目次
劉昫
劉昫は涿州帰義の人である。昫は風采が美しく、兄の暄、弟の暤とともに好学で名を知られ、燕・薊の間に聞こえた。後に定州の王処直の観察推官となった。処直が子都に囚われ、昫の兄暄もまた怨家に殺されると、昫は滄州に避難した。
初め、廃帝が入った時、三司使の王玫に「庫蔵の数はどれほどか」と問うと、玫は「数百万」と答えた。ところが軍を賞するために責めると、十分の一もなく、廃帝は大いに怒り、玫を罷免し、昫に三司の判事を兼ねさせた。昫の性質は明察で、三司の腐敗と弊害を特に憎み、文簿を精査し、その虚実を検証し、残った租税や積年の負債をすべて免除した。以前は官吏が積年の負債を隠して発覚しないようにし、それによって州県を把持して賄賂を求めたが、昫が一切免除すると、民間は喜んで徳とし、三司の官吏は皆、沮喪し怨んだ。
先に、馮道と昫は姻戚関係にあり、ともに宰相となったが、道が罷免され、李愚が代わった。愚はもとより道の為人を憎み、事に遅滞や過失があれば、必ず指して昫を嘲って言うには「これは貴公の舅君のなされたことだ」と。昫の性質は寛容さに欠け、愚は特に剛直で、互いに誹謗し罵り合った。相府の史吏はこの両人の剛直を嫌い、共に言い広めた。その事が聞こえ、廃帝は両人をともに罷免し、昫を右僕射とした。この時、三司の諸吏が印を持ち集まって月華門外に立ち、詔書を宣して昫の宰相罷免を聞くと、皆歓呼して互いに賀して言うには「これより我らは快活だ」と。
昫は宰相の位にあって、典故に習熟しなかった。初め、明宗が崩じた時、太常卿の崔居儉は故事により礼儀使となるべきであったが、居儉は祖父の諱(蠡)を理由に辞退した。馮道は居儉を秘書監に改めたので、居儉は不満で失職した。中書舎人の李詳が居儉のために誥詞を作り、「名を聞きて心懼る」という語があったが、昫はすぐに「恥ありて且つ格し」と改めた。居儉は訴えて言うには「名諱には令式がある。我に何の罪があろうか」と。当時聞いた者は皆、笑い話として伝えた。また僕射となった時、入朝して雨に遭い、班を廊下に移したが、御史台の吏が僕射を中丞・御史の下に立たせようとした。昫は吏に故事を詰問したが、宰相から台省に至るまで皆、知らなかった。この時、馮道は宰相を罷免されて司空となっていた。隋・唐以来、三公には職事がなく、特に設置されなかったが、道が司空となって、有司に班次を問うと、これも皆知らなかった。そこで朝堂に入らず、台官・両省が入ってから入り、宰相が出ると随って出た。昫が僕射となると、自分も宰相から罷免された点で道と同じであるとして、道に随って出入りし、有司は弾劾正すことができず、議論する者は多くひそかにこれを笑った。
晋の高祖の時、張従賓が反乱し、皇子の重乂を洛陽で殺した。そこで昫を東都留守とし、塩鉄を判らせた。開運年中、司空・同中書門下平章事に任じ、再び三司を判らせた。契丹が京師を犯すと、昫は目の病気により罷免されて太保となり、この年に卒した。享年六十。
盧文紀
盧文紀、字は子持。その祖父の簡求は唐の太原節度使となり、父の嗣業は右補闕に至った。文紀は進士に挙げられ、梁に仕えて刑部侍郎・集賢殿学士となった。唐の明宗の時、御史中丞となった。初めて職務に就く時、百官が台参し、吏が諸道の進奏官が賀する旨を告げた。文紀は「どうすべきか」と問うと、吏は答えて言うには「朝廷が長安にあった時、進奏官は大夫・中丞を見るに胥史の如しであった。唐が衰えてより、天子は微弱となり、諸侯は強盛となり、貢奉は至らず、朝廷は方鎮を姑息し、邸吏を仮借した。大夫・中丞が職務に就く時、進奏官は客次に至り名を通し、茶酒で労うが相見えず、これが故事として伝わっている」と。文紀は言うには「我は徳薄いといえど、敢えて旧制を廃せようか」と。そこで吏を遣わして諭した。進奏官は奮臂して喧噪し去ろうとしたが、やむを得ず入見した。文紀は牀に据わり笏を端しくし、台吏が名を通し拝を唱えた。出ると、憤慨して堪えず、枢密使の安重誨に訴えた。重誨は言うには「我は故事を知らない。朝廷に上訴すべし」と。すぐに相率いて閣門に詣でて求見し、状をもって訴えた。明宗は宰相の趙鳳に問うた「進奏吏は外官の何に比すべきか」。鳳は言うには「州県の発遞知後の類です」。明宗は怒って言うには「吏卒に過ぎぬ。どうして我が法官を侮るか」と。皆、杖罰して遣わした。文紀はまた、内外の官の校考法を悉く復するよう請い、将相は天子自らこれを書くこととした。詔は施行されたが、官はついに考課されなかった。一年余りして、工部尚書に遷った。
文紀はもとより宰相の崔協と不和であった。協が工部郎中に于鄴を除したが、文紀は鄴がその父の名と同音であるとして大いに怒った。鄴が省に参上すると、文紀はこれに会わず、連続した休暇を請うた。やがて鄴は使を奉じて未だ出発せず、文紀はすぐに出て視事した。鄴は酔って憤慨し、自ら縊死した。文紀は罪に坐して石州司馬に貶された。
久しくして、秘書監・太常卿となった。蜀に使いとして赴き、鳳翔を過ぎた。時に廃帝は鳳翔節度使であった。文紀は人となり形貌魁偉で、語音が朗らかであったので、廃帝はこれを奇とした。後に廃帝が入って立つと、宰相を選ぼうとして左右に問うた。左右は皆言うには「文紀及び姚顗に人望があります」と。廃帝は清望官の姓名を悉く書いて琉璃瓶の中に入れ、夜に香を焚いて天に呪い、箸で挟むと、最初に文紀を得た。喜んでこれを相とし、中書侍郎・同中書門下平章事に任じた。
この時、天下は多事であり、廃帝はしばしば文紀を責めた。文紀はそこで五日ごとの起居を廃し、唐の故事に復するよう請うた。延英殿を開き、天下の事をゆったりと奏議できるようにと望んだ。廃帝は、五日ごとの起居は明宗が群臣に会うためのものであり、廃すべからず、便殿で事を論ずるのはゆったりとできるので、必ずしも延英殿でなくともよい、と言った。そこで詔して、宰相に事があれば、時に拘わらず閣門に詣でて対を請うべし、とした。
晉の高祖が太原より挙兵し、廢帝が北征するに当たり、徽陵を拝し、仗舍に休む。文紀を顧みて曰く、「吾は鳳翔にて卿を識り、常人を以て待たず、卿が相となってより、輿議に詢うに、皆太平を致すべきと云う。今日吾をして此に至らしむるは、卿は如何にすべきか」と。文紀は惶恐して謝罪す。廢帝が河陽に至るや、文紀は帝に橋を扼して自ら守るを勧むるも、聴かず。晉の高祖が入りて立つに及び、罷めて吏部尚書と為り、累遷して太子太師に至り、致仕す。
周の太祖が入りて立つに及び、即ち家にて司空を拝す。卒す、年七十六、司徒を贈らる。
馬胤孫
馬胤孫、字は慶先、棣州商河の人なり。人となり懦暗にして、少くより学を好み、韓愈に学びて文章を為す。進士に挙げられ、唐の潞王從珂の河中觀察支使と為る。從珂が楊彦温に逐われ、京師の里第に罷居するや、胤孫は従いて去らず。從珂が京兆尹と為り、鎮を鳳翔に徙むるに、胤孫は常にこれに従い、觀察判官と為る。潞王、将に兵を挙げて反せんとし、将吏韓昭胤等と謀議已に定まり、胤孫を召して之に告げて曰く、「命を受けて鎮を移す、路は京師に出づ、何れの向きを便と為すべきか」と。胤孫曰く、「君命召す、駕を俟たず。今大王は国の宗属たり、而して先帝新たに天下を棄てたまう、喪に臨み鎮に赴くは、臣子の忠なり」と。左右皆其の愚を笑うも、然れども從珂は心に独り之を重んず。廢帝入りて立つに及び、戸部郎中・翰林學士と為す。久しくして、中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。
胤孫は世務に通ぜず、故事多く壅塞す。是の時、馮道が匡國軍節度使を罷め、司空を拝す。司空は唐より已来特拜する者無く、有司故事を知らず、朝廷の議者紛然たり。或いは曰く、司空は三公、宰相の職なり、まさに大政に参与すべきなりと。而して宰相盧文紀独り謂う、司空の職は、祭祀掃除のみなりと。胤孫皆決する能わず。時に劉昫も亦相を罷めて僕射と為り、右散騎常侍孔昭序建言す、「常侍の班はまさに僕射の前に在るべし」と。胤孫は御史臺に責めて例を検せしむ。臺言う、「故事に見る所無し、今の南北班位に据るに、常侍は前に在り」と。胤孫は即ち臺の状を判して施行す。劉昫大いに怒る。崔居儉朝に揚言して曰く、「孔昭序は解語たり、是れ朝廷に解語人無きなり。且つ僕射は百寮の師長たり、中丞・大夫就班して敬を脩む。而して常侍は南宮六卿の下に在り、況んや僕射においてをや。昭序は癡児、豈に事体を識らんや」と。朝士居儉の言を聞き、流議稍く息む。胤孫は事に臨み多く決する能わず、当時「三不開」と号す。其の口を開かずして論議し、印を開かずして事を行い、門を開かずして士大夫を延ぶを謂うなり。
晉の兵、太原より起こり、廢帝河陽に幸す。是の時勢已に危迫す。胤孫洛より来たりて行在に朝す。人皆其の建言有るを冀うに、胤孫は綾三百匹を献ずるのみ。晉の高祖入りて立つに及び、罷めて田里に帰る。
胤孫は既に韓愈に学びて文を為す故に、多く浮屠氏の説を斥く。罷めて帰るに及び、乃ち反って仏を学び、法喜集・仏国記を撰して世に行わる。時人これを誚りて曰く、「清泰に佞うこと徹せず、乃ち来たりて仏に佞う」と。清泰は廢帝の年号なり。人胤孫に戯れて曰く、「公は素より韓愈の為人を慕い、而して常に傅奕の論を誦す。今反って仏に佞う。是れ仏の公に佞うか、公の仏に佞うか」と。胤孫答えて曰く、「豈に知らんや、仏の我に佞わざるを」と。時人伝えて以て笑いと為す。
後に太子賓客分司と為り洛陽に居る。周の広順年中に卒す。胤孫卒したる後、其の家の婢に胤孫の語を為す者有り。初め、崔協が明宗の相と為り、在位に発明する所無く、既に死して、而して其の家に降語有り。胤孫又た然り。時人これを嘲りて曰く、「生くる時は言う能わず、死して後に語る」と云う。
姚顗
姚顗、字は百真、京兆長安の人なり。少くより惷にして、容止を修めず、時人之を知る莫し。中条山の処士司空図一見して奇と為し、其の女を以て妻と為す。進士に挙げられ、梁に事えて翰林學士・中書舎人と為る。唐の荘宗梁を滅ぼし、復州司馬に貶す。已にして左散騎常侍兼吏部侍郎・尚書左丞と為す。廢帝、宰相を択ばんと欲し、当時の清望官にして世に知名なる者を選び、盧文紀及び顗を得て、乃ち顗を中書侍郎・同中書門下平章事に拝す。
顗は人となり仁恕にして、銭陌銖両の数を知らず、家を御するに法無く、相位に在りて齪齪として為す所無し。唐の制、吏部は三銓に分かたる。尚書一人を尚書銓と曰い、侍郎二人を中銓・東銓と曰う。毎歳孟冬の三旬を以て集まり、而して選は季春の月に尽くす。天成中、馮道相と為り、建言す、「天下未だ一ならず、選人は歳に纔か数百、而して吏部三銓分注す。雖も故事と曰うも、其の実徒らに繁くして益無し」と。始めて詔して三銓を一に合し、而して尚書・侍郎共に選事を行わしむ。顗と盧文紀が相と為るに至り、復た奏して銓を三に分つ。而して資に循い、長定の旧格は、歳久しくして多く舛あり、因りて之を増損す。選人多く之を便とせず、往々宰相を邀遮し、喧訴して遜らず。顗等之を如何ともする無し。廢帝為に詔書を下して禁止す。
晉の高祖立ち、顗を罷めて戸部尚書と為す。卒す、年七十五。卒するの日、家に余貲無く、尸を斂むる能わず、官為に賵贈して乃ち能く斂む。聞く者之を哀憐す。
劉岳
劉岳、字は昭輔、洛陽の人なり。唐の民部尚書政会の八代の孫、崇龜・崇望は其の諸父なり。岳は名家の子、学を好み、文辞に敏にして、談論を善くす。進士に挙げられ、梁に事えて左拾遺・侍御史と為る。末帝の時、翰林學士と為り、累官して兵部侍郎に至る。
梁亡び、均州司馬に貶せらる。復た用いられて太子詹事と為る。唐の明宗の時、吏部侍郎と為る。故事、吏部の文武官の告身は、皆朱膠紙軸の銭を輸して然る後に給う。其の品高き者は則ち之を賜い、貧しき者は銭を輸する能わず、往々但だ敕牒を得て告身無し。五代の乱、因りて以て常と為す。官卑き者は復た告身を給する無く、中書は但だ其の制辞を録し、編みて敕甲と為す。岳建言して謂う、「制辞は或いは其の材能を任じ、或いは其の功行を褒め、或いは訓誡を申す。而して官を受くる者は既に告身を給せられず、皆命を受くる所以然るを知らず。王言の以て告詔する所以に非ず。請う一切之を賜わん」と。是れより百官皆告身を賜わる。岳より始まる。
宰相馮道は元来農家の出身であり、容貌は質朴で野卑であり、朝廷の士人の多くはその鄙陋さを笑った。馮道が朝に参入するとき、兵部侍郎任贊と劉岳がその後ろにいた。馮道は歩きながら幾度も振り返った。任贊が劉岳に問うて言うには、「馮道が振り返るのは何故か。」劉岳は言う、「『兔園冊』を落としたのであろう。」兔園冊とは、郷校の俗儒が田夫や牧童に教えて誦習させる書物である。故に劉岳はこれを挙げて馮道を嘲ったのである。馮道はこれを聞いて大いに怒り、劉岳を祕書監に転任させた。その後、李愚が宰相となると、劉岳を太常卿に昇進させた。
初め、鄭餘慶がかつて唐代の士庶の吉凶書簡の様式を採り、当時の民間の礼を交えて、書儀二巻を撰した。明宗はそれに起復や冥婚の制度があるのを見て、嘆いて言うには、「儒者が孝悌を尊び風俗を厚くする所以である。しかも金革の事(戦争)がないのに、起復はよろしいか。婚姻は吉礼である。死者に用いることがよろしいか。」そこで詔して劉岳に、文学に通じ古今に通暁する士を選び、共にこれを刪定させた。劉岳は太常博士段顒・田敏らと共にその書を増減したが、その事柄は鄙俚に出で、皆当時の民間の女子が伝え習って見聞したもので、往々にして本来の姿を失っていた。しかしなお時に礼の遺制があった。その後亡失して、ますますその本末を究めることができず、その婚礼の親迎には、女が婿の鞍に坐り合髻するという説があり、特に経典に拠らないものであった。公卿の家は、これをかなり遵守して用いた。その久しくなるに及んで、またますます訛謬して可笑しいものとなり、その類は甚だ多かった。
劉岳は官において卒した。享年五十六。吏部尚書を追贈された。子に劉溫叟がいる。
嗚呼、甚だしいかな、人の礼を好むことよ。上に立つ者が礼を示さず、人にその根本を見させないで、その習俗の誤りを伝えたものを、尚も拳拳として行うのである。五代の干戈の乱において、礼に暇がないことは久しい。明宗は武人たる君、夷狄より出で、文字に通じないのに、よく意あって民に礼を知らしめようとした。そして劉岳らは皆当時の儒者であったが、ついに何ら発明するところなく、ただその書に因って増減したのみであった。しかしその後世、士庶の吉凶は皆劉岳の書を取って法とし、しかも十のうちまた三四を転失したのである。嘆ずるに勝えぬことかな。
馬縞
馬縞、その家系は知られない。若くして明経に挙げられ、また宏詞に挙げられた。梁に仕えて太常少卿となり、礼を知ることで世に称された。唐の荘宗の時、累進して中書舍人・刑部侍郎・権判太常卿となった。明宗が入って立つと、唐の太祖・荘宗を継いで親廟を立てなかった。馬縞が言うには、「漢の諸侯王が統を継いだ者は、必ず別に親廟を立てた。光武皇帝は南陽に四廟を立てた。漢の故事の如く、廟を立てて孝享を申べることを請う。」明宗はその議を下した。礼部尚書蕭頃らは馬縞の議の如くにすることを請うた。宰相鄭珏らは議して漢の桓帝・霊帝を引き合いに出し、霊帝がその祖の解瀆亭侯劉淑を孝元皇と尊び、父の劉萇を孝仁皇としたことを以て、有司に下して四代の祖考を皇と定め、園陵を置くことを漢の故事の如くにすることを請うた。事は太常に下った。博士王丕は議して、漢の桓帝が祖を孝穆皇帝と尊び、父を孝崇皇帝としたと述べた。馬縞は、孝穆・孝崇には皇はあれど帝はない、ただ呉の孫皓がその父の孫和を文皇帝と尊んだのみであり、法とすべきではないと言った。右僕射李琪らの議は馬縞と同じであった。明宗は詔して言う、「五帝は礼を襲わず、三王は楽を沿わず。皇と帝とは、世を異にし称を殊にする。嬴秦より以来、すでにその号を兼ねた。朕は九五の位に居り、億兆の尊たるに、どうして二名を眇躬に総べ、一字を先世に惜しまんや。」そこで宰臣に命じて百官を中書に集め、各々所見を陳べさせた。李琪らは祖禰を皇帝と尊び、曾祖高祖を皇とされることを請うた。宰相鄭珏は群議を合わせて奏して言う、「礼は天より降るものではなく人情に本づく。止むべきものは止め、行うべきものは行い、損うべきものは損ない、益すべきものは益す。今議者は古を引き、漢を拠り所とする。漢の制したところ、また何に依るのか。開元の時、皋陶を徳明皇帝と尊び、涼武昭王を興聖皇帝と尊び、皆京師に廟を立てた。これは唐家の故事である。臣は請う、四代の祖考に皆詔旨の如く帝を加え、京師に廟を立てられんことを。」詔して帝を加えることは可とし、廟は応州に立てることを命じた。
劉岳が書儀を修めたとき、その増減は皆馬縞によって決められた。馬縞はまた言う、「縗麻の喪紀は、親疏を別ち嫌疑を弁ずる所以である。礼によれば、叔嫂には服しない。推し遠ざけるのである。唐の太宗の時、有司が兄の妻に小功五月の服を議した。今、有司が大功九月の仮を与えるのは、正しくない。」廃帝はその議を下した。太常博士段顒は議して言う、「嫂の服に大功の仮を与えるのは、令文である。令と礼と異なることは一つではなく、喪服の同じくないものは五つある。礼では、姨舅には皆小功であるが、令では皆大功である。妻の父母・婿・外甥には皆緦であるが、令では皆小功である。礼と令とが同じくできないことはこのようである。」右贊善大夫趙咸はまた議して言う、「喪は、その易きに与するよりは寧ろ戚しむべきである。儀礼の五服は、あるいは名によって加え、あるいは尊によって制し、恩を推し義を引き、各々当たる所がある。礼に拠れば兄の子の妻に大功の服をする。今、兄の子の母に小功の服をするのは、軽重その倫を失うものである。名によって言えば兄の子の妻は疎く、尊によって言えば嫂は卑しからず。嫂に大功の服をするのは、その来ること久しい。令は国の典であり、減ずることはできない。」司封郎中曹琛は、その議を下し、併せて礼と令との違うところを定議することを請うた。詔して尚書省に百官を集めて議させた。左僕射劉昫らは議して言う、「令には喪服について正文がなく、嫂の服に大功の仮を与えるのは、仮寧が令に附されたものであり、しかも勅には年月がない。請う、凡そ喪服は皆開元礼を以て定めとし、太常に下して五服の制度を具えさせ、令に附せられんことを。」令に五服があるのは、馬縞から始まったのである。
馬縞は、明宗の時にかつて獄を覆審して不当であったために坐し、綏州司馬に貶せられた。再び太子賓客となり、戸部侍郎・兵部侍郎に遷った。盧文紀が宰相となると、その迂儒を以て鄙しみ、国子祭酒に改めた。卒した。享年八十。兵部尚書を追贈された。
崔居儉
崔居儉は清河の人である。祖父の崔蠡、父の崔蕘は皆唐の名臣であった。居儉は文辞に優れ、風骨清秀であり、若くして進士に挙げられた。梁の貞明年中、中書舍人・翰林學士・御史中丞となった。唐の荘宗の時、刑部侍郎・太常卿となった。
崔氏は後魏・隋・唐以来、盧氏・鄭氏と共に皆甲族であり、吉凶の事には各々家礼を著していた。その後世子孫に至っては、専ら門望を以て自ら高しとし、世に嫉まれた。明宗が崩ずると、居儉は故事によって礼儀使となったが、居儉は祖の諱が蠡であることを以て、辞して受けなかった。宰相馮道は即ち居儉を祕書監に転任させた。居儉は兵部侍郎・吏部侍郎・尚書左丞・戸部尚書を歴任した。晋の天福四年に卒した。享年七十。右僕射を追贈された。
居儉は生計を営むことに拙く、顕官に居ながら、衣類に常に乏しく、死した日に貧しくして葬ることができず、聞く者これを哀しんだ。
崔梲
梲は性、至孝であり、その父の涿が病むと、薬を服することを肯んぜず、言うには、「死生には命あり、何ぞ薬を用いんや。」と。梲は屡々医薬を進めたが、納れられなかった。賓客が病を問う者があるごとに、梲は門外に迎えて拝し、泣涕してこれを告げたが、涿はついに薬を服さずして卒した。梲は喪に居り哀毀し、服除けの後、唐の明宗が監察御史に任じようとしたが、拝せず、一年を踰えて再び命じられ、ようやく拝した。累進して都官郎中・翰林學士となった。
五年、高祖詔して太常に文武の二舞を復せしめ、正・冬の朝会の礼及び楽章を詳定せしむ。唐末の乱より以来、礼楽の制度亡失すること久し。梲は御史中丞竇貞固・刑部侍郎呂琦・礼部侍郎張允等と之を草定す。其の年冬至、高祖朝会を崇元殿にし、廷に宮懸を設け、二舞は北に在り、登歌は上に在り。文舞郎八佾、六十有四人、進賢冠を戴き、黄紗袍、白中単、白練𧞔襠、白布大口袴、革帯履。左に籥を執り、右に翟を秉る。纛を執り引く者二人。武舞郎八佾、六十有四人、平巾幘を服し、緋絲布大袖・繡襠甲金飾、白練𧞔、錦騰蛇起梁帯、豹文大口袴、烏靴。左に干を執り、右に戚を執る。旌を執り引く者二人。鼓吹十二按を加へ、熊豹を負はしめて、以て百獣の舞に率ふを象る。按に羽葆鼓一、大鼓一、金錞一を設く。歌・簫・笳各二人。王公上寿し、天子爵を挙ぐるに、玄同を奏す。三挙し、登歌文同を奏す。食を挙ぐるに、文舞は昭徳の曲を舞ひ、武舞は成功の曲を舞ふ。礼畢して、高祖大いに悦び、梲に金帛を賜ふ。群臣左右覩る者皆之を嗟歎す。然れども礼楽廃ること久しく、而して制作簡繆、又霓裳法曲の如きは龜茲部に継ぎ、雅音に参乱す。其の楽工舞郎は、多く教坊の伶人・百工商賈・州県の役を避くる者にして、又老師良工の教習無し。明年正旦、復た廷に奏す。而して登歌発声悲離煩慝、薤露・虞殯の音の如く、舞者の行列進退皆節に応ぜず。聞く者皆悲憤す。其の年高祖崩ず。梲は風痺を以て太子賓客に改められ、西京に分司して卒す。
李懌
李懌は京兆の人なり。少くより学を好み、頗る文辞に工なり。唐末進士に挙げられ、秘書省校書郎・集賢校理と為る。唐亡び、梁に事へて監察御史と為り、累遷して中書舎人・翰林学士に至る。梁亡びて、責授せられ懐州司馬と為り、赦に遇ひ量移し、稍く遷り衞尉少卿と為る。天成中、復た中書舎人・翰林学士と為り、累遷して尚書右丞承旨に至る。
時に右散騎常侍張文宝貢挙を知り、放ち進せしむる所の進士、中書に覆落する者有り。乃ち下して学士院に詩賦を作り貢挙の格と為さしむるを請ふ。学士竇夢徴・張礪等の作る所工ならず。乃ち懌に之を為さしむ。懌笑ひて曰く「年少の時進士に挙げられ科に登るは、蓋し偶然なる爾。後生畏るべし、来たる者は未だ量る可からず。仮令予復た礼部の試に就かば、未だ必ずしも落第せずと謂ふべからず。安んぞ能く英俊を以て准格と為さんや」と。聞く者其の体を知るを多とす。後刑部尚書に遷り洛陽に分司し、卒す。年七十餘。