新五代史

原文新五代史

巻第五十四

原文卷54

傳に曰く、「禮義廉恥は、國の四維なり。四維張らざれば、國乃ち滅亡す」と。善いかな、管生の能く言うや!禮義は人を治むるの大法、廉恥は人を立つるの大節なり。蓋し廉ならざれば、則ち取らざる所無く、恥じざれば、則ち為さざる所無し。人にして此の如くならば、則ち禍亂敗亡も亦た至らざる所無く、況んや大臣として取らざる所無く為さざる所無きに於いてをや。則ち天下其れ亂れざること有らんや、國家其れ亡びざること有らんや!予、馮道の長樂老敍を讀み、其の自ら述べて以て榮と為すを見る。其れ無廉恥者と謂うべきなり。則ち天下國家は従って知るべし。

原文傳曰:「禮義廉恥,國之四維;四維不張,國乃滅亡。」善乎,管生之能言也!禮義,治人之大法;廉恥,立人之大節。蓋不廉,則無所不取;不恥,則無所不為。人而如此,則禍亂敗亡,亦無所不至,況為大臣而無所不取不為,則天下其有不亂,國家其有不亡者乎!予讀馮道長樂老敍,見其自述以為榮,其可謂無廉恥者矣,則天下國家可從而知也。

予、五代に於いて全節の士三を得、死事の臣十有五を得たり。而して怪しむ、士の儒者を被服して古を學び自ら名づくる者にして、人の祿を享け、人の國に任ずる者多けれども、然るに忠義の節をして、獨り武夫戰卒より出づるは、豈に儒者に果たして其人無きならんや?豈に高節の士、時の亂を惡み、其の世を薄して肯えて出でざるか?抑々天下を君たる者顧みるに足らずして、能く之を致す莫きか?孔子以て謂う、「十室の邑も、必ず忠信有り」と。豈に虛言ならんや!

原文予於五代得全節之士三,死事之臣十有五,而怪士之被服儒者以學古自名,而享人之祿、任人之國者多矣,然使忠義之節,獨出於武夫戰卒,豈於儒者果無其人哉?豈非高節之士惡時之亂,薄其世而不肯出歟?抑君天下者不足顧,而莫能致之歟?孔子以謂:「十室之邑,必有忠信。」豈虛言也哉!

予嘗て五代時の小說一篇を得たり。王凝の妻李氏の事を載す。一婦人を以て猶能く此の如くならば、則ち世固嘗て其人有りて見るを得ざるを知る。凝、家は青・齊の間に在り。虢州司戶參軍と為り、疾を以て官に卒す。凝の家素より貧しく、一子尚ほ幼し。李氏其の子を攜え、其の遺骸を負いて以て歸る。東に開封を過ぎ、旅舎に止まる。旅舎の主人其の婦人の獨り一子を攜うるを見て之を疑い、其の宿を許さず。李氏天已に暮れたるを顧み、去るを肯せず。主人其の臂を牽きて之を出だす。李氏天を仰ぎて長く慟哭して曰く、「我婦人と為りて、節を守ること能わず、而して此の手人の執る所と為らんや?一手を以て并せて吾が身を汚すべからず」と。即ち斧を引いて自ら其の臂を斷つ。路人見る者環り聚まって之を嗟き、或いは彈指と為り、或いは之が為に泣下す。開封尹之を聞き、其の事を朝に白す。官為に藥を賜い瘡を封じ、厚く李氏を卹い、而して其の主人を笞つ。嗚呼、士自ら其の身を愛せずして恥を忍び以て生を偸むる者、李氏の風を聞けば宜しく少しく愧を知るべし。

原文予嘗得五代時小說一篇,載王凝妻李氏事,以一婦人猶能如此,則知世固嘗有其人而不得見也。凝家青、齊之間,為虢州司戶參軍,以疾卒于官。凝家素貧,一子尚幼,李氏攜其子,負其遺骸以歸。東過開封,止旅舍,旅舍主人見其婦人獨攜一子而疑之,不許其宿。李氏顧天已暮,不肯去,主人牽其臂而出之。李氏仰天長慟曰:「我為婦人,不能守節,而此手為人執邪?不可以一手并汚吾身!」即引斧自斷其臂。路人見者環聚而嗟之,或為彈指,或為之泣下。開封尹聞之,白其事于朝,官為賜藥封瘡,厚卹李氏,而笞其主人者。嗚呼,士不自愛其身而忍恥以偷生者,聞李氏之風宜少知愧哉!

馮道

原文馮道

馮道、字あざなは可道、瀛州景城の人なり。劉守光に事えて參軍と為り、守光敗れ、去りて宦者張承業に事う。承業河東軍を監し、以て巡官と為し、其の文學を以て之を晉王に薦む。河東節度掌書記と為る。莊宗即位し、戶部侍郎を拜し、翰林學士を充つ。

原文馮道字可道,瀛州景城人也。事劉守光為參軍,守光敗,去事宦者張承業。承業監河東軍,以為巡官,以其文學薦之晉王,為河東節度掌書記。莊宗即位,拜戶部侍郎,充翰林學士。

道人と為りて能く自ら刻苦し儉約を為す。晉と梁と河を夾みて軍するに當たり、道軍中に居り、一茅庵を為し、牀席を設けず、一束の芻を臥すのみ。得る所の俸祿は、僕廝と同器に飲食し、意恬然たり。諸將人の掠え得たる美女有る者、以て道に遺う。道却くること能わず、之を別室に寘き、其の主を訪ねて還し之。其の學士を解き父喪に居りて景城に在り、歲飢に遇う。悉く所有を出だして以て鄉里を賙け、退きて野に耕し、躬自ら薪を負う。其の田を荒して耕さざる者と、力耕すること能わざる者と有れば、道夜往き、潛かに之が為に耕す。其人後來りて媿謝す。道殊に以て德と為さず。服除け、復た召されて翰林學士と為る。行きて汴州べんしゅうに至り、趙在禮の亂に遇う。明宗魏より兵を擁して還り、京師を犯す。孔循道を勸めて少しく留まりて以て待たしむ。道曰く、「吾詔を奉じて闕に赴く。豈に自ら留まらんや」と。乃ち疾く趨りて京師に至る。

原文道為人能自刻苦為儉約。當晉與梁夾河而軍,道居軍中,為一茅庵,不設牀席,臥一束芻而已。所得俸祿,與僕廝同器飲食,意恬如也。諸將有掠得人之美女者以遺道,道不能却,寘之別室,訪其主而還之。其解學士居父喪于景城,遇歲飢,悉出所有以賙鄉里,而退耕于野,躬自負薪。有荒其田不耕者,與力不能耕者,道夜往,潛為之耕。其人後來媿謝,道殊不以為德。服除,復召為翰林學士。行至汴州,遇趙在禮亂,明宗自魏擁兵還,犯京師。孔循勸道少留以待,道曰:「吾奉詔赴闕,豈可自留!」乃疾趨至京師。

莊宗弒遇され、明宗即位す。雅く道の為す所を知り、安重誨に問うて曰く、「先帝の時馮道何れの處にか在りし」と。重誨曰く、「學士なり」と。明宗曰く、「吾素より之を知る。此れ真に吾が宰相なり」と。道を拜して端明殿學士と為し、兵部侍郎に遷す。歲餘り、中書侍郎・同中書門下平章事を拜す。

原文莊宗遇弒,明宗即位,雅知道所為,問安重誨曰:「先帝時馮道何在?」重誨曰:「為學士也。」明宗曰:「吾素知之,此真吾宰相也。」拜道端明殿學士,遷兵部侍郎。歲餘,拜中書侍郎、同中書門下平章事。

天成・長興の間、歲屢豐熟し、中國事無し。道嘗て明宗に戒めて曰く、「臣河東掌書記と為りし時、中山に奉使し、井陘の險を過ぐ。馬蹷失するを懼れ、銜轡に怠る敢えざりしも、平地に至るに及び、慮うるに足らざるを謂いて、遽かに跌して傷つく。凡そ危きを蹈む者は慮深くして全きを獲、安きに居る者は患生ずる所忽にするにあり。此れ人情の常つねなり」と。明宗問うて曰く、「天下豐なれども、百姓濟うや」と。道曰く、「穀貴ければ農を餓し、穀賤しければ農を傷つく」と。因りて文士聶夷中の田家詩を誦す。其の言近くして易曉なり。明宗左右を顧みて其の詩を錄せしめ、常に以て自ら誦す。水運軍將臨河縣に於いて一の玉杯を得たり。文有りて曰く「傳國寶萬歲杯」と。明宗甚だ之を愛し、以て道に示す。道曰く、「此れ前世有形の寶のみ。王者固より無形の寶有り」と。明宗之を問う。道曰く、「仁義は帝王の寶なり。故に曰く、『大寶を位と曰い、何を以て位を守るかを仁と曰う』と」と。明宗武君、其の言を曉らざるも、道已に去り、侍臣を召して其の義を講說せしめ、嘉んで之を納る。

原文天成、長興之間,歲屢豐熟,中國無事。道嘗戒明宗曰:「臣為河東掌書記時,奉使中山,過井陘之險,懼馬蹷失,不敢怠於銜轡,及至平地,謂無足慮,遽跌而傷。凡蹈危者慮深而獲全,居安者患生於所忽,此人情之常也。」明宗問曰:「天下雖豐,百姓濟否?」道曰:「穀貴餓農,穀賤傷農。」因誦文士聶夷中田家詩,其言近而易曉。明宗顧左右錄其詩,常以自誦。水運軍將於臨河縣得一玉杯,有文曰「傳國寶萬歲杯」,明宗甚愛之,以示道,道曰:「此前世有形之寶爾,王者固有無形之寶也。」明宗問之,道曰:「仁義者,帝王之寶也。故曰:『大寶曰位,何以守位曰仁。』」明宗武君,不曉其言,道已去,召侍臣講說其義,嘉納之。

道明宗に相たりて十餘年、明宗崩じ、愍帝に相つく。潞王鳳翔ほうしょうに反す。愍帝出奔して衞州に至る。道百官を率いて潞王を迎え入れ、是を廢帝と為し、遂に之に相つく。廢帝即位す。愍帝猶ほ衞州に在り。後三日、愍帝始めて弒遇されて崩ず。已にして廢帝道を出だして同州節度使と為し、年を踰え、司空を拜す。晉唐を滅ぼす。道又た晉に事う。晉高祖道を拜して守司空・同中書門下平章事と為し、司徒を加え、侍中を兼ね、魯國公に封ず。高祖崩じ、道出帝に相つく。太尉を加え、燕國公に封じ、罷めて匡國軍節度使と為し、鎮を徙して威勝とす。契丹きったん晉を滅ぼす。道又た契丹に事う。耶律德光に京師に於いて朝す。德光道を責めて晉に事うること狀無きを。道對ふること能わず。又た問うて曰く、「何を以て來朝する」と。對えて曰く、「城無く兵無し。安んぞ敢えて來らざらん」と。德光之を誚して曰く、「爾は是何等の老子ぞ」と。對えて曰く、「才無く德無き癡頑老子なり」と。德光喜び、道を以て太傅と為す。德光北歸す。従いて常山に至る。漢高祖立つ。乃ち漢に歸り、太師を以て朝請を奉ず。周漢を滅ぼす。道又た周に事う。周太祖道を拜して太師と為し、中書令を兼ぬ。

原文道相明宗十餘年,明宗崩,相愍帝。潞王反於鳳翔,愍帝出奔衞州,道率百官迎潞王入,是為廢帝,遂相之。廢帝即位,愍帝猶在衞州,後三日,愍帝始遇弒崩。已而廢帝出道為同州節度使,踰年,拜司空。晉滅唐,道又事晉,晉高祖拜道守司空、同中書門下平章事,加司徒,兼侍中,封魯國公。高祖崩,道相出帝,加太尉,封燕國公,罷為匡國軍節度使,徙鎮威勝。契丹滅晉,道又事契丹,朝耶律德光於京師。德光責道事晉無狀,道不能對。又問曰:「何以來朝?」對曰:「無城無兵,安敢不來。」德光誚之曰:「爾是何等老子?」對曰:「無才無德癡頑老子。」德光喜,以道為太傅。德光北歸,從至常山。漢高祖立,乃歸漢,以太師奉朝請。周滅漢,道又事周,周太祖拜道太師,兼中書令。

道少くして能く行いを矯めて以て世に稱を取る。大臣と為るに及び、尤も務めて持重して以て物を鎮め、四姓十君に事え、益々舊德を以て自ら處る。然れども當世の士賢愚と無く皆道を仰ぎて元老と為し、喜んで之が為に稱譽す。

原文道少能矯行以取稱於世,及為大臣,尤務持重以鎮物,事四姓十君,益以舊德自處。然當世之士無賢愚皆仰道為元老,而喜為之稱譽。

耶律德光嘗て道に問うて曰く、「天下の百姓如何にして救い得べき」と。道俳語を為して以て對えて曰く、「此時佛出でても救い得ず。惟だ皇帝の救い得るのみ」と。人皆以て謂う、契丹中國の人を夷滅せざるは、道の一言の善に頼るなりと。周兵反し、京師を犯す。隱帝已に崩ず。太祖漢の大臣必ず推戴を行わんと謂う。道に及んで見るに、道殊に意無し。太祖素より道を拜す。因りて已むを得ず之を拜す。道之を受くること平時の如し。太祖意少しく沮み、漢未だ代うべからざるを知り、遂に陽りに湘陰公贇を立てて漢の嗣と為し、道を遣わして贇を徐州じょしゅうに迎えしむ。贇未だ至らざるに、太祖兵を將いて北に澶州せんしゅうに至り、兵を擁して反し、遂に漢に代わる。議者道の能く太祖の謀を沮みて之を緩め、終に晉・漢の亡を以て道を責めざるを謂う。然れども道喪君亡國を視ること亦た嘗て以て屑意せず。

原文耶律德光嘗問道曰:「天下百姓如何救得?」道為俳語以對曰:「此時佛出救不得,惟皇帝救得。」人皆以謂契丹不夷滅中國之人者,賴道一言之善也。周兵反,犯京師,隱帝已崩,太祖謂漢大臣必行推戴,及見道,道殊無意。太祖素拜道,因不得已拜之,道受之如平時,太祖意少沮,知漢未可代,遂陽立湘陰公贇為漢嗣,遣道迎贇于徐州。贇未至,太祖將兵北至澶州,擁兵而反,遂代漢。議者謂道能沮太祖之謀而緩之,終不以晉、漢之亡責道也。然道視喪君亡國亦未嘗以屑意。

この時、天下は大いに乱れ、戎夷が交々侵寇し、生民の命は倒懸の急にありしが、道は自ら「長楽老」と号し、書を著すこと数百言、己が四姓及び契丹に事えて得たる階勳官爵を陳べて以て栄と為せり。自ら謂う、「家に孝、国に忠、子と為り、弟と為り、人臣と為り、師長と為り、夫と為り、父と為り、子有り、孫有り。時に一巻を開き、時に一杯を飲み、食味を味わい、別声を聞き、被色に接し、老いて当代に安んじ、老いて自ら楽しむ、何の楽かこれに如かん」と。蓋しその自述かくの如し。

原文當是時,天下大亂,戎夷交侵,生民之命,急於倒懸,道方自號「長樂老」,著書數百言,陳己更事四姓及契丹所得階勳官爵以為榮。自謂:「孝於家,忠於國,為子、為弟、為人臣、為師長、為夫、為父,有子、有孫。時開一卷,時飲一杯,食味、別聲、被色,老安於當代,老而自樂,何樂如之?」蓋其自述如此。

道は前に九君に事えしも、未だ嘗て諫諍せず。世宗初めて即位し、劉旻上党を攻む。世宗曰く、「劉旻我を侮り、我が新立し国に大喪有るを以て、必ず兵を出して戦う能わずと謂う。且つ善く兵を用うる者は其の不意に出ず。吾自ら将として之を撃たん」と。道乃ち切に諫めて以て不可と為す。世宗曰く、「吾唐太宗の天下を平定するを見るに、敵大小と無く皆親征せり」と。道曰く、「陛下未だ唐太宗に比すべからず」と。世宗曰く、「劉旻烏合の衆、若し我が師に遇わば、山の卵を圧するが如し」と。道曰く、「陛下山と定まるを得るか」と。世宗怒り、起ち去り、卒に自ら将として旻を撃ち、果たして高平にて旻を敗れり。世宗淮南を取り、三関を定む。威武の振るうは高平より始まる。其の旻を撃つや、道を鄙しみて以て従行せしめず、太祖の山陵使と為せり。葬畢りて道卒す。年七十三。謚して文懿と曰い、瀛王を追封せらる。

原文道前事九君,未嘗諫諍。世宗初即位,劉旻攻上黨,世宗曰:「劉旻少我,謂我新立而國有大喪,必不能出兵以戰。且善用兵者出其不意,吾當自將擊之。」道乃切諫,以為不可。世宗曰:「吾見唐太宗平定天下,敵無大小皆親征。」道曰:「陛下未可比唐太宗。」世宗曰:「劉旻烏合之眾,若遇我師,如山壓卵。」道曰:「陛下作得山定否?」世宗怒,起去,卒自將擊旻,果敗旻于高平。世宗取淮南,定三關,威武之振自高平始。其擊旻也,鄙道不以從行,以為太祖山陵使。葬畢而道卒,年七十三,謚曰文懿,追封瀛王。

道既に卒して後、時人皆共に称歎し、以て孔子と寿を同じくすと謂い、其の喜んで之が称誉を為すこと蓋しかくの如し。道に子吉有り。

原文道既卒,時人皆共稱歎,以謂與孔子同壽,其喜為之稱譽蓋如此。道有子吉。

李琪(兄珽)

原文李琪兄珽

李琪、字は台秀、河西燉煌の人なり。

原文李琪字台秀,河西燉煌人也。

其の兄珽、唐末進士に挙げられ及第し、監察御史と為る。内艱に遭い、貧しくして葬るに資無く、食を乞いて後に葬る。珽飢えて廬中に臥す。聞く者之を哀憐す。服除け、還りて御史を拝す。荊南けいなんの成汭辟して掌書記と為す。呉ご兵杜洪を囲む。梁太祖汭と馬殷等を遣わして洪を救わしむ。汭大舟を以て兵数万を載す。珽汭の為に謀りて曰く、「今一舟甲士こうし千人を容れ、糗糧之に倍す。緩急動く可からず。若し敵人の之を縻すに為らば、則ち武陵・武安必ず公の後患と為らん。勁兵を以て巴陵に屯し、壁を為して戦わざるに若かず。呉兵糧尽きば、則ち囲解けん」と。汭聴かず、果たして敗れ、溺死す。趙匡凝襄陽を鎮む。又辟して掌書記と為す。太祖匡凝を破り、珽を得て喜びて曰く、「此れ真の書記なり」と。太祖即位し、考功員外郎・知制誥を除く。珽太祖の故吏を先に用いんと欲せざるを度り、固く辞して拝せず、出でて曹州を知る。曹州素より劇しくして理め難し。前刺史十余輩皆坐して廃せらる。珽至りて治を以て聞こゆ。兵部郎中・崇政院直学士に遷る。許州きょしゅうの馮行襲病む。行襲牙兵二千有り、皆故蔡の卒なり。太祖変を為さんことを懼る。行襲人として厳酷なり。従事魏峻切に諫む。行襲怒り、贓を以て誣え獄に下し、之を誅せんと欲す。乃ち珽を遣わして行襲に代わり留後と為す。珽許州に至り、伝舎に止まり、其の将吏を慰む。行襲病甚だし。人をして代わりて詔を受かしめんと欲す。珽曰く、「東首して朝服を加う、礼なり」と。乃ち即ち臥内にて行襲を見、太祖の語を道う。行襲感泣し、印を解きて以て珽に授く。珽乃ち峻の冤を理め、立って之を出だし、還りて太祖に報ず。太祖喜びて曰く、「珽果たして吾が事を弁ず」と。会う歳飢え、盗汴・宋の間を劫う。曹州尤も甚だし。太祖復た珽を遣わして之を治めしむ。珽至りて賊を索め、大校張彦珂・珽の甥李郊等及び牙兵百余を得て、悉く之を誅す。召して左諫議大夫を拝す。太祖河北に幸す。内黄に至り、顧みて珽に曰く、「何をか内黄と謂う」と。珽曰く、「河南に外黄・下黄有り、故に此を内黄と名づく」と。太祖曰く、「外黄・下黄何れの処にか在る」と。珽曰く、「秦に外黄都尉有り、今雍丘に在り。下黄は北齊に廃せられ、今陳留に在り」と。太祖平生儒者を愛せず、珽の語を聞きて大いに喜ぶ。友珪立ち、右散騎常侍・侍講を除く。袁象先賊を討つ。珽乱兵に殺さる。

原文其兄珽,唐末舉進士及第,為監察御史。丁內艱,貧無以葬,乞食而後葬。珽飢臥廬中,聞者哀憐之。服除,還拜御史。荊南成汭辟掌書記。吳兵圍杜洪,梁太祖遣汭與馬殷等救洪。汭以大舟載兵數萬,珽為汭謀曰:「今一舟容甲士千人,糗糧倍之,緩急不可動,若為敵人縻之,則武陵、武安必為公之後患。不若以勁兵屯巴陵,壁不與戰,吳兵糧盡,則圍解矣。」汭不聽,果敗,溺死。趙匡凝鎮襄陽,又辟掌書記。太祖破匡凝,得珽,喜曰:「此真書記也。」太祖即位,除考功員外郎、知制誥。珽度太祖不欲先用故吏,固辭不拜,出知曹州。曹州素劇難理,前刺史十餘輩,皆坐廢,珽至,以治聞。遷兵部郎中、崇政院直學士。許州馮行襲病,行襲有牙兵二千,皆故蔡卒,太祖懼為變。行襲為人嚴酷,從事魏峻切諫,行襲怒,誣以贓下獄,欲誅之。乃遣珽代行襲為留後。珽至許州,止傳舍,慰其將吏,行襲病甚,欲使人代受詔,珽曰:「東首加朝服,禮也。」乃即臥內見行襲,道太祖語,行襲感泣,解印以授珽。珽乃理峻冤,立出之,還報太祖,太祖喜曰:「珽果辦吾事。」會歲飢,盜劫汴、宋間,曹州尤甚,太祖復遣珽治之。珽至索賊,得大校張彥珂、珽甥李郊等,及牙兵百餘人,悉誅之。召拜左諫議大夫。太祖幸河北,至內黃,顧珽曰:「何謂內黃?」珽曰:「河南有外黃、下黃,故此名內黃。」太祖曰:「外黃、下黃何在?」珽曰:「秦有外黃都尉,今在雍丘;下黃為北齊所廢,今在陳留。」太祖平生不愛儒者,聞珽語大喜。友珪立,除右散騎常侍,侍講。袁象先討賊,珽為亂兵所殺。

琪少くして進士・博学宏辞に挙がり、累遷して殿中侍御史と為り、其の兄珽と皆文章を以て知名なり。唐亡び、梁太祖に事えて翰林学士と為る。梁兵四方を征伐し、下す所の詔書は皆琪の為す所、筆を下せば輒ち太祖の意を得たり。末帝の時、御史中丞・尚書左丞と為り、同中書門下平章事を拝し、蕭頃と同く宰相と為る。頃性畏慎周密、琪倜儻気を負い、小節に拘わらず。二人多く異同有り。琪内に趙巖・張漢傑等を結び助けと為す。以て故に頃の言多く沮まる。頃嘗て其の過を掎摭す。琪の私する吏試官を得るに当たる。琪試を守に改む。頃に発せらる。末帝大いに怒り、之を竄逐せんと欲す。而して巖等救解す。乃ち罷めて太子少保と為るを得たり。

原文琪少舉進士、博學宏辭,累遷殿中侍御史,與其兄珽皆以文章知名。唐亡,事梁太祖為翰林學士。梁兵征伐四方,所下詔書,皆琪所為,下筆輒得太祖意。末帝時,為御史中丞、尚書左氶,拜同中書門下平章事,與蕭頃同為宰相。頃性畏慎周密,琪倜儻負氣,不拘小節,二人多所異同。琪內結趙巖、張漢傑等為助,以故頃言多沮。頃嘗掎摭其過。琪所私吏當得試官,琪改試為守,為頃所發,末帝大怒,欲竄逐之,而巖等救解,乃得罷為太子少保。

唐の荘宗梁を滅ぼし、琪を得て以て相と為さんと欲す。而して梁の旧臣多く之を嫉忌す。乃ち太常卿と為す。吏部尚書に遷る。同光三年秋、天下大水し、京師食乏すること尤も甚だし。荘宗朱書の御札を以て詔し百僚に封事を上らしむ。琪上書数千言、其の説漫然として取るに足らず。而して荘宗独り之を称重し、遂に国計使と為す。方に以て相と為さんと欲するに、荘宗崩ず。明宗洛陽に入る。群臣進むを勧む。有司儀を具え、柩前即位の故事を用う。霍彦威・孔循等国号を改め、土徳を絶たんことを請う。明宗武君、其の説を暁らざり。何をか改号と謂うと問う。対えて曰く、「荘宗唐の錫姓を受けて宗属と為り、昭宗を継ぎて立ち、而して国を号して唐と曰う。今唐の天命已に絶つ。宜しく号を改めて以て自新すべし」と。明宗之を疑う。其の事を群臣に下す。群臣依違決せず。琪議して曰く、「殿下は宗室の賢、三世に功を立て、今兵を興して闕に向かい、難に赴くを名と為す。而して統号を更易せんと欲し、先帝を便ち路人と為さしめば、則ち煢然たる梓宮、何れの所にか依往せん」と。明宗然りと以為い、乃ち喪を発し服を成し、而して後に即位す。琪を以て御史中丞と為す。

原文唐莊宗滅梁,得琪,欲以為相,而梁之舊臣多嫉忌之,乃以為太常卿。遷吏部尚書。同光三年秋,天下大水,京師乏食尤甚,莊宗以朱書御札詔百僚上封事。琪上書數千言,其說漫然無足取,而莊宗獨稱重之,遂以為國計使。方欲以為相,而莊宗崩。明宗入洛陽,羣臣勸進,有司具儀,用柩前即位故事。霍彥威、孔循等請改國號,絕土德。明宗武君,不曉其說,問何謂改號,對曰:「莊宗受唐錫姓為宗屬,繼昭宗以立,而號國曰唐。今唐天命已絕,宜改號以自新。」明宗疑之,下其事羣臣,羣臣依違不決。琪議曰:「殿下宗室之賢,立功三世,今興兵向闕,以赴難為名,而欲更易統號,使先帝便為路人,則煢然梓宮,何所依往!」明宗以為然,乃發喪成服,而後即位。以琪為御史中丞。

唐末の喪乱より、朝廷の礼は壊れ、天子は未だ嘗て朝を見ず、而して入閤の制も亦廃れた。常参の官は日毎に正衙に至るも、伝聞に坐せず即ち退くのみ、独り大臣の奏事は、日一たび便殿に見え、而して侍従内諸司は、日再び朝するのみ。明宗初めて即位し、乃ち詔して群臣に、五日に一たび宰相に随ひ内殿に入見せしめ、之を起居と謂う。琪以爲へらく、唐の故事に非ずと、請ふて五日の起居を罷め、而して朔望の入閤を復せんと。明宗曰く、「五日の起居は、吾れ群臣を数に見る所以を思ふなり、罷む可からず。而して朔望の入閤は復す可し。」然れども唐の故事は、天子日毎に殿に御して群臣を見るを、常参と曰ひ、朔望に諸陵寝に食を薦め、思慕の心有りて、前殿に臨む能はざれば、則ち便殿に御して群臣を見るを、入閤と曰ふ。宣政は前殿なり、之を衙と謂ひ、衙に仗有り。紫宸は便殿なり、之を閤と謂ふ。其れ前殿に御せずして紫宸に御するや、及び正衙より仗を喚び、閤門よりして入り、百官衙に於いて朝を俟つ者は、因りて随ひ以て入見す、故に入閤と謂ふ。然れども衙は朝なり、其の礼尊く、閤は宴見なり、其の事殺ぐ。乾符已後より、乱に因り礼闕け、天子日毎に群臣を見る能はずして朔望に見るを以てす、故に正衙常日は仗を廃し、而して朔望の入閤に仗有り、其の後習ひ見て、遂に入閤を以て重しと為す。至りて前殿に出御するも、猶入閤と謂ひ、其の後亦廃れ、是に至りて復す。然れども有司其の事を講正する能はざりき。凡そ群臣五日に一たび中興殿に入見す、便殿なり、此れ入閤の遺制にして、而して之を起居と謂ひ、朔望に一たび出御して文明殿す、前殿なり、反つて之を入閤と謂ふ、琪皆正す能はざりき。琪又建言す、「入閤には待制・次対の官事を論ず有り、而して内殿の起居は、一見して退く、言有らんと欲する者は、自ら陳ずる由無し、群臣を数に見るの意に非ず。」明宗乃ち詔す、起居の日に事を言ふ者有らば、行を出して自ら陳ずるを許すと。又詔す、百官以て次に転対せしむと。

原文自唐末喪亂,朝廷之禮壞,天子未嘗視朝,而入閤之制亦廢。常參之官日至正衙者,傳聞不坐即退,獨大臣奏事,日一見便殿,而侍從內諸司,日再朝而已。明宗初即位,乃詔羣臣,五日一隨宰相入見內殿,謂之起居。琪以謂非唐故事,請罷五日起居,而復朔望入閤。明宗曰:「五日起居,吾思所以數見羣臣也,不可罷。而朔望入閤可復。」然唐故事,天子日御殿見羣臣,曰常參;朔望薦食諸陵寢,有思慕之心,不能臨前殿,則御便殿見羣臣,曰入閤。宣政,前殿也,謂之衙,衙有仗。紫宸,便殿也,謂之閤。其不御前殿而御紫宸也,及自正衙喚仗,由閤門而入,百官俟朝于衙者,因隨以入見,故謂之入閤。然衙,朝也,其禮尊;閤,宴見也,其事殺。自乾符已後,因亂禮闕,天子不能日見羣臣而見朔望,故正衙常日廢仗,而朔望入閤有仗,其後習見,遂以入閤為重。至出御前殿,猶謂之入閤,其後亦廢,至是而復。然有司不能講正其事。凡羣臣五日一入見中興殿,便殿也,此入閤之遺制,而謂之起居,朔望一出御文明殿,前殿也,反謂之入閤,琪皆不能正也。琪又建言:「入閤有待制、次對官論事,而內殿起居,一見而退,欲有言者,無由自陳,非所以數見羣臣之意也。」明宗乃詔起居日有言事者,許出行自陳。又詔百官以次轉對。

是の時、枢密使安重誨権かりを専らにし事を用ふ、重誨の前騶御史台門を過ぐるに、殿直馬延誤って之を衝き、重誨即ち台門に於いて延を斬り而して後奏す。琪中丞と為り、重誨を畏れて敢えて弾糾せず、又諫官の論列を懼れ、乃ち宰相任圜に託して先づ重誨に白して後に糾す、然れども猶依違して敢えて正しく其の事を言はざりき。豆盧革等相を罷め、任圜議ひて琪を以て相と為らんと欲す、而して孔循・鄭珏之を沮む、乃ち止む。遷りて尚書右僕射と為る。琪状を以て中書に申し、言ふ開元礼に「僕射上事の日、中書・門下百官を率ひて送る」と。中書太常に下す、礼院言ふ送上の文無しと、而して琪已に新授を落とし、復た上儀を挙ぐ、皆不可と。

原文是時,樞密使安重誨專權用事,重誨前騶過御史臺門,殿直馬延誤衝之,重誨即臺門斬延而後奏。琪為中丞,畏重誨不敢彈糾,又懼諫官論列,乃託宰相任圜先白重誨而後糾,然猶依違不敢正言其事。豆盧革等罷相,任圜議欲以琪為相,而孔循、鄭珏沮之,乃止。遷尚書右僕射。琪以狀申中書,言開元禮「僕射上事日,中書、門下率百官送上」。中書下太常,禮院言無送上之文,而琪已落新授,復舉上儀,皆不可。

明宗王都を討ち、已に定州ていしゅうを破り、汴より洛に還る、琪当に百官を率ひて上東門に至るべく、而して請ふ偃師に至り奉迎せんと。其の奏章に言ふ「契丹の兇党を敗り、真定の逆城を破る」と、誤って定州を以て真定と為すに坐し、俸一月を罰す。霍彦威卒す、詔して琪に神道碑文を撰せしむ。彦威故に梁の将たり、而して琪故に梁の相たり、彦威の梁に在りし事を叙して偽と曰はず、馮道に駁さる。

原文明宗討王都,已破定州,自汴還洛,琪當率百官至上東門,而請至偃師奉迎。其奏章言「敗契丹之兇黨,破真定之逆城」,坐誤以定州為真定,罰俸一月。霍彥威卒,詔琪撰神道碑文。彥威故梁將,而琪故梁相也,敍彥威在梁事不曰偽,為馮道所駁。

琪人と為り然諾を重んじ、人の善を称するを喜ぶ。少くより文章を以て知名り、亦此を以て自ら負ふ。貴きに既に至り、乃ち牙版を刻み金字を為して「前郷貢進士李琪」と曰ひ、常に之を坐側に置く。人と為り少しく持重し、進退を知らず、故に数へて当時に沮まる。太子少傅を以て致仕し、卒す、年六十。

原文琪為人重然諾,喜稱人善。少以文章知名,亦以此自負。既貴,乃刻牙版為金字曰「前鄉貢進士李琪」,常置之坐側。為人少持重,不知進退,故數為當時所沮。以太子少傅致仕,卒,年六十。

鄭珏

原文鄭珏

鄭珏は、唐の宰相綮の諸孫なり。其の父徽は、河南尹張全義の判官と為る。珏少くより全義に依りて河南に居り、進士に挙げられ数たび中らず、全義珏を有司に属す、乃ち及第を得。昭宗の時、監察御史と為る。梁の太祖即位し、拝して左補闕と為す。梁の諸大臣全義の故を以て数へて之を薦め、累ねて拝して中書舎人・翰林学士奉旨と為す。末帝の時、拝して中書侍郎・同中書門下平章事と為す。

原文鄭珏,唐宰相綮之諸孫也。其父徽,為河南尹張全義判官。珏少依全義居河南,舉進士數不中,全義以珏屬有司,乃得及第。昭宗時,為監察御史。梁太祖即位,拜左補闕。梁諸大臣以全義故數薦之,累拜中書舍人、翰林學士奉旨。末帝時,拜中書侍郎、同中書門下平章事。

唐の荘宗鄆州うんしゅうより汴に入る、末帝唐兵将に至らんと聞き、惶恐として為す所を知らず、李振・敬翔等と相持ちて慟哭し、因りて珏を召して計の安くに出づるかを問ふ、珏曰く、「臣に一策有り、陛下能く行ふや否やを知らず。」末帝其の策の如何を問ふ、珏曰く、「願くは陛下の伝国宝を得て馳せて唐軍に入り、以て其の行を緩め、而して救兵の至るを待たん。」帝曰く、「事急なり、宝固より惜しむに足らず、顧みるに卿の行、事を了する能はんや。」珏首を俛めて徐に思ひて曰く、「但だ了し易からざるを恐るるのみ。」是に於いて左右皆大笑す。

原文唐莊宗自鄆州入汴,末帝聞唐兵且至,惶恐不知所為,與李振、敬翔等相持慟哭,因召珏問計安出,珏曰:「臣有一策,不知陛下能行否?」末帝問其策如何,珏曰:「願得陛下傳國寶馳入唐軍,以緩其行,而待救兵之至。」帝曰:「事急矣,寶固不足惜,顧卿之行,能了事否?」珏俛首徐思曰:「但恐不易了。」於是左右皆大笑。

荘宗汴に入る、珏百官を率ひて道左に迎謁す。貶さられ萊州司戸参軍と為り、量移して曹州司馬と為る。張全義郭崇韜に為に言ふ、復た召して太子賓客と為す。明宗即位し、任圜を用ひて相と為さんと欲す、而して安重誨圜の新進を以て、独り之を相とするを欲せず、以て枢密使孔循に問ふ。循嘗て梁に事へ、珏と善し、因りて言ふ珏故に梁の相、性謹慎にして長者なりと、乃ち珏を拝して平章事と為す。

原文莊宗入汴,珏率百官迎謁道左。貶萊州司戶參軍,量移曹州司馬。張全義為言於郭崇韜,復召為太子賓客。明宗即位,欲用任圜為相,而安重誨以圜新進,不欲獨相之,以問樞密使孔循。循嘗事梁,與珏善,因言珏故梁相,性謹慎而長者,乃拜珏平章事。

明宗汴州に幸す、六軍の家属洛より汴に遷り、而して明宗又た鄴都に幸せんと欲す、軍士愁怨し、大臣頗る以て言ふ。明宗省みず、上下洶洶として、転た相動揺し、独り珏称賛し、以て行ふべしと為す。趙鳳安重誨に極言す、重誨驚懼し、入見して明宗に切諫す、乃ち詔して其の行を罷む。而して珏又た之を称賛し、以て罷むべしと為す。

原文明宗幸汴州,六軍家屬自洛遷汴,而明宗又欲幸鄴都,軍士愁怨,大臣頗以為言。明宗不省,上下洶洶,轉相動搖,獨珏稱贊,以為當行。趙鳳極言於安重誨,重誨驚懼,入見明宗切諫,乃詔罷其行。而珏又稱贊之,以為宜罷。

珏相位に在りて既に碌碌として為す所無く、又た聾を病み、孔循枢密使を罷む、珏自ら安からず、亟に疾を以て職を去らんと求む。明宗数へて之を留む、珏章四たび上る、乃ち拝して左僕射致仕し、鄭州の庄一区を賜ふ。卒す、司空を贈らる。

原文珏在相位既碌碌無所為,又病聾,孔循罷樞密使,珏不自安,亟以疾求去職。明宗數留之,珏章四上,乃拜左僕射致仕,賜鄭州莊一區。卒,贈司空。

李愚

原文李愚

李愚字は子晦、渤海無棣の人なり。愚人と為り謹重寡言、学を好み、古文を為す。滄州そうしゅう節度使盧彦威愚を以て安陵主簿と為す、母憂に丁り解き去る。後に関中に遊び、劉季述昭宗を東内に幽す、愚書を以て韓建を説き、使ひて興復を図らしむ、其の言甚だ壮なり。建用ふる能はざりき、乃ち之を去りて洛陽に至る。進士・宏詞に挙げられ、河南府参軍と為る。白馬の禍に、愚復た之を去りて山東に至り、李延光と相善し、延光経術を以て梁の末帝に事へて侍講と為り、数へて愚を称薦す、愚此に由りて召しを得。久しくして、拝して左拾遺・崇政院直学士と為す。

原文李愚字子晦,渤海無棣人也。愚為人謹重寡言,好學,為古文。滄州節度使盧彥威以愚為安陵主簿,丁母憂解去。後遊關中,劉季述幽昭宗於東內,愚以書說韓建,使圖興復,其言甚壯。建不能用,乃去之洛陽。舉進士、宏詞,為河南府參軍。白馬之禍,愚復去之山東,與李延光相善,延光以經術事梁末帝為侍講,數稱薦愚,愚由此得召。久之,拜左拾遺、崇政院直學士。

衡王友諒は、末帝の兄なり、梁の大臣李振等皆之に拝す、独り愚長揖す、末帝以て愚を責めて曰く、「衡王朕之に拝す、卿独り揖す、可ならんや。」愚曰く、「陛下家人の礼を以て之を見れば、則ち拝す宜し。臣王に於いて私する所無し、豈に妄りに屈する所有る宜けんや。」事を言ふに坐して旨に忤ひ、罷められて鄧州とうしゅう観察判官と為る。

原文衡王友諒,末帝兄也,梁大臣李振等皆拜之,獨愚長揖,末帝以責愚曰:「衡王朕拜之,卿獨揖,可乎?」愚曰:「陛下以家人禮見之,則拜宜也。臣於王無所私,豈宜妄有所屈?」坐言事忤旨,罷為鄧州觀察判官。

唐の荘宗が梁を滅ぼすと、李愚は京師に朝し、唐の諸公卿は平素より李愚が古学に通じていると聞き、これを重んじて、主客郎中・翰林学士に任じた。魏王継岌が蜀しょくを伐つに当たり、李愚を都統判官に辟召した。蜀道は険阻であり、議者は緩やかに軍を進めて変を待つべしと論じたが、招討使郭崇韜は李愚に決を求めた。李愚は言う、「王衍は荒淫怠惰にして、国政を乱し、その民はこれを厭っている。その倉卒に乗じ、その無備を撃つ、その利は速やかなるにあり、緩めるべからず」。崇韜はこれを然りとし、行く所で迎えて降る者があり、遂に蜀を滅ぼした。初め、軍が宝鶏に至った時、招討判官陳乂が病と称して留まることを請うた。李愚は声を厲めて言う、「陳乂は利を見れば進み、難を知れば止まる。今、大軍が険を渉り、人心は動揺し易い、正にこれを斬って衆に示すべきである」。これにより軍中に敢えて留まると言う者は無かった。

原文唐莊宗滅梁,愚朝京師,唐諸公卿素聞愚學古,重之,拜主客郎中、翰林學士。魏王繼岌伐蜀,辟愚都統判官。蜀道阻險,議者以謂宜緩師待變而進,招討使郭崇韜以決於愚,愚曰:「王衍荒怠,亂國之政,其人厭之。乘其倉卒,擊其無備,其利在速,不可緩也。」崇韜以為然,而所至迎降,遂以滅蜀。初,軍行至寶鷄,招討判官陳乂稱疾請留,愚厲聲曰:「陳乂見利則進,知難則止。今大軍涉險,人心易搖,正可斬之以徇。」由是軍中無敢言留者。

明宗が即位すると、累遷して兵部侍郎承旨となった。明宗が南郊で天を祀った時、李愚は宰相馮道・趙鳳のために加恩の制を草したが、馮道はその文辞を鄙しんで、太常卿に罷免された。任圜が宰相を罷めると、李愚を中書侍郎・同平章事に任じた。李愚が宰相となっても、邸宅を治めず、延賓館を借りて住んだ。李愚が病むと、明宗は宦官を遣わして見させた。その敗れた氈と敝れた席、四壁蕭然たる様を見て、明宗は嗟嘆し、供帳の物を賜うことを命じた。

原文明宗即位,累遷兵部侍郎承旨。明宗祀天南郊,愚為宰相馮道、趙鳳草加恩制,道鄙其辭,罷為太常卿。任圜罷相,乃拜愚中書侍郎、同平章事。愚為相,不治第宅,借延賓館以居。愚有疾,明宗遣宦官視之,見其敗氈敝席,四壁蕭然,明宗嗟嘆,命以供帳物賜之。

潞王が反し、京師を犯すと、愍帝は夜に出奔した。翌日、李愚と馮道が端門に至ると、帝が既に出たこと、そして朱弘昭・馮贇が皆既に死んだことを聞いた。李愚は中書に至って太后の進止を待とうとしたが、馮道は言う、「潞王は既に処々に榜を張って招安している。今やまさに至らんとしている、どうして太后の旨を俟てようか」。乃ち相い出迎えた。廃帝が入って立つと、馮道を罷めて同州に出鎮させ、劉昫を宰相とした。劉昫の性質は褊急であり、李愚は素より剛介で、動くごとに違戾した。劉昫は馮道と姻戚であり、李愚はしばしばこれをもって劉昫を誚った。両人は遂に相い諠詬し、乃ち共に罷免された。李愚は左僕射を守った。

原文潞王反,犯京師,愍帝夜出奔。明日愚與馮道至端門,聞帝已出,而朱弘昭、馮贇皆已死,愚欲至中書候太后進止,道曰:「潞王已處處張牓招安,今即至矣,何可俟太后旨也?」乃相與出迎。廢帝入立,罷道出鎮同州,以劉昫為相。昫性褊急,而愚素剛介,動輒違戾。昫與馮道姻家,愚數以此誚昫,兩人遂相諠詬,乃俱罷。愚守左僕射。

この時、兵革まさに興り、天下多事であったが、李愚が宰相として、古に依って理を創らんと欲し、乃ち唐六典を頒ちて百司に示し、各々その職を挙げさせ、州県は士を貢し、郷飲酒の礼を行わんことを請うた。時にその迂闊として用いられず。愍帝が即位し、治に意あり、数たび学士を召して時事を問うたが、李愚を迂とし、未だ嘗て問うところ無かりき。廃帝もまた李愚らが事とすべき無しと謂い、常に宰相を目して言う、「此れ粥飯僧なるのみ!」と。飽食終日して心を用うる所無きを謂うのである。清泰二年、疾を以て卒す。

原文是時,兵革方興,天下多事,而愚為相,欲依古以創理,乃請頒唐六典示百司,使各舉其職,州縣貢士,作鄉飲酒禮,時以其迂闊不用。愍帝即位,有意於治,數召學士,問以時事,而以愚為迂,未嘗有所問。廢帝亦謂愚等無所事,常目宰相曰:「此粥飯僧爾!」以謂飽食終日,而無所用心也。清泰二年以疾卒。

盧導

原文盧導

盧導、字は熙化、范陽の人である。唐末に進士に挙げられ、監察御史となった。唐が滅びて梁に仕え、累遷して左司郎中・侍御史知雑事となり、病を以て免じられた。

原文盧導字熙化,范陽人也。唐末舉進士,為監察御史。唐亡事梁,累遷左司郎中、侍御史知雜事,以病免。

唐の明宗の時、召されて右諫議大夫に任じられ、中書舎人に遷った。潞王従珂が鳳翔より兵を率いて京師を犯すと、愍帝は衛州に出奔した。宰相馮道・李愚が百官を天宮寺に集め、将に郊で潞王を出迎えんとした。京師は大いに恐れ、都人は蔵匿し、百官は久しくして集まらず、ただ盧導と舎人張昭が先に至った。馮道が盧導に牋を草して勧進するよう請うた。盧導は言う、「潞王が入朝するに、郊迎は可なり。勧進の事は、豈に軽々に議すべきや」。馮道は言う、「勧進は其れ已むべからざるか」。盧導は言う、「今天子外に蒙塵し、遽かに大位を以て人を勧む。若し潞王が節を守って回らず、忠義を以て責められたらば、其れ将に何の辞を以てか対えん。且つ上(愍帝)と潞王は、皆な太后の子なり。百官を率いて宮門に詣で、太后の進止を取るに如かず」。語未だ終わらざるに、報ありて言う、「潞王至れり」と。京城巡検使安従進が百官の班を催して迎えさせると、百官は紛然として去った。潞王は正陽門外に止まった。馮道は又た盧導に牋を草すよう促したが、盧導の対は初めの如し。李愚は言う、「吾輩は罪人なり。盧舎人の言うは是なり」。盧導は終に牋を草さず。

原文唐明宗時,召拜右諫議大夫,遷中書舍人。潞王從珂自鳳翔以兵犯京師,愍帝出奔于衞州。宰相馮道、李愚集百官于天宮寺,將出迎潞王于郊,京師大恐,都人藏竄,百官久而不集,惟導與舍人張昭先至。馮道請導草牋勸進,導曰:「潞王入朝,郊迎可也,若勸進之事,豈可輕議哉!」道曰:「勸進其可已乎?」導曰:「今天子蒙塵于外,遽以大位勸人,若潞王守節不回,以忠義見責,其將何辭以對?且上與潞王,皆太后子也,不如率百官詣宮門,取太后進止。」語未終,有報曰:「潞王至矣。」京城巡檢使安從進催百官班迎,百官紛然而去。潞王止于正陽門外,道又促導草牋,導對如初。李愚曰:「吾輩罪人,盧舍人言是也。」導終不草牋。

盧導は後に晋に仕えて吏部侍郎となった。天福六年に卒す。年七十六。

原文導後事晉為吏部侍郎。天福六年卒,年七十六。

司空頲てい

原文司空頲

司空頲は、貝州清陽の人である。唐の僖宗の時、進士に挙げられず、後に去って羅紹威の掌書記となった。紹威が卒すると、梁に入って太府少卿となった。楊師厚が天雄を鎮めるや、司空頲は官を解いて往きこれに依った。師厚が卒すると、賀徳倫がこれに代わった。張彦の乱の時、判官王正言に命じて奏を草し梁の君臣を詆斥させた。正言は素より文辞能わず、又た兵刃に迫られ、汗流れて背に浹し、筆を下す能わず。張彦は怒り、正言を推し下榻し、詬って言う、「鈍漢我を辱しむ!」と。書吏を顧みて誰か奏を草すべき者を問う。吏は即ち言う、「司空頲は羅王の時の書記なり」と。乃ち騎を馳せてこれを召した。司空頲は乱兵に衣を劫われ、敝れた服を以て形を蔽いて至った。張彦を見て長揖し、神気自若、筆を揮って文を成し、而して言甚だ浅鄙なり。張彦はその分かり易きを以て、甚だ喜び、即ち衣服僕馬を与え、遂にこれを以て徳倫の判官とした。

原文司空頲,貝州清陽人也。唐僖宗時,舉進士不中,後去為羅紹威掌書記。紹威卒,入梁為太府少卿。楊師厚鎮天雄,頲解官往依之,師厚卒,賀德倫代之。張彥之亂,命判官王正言草奏詆斥梁君臣,正言素不能文辭,又為兵刃所迫,流汗浹背,不能下筆。彥怒,推正言下榻,詬曰:「鈍漢辱我!」顧書吏問誰可草奏者,吏即言頲羅王時書記,乃馳騎召之,頲為亂兵劫其衣,以敝服蔽形而至,見彥長揖,神氣自若,揮筆成文,而言甚淺鄙,彥以其易曉,甚喜,即給以衣服僕馬,遂以為德倫判官。

徳倫魏博を以て晋に降し、晋王兼ねて天雄を領し、猶お頲(てい)を以て判官となした。梁、晋河上において相距たがいにたいじ(たがいにたいじ)し、常(つね)に頲を以て軍府の事を権(かり)にせし。頲は郭崇韜の悪む所となり、崇韜数しばしば(しばしば)その賂を受くるを言った。都虞候張裕多過失あり、頲屢々法を以てこれを縄(きびしく規制)した。頲に梁に姪あり、家奴を遣わしてこれを召さんとしたが、裕その家奴を擒とりこ(とりこ)にし、以て梁に通書せしと謂う。荘宗族殺した。

原文德倫以魏博降晉,晉王兼領天雄,仍以頲為判官。梁、晉相距河上,常以頲權軍府事。頲為郭崇韜所惡,崇韜數言其受賂。都虞候張裕多過失,頲屢以法繩之。頲有姪在梁,遣家奴召之,裕擒其家奴,以謂通書于梁。莊宗族殺之。