卷六十二
目次
李昪(子は景、景の子は煜)
李昪は字を正倫といい、徐州の人である。家柄は元より微賤で、父の榮は、唐末の乱に遭い、その行くえを知らない。昪は幼くして孤となり、濠州・泗州の間に流寓していたが、楊行密が濠州を攻めた時、これを得て、その状貌の非凡なるを奇とし、養子とした。しかし楊氏の諸子は容れることができず、行密は徐溫に乞い与えたので、徐氏を冒姓し、名を知誥といった。壮年に至り、身長七尺、広い額に高い鼻であった。人となりは温厚にして謀略あり。呉の樓船軍使となり、舟兵を率いて金陵に屯した。柴再用が宣州を攻めた時、その兵を用いて李遇を殺し、昪は功により昇州刺史に任ぜられた。当時江淮は平定されたばかりで、州県の吏は多く武夫であり、賦斂を務めて戦守に備えたが、昪は独り学を好み、儒者を礼遇し、自ら勤儉を励み、寛仁を以て政を行ったので、民は次第にこれを称えた。徐溫が潤州を鎮守し、昇州・池州など六州を管轄とした時、溫は昪が昇州を治めて善政あるを聞き、往って視察すると、その府庫充実し、城壁修整しているのを見て、自らここに治所を移し、昪を潤州刺史に遷した。昪は初め行くことを欲せず、しばしば宣州を求めたが、溫は与えなかった。やがて徐知訓が朱瑾に殺され、溫は金陵に居て、未だ聞くに及ばなかった。昪は潤州に居て、広陵に近く、先んじて聞き、即日に州兵を率いて江を渡り乱を定め、ここに政権を得た。
昪は徐溫に事えて甚だ孝順謹直であり、溫は嘗て諸子を罵り昪に及ばずと言ったので、諸子は頗る容れることができず、知訓は特に甚しかった。嘗て昪を召し飲酒し、剣士を伏せて害そうとしたが、酒を巡らす吏の刁彥能がこれを察知し、酒が昪に至った時、手爪で掐ねて知らせた。昪は悟り起ち走り、難を免れた。後に昪が潤州から入朝した時、知訓は山光寺でこれと飲み、また害そうとしたが、徐知諫がその謀を昪に告げたので、昪は起ち遁走した。知訓は剣を刁彥能に授け、追って殺させたが、途中で追い着いても戻り、追い着かなかったと偽って報告したので、これにより難を免れた。後に昪が貴くなると、彥能を撫州節度使とした。
知訓が権勢を振るった時、嘗て楊氏を凌ぎ弱くし、諸将を驕慢に侮ったので、遂に殺された。昪が政を執るに及んで、人心を収めんと欲し、刑法を寛め、恩信を推し進め、延賓亭を建てて四方の士を待ち、宋齊丘・駱知祥・王令謀らを謀客として引き入れ、士で呉に寄寓する者は皆、取り立てて用いた。嘗て密かに人を遣わして民間を視察させ、婚喪に困窮する者があれば、しばしば救済して与えた。盛暑でも未だかつて傘蓋を張らず、扇を執らず、左右が蓋を進めても必ず退け、「士衆はなお多く野営しているのに、我何ぞこれを用いようか」と言った。この故に、溫は遠く大政を執っていても、呉人はすでに昪に帰する者が多かった。
昪が鏡を照らして白髪を見ると、その吏の周宗を顧みて嘆き、「功業は既に成ったが、我は老いた。どうしたものか」と言った。宗はその意を知り、馳せて広陵に詣で宋齊丘に会い、禅譲による王朝交代を謀った。齊丘は未だ可からずとし、宗を斬って呉の人に謝罪すべしと請うたので、昪は宗を左遷して池州刺史とした。
呉の臨江王濛は、徐氏が己を捨てて溥を立てたことを怨み、心に常に不平であった。昪が国を簒奪せんと謀るに及び、先ず濛を廃して歴陽公とし、吏に兵を率いさせて守らせた。濛は守衛を殺し、廬州節度使周本のもとに奔った。本は呉の旧将であり、濛の来るを聞き、受け入れようとしたが、その子の祚に止められた。本は言った、「これは我が故主の家の郎君である。どうして忍んで拒絶できようか」と。直ちに自ら出迎えようとしたが、祚が門を閉じて本を遮り出させず、濛を縛って金陵に送り、殺害された。
徐氏の諸子が昪に復姓を請うたが、昪は謙遜して徐氏の恩を忘れず、その議を百官に下した。百官が皆、請うたので、然る後に李氏に復姓し、名を改めて昪とした。自ら言うには、唐の憲宗の子建王恪が超を生み、超が志を生み、徐州判司となった。志が榮を生んだと。そこで自ら建王の四世孫と称し、国号を唐と改めた。唐の高祖・太宗の廟を立て、四代祖の恪を追尊して孝靜皇帝とし、廟号を定宗とした。曾祖の超を孝平皇帝とし、廟号を成宗とした。祖の志を孝安皇帝とし、廟号を惠宗とした。父の榮を孝德皇帝とし、廟号を慶宗とした。徐溫を義父として奉じ、徐氏の子孫は皆、王・公に封じ、女は郡・県主に封じた。門下侍郎張居詠・中書侍郎李建勳・右僕射張延翰を同平章事とした。十一月、歩騎八万を以て銅橋で軍事演習を行った。
楊溥は丹陽宮で卒去した。溥の子の璉が呉の太子であった時、昪は娘を娶らせた。昪が国を簒した後、その娘を永興公主に封じた。娘は人から公主と呼ばれると、嗚咽して涙を流し辞退したので、宮中は皆これを憐れんだ。溥の没後、璉を康化軍節度使としたが、やがて病により卒去した。
四年六月、晉の安州節度使李金全が叛き、昪に内通の意を示すと、昪は鄂州屯営使李承裕を遣わしてこれを迎えさせた。承裕は晉の将馬全節・安審暉と安陸の南で戦い、三度戦って皆敗れ、承裕と裨将段処恭は共に戦死し、都監杜光鄴とその兵五百人は捕らえられて京師に送られた。高祖は手厚くこれを賜り、帰還させた。昪は高祖に書を送り、再び光鄴らを送り返し、敗軍の法に従って処罰するよう請うたが、高祖はまた彼らを送り返した。昪は甲士を淮水に臨ませてこれを拒んだので、やっと止んだ。
六年、呉越国に火災があり、その宮室・府庫を焼き、甲兵は尽く失われた。群臣はその弊に乗じて攻撃するよう請うたが、昪は許さず、使者を遣わして弔問し、その困窮を厚く救済した。銭氏は呉の時より元来敵国であったが、昪は天下が長く乱れているのを見て、常に兵を用いることを厭い、国を簒奪しようとするに当たり、先ず銭氏と和を約し、その捕らえていた将士を帰し、銭氏もまた呉の敗将を帰したので、遂に通好は絶えなかった。
昪の食客馮延巳は兵を論じ大言を好み、かつて昪を誚って言うには、「田舎の翁がどうして大事を成し得ようか」と。しかし昪の志はただ呉の旧地を守るに止まり、再び経営の謀略はなかった。しかし呉の人々もまたこれによって休息を得たのである。
七年、昪は卒し、年五十六、謚して光文粛武孝高皇帝と曰い、廟号を烈祖とし、陵を永陵と称した。子の景が立った。
景は初め名を景通と称し、昪の長子である。即位後、また名を璟と改めた。徐温が死ぬと、昪は政権を専らにし、景を兵部尚書・参知政事とした。翌年、昪が金陵に鎮すると、景を留めて司徒・同平章事とし、宋斉丘・王令謀と共に広陵に居て、楊溥を補佐させた。昪が国を簒奪しようとする時、景を召し帰して金陵で副都統とした。昪が即位すると、斉王に封じた。昪が卒すると、位を嗣ぎ、元号を保大と改めた。母宋氏を尊んで皇太后とし、妃鍾氏を皇后とした。弟の寿王景遂を燕王に、宣城王景達を鄂王に封じ、景逷は以前王位がなく、保寧王とした。秋、景遂を斉王・諸道兵馬元帥・太尉・中書令に改封し、景達を燕王・副元帥とし、昪の柩の前で盟を結び、兄弟が代々継いで立つことを約した。その子冀を南昌王・江都尹に封じた。
冬十月、虔州の妖賊張遇賢を破った。遇賢は循州羅県の小吏であった。初め、神が羅県の民家に降り、人と禍福を言えば必ず当たった。遇賢がこれを祈ると、神は言うには、「遇賢は羅漢である、我に仕えるべし」と。この時、南海の劉龑が死に、子の玢が初めて立ち、嶺南で盗賊が起こり、群盗千余人は統率する者がなく、神に主となるべき者を問うと、神は遇賢と言ったので、遂に共に推して帥とした。遇賢は自ら中天八国王と号し、元号を永楽と改め、官属を置き、群賊は皆絳衣を着て、嶺外を攻撃略奪した。神に進むべき方向を問うと、神は言うには、「嶺を越えて虔州を取るべし」と。遂に南康を襲い、節度使賈浩は防ぐことができなかった。遇賢は白雲洞を占拠し、宮室を造り、十数万の衆を擁し、諸県を連続して陥落させた。景は洪州営屯虞候厳思・通事舎人辺鎬を遣わし兵を率いてこれを攻撃させた。遇賢が神に問うと、神は再び語らず、群盗は皆恐れ、遂に遇賢を捕らえて降伏した。
景は馮延巳・常夢錫を翰林学士とし、馮延魯を中書舎人とし、陳覚を枢密使とし、魏岑・査文徽を副使とした。夢錫は宣政殿に直し、密命を専らに掌ったが、延巳らは皆邪佞をもって事を為し、呉人はこれを「五鬼」と呼んだ。夢錫は度々この五人の者を用いるべからざることを言ったが、景は受け入れなかった。十二月、景は中外の庶政を斉王景遂に委ねて参決させ、ただ陳覚・査文徽のみが奏事することを得、群臣で召見されない者は入ることができないと下令した。給事中蕭儼が上疏して切諫したが、返答がなかった。侍衛軍都虞候賈崇が閤に詣でて景に求見し、言うには、「臣は先朝に仕えて三十年、先帝が功業を成し遂げられた所以は、皆多くの賢者の謀を用いられた故であり、遠く疎遠な者をも延接し、未だ壅隔したことがなく、然るに下情がなお通じないことがあった。今陛下は新たに即位され、信用される者は誰か。どうして急に臣下と隔絶なさるのか。臣は老いて死ぬばかり、恐らく再び顔色を拝することはないであろう」と。因って涙を流して嗚咽すると、景はこれに動容し、引いて座らせ、食を賜って慰め、遂に下した令を中止した。
初め、宋斉丘は昪のために楊氏を簒奪する謀を最も力めたが、事が成ると、乃ち偽って九華山に入り、昪が度々招いたので、乃ち出た。昪が僭号すると、間もなく、斉丘は病を理由に宰相を罷め、出て洪州節度使となった。景が立つと、再び召して宰相としたが、陳覚・魏岑らは皆斉丘によって引用された。しかし岑と覚は不和があり、岑は景に覚を讒言し、覚は左遷されて少府監となった。斉丘もまた宰相を罷められて浙西節度使となった。斉丘は意を得ず、再び九華山に帰ることを願い、九華先生の号を賜り、青陽公に封ぜられ、青陽一県を食邑とした。
四年八月、文徽は勝に乗じて建・汀・泉・漳の四州を攻克し、景は延平・剣浦・富沙の三県を分けて剣州を置き、王延政の一族を金陵に移した。延政を饒州節度使とし、李仁達を福州節度使とし、留従効を清源軍節度使とした。景遂は兵を罷めようとしたが、査文徽・陳覚らは皆言うには、「仁達らの残党がなお在る、勝に乗じてこれを悉く取るに如かず」と。陳覚は自ら言うには、尺兵を用いずして仁達らを招致できると。景は覚を宣諭使とし、仁達を召して金陵に朝せしめようとしたが、仁達は従わなかった。覚は慚じ、建州に還るに至り、命を矯って汀・建・信・撫州の兵を発して仁達を攻撃した。時に魏岑は漳・泉を安撫していたが、覚が兵を起こすと聞き、また擅に兵を発して覚と合流した。景は大いに怒ったが、馮延巳らが言うには、「兵は既に行く、止めるべからず」と。乃ち王崇文を招討使とし、王建封を副使とし、兵を増やしてこれに合流させ、延魯・魏岑・陳覚を皆監軍使とした。仁達は呉越に内通の意を示し、呉越は兵三万をもって仁達に応じた。覚らは功を争い、進退相応ぜず、延魯が呉越兵と先に戦い、大敗して逃走し、諸軍は皆潰走して帰還した。景は怒り、使者を遣わして覚・延魯を鎖して金陵に至らせた。しかし馮延巳がまさに宰相であり、宋斉丘もまた九華山から召されて太傅となり、少しこれを解いたので、乃ち覚を蘄州に、延魯を舒州に流した。韓熙載が上書して切諫し、覚らを誅するよう請うたが、斉丘はこれを憎み、熙載を和州司馬に貶した。この歳、契丹が京師を陥落させ、中国に主なく、景はまさに覚らによって東南で兵を疲弊させ、北顧の暇がなかった。御史中丞江文蔚が弾劾上奏して宰相馮延巳・諫議大夫魏岑が政を乱し、覚らと同罪でありながら貶黜されないとし、言は甚だ切直であった。景は大いに怒り、自らその上疏に答えて、文蔚を江州司士参軍に貶し、また延巳を罷めて少傅とし、岑を太子洗馬とした。
五年、景遂を太弟とし、景達を元帥として斉王に封じ、南昌王冀を副元帥として燕王に封じた。契丹が使者を遣わして来聘し、兵部尚書賈潭を以て報聘した。
六年、後漢の李守貞が河中で反乱を起こし、その客将朱元を遣わして援軍を求めると、景は潤州節度使李金全を北面行営招撫使とし、兵を発して沭陽を攻めたが、守貞が既に敗れたと聞き、引き返した。この時、後漢の隠帝は幼く、中原は衰弱しており、淮北の群盗は多く景に帰順を申し出たので、景は皇甫暉を遣わして海州・泗州などの州に出向き、彼らを招き入れさせた。
八年、福州が「呉越の戍兵が乱を起こし、李仁達を殺して逃げた」と偽りの情報を流し、人を遣わして建州節度使査文徽を招いた。文徽は剣州刺史陳誨とともに舟を閩江に下らせて急行し、これに応じようとした。福州は兵を出して迎えた。誨は言った、「閩人は多く詐りがあり信じ難い。江岸に駐屯し、ゆっくりと図るべきである。」文徽は言った、「長引けば変が生じる。未だ定まらぬうちに、急いでこれを取るのだ。」誨を江口に留めて駐屯させ、自らは進んで西門に至ったが、伏兵が現れ、文徽は生け捕りにされた。誨は越人と戦い、これを大いに破り、その将馬先進を捕らえた。景は先進を越に送り返し、越もまた景の文徽を帰した。この年、楚王馬希広がその弟希萼に弑され、希萼が自立した。
九年秋、楚人が衡山に希萼を幽閉し、その弟希崇を立てて景に帰順したため、楚国は大いに乱れた。景は信州刺史辺鎬を遣わして楚を攻め、潭州を破り、馬氏の一族をことごとく金陵に移した。景は希萼を洪州節度使とし、希崇を舒州節度使とし、辺鎬を湖南節度使とした。
十年、洪州の高安・清江・万載・上高の四県を分けて筠州を置いた。馮延巳・孫忌を左・右僕射同平章事とした。広州の劉晟は楚の乱に乗じて桂管を奪い、景は将軍張巒を遣わして出兵してこれを争ったが、勝てなかった。楚の地は新たに平定されたばかりで、その府庫は空しく、宰相馮延巳は楚を平定したことを功とし、国費から取ることを望まず、重く民から徴収して軍に供給したため、楚人は皆怨んで叛き、その将劉言が辺鎬を攻め、鎬は守りきれず、逃げ帰った。
十一年、金陵で大火があり、一ヶ月以上続いた。
十四年三月、景はまた司空孫晟・礼部尚書王崇質を遣わして表を奉じ、言葉はますます卑屈であったが、世宗はなお答えず、以前に遣わした鍾謨らとともに晟・崇質を皆行在に留めた。謨らは帰って景の表を取り、江北の地をことごとく献上することを請うたので、世宗はこれを許し、崇質・徳明らを還し、初めて景に書を賜って言った、「唐が御を失いしより、天歩方に艱しく、六紀これを経て、瓜分し鼎峙す。自ら声教を為し、各々蒸黎を擅にし、四夷と交結し、上国を憑凌す。華風競わず、否運鍾る所、凡そ百心あるもの、孰か興憤せざらんや。朕は一百州の富庶を擅にし、三十万の甲兵を握り、農戦交えて修め、士卒用いるを楽しむ。苟くも内地を恢復し、辺疆を申画せずして、便ち班旋を議するは、真に戯劇に同じ。尊称を削り去り、臣節を輸さんことを願うに至りては、孫権の魏に事え、蕭詧の周に奉ずる、古は然りと雖も、今は則ち取らず。但だ帝号を存するは、歳寒に何ぞ爽かならん。儻し事大の心を堅くせば、必ずや人を険に迫ることは無からん。」徳明らが還り、世宗の英武を大いに称えたので、景は喜ばなかった。宋斉丘・陳覚らは皆、地を割くことは益が無く、徳明は国を売って利を図ると言った。景は怒り、徳明を斬った。元帥斉王景達と陳覚・辺鎬・許文縝を遣わして兵を率いさせ寿春に向かわせた。景達の将朱元らはまた舒・蘄・泰の三州を得た。夏、大雨が降り、揚・滁・和にいた周の軍は皆退却したので、諸将はその険隘を扼してこれを撃つことを請うた。宋斉丘は言った、「これを撃てば怨み深くなる。これを放って徳と為すに如かず。」諸将に戒めて壁を閉じ、敢えて戦いを求めさせなかったので、周の軍は皆寿州に集結した。世宗は渦口に屯し、再び揚州に行幸しようとしたが、宰相范質が師老いたことを以て泣いて諫めたので、兵を返し、李重進に廬州・寿州を攻めさせ、向訓に揚州を守らせた。訓は揚州を棄て、力を併せて寿春を攻めることを請い、府庫を封じて主者に渡し、景の旧将を遣わして城中を巡按させ、秋毫も犯さず去ったので、淮人は大いに喜び、皆糗糧を負って周の軍を見送った。
十五年、景達は朱元らを遣わして紫金山に駐屯させ、甬道を築いて寿州に糧食を送らせた。二月、世宗は再び南征し、下蔡の浮橋を渦口に移し、鎮淮軍と為し、二城を築いて淮水を挟んだ。周軍は紫金の諸寨を連破した。景達は元帥と為るも、兵事は皆陳覚に決せしめた。覚は朱元と元より隙有り、元が李守貞の客であったことを以て、反覆して信じ難しとし、景は大将楊守忠を遣わして元に代え、且つ召還しようとした。元は憤怒し、叛いて周に降り、諸軍は皆潰え、許文縝、辺鎬は共に捕らえられ、景達は舟兵を以て金陵に奔還した。劉仁贍は病み且つ死に、その副使孫羽らは寿州を以て周に降った。世宗は軍を返した。景は人を遣わして揚州を焼き、その士庶を駆り去らせた。冬十月、世宗は再び南征し、遂に濠州を囲み、刺史郭廷謂は周に告げて曰く「臣は一州を守って王師に抗し得ず、然れども願わくは唐に請命して後に降らん」と。世宗は其の為に攻撃を緩め、廷謂は人を遣わして景に請命し、景は其の降伏を許し、乃ち降った。また泗州を取った。周軍の歩騎数万は、水陸並びに進み、軍士は檀来の歌を作り、声は数十里に聞こえた。十二月、楚州の北門に駐屯した。
初め、周軍の南征に、水戦の具無かりしが、已にして屡々景の兵を敗り、水戦の卒を獲て、乃ち戦艦数百艘を造り、降卒に水戦を教えさせ、王環を将として淮を下らしめた。景の水軍は多く敗れ、長淮の舟は、皆周軍の得るところと為った。また齊雲船数百艘を造り、世宗は楚州の北神堰に至り、齊雲舟は大きくして過ぎられず、乃ち老鸛河を開いて之を通じ、遂に大江に至った。景は初め水戦を恃み、周兵は敵では無く、且つ江に至り得ざらんとす。覚が使を奉じて至り、舟師が江辺に列なる甚だ盛んなるを見て、天より降りしものと以為い、乃ち請うて曰く「臣は願わくば還国して景の表を取り、江北の諸州を尽く献じ、約の如くせん」と。世宗は之を許し、始めて景に書を賜いて「皇帝恭しく江南国主に問う」とし、其の労苦を労うのみであった。是の時、揚州、泰州、滁州、和州、寿州、濠州、泗州、楚州、光州、海州等の州は、既に周の得るところと為り、景は遂に廬州、舒州、蘄州、黄州を献じ、江を画して界と為した。五月、景は令を下して帝号を去り、国主と称し、周の正朔を奉じ、時に顕徳五年であった。
初め、孫晟は周に使いしが、留め置かれて遣わされず、而して世宗は晟に江南の虚実を問うたが、答えず、世宗は怒り、晟を殺した。周が既に兵を罷めし後、景は乃ち劉仁贍に太師を贈り、晟を追封して魯国公と為した。世宗は鍾謨、馮延魯を帰国させた。景はまた謨らを遣わして京師に朝せしめ、手ずから表を書き、天地父母の恩は報い難しと称し、又詔書を降して藩鎮と同じくすることを請い、謨を遣わして面陳し、願わくは世子に位を伝えんとす。世宗は謨らを還国させ、優詔を以て之を労い安んじた。景は謨を礼部侍郎、延魯を戸部侍郎と為した。
景が太子たりし時、延魯らは皆東宮に出入りし、礼部尚書常夢錫は昪の世より屡々言いて延魯らを太子に近づけしむべからずとし、景が立つに及び、延魯が権を執ると、夢錫は毎に之を排斥した。景が既に地を割き臣と称して後、朝廷を大朝と為すに言及する者有りしに、夢錫は大笑して曰く「君らは嘗て君を致さんこと堯、舜の如くせんと欲し、今日自ら小朝と為すや」と。鍾謨は素より李徳明と善し、既に帰りて、徳明が宋斉丘らに由りて殺されたるを聞き、其の冤を報ぜんと欲したが、発する能わず。陳覚は斉丘の党なり、厳続と素より隙有り。覚は嘗て周に使いを奉じ、還りて言うに、世宗が江南の即時に命を聴かざるは、厳続の謀なりとし、景を勧めて続を誅して罪に謝せしめんとす。景は之を疑い、謨は因りて周に使することを請い、其の事を験せんとす。景は既に地を割き臣と称したるを以て、乃ち謨を遣わして朝し謝罪し、即時に地を割かざりしは、続の謀に非ず、願わくは之を赦せと。世宗は大いに驚きて曰く「続が謀を為し得るは、是れ其の主に忠なり、朕豈に忠臣を殺さんや」と。謨還り、覚の姦詐を言うと、景は怒り、覚を饒州に流し、之を殺し、宋斉丘は覚の党与に坐し、青陽に放還され、死を賜う。太弟景遂を以て洪州節度使と為し、燕王冀を太子と為す。
景は用兵に困しめられ、鍾謨は大銭を鋳造し一を以て十に当てんことを請い、文に「永通泉貨」と曰う。謨は嘗て罪を得て、而して大銭は廃された。韓熙載はまた鉄銭を鋳造し、一を以て二に当てた。
六月、景卒つ。年六十四。従嘉嗣ぎ立ち、喪を以て金陵に帰り、使を遣わして朝し、願わくは景の帝号を復せんとす。太祖皇帝之を許し、乃ち謚して明道崇徳文宣孝皇帝と曰い、廟号を元宗とし、陵を順陵と曰う。
五年、両省侍郎・給事中・中書舎人・集賢勤政殿学士に命じ、夕ごとに光政殿に宿直させ、煜は彼らを引きいて談論した。煜はかつて熙載が忠を尽くし、直言できることを以て、彼を宰相に用いようとしたが、熙載は後房に妓妾数十人を抱え、多くは外舎に出てひそかに賓客に侍していた。煜はこれを以て難とし、熙載を右庶子に左遷し、南都に分司させた。熙載は諸妓をことごとく斥け、単車で道に上った。煜は喜んで彼を留め、その位を復した。やがて諸妓が次第にまた戻ってきたので、煜は「吾これに如かざるなり」と言った。この歳、熙載が卒すると、煜は嘆いて「吾ついに熙載を得て相とすることなし」と言った。平章事を贈ろうとして、前世にこの比があるかと問うと、群臣が「昔、劉穆之が開府儀同三司を贈られたことがあります」と答えた。そこで熙載に平章事を贈った。熙載は北海の将家の子で、初め李穀と相善くした。明宗の時、熙載は南奔して呉に至り、穀は正陽まで送った。酒酣の際に臨別に臨み、熙載は穀に「江左が吾を用いて相とすれば、長駆して中原を定めん」と言い、穀は「中国が吾を用いて相とすれば、江南を取るは囊中の物を探るが如きのみ」と言った。周師が淮を征するに及んで、穀を将と命じて淮南を取らせたが、熙載は為すところある能わざりき。
開宝四年、煜はその弟の韓王従善を遣わして京師に朝貢させ、そこで留めて帰さなかった。煜は手疏をして従善の還国を求めたが、太祖皇帝は許さなかった。煜はかつて怏怏として国蹙を憂い、日に臣下と酣宴し、愁思悲歌して已まなかった。
五年、煜は制度を貶損することを下令した。下書して教と称し、中書・門下省を左・右内史府と改め、尚書省を司会府とし、御史台を司憲府とし、翰林を文館とし、枢密院を光政院とし、諸王を皆国公とし、以て朝廷を尊んだ。煜は性驕侈にして、声色を好み、また浮図を喜び、高談を為し、政事を恤れみなかった。
六年、内史舎人潘佑が上書して極諫したので、煜は彼を収めて獄に下し、佑は自縊して死んだ。
七年、太祖皇帝は使者を遣わして詔し、煜を闕に赴かせようとしたが、煜は疾を称して行かなかった。王師が南征すると、煜は徐鉉・周惟簡らを遣わして表を奉り朝廷に師を緩めることを求めたが、答えなかった。八年十二月、王師は金陵を克った。九年、煜は俘虜として京師に至り、太祖はこれを赦し、煜を違命侯に封じ、左千牛衛将軍に拝した。その後の事は国史に具わる。
予は江南に世家す。その故老多く李氏の時の事を言う能く、云う、太祖皇帝の出師南征するや、煜はその臣徐鉉を遣わして京師に朝せしむ。鉉は江南に居り、名臣を以て自ら負い、その来たるや、口舌を以て馳説しその国を存せんと欲し、その日夜計謀思慮言語応対の際詳かなり。その将に見えんとするに及んで、大臣もまた先に入り請い、鉉は博学にして材弁有り、以てこれを持する宜しき有りと言う。太祖笑って曰く「第に去れ、爾の知る所に非ざるなり」。明日、鉉は廷に朝し、仰いで言うに「李煜は罪無し、陛下は師出するも名無し」。太祖徐にこれを召し上げ、その説を畢えしむ。鉉曰く「煜は小を以て大に事うること、子の父に事うるが如く、過失未だ有らず、奈何ぞ伐たれん」。その説累数百言。太祖曰く「爾、父子なる者を両家と謂うこと可ならんや」。鉉は以て対する無くして退く。嗚呼、大なるかな、何ぞその言の簡なるや!蓋し王者の興るは、天下必ず一統に帰す。その来たるべき者はこれを来たし、来たるべからざる者はこれを伐つ。僭偽仮窃は、掃蕩一平に期して後に已む。予は周世宗の淮南を征する詔を読み、その区区前事を攟摭し、務めて曲直を較べて以て辞と為すを怪しむ、何ぞその小なるや!然れども世宗の英武は喜ぶに足る者有り、豈にその辞する者の過ちなるか。