新五代史

原文新五代史

巻第六十六

原文卷66

馬殷(子に希聲・希範・希廣あり)

原文馬殷子希聲 希範 希廣

馬殷、字あざなは霸圖、許州きょしゅう鄢陵の人なり。唐中和三年、蔡州さいしゅうの秦宗権が孫儒・劉建峯に兵一万を将としてその弟宗衡に属せしめ、淮南の地を略せしむ。殷は初め孫儒の裨将ひしょうたり。宗衡ら揚州において楊行密を攻むるも、克たず。梁の兵、力を急にして宗権を攻む。宗権、数たび儒らを召す。儒は還るを欲せず、宗衡しきりに之を促す。儒怒りて宗衡を殺し、自らその兵を将いて高郵を取り、遂に行密を逐う。行密、宣州に拠る。儒、兵を以て之を囲むこと久しく克たず、殷と建峯を遣わし旁県に食を掠めしむ。儒、戦いに敗れて死す。殷ら帰する所なく、乃ち建峯を推して帥とし、殷を先鋒とし、転じて豫章を攻め、虔・吉を略し、数万の衆あり。乾寧元年、湖南に入り、醴陵に次ぐ。潭州刺史鄧処訥、邵州の兵を発して龍回関を戍らしむ。建峯ら関に至り、その戍将蔣勛を降す。建峯、勛の鎧甲を取って先鋒兵に被せ、その旗幟を張り、直ちに潭州に趨る。東門に至る。東門の守者は関兵の戍より還るものと思い、門を開きて之を内す。遂に処訥を殺し、建峯自ら留後を称す。僖宗、建峯に湖南節度使を授け、殷を馬歩軍都指揮使とす。蔣勛、邵州刺史を求むるも、建峯与えず。勛、兵を率いて湘郷を攻む。建峯、殷を遣わし邵州において勛を撃たしむ。

原文馬殷字霸圖,許州鄢陵人也。唐中和三年,蔡州秦宗權遣孫儒、劉建峯將兵萬人屬其弟宗衡,略地淮南,殷初為儒裨將。宗衡等攻楊行密於楊州,未克,梁兵力急攻宗權,宗權數召儒等,儒不欲還,宗衡屢趨之,儒怒,殺宗衡,自將其兵取高郵,遂逐行密。行密據宣州,儒以兵圍之,久不克,遣殷與建峯掠食旁縣。儒戰敗死,殷等無所歸,乃推建峯為帥,殷為先鋒,轉攻豫章,略虔、吉,有眾數萬。乾寧元年,入湖南,次醴陵。潭州刺史鄧處訥發邵州兵戍龍回關,建峯等至關,降其戍將蔣勛。建峯取勛鎧甲被先鋒兵,張其旗幟,直趨潭州,至東門,東門守者以為關兵戍還,開門內之,遂殺處訥,建峯自稱留後。僖宗授建峯湖南節度使、殷為馬步軍都指揮使。蔣勛求為邵州刺史,建峯不與,勛率兵攻湘鄉,建峯遣殷擊勛於邵州。

建峯は庸人にして、その下を帥いること能わず、常に部曲ぶきょくと酒を飲みて讙呼す。軍卒陳贍の妻に色あり、建峯之を私す。贍怒り、鉄檛を以て建峯を撃ち殺す。軍中、行軍司馬張佶を推して帥とす。佶、将に府に入らんとするに、乗馬すなわち踶囓し、佶の髀を傷つく。佶臥病し、諸将に語りて曰く、「吾は汝が主に非ず。馬公英勇なり、共に之を立てるべし」と。諸将乃ち共に贍を殺し、その尸を磔き、姚彦章を遣わし邵州において殷を迎えしむ。殷至る。佶、肩輿に乗じて府に入り、殷は廷中に拝謁す。佶、殷を召して上らしめ、乃ち将吏を率いて下り、北面して再拝し、位を以て之に与う。時に乾寧三年なり。

原文建峯庸人,不能帥其下,常與部曲飲酒讙呼。軍卒陳贍妻有色,建峯私之,贍怒,以鐵檛擊殺建峯。軍中推行軍司馬張佶為帥,佶將入府,乘馬輒踶囓,傷佶髀。佶臥病,語諸將曰:「吾非汝主也,馬公英勇,可共立之。」諸將乃共殺贍,磔其尸,遣姚彥章迎殷於邵州。殷至,佶乘肩輿入府,殷拜謁於廷中,佶召殷上,乃率將吏下,北面再拜,以位與之,時乾寧三年也。

唐、殷に潭州刺史を拝す。殷、その将秦彦暉・李瓊らを遣わし連・邵・郴・衡・道・永の六州を攻め、皆之を下す。桂管の劉士政懼れ、その将陳可璠・王建武らを遣わし兵を率いて全義嶺を守らしむ。殷、使者を遣わし士政に聘す。使者境上に至るも、可璠ら納れず。殷怒り、瓊らを遣わし兵七千を以て之を攻め、可璠ら及びその兵二千余人を擒え、悉く之を坑い、遂に桂管を囲み、士政を虜とし、その属州を尽く取る。殷、瓊を表して桂管観察使とす。四年、殷に武安軍節度使を拝す。

原文唐拜殷潭州刺史。殷遣其將秦彥暉、李瓊等攻連、邵、郴、衡、道、永六州,皆下之。桂管劉士政懼,遣其將陳可璠、王建武等率兵守全義嶺。殷遣使聘于士政,使者至境上,可璠等不納。殷怒,遣瓊等以兵七千攻之,擒可璠等及其兵二千餘人,悉坑之,遂圍桂管,虜士政,盡取其屬州。殷表瓊桂管觀察使。四年,拜殷武安軍節度使。

初め、孫儒宣州に敗る。殷の弟賨、楊行密に執えらる。行密、儒の余兵を収めて「黒雲都」と為し、賨を以て指揮使とす。賨、行密に従い攻戦し、数たび功あり。人となり質重にして、未だ嘗て自ら矜ることなく、行密之を愛す。行密、賨に誰が家の子なるかを問う。賨曰く、「馬殷の弟なり」と。行密大いに驚きて曰く、「汝の兄貴し。吾今汝を帰すは可なるか」と。賨対えず。他日また之を問う。賨謝して曰く、「臣は孫儒の敗卒なり。幸いに公、不死を以て待たる。身を殺すに非ざれば報いるに足らず。湖南は隣境にて、朝夕殷の動静を聞くは足れり。去るを願わず」と。行密歎じて曰く、「昔吾は子の貌を愛し、今吾は子の心を得たり。然れども勉めて吾が為に二国の歓を合わし、商賈を通じ、有無を易えて以て相資くるは、亦吾を報いる所以なり」と。乃ち厚礼を以て賨を帰し遣わす。殷大いに喜び、賨を表して節度副使とす。

原文初,孫儒敗於宣州,殷弟賨為楊行密所執,行密收儒餘兵為「黑雲都」,以賨為指揮使。賨從行密攻戰,數有功,為人質重,未嘗自矜,行密愛之,問賨誰家子,賨曰:「馬殷弟也。」行密大驚曰:「汝兄貴矣,吾今歸汝可乎?」賨不對。他日又問之,賨謝曰:「臣,孫儒敗卒也,幸公待以不死,非殺身不足報。湖南隣境,朝夕聞殷動靜足矣,不願去也。」行密歎曰:「昔吾愛子之貌,今吾得子之心矣。然勉為吾合二國之懽,通商賈、易有無以相資,亦所以報我也!」乃厚禮遣賨歸。殷大喜,表賨節度副使。

行密、将劉存らを遣わし杜洪を攻め、鄂州を囲む。殷、秦彦暉・許徳勲を遣わし舟兵を以て之を救わしむ。已にして杜洪敗死す。存ら遂に殷を攻む。殷、彦暉を遣わし上流において拒がしめ、偏将黄璠、舟三百を以て瀏陽口に伏す。存ら屡戦して勝たず、乃ち書を殷に致して和を求めんとす。殷之を許さんと欲す。彦暉曰く、「淮人は詐り多し。将に我が師を怠らんとす。信ずべからず」と。急ぎ之を撃つ。存ら退走す。黄璠、瀏陽の舟を以て江を截ち合撃し、大いに之を敗る。劉存及び陳知新戦死す。彦暉、岳州を取る。

原文行密遣將劉存等攻杜洪,圍鄂州,殷遣秦彥暉、許德勳以舟兵救之,已而杜洪敗死,存等遂攻殷。殷遣彥暉拒於上流,偏將黃璠以舟三百伏瀏陽口。存等屢戰不勝,乃致書於殷以求和,殷欲許之,彥暉曰:「淮人多詐,將怠我師,不可信。」急擊之,存等退走,黃璠以瀏陽舟截江合擊,大敗之,劉存及陳知新戰死,彥暉取岳州。

梁の太祖即位す。殷、使者を遣わし貢を脩む。太祖、殷に侍中兼中書令を拝し、楚そ王に封ず。

原文梁太祖即位,殷遣使脩貢,太祖拜殷侍中兼中書令,封楚王。

荊南けいなんの高季昌、兵を以て漢口を断ち、殷の貢使を邀う。殷、許徳勲を遣わしその沙頭を攻む。季昌和を求め、乃ち止む。楊行密の袁州刺史呂師周来奔す。師周は勇健豪侠にして、頗る緯候・兵書に通じ、自ら五世将家なりと言い、免れ難きを懼れ、常に酒徒と聚飲し、酔えば則ち起舞し、悲歌慷慨して泣下す。行密之を聞き、その異志あるを疑い、人をしてその動静を察せしむ。師周益々懼れ、その裨将綦毋章に謂いて曰く、「吾は楚人と敵境たり。吾常にその営上の雲気甚だ佳きを望む。未だ易く敗れ難し。吾聞く、馬公は仁者にして、士を待つに礼ありと。吾、死を楚に逃れんと欲するは可なるか」と。章曰く、「公自ら之を図れ。章が舌は断たるべし、語は泄らさじ」と。師周、兵を以て境上に猟し、乃ち楚に奔る。綦毋章、その家属を縦して之に随わしむ。殷、師周の至るを聞き、大いに喜びて曰く、「吾方に南に嶺表を図らんとす。而して此人を得るは足れり」と。之を以て馬歩軍都指揮使とし、兵を率いて嶺南を攻め、昭・賀・梧・蒙・龔・富等の州を取る。殷、師周を表して昭州刺史とす。

原文荊南高季昌以兵斷漢口,邀殷貢使,殷遣許德勳攻其沙頭,季昌求和,乃止。楊行密袁州刺史呂師周來奔。師周,勇健豪俠,頗通緯候、兵書,自言五世將家,懼不能免,常與酒徒聚飲,醉則起舞,悲歌慷慨泣下。行密聞之,疑其有異志,使人察其動靜。師周益懼,謂其裨將綦毋章曰:「吾與楚人為敵境,吾常望其營上雲氣甚佳,未易敗也。吾聞馬公仁者,待士有禮,吾欲逃死於楚可乎?」章曰:「公自圖之,章舌可斷,語不泄也。」師周以兵獵境上,乃奔於楚,綦毋章縱其家屬隨之。殷聞師周至,大喜曰:「吾方南圖嶺表,而得此人足矣。」以為馬步軍都指揮使,率兵攻嶺南,取昭、賀、梧、蒙、龔、富等州。殷表師周昭州刺史。

朗州の雷彦恭、呉ご人を召して平江を攻む。許徳勲之を撃ち敗る。殷、秦彦暉を遣わし朗州を攻む。彦恭、呉に奔る。その弟彦雄等七人を執えて梁に送る。ここに於いて澧州の向瓌・辰州の宋鄴・漵州の昌師益等、溪洞の諸蛮を率いて皆殷に附く。殷、朗州を升めて永順軍と為すことを請い、張佶を表して節度使とす。殷乃ち唐太宗の故事に依らんことを請い、天冊府を開き、官属を置く。太祖、殷に天冊上将軍を拝す。殷、その弟賨を以て左相とし、存を右相とし、廖光図等十八人を学士とす。末帝の時、殷に武昌・静江・寧遠等軍節度使、洪・鄂四面行営都統を加う。

原文朗州雷彥恭召吳人攻平江,許德勳擊敗之。殷遣秦彥暉攻朗州,彥恭奔於吳,執其弟彥雄等七人送于梁。於是澧州向瓌、辰州宋鄴、漵州昌師益等率溪洞諸蠻皆附于殷。殷請升朗州為永順軍,表張佶節度使。殷乃請依唐太宗故事,開天冊府,置官屬。太祖拜殷天冊上將軍,殷以其弟賨為左相,存為右相,廖光圖等十八人為學士。末帝時,加殷武昌、靜江、寧遠等軍節度使,洪、鄂四面行營都統。

唐の荘宗、梁を滅ぼす。殷、その子希範を遣わし京師に貢を脩めしめ、梁の授くる所の都統印を上る。荘宗、洞庭の広狭を問う。希範対えて曰く、「車駕南巡せば、纔かに馬を飲むに堪うるのみ」と。荘宗之を嘉す。荘宗、蜀しょくを平らぐ。殷大いに懼れ、表して致仕を求む。荘宗、璽書を下して之を慰労す。明宗即位す。使者を遣わし貢を脩め、并せて明年正月を賀す。荘南の高季昌、その貢使史光憲を執う。殷、袁詮・王環等を遣わし之を攻む。その城下に至る。季昌和を求め、乃ち止む。

原文唐莊宗滅梁,殷遣其子希範脩貢京師,上梁所授都統印,莊宗問洞庭廣狹,希範對曰:「車駕南巡,才堪飲馬爾。」莊宗嘉之。莊宗平蜀,殷大懼,表求致仕,莊宗下璽書慰勞之。明宗即位,遣使脩貢,并賀明年正月,荊南高季昌執其貢使史光憲。殷遣袁詮、王環等攻之,至其城下,季昌求和,乃止。

殷、初め兵力尚寡く、楊行密・成汭・劉龑等と敵国たり。殷之を患え、その将高郁に策を問う。郁曰く、「成汭は地狭く兵寡く、吾が患いと為すに足らず。而して劉龑の志は五管に在るのみ。楊行密は孫儒の仇なり。万金を以て之に交わるも、その歓心を得ること能わじ。然れども王を尊び順に仗つは、霸者の業なり。今宜しく内に朝廷を奉じて封爵を求め、外に隣敵を誇り、然る後に退きて兵農を脩め、力を畜えて待つべきのみ」と。ここに於いて殷始めて京師に貢を脩む。然れども歳貢は産する所の茶茗に過ぎず。乃ち京師より襄・唐・郢・復等の州に至るまで邸務を置きて以て茶を売り、その利十倍す。郁又殷を諷して鉛鉄銭を鋳させ、十を以て銅銭一に当てしむ。又民に令して自ら茶を造りて以て商旅を通じ、その算を収む。歳入万計す。ここに由りて地大く力完く、数たび封爵を邀う。

原文殷初兵力尚寡,與楊行密、成汭、劉龑等為敵國,殷患之,問策於其將高郁,郁曰:「成汭地狹兵寡,不足為吾患,而劉龑志在五管而已,楊行密,孫儒之仇,雖以萬金交之,不能得其懽心。然尊王仗順,霸者之業也,今宜內奉朝廷以求封爵而外誇隣敵,然後退脩兵農,畜力而有待爾。」於是殷始脩貢京師,然歲貢不過所產茶茗而已。乃自京師至襄、唐、郢、復等州置邸務以賣茶,其利十倍。郁又諷殷鑄鉛鐵錢,以十當銅錢一。又令民自造茶以通商旅,而收其算,歲入萬計。由是地大力完,數邀封爵。

天成二年、行臺の設置を請う。明宗は殷を楚國王に封ぜんとし、有司は言う、國王を封ずる禮はなく、三公のごとく竹冊を用いるべきと。乃ち尚書右丞李序を遣わし、節を持たせて竹冊を以て封ず。殷は潭州を以て長沙府と為し、國を建て制を承け、自ら官屬を置く。其の弟賨を静江軍節度使と為し、子希振を武順軍節度使と為し、次子希聲に内外諸軍事を判せしめ、姚彦章を左相と為し、許德勲を右相と為し、李鐸を司徒と為し、崔穎を司空と為し、拓拔常を僕射と為し、馬珙を尚書と為し、文武皆位を進む。其の曾祖筠を文肅と謚し、祖正を莊穆と謚し、父元豊を景莊と謚し、三廟を長沙に立つ。長興元年、殷卒す、年七十九、詔して曰く「馬殷官爵俱に高し、贈るに以て為す無し、武穆と謚す」のみ。子希聲立つ。

原文天成二年,請建行臺。明宗封殷楚國王,有司言無封國王禮,請如三公用竹冊,乃遣尚書右丞李序持節以竹冊封之。殷以潭州為長沙府,建國承制,自置官屬,以其弟賨為靜江軍節度使,子希振武順軍節度使,次子希聲判內外諸軍事,姚彥章為左相,許德勳為右相,李鐸為司徒,崔穎為司空,拓拔常為僕射,馬珙為尚書,文武皆進位。謚其曾祖筠曰文肅、祖正曰莊穆、父元豐曰景莊,立三廟于長沙。長興元年,殷卒,年七十九,詔曰「馬殷官爵俱高,無以為贈,謚曰武穆」而已。子希聲立。

子 希聲

原文子 希聲

希聲は字を若訥と為し、殷の次子なり。殷國を建つるに、希聲を以て内外諸軍事を判せしむ。荊南の高季昌、殷の将高郁が素より殷に計策を教え、楚以て彊しと聞き、之を患え、嘗て諜者をして殷に行間せしむるも、殷聴かず。希聲事を用うるに及び、諜者希聲に語りて曰く「季昌、楚の高郁を用うるを聞き、大いに喜び、以て馬氏を亡ぼす者は必ず郁なりと為す」と。希聲素より愚にして、然りと為し、遽かに郁の兵職を奪う。郁怒りて曰く「吾君王に事うること久し、急ぎ西山を営み、将に老いんとす、犬子漸く大くなり、能く人を咋む」と。希聲之を聞き、殷の令を矯りて郁を殺す。殷老いて復た事を省みず、郁の死するを知らず、是の日大霧四塞す、殷之を怪しみ、左右に語りて曰く「吾嘗て孫儒に従う、儒每に不辜を殺せば、天必ず大霧す、豈に馬歩獄に冤死する者有らんや」と。明日、吏状を以て白す、殷膺を拊して大哭して曰く「吾かくの如く荒耄にして、而して吾が勲舊を殺す」と。左右を顧みて曰く「吾も亦此に久しからん」と。明年殷薨ず。

原文希聲字若訥,殷次子也。殷建國,以希聲判內外諸軍事。荊南高季昌聞殷將高郁素教殷以計策而楚以彊,患之,嘗使諜者行間於殷,殷不聽。希聲用事,諜者語希聲曰:「季昌聞楚用高郁,大喜,以為亡馬氏者必郁也。」希聲素愚,以為然,遽奪郁兵職,郁怒曰:「吾事君王久矣,亟營西山,將老焉,犬子漸大,能咋人矣!」希聲聞之,矯殷令殺郁。殷老不復省事,莫知郁死,是日大霧四塞,殷怪之,語左右曰:「吾嘗從孫儒,儒每殺不辜,天必大霧,豈馬步獄有冤死乎?」明日,吏以狀白,殷拊膺大哭曰:「吾荒耄如此,而殺吾勳舊!」顧左右曰:「吾亦不久於此矣!」明年殷薨。

希聲立つ、武安・静江等軍節度使を授かる。希聲嘗て梁太祖の鷄を好んで食するを聞き、之を慕い、乃ち日ごとに五十鷄を烹じて以て膳に供す。殷を上潢に葬るに、希聲哭泣せず、頓て鷄肉数器を食して起つ、其の禮部侍郎潘起之を譏りて曰く「昔阮籍喪に居りて蒸豚を食す、世豈に賢を乏くさんや」と。長興三年、希聲卒す、衡陽王を追封す。弟希範立つ。

原文希聲立,授武安、靜江等軍節度使。希聲嘗聞梁太祖好食鷄,慕之,乃日烹五十鷄以供膳。葬殷上潢,希聲不哭泣,頓食鷄肉數器而起,其禮部侍郎潘起譏之曰:「昔阮籍居喪而食蒸豚,世豈乏賢邪!」長興三年,希聲卒,追封衡陽王。弟希範立。

子 希範

原文子 希範

希範は字を寶規と為し、殷の第四子なり。殷子十餘人、嫡子希振長くして賢なり、其次希聲と希範同日に生まる、而して希聲の母袁夫人美色有り、希聲母の寵を以て立つことを得、而して希振官を棄てて道士と為り、家に居る。希聲卒し、而して希範次を以て立ち、殷の官爵を襲ぎ、楚王に封ぜらる。清泰二年、弓矢冠劍を以て賜う。天福四年、希範に天冊上將軍を加え、開府承制すること殷の故事の如し。

原文希範字寶規,殷第四子也。殷子十餘人,嫡子希振長而賢,其次希聲與希範同日生,而希聲母袁夫人有美色,希聲以母寵得立,而希振棄官為道士,居于家。希聲卒,而希範以次立,襲殷官爵,封楚王。清泰二年,賜以弓矢冠劍。天福四年,加希範天冊上將軍,開府承制如殷故事。

希範學を好み、詩を善くす、文士廖光圖・徐仲雅・李臯・拓拔常等十八人皆故き殷の時の學士なり、希範性奢侈にして、光圖等は皆薄徒、飲み博きて讙呼す、獨り常は沈厚なる長者、上書切に諫む、光圖等之を悪む。

原文希範好學,善詩,文士廖光圖、徐仲雅、李臯、拓拔常等十八人皆故殷時學士,希範性奢侈,光圖等皆薄徒,飲博讙呼,獨常沉厚長者,上書切諫,光圖等惡之。

襄州じょうしゅうの安從進・安州の李金全叛す、晉高祖詔して希範に出兵せしむ。希範張少敵を遣わし舟兵を以て漢陽に趨らしめ、米五萬斛こくを漕ぎて以て軍に饋る、金全等敗る、少敵乃ち旋る。

原文襄州安從進、安州李金全叛,晉高祖詔希範出兵。希範遣張少敵以舟兵趨漢陽,漕米五萬斛以饋軍,金全等敗,少敵乃旋。

溪州刺史彭士愁、錦・奬の諸蠻を率いて澧州を攻む、希範劉勍・劉全明等を遣わし歩卒五千を以て之を撃たしむ、士愁大敗す。勍等溪州を攻め、士愁奬州に走る、其の子師暠を遣わし諸蠻の酋を率いて勍に降る。溪州西は牂柯・兩林に接し、南は桂林・象郡に通ず、希範乃ち銅柱を立てて以て表と為し、學士李臯に命じて之に銘せしむ。是に於て、南寧州酋長莫彥殊其の本部十八州を率い、都雲酋長尹懷昌其の昆明等十二部を率い、牂柯張萬濬其の夷・播等七州を率いて皆希範に附く。

原文溪州刺史彭士愁率錦、奬諸蠻攻澧州,希範遣劉勍、劉全明等以步卒五千擊之,士愁大敗。勍等攻溪州,士愁走奬州,遣其子師暠率諸蠻酋降于勍。溪州西接牂柯、兩林,南通桂林、象郡,希範乃立銅柱以為表,命學士李臯銘之。於是,南寧州酋長莫彥殊率其本部十八州、都雲酋長尹懷昌率其昆明等十二部、牂柯張萬濬率其夷、播等七州皆附於希範。

希範會春園・嘉宴堂を作る、其の費鉅萬、始めて國中に賦を加う、拓拔常切に諫めて以て不可と為す。希範又九龍殿を作り、八龍を以て柱に繞らし、自ら身一龍なりと言う。是の時、契丹きったん晉を滅ぼし、中國大いに乱る、希範の牙将丁思覲廷にて希範を諫めて曰く「先王卒伍を起こし、攻戰を以て此の州を得、朝廷に倚りて以て隣敵を制し、國を傳うること三世、地数千里有り、兵十萬人を養う。今天子囚辱せられ、中國主無し、真に霸者の功を立つるの時なり。誠に能く國の兵を悉くして荊・襄を出でて以て京師に趨り、義を天下に倡えば、此れ桓・文の業なり。奈何ぞ國用を耗し土木を窮めて、兒女の樂を為さんや」と。希範之に謝す、思覲目を瞋らして希範を視て曰く「孺子終に教うべからざるなり」と。乃ち喉を扼して死す。開運四年、希範卒す、年四十九、文昭と謚す。希廣立つ。

原文希範作會春園、嘉宴堂,其費鉅萬,始加賦於國中,拓拔常切諫以為不可。希範又作九龍殿,以八龍繞柱,自言身一龍也。是時,契丹滅晉,中國大亂,希範牙將丁思覲廷諫希範曰:「先王起卒伍,以攻戰而得此州,倚朝廷以制隣敵,傳國三世,有地數千里,養兵十萬人。今天子囚辱,中國無主,真霸者立功之時。誠能悉國之兵出荊、襄以趨京師,倡義於天下,此桓、文之業也。奈何耗國用而窮土木,為兒女之樂乎?」希範謝之,思覲瞋目視希範曰:「孺子終不可教也!」乃扼喉而死。開運四年,希範卒,年四十九,謚曰文昭。希廣立。

子 希廣

原文子 希廣

希廣は字を德丕と為し、希範の同母弟なり。希範平生拓拔常の諫諍を悪む、常入り謁す、希範閽者を呼び指して常に曰く「吾此人を見ることを欲せず、復た内する勿れ」と。乃ち之を謝絶す。及臥病に及び、始めて常の言を思い、以て忠と為し、之を召して希廣を託す。希範卒し、常数え希廣をして位を以て其の兄希萼に奉ぜしめんと勸むるも、希廣従わず。

原文希廣字德丕,希範同母弟也。希範平生惡拓拔常諫諍,常入謁,希範呼閽者指常曰:「吾不欲見此人,勿復內也。」乃謝絕之。及臥病,始思常言,以為忠,召之託以希廣。希範卒,常數勸希廣以位奉其兄希萼,希廣不從。

希萼朗州節度使と為る、希範の卒するに、希萼朗州より自ら来り喪に奔る。希廣の将劉彥瑫謀りて曰く「武陵の来る、其の意善からず、宜しく兵を出して之を迎え、以て非常に備え、其の甲を解き兵を釋して而して後に入らしむべし」と。張少敵・周廷誨曰く「王能く之と與するは則ち已む、然らずんば宜しく早く之を除くべし」と。希廣泣いて曰く「吾が兄なり、焉んぞ忍びて之を殺さん、國を分けて治むるは可なり」と。乃ち兵を以て希萼を砆石に迎え、之を碧湘宮に止め、厚く賂を以て之を遣わす。希萼憤然として去り、乃ち使を遣わし京師に詣り封爵を求め、邸を置き藩を称するを請う。漢隠帝許さず、璽書を降して慰労講解す。希萼怒り、款を李景に送り、兵を挙げて長沙を攻む。希廣劉彥瑫・許可瓊等を遣わして之を禦がしむ。

原文希萼為朗州節度使,希範之卒,希萼自朗州來奔喪。希廣將劉彥瑫謀曰:「武陵之來,其意不善,宜出兵迎之,以備非常,使其解甲釋兵而後入。」張少敵、周廷誨曰:「王能與之則已,不然宜早除之。」希廣泣曰:「吾兄也,焉忍殺之,分國而治可也。」乃以兵迎希萼於砆石,止之於碧湘宮,厚賂以遣之。希萼憤然而去,乃遣使詣京師求封爵,請置邸稱藩。漢隱帝不許,降璽書慰勞講解之。希萼怒,送款於李景,舉兵攻長沙。希廣遣劉彥瑫、許可瓊等禦之。

彥瑫僕射洲にて希萼を敗る。希萼去り、溪洞の諸蠻を誘いて益陽を寇す。希廣崔珙璉を遣わし歩卒七千を以て湘鄉玉潭に屯し以て諸蠻を遏つ。劉彥瑫舟兵を以て武陵に趨り、希萼を攻む。彥瑫湄洲にて敗る、希廣大いに懼れ、使を遣わし京師に兵を請う、漢隠帝師を出す能わず。希萼舟兵江に沿いて上り、自ら「順天將軍」と号し、岳州を攻む、刺史王贇城を堅くして戰わず、希萼贇を呼びて曰く「吾昔君と同行を約す、今何の異心かある」と。贇曰く「君王兄弟相容れず、而して将吏の異心を責むるか、君王の長沙に入り、同氣を傷つけざらんことを願う、臣敢えて節を尽くさざるべからず」と。希萼兵を引いて去り、湘鄉を下し、長沙に止まり、水西に屯す。劉彥瑫・許可瓊水東に屯す。

原文彥瑫敗希萼於僕射洲。希萼去,誘溪洞諸蠻寇益陽。希廣遣崔珙璉以步卒七千屯湘鄉玉潭以遏諸蠻。劉彥瑫以舟兵趨武陵,攻希萼。彥瑫敗於湄洲,希廣大懼,遣使請兵於京師,漢隱帝不能出師。希萼舟兵沿江而上,自號「順天將軍」,攻岳州,刺史王贇堅城不戰,希萼呼贇曰:「吾昔約君同行,今何異心乎?」贇曰:「君王兄弟不相容,而責將吏異心乎?願君王入長沙,不傷同氣,臣不敢不盡節。」希萼引兵去,下湘鄉,止長沙,屯水西。劉彥瑫、許可瓊屯水東。

彭師暠、城に登り水西の軍を望み、入って希広に白して曰く、「武陵の兵は驕り、蛮蜑を交え、その勢いは破り易し。請う、可瓊等をして山前に陣せしめ、臣は歩兵三千を以て巴渓より江を渡り岳麓に趨り、夜を候いて之を撃たん」と。希広は以て可と為すも、而して可瓊は既に陰に款を希萼に送り、遂に其の議を沮む。明日、師暠、可瓊に詣りて事を計るに、瞋目して之を叱して曰く、「汝の反文の面に在るを見よ、豈に賊に投ぜんと欲するか」と。衣を拂ひて出で、急ぎ希広に白し、之を殺すを請ふ。希広聴かず。希萼、長楽門を攻む。牙将の呉宏・楊滌、門中に戦ふ。希萼少しく衄る。已にして許可瓊、希萼に奔る。宏・滌之を聞きて皆潰く。

原文彭師暠登城望水西軍,入白希廣曰:「武陵兵驕,雜以蠻蜑,其勢易破。請令可瓊等陣山前,臣以步兵三千自巴溪渡江趨岳麓,候夜擊之。」希廣以為可,而可瓊已陰送款於希萼,遂沮其議。明日,師暠詣可瓊計事,瞋目叱之曰:「視汝反文在面,豈欲投賊乎!」拂衣而出,急白希廣,請殺之,希廣不聽。希萼攻長樂門,牙將吳宏、楊滌戰于門中,希萼少衄,已而許可瓊奔于希萼,宏、滌聞之皆潰。

希広、妻子を率ひて慈堂に匿る。明日之を擒ふ。希萼之を見て惻然として曰く、「此れ鈍夫なり、豈に悪を為すこと能はんや、左右之を惑はすのみ」と。其の下を顧みて曰く、「吾之を活かさんと欲す、如何」と。其の下皆対へず、遂に之を縊死せしむ。

原文希廣率妻子匿于慈堂。明日擒之。希萼見之惻然曰:「此鈍夫也,豈能為惡?左右惑之爾。」顧其下曰:「吾欲活之,如何?」其下皆不對,遂縊死之。

乾祐三年、希萼自立す。明年、漢の隠帝崩じ、京師大乱す。希萼遂に李景に臣す。景、希萼を冊封して楚王と為し、希萼悉く軍政の事を其の弟希崇に任す。希崇、楚の旧将の徐威・陸孟俊・魯綰等と謀りて乱を作す。希萼、端陽門に酒を置く。希崇疾を以て辞す。威等、悪馬十余匹を放ち、壮士をして檛を執りて之に随ひ、突きて其の府に入り、庫兵を劫ひ、希萼を縛し、希崇を迎へて以て立つ。希崇、彭師暠・廖偃を遣はし希萼を衡山に囚ふ。師暠、希萼を奉じて衡山王と為し、李景に臣す。希崇懼れ、亦景に命を請ふ。景、辺鎬を遣はし楚に入り、馬氏の族を尽く金陵に遷す。時に周の広順元年なり。希萼を封じて楚王と為し、洪州に居らしむ。希崇は舒州節度使を領し、揚州に居る。

原文乾祐三年,希萼自立。明年,漢隱帝崩,京師大亂,希萼遂臣於李景,景冊封希萼楚王,希萼悉以軍政事任其弟希崇。希崇與楚舊將徐威、陸孟俊、魯綰等謀作亂。希萼置酒端陽門,希崇辭以疾,威等縱惡馬十餘匹,以壯士執檛隨之,突入其府,劫庫兵,縛希萼,迎希崇以立。希崇遣彭師暠、廖偃囚希萼於衡山,師暠奉希萼為衡山王,臣於李景。希崇懼,亦請命於景。景遣邊鎬入楚,盡遷馬氏之族于金陵,時周廣順元年也。封希萼楚王,居洪州;希崇領舒州節度使,居揚州。

顕徳三年、世宗淮を征し、揚州を下す。詔を下し馬氏の子孫を撫安す。已にして揚州復た景に入る。希崇其の兄弟十七人を率ひて京師に帰す。右羽林統軍に拝せられ、希能は左屯衛大将軍、希貫は右千牛衛大将軍、希隠・希濬・希知・希朗は皆節度行軍司馬と為る。

原文顯德三年,世宗征淮,下揚州,下詔撫安馬氏子孫。已而揚州復入于景,希崇率其兄弟十七人歸京師,拜右羽林統軍,希能左屯衞大將軍,希貫右千牛衞大將軍,希隱、希濬、希知、希朗皆為節度行軍司馬。

劉言

原文劉言

劉言は吉州廬陵の人なり。王進逵は武陵の人なり。言は初め刺史の彭玕に事へ、玕に従ひて楚に奔る。言は希範に事へて辰州刺史と為る。進逵は少くして静江軍の卒と為り、希萼に事へて指揮使と為る。

原文劉言,吉州廬陵人也。王進逵,武陵人也。言,初事刺史彭玕,從玕奔楚,言事希範為辰州刺史。進逵少為靜江軍卒,事希萼為指揮使。

希萼、希広を攻むるに、進逵を以て先鋒と為し、長沙を陥す。長沙乱に遭ひ残毀す。希萼、進逵をして静江兵を以て之を営緝せしむ。兵皆愁怨す。進逵因りて之を擁し、夜に長柯巨斧を以て関を斫ち、武陵に奔り帰る。希萼方に酔ひ、省る能はず。明日将の唐翥を遣はして之を追はしむ。武陵に及び、翥戦ひ大敗して還る。進逵乃ち留後の馬光恵を逐ひ出だし、言を辰州より迎へて以て帥と為し、進逵自ら副と為る。已にして希萼の将徐威等乱を作し、希萼を縛し、而して希崇を立て、湖南大乱す。李景、辺鎬を遣はし楚に入り、馬氏を金陵に遷し、因りて并せて言を召す。言従はず、進逵を行軍司馬の何景真等と遣はし長沙に於て鎬を攻む。鎬敗走す。

原文希萼攻希廣,以進逵為先鋒,陷長沙。長沙遭亂殘毀,希萼使進逵以靜江兵營緝之,兵皆愁怨,進逵因擁之,夜以長柯巨斧斫關,奔歸武陵。希萼方醉,不能省,明日遣將唐翥追之,及于武陵,翥戰大敗而還。進逵乃逐出留後馬光惠,迎言於辰州以為帥,進逵自為副。已而希萼將徐威等作亂,縛希萼,而立希崇,湖南大亂。李景遣邊鎬入楚,遷馬氏于金陵,因并召言。言不從,遣進逵與行軍司馬何景真等攻鎬於長沙,鎬敗走。

周の広順三年、言表を京師に奉り、以て封爵を邀ふ。又長沙は残破し、居る可からずと言ひ、治所を武陵に移すを請ふ。周の太祖皆之に従ひ、乃ち朗州を升して武平軍と為し、武安軍の上に在らしめ、言を以て節度使と為し、因りて武安を進逵に授く。進逵自ら言の己の迎へ立てし所を以て、其の下に為らざるを為す。言之を患ふ。二人始めて隙有り、相図らんと欲す。進逵謀りて曰く、「言の将に用ふ可き者は何景真・朱全琇のみ。召して之を殺さば、言は取る可し」と。是の時、劉晟楚の梧・桂・宜・蒙等州を取る。進逵因りて言に白し景真等を召し兵を会して晟を攻ましむ。言之を信じ、景真・全琇を遣はして往かしむ。至れば皆見殺さる。乃ち兵を挙げ武陵を襲ひ、言を執りて之を殺し、表を京師に奉る。周の太祖即ち進逵を以て武平軍節度使と為す。

原文周廣順三年,言奉表京師,以邀封爵。又言長沙殘破,不可居,請移治所於武陵。周太祖皆從之,乃升朗州為武平軍,在武安軍上,以言為節度使,因以武安授進逵,進逵自以言己所迎立,不為之下。言患之,二人始有隙,欲相圖。進逵謀曰:「言將可用者不過何景真、朱全琇爾,召而殺之,言可取也。」是時,劉晟取楚梧、桂、宜、蒙等州,進逵因白言召景真等會兵攻晟。言信之,遣景真、全琇往,至皆見殺,乃舉兵襲武陵,執言殺之,奉表京師,周太祖即以進逵為武平軍節度使。

世宗淮南を征し、進逵に南面行営都統を授く。進逵鄂州を攻む。岳州を過ぐ。岳州刺史の潘叔嗣は進逵が故時の周列にして、進逵を待すること甚だ謹み有り。進逵の左右叔嗣に就き賂を求む。叔嗣与へず。左右其の短を讒す。進逵面を罵る。叔嗣慚恨し、其の下に語りて曰く、「進逵戦勝して還らば、吾に遺類無からん」と。進逵鄂州に入り、方に長山を攻め下さんとするに、叔嗣兵を以て武陵を襲ふ。進逵之を聞き、軽舟にして帰り、叔嗣と武陵城外に戦ふ。進逵敗れ、見殺さる。

原文世宗征淮南,授進逵南面行營都統。進逵攻鄂州,過岳州,岳州刺史潘叔嗣,進逵故時周列,待進逵甚謹。進逵右右就叔嗣求賂,叔嗣不與,左右讒其短,進逵面罵之,叔嗣慚恨,語其下曰:「進逵戰勝而還,吾無遺類矣。」進逵入鄂州,方攻下長山,叔嗣以兵襲武陵。進逵聞之,輕舟而歸,與叔嗣戰武陵城外,進逵敗,見殺。

周行逢(子保権)

原文周行逢子保權

周行逢は武陵の人なり。王進逵と俱に静江軍の卒と為り、希萼に事へて軍校と為る。進逵辺鎬を攻むるに、行逢別に益陽を破り、李景の兵二千余人を殺し、其の将李建期を擒ふ。進逵武安軍節度使と為り、行逢を拝して集州刺史と為し、進逵の行軍司馬と為す。進逵劉言と隙有り、行逢為に謀策を画きて言を襲殺せしむ。進逵武陵に拠り、行逢潭州に拠る。

原文周行逢,武陵人也。與王進逵俱為靜江軍卒,事希萼為軍校。進逵攻邊鎬,行逢別破益陽,殺李景兵二千餘人,擒其將李建期。進逵為武安軍節度使,拜行逢集州刺史,為進逵行軍司馬。進逵與劉言有隙,行逢為畫謀策襲殺言。進逵據武陵,行逢據潭州。

顕徳元年、行逢を拝して武清軍節度使と為し、権に潭州軍府事を知る。潘叔嗣進逵を殺す。或る者其の武陵に入るを勧む。叔嗣曰く、「吾進逵を殺すは、死を救ふのみ。武陵は吾が利に非ず」と。乃ち岳州に還り、其の客将の李簡を遣はし武陵の人を率ひて行逢を潭州より迎へしむ。行逢武陵に入る。或る者請ふて潭州を叔嗣に与へんとす。行逢曰く、「叔嗣は主帥を殺し、罪死に当たる。其の吾を迎ふるを以て、未だ殺すに忍びざるのみ。若し武安を之に与はば、是れ吾之をして王公を殺さしむるなり」と。召して以て行軍司馬と為さんとす。叔嗣怒り、疾と称して至らず。行逢怒りて曰く、「是れ又吾を殺さんと欲するなり」と。乃ち陽に武安を之に与へ、召して府に至り命を受けしむ。至れば則ち之を殺す。

原文顯德元年,拜行逢武清軍節度使,權知潭州軍府事。潘叔嗣殺進逵,或勸其入武陵,叔嗣曰:「吾殺進逵,救死而已,武陵非吾利也。」乃還岳州,遣其客將李簡率武陵人迎行逢於潭州。行逢入武陵,或請以潭州與叔嗣,行逢曰:「叔嗣殺主帥,罪當死,以其迎我,未忍殺爾。若與武安,是吾使之殺王公也。」召以為行軍司馬。叔嗣怒,稱疾不至,行逢怒曰:「是又欲殺我矣!」乃陽以武安與之,召使至府受命,至則殺之。

行逢は故武陵の農家の子、少くして貧賤、行ひ無く、慷慨の大言多し。武陵に居るに及び、能く儉約して自ら勉励し、而して性勇敢、殺戮に果し、麾下の将吏素より功を恃み驕慢なる者、一に法を以て之を縄す。大将十余人謀りて乱を為さんとす。行逢諸将を召し宴す。酒半ば、壮士を以て擒へ下し斬る。一境皆畏服す。民過つこと大小有るも皆死す。夫人の厳氏諫めて曰く、「人情善悪有り、安んぞ一概に之を殺すを得んや」と。行逢怒りて曰く、「此れ外事なり、婦人の何を知らん」と。厳氏悦ばず、紿ひて曰く、「家田の佃戸、公の貴きを以て、頗る農に力をせず、多く勢を恃みて民を侵す。請ふ往きて之を視ん」と。至れば則ち居を営みて以て老い、歳時に青裙を衣て佃戸を押し租を送り城に入る。行逢往き就きて之を見、労して曰く、「吾貴し、夫人何ぞ自ら苦しむや」と。厳氏曰く、「公戸長を作せし時を思ふか。民租後時すれば、常に鞭扑を苦しむ。今貴し、宜しく先期を以て衆を率ふべし。安んぞ遂に壠畝の間を忘れんや」と。行逢強ひて之を邀ふ。羣妾を以て擁し肩輿に升らしむ。厳氏卒に留まるる意無し。因りて曰く、「公法を用ふること太だ厳にして人心を失ふ。所以に留まらんと欲せざる者は、一旦禍起こらば、田野の間は逃死するに易きのみ」と。行逢為に少しく損ず。

原文行逢,故武陵農家子,少貧賤,無行,多慷慨大言。及居武陵,能儉約自勉勵,而性勇敢,果於殺戮,麾下將吏素恃功驕慢者,一以法繩之。大將十餘人謀為亂,行逢召宴諸將,酒半,以壯士擒下斬之,一境皆畏服。民過無大小皆死,夫人嚴氏諫曰:「人情有善惡,安得一概殺之乎!」行逢怒曰:「此外事,婦人何知!」嚴氏不悅,紿曰:「家田佃戶,以公貴,頗不力農,多恃勢以侵民,請往視之。」至則營居以老,歲時衣青裙押佃戶送租入城。行逢往就見之,勞曰:「吾貴矣,夫人何自苦邪!」嚴氏曰:「公思作戶長時乎?民租後時,常苦鞭扑,今貴矣,宜先期以率眾,安得遂忘壠畝間乎!」行逢彊邀之,以羣妾擁升肩輿,嚴氏卒無留意,因曰:「公用法太嚴而失人心,所以不欲留者,一旦禍起,田野間易為逃死爾。」行逢為少損。

建隆三年、行逢病み、其の将吏を召し、其の子保権を以て之に属し曰く、「吾れ隴畝より起りて団兵と為り、同時に十人、皆誅死す、惟だ衡州刺史張文表のみ独り存す、然れども常に怏怏として行軍司馬を得ず。吾れ死なば、文表必ず叛かん、当に楊師璠を以て之を討つべし。若し其れ能はざれば、則ち城に嬰りて戦ふこと勿れ、自ら朝廷に帰せよ」と。

原文建隆三年,行逢病,召其將吏,以其子保權屬之曰:「吾起隴畝為團兵,同時十人,皆以誅死,惟衡州刺史張文表獨存,然常怏怏不得行軍司馬。吾死,文表必叛,當以楊師璠討之。如其不能,則嬰城勿戰,自歸於朝廷。」

行逢卒し、子保権立つ。文表聞く、怒って曰く:「行逢我と微賤より起こり功名を立つ、今日安いずく(いずく)んぞ小児に北面事つか(つか)えん!」と。遂に兵を挙げて叛し、潭州を攻め下す。保権朝廷に師を乞い、亦た楊師璠に命じて文表を討たせ、先人の言を告げ、感激涕泣、師璠亦た泣き、その軍を顧みて曰く:「汝郎君を見るや?年未だ成人に至らずして賢此の如し。」と。軍士奮然、皆自ら効せんと思ふ。師璠平津亭に至り、文表出戦し、大敗す。初め、保権の師を乞う、太祖皇帝慕容延釗を遣わし文表を討たせ、未だ至らざるに文表師璠の執うる所と為る。延釗兵朗州に入り、保権族を挙げて京師に朝し、其の後事国史に具す。殷唐乾寧三年より湖南に入り、周広順元年に至る、凡そ五十七年、余年譜注に具す。

原文行逢卒,子保權立。文表聞之,怒曰:「行逢與我起微賤而立功名,今日安能北面事小兒乎!」遂舉兵叛,攻下潭州。保權乞師於朝廷,亦命楊師璠討文表,告以先人之言,感激涕泣,師璠亦泣,顧其軍曰:「汝見郎君乎?年未成人而賢若此。」軍士奮然,皆思自効。師璠至平津亭,文表出戰,大敗之。初,保權之乞師也,太祖皇帝遣慕容延釗討文表,未至而文表為師璠所執。延釗兵入朗州,保權舉族朝于京師,其後事具國史。殷自唐乾寧三年入湖南,至周廣順元年,凡五十七年,餘具年譜注。