新五代史

巻六十五

目次

劉隱(弟龑、龑の子玢、玢の弟晟、晟の子鋹)

劉隱、その祖は安仁、上蔡の人なり、後に閩中に移り、南海に商賈し、因って家を構う。父謙、広州の牙将となる。唐の乾符五年、黄巢が広州を攻め破り、去って湖・湘の間を略す。広州は謙を表して封州刺史・賀江鎮遏使とし、以て梧・桂以西を防がしむ。歳余にして、兵万人、戦艦百余艘を有す。謙に三子あり、曰く隱・台・巖。

謙卒す。広州は隱に表して謙に代わり封州刺史とす。乾寧中、節度使劉崇龜死す。嗣薛王知柔、代わりて帥と為り、行くこと湖南に至り、広州の将盧琚・覃玘乱を為す。知柔進むを敢えず。隱、封州の兵を以て琚・玘を攻め殺し、知柔を迎う。知柔、隱を行軍司馬に辟く。其の後徐彦若、知柔に代わり、隱を表して節度副使とし、軍政を委ぬ。彦若卒す。軍中、隱を推して留後と為す。天祐二年、隱を拝して節度使とす。梁の開平元年、検校太尉・兼侍中を加う。二年、静海軍節度・安南都護を兼ぬ。三年、検校太師・兼中書令を加え、南平王に封ず。

隱父子は封州より起り、世の多故に遭い、数たび嶺南に功有り、遂に南海を有す。隱また賢士を好む。是の時、天下已に乱れ、中朝の士人は嶺外最も遠きを以て、地を避くるべしとし、多く遊ぶ。唐世の名臣、南方に謫死する者、往々にして子孫有り、或いは当時仕宦して乱に遭い還るを得ざる者、皆嶺表に客す。王定保・倪曙・劉濬・李衡・周傑・楊洞潛・趙光裔の徒、隱皆これを招き礼す。定保は容管巡官、曙は唐の太学博士、濬は崇望の子、乱を避けて往く。衡は徳裕の孫、唐の右補闕、使いを奉じて往く。皆幕府に辟置し、賓客を以て待つ。傑は星暦に善く、唐の司農少卿、乱を避けて往く。隱数たび災変を以て問う。傑は星術を以て人に事うるを恥じ、常に疾を称して起たず。隱もまたこれを客す。洞潛は初め邕管巡官と為り、秩満して南海に客す。隱常に師事す。後に以て節度副使と為し、龑の僭号に及び、吉凶礼法を陳ぶ。国の制度を為すに、略に次序有り、皆この数人を用う。

乾化元年、隱を進めて南海王に封ず。是の歳卒す、年三十八。弟龑立つ。

龑、初め名は巖、謙の庶子なり。其の母段氏、龑を外舎に生む。謙の妻韋氏、素より妬み、これを聞きて怒り、剣を抜きて出で、命じて龑を持ち至らしめ、将に殺さんとす。見るに及びて悸い、剣すなわち地に堕つ。良久くして曰く「此れ常の児に非ず」と。後三日、遂に段氏を殺し、龑を養いて己が子と為す。長ずるに及び、騎射に善く、身長七尺、手を垂れて膝を過ぐ。

隱が行軍司馬と為る時、龑もまた薛王府諮議参軍に辟かる。隱が南海を鎮むるに、龑は副使と為る。隱卒す。龑代わりて立つ。乾化二年、清海節度使、検校太保・同平章事を除く。三年、検校太傅を加う。末帝即位す。悉く隱の官爵を以て龑に授く。龑、南海王に封ぜらる。

唐末、南海は最後に乱る。僖宗以後、大臣出鎮する者、天下皆乱れ、之く所無し。惟だ南海を除くのみ。隱より始めて亦自立す。是の時、交州の曲顥、桂州の劉士政、邕州の葉広略、容州の龐巨昭、諸管を分拠す。盧光稠は虔州に拠りて嶺上を攻め、其の弟光睦は潮州に拠り、子延昌は韶州に拠る。高州刺史劉昌魯・新州刺史劉潛及び江東七十余寨、皆制す能わず。隱、韶州を攻む。龑曰く「韶州の頼る所は光稠なり。之を撃てば、虔人は必ず応ぜん。応すれば則ち首尾敵を受く。此れ直に攻むるに宜しからずして計を以て取るべし」と。隱聴かず。果たして敗れて帰る。因って尽く兵事を龑に付す。龑悉く諸寨を平らげ、遂に昌魯等を殺し、更に刺史を置く。卒に兵を出して盧氏を攻め敗り、潮・韶を取る。又西に馬殷と容・桂を争う。殷は桂管を取り、士政を虜う。龑は容管を取り、巨昭を逐い、又邕管を取る。隱・龑は梁の初めより封爵を受け、正朔を禀るのみ。

貞明三年、龑即皇帝位し、国号を大越と曰い、元を改めて乾亨と曰う。安仁を追尊して文皇帝、謙を聖武皇帝、隱を襄皇帝とし、三廟を立てる。百官を置き、楊洞潛を兵部侍郎、李衡を礼部侍郎、倪曙を工部侍郎、趙光胤を兵部尚書とし、皆平章事と為す。光胤は自ら唐の甲族を以て、偽国に事うるを恥じ、常に怏怏として帰るを思う。龑乃ち光胤の手書を習い、使いを遣わして間道より洛陽らくように至り、其の二子損・益を召し、へいせて其の家属を皆至らしむ。光胤驚喜し、為に心を尽くす。

龑の性は聰悟にして苛酷、刀鋸・支解・刳剔の刑を為す。毎に人を殺すを見れば、則ち其の喜びに勝えず、覚えず朵頤し、垂涎呀呷す。人以為く真の蛟蜃なりと。又奢侈を好み、悉く南海の珍宝を聚め、以て玉堂珠殿と為す。

二年、南郊に天を祀り、境内に大赦し、国号を漢に改む。龑初め僭号せんと欲し、王定保の従わざるを憚り、定保を遣わして荊南に使わす。還るに及び、其の己に非ざるを懼れ、倪曙をしてこれを労せしめ、建国を告ぐ。定保曰く「建国には当に制度有るべし。吾れ南門に入るに、清海軍の額猶在り。四方其れ笑いを取らざらんや」と。龑笑いて曰く「吾れ定保に備うること久し。而して此れを思わざるは、宜なるかな其の譏るや」と。

三年、越国夫人馬氏を冊して皇后と為す。馬氏は楚王殷の女なり。

四年の春、選部貢挙を置き、進士・明経十余人を放ち、唐の故事の如くし、毎年これを常例とす。

七年、唐の荘宗が汴に入ると、龑は懼れ、宮苑使何詞を遣わして中国の虚実を問わしめ、大漢国主として大唐皇帝に書を致すと称す。詞が還り、唐必ず乱れんと述べて憂うるに足らずと、龑は大いに喜ぶ。また性、誇大を好み、嶺北より南海に至る商賈は多く召し、宮殿に昇らせ、珠玉の富を示す。自ら家は本より咸秦なりと称し、蛮夷に王たるを恥じ、唐の天子を「洛州刺史」と呼ぶ。是の歳、雲南の驃信鄭旻、使者を遣わし朱鬃白馬を致して婚を求め、使者は自ら皇親母弟・清容布燮兼理・賜金錦袍虎綾紋攀金装刀・封帰仁慶侯・食邑一千戸・持節鄭昭淳と称す。昭淳は学を好み文辞あり、龑と游宴し詩を賦すに、龑及び群臣皆及ばず、遂に隠女増城県主を以て旻に妻とす。

八年、南宮を作る。王定保、南宮七奇賦を献じてこれを美とす。龑、初め巖と名乗り、又更めて陟と曰う。

九年、白龍南宮の三清殿に見ゆ。元を改めて白龍と曰い、又更めて龔と名乗り、以て龍見の祥に応ず。胡僧有りて言う、「讖書に『劉氏を滅ぼす者は龔なり』と」。龑乃ち周易の「飛龍天に在り」の義を採りて「龑」の字と為し、音「儼」とし、以て名とす。

四年、楚人舟師を以て封州を攻む。封州兵、賀江に敗れ、龑懼れ、周易を以てこれを筮うに、大有に遇う。遂に境内を赦し、元を改めて大有と曰う。将蘇章を遣わし神弩軍三千を以て封州を救わしむ。章、両鉄索を賀江中に沈め、巨輪を岸上に為し、堤を築きてこれを隠し、軽舟に因りて迎戦し、陽に敗れて奔る。楚人これを逐う。章、巨輪を挙げて索を挽き楚の舟を鎖し、彊弩を以て江を夾みてこれを射て、楚人を尽く殺す。

三年、将李守鄘・梁克貞を遣わし交趾を攻め、曲承美等を擒る。承美、南海に至り、龑義鳳楼に登り俘を受け、承美に謂いて曰く、「公常に我を偽廷と為す、今反って面縛す、何ぞや」。承美頓首して罪に伏す。乃ちこれを赦す。承美は顥の子なり。克貞又占城を攻め、其の宝貨を掠めて帰る。

四年、愛州の楊廷藝叛き、交州刺史李進を攻め、進遯れて帰る。龑、承旨程宝を遣わし廷藝を攻めしむ。宝戦いて死す。

五年、子耀樞を邕王に、亀図を康王に、洪度を秦王に、洪熙を晋王に、洪昌を越王に、洪弼を斉王に、洪雅を韶王に、洪沢を鎮王に、洪操を万王に、洪杲を循王に、洪暐を息王に、洪邈を高王に、洪簡を同王に、洪建を益王に、洪済を弁王に、洪道を貴王に、洪昭を宣王に、洪政を通王に、洪益を定王に封ず。

九年、将軍孫徳晟を遣わし象州を攻むるも、克たず。

十年、交州牙将皎公羨、楊廷藝を殺し自立す。廷藝の故将呉権、交州を攻む。公羨来たりて師を乞う。龑、洪操を交王に封じ、兵を出して白藤を以てこれを攻む。龑、兵を以て海門に駐す。権既に公羨を殺し、海口に逆戦し、鉄橛を海中に植う。権の兵潮に乗じて進む。洪操これを逐う。潮退き舟還るに、橛に轢かるる者は皆覆る。洪操戦いて死す。龑余衆を収めて還る。

十五年、龑卒す。年五十四。謚して天皇大帝と曰い、廟号を高祖こうそとす。陵を康陵と曰う。子玢立つ。

玢、初め洪度と名乗り、秦王に封ぜらる。龑の子耀樞・亀図皆早く死す。玢次いで立つべし。龑病臥し寝中に、右僕射王翻を召して語り、洪度・洪熙の小字を呼びて曰く、「寿・儁は長ずと雖も、然れども皆吾が事に任ずるに足らず。惟だ洪昌我に類す。吾之を立てんと欲す。奈何ぞ吾が子孫不肖にして、後世鼠の牛角に入るが如く、勢い漸く小なるに当たらんや」。因りて泣下し歔欷す。翻、龑の為に謀り、洪度を邕州に出し、洪熙を容州に出し、然る後に洪昌を立てて太子とす。議既に定まる。崇文使蕭益入りて疾を問う。龑以て之を告ぐ。益諫めて曰く、「少なる者立ちを得ば、長なる者之を争わん。禍此より始まらん」。是より洪度卒に立つを得。更めて玢と名乗り、元を改めて光天と曰う。母趙昭儀を尊び皇太妃と為し、晋王洪熙を以て政を輔えしむ。

玢立ちて、果たして事に任ずる能わず。龑殯に在りて、伶人を召して楽を作し、宮中に酒を飲み、男女を裸にして以て楽と為し、或いは墨縗を衣て倡女と夜行し、民家に出入す。是より山海の間盗賊競い起る。妖人張遇賢、自ら中天八国王と称し、循州を攻め陥す。玢、越王洪昌・循王洪杲を遣わしてこれを攻めしむ。遇賢、洪昌等を銭帛館に囲む。裨将万景忻・陳道庠力戦し、二王を挟んで囲を潰して走る。玢省みる能わず、嶺東皆乱る。

洪熙日益に声妓を進めて玢を誘い荒恣せしむ。玢亦頗る諸弟の己を図るを疑い、宦官を敕して宮門を守らしめ、入る者は皆索を露わす。洪熙・洪杲・洪昌、陰に陳道庠を遣わし勇士劉思潮・譚令禋・林少彊少良・何昌廷等を養い、習いて角觝を為して以て玢に献ぜしむ。玢長春宮に宴して以てこれを閲す。玢醉いて起つ。道庠と思潮等従いて寝門に至り拉ぎ殺す。其の左右を尽く殺す。玢立つこと二年、年二十四。謚して殤と曰う。弟晟立つ。

晟、初め洪熙と名乗り、晋王に封ぜらる。既に玢をしいし、遂に自立し、元を改めて応乾と曰う。洪昌を兵馬元帥・知政事と為し、洪杲を副元帥と為し、劉思潮等を功臣に封ず。晟既に兄を殺し、立ちて順ならず、衆の伏さざるを懼れ、乃ち益々刑法を峻くして以て衆を威す。已にして洪杲屡々賊を討たんことを請い、陰に晟を勧めて思潮等を誅し以て外議を止めしむ。晟大いに怒り、使者をして夜洪杲を召さしむ。洪杲免れざるを知り、乃ち使者を留め、入りて沐浴を具し、仏前に詣りて祝して曰く、「洪杲誤って念い、来生王宮に生まる。今見殺されんとす。後世当に民家に生まるべく、以て屠害を免れん」。涕泣して家人と訣別し、然る後に召しに赴く。至れば則ちこれを殺す。冬、晟天を南郊に祀り、元を改めて乾和と曰う。群臣尊号を上りて大聖文武大明至道大光孝皇帝と曰う。

二年の夏、洪昌を遣わして海曲にて襄帝の陵を祀らしむ。昌華宮に至り、晟は盗賊を使いこれを刺殺せしむ。晟は自ら洪杲を殺し、これより諸弟と隙あり。而して洪昌は最も賢く、龑が素より立たんと欲する者なり。晟は特にこれを忌み、故に先ず害に及ぶ。鎮王洪澤は邕州に居り、善政あり。この歳鳳凰邕州に見ゆ。晟怒り、人を使い酖殺せしむ。而して諸弟相次いで殺さる。

三年、その弟洪雅を殺し、また劉思潮ら五人を殺す。思潮ら死し、陳道庠懼れ、自ら安からず。その友鄧伸、荀悦の漢紀を以てこれを遺す。道庠能く曉らず。伸罵りて曰く「憝獠!韓信かんしん誅せられ彭越醢にされしこと、皆この書に在り」と。道庠悟り、ますます懼る。晟これを聞きて大いに怒り、道庠・伸を下獄し、皆市にて斬り、その族を夷す。右僕射王翻を以て英州刺史と為し、人を使い路にてこれを殺さしむ。

五年、晟の弟洪弼・洪道・洪益・洪済・洪簡・洪建・洪暐・洪昭、同日皆殺さる。

六年、工部郎中・知制誥鍾允章を遣わし楚に聘して婚を求めしむ。楚許さず。允章還り、晟曰く「馬公また能く南土を経略せんや」と。是の時、馬希広新たに立ち、希萼武陵にて兵を起こす。湖南大いに乱る。允章具に楚の攻むべき状を言ふ。晟乃ち巨象指揮使呉珣・内侍呉懷恩を遣わし賀州を攻めしむ。既にこれを克つ。楚人来り救ふ。珣城下に大穽を鑿ち、上に箔を覆ひ、土を以てこれを傳ふ。楚兵城に迫り、悉く穽中に陥り、死者数千、楚人皆走る。珣ら桂州及び連・宜・厳・梧・蒙の五州を攻め、皆これを克つ。全州を掠めて還る。

九年冬、また内侍潘崇徹を遣わし郴州を攻めしむ。李景の兵も亦在り、崇徹と遇ひ、戦ひ、宜章にて大いに景の兵を敗り、遂に郴州を取る。晟ますます志を得、巨艦指揮使暨彦贇を以て兵を率ゐ海に入り、商人の金帛を掠めて離宮遊獵を為す。故に時に劉氏に南宮・大明・昌華・甘泉・玩華・秀華・玉清・太微諸宮有り、凡そ数百、悉く紀すべからず。宦者林延遇・宮人盧瓊仙、内外に専恣して殺戮を為し、晟復た省みず。常に夜飲大いに醉ひ、瓜を伶人尚玉樓の項に置き、剣を抜きてこれを斬り以て剣を試み、因りて并せてその首を斬る。明日酒醒め、復た玉樓を召して侍飲せしむ。左右已にこれを殺せりと白す。晟歎息するのみ。

十年、湖南の王進逵、兵五万を以て谿洞蠻を率ゐ郴州を攻む。潘崇徹、蠔石にて進逵を敗り、首級万余を斬る。

十一年、晟病甚だ篤し。その子継興をえい王に、璇興を桂王に、慶興を荊王に、保興を祥王に、崇興を梅王に封ず。

十二年、晟親しく藉田を耕す。交州の呉昌濬、使を遣わし臣を称し、節鉞を求む。昌濬は権の子なり。権は龑の時より交州に拠る。龑、洪操を遣わしこれを攻めしむ。洪操戦死し、遂に棄てて復た攻めず。権死し、子昌岌立つ。昌岌卒し、弟昌濬立つ。始めて晟に臣を称す。晟、給事中李璵を遣わし旌節を以てこれを招く。璵白州に至る。濬人を使い璵を止めて曰く「海賊乱を為し、道路通ぜず」と。璵果たして行かず。晟その弟洪邈を殺す。

十三年、またその弟洪政を殺す。ここに於て龑の諸子尽きぬ。顕徳三年、世宗江北を平らぐ。晟始めて惶恐し、使を遣わし京師に貢を脩む。楚人の為に隔てられ、使者行くことを得ず。晟憂ひ色に形はる。また嘗て自ら星を知ると言ふ。末年、月牛女の間に食ふ。書を出だしてこれを占ひ、歎じて曰く「吾まさにこれを当つべし」と。因りて長夜の飲を為す。

十六年、城北に葬域を卜し、甓を運びて壙と為す。晟親しく臨みこれを視る。この秋卒す。年三十九。謚して文武光聖明孝皇帝と曰ひ、廟号中宗、陵を昭陵と曰ふ。子鋹立つ。

鋹、初め名は継興、衞王に封ぜらる。晟卒し、長子を以て立ち、元を改めて大寶と曰ふ。晟は性剛忌にして、臣下を任ずる能はず。而して独りその嬖倖の宦官・宮婢延遇・瓊仙らを任ず。鋹に至りては特に愚にして、羣臣は皆自ら家室有り、子孫を顧みて尽く忠すること能はずと謂ひ、惟だ宦者は親近にして任ずべしと。遂にその政を宦者龔澄樞・陳延壽らに委ぬ。その羣臣に用ひんと欲する者有らば、皆閹して然る後に用ふ。澄樞ら既に政を専にす。鋹乃ち宮婢波斯女らと淫戲を後宮に為し、復た出でて事を省みず。延壽また女巫樊胡子を引き入れ、自ら玉皇の胡子の身に降ると言はしむ。鋹内殿に帳幄を設け、寶貝を陳ぶ。胡子遠遊冠を冠り、紫霞裾を衣て、帳中に坐して禍福を宣べ、鋹を呼んで太子皇帝と為す。国事は皆胡子に決す。盧瓊仙・龔澄樞ら争ひてこれに附く。胡子乃ち鋹の為に言ふ「澄樞らは皆上天の使い来たりて太子を輔くる者、罪有りと雖も問ふべからず」と。尚書左丞鍾允章、政事に参じ、深くこれを嫉み、数たび宦官を誅せんことを請ふ。宦官皆仄目す。

二年、鋹天を南郊に祀る。前三日、允章と禮官壇に登り、四顧指麾す。宦者許彦真これを望み見て曰く「此れ謀反なる爾」と。乃ち剣を抜きて壇に升る。允章迎へてこれを叱す。彦真馳せ走り、允章の反を告ぐ。鋹允章を下獄し、禮部尚書薛用丕を遣わしこれを治めしむ。允章は用丕と旧有り、因りて泣下して曰く「吾今罪無く、自ら誣はれて死するは固より恨み無し。然れども吾が二子皆幼く、父の冤を知らず。其の長ずるを俟ち、公告ぐべし」と。彦真これを聞き、罵りて曰く「反賊、其の子をして仇を報ぜしめんと欲するか」と。復た入りて鋹に白し、并せて二子を捕へ獄に繫ぎ、遂にその族を誅す。陳延壽、鋹に謂ひて曰く「先帝の陛下に伝ふる所以の者は、羣弟を尽く殺せるに由るなり」と。鋹を勧めて稍々諸王を誅し去らしむ。鋹然りと以為ひ、その弟桂王璇興を殺す。是の歳、建隆元年なり。鋹の将邵廷琄、鋹に言ひて曰く「漢は唐の乱に乗じ、此れに居ること五十年、幸ひに中国に故有りて干戈及ばず。而して漢は益々無事に驕る。今兵は旗鼓を識らず、而して人主は存亡を知らず。夫れ天下乱ること久し。乱久しくして治まるは、自然の勢なり。今聞く真主已に出で、必ず将に海内を尽く有たんとす。其の勢は一天下せずして已む能はざるなり」と。鋹を勧めて兵を修め備へと為し、然らずば、珍寶を悉く中国に奉り、使を遣わして以て好を通ぜしむ。鋹懵然として以て慮と為すこと莫く、廷琄の言直なるを悪み、深くこれを恨む。

四年、芝菌宮中に生じ、野獸寝門に触れ、苑中の羊珠を吐き、井旁の石自ら立ち、百余歩を行きて仆る。樊胡子皆符瑞を以て羣臣を諷し入賀せしむ。

五年、鋹、宦者李托の養女を以て貴妃と為し、寵を専にす。托は内太師と為り、中に居りて政を専にす。許彦真既に鍾允章を殺し、龔澄樞ら己が上に居るを悪み、謀りてこれを殺さんとす。澄樞人を使い彦真の反を告げ、その族を誅す。

七年、王師南伐し、郴州を克つ。晟の遣はしし将暨彦贇と刺史陸光図皆戦死す。余衆退きて韶州を保つ。鋹始めて廷琄の言を思い、廷琄を遣わし舟兵を以て洸口に出で王師に抗せしむ。会ふに王師退舍す。廷琄士卒を訓へ、戦備を脩む。嶺人倚りて以て良将と為す。譖する者有りて無名の書を投げ廷琄の反を言ふ。鋹使者を遣わし死を賜ふ。士卒軍門を排し使者を見、廷琄に反状無きを訴ふるも、救ふこと能はず。洸口に祠を立てて之を為す。

八年、交州の呉昌文が卒し、その佐の呂處玶と峯州刺史の喬知祐とが立つを争い、交趾大いに乱る。驩州の丁璉兵を挙げてこれを撃ち破る。鋹、璉に交州節度を授く。

九年、南海の民の妻、子を生むに両首四臂あり。是の時、太祖皇帝、李煜に詔して鋹を諭し、臣と称せしむ。鋹怒り、煜の使者龔慎儀を囚う。

十三年、詔して潭州防禦使潘美に出師せしむ。師、白霞にやどる。鋹、龔澄樞をして賀州を守らしめ、郭崇岳をして桂州を守らしめ、李托をして韶州を守らしめ、以て備う。是の歳の秋、潘美、賀州を平らぐ。十月、昭州を平らぐ。又、桂州を平らぐ。十一月、連州を平らぐ。鋹喜びて曰く、「昭・桂・連・賀は、本湖南に属す。今、北師これを取る、足れり。其れ復た南せざるべし」と。其の愚、此の如し。十二月、韶州を平らぐ。開宝四年正月、英・雄二州を平らぐ。鋹の将潘崇徹先ず降る。師、瀧頭に次る。鋹、使を遣わして和を請い、師の緩むを求む。二月、師、馬逕を度る。鋹、其の右僕射蕭漼を遣わし表を奉じて降る。漼行くや、鋹惶迫し、復た兵を整えて命に拒がんことを令す。美等師を進む。鋹、其の弟祥王保興を遣わし、文武を率いて美の軍に詣りて降る。納れず。龔澄樞・李托等謀りて曰く、「北師の来るは、吾が国の宝貨を利するのみ。焚いて空城と為せば、師駐まる能わず、自ら還るべし」と。乃ち其の府庫・宮殿を尽く焚く。鋹、海舶十余を以て、悉く珍宝・嬪御を載せ、将に海に入らんとす。宦官楽範、其の舟を窃み以て逃げ帰る。師、白田に次る。鋹、素衣白馬を以て降る。俘を京師に献ず。鋹を赦して左千牛衞大將軍と為し、恩赦侯に封ず。其の後の事は国史につぶさなり。隠の興滅の年世、諸書皆同じ。蓋し唐の天祐二年、隠が廣州節度使と為りしより、皇朝の開宝四年、国滅ぶに至るまで、凡そ六十七年。旧五代史は梁の貞明三年、龑が僭号するを始めと為す、故に五十五年と曰うのみ。