且つ変有り、況んや月九道を行くをや。杜預云う、「日月は動物なり、行度大量有りと雖も、小しく盈縮せざる能わず。故に交会しながら蝕せざる者有り、或いは頻りに交わりて蝕する者有り。」是れなり。

原文自開元治曆,史官每歲較節氣中晷,因檢加時小餘,雖大數有常,然亦與時推移,每歲不等。晷變而長,則日行黃道南;晷變而短,則日行黃道北。行而南,則陰曆之交也或失;行而北,則陽曆之交也或失。日在黃道之中,且猶有變,況月行九道乎!杜預云:「日月動物,雖行度有大量,不能不小有盈縮。故有雖交會而不蝕者,或有頻交而蝕者。」是也。

故に暦を較ぶるには必ず古史を稽え、虧蝕の深浅・加時の朓朒陰陽、其の数相叶うものを、反覆相求め、暦数の中よりして、以て辰象の変に合わしむ。辰象の変を観、反って暦数の中を求む。其の同じき所を類して、則ち中知るべし。其の異なる所を弁えて、則ち変知るべし。其の度を循れば則ち暦に合い、行いを失えば則ち占に合う。占道は順成にして、常に中を執りて変を追う。暦道は逆数にして、常に中を執りて変を俟つ。此の説を知る者は、天道掌を視るが如し。

原文故較曆必稽古史,虧蝕深淺、加時朓朒陰陽,其數相叶者,反覆相求,由曆數之中,以合辰象之變;觀辰象之變,反求曆數之中。類其所同,而中可知矣;辨其所異,而變可知矣。其循度則合于曆,失行則合于占。占道順成,常執中以追變;曆道逆數,常執中以俟變。知此之說者,天道如視諸掌。

略例に曰く、旧暦は日蝕の浅深を考うるに、皆張子信の伝うる所よりす。云う、積候して得る所なりと。而して未だ其の然る所以を暁らざるなり。円儀を以て日月の径を度り、乃ち月径の半を以て入交初限一度半を減じ、余りを闇虚の半径と為す。月の黄道を去る毎度の差数を以て、二径を相掩せしめ、以て蝕分を験す。入る所の日の遅疾に径を乗じ、泛用の刻数と為す。大率交を去ること三度に及ばざれば、即ち月行闇虚に没し、皆既限に入る。又日月の径の半を以て、春分入交初限の相去る度数を減じ、余りを斜射の差と為す。乃ち差数を考へ、以て既限を立てる。而して優游進退すること二度の中間にし、亦二径を相掩せしめ、以て日蝕の分数を知る。月径既限の南を踰ゆれば、則ち陰暦に在ると雖も、虧くる所外道に類同す。斜望するが故なり。既限の外は、向かって外に蝕すべく、外道の交分は、此の例に準じて用う。以て古今の日蝕四十三事、月蝕九十九事を較ぶるに、課す皆第一なり。

原文略例曰:舊曆考日蝕淺深,皆自張子信所傳,云積候所得,而未曉其然也。以圓儀度日月之徑,乃以月徑之半減入交初限一度半,餘為闇虛半徑。以月去黃道每度差數,令二徑相掩,以驗蝕分,以所入日遲疾乘徑,為泛所用刻數,大率去交不及三度,即月行沒在闇虛,皆入既限。又半日月之徑,減春分入交初限相去度數,餘為斜射所差。乃考差數,以立既限。而優游進退於二度中間,亦令二徑相掩,以知日蝕分數。月徑踰既限之南,則雖在陰曆,而所虧類同外道,斜望使然也。既限之外,應向外蝕,外道交分,準用此例。以較古今日蝕四十三事,月蝕九十九事,課皆第一。

日蝕を皆常数を以て求むべからざらしむれば、則ち暦数の疎密を稽うる由なし。若し皆常数を以て求むべくば、則ち政教の休咎を知る由なし。今更に日蝕或限の術を設けて考うるに、常を得れば則ち数に合う。又日月の交会大小相若く、而して月日の下に在り、京師より斜射してこれを望むに、仮に中国にて食既なれば、則ち南方戴日の下にて虧くる所纔かに半ばなり。月外より反観すれば、則ち交わりながら蝕せず。九服の日晷を歩みて以て蝕分を定め、晨昏の漏刻は地とともに変ずれば、則ち宇宙広しと雖も、一術を以てこれを斉うべし。

原文使日蝕皆不可以常數求,則無以稽曆數之疎密。若皆可以常數求,則無以知政教之休咎。今更設考日蝕或限術,得常則合于數。又日月交會大小相若,而月在日下,自京師斜射而望之,假中國食既,則南方戴日之下所虧纔半,月外反觀,則交而不蝕。步九服日晷以定蝕分,晨昏漏刻與地偕變,則宇宙雖廣,可以一術齊之矣。

その十二、五星の議に曰く、

原文其十二五星議曰:

歳星は商・周より春秋の季に至るまで、率ね百二十余年にして一次を超ゆ。戦国後其の行い次第に急になり、漢に至りて尚微差有り、哀帝・平帝の間に及びて、余勢乃ち尽き、更に八十四年にして一次を超え、因りて以て常と為す。これ其の余の星と異なる所なり。姫氏は霊威仰の精より出で、木行の正気を受く。歳星は農祥を主り、后稷これに憑る。故に周人は常に其の禨祥を閲し、善敗を観る。其の始めて王たるや、鶉火に次ぎ、以て天黿に達す。其の衰えるに及びては、玄枵に淫し、以て鳥帑を害す。其の後群雄力争い、礼楽隕壊し、従衡攻守の術興る。故に歳星は常に上に贏行し、而して侯王は下に寧からず。則ち木緯の行いを失う勢いは、宜しく火運の中に極まるべし。理数然り。

原文歲星自商、周迄春秋之季,率百二十餘年而超一次。戰國後其行寖急,至漢尚微差,及哀、平間,餘勢乃盡,更八十四年而超一次,因以為常。此其與餘星異也。姬氏出自靈威仰之精,受木行正氣。歲星主農祥,后稷憑焉,故周人常閱其禨祥,而觀善敗。其始王也,次于鶉火,以達天黿。及其衰也,淫于玄枵,以害鳥帑。其後羣雄力爭,禮樂隕壞,而從衡攻守之術興。故歲星常贏行於上,而侯王不寧於下,則木緯失行之勢,宜極於火運之中,理數然也。

開元十二年正月庚午、歳星は進賢の東北三尺三寸にあり、軫十二度に直す。麟徳暦によれば軫十五度に在る。これを推し上れば、漢の河平二年に至り、その十月下旬、歳星は軒轅の南端大星の西北一尺ばかりに在り。麟徳暦では張二度に在り、軒轅大星に直す。上下七百年を距て、その行度を考ふるに、未だ甚だ盈縮せず、則ち哀帝・平帝の後は復た毎歳漸次に差ずること無し。又百二十年を上り、孝景帝の中元三年五月に至る。星は東井・鉞に在り。麟徳暦では参三度に在る。又六十年を上り、漢の元年十月を得る。五星は東井に聚まり、歳星に従ふなり。秦の正にては歳は乙未に在り、夏の正にては甲午に当たるべし。麟徳暦では白露八日、歳星は觜觿一度に留まる。明年立夏、参に伏す。差行未だ尽きざるにより、而して常数を以て之を求めしめ然らしむるなり。又二百七十一年を上り、哀公十七年に至る。歳は鶉火に在り、麟徳暦では初見は輿鬼二度に在る。立冬九日、星三度に留まる。明年啓蟄十日、退りて柳五度に至るも、猶ほ鶉火に及ばず。又百七十八年を上り、僖公五年に至る。歳星は大火に当たるべし。麟徳暦では初見は張八度に在り、明年翼十六度に伏し、定めて鶉火に在り、三次を差せり。哀公以後は、差行漸く遅く、相去ること猶ほ近し。哀公以前は、率ね常に行遅し。而るに旧暦は猶ほ急率を用ひ、合変を知らず、故に差すこと弥だ多し。武王革命の時、歳星も亦た大火に在りしに、麟徳暦では東壁三度に在り、則ち唐・虞以上にては、周天を差せり。

原文開元十二年正月庚午,歲星在進賢東北尺三寸,直軫十二度,於麟德曆在軫十五度。推而上之,至漢河平二年,其十月下旬,歲星在軒轅南耑大星西北尺所。麟德曆在張二度,直軒轅大星。上下相距七百五十年,考其行度,猶未甚盈縮,則哀、平後不復每歲漸差也。又上百二十年,至孝景中元三年五月,星在東井、鉞。麟德曆在參三度。又上六十年,得漢元年十月,五星聚于東井,從歲星也,於秦正歲在乙未,夏正當在甲午。麟德曆白露八日,歲星留觜觿一度。明年立夏,伏于參。由差行未盡,而以常數求之使然也。又上二百七十一年,至哀公十七年,歲在鶉火,麟德曆初見在輿鬼二度。立冬九日,留星三度。明年啟蟄十日退至柳五度,猶不及鶉火。又上百七十八年,至僖公五年,歲星當在大火。麟德曆初見在張八度,明年伏于翼十六度,定在鶉火,差三次矣。哀公以後,差行漸遲,相去猶近;哀公以前,率常行遲。而舊曆猶用急率,不知合變,故所差彌多。武王革命,歲星亦在大火,而麟德曆在東壁三度,則唐、虞已上,所差周天矣。

太初暦・三統暦は歳星十二周天にして一次を超え、商・周の間の事を推すに、大抵皆合す。開元の注記を験すれば、九十余度を差し、蓋し歳星の後率を知らざる故なり。皇極暦・麟徳暦は七周天にして一次を超え、以て漢・魏の間の事を推すも未だ差せず。上りて春秋の載する所を験すれば、亦た九十余度を差し、蓋し歳星の前率を知らざる故なり。天保暦・天和暦は二率の中を得、故に上は春秋に合し、下は猶ほ記注に密なり。以て永平・黄初の間の事を推すに、遠き者は或は三十余度を差し、蓋し戦国後の歳星変行を知らざる故なり。漢の元始四年より、開元十二年を距てるまで、凡そ十二甲子、上りて隠公六年を距つるも、亦た十二甲子なり。而して二暦は其中に相合し、或は古に於て三次を差し、或は今に於て三次を差す。其の古今に両合する者は、中間も亦た乖けり。一術を以て之を求めんと欲すれば、則ち得べからず。

原文太初、三統曆歲星十二周天超一次,推商、周間事,大抵皆合。驗開元注記,差九十餘度,蓋不知歲星後率故也。皇極、麟德曆七周天超一次,以推漢、魏間事尚未差。上驗春秋所載,亦差九十餘度,蓋不知歲星前率故也。天保、天和曆得二率之中,故上合於春秋,下猶密於記注。以推永平、黃初間事,遠者或差三十餘度,蓋不知戰國後歲星變行故也。自漢元始四年,距開元十二年,凡十二甲子,上距隱公六年,亦十二甲子。而二曆相合於其中,或差三次於古,或差三次於今,其兩合於古今者,中間亦乖。欲一術以求之,則不可得也。

開元暦の歳星前率は、三百九十八日、余二千二百一十九、秒九十三。哀公二十年丙寅より後、毎に度余一分を加へ、四百三十九合を尽くし、次合に乃ち秒十三を加へて止む。凡そ三百九十八日、余二千六百五十九、秒六にして日と合す。是れ歳星の後率なり。此より因りて以て常と為し、漢の元始六年に入る。

原文開元曆歲星前率,三百九十八日,餘二千二百一十九,秒九十三。自哀公二十年丙寅後,每加度餘一分,盡四百三十九合,次合乃加秒十三而止,凡三百九十八日,餘二千六百五十九,秒六,而與日合,是為歲星後率。自此因以為常,入漢元始六年也。

歳星差合の術に曰く、哀公二十年の冬至合余を置き、差已来の中積分を加へ、前率を以て之を約し、差合数に入るを為す。尽きざる者は暦術の如く之に入れ、反りて冬至後の合日を求め、乃ち副列に差合数を置き、下位一算を増し、乗じて半にし、大衍通法に盈てば日と為し、尽きざれば日余と為し、以て合日に加へれば、即ち差合の所在なり。歳星差行の径術を求むるには、後終率を以て上元以来の中積分を約し、亦た求むる所を得。若し其の実行を稽ふるには、当に元始六年より差を置きて之を歩み、則ち前後相距ること、髪を容るる間も無く、而上元の首には、忽微の空積無からん。

原文歲星差合術曰:置哀公二十年冬至合餘,加入差已來中積分,以前率約之,為入差合數。不盡者如曆術入之,反求冬至後合日,乃副列入差合數,增下位一算,乘而半之,盈大衍通法為日,不盡為日餘,以加合日,即差合所在也。求歲星差行徑術,以後終率約上元以來中積分,亦得所求。若稽其實行,當從元始六年置差步之,則前後相距,間不容髮,而上元之首,無忽微空積矣。

成湯が桀を伐ちし時、歳は壬戌に在り、開元暦によれば星は日と角に合し、氐十度に次ぎて後退行す。其の明年、湯始めて国を建て元祀と為す。順行して日と房に合す。是れ商人の命を紀する所以なり。

原文成湯伐桀,歲在壬戌,開元曆星與日合于角,次于氐十度而後退行。其明年,湯始建國為元祀,順行與日合于房,所以紀商人之命也。

後六百一算を経て紂の六祀に至る。周の文王初めて畢にて禴す。十三祀、歳は己卯に在り、星は鶉火に在り、武王位を嗣ぐ。商を克つ年、進みて輿鬼に及び、而して退きて東井を守る。明年、周始めて革命し、順行して日と柳に合し、進みて張に留まる。其の分野を考ふれば、則ち分陝の間、三監の封域の際なり。

原文後六百一算至紂六祀,周文王初禴于畢,十三祀歲在己卯,星在鶉火,武王嗣位。克商之年,進及輿鬼,而退守東井。明年,周始革命,順行與日合于柳,進留于張。考其分野,則分陝之間,與三監封域之際也。

成王三年、歳は丙午に在り、星は大火に在り、唐叔始めて封ぜらる。故に国語に曰く「晋の始封、歳は大火に在り」と。春秋伝に僖公五年、歳は大火に在り、晋の公子重耳、蒲より狄に奔る。十六年、歳は寿星に在り、斉に適し衛を過ぐ。野人塊を之に与ふ。子犯曰く「天の賜なり。天事は必ず象る。歳鶉火に及ばば必ず此れ有らん乎。寿星に復すれば、必ず諸侯を獲ん」と。二十三年、歳星は胃・昴に在り。秦伯晋の文公を納る。董因曰く「歳は大梁に在り、将に天行を集めんとす。元年、実沈の星、晋人の是に居る所なり。君の行くや、歳は大火に在り、閼伯の星なり、是を大辰と謂ふ。辰は以て善く成し、后稷是に相ひ、唐叔以て封ぜらる。且つ辰を以て出で而して参を以て入る、皆晋の祥なり」と。二十七年、歳は鶉火に在り、晋侯衛を伐ち五鹿を取り、城濮にて楚師を敗り、始めて諸侯を獲る。歳恰も寿星に及び、皆開元暦に合す。

原文成王三年,歲在丙午,星在大火,唐叔始封,故國語曰:「晉之始封,歲在大火。」春秋傳僖公五年,歲在大火,晉公子重耳自蒲奔狄。十六年,歲在壽星,適齊過衞,野人與之塊,子犯曰:「天賜也,天事必象,歲及鶉火必有此乎!復于壽星,必獲諸侯。」二十三年,歲星在胃、昴。秦伯納晉文公。董因曰:「歲在大梁,將集天行。元年,實沈之星,晉人是居。君之行也,歲在大火,閼伯之星也,是謂大辰。辰以善成,后稷是相,唐叔以封。且以辰出而以參入,皆晉祥也。」二十七年,歲在鶉火,晉侯伐衞,取五鹿,敗楚師于城濮,始獲諸侯。歲適及壽星,皆與開元曆合。

襄公十八年、歳星は陬訾の口に在り。開元暦によれば大寒三日、星は日と合し危三度に在り、遂に順行して営室八度に至る。其の明年、鄭の子蟜卒す。将に葬らんとす。公孫子羽と裨竈、晨に会して事をす。伯有氏を過ぐ。其の門上に莠生ふ。子羽曰く「其の莠猶ほ在るか。是に於て歳は降婁中に在りて曙る」と。裨竈之を指して曰く「猶ほ以て歳を終ふべし。歳は此の次に及ばず」と。開元暦によれば、歳星は奎に在り。奎は降婁なり。麟徳暦によれば、危に在り。危は玄枵なり。二十八年春、冰無し。梓慎曰く「歳は星紀に在り、而して玄枵に淫す」と。裨竈曰く「歳其の次を棄て、而して明年の次に旅し、以て鳥帑を害す。周・楚之を悪む」と。開元暦によれば、歳星は南斗十七度に至り、而して退きて西建の間を守り、復た順行し、日と牛初に合す。応に星紀に在るべしに、盈行進みて虚宿に及び、故に「淫す」と曰ふ。玄枵に二年留まり、三十年に至る。開元暦によれば、歳星順行して営室十度に至り留まる。子蟜の卒を距つること一終なり。其の年八月、鄭人良霄を殺す。故に「其の亡ぶに及びて、歳は陬訾の口に在り」と曰ふ。其の明年、乃ち降婁に及ぶ。

原文襄公十八年,歲星在陬訾之口,開元曆大寒三日,星與日合,在危三度,遂順行至營室八度。其明年,鄭子蟜卒。將葬,公孫子羽與裨竈晨會事焉,過伯有氏,其門上生莠,子羽曰:「其莠猶在乎,於是歲在降婁中而曙。」裨竈指之曰:「猶可以終歲,歲不及此次也。」開元曆,歲星在奎。奎,降婁也。麟德曆,在危。危,玄枵也。二十八年春,無冰。梓慎曰:「歲在星紀,而淫於玄枵。」裨竈曰:「歲棄其次,而旅於明年之次,以害鳥帑。周、楚惡之。」開元曆,歲星至南斗十七度,而退守西建間,復順行,與日合于牛初。應在星紀,而盈行進及虛宿,故曰「淫」。留玄枵二年,至三十年。開元曆,歲星順行至營室十度,留。距子蟜之卒一終矣。其年八月,鄭人殺良霄,故曰「及其亡也,歲在陬訾之口」。其明年,乃及降婁。

昭公八年十一月、楚が陳を滅ぼす。史趙曰く、「未だならず。陳は顓頊の族なり。歳は鶉火に在り、是を以て卒に滅ぶ。今は析木の津に在り、猶ほ復た由らんとす」と。開元暦に、箕八度に在り、析木の津なり。十年春、進みて婺女の初に及び、玄枵の維首に在り。伝に曰く、「正月、星婺女に出づ」と。裨竈曰く、「今茲の歳は顓頊の墟に在り」と。是の歳、日と危に合す。其の明年、進みて營室に及び、復た豕韋の次を得たり。景王、萇弘に問ひて曰く、「今茲諸侯何れか実に吉ならん、何れか実に凶ならん」と。対へて曰く、「蔡凶なり。此れ蔡侯般其の君を殺せるの歳、歳は豕韋に在り、此を過ぎず、楚将に之を有たん。歳大梁に及びて、蔡復た楚凶ならん」と。十三年に至り、歳星昴・畢に在り、而して楚霊王を弑し、陳・蔡復た封ぜらる。初め、昭公九年、陳災有り。裨竈曰く、「後五年、陳将に復た封ぜられん。歳五たび鶉火に及び、而して後陳卒に亡ぶ」と。陳災より五年、而して歳大梁に在り、陳復た国を建つ。哀公十七年、五たび鶉火に及び、而して楚陳を滅ぼす。是の年、歳星日と張六度に合す。昭公三十一年夏、吳越を伐つ。始めて師を越に用ゐるなり、史墨曰く、「越歳を得て吳之を伐つ、必ず其の凶を受くべし」と。是の歳、星日と南斗三度に合す。昔、僖公六年、歳陰卯に在り、星析木に在り。昭公三十二年、亦た歳陰卯に在り、而して星星紀に在り。故に三統暦因りて以て超次の率と為す。其の実を考ふるに、猶ほ百二十餘年なり。近代諸暦、八十四年を以て之を斉せんと欲す、此れ其の惑ふ所なり。後三十八年にして越吳を滅ぼす、星三たび斗・牛に及び、已に差合二年に入れり。

原文昭公八年十一月,楚滅陳。史趙曰:「未也。陳,顓頊之族也。歲在鶉火,是以卒滅。今在析木之津,猶將復由。」開元曆,在箕八度,析木津也。十年春,進及婺女初,在玄枵之維首。傳曰:「正月,有星出于婺女。」裨竈曰:「今茲歲在顓頊之墟。」是歲與日合于危。其明年進及營室,復得豕韋之次。景王問萇弘曰:「今茲諸侯何實吉?何實凶?」對曰:「蔡凶。此蔡侯般殺其君之歲,歲在豕韋,弗過此矣,楚將有之。歲及大梁,蔡復楚凶。」至十三年,歲星在昴、畢,而楚弒靈王,陳、蔡復封。初,昭公九年,陳災。裨竈曰:「後五年,陳將復封。歲五及鶉火,而後陳卒亡。」自陳災五年,而歲在大梁,陳復建國。哀公十七年,五及鶉火,而楚滅陳。是年,歲星與日合在張六度。昭公三十一年夏,吳伐越。始用師於越也,史墨曰:「越得歲而吳伐之,必受其凶。」是歲,星與日合于南斗三度。昔僖公六年,歲陰在卯,星在析木。昭公三十二年,亦歲陰在卯,而星在星紀。故三統曆因以為超次之率。考其實,猶百二十餘年。近代諸曆,欲以八十四年齊之,此其所惑也。後三十八年而越滅吳,星三及斗、牛,已入差合二年矣。

夫れ五事中に感ずれば、而して五行の祥下に応じ、五緯の変上に彰る。声発して響和し、形動いて影随ふが若し、故に王者典刑の正を失へば、則ち星辰之が為に乱行し、彝倫の敍を汨せば、則ち天事之が為に象無し。其の乱行・象無きに当たり、又た暦紀を以て之を斉すべけんや。故に襄公二十八年、歳星紀に在りて、玄枵に淫す。三十年八月に至りて、始めて陬訾の口に及び、次を超えて前に進み、二年之を守る。

原文夫五事感於中,而五行之祥應于下,五緯之變彰于上。若聲發而響和,形動而影隨,故王者失典刑之正,則星辰為之亂行;汨彝倫之敍,則天事為之無象。當其亂行、無象,又可以曆紀齊乎?故襄公二十八年,歲在星紀,淫于玄枵。至三十年八月,始及陬訾之口,超次而前,二年守之。

漢の元鼎中、太白天苑に入り、行を失ひ、黄道の南三十餘度に在り。間歳、武帝北巡守し、単于臺に登り、兵を勒して十八萬騎、及び大宛を誅し、馬大いに軍中に死す。

原文漢元鼎中,太白入于天苑,失行,在黃道南三十餘度。間歲,武帝北巡守,登單于臺,勒兵十八萬騎,及誅大宛,馬大死軍中。

晉の咸寧四年九月、太白見るべくして見えず、占ひて曰く、「是れ失舎と謂ふ、破軍有らざれば、必ず亡国有らん」と。時に呉を伐たんとし、明年三月、兵出づ、太白始めて夕に西方に見え、而して呉亡ぶ。

原文晉咸寧四年九月,太白當見不見,占曰:「是謂失舍,不有破軍,必有亡國。」時將伐吳,明年三月,兵出,太白始夕見西方,而吳亡。

永寧元年、正月より閏月に至るまで、五星天を経め、縦横常無し。永興二年四月丙子、太白狼星を犯し、行を失ひ、黄道の南四十餘度に在り。永嘉三年正月庚子、熒惑紫微を犯す。皆天変の未だ有らざる所なり、終に二帝塵を蒙り、天下大乱す。

原文永寧元年,正月至閏月,五星經天,縱橫無常。永興二年四月丙子,太白犯狼星,失行,在黃道南四十餘度。永嘉三年正月庚子,熒惑犯紫微。皆天變所未有也,終以二帝蒙塵,天下大亂。

後魏の神瑞二年十二月、熒惑瓠瓜星の中に在り、一夕忽ち亡せ、知る所在無し。崔浩日辰を以て之を推し、曰く、「庚午の夕、辛未の朝、天に陰雲有り、熒惑の亡するは、此の二日に在り。庚午未皆秦を主り、辛は西夷なり。今姚興咸陽に拠る、是れ熒惑秦に入るなり」と。其の後熒惑果たして東井に出で、留まり守り盤旋し、秦中大旱して赤地と成り、昆明水竭く。明年、姚興死に、二子兵を交ふ。三年、国滅ぶ。

原文後魏神瑞二年十二月,熒惑在瓠瓜星中,一夕忽亡,不知所在。崔浩以日辰推之,曰:「庚午之夕,辛未之朝,天有陰雲,熒惑之亡,在此二日。庚午未皆主秦,辛為西夷。今姚興據咸陽,是熒惑入秦矣。」其後熒惑果出東井,留守盤旋,秦中大旱赤地,昆明水竭。明年,姚興死,二子交兵。三年,國滅。

齊の永明九年八月十四日、火星応に退くべく昴三度に在るに、先づ畢に歴り在り、二十一日始めて逆行し、北に転じ、立冬に垂れ及び、形色弥く盛ん。魏の永平四年八月癸未、熒惑氐に在り、夕に西方に伏し、亦た先期五十餘日、時に暦疎闊と雖も、此の若くあるべからず。

原文齊永明九年八月十四日,火星應退在昴三度,先歷在畢;二十一日始逆行,北轉,垂及立冬,形色彌盛。魏永平四年八月癸未,熒惑在氐,夕伏西方,亦先期五十餘日,雖時曆疎闊,不宜若此。

隋の大業九年五月丁丑、熒惑逆行して南斗に入り、色赤くして血の如く、大さ三斗の器の如く、光芒震耀し、長さ七八尺、斗の中に在りて句巳して行く、亦た天変の未だ有らざる所なり。後楊玄感反し、天下大乱す。

原文隋大業九年五月丁丑,熒惑逆行入南斗,色赤如血,大如三斗器,光芒震耀,長七八尺,於斗中句巳而行,亦天變所未有也。後楊玄感反,天下大亂。

故に五星留逆伏見の効、表裏盈縮の行は、皆時に係り、而して政に之を象る。政小しく失すれば則ち小変し、事微なれば而して象微なり、事章なれば而して象章なり。已に吉凶の象を示して、則ち又た行を変じ、其の常度を襲ふ。然らずんば、則ち皇天何を以てか陰に下民を騭し、人主を警悟せん。

原文故五星留逆伏見之効,表裏盈縮之行,皆係之於時,而象之於政。政小失則小變,事微而象微,事章而象章。已示吉凶之象,則又變行,襲其常度。不然,則皇天何以陰騭下民,警悟人主哉!

近代の算者は象に昧く、占者は数に迷ひ、五星の失行を覩て、皆之を暦の舛なりと謂ふ。七曜軌を循ふと雖も、猶ほ或は之を天災と謂ふ。終に数象相蒙りて、両つながら其の実を喪ふ。故に暦を較ぶるには必ず古今の注記を稽へ、気に入り均にして行度斉しく、上下相ひ距り、反復相ひ求む。苟くも常に独り異なれば、則ち失行知るべし。

原文近代算者昧於象,占者迷於數,覩五星失行,皆謂之曆舛。雖七曜循軌,猶或謂之天災。終以數象相蒙,兩喪其實。故較曆必稽古今注記,入氣均而行度齊,上下相距,反復相求。苟獨異於常,則失行可知矣。

凡そ二星相近きは、多く之が為に失行す。三星以上は、度を失ふこと弥だ甚し。天竺暦は九執の情を以てす、皆好悪有り。其の好む所の星に遇へば、則ち之に趣くは行疾く、之を捨つるは行遅し。

原文凡二星相近,多為之失行。三星以上,失度彌甚。天竺曆以九執之情,皆有所好惡。遇其所好之星,則趣之行疾,捨之行遲。

張子信の暦に辰星応に見るべくして見えざるの術、晨夕日前後四十六度内、十八度外に、木・火・土・金の一星有る者は見え、無ければ則ち見えず。張冑玄の暦、朔望交限に在り、星伏して日下に在り、木・土見を去ること十日外、火見を去ること四十日外、金見を去ること二十二日外なる者は、並びに加減差を加へず、皆精気相感して然らしむ。

原文張子信曆辰星應見不見術,晨夕去日前後四十六度內,十八度外,有木、火、土、金一星者見,無則不見。張冑玄曆,朔望在交限,有星伏在日下,木、土去見十日外,火去見四十日外,金去見二十二日外者,並不加減差,皆精氣相感使然。

夫れ日月の以て尊卑不易の象を著はす所以、五星の以て政教時に従ふの義を示す所以なり。故に日月の失行は、微にして少く、五星の失行は、著しくして多し。今略かに常数を考へ、以て疎密を課す。

原文夫日月所以著尊卑不易之象,五星所以示政教從時之義。故日月之失行也,微而少;五星之失行也,著而多。今略考常數,以課疎密。

略例に曰く、其の気に入り加減するは、亦た張子信に始まり、後人之を用ふるを遵はざる莫し。原始要終、多く叶はざる有り。今麟徳暦を較ぶるに、熒惑・太白の見伏行度過不及、熒惑凡そ四十八事、太白二十一事。餘星の差する所は、蓋し細くして考ふるに足らず。且つ盈縮の行は、宜しく四象と潜かに合すべく、而して二十四気の加減均しからず。更に易数を推して之を正し、又た各歳差を立て、以て五精の運周二十八舍の変を究む。史官の記する所を較ぶるに、歳星二十七事、熒惑二十八事、鎮星二十一事、太白二十二事、辰星二十四事、開元暦課皆第一と云ふ。

原文略例曰:其入氣加減,亦自張子信始,後人莫不遵用之。原始要終,多有不叶。今較麟德曆,熒惑、太白見伏行度過與不及,熒惑凡四十八事,太白二十一事。餘星所差,蓋細不足考。且盈縮之行,宜與四象潛合,而二十四氣加減不均。更推易數而正之,又各立歲差,以究五精運周二十八舍之變。較史官所記,歲星二十七事,熒惑二十八事,鎮星二十一事,太白二十二事,辰星二十四事,開元曆課皆第一云。

肅宗の時に至り、山人韓穎上言して大衍暦或は誤るとす。帝之を疑ひ、穎を以て太子宮門郎と為し、司天臺に直す。又た其の術を損益し、毎節二日を増し、更に名けて至徳暦と為し、乾元元年を起として之を用ゐ、上元三年に訖る。

原文至肅宗時,山人韓穎上言大衍曆或誤。帝疑之,以穎為太子宮門郎,直司天臺。又損益其術,每節增二日,更名至德曆,起乾元元年用之,訖上元三年。