新五代史

巻第五十三

目次

王景崇

王景崇は邢州の人である。人となりは明敏にして弁舌巧み、人に仕えることを善くした。唐の明宗が邢州を鎮守した時、牙将に任じ、その後しばしば明宗に従い、その麾下に隷した。明宗が即位すると、通事舍人に任じ、引進閤門使を歴任し、詔を馳せて方鎮に伝え、征伐に監軍するには必ず景崇を用いた。後に晋に仕え、累進して左金吾えい大将軍に至ったが、常に主君が己の材を用いないことを怏怏としていた。晋が滅び、蕭翰が京師を占拠すると、景崇はその将高牟翰に厚く賄賂して用いられんことを求めた。やがて蕭翰が北帰し、許王従益が京師に居ると、景崇を用いて宣徽使・監左蔵庫とした。

漢の高祖こうそが太原に挙兵すると、景崇は庫の金を取って高祖を迎えに奔走した。高祖が京師に至り、景崇を右衞大将軍に任じたが、未だその才を奇としなかった。高祖が鄴を攻めた時、景崇は従うことができず、留守の起居表を求め、行在所(一本に宮と作る)に詣でて高祖に拝謁し、軍中に留まって効用を尽くさんことを願い、高祖のために攻戦の策を画策した。甚だ弁舌に富み、高祖は乃ちその才を奇とした。

この時、漢は方に新たに造られたばかりで、鳳翔の侯益・永興の趙贊は皆かつて契丹より命を受けていた。高祖が立つと、侯益らは内顧して自ら疑い、密かにしょく人を召して助けとし、高祖はこれを患とした。鄴を破った後、侯益らは懼れ、皆入朝を請うた。時に回鶻が入貢し、党項に阻まれて通じず、漢兵を得て援けと為さんことを願うと言ったので、高祖は景崇に兵を遣わして回鶻を迎えさせた。景崇が将に行かんとする時、高祖は既に病み、臥内に召し入れて戒めて曰く、「侯益らが既に来たならば善い。もし猶お遅疑するならば、便宣を以てこれを図れ」と。景崇が陝に行き至ると、趙贊は既に東に入朝し、蜀兵は方に南山を寇していた。景崇は蜀兵を撃破し、大散関まで追撃して還った。高祖は乃ち景崇を詔して鳳翔巡検使を兼ねさせた。

景崇が鳳翔に至ると、侯益には未だ行く意思がなかった。時に高祖が崩御し、或る者が景崇に速やかに侯益を誅すべしと勧めた。景崇は、独り先帝の命を受けながら少主は知らぬことを思い、猶して未だ決しなかった。侯益の従事程渥は、景崇と同郷で旧交があり、往って景崇を説いて曰く、「吾と子は故人である。吾の位は賓佐に過ぎず、子は既に貴い。如何にして陰狡を以て人を害しこれを取らんとするのか。侯公父子の爪牙は数百、子は妄りに発するなかれ、禍やがて及ぼん。吾でなければ、誰が子のためにこれを言わん」と。ここにおいて景崇は侯益を殺すことを頗る欲せず、侯益は乃ち亡去した。景崇は殺さなかったことを大いに悔いた。

侯益が京師に至ると、隠帝は新たに立ち、史弘肇・楊邠らが権力を用いた。侯益は乃ち楊邠らに厚く賄賂し、密かに事を以て景崇を中傷した。やがて侯益は開封尹に任じられ、景崇は心に自ら安からず、鳳翔の将吏に諷して己に府事を領せしめんことを求めた。朝廷はこれを患とし、景崇を邠州留後に任じ、趙暉を鳳翔節度使とした。景崇は乃ち叛き、侯益の家属を尽く殺し、趙思綰と共に李守貞を秦王に推戴した。隠帝は即ち趙暉を以てこれを討たしめた。景崇は西に蜀人を招いて助けとし、蜀兵が宝鷄に至ったが、趙暉の将薬元福・李彦従に敗れた。趙暉は鳳翔を攻め、塹壕を巡らしてこれを包囲し、数度精兵を以て挑戦したが、景崇は出なかった。趙暉は乃ち千人を潜ませて城南一舍の地に置き、偽って蜀兵の旗幟とし、南山に沿って下り、声言して蜀の救兵至ると言わせた。須臾にして塵が上がり、景崇は然りと以為い、乃ち数千人をして包囲を潰いて出でて応ぜしめんとした。趙暉は伏兵を設けてこれを待ち、景崇の兵は大敗し、これより敢えて復た出でず。

翌年、李守貞・趙思綰相次いで皆敗れた。景崇の客周璨が景崇に謂いて曰く、「公が此れを守り得るのは、河中・京兆有るを以てである。今皆敗れた。何を恃むところか。降るに如かず」と。景崇曰く、「誠に君等を累す。然れども事急なり。吾は万に一つの得策を為さんと欲する。可ならんか。吾聞く、趙暉の精兵は皆城北に在りと。今、公孫輦らをして城東門を焼かしめて偽降せしめ、吾は牙兵を以てその城北の兵を撃たん。脱せずして死するも、猶お束手に勝る」と。周璨ら皆然りとす。夜明け近く、公孫輦が東門を焼きて将に降らんとする時、府中より火災が起こり、景崇は自ら焚死した。公孫輦は乃ち趙暉に降った。

趙思綰

趙思綰は魏州の人である。河中節度使趙贊の牙将であった。漢の高祖が即位し、趙贊を永興に移鎮させた。趙贊が京師に入朝するに当たり、趙思綰の兵数百人を永興に留めた。高祖は王景崇を永興に遣わし、斉蔵珍と共に兵を以て回鶻を迎えさせ、密かに西方の事をこれに属した。

景崇が永興に至ると、趙贊は入朝したが、その召した蜀兵は既に子午谷を占拠していた。景崇は趙思綰の兵を用いてこれを撃退した。遂に趙思綰と共に西に向かったが、己の兵でないことを以て、趙思綰らに二心あることを懼れ、その面にげいを施して自らに随わせんと欲したが、言い難く、乃ち微かにその旨をほのめかした。趙思綰は厲声を発して率先して黥せられて衆を率いんことを請うた。斉蔵珍はこれを悪み、密かに景崇を勧めて趙思綰を殺さんとしたが、景崇は聞き入れず、共に西行した。

高祖は使者を遣わして趙思綰らを召した。この時、侯益が来朝し、趙思綰は兵を率いて侯益に従い東帰した。趙思綰はその部下常彦卿に謂いて曰く、「趙公(趙贊)は既に人手に陥った。我らが至れば、併せて死す。如何にせん」と。常彦卿曰く、「事至れば変ずる。預め言うなかれ」と。侯益が永興に行き至ると、永興副使安友規が出迎え、郊亭において飲んだ。趙思綰が進み出て曰く、「兵は城東に宿営す。然れども将士の家属は皆城中に居る。願わくは兵を縦ちて城に入らしめ、その家属を挈取らしめよ」と。侯益はこれを信じて然りと以為った。趙思綰は部下と共に城に入り、州校が城門に坐していたのを殴り、その佩刀を奪ってこれを斬り、併せて門者十余人を斬り、遂に門を閉じて庫の兵を劫いて叛いた。

高祖は郭従義・王峻を遣わしてこれを討たしめたが、一年を経ても下すことができなかった。時に王景崇も亦叛き、趙思綰と共に李守貞に款を通じた。李守貞は趙思綰を晋昌軍節度使とした。隠帝は郭威を遣わし西に諸将の兵を督せしめ、先ず李守貞を河中に包囲した。数ヶ月を経て、趙思綰の城中は食糧が尽き、人を殺して食らった。毎に犒宴する度に、数百人を殺し、庖宰すること全く羊豕の如しであった。趙思綰はその胆を取り、酒を以て吞み、その部下に語って曰く、「胆を千まで食らえば、則ち勇無敵となる」と。

思綰は策窮まり、人を募って地道を掘り、蜀へ走らんとした。その判官陳譲能が思綰に謂う、「公は国に対しては別に嫌疑もないが、ただ死を恐れてこの挙に出ただけである。今、国家は三方で兵を用い、労弊は止まない。誠に翻然として順を効し、率先して自ら帰順し、功を以て過を補えば、生き延びる望みがあろう。もし窮城に坐して守るならば、死を待つのみである」と。思綰はこれを然りとし、乃ち教練使劉珪を遣わして従義に降伏を乞い、またその将劉筠を遣わして表を朝廷に奉らせた。思綰を鎮国軍留後に拝し、急ぎ鎮に就かせんとしたが、思綰は遅滞して行かず。蜀は密かに人を遣わして思綰を招き、思綰は蜀に奔らんとしたが、従義もまたこれを疑い、乃ち人を遣わして郭威に告げ、威は従義にこれを図ることを命じた。従義は因って城に入り思綰を召し、急ぎ上道せしめ、到着するとこれを擒らえた。思綰問うて曰く、「何を用いて刑せんとするか」と。告げる者曰く、「立釘なり」と。思綰は厲声して曰く、「吾がために郭公に告げよ、吾が死は責めを塞ぐに足らず、然れども釘磔の醜は壮夫の恥ずるところなり、幸いに少しくこれを仮せよ」と。従義はこれを許し、父子ともに市に斬られた。

慕容彦超

慕容彦超は、吐谷渾部の人で、漢高祖の同産弟である。嘗て閻氏を冒姓し、彦超は黒色の胡髯あり、閻崑崙と号した。少くして唐の明宗に事えて軍校となり、累遷して刺史となった。唐・晉の間、磁・単・濮・棣の四州を歴任し、濮州で麹を造り賄賂を受け取った罪により、法に当たって死すべきところ、漢高祖が太原より上章して論救し、死罪を減ぜられ、房州に流された。

契丹が晉を滅ぼすと、漢高祖は太原より起ち、彦超は流所より逃れて漢に帰り、鎮寧軍節度使に拝された。杜重威が魏で反すると、高祖は天平軍節度使高行周を都部署としてこれを討たせ、彦超を副将とした。彦超と行周は謀議多く協わず、行周は用兵に持重で、兵が城下に至っても、久しく進まなかった。彦超は速やかに進戦せんとしたが、行周は許さなかった。行周には娘が重威の子に嫁いでいたので、彦超は行周が娘の故に賊の城を惜しんで攻めないと揚言し、行周は大いに怒った。高祖は二人が相得ないことを聞き、他の変があることを懼れ、これにより急ぎ親征した。彦超は数度事を以て行周を凌辱し、行周は忍ぶことができず、宰相に会って涕泣し、屎を以て口を塞ぎ自ら訴えた。高祖は理の曲が彦超にあることを知り、人を遣わして行周を慰労し、彦超を召して責め、また行周の許に詣でて過ちを謝させた。行周の気持ちは少し解けた。

この時、漢兵は魏城下に頓すること既に久しく、重威の守りは益々堅く、諸将は皆未だ図るべからざるを知り、隙を窺っていたが、彦超のみが速攻すべしと言い、高祖はこれを然りとし、因みに自ら士卒を督して急攻し、死傷者万余人を出した。これにより敢えて再び攻撃を言わなかった。後に重威が出降すると、高祖は行周を天雄軍節度使としようとしたが、行周は辞して敢えて受けず、高祖は蘇逢吉を遣わして諭して曰く、「吾は爾のために彦超を移そう」と。行周は乃ち受け、彦超は泰寧に移鎮した。

隠帝は既に史弘肇らを殺し、また人を遣わして魏にて周太祖及び王峻らを殺そうとしたが、事の成就せぬことを懼れ、諸将を召して京師を衛らせた。使者が兗に至った時、彦超は食事中であったが、匕箸を放って就道した。周兵が京師を犯すと、開封尹侯益は隠帝に謂う、「北兵の来るや、その家属は皆京師にあり、門を閉じてその鋭気を挫き、その妻子を遣わして城壁に登らせて北兵を招けば、甲を解かしめることができよう」と。彦超は益を誚って曰く、「益は老いたり!これは懦夫の計なり」と。隠帝は乃ち彦超を益の副とし、兵を率いて北郊に出させた。周兵が至ると、益は夜に叛いて周に降った。彦超は七里で力戦し、隠帝が出て軍を労うと、太后は人を遣わして彦超に善く帝を衛るよう告げさせた。彦超は大言して報じて曰く、「北兵に何ができようか?陣上にて坐して喝し、帰営せしめん」と。また隠帝に謂う、「官家は宮中に事なきこと、明日は出でて臣の戦いを観るべし」と。明日、隠帝は再び出て軍を労うと、彦超は戦いに敗れて兗州に奔り、隠帝は北郊にてしいされた。

周太祖が入って立つと、彦超は自ら安からず、数度献上物をした。太祖は玉帯を以て報い、また詔書を賜ってこれを安慰し、彦超を弟と呼んで名を呼ばず、また翰林学士魯崇諒を遣わして慰諭させたが、彦超の心は益々疑懼した。已にして劉旻が太原に自立し、兵を出して晉・絳を攻めると、太祖は王峻を遣わして西方に兵を用いさせた。彦超は隙に乗じて亦謀反を図り、押衙鄭麟を遣わして京師に至らせ入朝を求めた。太祖はその詐りを知り、手詔を以てこれを許した。彦超は再び管内に盗賊多しと称して止め、また高行周が与えた書を進上した。その文辞は皆周の過失を指弾し、共に反せんとするが如きものであった。太祖はその印文が偽りであることを験し、書を以て行周に示した。彦超はまた人を遣わして南の李昪と結び、昪は兵を出して陽を攻めたが、周兵に敗れ、劉旻も晉・絳を攻めて克たず、解いて去った。太祖は乃ち侍衛歩軍指揮使曹英・客省使向訓を遣わしてこれを討たせ、彦超は城を閉じて自ら守った。

初め、彦超が反した時、判官崔周度が諫めて曰く、「魯は詩書の国なり、伯禽以来未だ能く覇たる者なし、然れども礼義を以てこれを守りて長世する者多し。今公は英武、一代の豪傑なり、若し力を量り時に相い動けば、富貴を保ち終身するを得べし。李河中・安襄陽・鎮陽杜令公は、近歳の亀鑑なり」と。彦超は大いに怒ったが、これを害する術がなかった。已にして包囲されると、因って大いに城中の民の財産を徴発して軍を犒い、前陝州司馬閻弘魯はその鞭扑を懼れ、乃ち家の財産を悉く献じた。彦超は未だ尽きずと思い、また周度を罪に併せんとし、乃ち周度に弘魯の家を監査徴発させた。周度は弘魯に謂う、「公の命の死生は、財の多少に繫がる、願わくは隠すことなかれ」と。弘魯は家僮を遣わし周度と共に掘り搜索したが得る所無し。彦超はまた鄭麟を遣わし刃を以て迫らせた。弘魯は惶恐してその妻妾に拝し、妻妾は皆隠す所無しと言った。周度が入って彦超に報告すると、彦超は信じず、弘魯及び周度を獄に下した。弘魯の乳母が泥中より金纏臂を得て彦超に献じ、弘魯を贖い出さんとしたが、彦超は大いに怒り、軍校を遣わして弘魯夫婦を笞ち肉爛れ死なせ、遂に周度を市に斬った。

この歳、鎮星が角・亢を犯す。占いに曰く、「角・亢は鄭の分野、兗州これに当たる」と。彦超は即ち軍府の将吏を率いて歩いて西門より三十里に出て致祭し、開元寺に迎え、塑像を以てこれを事え、日常一至し、また民家に黄幡を立てさせてこれを禳った。

彦超は人となり多く智詐を好み聚斂を好み、在鎮中嘗て庫を設けて銭を質とし、奸民が偽銀を以て質する者あり、主吏は久しくして乃ち覚った。彦超は密かに主吏に教え、夜に庫の垣に穴を穿ち、その金帛を尽く他所に移して盗みと告げさせた。彦超は即ち市に牓を掲げ、民に自ら質したものを申告させて償わせた。民は皆争って質した物を以て自ら言い、已にして偽銀を質した者を得た。これを深室に置き、十余人に教えて日夜これを作らせた。皆鉄を質とし銀を以て包み、「鉄胎銀」と号した。その包囲された時、城守の者を励まして曰く、「吾に銀数千鋌あり、当に悉く汝らに賜わん」と。軍士は私めいに謂い合って曰く、「これは鉄胎なるのみ、また何の用かあらん」と。皆これを用いようとしなかった。

明年五月、太祖親征し、城破れ、彦超夫妻は共に井に投じて死に、その子継勳はその徒五百人を率いて出奔したが擒らえられ、遂にその族を滅ぼした。兗州平らぎ、太祖は詔して閻弘魯に左ぎょう衛大将軍を、崔周度に秘書監を贈った。