新五代史

巻第六十六

目次

馬殷(子に希聲・希範・希廣あり)

馬殷、字は圖、許州鄢陵の人なり。唐中和三年、蔡州の秦宗権が孫儒・劉建峯に兵一万を将としてその弟宗衡に属せしめ、淮南の地を略せしむ。殷は初め孫儒の裨将たり。宗衡ら揚州において楊行密を攻むるも、克たず。梁の兵、力を急にして宗権を攻む。宗権、数たび儒らを召す。儒は還るを欲せず、宗衡しきりに之を促す。儒怒りて宗衡を殺し、自らその兵を将いて高郵を取り、遂に行密を逐う。行密、宣州に拠る。儒、兵を以て之を囲むこと久しく克たず、殷と建峯を遣わし旁県に食を掠めしむ。儒、戦いに敗れて死す。殷ら帰する所なく、乃ち建峯を推して帥とし、殷を先鋒とし、転じて章を攻め、虔・吉を略し、数万の衆あり。乾寧元年、湖南に入り、醴陵に次ぐ。潭州刺史鄧処訥、邵州の兵を発して龍回関を戍らしむ。建峯ら関に至り、その戍将蔣勛を降す。建峯、勛の鎧甲を取って先鋒兵に被せ、その旗幟を張り、直ちに潭州に趨る。東門に至る。東門の守者は関兵の戍より還るものと思い、門を開きて之を内す。遂に処訥を殺し、建峯自ら留後を称す。僖宗、建峯に湖南節度使を授け、殷を馬歩軍都指揮使とす。蔣勛、邵州刺史を求むるも、建峯与えず。勛、兵を率いて湘郷を攻む。建峯、殷を遣わし邵州において勛を撃たしむ。

建峯は庸人にして、その下を帥いること能わず、常に部曲と酒を飲みて讙呼す。軍卒陳贍の妻に色あり、建峯之を私す。贍怒り、鉄檛を以て建峯を撃ち殺す。軍中、行軍司馬張佶を推して帥とす。佶、将に府に入らんとするに、乗馬すなわち踶囓し、佶の髀を傷つく。佶臥病し、諸将に語りて曰く、「吾は汝が主に非ず。馬公英勇なり、共に之を立てるべし」と。諸将乃ち共に贍を殺し、その尸を磔き、姚彦章を遣わし邵州において殷を迎えしむ。殷至る。佶、肩輿に乗じて府に入り、殷は廷中に拝謁す。佶、殷を召して上らしめ、乃ち将吏を率いて下り、北面して再拝し、位を以て之に与う。時に乾寧三年なり。

唐、殷に潭州刺史を拝す。殷、その将秦彦暉・李瓊らを遣わし連・邵・郴・衡・道・永の六州を攻め、皆之を下す。桂管の劉士政懼れ、その将陳可璠・王建武らを遣わし兵を率いて全義嶺を守らしむ。殷、使者を遣わし士政に聘す。使者境上に至るも、可璠ら納れず。殷怒り、瓊らを遣わし兵七千を以て之を攻め、可璠ら及びその兵二千余人を擒え、悉く之を坑い、遂に桂管を囲み、士政を虜とし、その属州を尽く取る。殷、瓊を表して桂管観察使とす。四年、殷に武安軍節度使を拝す。

初め、孫儒宣州に敗る。殷の弟賨、楊行密に執えらる。行密、儒の余兵を収めて「黒雲都」と為し、賨を以て指揮使とす。賨、行密に従い攻戦し、数たび功あり。人となり質重にして、未だ嘗て自ら矜ることなく、行密之を愛す。行密、賨に誰が家の子なるかを問う。賨曰く、「馬殷の弟なり」と。行密大いに驚きて曰く、「汝の兄貴し。吾今汝を帰すは可なるか」と。賨対えず。他日また之を問う。賨謝して曰く、「臣は孫儒の敗卒なり。幸いに公、不死を以て待たる。身を殺すに非ざれば報いるに足らず。湖南は隣境にて、朝夕殷の動静を聞くは足れり。去るを願わず」と。行密歎じて曰く、「昔吾は子の貌を愛し、今吾は子の心を得たり。然れども勉めて吾が為に二国の歓を合わし、商賈を通じ、有無を易えて以て相資くるは、亦吾を報いる所以なり」と。乃ち厚礼を以て賨を帰し遣わす。殷大いに喜び、賨を表して節度副使とす。

行密、将劉存らを遣わし杜洪を攻め、鄂州を囲む。殷、秦彦暉・許徳勲を遣わし舟兵を以て之を救わしむ。已にして杜洪敗死す。存ら遂に殷を攻む。殷、彦暉を遣わし上流において拒がしめ、偏将黄璠、舟三百を以て瀏陽口に伏す。存ら屡戦して勝たず、乃ち書を殷に致して和を求めんとす。殷之を許さんと欲す。彦暉曰く、「淮人は詐り多し。将に我が師を怠らんとす。信ずべからず」と。急ぎ之を撃つ。存ら退走す。黄璠、瀏陽の舟を以て江を截ち合撃し、大いに之を敗る。劉存及び陳知新戦死す。彦暉、岳州を取る。

梁の太祖即位す。殷、使者を遣わし貢を脩む。太祖、殷に侍中兼中書令を拝し、楚王に封ず。

荊南の高季昌、兵を以て漢口を断ち、殷の貢使を邀う。殷、許徳勲を遣わしその沙頭を攻む。季昌和を求め、乃ち止む。楊行密の袁州刺史呂師周来奔す。師周は勇健豪侠にして、頗る緯候・兵書に通じ、自ら五世将家なりと言い、免れ難きを懼れ、常に酒徒と聚飲し、酔えば則ち起舞し、悲歌慷慨して泣下す。行密之を聞き、その異志あるを疑い、人をしてその動静を察せしむ。師周益々懼れ、その裨将綦毋章に謂いて曰く、「吾は楚人と敵境たり。吾常にその営上の雲気甚だ佳きを望む。未だ易く敗れ難し。吾聞く、馬公は仁者にして、士を待つに礼ありと。吾、死を楚に逃れんと欲するは可なるか」と。章曰く、「公自ら之を図れ。章が舌は断たるべし、語は泄らさじ」と。師周、兵を以て境上に猟し、乃ち楚に奔る。綦毋章、その家属を縦して之に随わしむ。殷、師周の至るを聞き、大いに喜びて曰く、「吾方に南に嶺表を図らんとす。而して此人を得るは足れり」と。之を以て馬歩軍都指揮使とし、兵を率いて嶺南を攻め、昭・賀・梧・蒙・龔・富等の州を取る。殷、師周を表して昭州刺史とす。

朗州の雷彦恭、呉人を召して平江を攻む。許徳勲之を撃ち敗る。殷、秦彦暉を遣わし朗州を攻む。彦恭、呉に奔る。その弟彦雄等七人を執えて梁に送る。ここに於いて澧州の向瓌・辰州の宋鄴・漵州の昌師益等、溪洞の諸蛮を率いて皆殷に附く。殷、朗州を升めて永順軍と為すことを請い、張佶を表して節度使とす。殷乃ち唐太宗の故事に依らんことを請い、天冊府を開き、官属を置く。太祖、殷に天冊上将軍を拝す。殷、その弟賨を以て左相とし、存を右相とし、廖光図等十八人を学士とす。末帝の時、殷に武昌・静江・寧遠等軍節度使、洪・鄂四面行営都統を加う。

唐の荘宗、梁を滅ぼす。殷、その子希範を遣わし京師に貢を脩めしめ、梁の授くる所の都統印を上る。荘宗、洞庭の広狭を問う。希範対えて曰く、「車駕南巡せば、纔かに馬を飲むに堪うるのみ」と。荘宗之を嘉す。荘宗、しょくを平らぐ。殷大いに懼れ、表して致仕を求む。荘宗、璽書を下して之を慰労す。明宗即位す。使者を遣わし貢を脩め、へいせて明年正月を賀す。荘南の高季昌、その貢使史光憲を執う。殷、袁詮・王環等を遣わし之を攻む。その城下に至る。季昌和を求め、乃ち止む。

殷、初め兵力尚寡く、楊行密・成汭・劉龑等と敵国たり。殷之を患え、その将高郁に策を問う。郁曰く、「成汭は地狭く兵寡く、吾が患いと為すに足らず。而して劉龑の志は五管に在るのみ。楊行密は孫儒の仇なり。万金を以て之に交わるも、その歓心を得ること能わじ。然れども王を尊び順に仗つは、霸者の業なり。今宜しく内に朝廷を奉じて封爵を求め、外に隣敵を誇り、然る後に退きて兵農を脩め、力を畜えて待つべきのみ」と。ここに於いて殷始めて京師に貢を脩む。然れども歳貢は産する所の茶茗に過ぎず。乃ち京師より襄・唐・郢・復等の州に至るまで邸務を置きて以て茶を売り、その利十倍す。郁又殷を諷して鉛鉄銭を鋳させ、十を以て銅銭一に当てしむ。又民に令して自ら茶を造りて以て商旅を通じ、その算を収む。歳入万計す。ここに由りて地大く力完く、数たび封爵を邀う。

天成二年、行臺の設置を請う。明宗は殷を楚國王に封ぜんとし、有司は言う、國王を封ずる禮はなく、三公のごとく竹冊を用いるべきと。乃ち尚書右丞李序を遣わし、節を持たせて竹冊を以て封ず。殷は潭州を以て長沙府と為し、國を建て制を承け、自ら官屬を置く。其の弟賨を静江軍節度使と為し、子希振を武順軍節度使と為し、次子希聲に内外諸軍事を判せしめ、姚彦章を左相と為し、許德勲を右相と為し、李鐸を司徒しとと為し、崔穎を司空しくうと為し、拓拔常を僕射と為し、馬珙を尚書と為し、文武皆位を進む。其の曾祖筠を文肅と謚し、祖正を莊穆と謚し、父元豊を景莊と謚し、三廟を長沙に立つ。長興元年、殷卒す、年七十九、詔して曰く「馬殷官爵俱に高し、贈るに以て為す無し、武穆と謚す」のみ。子希聲立つ。

子 希聲

希聲は字を若訥と為し、殷の次子なり。殷國を建つるに、希聲を以て内外諸軍事を判せしむ。荊南の高季昌、殷の将高郁が素より殷に計策を教え、楚以て彊しと聞き、之を患え、嘗て諜者をして殷に行間せしむるも、殷聴かず。希聲事を用うるに及び、諜者希聲に語りて曰く「季昌、楚の高郁を用うるを聞き、大いに喜び、以て馬氏を亡ぼす者は必ず郁なりと為す」と。希聲素より愚にして、然りと為し、遽かに郁の兵職を奪う。郁怒りて曰く「吾君王に事うること久し、急ぎ西山を営み、将に老いんとす、犬子漸く大くなり、能く人を咋む」と。希聲之を聞き、殷の令を矯りて郁を殺す。殷老いて復た事を省みず、郁の死するを知らず、是の日大霧四塞す、殷之を怪しみ、左右に語りて曰く「吾嘗て孫儒に従う、儒每に不辜を殺せば、天必ず大霧す、豈に馬歩獄に冤死する者有らんや」と。明日、吏状を以て白す、殷膺を拊して大哭して曰く「吾かくの如く荒耄にして、而して吾が勲舊を殺す」と。左右を顧みて曰く「吾も亦此に久しからん」と。明年殷薨ず。

希聲立つ、武安・静江等軍節度使を授かる。希聲嘗て梁太祖の鷄を好んで食するを聞き、之を慕い、乃ち日ごとに五十鷄を烹じて以て膳に供す。殷を上潢に葬るに、希聲哭泣せず、頓て鷄肉数器を食して起つ、其の禮部侍郎潘起之を譏りて曰く「昔阮籍喪に居りて蒸豚を食す、世豈に賢を乏くさんや」と。長興三年、希聲卒す、衡陽王を追封す。弟希範立つ。

子 希範

希範は字を寶規と為し、殷の第四子なり。殷子十餘人、嫡子希振長くして賢なり、其次希聲と希範同日に生まる、而して希聲の母袁夫人美色有り、希聲母の寵を以て立つことを得、而して希振官を棄てて道士と為り、家に居る。希聲卒し、而して希範次を以て立ち、殷の官爵を襲ぎ、楚王に封ぜらる。清泰二年、弓矢冠劍を以て賜う。天福四年、希範に天冊上將軍を加え、開府承制すること殷の故事の如し。

希範學を好み、詩を善くす、文士廖光圖・徐仲雅・李臯・拓拔常等十八人皆故き殷の時の學士なり、希範性奢侈にして、光圖等は皆薄徒、飲み博きて讙呼す、獨り常は沈厚なる長者、上書切に諫む、光圖等之を悪む。

襄州の安從進・安州の李金全叛す、晉高祖こうそ詔して希範に出兵せしむ。希範張少敵を遣わし舟兵を以て漢陽に趨らしめ、米五萬斛を漕ぎて以て軍に饋る、金全等敗る、少敵乃ち旋る。

溪州刺史彭士愁、錦・奬の諸蠻を率いて澧州を攻む、希範劉勍・劉全明等を遣わし歩卒五千を以て之を撃たしむ、士愁大敗す。勍等溪州を攻め、士愁奬州に走る、其の子師暠を遣わし諸蠻の酋を率いて勍に降る。溪州西は牂柯・兩林に接し、南は桂林・象郡に通ず、希範乃ち銅柱を立てて以て表と為し、學士李臯に命じて之に銘せしむ。是に於て、南寧州酋長莫彥殊其の本部十八州を率い、都雲酋長尹懷昌其の昆明等十二部を率い、牂柯張萬濬其の夷・播等七州を率いて皆希範に附く。

希範會春園・嘉宴堂を作る、其の費鉅萬、始めて國中に賦を加う、拓拔常切に諫めて以て不可と為す。希範又九龍殿を作り、八龍を以て柱に繞らし、自ら身一龍なりと言う。是の時、契丹晉を滅ぼし、中國大いに乱る、希範の牙将丁思覲廷にて希範を諫めて曰く「先王卒伍を起こし、攻戰を以て此の州を得、朝廷に倚りて以て隣敵を制し、國を傳うること三世、地数千里有り、兵十萬人を養う。今天子囚辱せられ、中國主無し、真に霸者の功を立つるの時なり。誠に能く國の兵を悉くして荊・襄を出でて以て京師に趨り、義を天下に倡えば、此れ桓・文の業なり。奈何ぞ國用を耗し土木を窮めて、兒女の樂を為さんや」と。希範之に謝す、思覲目を瞋らして希範を視て曰く「孺子終に教うべからざるなり」と。乃ち喉を扼して死す。開運四年、希範卒す、年四十九、文昭と謚す。希廣立つ。

子 希廣

希廣は字を德丕と為し、希範の同母弟なり。希範平生拓拔常の諫諍を悪む、常入り謁す、希範閽者を呼び指して常に曰く「吾此人を見ることを欲せず、復た内する勿れ」と。乃ち之を謝絶す。及臥病に及び、始めて常の言を思い、以て忠と為し、之を召して希廣を託す。希範卒し、常数え希廣をして位を以て其の兄希萼に奉ぜしめんと勸むるも、希廣従わず。

希萼朗州節度使と為る、希範の卒するに、希萼朗州より自ら来り喪に奔る。希廣の将劉彥瑫謀りて曰く「武陵の来る、其の意善からず、宜しく兵を出して之を迎え、以て非常に備え、其の甲を解き兵を釋して而して後に入らしむべし」と。張少敵・周廷誨曰く「王能く之と與するは則ち已む、然らずんば宜しく早く之を除くべし」と。希廣泣いて曰く「吾が兄なり、焉んぞ忍びて之を殺さん、國を分けて治むるは可なり」と。乃ち兵を以て希萼を砆石に迎え、之を碧湘宮に止め、厚く賂を以て之を遣わす。希萼憤然として去り、乃ち使を遣わし京師に詣り封爵を求め、邸を置き藩を称するを請う。漢隠帝許さず、璽書を降して慰労講解す。希萼怒り、款を李景に送り、兵を挙げて長沙を攻む。希廣劉彥瑫・許可瓊等を遣わして之を禦がしむ。

彥瑫僕射洲にて希萼を敗る。希萼去り、溪洞の諸蠻を誘いて益陽を寇す。希廣崔珙璉を遣わし歩卒七千を以て湘鄉玉潭に屯し以て諸蠻を遏つ。劉彥瑫舟兵を以て武陵に趨り、希萼を攻む。彥瑫湄洲にて敗る、希廣大いに懼れ、使を遣わし京師に兵を請う、漢隠帝師を出す能わず。希萼舟兵江に沿いて上り、自ら「順天將軍」と号し、岳州を攻む、刺史王贇城を堅くして戰わず、希萼贇を呼びて曰く「吾昔君と同行を約す、今何の異心かある」と。贇曰く「君王兄弟相容れず、而して将吏の異心を責むるか、君王の長沙に入り、同氣を傷つけざらんことを願う、臣敢えて節を尽くさざるべからず」と。希萼兵を引いて去り、湘鄉を下し、長沙に止まり、水西に屯す。劉彥瑫・許可瓊水東に屯す。

彭師暠、城に登り水西の軍を望み、入って希広に白して曰く、「武陵の兵は驕り、蛮蜑を交え、その勢いは破り易し。請う、可瓊等をして山前に陣せしめ、臣は歩兵三千を以て巴渓より江を渡り岳麓に趨り、夜を候いて之を撃たん」と。希広は以て可と為すも、而して可瓊は既に陰に款を希萼に送り、遂に其の議を沮む。明日、師暠、可瓊に詣りて事を計るに、瞋目して之を叱して曰く、「汝の反文の面に在るを見よ、豈に賊に投ぜんと欲するか」と。衣を拂ひて出で、急ぎ希広に白し、之を殺すを請ふ。希広聴かず。希萼、長楽門を攻む。牙将の呉宏・楊滌、門中に戦ふ。希萼少しく衄る。已にして許可瓊、希萼に奔る。宏・滌之を聞きて皆潰く。

希広、妻子を率ひて慈堂に匿る。明日之を擒ふ。希萼之を見て惻然として曰く、「此れ鈍夫なり、豈に悪を為すこと能はんや、左右之を惑はすのみ」と。其の下を顧みて曰く、「吾之を活かさんと欲す、如何」と。其の下皆対へず、遂に之を縊死せしむ。

乾祐三年、希萼自立す。明年、漢の隠帝崩じ、京師大乱す。希萼遂に李景に臣す。景、希萼を冊封して楚王と為し、希萼悉く軍政の事を其の弟希崇に任す。希崇、楚の旧将の徐威・陸孟俊・魯綰等と謀りて乱を作す。希萼、端陽門に酒を置く。希崇疾を以て辞す。威等、悪馬十余匹を放ち、壮士をして檛を執りて之に随ひ、突きて其の府に入り、庫兵を劫ひ、希萼を縛し、希崇を迎へて以て立つ。希崇、彭師暠・廖偃を遣はし希萼を衡山に囚ふ。師暠、希萼を奉じて衡山王と為し、李景に臣す。希崇懼れ、亦景に命を請ふ。景、辺鎬を遣はし楚に入り、馬氏の族を尽く金陵に遷す。時に周の広順元年なり。希萼を封じて楚王と為し、洪州に居らしむ。希崇は舒州節度使を領し、揚州に居る。

顕徳三年、世宗淮を征し、揚州を下す。詔を下し馬氏の子孫を撫安す。已にして揚州復た景に入る。希崇其の兄弟十七人を率ひて京師に帰す。右羽林統軍に拝せられ、希能は左屯衛大将軍、希貫は右千牛衛大将軍、希隠・希濬・希知・希朗は皆節度行軍司馬と為る。

劉言

劉言は吉州廬陵の人なり。王進逵は武陵の人なり。言は初め刺史の彭玕に事へ、玕に従ひて楚に奔る。言は希範に事へて辰州刺史と為る。進逵は少くして静江軍の卒と為り、希萼に事へて指揮使と為る。

希萼、希広を攻むるに、進逵を以て先鋒と為し、長沙を陥す。長沙乱に遭ひ残毀す。希萼、進逵をして静江兵を以て之を営緝せしむ。兵皆愁怨す。進逵因りて之を擁し、夜に長柯巨斧を以て関を斫ち、武陵に奔り帰る。希萼方に酔ひ、省る能はず。明日将の唐翥を遣はして之を追はしむ。武陵に及び、翥戦ひ大敗して還る。進逵乃ち留後の馬光恵を逐ひ出だし、言を辰州より迎へて以て帥と為し、進逵自ら副と為る。已にして希萼の将徐威等乱を作し、希萼を縛し、而して希崇を立て、湖南大乱す。李景、辺鎬を遣はし楚に入り、馬氏を金陵に遷し、因りて并せて言を召す。言従はず、進逵を行軍司馬の何景真等と遣はし長沙に於て鎬を攻む。鎬敗走す。

周の広順三年、言表を京師に奉り、以て封爵を邀ふ。又長沙は残破し、居る可からずと言ひ、治所を武陵に移すを請ふ。周の太祖皆之に従ひ、乃ち朗州を升して武平軍と為し、武安軍の上に在らしめ、言を以て節度使と為し、因りて武安を進逵に授く。進逵自ら言の己の迎へ立てし所を以て、其の下に為らざるを為す。言之を患ふ。二人始めて隙有り、相図らんと欲す。進逵謀りて曰く、「言の将に用ふ可き者は何景真・朱全琇のみ。召して之を殺さば、言は取る可し」と。是の時、劉晟楚の梧・桂・宜・蒙等州を取る。進逵因りて言に白し景真等を召し兵を会して晟を攻ましむ。言之を信じ、景真・全琇を遣はして往かしむ。至れば皆見殺さる。乃ち兵を挙げ武陵を襲ひ、言を執りて之を殺し、表を京師に奉る。周の太祖即ち進逵を以て武平軍節度使と為す。

世宗淮南を征し、進逵に南面行営都統を授く。進逵鄂州を攻む。岳州を過ぐ。岳州刺史の潘叔嗣は進逵が故時の周列にして、進逵を待すること甚だ謹み有り。進逵の左右叔嗣に就き賂を求む。叔嗣与へず。左右其の短を讒す。進逵面を罵る。叔嗣慚恨し、其の下に語りて曰く、「進逵戦勝して還らば、吾に遺類無からん」と。進逵鄂州に入り、方に長山を攻め下さんとするに、叔嗣兵を以て武陵を襲ふ。進逵之を聞き、軽舟にして帰り、叔嗣と武陵城外に戦ふ。進逵敗れ、見殺さる。

周行逢(子保権)

周行逢は武陵の人なり。王進逵と俱に静江軍の卒と為り、希萼に事へて軍校と為る。進逵辺鎬を攻むるに、行逢別に益陽を破り、李景の兵二千余人を殺し、其の将李建期を擒ふ。進逵武安軍節度使と為り、行逢を拝して集州刺史と為し、進逵の行軍司馬と為す。進逵劉言と隙有り、行逢為に謀策を画きて言を襲殺せしむ。進逵武陵に拠り、行逢潭州に拠る。

顕徳元年、行逢を拝して武清軍節度使と為し、権に潭州軍府事を知る。潘叔嗣進逵を殺す。或る者其の武陵に入るを勧む。叔嗣曰く、「吾進逵を殺すは、死を救ふのみ。武陵は吾が利に非ず」と。乃ち岳州に還り、其の客将の李簡を遣はし武陵の人を率ひて行逢を潭州より迎へしむ。行逢武陵に入る。或る者請ふて潭州を叔嗣に与へんとす。行逢曰く、「叔嗣は主帥を殺し、罪死に当たる。其の吾を迎ふるを以て、未だ殺すに忍びざるのみ。若し武安を之に与はば、是れ吾之をして王公を殺さしむるなり」と。召して以て行軍司馬と為さんとす。叔嗣怒り、疾と称して至らず。行逢怒りて曰く、「是れ又吾を殺さんと欲するなり」と。乃ち陽に武安を之に与へ、召して府に至り命を受けしむ。至れば則ち之を殺す。

行逢は故武陵の農家の子、少くして貧賤、行ひ無く、慷慨の大言多し。武陵に居るに及び、能く儉約して自ら勉励し、而して性勇敢、殺戮に果し、麾下の将吏素より功を恃み驕慢なる者、一に法を以て之を縄す。大将十余人謀りて乱を為さんとす。行逢諸将を召し宴す。酒半ば、壮士を以て擒へ下し斬る。一境皆畏服す。民過つこと大小有るも皆死す。夫人の厳氏諫めて曰く、「人情善悪有り、安んぞ一概に之を殺すを得んや」と。行逢怒りて曰く、「此れ外事なり、婦人の何を知らん」と。厳氏悦ばず、紿ひて曰く、「家田の佃戸、公の貴きを以て、頗る農に力をせず、多く勢を恃みて民を侵す。請ふ往きて之を視ん」と。至れば則ち居を営みて以て老い、歳時に青裙を衣て佃戸を押し租を送り城に入る。行逢往き就きて之を見、労して曰く、「吾貴し、夫人何ぞ自ら苦しむや」と。厳氏曰く、「公戸長を作せし時を思ふか。民租後時すれば、常に鞭扑を苦しむ。今貴し、宜しく先期を以て衆を率ふべし。安んぞ遂に壠畝の間を忘れんや」と。行逢強ひて之を邀ふ。羣妾を以て擁し肩輿に升らしむ。厳氏卒に留まるる意無し。因りて曰く、「公法を用ふること太だ厳にして人心を失ふ。所以に留まらんと欲せざる者は、一旦禍起こらば、田野の間は逃死するに易きのみ」と。行逢為に少しく損ず。

建隆三年、行逢病み、其の将吏を召し、其の子保権を以て之に属し曰く、「吾れ隴畝より起りて団兵と為り、同時に十人、皆誅死す、惟だ衡州刺史張文表のみ独り存す、然れども常に怏怏として行軍司馬を得ず。吾れ死なば、文表必ず叛かん、当に楊師璠を以て之を討つべし。若し其れ能はざれば、則ち城に嬰りて戦ふこと勿れ、自ら朝廷に帰せよ」と。

行逢卒し、子保権立つ。文表之を聞き、怒りて曰く、「行逢我と微賤より起りて功名を立てしに、今日安んぞ能く北面して小児に事へんや」と。遂に兵を挙げて叛き、潭州を攻め下す。保権朝廷に師を乞ひ、亦た楊師璠に命じて文表を討たしめ、先人の言を以て告ぐるに、感激涕泣す、師璠も亦た泣き、其の軍を顧みて曰く、「汝ら郎君を見るか。年未だ成人せずして賢しきこと此の若し」と。軍士奮然として、皆自ら効らんと思ふ。師璠平津亭に至る、文表出でて戦ふ、大いに之を敗る。初め、保権の師を乞ひしや、太祖皇帝慕容延釗を遣はして文表を討たしむ、未だ至らざるに文表師璠の為に執はる。延釗の兵朗州に入る、保権挙族京師に朝す、其の後事国史に具はれり。殷は唐の乾寧三年湖南に入り、周の広順元年に至る、凡そ五十七年、余は年譜注に具はれり。