新五代史

巻第五十四

目次

傳に曰く、「禮義廉恥は、國の四維なり。四維張らざれば、國乃ち滅亡す」と。善いかな、管生の能く言うや!禮義は人を治むるの大法、廉恥は人を立つるの大節なり。蓋し廉ならざれば、則ち取らざる所無く、恥じざれば、則ち為さざる所無し。人にして此の如くならば、則ち禍亂敗亡も亦た至らざる所無く、況んや大臣として取らざる所無く為さざる所無きに於いてをや。則ち天下其れ亂れざること有らんや、國家其れ亡びざること有らんや!予、馮道の長樂老敍を讀み、其の自ら述べて以て榮と為すを見る。其れ無廉恥者と謂うべきなり。則ち天下國家は従って知るべし。

予、五代に於いて全節の士三を得、死事の臣十有五を得たり。而して怪しむ、士の儒者を被服して古を學び自ら名づくる者にして、人の祿を享け、人の國に任ずる者多けれども、然るに忠義の節をして、獨り武夫戰卒より出づるは、豈に儒者に果たして其人無きならんや?豈に高節の士、時の亂を惡み、其の世を薄して肯えて出でざるか?抑々天下を君たる者顧みるに足らずして、能く之を致す莫きか?孔子以て謂う、「十室の邑も、必ず忠信有り」と。豈に虛言ならんや!

予嘗て五代時の小說一篇を得たり。王凝の妻李氏の事を載す。一婦人を以て猶能く此の如くならば、則ち世固嘗て其人有りて見るを得ざるを知る。凝、家は青・齊の間に在り。虢州司戶參軍と為り、疾を以て官に卒す。凝の家素より貧しく、一子尚ほ幼し。李氏其の子を攜え、其の遺骸を負いて以て歸る。東に開封を過ぎ、旅舎に止まる。旅舎の主人其の婦人の獨り一子を攜うるを見て之を疑い、其の宿を許さず。李氏天已に暮れたるを顧み、去るを肯せず。主人其の臂を牽きて之を出だす。李氏天を仰ぎて長く慟哭して曰く、「我婦人と為りて、節を守ること能わず、而して此の手人の執る所と為らんや?一手を以てへいせて吾が身を汚すべからず」と。即ち斧を引いて自ら其の臂を斷つ。路人見る者環り聚まって之を嗟き、或いは彈指と為り、或いは之が為に泣下す。開封尹之を聞き、其の事を朝に白す。官為に藥を賜い瘡を封じ、厚く李氏を卹い、而して其の主人を笞つ。嗚呼、士自ら其の身を愛せずして恥を忍び以て生を偸むる者、李氏の風を聞けば宜しく少しく愧を知るべし。

馮道

馮道、字は可道、瀛州景城の人なり。劉守光に事えて參軍と為り、守光敗れ、去りて宦者張承業に事う。承業河東軍を監し、以て巡官と為し、其の文學を以て之を晉王に薦む。河東節度掌書記と為る。莊宗即位し、戶部侍郎を拜し、翰林學士を充つ。

道人と為りて能く自ら刻苦し儉約を為す。晉と梁と河を夾みて軍するに當たり、道軍中に居り、一茅庵を為し、牀席を設けず、一束の芻を臥すのみ。得る所の俸祿は、僕廝と同器に飲食し、意恬然たり。諸將人の掠え得たる美女有る者、以て道に遺う。道却くること能わず、之を別室に寘き、其の主を訪ねて還し之。其の學士を解き父喪に居りて景城に在り、歲飢に遇う。悉く所有を出だして以て鄉里を賙け、退きて野に耕し、躬自ら薪を負う。其の田を荒して耕さざる者と、力耕すること能わざる者と有れば、道夜往き、潛かに之が為に耕す。其人後來りて媿謝す。道殊に以て德と為さず。服除け、復た召されて翰林學士と為る。行きて汴州に至り、趙在禮の亂に遇う。明宗魏より兵を擁して還り、京師を犯す。孔循道を勸めて少しく留まりて以て待たしむ。道曰く、「吾詔を奉じて闕に赴く。豈に自ら留まらんや」と。乃ち疾く趨りて京師に至る。

莊宗弒遇され、明宗即位す。雅く道の為す所を知り、安重誨に問うて曰く、「先帝の時馮道何れの處にか在りし」と。重誨曰く、「學士なり」と。明宗曰く、「吾素より之を知る。此れ真に吾が宰相なり」と。道を拜して端明殿學士と為し、兵部侍郎に遷す。歲餘り、中書侍郎・同中書門下平章事を拜す。

天成・長興の間、歲屢豐熟し、中國事無し。道嘗て明宗に戒めて曰く、「臣河東掌書記と為りし時、中山に奉使し、井陘の險を過ぐ。馬蹷失するを懼れ、銜轡に怠る敢えざりしも、平地に至るに及び、慮うるに足らざるを謂いて、遽かに跌して傷つく。凡そ危きを蹈む者は慮深くして全きを獲、安きに居る者は患生ずる所忽にするにあり。此れ人情の常なり」と。明宗問うて曰く、「天下豐なれども、百姓濟うや」と。道曰く、「穀貴ければ農を餓し、穀賤しければ農を傷つく」と。因りて文士聶夷中の田家詩を誦す。其の言近くして易曉なり。明宗左右を顧みて其の詩を錄せしめ、常に以て自ら誦す。水運軍將臨河縣に於いて一の玉杯を得たり。文有りて曰く「傳國寶萬歲杯」と。明宗甚だ之を愛し、以て道に示す。道曰く、「此れ前世有形の寶のみ。王者固より無形の寶有り」と。明宗之を問う。道曰く、「仁義は帝王の寶なり。故に曰く、『大寶を位と曰い、何を以て位を守るかを仁と曰う』と」と。明宗武君、其の言を曉らざるも、道已に去り、侍臣を召して其の義を講說せしめ、嘉んで之を納る。

道明宗に相たりて十餘年、明宗崩じ、愍帝に相つく。潞王鳳翔に反す。愍帝出奔してえい州に至る。道百官を率いて潞王を迎え入れ、是を廢帝と為し、遂に之に相つく。廢帝即位す。愍帝猶ほ衞州に在り。後三日、愍帝始めて弒遇されて崩ず。已にして廢帝道を出だして同州節度使と為し、年を踰え、司空しくうを拜す。晉唐を滅ぼす。道又た晉に事う。晉高祖こうそ道を拜して守司空・同中書門下平章事と為し、司徒しとを加え、侍中を兼ね、魯國公に封ず。高祖崩じ、道出帝に相つく。太尉を加え、燕國公に封じ、罷めて匡國軍節度使と為し、鎮を徙して威勝とす。契丹晉を滅ぼす。道又た契丹に事う。耶律德光に京師に於いて朝す。德光道を責めて晉に事うること狀無きを。道對ふること能わず。又た問うて曰く、「何を以て來朝する」と。對えて曰く、「城無く兵無し。安んぞ敢えて來らざらん」と。德光之を誚して曰く、「爾は是何等の老子ぞ」と。對えて曰く、「才無く德無き癡頑老子なり」と。德光喜び、道を以て太傅と為す。德光北歸す。従いて常山に至る。漢高祖立つ。乃ち漢に歸り、太師を以て朝請を奉ず。周漢を滅ぼす。道又た周に事う。周太祖道を拜して太師と為し、中書令を兼ぬ。

道少くして能く行いを矯めて以て世に稱を取る。大臣と為るに及び、尤も務めて持重して以て物を鎮め、四姓十君に事え、益々舊德を以て自ら處る。然れども當世の士賢愚と無く皆道を仰ぎて元老と為し、喜んで之が為に稱譽す。

耶律德光嘗て道に問うて曰く、「天下の百姓如何にして救い得べき」と。道俳語を為して以て對えて曰く、「此時佛出でても救い得ず。惟だ皇帝の救い得るのみ」と。人皆以て謂う、契丹中國の人を夷滅せざるは、道の一言の善に頼るなりと。周兵反し、京師を犯す。隱帝已に崩ず。太祖漢の大臣必ず推戴を行わんと謂う。道に及んで見るに、道殊に意無し。太祖素より道を拜す。因りて已むを得ず之を拜す。道之を受くること平時の如し。太祖意少しく沮み、漢未だ代うべからざるを知り、遂に陽りに湘陰公贇を立てて漢の嗣と為し、道を遣わして贇を徐州に迎えしむ。贇未だ至らざるに、太祖兵を將いて北に澶州に至り、兵を擁して反し、遂に漢に代わる。議者道の能く太祖の謀を沮みて之を緩め、終に晉・漢の亡を以て道を責めざるを謂う。然れども道喪君亡國を視ること亦た嘗て以て屑意せず。

この時、天下は大いに乱れ、戎夷が交々侵寇し、生民の命は倒懸の急にありしが、道は自ら「長楽老」と号し、書を著すこと数百言、己が四姓及び契丹に事えて得たる階勳官爵を陳べて以て栄と為せり。自ら謂う、「家に孝、国に忠、子と為り、弟と為り、人臣と為り、師長と為り、夫と為り、父と為り、子有り、孫有り。時に一巻を開き、時に一杯を飲み、食味を味わい、別声を聞き、被色に接し、老いて当代に安んじ、老いて自ら楽しむ、何の楽かこれに如かん」と。蓋しその自述かくの如し。

道は前に九君に事えしも、未だ嘗て諫諍せず。世宗初めて即位し、劉旻上党を攻む。世宗曰く、「劉旻我を侮り、我が新立し国に大喪有るを以て、必ず兵を出して戦う能わずと謂う。且つ善く兵を用うる者は其の不意に出ず。吾自ら将として之を撃たん」と。道乃ち切に諫めて以て不可と為す。世宗曰く、「吾唐太宗の天下を平定するを見るに、敵大小と無く皆親征せり」と。道曰く、「陛下未だ唐太宗に比すべからず」と。世宗曰く、「劉旻烏合の衆、若し我が師に遇わば、山の卵を圧するが如し」と。道曰く、「陛下山と定まるを得るか」と。世宗怒り、起ち去り、卒に自ら将として旻を撃ち、果たして高平にて旻を敗れり。世宗淮南を取り、三関を定む。威武の振るうは高平より始まる。其の旻を撃つや、道を鄙しみて以て従行せしめず、太祖の山陵使と為せり。葬畢りて道卒す。年七十三。謚して文懿と曰い、瀛王を追封せらる。

道既に卒して後、時人皆共に称歎し、以て孔子と寿を同じくすと謂い、其の喜んで之が称誉を為すこと蓋しかくの如し。道に子吉有り。

李琪(兄珽)

李琪、字は台秀、河西燉煌の人なり。

其の兄珽、唐末進士に挙げられ及第し、監察御史と為る。内艱に遭い、貧しくして葬るに資無く、食を乞いて後に葬る。珽飢えて廬中に臥す。聞く者之を哀憐す。服除け、還りて御史を拝す。荊南の成汭辟して掌書記と為す。呉兵杜洪を囲む。梁太祖汭と馬殷等を遣わして洪を救わしむ。汭大舟を以て兵数万を載す。珽汭の為に謀りて曰く、「今一舟甲士千人を容れ、糗糧之に倍す。緩急動く可からず。若し敵人の之を縻すに為らば、則ち武陵・武安必ず公の後患と為らん。勁兵を以て巴陵に屯し、壁を為して戦わざるに若かず。呉兵糧尽きば、則ち囲解けん」と。汭聴かず、果たして敗れ、溺死す。趙匡凝襄陽を鎮む。又辟して掌書記と為す。太祖匡凝を破り、珽を得て喜びて曰く、「此れ真の書記なり」と。太祖即位し、考功員外郎・知制誥を除く。珽太祖の故吏を先に用いんと欲せざるを度り、固く辞して拝せず、出でて曹州を知る。曹州素より劇しくして理め難し。前刺史十余輩皆坐して廃せらる。珽至りて治を以て聞こゆ。兵部郎中・崇政院直学士に遷る。許州の馮行襲病む。行襲牙兵二千有り、皆故蔡の卒なり。太祖変を為さんことを懼る。行襲人として厳酷なり。従事魏峻切に諫む。行襲怒り、贓を以て誣え獄に下し、之を誅せんと欲す。乃ち珽を遣わして行襲に代わり留後と為す。珽許州に至り、伝舎に止まり、其の将吏を慰む。行襲病甚だし。人をして代わりて詔を受かしめんと欲す。珽曰く、「東首して朝服を加う、礼なり」と。乃ち即ち臥内にて行襲を見、太祖の語を道う。行襲感泣し、印を解きて以て珽に授く。珽乃ち峻の冤を理め、立って之を出だし、還りて太祖に報ず。太祖喜びて曰く、「珽果たして吾が事を弁ず」と。会う歳飢え、盗汴・宋の間を劫う。曹州尤も甚だし。太祖復た珽を遣わして之を治めしむ。珽至りて賊を索め、大校張彦珂・珽の甥李郊等及び牙兵百余を得て、悉く之を誅す。召して左諫議大夫を拝す。太祖河北に幸す。内黄に至り、顧みて珽に曰く、「何をか内黄と謂う」と。珽曰く、「河南に外黄・下黄有り、故に此を内黄と名づく」と。太祖曰く、「外黄・下黄何れの処にか在る」と。珽曰く、「秦に外黄都尉有り、今雍丘に在り。下黄は北齊に廃せられ、今陳留に在り」と。太祖平生儒者を愛せず、珽の語を聞きて大いに喜ぶ。友珪立ち、右散騎常侍さんきじょうじ・侍講を除く。袁象先賊を討つ。珽乱兵に殺さる。

琪少くして進士・博学宏辞に挙がり、累遷して殿中侍御史と為り、其の兄珽と皆文章を以て知名なり。唐亡び、梁太祖に事えて翰林学士と為る。梁兵四方を征伐し、下す所の詔書は皆琪の為す所、筆を下せば輒ち太祖の意を得たり。末帝の時、御史中丞・尚書左丞と為り、同中書門下平章事を拝し、蕭頃と同く宰相と為る。頃性畏慎周密、琪倜儻気を負い、小節に拘わらず。二人多く異同有り。琪内に趙巖・張漢傑等を結び助けと為す。以て故に頃の言多く沮まる。頃嘗て其の過を掎摭す。琪の私する吏試官を得るに当たる。琪試を守に改む。頃に発せらる。末帝大いに怒り、之を竄逐せんと欲す。而して巖等救解す。乃ち罷めて太子少保と為るを得たり。

唐の荘宗梁を滅ぼし、琪を得て以て相と為さんと欲す。而して梁の旧臣多く之を嫉忌す。乃ち太常卿と為す。吏部尚書に遷る。同光三年秋、天下大水し、京師食乏すること尤も甚だし。荘宗朱書の御札を以て詔し百僚に封事を上らしむ。琪上書数千言、其の説漫然として取るに足らず。而して荘宗独り之を称重し、遂に国計使と為す。方に以て相と為さんと欲するに、荘宗崩ず。明宗洛陽らくように入る。群臣進むを勧む。有司儀を具え、柩前即位の故事を用う。霍彦威・孔循等国号を改め、土徳を絶たんことを請う。明宗武君、其の説を暁らざり。何をか改号と謂うと問う。対えて曰く、「荘宗唐の錫姓を受けて宗属と為り、昭宗を継ぎて立ち、而して国を号して唐と曰う。今唐の天命已に絶つ。宜しく号を改めて以て自新すべし」と。明宗之を疑う。其の事を群臣に下す。群臣依違決せず。琪議して曰く、「殿下は宗室の賢、三世に功を立て、今兵を興して闕に向かい、難に赴くを名と為す。而して統号を更易せんと欲し、先帝を便ち路人と為さしめば、則ち煢然たる梓宮、何れの所にか依往せん」と。明宗然りと以為い、乃ち喪を発し服を成し、而して後に即位す。琪を以て御史中丞と為す。

唐末の喪乱より、朝廷の礼は壊れ、天子は未だ嘗て朝を見ず、而して入閤の制も亦廃れた。常参の官は日毎に正衙に至るも、伝聞に坐せず即ち退くのみ、独り大臣の奏事は、日一たび便殿に見え、而して侍従内諸司は、日再び朝するのみ。明宗初めて即位し、乃ち詔して群臣に、五日に一たび宰相に随ひ内殿に入見せしめ、之を起居と謂う。琪以爲へらく、唐の故事に非ずと、請ふて五日の起居を罷め、而して朔望の入閤を復せんと。明宗曰く、「五日の起居は、吾れ群臣を数に見る所以を思ふなり、罷む可からず。而して朔望の入閤は復す可し。」然れども唐の故事は、天子日毎に殿に御して群臣を見るを、常参と曰ひ、朔望に諸陵寝に食を薦め、思慕の心有りて、前殿に臨む能はざれば、則ち便殿に御して群臣を見るを、入閤と曰ふ。宣政は前殿なり、之を衙と謂ひ、衙に仗有り。紫宸は便殿なり、之を閤と謂ふ。其れ前殿に御せずして紫宸に御するや、及び正衙より仗を喚び、閤門よりして入り、百官衙に於いて朝を俟つ者は、因りて随ひ以て入見す、故に入閤と謂ふ。然れども衙は朝なり、其の礼尊く、閤は宴見なり、其の事殺ぐ。乾符已後より、乱に因り礼闕け、天子日毎に群臣を見る能はずして朔望に見るを以てす、故に正衙常日は仗を廃し、而して朔望の入閤に仗有り、其の後習ひ見て、遂に入閤を以て重しと為す。至りて前殿に出御するも、猶入閤と謂ひ、其の後亦廃れ、是に至りて復す。然れども有司其の事を講正する能はざりき。凡そ群臣五日に一たび中興殿に入見す、便殿なり、此れ入閤の遺制にして、而して之を起居と謂ひ、朔望に一たび出御して文明殿す、前殿なり、反つて之を入閤と謂ふ、琪皆正す能はざりき。琪又建言す、「入閤には待制・次対の官事を論ず有り、而して内殿の起居は、一見して退く、言有らんと欲する者は、自ら陳ずる由無し、群臣を数に見るの意に非ず。」明宗乃ち詔す、起居の日に事を言ふ者有らば、行を出して自ら陳ずるを許すと。又詔す、百官以て次に転対せしむと。

是の時、枢密使安重誨権を専らにし事を用ふ、重誨の前騶御史台門を過ぐるに、殿直馬延誤って之を衝き、重誨即ち台門に於いて延を斬り而して後奏す。琪中丞と為り、重誨を畏れて敢えて弾糾せず、又諫官の論列を懼れ、乃ち宰相任圜に託して先づ重誨に白して後に糾す、然れども猶依違して敢えて正しく其の事を言はざりき。豆盧革等相を罷め、任圜議ひて琪を以て相と為らんと欲す、而して孔循・鄭珏之を沮む、乃ち止む。遷りて尚書右僕射と為る。琪状を以て中書に申し、言ふ開元礼に「僕射上事の日、中書・門下百官を率ひて送る」と。中書太常に下す、礼院言ふ送上の文無しと、而して琪已に新授を落とし、復た上儀を挙ぐ、皆不可と。

明宗王都を討ち、已に定州を破り、汴より洛に還る、琪当に百官を率ひて上東門に至るべく、而して請ふ偃師に至り奉迎せんと。其の奏章に言ふ「契丹の兇党を敗り、真定の逆城を破る」と、誤って定州を以て真定と為すに坐し、俸一月を罰す。霍彦威卒す、詔して琪に神道碑文を撰せしむ。彦威故に梁の将たり、而して琪故に梁の相たり、彦威の梁に在りし事を叙して偽と曰はず、馮道に駁さる。

琪人と為り然諾を重んじ、人の善を称するを喜ぶ。少くより文章を以て知名り、亦此を以て自ら負ふ。貴きに既に至り、乃ち牙版を刻み金字を為して「前郷貢進士李琪」と曰ひ、常に之を坐側に置く。人と為り少しく持重し、進退を知らず、故に数へて当時に沮まる。太子少傅を以て致仕し、卒す、年六十。

鄭珏

鄭珏は、唐の宰相綮の諸孫なり。其の父徽は、河南尹張全義の判官と為る。珏少くより全義に依りて河南に居り、進士に挙げられ数たび中らず、全義珏を有司に属す、乃ち及第を得。昭宗の時、監察御史と為る。梁の太祖即位し、拝して左補闕と為す。梁の諸大臣全義の故を以て数へて之を薦め、累ねて拝して中書舎人・翰林学士奉旨と為す。末帝の時、拝して中書侍郎・同中書門下平章事と為す。

唐の荘宗鄆州より汴に入る、末帝唐兵将に至らんと聞き、惶恐として為す所を知らず、李振・敬翔等と相持ちて慟哭し、因りて珏を召して計の安くに出づるかを問ふ、珏曰く、「臣に一策有り、陛下能く行ふや否やを知らず。」末帝其の策の如何を問ふ、珏曰く、「願くは陛下の伝国宝を得て馳せて唐軍に入り、以て其の行を緩め、而して救兵の至るを待たん。」帝曰く、「事急なり、宝固より惜しむに足らず、顧みるに卿の行、事を了する能はんや。」珏首を俛めて徐に思ひて曰く、「但だ了し易からざるを恐るるのみ。」是に於いて左右皆大笑す。

荘宗汴に入る、珏百官を率ひて道左に迎謁す。貶さられ萊州司戸参軍と為り、量移して曹州司馬と為る。張全義郭崇韜に為に言ふ、復た召して太子賓客と為す。明宗即位し、任圜を用ひて相と為さんと欲す、而して安重誨圜の新進を以て、独り之を相とするを欲せず、以て枢密使孔循に問ふ。循嘗て梁に事へ、珏と善し、因りて言ふ珏故に梁の相、性謹慎にして長者なりと、乃ち珏を拝して平章事と為す。

明宗汴州に幸す、六軍の家属洛より汴に遷り、而して明宗又た鄴都に幸せんと欲す、軍士愁怨し、大臣頗る以て言ふ。明宗省みず、上下洶洶として、転た相動揺し、独り珏称賛し、以て行ふべしと為す。趙鳳安重誨に極言す、重誨驚懼し、入見して明宗に切諫す、乃ち詔して其の行を罷む。而して珏又た之を称賛し、以て罷むべしと為す。

珏相位に在りて既に碌碌として為す所無く、又た聾を病み、孔循枢密使を罷む、珏自ら安からず、亟に疾を以て職を去らんと求む。明宗数へて之を留む、珏章四たび上る、乃ち拝して左僕射致仕し、鄭州の庄一区を賜ふ。卒す、司空を贈らる。

李愚

李愚字は子晦、渤海無棣の人なり。愚人と為り謹重寡言、学を好み、古文を為す。滄州節度使盧彦威愚を以て安陵主簿と為す、母憂に丁り解き去る。後に関中に遊び、劉季述昭宗を東内に幽す、愚書を以て韓建を説き、使ひて興復を図らしむ、其の言甚だ壮なり。建用ふる能はざりき、乃ち之を去りて洛陽に至る。進士・宏詞に挙げられ、河南府参軍と為る。白馬の禍に、愚復た之を去りて山東に至り、李延光と相善し、延光経術を以て梁の末帝に事へて侍講と為り、数へて愚を称薦す、愚此に由りて召しを得。久しくして、拝して左拾遺・崇政院直学士と為す。

衡王友諒は、末帝の兄なり、梁の大臣李振等皆之に拝す、独り愚長揖す、末帝以て愚を責めて曰く、「衡王朕之に拝す、卿独り揖す、可ならんや。」愚曰く、「陛下家人の礼を以て之を見れば、則ち拝す宜し。臣王に於いて私する所無し、豈に妄りに屈する所有る宜けんや。」事を言ふに坐して旨に忤ひ、罷められて鄧州観察判官と為る。

唐の荘宗が梁を滅ぼすと、李愚は京師に朝し、唐の諸公卿は平素より李愚が古学に通じていると聞き、これを重んじて、主客郎中・翰林学士に任じた。魏王継岌がしょくを伐つに当たり、李愚を都統判官に辟召した。蜀道は険阻であり、議者は緩やかに軍を進めて変を待つべしと論じたが、招討使郭崇韜は李愚に決を求めた。李愚は言う、「王衍は荒淫怠惰にして、国政を乱し、その民はこれを厭っている。その倉卒に乗じ、その無備を撃つ、その利は速やかなるにあり、緩めるべからず」。崇韜はこれを然りとし、行く所で迎えて降る者があり、遂に蜀を滅ぼした。初め、軍が宝鶏に至った時、招討判官陳乂が病と称して留まることを請うた。李愚は声を厲めて言う、「陳乂は利を見れば進み、難を知れば止まる。今、大軍が険を渉り、人心は動揺し易い、正にこれを斬って衆に示すべきである」。これにより軍中に敢えて留まると言う者は無かった。

明宗が即位すると、累遷して兵部侍郎承旨となった。明宗が南郊で天を祀った時、李愚は宰相馮道・趙鳳のために加恩の制を草したが、馮道はその文辞を鄙しんで、太常卿に罷免された。任圜が宰相を罷めると、李愚を中書侍郎・同平章事に任じた。李愚が宰相となっても、邸宅を治めず、延賓館を借りて住んだ。李愚が病むと、明宗は宦官を遣わして見させた。その敗れた氈と敝れた席、四壁蕭然たる様を見て、明宗は嗟嘆し、供帳の物を賜うことを命じた。

潞王が反し、京師を犯すと、愍帝は夜に出奔した。翌日、李愚と馮道が端門に至ると、帝が既に出たこと、そして朱弘昭・馮贇が皆既に死んだことを聞いた。李愚は中書に至って太后の進止を待とうとしたが、馮道は言う、「潞王は既に処々に榜を張って招安している。今やまさに至らんとしている、どうして太后の旨を俟てようか」。乃ち相い出迎えた。廃帝が入って立つと、馮道を罷めて同州に出鎮させ、劉昫を宰相とした。劉昫の性質は褊急であり、李愚は素より剛介で、動くごとに違戾した。劉昫は馮道と姻戚であり、李愚はしばしばこれをもって劉昫を誚った。両人は遂に相い諠詬し、乃ち共に罷免された。李愚は左僕射を守った。

この時、兵革まさに興り、天下多事であったが、李愚が宰相として、古に依って理を創らんと欲し、乃ち唐六典を頒ちて百司に示し、各々その職を挙げさせ、州県は士を貢し、郷飲酒の礼を行わんことを請うた。時にその迂闊として用いられず。愍帝が即位し、治に意あり、数たび学士を召して時事を問うたが、李愚を迂とし、未だ嘗て問うところ無かりき。廃帝もまた李愚らが事とすべき無しと謂い、常に宰相を目して言う、「此れ粥飯僧なるのみ!」と。飽食終日して心を用うる所無きを謂うのである。清泰二年、疾を以て卒す。

盧導

盧導、字は熙化、范陽の人である。唐末に進士に挙げられ、監察御史となった。唐が滅びて梁に仕え、累遷して左司郎中・侍御史知雑事となり、病を以て免じられた。

唐の明宗の時、召されて右諫議大夫に任じられ、中書舎人に遷った。潞王従珂が鳳翔より兵を率いて京師を犯すと、愍帝は衛州に出奔した。宰相馮道・李愚が百官を天宮寺に集め、将に郊で潞王を出迎えんとした。京師は大いに恐れ、都人は蔵匿し、百官は久しくして集まらず、ただ盧導と舎人張昭が先に至った。馮道が盧導に牋を草して勧進するよう請うた。盧導は言う、「潞王が入朝するに、郊迎は可なり。勧進の事は、豈に軽々に議すべきや」。馮道は言う、「勧進は其れ已むべからざるか」。盧導は言う、「今天子外に蒙塵し、遽かに大位を以て人を勧む。若し潞王が節を守って回らず、忠義を以て責められたらば、其れ将に何の辞を以てか対えん。且つ上(愍帝)と潞王は、皆な太后の子なり。百官を率いて宮門に詣で、太后の進止を取るに如かず」。語未だ終わらざるに、報ありて言う、「潞王至れり」と。京城巡検使安従進が百官の班を催して迎えさせると、百官は紛然として去った。潞王は正陽門外に止まった。馮道は又た盧導に牋を草すよう促したが、盧導の対は初めの如し。李愚は言う、「吾輩は罪人なり。盧舎人の言うは是なり」。盧導は終に牋を草さず。

盧導は後に晋に仕えて吏部侍郎となった。天福六年に卒す。年七十六。

司空頲

司空頲は、貝州清陽の人である。唐の僖宗の時、進士に挙げられず、後に去って羅紹威の掌書記となった。紹威が卒すると、梁に入って太府少卿となった。楊師厚が天雄を鎮めるや、司空頲は官を解いて往きこれに依った。師厚が卒すると、賀徳倫がこれに代わった。張彦の乱の時、判官王正言に命じて奏を草し梁の君臣を詆斥させた。正言は素より文辞能わず、又た兵刃に迫られ、汗流れて背に浹し、筆を下す能わず。張彦は怒り、正言を推し下榻し、詬って言う、「鈍漢我を辱しむ!」と。書吏を顧みて誰か奏を草すべき者を問う。吏は即ち言う、「司空頲は羅王の時の書記なり」と。乃ち騎を馳せてこれを召した。司空頲は乱兵に衣を劫われ、敝れた服を以て形を蔽いて至った。張彦を見て長揖し、神気自若、筆を揮って文を成し、而して言甚だ浅鄙なり。張彦はその分かり易きを以て、甚だ喜び、即ち衣服僕馬を与え、遂にこれを以て徳倫の判官とした。

賀徳倫が魏博を以て晋に降ると、晋王(李存勗)が天雄を兼領し、仍って司空頲を判官とした。梁と晋が河上に対峙する時、常に司空頲に軍府の事を権めさせた。司空頲は郭崇韜に悪まれ、崇韜は数たびその賄を受けることを言った。都虞候張裕は過失多く、司空頲は屡々法を以てこれを糾した。司空頲に梁に在る姪あり、家奴を遣わしてこれを召した。張裕はその家奴を擒え、梁に書を通ずると謂う。荘宗はこれを族誅した。