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銭鏐(子は元瓘、元瓘の子は佐、佐の弟は俶)
銭鏐、字は具美、杭州臨安の人である。臨安の里中に大木があり、鏐が幼い時、群児と木の下で遊び、鏐は大石に坐して群児を指揮し隊伍と為し、号令は頗る法あり、群児皆之を憚った。壮に及び、無頼となり、生業を事とするを喜ばず、塩を販って盗みを為した。
県の録事鍾起には数人の子があり、鏐と飲み博打をした。起は嘗て其の諸子を禁じたが、諸子は多く窃かに之に従って遊んだ。豫章に術を善くする者がおり、牛斗の間に王気有るを望んだ。牛斗は銭塘の分野である。因って銭塘に遊び、之を占うに臨安に在り。乃ち臨安に至り、相法を以て市中に隠れ、陰かに其人を求めた。起は術者と親しく、術者は私かに起に謂いて曰く、「君の県に貴人有るを占う。之を市中に求むるも得ず。君の相の貴きを視る、然れども之に当たるに足らず」と。起は乃ち酒を設け、悉く賢豪を召して会を為し、陰かに術者に令して徧く之を視しめたが、皆之に当たるに足らなかった。術者が起の家を過ぎた時、鏐が丁度外より来たり、起を見て、反って走った。術者が之を望見し、大いに驚いて曰く、「此れ真の貴人なり」と。起は笑って曰く、「此れ吾が傍舎の銭生なるのみ」と。術者は鏐を召し至らせ、熟視し、顧みて起に曰く、「君の貴きは、此の人に因るなり」と。乃ち鏐を慰めて曰く、「子の骨法は尋常ならず、願わくば自ら愛せよ」と。因って起と訣別して曰く、「吾が其人を求むるは、欲する所有るに非ず、直ちに吾が術を質さんと欲するのみ」と。明日乃ち去った。起は始めて其の子等を縦して鏐と遊ばせ、時に其の窮乏を貸した。
四年、僖宗は中使焦居璠を遣わし杭・越通和使と為し、詔して昌及び漢宏に兵を罷めしめたが、皆詔を奉じなかった。漢宏は其の将朱褒・韓公玫・施堅実等を遣わし舟兵を以て望海に屯した。鏐は平水より出で、成及は夜に奇兵を率いて曹娥埭に於いて褒等を破り、進んで豊山に屯し、施堅実等は降り、遂に越州を攻め破った。漢宏は台州に走り、台州刺史は漢宏を執り鏐に送り、会稽に於いて斬り、其の家を族した。鏐は乃ち昌が漢宏に代わるを奏し、而して自ら杭州に居った。
昭宗は鏐を杭州防禦使に拝した。是の時、楊行密・孫儒が淮南を争い、鏐と蘇・常の間で戦った。久しくして、儒は行密に殺され、行密は淮南を拠り、潤州を取り、鏐も亦た蘇・常を取った。唐は越州を威勝軍に昇格し、董昌を節度使と為し、隴西郡王に封じ、杭州を武勝軍とし、鏐を都団練使に拝し、成及を副使とした。及は字は弘済、鏐と同事として攻討し、謀は多く及より出で、而して鏐は女を以て及の子仁琇に妻せしめた。鏐は乃ち杜稜・阮結・顧全武等を将校と為し、沈崧・皮光業・林鼎・羅隠を賓客とした。
昭宗は詔を下し昌の官爵を削り、鏐を彭城郡王・浙江東道招討使に封じた。鏐曰く、「董氏は吾に恩有り、遽かに伐つべからず」と。兵三万を以て迎恩門に屯し、其の客沈滂を遣わし昌を諭して過ちを改めしめた。昌は銭二百万を以て軍を犒い、応智等を執って軍中に送り、自ら罪を待つを請うたので、鏐は乃ち兵を還した。昌は復た命を拒み、其の将陳郁・崔温等を遣わし香厳・石侯に屯し、楊行密に兵を乞うた。行密は安仁義を遣わし昌を救わしめた。鏐は顧全武を遣わし昌を攻め、崔温を斬った。昌の用いる諸将徐珣・湯臼・袁邠は皆庸人にして、兵を知らず、全武に遇うや輒ち敗れた。昌の兄の子真は驍勇にして戦を善くし、全武等之を攻むるも、年を逾えても克つ能わず。真は其の裨将刺羽と隙有り、羽之を譖すと、昌は真を殺し、兵乃ち敗れた。全武は昌を執り杭州に帰る。西小江に行き至り、昌は左右を顧みて曰く、「吾は銭公と俱に郷里より起り、吾は嘗て大将と為りし。今何の面目を以て復た之を見んや」と。左右相対して泣下し、因って瞋目して大呼し、水に投じて死した。
楊渥の将周本・陳章が蘇州を包囲した。錢鏐はその弟鋸・鏢を派遣してこれを救援した。淮兵は水柵を以て城を環らし、銅鈴を網に繫ぎ水中に沈め、潜行する者を断った。水軍の卒司馬福は智謀多く水行に長けていた。そこで先ず巨竹で網に触れさせると、淮人は鈴の音を聞いて網を挙げたので、福は過ぎることができた。城中に入ることも、出ることも同様であった。そこでその軍号を取って内外夾攻し、号令相応じたので、淮人はこれを神の如く思い、遂に大いにこれを破り、周本らは走り、その将閭丘直・何明らを擒らえた。
唐の荘宗が洛に入ると、錢鏐は使者を遣わして貢献し、玉冊を求めた。荘宗はその議を有司に下すと、群臣皆、天子に非ざれば玉冊を用いるべからずと謂い、郭崇韜は特に不可としたが、既にしてこれを許し、乃ち錢鏐に玉冊・金印を賜った。錢鏐はこれにより鎮海等軍節度をその子元瓘に授け、自ら呉越国王と称し、居所を宮殿と改称し、府を朝とし、官属皆臣と称し、玉冊・金券・詔書の三楼を衣錦軍に建て、使者を派遣して新羅・渤海王を冊立し、海中諸国の君長を皆封拝した。
元瓘は字を明寶といい、少時に田頵のもとで人質となった。田頵が呉に叛くと、楊行密は越兵と会してこれを攻めた。田頵は戦うごとに敗れて帰ると、即ち元瓘を殺そうとしたが、田頵の母が嘗てこれを蔽い護った。後に田頵が出陣せんとし、左右に語って言う、「今日勝たずんば、必ず銭郎を斬らん」。この日田頵は戦死し、元瓘は帰還を得た。
錢鏐が臥病すると、諸大将を召して告げて言う、「我が子は皆愚懦にして後事を任ずるに足らず。我死せば、公等自らこれを択べ」。諸将涙を流し、皆言う、「元瓘は王に従い征伐すること最も功有り、諸子及ぶ者なし。請う立つべし」。錢鏐は乃ち筦鑰数篋を出し、元瓘を召してこれを与えて言う、「諸将爾を許せり」。錢鏐卒す。元瓘立つ。呉越国王を襲封し、玉冊・金印は皆錢鏐の故事の如くであった。
王延政が建州に自立し、閩中大乱す。元瓘はその将仰詮・薛万忠らを派遣してこれを攻めたが、一年を逾えて大敗して帰った。元瓘もまた将士を善く撫で、儒學を好み、詩を善くし、その国相沈崧に択能院を置かせ、呉中の文士を選び録用させた。然れども性特に奢侈僭越を好み、宮室を治めることを好んだ。天福六年、杭州大火あり、その宮室を焼き尽くさんとし、元瓘はこれを避けるも、火は輒ち随って発し、元瓘は大いに懼れ、因って狂疾を病み、この歳卒す。年五十五。諡して文穆という。子佐立つ。
佐は字を祐といい、立つとき年十三。諸将は皆佐を軽んじた。佐は初めこれを優容したが、諸将稍々法に背くに及び、佐は乃ちその大将章徳安を明州に、李文慶を睦州に黜し、内都監杜昭達・統軍使闞璠を殺した。これにより国中皆畏懼した。
王延羲・延政兄弟相攻め、卓儼明・朱文進・李仁達ら自ら相篡殺し、兵を連ねて解けざること数年。李仁達は李景に附き、已にしてまた叛き、李景の兵がこれを攻めると、李仁達は佐に救援を求めた。佐は諸将を召して事を計る。諸将は皆行くことを欲せず、佐は奮然として言う、「我れ元帥たり。而して兵を挙げずんば可ならんや。諸将は吾が家が素より畜養する者、独り身を以て我に先んずることを肯んぜざるか。我が議に異なる者有らば斬る」。乃ちその統軍使張筠・趙承泰らに兵三万を率いさせ、水陸よりこれに赴かせた。将を遣わして軍に誓わせると、号令斉整たり。張筠らは大いに李景の兵を破り、俘馘万計を獲、その将楊業・蔡遇らを擒らえ、遂に福州を取って還った。これにより諸将皆服した。
佐は七年間補佐し、襲封して呉越国王となり、玉冊・金印は皆元瓘の時と同じであった。開運四年、佐は卒し、年二十、諡して忠献という。弟の俶が立つ。
倧は字を文徳という。佐が卒すると、弟の倧が順序に従って立った。初め、元瓘が宣州に質となった時、胡進思・戴惲らを従者として連れ、元瓘が立つと、進思らを用いて大将とした。佐は既に年少であったので、進思は旧将として自らを遇し、甚だ尊礼されたが、倧が立つと、頗る卑しめて侮ったので、進思は平らかでいられなかった。倧が碧波亭で大いに兵を閲し、賞を定めようとした時、進思が前に進み出て賞が厚すぎると諫めたので、倧は怒って筆を水中に投げて曰く、「物を軍士に与えるのは、我が私する所ではない、何ぞ咎められることがあろうか」と。進思は大いに恐れた。歳末に、画工が鍾馗撃鬼図を献じたので、倧は詩を図上に題した。進思はこれを見て大いに悟り、倧が己を殺そうとしていることを知った。その夜、衛兵を擁して倧を廃し、義和院に囚え、俶を迎えて立て、倧を東府に遷した。俶は漢・周を歴て、襲封して呉越国王となり、玉冊・金印を賜った。
世宗が淮南を征した時、詔して俶に常・宣二州を攻めて李景を牽制させようとしたので、俶は国中の兵を整えて待った。景は周師が大挙して来ると聞き、乃ち使者を遣わして安撫し、境上は皆戒厳した。蘇州の候吏陳満は景の使者であることを知らず、朝廷が既に諸州を克服し、使者を遣わして安撫したのだと思い、急いで俶に言上し、挙兵して応ずることを請うた。俶の相国呉程は急いで兵を調えて出撃し、相国元徳昭は王師は必ず未だ淮を渡っていないとし、程と俶の前で争ったが、止めることができなかった。程らは常州を攻めたが、果たして景の将柴克宏に敗れ、程の裨将邵可遷は力戦し、可遷の子が馬前で死んでも、なお戦って顧みず、程らは僅かに身をもって免れた。周師が淮を渡ると、俶は乃ち国中の丁民を悉く徴発して兵を増やし、邵可遷らに戦船四百艘・水軍一万七千人を率いさせて通州に至らせ、期日に会わせた。
呉越は唐末より国を持ち、楊行密・李昪が江淮を占拠していた。呉越の貢賦や朝廷の使者派遣は、皆登州・萊州から海を渡り、毎年しばしばその使者が漂流・溺死した。顕徳四年、詔して左諫議大夫尹日就・吏部郎中崔頌らを俶のもとに遣わし、世宗は彼らに諭して曰く、「朕が此行は決して江北を平定する、卿らは帰りには陸路で来るがよい」と。五年、王師が淮を征し、正月に静海軍を克服すると、日就らは果たして陸路で帰還した。世宗が淮南を平定した後、使者を遣わして俶に兵甲・旗幟・橐駝・羊馬を賜った。
嗚呼、天人の際は、言い難いことである。徒らに古来の術者が奇を好んで幸いに当たるのみならず、英豪や草賊に至るまで多く妖祥に自ら託するのは、豈に愚衆を欺惑するため、用いる所があるからであろうか。蓋しその興るや、功德漸積の勤め有るに非ずして、黥髠の盗販が、王侯の中から倔起し、而して人も亦楽しんでこれを伝えるのであろうか。銭氏の始終を考うるに、一方に徳沢を施した有るに非ず、百年の間、その人を虐用すること甚だしく、その気象に動かされたのは、豈にその孽ではなかろうか。この時四海分裂し、その暴に勝えず、又豈に皆然るであろうか。これらは皆得る所無くして推測するのであろうか。術者の言は、当たらない者が多く当たる者が少ないのに、人は特に当たった者を喜んで語るのであろうか。