新五代史

巻第六十四

目次

孟知祥(子の昶)

孟知祥は字を保胤といい、邢州龍岡の人である。その叔父の遷は、唐の末年に当たり、邢・洺・磁の三州を占拠したが、晋に捕らえられた。晋王は遷をして沢潞を守らせたが、梁の兵が晋を攻撃すると、遷は沢潞を挙げて梁に降った。知祥の父の道は、ただ一人留まって晋に仕えたが顕職には至らなかった。知祥が壮年になると、晋王はその弟の克譲の娘を娶らせ、左教練使とした。荘宗が晋王となると、知祥を中門使とした。これ以前の中門使は多く罪を得て誅殺されていたので、知祥は恐れ、他の職を求めた。荘宗は知祥に代わりうる者を推薦するよう命じ、知祥は郭崇韜を推挙して自らに代えさせた。崇韜はこれを恩に感じ、知祥は馬歩軍都虞候に遷った。荘宗が帝号を建て、太原を北京とし、知祥を太原尹・北京留守とした。

魏王継岌がしょくを伐つに当たり、郭崇韜が招討使となった。崇韜は別れに臨み、申し上げて言うには、「もし臣らが蜀を平定したならば、陛下は西川を守る帥を選ばれるに、孟知祥に如く者はおりません」と。やがて唐の兵は蜀を破り、荘宗は遂に知祥を成都尹・剣南西川節度副大使とした。知祥は急ぎ京師に至ると、荘宗は役人に命じて盛大な供帳を設け、内府の珍奇な諸物を多く出して宴を開き労った。酒が酣になると、昔のことを語り合って笑い楽しみ、嘆いて言うには、「継岌は先日まで乳臭い児であったのに、よくも我がために両川を平定したものよ。我らは老いた。あの若者は喜ばしいが、かえって人を悲しませるよ。我は先帝が世を去られた時を思い起こすと、疆土は侵削され、僅かに一隅を保つのみであった。今日天下を奄有し、九州四海の珍奇異産が我が府庫に充満しているとは、どうして知り得たろうか」と。そこで指し示して知祥に言うには、「我は聞く、蜀土の富はこれと異ならないと。卿は親族にして賢才であるゆえ、これを付託するのである」と。

同光四年正月戊辰、知祥は成都に至ったが、崇韜は既に死んでいた。魏王継岌は軍を率いて東に帰還し、先鋒の康延孝が反逆して漢州を攻め破った。知祥は大将の李仁罕を遣わし、任圜・董璋らの兵と会して延孝を撃破し、知祥はその将の李肇・侯弘実及びその兵数千を得て帰った。そして荘宗が崩じ、魏王継岌が死に、明宗が立った。知祥はそこで兵甲を訓練し、密かに蜀に王たる志を抱いた。義勝・定遠・ぎょう鋭・義寧・飛棹等の軍七万余人を増設し、李仁罕・趙廷隠・張業らに分かってこれを将帥させた。

初め、魏王が軍を返す際、知祥は成都の富人及び王氏の旧臣の家から、銭六百万緡を得て軍を犒労し、残りはなお二百万あった。任圜が蜀より入朝して宰相となり、三司を兼ね判じたが、元より蜀に残る銭のことを知っていた。この冬、知祥は侍中に拝されると、太僕卿の趙季良に官告を持たせてこれを賜い、因って三川制置使とし、蜀の犒軍の残銭を督促して京師に送らせ、且つ両川の征賦を制置させようとした。知祥は怒り、詔に奉じなかった。しかし知祥は季良と旧知であったので、遂に彼を留めた。

枢密使の安重誨は、知祥に異志ありと深く疑い、これを制する方法を考えた。初め、知祥が蜀を鎮める時、荘宗は宦官の焦彦賓を監軍としたが、明宗が立つと、宦官を悉く誅殺し、諸道の監軍を罷めた。彦賓は既に罷められていたが、重誨はまた客省使の李厳を監軍とした。李厳は以前に蜀に使いし、帰ってから蜀を伐つ献策をしたので、蜀人は皆これを憎み、知祥もまた怒って言うには、「焦彦賓は先例により罷められ、諸道は皆監軍を廃したのに、独り我が軍にこれを置くとは、これは李厳が蜀を再び功としようとするのである」と。掌書記の毋昭裔及び諸将吏は皆、李厳を止めて受け入れないよう請うたが、知祥は言うには、「我は彼の来るのを待つ手段を講じよう」と。李厳が境上に至ると、人を遣わして書を持たせ知祥に挨拶させた。知祥は大軍を整えてこれに会い、李厳が恐れて来ないことを期待したが、李厳はこれを聞いて泰然自若であった。天成二年正月、李厳は成都に至り、知祥は酒宴を設けて李厳を招いた。この時、焦彦賓は罷められていたが、なお蜀にいた。李厳は懐中から詔書を出して知祥に示し、彦賓を誅殺せよと命じた。知祥は聞き入れず、因って李厳を責めて言うには、「今、諸方鎮は既に監軍を罷めている。公はどうしてここに来ることができようか」と。客将の王彦銖に目配せして李厳を捕らえ下げさせ、斬った。明宗は詰問することができなかった。

初め、知祥が蜀を鎮めた時、人を遣わしてその家族を太原から迎えさせた。鳳翔まで行くと、鳳翔節度使の李従曮は知祥が李厳を殺したと聞き、知祥が反逆したと思い、遂にこれを留めた。明宗は既に詰問できず、恩信をもって懐柔しようとし、客省使の李仁矩を遣わして知祥を慰撫諭させ、併せて瓊華公主及びその子の昶らを送り返した。

知祥はそこで趙季良を節度副使とするよう請い、事の大小を問わず、皆彼と参決した。三年、唐は季良を果州団練使に転任させ、何瓚を節度副使とした。知祥は制書を得るとこれを隠し、表を奉って季良を留めるよう請うたが、許されなかった。そこでその将の雷廷魯を京師に遣わして論請させたところ、明宗は已むなくこれに従った。この時、何瓚は緜谷まで行ったが、恐れて進もうとせず、知祥はそこで何瓚を行軍司馬に奏請した。

この年、唐の軍が荊南を伐つに当たり、詔して知祥に兵を率いて峡を下らせようとした。知祥は毛重威に兵三千を率いさせて夔州に戍らせた。やがて荊南の高季興が死に、その子の従誨が帰順を請うたので、知祥は戍兵を罷めるよう請うたが、許されなかった。知祥は重威に示唆して兵を鼓譟させ、潰走して帰還させた。唐は詔書をもって重威を弾劾したが、知祥は弾劾しないよう奏請した。これにより、唐の大臣はますます知祥が必ず反逆すると考えるようになった。

四年、明宗が南郊で祭祀を行おうとし、李仁矩を遣わして知祥に助礼銭百万緡を責めさせた。知祥は唐の謀略が己を困らせようとするものと悟り、辞して出そうとしなかった。久しくして、五十万を献ずるのみを請うた。初め、魏王継岌が東帰する際、精兵五千を留めて蜀に戍らせた。安重誨が知祥に異志ありと疑うようになってからは、言事者の言葉を聞き入れ、自らの親信を用いて両川管内の諸州を分かって守らせ、守将を除くごとに精兵をその牙隊とし、多い者は二三千、少ない者も五百人を下らず、緩急に備えさせた。この年、夏魯奇を武信軍節度使とし、東川の閬州を分けて保寧軍とし、李仁矩をその節度使とした。また武虔裕を緜州刺史とした。仁矩は東川の董璋と不和であり、虔裕は重誨の従兄であった。これにより璋と知祥は皆恐れ、唐が討伐を致そうとしていると考えた。璋が東川を鎮めて以来、知祥と通問したことはなかったが、この時璋は初めて人を遣わして婚姻を求めて結びつこうとした。知祥は心の中で璋を恨んでおり、許そうとしなかったが、趙季良に問うと、季良は唐に抗するために合従すべきと考えるので、知祥は遂に許した。そこで連名で表を奉り、唐が遣わした節度使・刺史等を罷めて還すよう請うた。明宗は優詔をもってこれを慰撫した。

長興元年二月、明宗が南郊で祭祀を行うに当たり、知祥を中書令に加拝した。初め、知祥と璋は共に異志を抱いていたが、重誨は言事者を信じ、璋は国に忠を尽くし、独り知祥のみが疑わしいと考え、重誨はなお璋を頼りにして知祥を図ろうとした。この年九月、董璋が先に反逆し、閬州を攻め破り、李仁矩を擒らえて殺した。この月の応聖節に、知祥は宴を開き、東北の方角を望んで再拝し、俯伏して嗚咽し、涙が襟を濡らした。士卒は皆これにため息をつき、翌日遂に挙兵して反逆した。

この秋、明宗は瓊華公主を福慶長公主に改封せんとし、有司が言うには、前世の公主が封を受けるは皆降嫁せず、使者を藩に遣わして冊命する儀礼なしと。詔して有司に新儀を草具せしめ、乃ち秘書監劉岳を冊使として遣わす。岳は鳳翔に行き至り、知祥の反するを聞き、乃ち還る。明宗は詔を下し知祥の官爵を削奪し、天雄軍節度使石敬瑭を都招討使とし、夏魯奇を副とす。知祥は李仁罕、張業、趙廷隱に兵三万人を将いて璋と会し遂州を攻めしめ、別に侯弘実に四千人を将いて璋を助け東川を守らしめ、又た張武に峡を下り渝州を取らしむ。唐師は剣門を攻め、璋の守兵三千人を殺し、遂に剣門に入る。璋来たりて急を告ぐ、知祥大いに駭き、廷隱に分兵一万を以て東せしむ、既にして唐軍の剣州に止まり進まざるを聞き、喜びて曰く「唐軍をして急ぎ東川に趨らしめば、則ち遂州の囲み解け、吾が勢い沮みて両川動揺せん。今其の進まざるは、吾れ易く与うるを知るのみ」と。十二月、敬瑭及び廷隱は剣門に戦い、唐師大いに敗る。張武は既に渝州を取り、武病卒す、其の副将袁彦超代わりに其の軍を将い、又た黔州を取る。二年正月、李仁罕は遂州を克ち、夏魯奇之に死す、知祥は仁罕を武信軍留後と為し、人を馳せて魯奇の首を敬瑭の軍に示せしむ、敬瑭乃ち師を班す。利州の李彦珂は唐軍の敗れ東帰するを聞き、乃ち城を棄てて走る、知祥は趙廷隱を昭武軍留後と為す。李仁罕は夔州を進攻し、刺史安崇阮は城を棄てて走る、趙季良を留後と為す。

是の時、唐軍は険に渉り、餉道を以て艱しと為し、潼関以西より、民は転饋を苦しみ、毎に一石を費やして一斗を致す能わず、道路嗟怨す、而して敬瑭の軍も亦旋り、所在の守将又皆城を棄てて走る。明宗之を憂い、以て安重誨を責む。重誨懼れ、遽に自ら行くを請う。而して重誨も亦讒せられて罪を得て死す。明宗は知祥等の反するを致すは、重誨の失策に由ると謂い、重誨の死するに及び、乃ち西川進奏官蘇愿、進奉軍将杜紹本を遣わし西帰して知祥を招諭せしめ、詳しく知祥の家属の京師に在る者は皆恙無きを言わしむ。

知祥は重誨の誅死するを聞き、而して唐の其の家属を厚く待つにより、乃ち璋を邀えて同謝罪せんと欲す、璋曰く「孟公の家属は皆存し、而して我が子孫は独り殺さる、我何を謝せんや」と。知祥三たび使を遣わして璋を見えしむ、璋聴かず、乃ち観察判官李昊を遣わし璋を説かしむ、璋益々知祥の己を売るを疑い、因りて怒を発し、語を以て昊を侵す。昊乃ち知祥を勧めて之を攻めしむ。而して璋先ず知祥の漢州を襲い破り、知祥は趙廷隱に兵三万を率いしめ、自ら将いて之を撃ち、鷄距橋に陣す。知祥は璋の降卒を得、錦袍を衣せしめ、書を持たせて璋を招降せしむ、璋曰く「事已に此に及び、悔ゆる可からず」と。璋の軍士皆譟ぎて曰く「徒に我を日中に曝す、何ぞ速やかに戦わざる」と。璋即ち軍を麾して以て戦う。兵始めて交わるや、璋の偏将張守進來たりて降る、知祥之に乗ず、璋遂に大いに敗れ、走る。金鴈橋を過ぎ、其の子光嗣を麾して降らしめ、以て家族を保たしめんとす、光嗣哭して曰く「古より豈に父を殺して以て生を求むる者あらんや、寧ろ倶に死に就かん」と。因りて璋と倶に走る。知祥は趙廷隱を遣わし之を追わしむ、及ばず、璋は走りて梓州に至り殺さる、光嗣は自縊して死す、知祥遂に東川を併有す。然れども璋の死より、知祥終に使を遣わして唐に謝せず。

唐の枢密使范延光曰く「知祥は雖も已に璋を破れりと雖も、必ず朝廷の勢いを借り、以て両川の重きと為さん、自ら屈意を以て之を招かざれば、彼も亦自ら帰る能わざるなり」と。明宗曰く「知祥は吾が故人なり、本より間諜に因りて此の危疑を致す、吾が故人を撫するに、何の屈意かあらん」と。先ず是れ、克寧の妻孟氏は、知祥の妹なり。荘宗は既に克寧を殺し、孟氏は知祥に帰る、其の子瓌は、留まりて唐に事え供奉官と為る。明宗は即ち瓌を遣わし其の母を省せしめ、因りて知祥に詔書を賜い之を招慰す。知祥は両川を兼ね据え、趙季良を武泰軍留後と為し、李仁罕を武信軍留後と為し、趙廷隱を保寧軍留後と為し、張業を寧江軍留後と為し、李肇を昭武軍留後と為す。季良等は因りて知祥に王を称し、墨制を以て事を行わんことを請う、議未だ決せずして瓌蜀に至る。知祥は瓌を見て倨慢なり。九月、瓌は蜀より還り、知祥の表を得、趙季良等を除して五鎮の節度使と為すを請い、其の余の刺史已下は、自ら除授を得んことを請う。又た蜀王に封ぜられんことを請い、且つ言うに福慶公主は已に卒せりと。明宗之が為に哀を発し、閤門使劉政恩を宣諭使と為して遣わす。政恩復命し、知祥始めて其の将朱滉を遣わし来朝せしむ。

四年二月癸亥、制を以て知祥を検校太尉兼中書令と為し、行成都尹、剣南東西両川節度、管内観察処置、統押近界諸蛮、兼西山八国雲南安撫制置等使と為す。工部尚書盧文紀を遣わし知祥を冊封して蜀王と為し、而して趙季良等五人皆節度使を拝す。唐兵の先ず蜀に在る者数万人、知祥は皆其の衣食を厚く給し、因りて其の家属を送らんことを請う、明宗詔諭して許さず。十一月、明宗崩ず。明年閏正月、知祥乃ち即皇帝位し、国号を蜀とす。趙季良を司空しくう、同中書門下平章事と為し、中門使王処回を枢密使と為し、李昊を翰林学士と為す。

三月、唐の潞王は鳳翔に於いて兵を挙ぐ、愍帝は王思同等を遣わし之を討たしむ、思同の兵潰え、山南西道節度使張虔釗、武定軍節度使孫漢韶皆其の地を以て蜀に附す。四月、知祥は元を改めて明德と曰う。六月、虔釗等は成都に至り、知祥は之を宴労し、虔釗は觴を奉じ起ちて寿を為す、知祥は手緩にして觴を挙ぐる能わず、遂に病み、其の子昶を以て皇太子と為し国を監せしむ。知祥卒し、謚して文武聖徳英烈明孝皇帝と為し、廟号を高祖こうそと曰い、陵を和陵と曰う。

昶は、知祥の第三子なり。知祥が両川節度使たりし時、昶は行軍司馬なり。知祥が号を僭すに及び、昶を以て東川節度使、同中書門下平章事と為す。知祥病み、昶国を監す。知祥已に卒すと雖も祕して発せず、王処回は夜に趙季良を過ぎ、相対して泣涕止まず、季良は正色して曰く「今疆侯は兵を握り、専ら時変を伺う、当に速やかに嗣君を立て以て非望を絶つべし、泣くは益無し」と。処回は遂に季良と昶を立て、而して後発喪す。昶立ち、元を改めず、仍って明德と称し、五年に至り始めて元を改めて広政と曰う。

明徳三年三月、熒惑積尸を犯す、昶は以て積尸は蜀の分なりと謂い、懼れ、之を禳わんと欲し、以て司天少監胡韞に問う、韞曰く「十二次に按ずるに、井五度より起り柳八度に至り、鶉首の次と為す、鶉首は秦の分なり、蜀は秦に属すと雖も、乃ち極南の表のみ。前世火鬼に入る、其の応は秦に在り。晋の咸和九年三月、火積尸を犯す、四月、雍州刺史郭権殺さる。義熙四年、火鬼を犯す、明年、雍州刺史朱齢石殺さる。而して蜀は皆事無し」と。乃ち止む。

昶は毬を打ち馬を走らせることを好み、また方士の房中術を修め、多くの良家の子女を採り後宮に充てた。枢密副使韓保貞が切に諫めると、昶は大いに悟り、即日に彼女らを出し、保貞に金数斤を賜った。上書する者がおり、台省の官は清流を選ぶべきだと述べた。昶は嘆いて言った、「どうしてその人を選んで任用せよと言わないのか」。左右の者がその言葉をもって上書者を詰問しようと請うと、昶は言った、「我は唐太宗が即位した初め、獄吏孫伏伽が上書して事を言い、皆嘉納されたのを見る。どうして諫めを拒むよう勧めるのか」。

しかし昶は年少で政事に親しまず、将相大臣は皆知祥の旧人であり、知祥は寛厚で多くを優しく放任したので、昶に事えるに及んで、ますます驕慢になり、多く法度を越え、広壮な邸宅を務め、人の良田を奪い、その墳墓を発掘したが、李仁罕・張業が特に甚だしかった。昶が即位して数か月、仁罕を捕らえて殺し、併せてその家を族滅した。この時、李肇が鎮より来朝し、杖をついて入見し、病と称して拝礼せず、仁罕の死を聞くと、急ぎ杖を捨てて拝礼した。

広政九年、趙季良が卒去し、張業がますます権勢を振るった。業は仁罕の甥である。仁罕が誅殺された時、業はちょうど禁兵を掌握しており、昶はその反逆を恐れ、乃ちこれを用いて相とし、業は度支を兼ね判じ、家に獄を置き、酷法をもって蜀人から重税を徴収することを務めたので、蜀人は大いに怨んだ。十一年、昶は匡聖指揮使安思謙と謀り、業を捕らえて殺した。王処回・趙廷隠が相次いで致仕し、ここにおいて故将旧臣はほとんど尽きた。昶は初めて政事に親しみ、朝堂に匭を置いて下情を通じさせた。

この時、契丹が晋を滅ぼし、漢の高祖が太原より起こり、中国は多事であった。雄武軍節度使何建が秦・成・階の三州を率いて蜀に附き、昶はこれにより孫漢韶を遣わして鳳州を攻め落とし、ここにおいて王衍の旧地をことごとく有した。漢の将趙思綰が永興に拠り、王景崇が鳳翔に拠って反し、皆昶に款を通じた。昶は張虔釗を遣わして大散関より出し、何建を遣わして隴右より出し、李廷珪を遣わして子午谷より出し、思綰に応じさせた。昶の相毋昭裔が切に諫め、不可と為したが、昶の志は関中を窺うことを甚だ鋭く欲し、乃ち安思謙を遣わして兵を増やして東に向かわせた。やがて漢が思綰・景崇を誅し、虔釗らは皆罷めて帰り、思謙は無功を恥じ、多くの士卒を殺して衆を威した。昶は翰林使王藻と謀って思謙を殺そうとしたが、辺吏に急奏があり、藻は時にこれを聞かず、すぐにその封を開いたので、昶はこれを怒った。思謙を殺す時、藻はちょうど側に侍しており、これにより併せて藻を擒らえて斬った。

十二年、吏部三銓・礼部貢挙を置いた。

十三年、昶は号を加えて睿文英武仁聖明孝皇帝とした。子の玄喆を秦王に封じ、六軍事を判じさせ、次子の玄珏を褒王とし、弟の仁毅を夔王、仁贄を雅王、仁裕を嘉王とした。

十八年、周の世宗が蜀を伐ち、秦州より攻めた。昶は韓継勲を雄武軍節度使とし、周師が来伐すると聞き、嘆いて言った、「継勲はどうして周兵に当たりえようか」。客省使趙季札が行くことを請うたので、乃ち季札を秦州監軍使とした。季札が徳陽に行き至り、周兵の来るを聞き、急ぎ馳せ戻って奏事した。昶がこれを問うと、季札は惶懼して一言も述べることができず、昶は怒ってこれを殺し、乃ち高彦儔・李廷珪を遣わして堂倉より出て周師を拒がせた。彦儔は大敗し、青泥に走り、ここにおいて秦・成・階・鳳は再び周に帰した。昶は懼れ、使者を分遣して南唐・東漢に聘問し、形勢を張らせた。

二十年、世宗は得た蜀の俘虜を帰した。昶もまた獲た周の将胡立を京師に帰し、これにより世宗に書を寓したが、世宗は昶に臣たる礼なしと怒り、答えなかった。

二十一年、周兵が南唐を伐ち、淮南十四州を取ったので、諸国は皆懼れた。荊南の高保融は書を以て昶を招き周に帰させようとしたが、昶は以前に世宗に書を致して答えられなかったので、乃ち止めた。昶の幼子玄宝は、生まれて七歳で卒去した。太常は服しない殤には贈典なしと言ったが、昶が李昊に問うと、昊は言った、「昔、唐の徳宗の皇子評は、生まれて四歳で卒去し、揚州大都督ととくを贈られ、肅王に封ぜられた。これ故事である」。昶は乃ち玄宝に青州大都督を贈り、遂王を追封した。

二十五年、秦王玄喆を立てて皇太子とした。昶は晋・漢の際に幸いし、中国は多事であったが、険阻な一方に拠り、君臣は奢侈を務めて自ら楽しみ、溺器に至るまで皆七宝で飾った。宋が興り、すでに荊・潭を下すと、昶はますます懼れ、大程官孫遇を遣わして蠟丸書を持たせて密かに東漢に行かせ、出兵を約して中国を撓ませようとしたが、遇は辺吏に捕らえられた。太祖皇帝は遂に詔して蜀を伐ち、王全斌・崔彦進らを遣わして鳳州より出し、劉光乂・曹彬らを遣わして帰州より出させた。詔して八作司に右掖門の南を測らせ、汴水に臨んで昶のため第一区の邸宅を造らせ、凡そ五百余間、供帳什物を皆備え、昶を待った。

昶は王昭遠・趙彦韜らを遣わして命に抗した。昭遠は成都の人で、十三歳の時、東郭の禅師智諲に事えて童子となった。知祥がかつて府で僧に飯を施した時、昭遠は巾履を執って智諲に従って入り、知祥はこれを見て、その聡明さを愛した。時に昶はちょうど学に就いており、即ち昭遠を命じて左右に給事させ、親しく狎れた。昶が立つと、捲簾使とした。枢密使王処回が致仕すると、昶は枢密使の権が重く制し難いと考え、乃ち昭遠を通奏使知枢密使事としたが、事の大小にかかわらず、一切をこれに委ね、府庫の金帛を恣に取らせても問わなかった。昶の母李太后は常に昶に昭遠を用いるべからずと言ったが、昶は聞かなかった。昭遠は兵書を読むことを好み、方略を以て自ら任じた。兵が成都を発する初め、昶は李昊らを遣わしてこれを餞った。昭遠は手に鉄如意を執り、軍事を指揮し、自ら諸葛亮に比し、酒酣に及び、昊に謂って言った、「我がこの行は、何ぞただ敵を克つに止まらん、この二三万の彫面の悪少年を率い、中原を取ること反掌の如くならん」。昶はまた子の玄喆を遣わし精兵数万を率いさせて剣門を守らせた。玄喆はその愛姫を輦に乗せ、楽器・伶人数十を携えて従い、蜀人が見る者は皆窃かに笑った。全斌が三泉に至り、昭遠に遇い、これを撃破した。昭遠は吉柏江の浮橋を焼き、退いて剣門を守った。軍頭の向韜が蜀の降卒の言葉を得た、「来蘇の小路は、剣門の南清彊店に出て、大路と合流する」。全斌は偏将の史延徳を遣わし分兵して来蘇より出し、北より剣門を撃ち、全斌と挟み撃ちにした。昭遠・彦韜は敗走し、皆擒らえられた。玄喆は昭遠らの敗を聞き、亦逃げ帰った。

劉光乂が夔州を攻めると、守将の高彦儔は戦いに敗れ、牙城を閉じて拒守した。判官の羅済がその逃走を勧めると、彦儔は言った、「我は昔秦川を守れず、今また敗走する。たとえ人主が我を殺さずとも、我何の面目あって蜀人に見えようか」。またその降伏を勧めたが、彦儔は許さず、乃ち自ら焚死した。而して蜀兵は所在で奔潰し、将帥は多く擒獲された。昶は左右に計を問うと、老将の石頵は、東兵は遠くより来たり、勢い久しからずと謂い、兵を聚めて堅守しこれを疲弊させるべきと説いた。昶は嘆いて言った、「我と先君は温衣美食をもって士を養うこと四十年、一旦敵に臨み、我がために東に向かって一矢を放つこと能わず。たとえ堅壁せんと欲すとも、誰が我と共に守らん」。乃ち李昊に命じて降表を草させた。時は乾徳三年正月である。興師より昶の降るに至るまで、凡そ六十六日であった。初め、昊は王衍に事えて翰林学士となり、衍の亡ぶ時、昊が降表を草し、ここに至ってまた草した。蜀人は夜その門に表して「世脩降表李家」と書き、当時伝えて笑いとした。

昶は京師に至り、検校太師兼中書令に拝され、秦國公に封ぜられ、七日にして卒し、楚王を追封された。その母李氏は、人となり明辯にして、甚だ優礼せられ、詔書に「國母」と呼びかけられた。嘗て召見して労いていわく、「母は善く自ら愛し、蜀を思って戚戚とすることなかれ。他日必ず母を送り帰さん」と。李氏いわく、「妾が家は本より太原にあり、もし故郷に帰り老いるを得ば、大願に勝えず」と。この時劉鈞なお在り。太祖大いに喜んでいわく、「劉鈞を平らげし後、必ず母の願いの如くせん」と。昶の卒するや、李氏は哭かず、酒を地に酹して祝していわく、「汝は社稷のために死すること能わず、苟くも生を取って羞を取る。吾が忍びて死せざる所以は、汝の在るを以てなり。吾今何を以て生を用いんや」と。ここに因りて食せずして卒す。その余の事は国史に具わる。知祥の興滅の年数甚だ明らか、諸書皆同じ。蓋し同光三年乙酉蜀に入り、皇朝乾徳三年乙丑に国滅するまで、凡そ四十一年。ただ旧五代史に云う、同光三年丙戌より乾徳三年乙丑まで四十年と、謬なり。