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新五代史
巻第六十一
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新五代史巻第六十一
嗚呼、唐がその政を失ってより、天下は時に乗じ、黥面髠髪の盗賊や行商が、袞冕を戴き峨巍たる高みに登った。呉及び南唐は、奸豪が窃み攘ぎ、蜀は険阻にして富み、漢は険阻にして貧しく、貧しきは自ら強くならんとし、富める者は先に亡ぶ。閩は陋しく、荊は蹙し、楚は蛮服を開く。剝掠に堪えず、呉越はその尤も甚だしきものなり。牢牲の如く人を視、嶺蜑は劉氏に遭う。百年の間、並び起って雄を争い、山川も亦絶え、風気通ぜず。語に曰く、清風興れば羣陰伏し、日月出ずれば爝火息む。故に真人作りて天下同し。十国世家を作る。
呉世家第一
楊行密(子は渥・隆演・溥)
楊行密、字は化源、廬州合淝の人なり。人となり長大にして力あり、能く手を挙げて百斤を持す。唐の乾符年中、江・淮の群盗起こり、行密は盗賊として捕らえられしが、刺史鄭棨その状貌を奇とし、縛を解きてこれを放つ。後に応募して州兵となり、朔方を戍り、隊長に遷る。歳満ちて戍より還るも、軍吏これを悪み、復た出戍せしむ。行密将に行かんとし、軍吏の舎を過ぐるに、軍吏陽に好言を為し、行密の行くに何をか欲するかを問う。行密奮然として曰く、「唯だ公の頭少なきのみ」と。即ちその首を斬り、これを携えて出で、因りて兵を起こして乱を為し、自ら八営都知兵馬使と号す。刺史郎幼復城を棄てて走り、行密遂に廬州を拠る。
中和三年、唐は即ち行密を廬州刺史に拝す。淮南節度使高駢が畢師鐸に攻められしとき、駢は行密を行軍司馬と表し、行密兵数千を率いてこれに赴く。天長に行き至るに、師鐸既に駢を囚え、宣州の秦彦を召して揚州に入らしむ。行密入るを得ず、蜀岡に屯す。師鐸兵数万、行密を撃つ。行密陽に敗れ、営を棄てて走る。師鐸の兵飢え、勝に乗じて争って営に入り軍実を収む。行密兵を返してこれを撃てば、師鐸大敗し、単騎にて城に走り入り、遂に高駢を殺す。行密駢の死を聞き、縞軍して城に向かい三日哭し、その西門を攻む。彦及び師鐸東塘に奔る。行密遂に揚州に入る。
是の時、城中の倉廩空虚にして、飢民相殺し食らい、その夫婦・父子自ら相牽き、就き屠られ売らる。屠る者は刲剔すること羊豕の如し。行密守る能わず、走らんと欲す。而して蔡州の秦宗権その弟宗衡を遣わして地を淮南に掠めしむ。彦及び師鐸東塘より還り、宗衡と合す。行密城を閉じて敢えて出でず。已にして宗衡は偏将孫儒に殺さる。儒高郵を攻めてこれを破り、行密益々懼る。その客袁襲曰く、「吾れ新たに集めたる衆を以て空城を守るも、諸将多くは駢の旧人にして、厚恩素信ありて力を制し心に服するものにあらず。今儒の兵盛んなり、攻むれば必ず克つ。これ諸将が両端を持ち、強弱に因り、嚮背を択ぶの時なり。海陵鎮使高霸は、駢の旧将にして、必ずや吾れが用いるところとならじ」と。行密乃ち軍令を以て霸を召す。霸その兵を率いて広陵に入る。行密霸を使いて天長を守らしめんと欲す。襲曰く、「吾れ霸を疑いてこれを召す、その復た用いるべきや。且つ吾れ儒に勝たば、霸を用いる所なし。不幸にして勝たざれば、天長豈に吾れ有らんや。これを殺し、その衆を併せんには如かず」と。行密因りて軍を犒うて霸を擒え族し、その兵数千を得る。已にして孫儒秦彦・畢師鐸を殺し、その兵を併せて行密を攻む。行密海陵に走らんと欲す。襲曰く、「海陵は守り難く、廬州は吾れが旧治なり。城廩完実にして、後図と為すべし」と。行密乃ち廬州に走る。久しくして、向かう所を知らず。襲に問いて曰く、「吾れ甲を巻き道を倍して、西のかた洪州を取るは可ならんや」と。襲曰く、「鍾伝新たに江西を得たり。勢未だ図るべからず。而して秦彦の広陵に入りしとき、池州刺史趙鍠を召して宣州を委ぬ。今彦将に死せんとし、鍠恃む所を失い、宣州を守るはその本志にあらず。且つその人となり公の敵にあらず。これ取るべし」と。行密乃ち兵を引きて鍠を攻め、曷山に戦いてこれを大いに敗る。進んで宣州を囲めば、鍠城を棄てて走る。追い及んでこれを殺す。行密遂に宣州に入る。
龍紀元年、唐は行密を宣州観察使に拝す。行密田頵・安仁義・李神福等を遣わして浙西を攻め、蘇・常・潤州を取る。二年、滁・和州を取る。景福元年、楚州を取る。孫儒行密を逐うて自ら広陵に入るも、久しくして亦守る能わず、乃ちその城を焚く。民の老疾を殺して軍に餉い、その衆を駆りて江を渡り、号五十万、以て行密を攻む。諸将田頵・劉威等これに遇えば輒ち敗る。行密銅官に走らんと欲す。その客戴友規曰く、「儒来たりて気鋭くして兵多し。蓋しその鋒は当たるべからざるも以て挫くべく、その衆は敵すべからざるも以て久しくしてこれを敝うべし。若し避けて走らば、これ擒に就くなり」と。劉威亦曰く、「城に背き柵を堅くすれば、戦わずしてこれを疲らすべし」と。行密然りと以為う。久しくして儒の兵飢え、又大いに疫す。行密兵を悉くしてこれを撃てば、儒敗れて擒えらる。将に死せんとして、仰ぎ顧みて威を見て曰く、「公この策を為して我を敗るを聞く。我に将として公の如き者あらしめば、その敗るべけんや」と。行密儒の余兵数千を収め、皂衣を以て甲を蒙り、「黒雲都」と号し、常に親軍と為す。
是の歳、復た揚州に入る。唐は行密を淮南節度使に拝す。乾寧二年、検校太傅・同中書門下平章事を加う。行密田頵をして宣州を守らしめ、安仁義をして潤州を守らしむ。昇州刺史馮弘鐸来たりて附く。分かちて頵等を遣わし攻掠せしめ、淮以南・江以東の諸州皆これを下す。蘇州を進攻し、その刺史成及を擒う。四年、兗州の朱瑾行密に奔る。初め、瑾梁に攻められ、晋に求救す。晋李承嗣を遣わし勁騎数千を将いて瑾を助く。瑾敗れ、因りて俱に行密に奔る。行密の兵皆江・淮の人なり。淮人は軽弱なり。瑾の勁騎を得て、兵益々振う。是の歳、梁の太祖葛従周・龐師古を遣わして行密の寿州を攻む。行密梁兵を清口に撃ち破り、師古を殺す。而して従周兵を収めて走る。渒河に追い至り、又これを大いに敗る。五年、錢鏐蘇州を攻め、周本と白方湖に戦う。本敗れ、蘇州復た越に入る。天復元年、李神福を遣わして越を攻め、臨安に戦いてこれを大いに敗り、その将顧全武を擒えて帰る。二年、馮弘鐸叛き、宣州を襲い、田頵と曷山に戦う。弘鐸敗れ、将に海に入らんとす。行密自ら東塘に至りてこれを邀え、人をして弘鐸に謂わしめて曰く、「勝敗は用兵の常事なり。一戦の衄、何ぞ苦しんで自ら海島に棄てん。吾が府は小なれども、猶お君を容るるに足る」と。弘鐸感じて泣く。行密十余騎に従い、馳せてその軍に入り、弘鐸を節度副使と為し、李神福を以て弘鐸に代わりて昇州刺史と為す。
この年、唐の昭宗は岐に在り、江淮宣諭使李儼を遣わして行密を東面諸道行営都統・検校太師・中書令に拝し、呉王に封じた。三年、李神福を鄂岳招討使として杜洪を攻撃せしめ、荊南の成汭が洪を救うと、神福は君山においてこれを破った。梁の兵が青州を攻め、王師範が救援を求めて来たので、王茂章を遣わしてこれを救い、大いに梁兵を破り、朱友寧を殺した。友寧は梁の太祖の子である。太祖は大いに怒り、自ら将兵して茂章を撃ち、兵は二十万と号したが、またも茂章に敗れた。田頵が叛き、昇州を襲い、李神福の妻子を捕らえて宣州に帰した。行密は神福を召して頵を討たせた。頵はその将王壇を遣わしてこれを迎え撃ち、また神福に書を送り、その妻子を以て招いた。神福は言った、「私は一兵卒として呉王に従い事を起こし、今は大将となった。どうして恩徳を背き妻子を顧みることができようか」と。直ちにその使者を斬って自ら絶ち、軍士はこれを聞いて皆感激奮発した。吉陽磯に至った時、頵は神福の子承鼎を捕らえて招いたが、神福は左右を叱してこれを射させ、遂に吉陽において壇の兵を破った。行密は別に臺濛を遣わして頵を撃たせ、頵は敗れて死んだ。
初め、頵及び安仁義・朱延寿らは皆、行密に従って微賤より起こった。江・淮がようやく定まり、休息に赴かんとする時、この三人は皆猛悍で制し難く、これを除かんと欲したが、発する由がなかった。天復二年、錢鏐がその将許再思らに叛かれて包囲されると、再思は頵を召して鏐の杭州を攻めさせ、陥ちんとしたが、行密が鏐の賂を受け、頵に兵を解かせたので、頵はこれを恨んだ。頵がかつて広陵で事を計った時、行密の諸将の多くが頵のもとに来て賂を求め、獄吏もまた求めるところがあった。頵は怒って言った、「吏は我を獄に下そうとするのか」と。帰って遂に謀反を図った。
仁義はこれを聞いてもまた叛き、東塘を焼いて常州を襲った。常州刺史李遇は出戦し、仁義を見て大いに罵った。仁義はその軍を止めて言った、「李遇がかくも辱めるとは、必ず伏兵があるに違いない」と。そこで軍を引き返させると、伏兵が果たして発し、夾岡まで追撃した。仁義は旗を立て甲を解いて食し、遇の兵は敢えて追わず、仁義は再び潤州に入った。行密は王茂章・李德誠・米志誠らを遣わしてこれを包囲させた。呉の軍中では朱瑾が槊を善くし、志誠が射を善くすることを推し、皆第一と為した。而して仁義はかつて射を以て自ら負うところとし、言った、「志誠の弓十は、瑾の槊一に当たらず。瑾の槊十は、仁義の弓一に当たらず」と。茂章らと戦う毎に、必ず命中するのを見て後発し、これによって呉軍はこれを畏れ、近づかなかった。行密もまたこれを招降しようとしたが、仁義は猶予して決しなかった。茂章はその怠りに乗じ、地道を穴ぐらして入り、仁義を捕らえ、広陵で斬った。
延寿は、行密の夫人朱氏の弟である。頵及び仁義が将に叛かんとする時、行密はこれを疑い、そこで目疾を装い、延寿の使者に接する毎に、必ず見るものを錯乱して示した。かつて歩行中、故意に柱に触れて倒れ、朱夫人がこれを扶けると、良久にしてようやく蘇った。泣いて言った、「我が業は成ったが目を失った。これは天が我を廃するのだ。我が息子らは皆事を任せるに足らず、延寿を得てこれを付託すれば、我に恨みはない」と。夫人は喜び、急いで延寿を召した。延寿が至ると、行密はこれを寝門に迎え、刺し殺し、朱夫人を出して嫁がせた。
天祐二年、劉存を遣わして鄂州を攻めさせ、その城を焼いた。城中の兵が突囲して出ると、諸将は急撃を請うたが、存は言った、「これを撃てばまた入り、城はますます堅固となる。その去るに任せれば、城は取れるであろう」と。この日城は破れ、杜洪を捕らえ、広陵で斬った。九月、梁兵が襄州を攻め破り、趙匡凝は行密のもとに奔った。十一月、行密は卒し、年五十四、諡して武忠と言う。子の渥が立った。溥が僭号し、行密を追尊して太祖武皇帝と為し、陵を興陵と言う。
渥は字を承天と言い、行密の長子である。行密が病むと、渥を出して宣州観察使とした。右衙指揮使徐溫はひそかに渥に言った、「今、王が病み嫡嗣を出されたのは、必ず姦臣の謀りごとがある。他日、子を召す時、温の使者でない者は慎んで応命してはならない」と。渥は涕泣して温に謝し去った。行密の病が甚だしくなると、判官周隠に符を作って渥を召すことを命じた。隠は渥が幼弱で事に任じられぬことを慮り、行密に旧将で威望ある者を用いて軍政を代わって主たることを勧め、そこで大将劉威を推薦したが、行密は許さなかった。温と厳可求が入って病を問うと、行密は隠の議を告げた。温らは大いに驚き、急いで隠の所に詣でて事を計った。隠が未だ出でないうちに、温は隠が召符を作り机上に在るのを見て、急ぎ取って遣わした。渥は温の使者を見て、乃ち行った。行密が卒すると、渥が嗣いで立ち、周隠を召し罵って言った、「汝は我が国を売らんとした者だ。また何の面目あって楊氏に見えようか」と。遂にこれを殺した。王茂章を宣州観察使とした。
渥が入るに当たり、多く宣州の庫物を車に載せて広陵に帰ろうとしたが、茂章は惜しんで与えなかった。渥は怒り、李簡に兵五千を以てこれを包囲することを命じた。茂章は銭塘に奔った。
天祐三年二月、劉存が岳州を取った。四月、江西の鍾伝が卒し、その子匡時が代わって立った。伝の養子延規は立つを得ず怨み、兵を以て匡時を攻めた。渥は秦裴に兵を率いてこれを攻めさせた。九月、洪州を克ち、匡時及び司馬陳象を捕らえて帰り、象を市で斬り、匡時を赦した。秦裴を江西制置使とした。
梁の太祖が唐に代わり、元号を開平と改めたが、渥はなお天祐を称した。鄂州の劉存・岳州の陳知新が舟師を以て楚を伐ったが、瀏陽にて敗れ、楚人は存及び知新を捕らえて帰った。楚王馬殷は平素その名を聞き、皆生かそうとしたが、存らは殷を大いに罵って言った、「往年、宣城において我が刃の下を脱したが、今日の敗れは、乃ち天の我を亡ぼすところだ。我はどうして汝に事えて生きんことを肯うことがあろうか。我は楊氏に背く者では無い」と。殷は屈せしめ得ぬことを知り、乃ちこれを殺した。岳州は再び楚に入った。
初め、渥が広陵に入る時、帳下の兵三千を宣州に留め、その腹心の陳璠・范遇にこれを将とさせた。既に立つと、徐溫が牙兵を典することを憎み、璠らを召して東院馬軍とし、自らを衛らせた。而して温と左衙都指揮使張顥は皆、行密の時の旧将であり、また渥を立てた功があり、共に璠らがその権を侵すことを憎んだ。四年正月、渥が政務を視ると、璠らが側に侍した。温・顥が牙兵を擁して入り、璠らを引き下ろし、斬った。渥は止めることができず、ここに於いて政を失い、心中憤って発することができなかった。温らはますます自ら安からず。
五年五月、温・顥が共に盗賊を遣わし、寝中に入って渥を殺させた。渥は群盗に説き、温らを返り討ちする者は皆刺史と為すと言った。群盗は皆諾したが、ただ紀祥のみ従わず、渥を捕らえて縊り殺した。時に年二十三、諡して景と言う。弟の隆演が立った。溥が僭号し、渥を追尊して烈宗景皇帝と為し、陵を紹陵と言う。
隆演は字を鴻源といい、行密の第二子である。初めは瀛と名乗り、また渭とも称した。初め、徐温と張顥が楊渥を弑したとき、その地を分けて梁に臣従することを約したが、楊渥が死ぬと、張顥は約を破って自立しようとした。徐温はこれを憂え、その客の厳可求に問うた。可求は言った、「張顥は剛愎ではあるが、事を成すには暗愚である。これは容易いことです」と。翌日、張顥は府中に剣戟を並べ、諸将を召して事を議し、大将の朱瑾以下は皆、護衛を去ってから入った。張顥が諸将に誰を立てるべきかと問うと、諸将は敢えて答えなかった。張顥が三度問うと、可求は前に進み密かに啓上して言った、「方今、四境多難であり、公が主とならなければならないが、あまりに速やかに行うのは恐らくよろしくない。今、外には劉威、陶雅、李簡、李遇ら、皆先王と同等の者がいる。公がたとえ自立されても、この者たちが心を下げて公に仕えるかどうかは分からない。幼い主君を輔立し、歳月をかけて、その心が帰するのを待ってからなさるのがよろしいでしょう」と。張顥は答えることができなかった。可求はそこで走り出て、一つの教令を袖の中に書き入れ、諸将を率いて入賀した。諸将は何が起こるか知らなかった。教令を取り出して宣すると、それは楊渥の母史氏の教令であり、楊氏の創業の艱難と嗣王の不幸を述べ、隆演が順序により立つべきであるとし、諸将に楊氏に背かず善くこれに事えるよう告げるものであった。文辞の趣旨は激切で、聞く者は感動した。張顥の気色は沮喪し、ついに何もできず、隆演は立つことができた。
張顥はこれにより徐温と不和となり、隆演に徐温を潤州に出させるようほのめかした。可求は徐温に言った、「今、衙兵を捨てて外郡に出るならば、禍いがまさに至ります」と。徐温はこれを憂えた。可求はそこで張顥を説いて言った、「公は徐温と共に顧託を受けた。議する者は、公がその衙兵を奪い、外でこれを殺そうとしていると言いますが、本当ですか」と。張顥は言った、「事はすでに行われた。どうして止められようか」と。可求は言った、「とても容易いことです」と。翌日、張顥に従って諸将と共に徐温を訪れ、可求は偽って徐温を責めて言った、「古人は一飯の恩をも忘れない。ましてや公は楊氏三代の将である。今、幼い嗣君が新たに立ち、多事の時にあたり、外に居を求めて苟も安からんとするのですか」と。徐温もまた偽って謝して言った、「公らが留めてくださるなら、去りたくはありません」と。これにより行かずに済んだ。行軍副使の李承嗣は張顥と親しく、可求が徐温に附く意図があると察し、張顥にほのめかして客に夜中に可求を刺殺させたが、客は可求を刺しても当たらなかった。翌日、可求は徐温を訪れ、先に張顥を殺すことを謀り、密かに鍾章に命じて壮士三十人を選び、衙堂で張顥を斬らせ、楊渥弑逆の罪を彼に帰した。徐温はこれにより政権を専らにし、隆演は位を備えるのみであった。
六月、撫州の危全諷が叛き、洪州を攻め、袁州の彭彦章、吉州の彭玕、信州の危仔倡も皆挙兵して叛いた。隆演は厳可求を召して誰を用いるべきか問うた。可求は周本を推薦した。当時、周本は蘇州を攻めて敗れ帰ったばかりで、恥じて出ようとしなかったが、可求が強いて起した。周本は言った、「蘇州の敗は、怯懦によるものではなく、上将の権が軽く、下の者が多く専命したためです。必ず任用されるなら、偏将や裨将を用いないことを願います」と。そこで兵七千を請うた。象牙潭で戦い、これを破り、全諷と彦章を捕らえ、彭玕は楚に奔り、危仔倡は銭塘に奔った。全諷が広陵に至ると、諸将が議して言った、「昔、先王が趙鍠を攻めたとき、全諷はたびたび呉軍に糧食を供給した」と。そこで釈放して殺さなかった。初め、全諷が挙兵しようとしたとき、銭鏐が王茂章を梁に送る途中、全諷のところを通りかかり、言った、「公が大挙すると聞く。公の兵を見て、成功するかどうか知りたい」と。全諷が兵を陣させ、茂章と共に城に登ってこれを望むと、茂章は言った、「私はかつて呉に仕えた。呉の兵は三等あり、公のこの兵衆は、その下将に当たるのみで、兵十万を加えなければならない」と。そして全諷はついにこれにより敗れた。
八年、徐温は昇州刺史を領し、金陵で水軍を整えた。宣州の李遇は楊行密の時から大将であり、勲位すでに高く、徐温が権力を用いることに憤り、かつて言った、「徐温とは何者か? 私はまだ面識もないのに、急にこの地位に至った」と。徐温はこれを聞いて怒り、柴再用に兵を率いさせて王壇を送り李遇と代えさせ、かつ彼を召還しようとした。李遇は疑って命令を受けず、再用がこれを包囲した。隆演は客将の何蕘を使わして李遇を諭し、自ら帰順させようとした。蕘はそこで説いて言った、「公がもし反逆を欲するなら、私を殺して衆に示せばよい。もし元々その心がなければ、どうして私に従って出ないのか」と。李遇は自分に反逆の心がないと思い、そこで蕘に従って出た。徐温は再用にほのめかし、彼が出るのを待って殺させ、あわせてその家を族滅した。
九年、徐温は将吏を率いて隆演の位を太師、中書令、呉王に進めた。徐温は行軍司馬、鎮海軍節度使、同中書門下平章事となった。陳章が楚を攻めて岳州を奪い、その刺史の苑玫を捕らえた。十年、越人が常州を攻めたが、徐温が無錫でこれを破った。梁が王茂章を遣わして寿春を攻めたが、徐温が霍丘でこれを破った。十二年、徐温を斉国公、両浙都招討使に封じ、初めて潤州に鎮した。その子の知訓を行軍副使として留め、政務を執らせたが、大事は徐温が遠くから決定した。冬、楊林江を疏濬したところ、水中から火が出て、燃やすことができた。
十三年、宿衛将の李球と馬謙が隆演を挟んで楼に登り、庫の兵器を取って徐知訓を誅殺しようとし、門橋に陣した。知訓はこれと戦い、しばしば退いた。朱瑾がちょうど外から来て、一騎で前に進みその陣を見て言った、「これは足りるものではない」と。そこで振り返って一手を揮うと、外の兵が争って進み、遂に李球と馬謙を斬り、乱兵は皆潰走した。十四年、徐温は治所を金陵に移した。十五年、王祺を遣わして洪、袁、信の三州の兵を合わせて虔州と韶州を攻めさせたが、長くかかっても陥落しなかった。王祺が病み、劉信が代わった。四月、副都統の朱瑾が徐知訓を殺し、朱瑾は自殺した。潤州の徐知誥が乱を聞き、兵を率いて入り、唐の宣諭使李儼を殺して乱を止め、遂に政務を執った。
徐氏が政権を専らにするにつれ、隆演は幼く懦弱で、自らを保つことができず、徐知訓は特にこれを凌辱した。かつて楼上で酒を飲み、優人の高貴卿に酒席に侍らせ、知訓は参軍の役をし、隆演は鶉衣で髽髻の蒼鶻の役をした。知訓はかつて酒に任せて座を罵り、言葉が隆演に及んだ。隆演は恥じて涙を流したが、知訓はますます辱めた。左右が隆演を扶けて立ち去らせると、知訓は吏一人を殺してやっと止めた。呉の人々は皆、側目した。知訓はまた朱瑾と不和となった。朱瑾がすでに知訓を殺し、その首を携えて府中に馳せ込み、隆演に示して言った、「今日、呉のために患いを除きました」と。隆演は言った、「このことは私の知るところではない」と。急いで起きて内に入った。朱瑾は憤然として、首を柱に打ちつけ、剣を提げて出たが、府門はすでに閉ざされており、垣を越えようとして足を折り、遂に自刎して死んだ。米志誠は朱瑾が知訓を殺したと聞き、甲を着けて家兵を率いて天興門に至り、朱瑾の所在を問うた。朱瑾が死んだと聞くと、帰還した。徐温は志誠が朱瑾を助けたと疑い、使者を遣わしてこれを殺させた。厳可求は事が成らぬことを恐れ、人を偽って湖南の境から来て軍の捷報を告げさせ、諸将を召し入れて賀させ、志誠を擒えて斬った。劉信が虔州を陥落させ、譚全播を捕らえて帰還した。
十六年、春二月、徐温は将吏を率いて楊隆演に天子の位に即くことを請うたが、許されなかった。夏四月、徐温は玉冊と宝綬を奉じて楊隆演を尊び、呉王の位に即かせた。宗廟と社稷を建て、百官を天子の制度のように設け、天祐十六年を武義元年と改め、境内を大赦し、楊行密を孝武王と追尊し、廟号を太祖とし、楊渥を景王と追尊し、廟号を烈祖とした。徐温を大丞相・都督中外諸軍事に拝し、東海郡王に封じ、徐知誥を左僕射・参知政事とし、厳可求を門下侍郎とし、駱知祥を中書侍郎とし、殷文圭と沈顔を翰林学士とし、盧択を吏部尚書とし、李宗と陳章を左・右雄武統軍とし、柴再用と銭鏢を左・右龍武統軍とし、王令謀を内枢密使とし、江西の劉信を征南大将軍とし、鄂州の李簡を鎮西大将軍とし、撫州の李徳誠を平南大将軍とし、廬州の張崇を安西大将軍とし、海州の王綰を鎮東大将軍とし、文武の官は順次に位を進めた。宗室を皆郡公に封じた。
徐温が鎮所を金陵に移した時、その養子の徐知誥に潤州を守らせた。厳可求はかつて徐温に言った、「二郎君(徐知誥)は徐氏の子ではなく、賢を推し士に下るので、人望が大いに帰しています。これを除かなければ、後患となる恐れがあります」。徐温はその言葉を用いることができなかった。徐知誥が政務を執るようになって、その話が漏れ、徐知誥は厳可求を楚州に出した。厳可求は恐れ、金陵に赴いて徐温に会い謀って言った、「唐が滅んでから今十二年になりますが、呉はなお天祐の年号を改めようとせず、唐に背かないと言えましょう。しかし呉が四方を征伐し、基業を建てる所以は、常に興復を口実としてきました。今、河上の戦いで、梁の兵が屡々敗れたと聞きます。もし李氏(唐)が再興すれば、呉は節を屈することができるでしょうか。この時に先んじて国を建てて自立すべきです」。徐温は深く然りとし、そこで厳可求を留めて帰さず、楊隆演に僭号を迫ることを謀り始めた。
二年五月、楊隆演が卒去した。楊隆演は少年で位を嗣ぎ、権は徐氏にあり、国を建てて制を称するのは、その本意ではなく、常に怏怏として、酣に飲み、稀に再び食を進めることもなく、遂に病んで卒去した。年二十四。諡して宣という。弟の楊溥が立ち、僭号し、高祖宣皇帝と追尊し、陵を粛陵といった。
楊溥は、楊行密の第四子である。楊隆演が国を建てた時、丹陽郡公に封じられた。楊隆演が卒去すると、弟の廬江公楊濛が次に立つべきであったが、徐氏が政務を執り、長君を望まなかったので、楊溥を立てた。七月、昇州大都督府を金陵府と改め、徐温を金陵尹に拝した。明年二月、元号を順義と改め、境内を赦した。冬十一月、南郊で天を祀った。天興楼に御し、大赦した。徐温を太師に、厳可求を右僕射に拝した。
三年、唐の荘宗が梁を滅ぼした。司農卿の盧蘋を使者として唐に遣わし、厳可求は密かに数事を条記して盧蘋に授けて行かせた。盧蘋が洛陽で謁見すると、荘宗がこれを問い、盧蘋は順序を追って答え、皆授けられた通りであった。
四年、楊溥は白沙に至って舟師を閲し、徐温が来て謁見し、白沙を迎鑾鎮とした。
五年、唐は諫議大夫の薛昭文を福州に使いさせ、江西を通ることを仮道した。劉信が出てこれを労い、言った、「(天子の)次(荘宗)は劉信の有ることを聞いているか」。薛昭文は言った、「天子は新たに河南を得たばかりで、公の名はまだよく知りません」。劉信は言った、「漢に韓信あり、呉に劉信あり。君が帰ったら、その次(天子)に語れ、必ず淮上で射を較べよう」。そこで大杯に酌み、牙旗の鎞首を望むこと百歩、薛昭文に言った、「一発で中たれば、この杯をもって寿を祝わんと願い、そうでなければ自ら罰せん」。言い終わらないうちに、矢は既に貫いていた。
六年、大丞相徐温の四代の祖先に爵を追贈し、金陵に廟を立てた。左僕射徐知誥を侍中とし、右僕射厳可求を同平章事とした。この年、荘宗が崩じ、五月丁卯、詔して同光主(荘宗)のために朝を輟めること七日とした。
七年、大丞相徐温は呉の文武を率いて上表し、楊溥に皇帝の位に即くことを勧めたが、楊溥が許さないうちに徐温が病没した。十一月庚戌、楊溥は文明殿に御して皇帝の位に即き、元号を乾貞と改め、境内を大赦し、楊行密を武皇帝と、楊渥を景皇帝と、楊隆演を宣皇帝と追尊した。徐知誥を太尉兼侍中とし、徐温の子の徐知詢を輔国大将軍・金陵尹に拝し、徐温の旧鎮を治めさせた。諸子を皆王に封じた。
二年正月、東海を広徳王に、江瀆を広源王に、淮瀆を長源王に、馬当上水府を寧江王に、采石中水府を定江王に、金山下水府を鎮江王に封じた。六月、荊南の高季興が来て附き、高季興を秦王に封じた。九月、高季興は白田で楚の師を破り、その将吏三十四人を獲て来て献じた。
三年十一月、金陵尹徐知詢が来朝した。徐知誥は彼に反状有りと誣い、留めて帰さず、左統軍とし、その客将の周廷望を斬った。徐知諤を金陵尹とした。楊溥は尊号を睿聖文明孝皇帝と加えられ、境内を大赦し、元号を大和と改め、徐知誥を中書令とした。
二年、その子の江都王楊璉を冊いて太子とした。三年、徐知誥を金陵尹とし、その子の徐景通を司徒とし、及び左僕射王令謀・右僕射宋斉丘を皆平章事とした。四年、徐知誥を東海王に封じた。五年、金陵に都を建てた。六年閏正月、金陵で火災があり、都を建てることを罷め、臨川王楊濛を廃して歴陽公とし、徐知誥は親信の王宏に兵を遣わしてこれを守らせた。王令謀を司徒に、宋斉丘を司空に拝した。徐知誥は徐景通を召し還して金陵とし、鎮海軍節度副使とし、その子の徐景遷を太保・平章事とし、王令謀らと政務を執らせた。
七年九月、楊溥は尊号を睿聖文明光孝応天弘道広徳皇帝と加えられ、大赦し、元号を天祚と改めた。徐知誥は位を進めて太師・天下兵馬大元帥とされ、斉王に封じられた。二年、徐景遷が病み、次子の徐景遂を門下侍郎・参政事とした。三年、徐知誥は斉国を建て、宗廟と社稷を立て、左・右丞相以下を置き、金陵を西都とし、広陵を東都とした。冬十月、楊溥は江夏王楊璘を遣わして冊を奉じ、斉王に位を禅譲させた。十二月、楊溥は丹陽で卒去した。年三十八。諡して睿という。
昇元六年、李昪はその子孫を海陵に移し、永寧宮と号し、厳兵を以て守り、人と通じることを絶った。久しくして男女自ら匹偶を為し、呉人は多くこれを哀れみ憐んだ。顕徳三年、世宗が淮南を征し、詔を下して楊氏の子孫を撫安したが、李景(南唐元宗)がこれを聞き、人を遣わしてその族を尽く殺させた。周の先鋒都部署劉重進がその玉硯・馬脳碗・翡翠瓶を得て献じ、楊氏は遂に絶えた。
徐温
徐温、字は敦美、海州朐山の人なり。若くして塩を販りて盗賊を為し、行密が合淝に起つや、その帳下に隷す。行密の共に起事せし劉威・陶雅の徒、三十六英雄と号すれども、独り温は未だ戦功有ること無し。及んで行密、朱延寿等を殺さんと欲すや、温は其の客厳可求の謀を用い、行密に陽りて目疾を為さしめ、事成りて、功を以て右衙指揮使に遷り、始めて謀議に預かる。
行密の病むに及び、平生の旧将は皆戦守を以て外に在りしが、温は帳下に居りて、遂に渥を立てし功に預かる。及んで渥を弑し、又張顥と隙有り、鍾章をして之を殺さしむ。章は諾し、壮士三十人を選び、牛を椎きて之を饗し、血を刺して盟を為す。温は猶お章の果たさざるを疑い、夜半人をして其の意を探らしめ、陽りて謂ひて曰く、「温に老母有り、事成らざるを懼る、姑く止むるに如かず」と。章曰く、「言已に口を出づ、寧んぞ已むべけんや」と。温乃ち安んず。明日、鍾章顥を殺し、温因りて尽く紀祥等を殺し、渥を弑せる罪を顥に帰し、其の事を以て渥の母史氏に入れて白す。史は悸いて泣きて曰く、「吾が児年若く、禍乱此の若き有り、百口を保ちて合淝に帰するを得ば、公の恵なり」と。
隆演立つや、温遂に政を専らにし、昇州刺史に遷り、金陵に舟師を治む。大将李遇、温の事を用ふるに怒り、嫚言を出だす。温は柴再用をして宣州に於て遇を族せしむ。行密の旧将、人々皆自ら疑ふ。温因りて偽りて之に下り、恭謹なること行密を見るが如くす。諸将乃ち安んず。八年、温は行軍司馬・潤州刺史・鎮海軍節度使・同平章事に遷る。十年、招討使李濤を遣はして越を攻めしむ。臨安に戦ひ、裨将曹筠越に奔る。濤は敗れて執はる。温は間に人を遣はして筠に語りて曰く、「吾汝を用ひて将と為す、汝の軍に求むる所あれど、吾与ふること能はざるは、是れ吾が過ちなり」と。筠の妻子を赦して誅せず、厚く之を遇す。秋、越人毗陵を攻む。温は無錫に戦ふ。筠は温の前言に感じ、臨戦に奔りて帰る。遂に越兵を敗る。十二年、温を斉国公に封じ、兼ねて両浙招討使と為し、始めて潤州に就きて鎮す。昇・潤・宣・常・池・黄の六州を以て斉国と為す。温は昇州に城し、大都督府を建つ。十四年、之に治を徙す。其の子知訓を以て広陵に於て隆演を輔けしめ、而して大事は温遥かに之を決す。知訓は朱瑾に殺さる。温の養子知誥、潤州より先に入り、遂に政を得。
温は姦詐多疑なれども、将吏を用ふるに善し。江西の劉信、虔州を囲みて久しく克たず、人をして譚全播を説きて出で降らしめ、使を遣はして温に報ず。温怒りて曰く、「信十倍の衆を以て、一城を攻めて下さず、却って説客を用ひて之を降す、何を以てか敵国に威を示さん」と。其の使者を笞ちて遣はし、曰く、「吾は信を笞つなり」と。因りて師を済すを命じ、遂に全播を破る。人、信の逗留し陰に全播を縱すを誣ひ、信将に反せんとすと言ふ者有り。信之を聞き、因りて自ら捷を献じて金陵に至り温に見ゆ。温は信と博す。信は骰子を斂めて厲声に祝して曰く、「劉信、呉に背かんと欲せば、願くは悪彩たらんことを。苟も二心無くば、当に渾花を成すべし」と。温遽かに之を止む。一擲して、六子皆赤し。温慚じ、自ら巵酒を以て信に飲ます。然れども終に之を疑ふ。唐師の王衍を伐つに及び、温急ぎ信を召して広陵に至らしめ、左統軍と為し、内備を以て託す。遂に其の地を奪ふ。
温の客、尤も信を見らるる者は、惟だ駱知祥・厳可求のみ。可求は籌畫に善く、知祥は財利に長ず。温嘗て軍旅を以て可求に問ひ、国用を以て知祥に問ふ。呉人は之を「厳・駱」と謂ふ。温亦自ら智詐を為すを喜び、尤も呉人の心を得たり。初め行密に随ひて趙鍠を破る時、諸将皆金帛を争ひ取れども、温独り余りの囷を拠り、粥を作りて以て餓者に食はしむ。十六年、温は隆演に請ひて皇帝の位に即かしめんとす。許さず。又請ひて呉王の位に即かしむ。乃ち許す。遂に国を建て元を改む。温を大丞相・都督中外諸軍事に拝し、東海郡王に封ず。隆演卒す。温は次を越えて其の弟溥を立つ。順義七年、温又溥に請ひて皇帝の位に即かしめんとす。溥未だ許さざるに温病みて卒す。年六十六。斉王を追封し、謚して武と曰ふ。李昪僭号し、温を義祖と号す。
嗚呼、盗も亦た道有り、信なるかな。行密の書、行密の人と為りを称するに、寬仁雅信にして、能く士心を得たりと。其の将蔡儔、廬州に叛き、悉く行密の墳墓を毀つ。儔の敗るるに及び、諸将皆其の墓を毀ちて以て之に報ぜんことを請ふ。行密歎じて曰く、「儔是を以て悪と為す、吾豈に復た為さんや」と。嘗て従者張洪に剣を負はしめて侍らしむ。洪剣を抜きて行密を撃つ。中たらず。洪死す。復た洪の善くする所の陳紹を用ひて剣を負はしめ、疑はざりき。又嘗て其の将劉信を罵る。信忿りて孫儒に奔る。行密左右を戒めて追ふこと勿れと曰く、「信吾に負くる者か。其の醉ひて去る、醒めば必ず復た来らん」と。明日、果たして来る。行密は盗賊より起り、其の下は皆驍武雄暴なれども、楽んで之を用ひらるるは、此を以てなり。故に二世四主、五十年を垂る。渥已下に及び、政は徐温に在り。此の時に於て、天下大乱し、中国の禍、篡弒相尋ぬ。而るに徐氏父子、區區の詐力を以て、三主に裴回し、敢えて軽く之を取らざりき。何ぞや。豈に其の恩威も亦た人に在る者有るか。呉録・運歴図・九国志に拠るに、皆行密は唐の景福元年に揚州に再入し、晋の天福二年に李昪に篡せらるるに至り、実に四十六年と云ふ。而るに旧唐書・旧五代史は皆云ふ、大順二年揚州に入り、篡せらるるに至り、四十七年と。呉録は徐鉉等の撰、運歴図は龔穎の撰、二人は皆江南の故臣、記す所宜しく実を得べし。而して唐末喪乱、中朝の文字多く差失す。故に今鉉・穎の記す所を以て定む。