新五代史

原文新五代史

卷第五十六

原文卷56

和凝

原文和凝

和凝、字あざなは成績、鄆州うんしゅう須昌の人である。その九世の祖逢堯は唐の監察御史であったが、その後は代々官途に就かず学問もしなかった。凝の父矩は酒を好み、小節に拘らなかったが、ただ礼文の士を好み、常に財を傾けて彼らと交わり、それゆえ凝は彼らと交遊することができた。凝は幼くして聡明で、容姿・精神ともに秀でていた。進士に挙げられ、梁の義成軍節度使賀瓌に召し出されて従事となった。賀瓌が唐の荘宗と胡柳で戦い、敗れて身一つで逃げる時、凝だけが従った。瓌が振り返って凝を見つけ、手を振って去らせようとした。凝は言った。「丈夫たるもの、知己のために死すべきである。私はまだ死に場所を得られぬことを恨むのみで、どうして去れようか」。やがて一騎が瓌を追い、ほとんど追いつかんとした時、凝が叱しても止まらないので、直ちに弓を引いてこれを射殺した。瓌はこれによって難を免れた。瓌は帰還し、諸子に戒めて言った。「和生は志義の士である。後必ず富貴になるであろう。汝らは謹んで彼に仕えよ」。そこで娘を娶らせた。

原文和凝字成績,鄆州須昌人也。其九世祖逢堯為唐監察御史,其後世遂不復宦學。凝父矩,性嗜酒,不拘小節,然獨好禮文士,每傾貲以交之,以故凝得與之游。而凝幼聰敏,形神秀發。舉進士,梁義成軍節度使賀瓌辟為從事。瓌與唐莊宗戰于胡柳,瓌戰敗,脫身走,獨凝隨之,反顧見凝,麾之使去。凝曰:「丈夫當為知己死,吾恨未得死所爾,豈可去也!」已而一騎追瓌幾及,凝叱之不止,即引弓射殺之,瓌由此得免。瓌歸,戒其諸子曰:「和生,志義之士也,後必富貴,爾其謹事之!」因妻之以女。

天成年間、殿中侍御史に任ぜられ、累進して主客員外郎、知制誥となり、翰林学士、知貢挙となった。当時、進士は多く浮薄で、喧嘩騒ぎを起こして主司を動かすことを好んだ。主司は毎回放榜の際、棘で囲い、省門を閉ざし、人の出入りを絶つことを常としていた。凝は棘を取り払い門を開け放ったが、士人たちは皆粛然として喧嘩せず、取った者は皆当代の秀才であり、人を得たと称された。

原文天成中,拜殿中侍御史,累遷主客員外郎,知制誥;翰林學士,知貢舉。是時,進士多浮薄,喜為諠譁以動主司。主司每放牓,則圍之以棘,閉省門,絕人出入以為常。凝徹棘開門,而士皆肅然無譁,所取皆一時之秀,稱為得人。

晋の初め、端明殿学士に任ぜられ、度支を兼ねて判じ、翰林学士承旨となった。高祖はしばしば彼を召し、時事について問うたが、凝の答えるところは皆意に適った。天福五年、中書侍郎、同中書門下平章事に任ぜられた。

原文晉初,拜端明殿學士,兼判度支,為翰林學士承旨。高祖數召之,問以時事,凝所對皆稱旨。天福五年,拜中書侍郎、同中書門下平章事。

高祖が鄴に行幸しようとした時、襄州じょうしゅうの安従進の反逆の兆しが既に現れていた。凝は言った。「陛下が鄴に行幸されれば、従進は必ずこの時に反逆するでしょう。その時はどうなさいますか」。高祖は言った。「卿はどう対処しようというのか」。凝は言った。「先んずる者は、人を制する所以です。宣敕を十余通作り、鄭王に授け、急があれば将を命じてこれを討たせてください」。高祖はその通りだと思った。当時、鄭王は開封尹で、行幸に従わず留まっていたので、宣敕を授けた。高祖が鄴に到着すると、従進は果たして反逆し、鄭王は直ちに宣敕をもって騎将の李建崇、焦継勲らに命じてこれを討たせた。従進は高祖がちょうど鄴に行幸中と思い、晋の兵の速さを予期せず、花山に至って李建崇らの兵と遭遇し、神のごとしと思い、遂に敗走した。出帝が即位すると、右僕射を加えられ、一年余りして平章事を罷め、左僕射に遷った。

原文高祖將幸鄴,而襄州安從進反迹已見。凝曰:「陛下幸鄴,從進必因此時反,則將奈何?」高祖曰:「卿將何以待之?」凝曰:「先人者,所以奪人也。請為宣敕十餘通,授之鄭王,有急則命將擊之。」高祖以為然。是時,鄭王為開封尹,留不從幸,乃授以宣敕。高祖至鄴,從進果反,鄭王即以宣敕命騎將李建崇、焦繼勳等討之。從進謂高祖方幸鄴,不意晉兵之速也,行至花山,遇建崇等兵,以為神,遂敗走。出帝即位,加右僕射,歲餘,罷平章事,遷左僕射。

漢の高祖の時、太子太傅に任ぜられ、魯国公に封ぜられた。顕徳二年に卒去、五十八歳。侍中を追贈された。

原文漢高祖時,拜太子太傅,封魯國公。顯德二年卒,年五十八,贈侍中。

凝は車服を飾ることを好み、文章は多いことを富みとし、百余巻の文集があり、自ら版を刻んで世に行ったが、識者は多くこれを非とした。しかし性質は善を楽しみ、後進の士を称揚することを好んだ。唐の故事では、知貢挙者が放つ進士は、自分が及第した時の名次を重んじた。凝が進士に及第した時は第五であった。後に知挙となり、范質を第五に選んだ。後に質は宰相の位に至り、魯国公に封ぜられ、官は太子太傅に至ったが、皆凝と同じであり、当時これを栄誉とした。

原文凝好飾車服,為文章以多為富,有集百餘卷,嘗自鏤板以行于世,識者多非之。然性樂善,好稱道後進之士。唐故事,知貢舉者所放進士,以己及第時名次為重。凝舉進士及第時第五,後知舉,選范質為第五。後質位至宰相,封魯國公,官至太子太傅,皆與凝同,當時以為榮焉。

趙瑩

原文趙瑩

趙瑩、字は玄輝、華州華陰の人である。人となり純朴で厚く、風采が美しかった。梁の将康延孝に仕えて従事となった。晋の高祖が保義軍節度使であった時、瑩を書記に任じて以来、鎮を移すごとに常に瑩を従えた。

原文趙瑩字玄輝,華州華陰人也。為人純厚,美風儀。事梁將康延孝為從事。晉高祖為保義軍節度使,以瑩掌書記,自是徙鎮常以瑩從。

高祖が太原で挙兵しようとした時、諸将吏に問うた。将吏の中には賛成する者もあったが、瑩だけは恐れの色を顔に表し、高祖に反逆しないよう勧めた。高祖はその言を用いなかったが、心に甚だ彼を愛した。高祖が即位すると、翰林学士承旨、戸部侍郎、同中書門下平章事に任ぜられた。累進して中書令となった。出て晋昌軍節度使、開封尹となった。当時、出帝は幼く愚昧で、馮玉、李彦韜らが権力を握り、桑維翰と権力を争い、共に讒言して彼を去らせ、瑩が柔和で制しやすいと考え、再び引いて宰相とした。

原文高祖將起兵太原,以問諸將吏,將吏或贊成之,瑩獨懼形于色,勸高祖毋反。高祖雖不用其言,心甚愛之。高祖即位,拜翰林學士承旨、戶部侍郎、同中書門下平章事。累拜中書令。出為晉昌軍節度使、開封尹。是時,出帝童昏,馮玉,李彥韜等用事,與桑維翰爭權,乃共譖去之,以瑩柔而易制,故復引以為相。

契丹きったんが晋を滅ぼすと、瑩は出帝に従って北に移され虜中に至り、瑩は兀欲に仕えて太子太保となった。周の太祖の時、契丹と通好し、尚書左丞田敏を使者として契丹に遣わした。田敏は幽州ゆうしゅうで瑩に会い、瑩は田敏を見て悲しみに耐えられなかった。瑩の子に易則、易従がいた。北に移された時、易従と共に行き、易則は漢に仕えて留まり、官は刑部郎中に至った。後に瑩が病で危篤に陥り、契丹に告げて、願わくば尸を中国に還すことを願い、契丹はこれを許した。卒去すると、易従を遣わしてその喪を護り南帰させた。太祖はこれを哀れみ、瑩に太傅を追贈し、華陰に葬った。

原文契丹滅晉,瑩從出帝北徙虜中,瑩事兀欲為太子太保。周太祖時,與契丹通好,遣尚書左丞田敏使于契丹,遇瑩于幽州,瑩見敏悲不自勝。瑩子易則、易從。當其徙而北也,與易從俱,而易則留事漢,官至刑部郎中。後瑩病將卒,告于契丹,願以尸還中國,契丹許之。及卒,遣易從護其喪南歸。太祖憐之,贈瑩太傅,葬于華陰。

馮玉

原文馮玉

馮玉は字を璟臣といい、定州ていしゅうの人である。若くして進士に挙げられたが及第せず。馮贇が河東節度使となったとき、推官として召し出された。朝廷に入り監察御史に任ぜられ、累進して礼部郎中となり、塩鉄判官となった。晋の出帝が馮玉の姉を后に納れると、馮玉は后の外戚として知制誥を掌り、中書舎人に任ぜられた。馮玉は学問を知らず、殷鵬とともに舎人となったが、制誥は常に殷鵬に代作させた。ほどなく、馮玉は潁州団練使として出向し、端明殿学士・戸部侍郎に任ぜられ、枢密使・中書侍郎・同中書門下平章事に遷った。

原文馮玉字璟臣,定州人也。少舉進士不中。馮贇為河東節度使,辟為推官。入拜監察御史,累遷禮部郎中,為鹽鐵判官。晉出帝納玉姊為后,玉以后戚知制誥,拜中書舍人。玉不知書,而與殷鵬同為舍人,制誥常遣鵬代作。頃之,玉出為潁州團練使,拜端明殿學士、戶部侍郎,遷樞密使、中書侍郎、同中書門下平章事。

この時、出帝は幼く愚昧で、馮皇后が政事を専断し、軍国の大事はすべて馮玉が決裁した。馮玉がかつて病気で休暇をとったとき、刺史以上の官職について、宰相は任命を敢えて行わず、馮玉の決裁を待った。馮玉が中書舎人盧價を工部侍郎に任命しようとしたとき、桑維翰は盧價の資歴声望が浅いとして不可とした。これにより馮玉は維翰と不和となり、維翰はこれによって宰相を罷免された。

原文是時,出帝童昏,馮皇后用事,軍國大務,一決於玉。玉嘗有疾在告,自刺史已上,宰相不敢除授,以俟玉決。玉除中書舍人盧價為工部侍郎,桑維翰以價資望淺為不可,由是與維翰有隙,維翰由此罷相。

馮玉が宰相となると、四方からの賄賂が集まり、蓄積した資産は巨万にのぼった。契丹が晋を滅ぼすと、張彦沢が先に兵を率いて京師に入り、兵士が競って馮玉の家に入り、その資産は一夜にして尽きた。翌日、張彦沢に会うと、なおも諂って笑い、自ら進んで晋の玉璽を捧げて契丹に献じ、恩賞を期待したいと述べた。彦沢は受け入れなかった。出帝が北へ連行されるとき、馮玉は従って契丹に入り、契丹は彼を太子太保とした。周の広順三年、その子の馮傑が契丹から逃げ帰ると、馮玉は恐れ、憂いのうちに卒した。

原文玉為相,四方賄,積貲鉅萬。契丹滅晉,張彥澤先以兵入京師,兵士爭先入玉家,其貲一夕而盡。明日見彥澤,猶諂笑,自言願得持晉玉璽獻契丹,以冀恩奬。彥澤不納。出帝之北,玉從入契丹,契丹以為太子太保。周廣順三年,其子傑自契丹逃歸,玉懼,以憂卒。

盧質

原文盧質

盧質は字を子徴といい、河南の人である。父の盧望は、唐の司勲郎中であった。質は幼くして聡明で、文章をよくした。唐に仕えて秘書郎となり、母の喪に服し職を解かれた。後に太原に遊び、晋王(李克用)が彼を河東節度掌書記とした。

原文盧質字子徵,河南人也。父望,唐司勳郎中。質幼聰惠,善屬文。事唐為祕書郎,丁母憂,解職。後去遊太原,晉王以為河東節度掌書記。

盧質は張承業らと謀議ぼうぎを定めて荘宗(李存勗)を後継者に立てた。荘宗が即位しようとするとき、質を大礼使とし、行台礼部尚書に任じた。荘宗が即位すると、質を宰相にしようとした。質の性質は疎放で、責任を負うことを欲せず、固辞して受けなかった。太原尹・北京留守に任ぜられ、戸部尚書・翰林学士に遷った。梁を平定するのに従い、租庸を権判し、兵部尚書に遷り、後に学士承旨となり、なお「論思匡佐功臣」を賜った。天成元年、匡国軍節度使に任ぜられた。三年、兵部尚書に任ぜられ、太常卿事を判じた。河陽・横海の鎮を歴任した。

原文質與張承業等定議立莊宗為嗣。莊宗將即位,以質為大禮使,拜行臺禮部尚書。莊宗即位,欲以質為相。質性疎逸,不欲任責,因固辭不受。拜太原尹、北京留守,遷戶部尚書、翰林學士。從平梁,權判租庸,遷兵部尚書,後為學士承旨,仍賜「論思匡佐功臣」。天成元年,拜匡國軍節度使。三年,拜兵部尚書,判太常卿事。歷鎮河陽、橫海。

初め、梁がすでに唐を簒奪し、哀帝を済陰王に封じたが、やがて毒殺し、曹州に葬った。同光三年、荘宗が改葬を議しようとしたが、曹太后が崩御したため、やめた。その旧塚により、ややその封土を広げ、時に応じて祭祀を捧げるのみであった。質はそこで廟を立て追謚することを建議し、謚を昭宣光烈孝皇帝とし、廟号を景宗とした。天成四年八月戊申、明宗が文明殿に御し、質を遣わして冊を奉じ曹州に廟を立てた。しかし議者は、輝王(哀帝)は不幸にも賊臣に立てられ、昭宗・何皇后はいずれも梁に弑され、ついに国を亡ぼしたのであり、「昭宣光烈」と称するのはふさわしくなく、また廟を立てて宗と称しながら太廟に入れないのは、いずれも正しくない、と言った。皆これをもって質を非難し、大臣もその不可を知り、ついに奏上して廟号を除いた。

原文初,梁已篡唐,封哀帝為濟陰王,既而酖殺之,瘞于曹州。同光三年,莊宗將議改葬,而曹太后崩,乃止。因其故壠,稍廣其封,以時薦饗而已。質乃建議立廟追謚,謚曰昭宣光烈孝皇帝,廟號景宗。天成四年八月戊申,明宗御文明殿,遣質奉冊立廟于曹州。而議者以謂輝王不幸為賊臣所立,而昭宗、何皇后皆為梁所弒,遂以亡國,而「昭宣光烈」非所宜稱,且立廟稱宗而不入太廟,皆非是。共以此非質,大臣亦知其不可,乃奏去廟號。

秦王李従栄が謀反の罪に坐して誅殺されると、質は右僕射として河南府事を権知した。廃帝(李従珂)が鳳翔ほうしょうで反旗を翻すと、愍帝(李従厚)は兵を発してこれを討とうとし、府庫を尽くして厚く賞を与えたが、兵は鳳翔に至ると皆叛いて降った。廃帝はすべての兵を率いて東進し、事が成れば重賞を約束したが、軍士は皆期待を超えたものを望んだ。廃帝が入って立つと、有司が献上した簿籍の数が甚だ少なく、廃帝は激怒した。諸鎮から刺史に至るまで、皆銭帛を進めて国用を助けたが、なお不足し、三司使王玫は民財を率いて用を助けることを請うた。そこで質と王玫らに命じてともに配率を議させたが、貧富が均しからず、怨みと訴訟が並び起こり、囚人が獄に満ちた。六七日の間に、得たもの十万に満たなかった。廃帝はこれを憂い、質らに命じて民の屋税を五月分前借りさせた。これにより民は大いに怨嗟した。

原文秦王從榮坐謀反誅,質以右僕射權知河南府事。廢帝反鳳翔,愍帝發兵誅之,竭帑藏以厚賞,而兵至鳳翔皆叛降。廢帝悉將而東,事成許以重賞,而軍士皆過望。廢帝入立,有司獻籍數甚少,廢帝暴怒。自諸鎮至刺史,皆進錢帛助國用,猶不足,三司使王玫請率民財以佐用。乃使質與玫等共議配率,而貧富不均,怨訟並起,囚繫滿獄。六七日間,所得不滿十萬。廢帝患之,乃命質等借民屋課五月,由是民大咨怨。

晋の高祖(石敬瑭)が入って立つと、質は病気のため西京で分司し、太子太保に任ぜられた。卒す。享年七十六。太子太師を贈られ、謚を文忠といった。

原文晉高祖入立,質以疾分司西京,拜太子太保。卒,年七十六,贈太子太師,謚曰文忠。

呂琦

原文呂琦

呂琦は字を輝山といい、幽州安次県の人である。父の呂兗は、横海軍節度判官であった。節度使劉守文がその弟の劉守光と兵を交えて攻め合い、守文は敗れて死に、その吏民はその子の劉延祚を立ててこれに仕え、呂兗を謀主とした。やがて延祚もまた守光に敗れ、呂兗は殺された。守光は呂兗を怒り、その一族を皆殺しにした。呂琦は十五歳のとき捕らえられ、刑に処せられようとしたが、呂兗の旧客の趙玉が監視者を欺いて言うには、「これは私の弟である」と。監視者はこれを信じ、呂琦を逃がした。趙玉と呂琦はともに逃げ去り、呂琦は足が弱く歩けなかったので、趙玉が背負って行き、数百里を越え、姓名を変え、道で食を乞い、難を免れた。

原文呂琦字輝山,幽州安次人也。父兗,為橫海軍節度判官。節度使劉守文與其弟守光以兵相攻,守文敗死,其吏民立其子延祚而事之,以兗為謀主。已而延祚又為守光所敗,兗見殺。守光怒兗,并族其家。琦年十五,見執,將就刑,兗故客趙玉紿其監者曰:「此吾弟也。」監者信之,縱琦去。玉與琦得俱走,琦足弱不能行,玉負之而行,逾數百里,變姓名,乞食于道,以免。

呂琦は人となり風采が美しく、節概を重んじた。若くして家を喪い、汾・晋の間を遊学した。唐の荘宗が太原を鎮守したとき、代州軍事推官とした。後に横海の趙徳鈞の節度推官となり、朝廷に入って殿中侍御史となった。

原文琦為人美風儀,重節概,少喪其家,游學汾、晉之間。唐莊宗鎮太原,以為代州軍事推官。後為橫海趙德鈞節度推官,入為殿中侍御史。

明宗のとき、駕部員外郎となり、侍御史知雑事を兼ねた。河陽の主蔵吏が監守する物を盗み、軍巡獄に下されたが、獄吏の尹訓が賄賂を納めてその獄を覆した。その冤家が朝廷に訴え、御史台に下して按検させると、尹訓の贓状を得たので、奏上して尹訓を召し出して御史台に赴かせようとした。尹訓は安重誨に庇護され、引き渡されなかったが、呂琦が請うてやまなかったので、尹訓は恐れて自殺し、獄はようやく明らかとなり、生き延びた者は甚だ多かった。一年余りして、礼部郎中・史館修撰に遷った。

原文明宗時,為駕部員外郎,兼侍御史知雜事。河陽主藏吏盜所監物,下軍巡獄,獄吏尹訓納賂反其獄,其冤家訴于朝,下御史臺按驗,得訓贓狀,奏攝訓赴臺。訓為安重誨所庇,不與,琦請不已,訓懼自殺,獄乃辨,蒙活者甚眾。歲餘,遷禮部郎中、史館脩撰。

長興年間、廢帝が河中を失守し、罷めて清化坊に居住し、呂琦と同巷にあり、琦は数え往きて之を過ぐ。後に廢帝が入りて立つと、琦を待つこと甚だ厚く、知制誥・給事中・樞密院直學士・端明殿學士に拝す。是の時、晉高祖が河東を鎮め、二心あり、廢帝之を患う。琦は李崧と俱に顧問に備わり、裨畫する所多し。琦言う、「太原の患は、必ず契丹を引きて助けと為さん。事に先んじて之を制するに如かず」と。明宗の時、王都が定州に反し、契丹は禿餒・萴剌等を遣わして都を助け、而して趙德鈞・王晏球に敗られ、禿餒は見殺され、萴剌等は皆京師に送らる。其の後契丹は数え使者を遣わして萴剌等を求め、其の辞甚だ卑恭なり。明宗は輒ち其の使者を斬りて報ぜず。而して東丹王又中国に亡入す。契丹是れより数え和を求めんと欲す。琦因りて言う、「方今の勢は、契丹と通和するに如かず。漢の故事の如く、歳に金帛を給し、女を以て之に妻し、彊藩大鎮をして外を顧みて引援する所無からしめば、其の乱心を弭ぐべし」と。崧、琦の語を以て三司使張延朗に語る。延朗欣然として曰く、「苟くも国患を紓ぐ能わば、歳に県官十数万緡を費やすと雖も、吾に責めて取足る可し」と。因りて共に此の事を建つ。廢帝大いに喜び、佗日に琦等の語を以て樞密直學士薛文遇に問う。文遇大いに以て非と為し、因りて戎昱の「社稷は明主に依り、安危は婦人に託す」の詩を誦し、以て琦等を誚る。廢帝大いに怒り、急ぎ崧・琦等を召して和戎の計如何と問う。琦等帝の色怒るを察し、亟に曰く、「臣等国を計る為なり。契丹と中国に利を求むるに非ざるなり」と。帝即ち怒りを発して曰く、「卿等朕を佐けて太平を致さんと欲して而して是くの如きか。朕が一女尚幼く、之を夷狄に棄てんと欲す。金帛は以て士を養い国を扞ぐ所以なり。又虜に輸じて資す可きか」と。崧等惶恐して拝謝し、拝すること数え無し。琦は足力乏しくして拝する能わずして先に止む。帝曰く、「呂琦強項にして、肯て人主を以て我を視るか」と。琦曰く、「臣素より病みて羸る。拝多くして乏し。容れ臣をして少しく息わしめよ」と。頃くして喘定まり、奏して曰く、「陛下臣等の言を非と為さば、之を罪す可し。拝すと雖も何の益かあらん」と。帝の意稍く解け、曰く、「拝す勿れ」と。酒一巵を賜いて之を遣わす。其の議遂に寝す。因りて琦を遷して御史中丞と為し、数ヶ月居りて、復た端明殿學士と為す。其の後晉高祖太原より起ち、果たして契丹を引きて助けと為し、遂に以て唐を亡ぼす。

原文長興中,廢帝失守河中,罷居清化坊,與琦同巷,琦數往過之。後廢帝入立,待琦甚厚,拜知制誥、給事中、樞密院直學士、端明殿學士。是時,晉高祖鎮河東,有二志,廢帝患之,琦與李崧俱備顧問,多所裨畫。琦言:「太原之患,必引契丹為助,不如先事制之。」自明宗時王都反定州,契丹遣禿餒、萴剌等助都,而為趙德鈞、王晏球所敗,禿餒見殺,萴剌等皆送京師。其後契丹數遣使者求萴剌等,其辭甚卑恭,明宗輒斬其使者不報。而東丹王又亡入中國,契丹由此數欲求和。琦因言:「方今之勢,不如與契丹通和,如漢故事,歲給金帛,妻之以女,使彊藩大鎮顧外無所引援,可弭其亂心。」崧以琦語語三司使張延朗,延朗欣然曰:「苟能紓國患,歲費縣官十數萬緡,責吾取足可也!」因共建其事。廢帝大喜,佗日以琦等語問樞密直學士薛文遇,文遇大以為非,因誦戎昱「社稷依明主,安危託婦人」之詩,以誚琦等。廢帝大怒,急召崧、琦等問和戎計如何?琦等察帝色怒,亟曰:「臣等為國計,非與契丹求利於中國也。」帝即發怒曰:「卿等佐朕欲致太平而若是邪?朕一女尚幼,欲棄之夷狄,金帛所以養士而扞國也,又輸以資虜,可乎?」崧等惶恐拜謝,拜無數,琦足力乏不能拜而先止。帝曰:「呂琦彊項,肯以人主視我邪!」琦曰:「臣素病羸,拜多而乏,容臣少息。」頃之喘定,奏曰:「陛下以臣等言非,罪之可也,雖拜何益?」帝意稍解,曰:「勿拜。」賜酒一巵而遣之,其議遂寢。因遷琦御史中丞,居數月,復為端明殿學士。其後晉高祖起太原,果引契丹為助,遂以亡唐。

琦は晉に事えて祕書監と為り、累遷して兵部侍郎に至る。天福八年卒す。

原文琦事晉為祕書監,累遷兵部侍郎。天福八年卒。

趙玉は仕えて職方員外郎に至る。琦は之に事うること父の如し。玉疾有れば、親しく薬を嘗め扶侍し、及び卒せしに当たり、其の家の為に喪葬を主辦す。玉の子文度幼くして孤なり。琦は学を以て之を教うること己が子の如し。後に挙げて進士及び第すと云う。

原文趙玉仕至職方員外郎,琦事之如父,玉疾,親嘗藥扶侍,及卒,為其家主辦喪葬。玉子文度幼孤,琦教以學,如己子,後舉進士及第云。

琦に子餘慶・端有り。

原文琦有子餘慶、端。

薛融

原文薛融

薛融は、汾州平遙の人なり。少くして儒学を以て知名なり。唐明宗の時、右補闕・直弘文館と為る。晉高祖太原を鎮むるに、融は觀察判官と為る。高祖鄆に徙る。太原に拠りて命に拒がんと欲し、賓佐を延見し、可否を以て問う。而坐中或いは之を賛成し、或いは恐懼して敢えて言わず。融独り従容として対えて曰く、「融本儒生爾。軍旅の事は、未だ嘗て学ばず。進退存亡の理は、豈に易く言わんや」と。高祖之を責めず。

原文薛融,汾州平遙人也。少以儒學知名,唐明宗時為右補闕,直弘文館。晉高祖鎮太原,融為觀察判官。高祖徙鄆,欲據太原拒命,延見賓佐,問以可否,而坐中或贊成之,或恐懼不敢言,融獨從容對曰:「融本儒生爾,軍旅之事,未嘗學也,進退存亡之理,豈易言哉!」高祖不之責也。

高祖入りて立つと、吏部郎中を拝し、兼ねて侍御史知雜事と為る。累拝して左諫議大夫、遷りて中書舍人と為る。融曰く、「文辞は臣の長ずる所に非ず」と。遂に辞して拝せず。時に詔して洛陽大内を修めしむ。融上疏して切に諫む。高祖其の言を褒納し、即ち詔して其の役を罷む。遷りて御史中丞、改めて尚書右丞、西京に分司す。卒す。年六十。

原文高祖入立,拜吏部郎中,兼侍御史知雜事。累拜左諫議大夫,遷中書舍人。融曰:「文辭非臣所長也。」遂辭不拜。時詔修洛陽大內,融上疏切諫,高祖褒納其言,即詔罷其役。遷御史中丞,改尚書右丞,分司西京。卒,年六十。

何澤

原文何澤

何澤は、広州の人なり。父鼎は、唐末に容管經略使と為る。澤は少くして学を好み、歌詩に長ず。進士に挙げられ、洛陽令と為る。唐莊宗は畋獵を好み、数え民田を践む。澤乃ち潜み身を草間に伏して莊宗を伺い、馬に当たりて諫めて曰く、「陛下未だ天下を一にして兵を休めずして、而して暴に疲民を斂めて以て軍食を給す。今田将に熟せんとす。奈何ぞ恣に畋游して以て多稼を害せん。民をして何を以て租賦を出さしめ、吏をして何を以て民耕を督めしめん。陛下臣が言を聴かずば、願わくは臣をして馬前に死を賜い、後世をして陛下の過ちを知らしめよ」と。莊宗大笑い、為に獵を止む。倉部郎中を拝す。

原文何澤,廣州人也。父鼎,唐末為容管經略使。澤少好學,長於歌詩。舉進士,為洛陽令。唐莊宗好畋獵,數踐民田,澤乃潛身伏草間伺莊宗,當馬諫曰:「陛下未能一天下以休兵,而暴斂疲民以給軍食。今田將熟,奈何恣畋游以害多稼?使民何以出租賦,吏以何督民耕?陛下不聽臣言,願賜臣死於馬前,使後世知陛下之過。」莊宗大笑,為之止獵。拜倉部郎中。

明宗の時、数え上書して事を言う。明宗汴州べんしゅうに幸す。又た鄴に幸せんと欲す。而して人情便ならず。大臣屡りて言うも聴かず。澤は閤に伏して切に諫む。明宗之を嘉し、吏部郎中・史館脩撰を拝す。澤は外は直言するも、内は実に邪佞なり。嘗て内殿に起居し、班退きて、独り留まり、笏を以て顙を叩き、北を望みて呼びて曰く、「明主、明主」と。聞く者皆之を哂う。

原文明宗時,數上書言事。明宗幸汴州,又欲幸鄴,而人情不便,大臣屢言不聽;澤伏閤切諫,明宗嘉之,拜吏部郎中、史館脩撰。澤外雖直言,而內實邪佞,嘗於內殿起居,班退,獨留,以笏叩顙,北望而呼曰:「明主,明主!」聞者皆哂之。

五代の際、民は兵に苦しみ、往々因りて親の疾を以て股を割き、或いは既に喪して乳を割き墓に廬し、以て州県の賦役を免れんと規る。戸部は歳に蠲符を給す。勝え数う可からず。而して課して州県に紙を出さしめ、「蠲紙」と号す。澤上書して其の敝を言う。明宗詔を下して悉く戸部の蠲紙を廃す。

原文五代之際,民苦於兵,往往因親疾以割股,或既喪而割乳廬墓,以規免州縣賦役。戶部歲給蠲符,不可勝數,而課州縣出紙,號為「蠲紙」。澤上書言其敝,明宗下詔悉廢戶部蠲紙。

澤は宰相趙鳳と旧有り。数え私に鳳に于り、給諫を求めんとす。鳳其の人為りを薄しと為し、太常少卿と為すことを以てす。勅未だ出でざるに澤先ず之を知り、即ち新官を称して上章し自ら訴う。章中書に下る。鳳等言う、「澤未だ命を拝せずして新官を称す。朝廷を軽侮す。請う法を以て坐せん」と。乃ち太僕少卿を以て致仕せしめ、河陽に居于る。澤時年已に七十、尚仕進を希う。即ち婢宜子を遣わし匭に詣でて上章し事を言い、請う秦王を立てて皇太子と為さんと。秦王は素より驕り多く不軌なり。遂に其の禍を成す。澤より而して始まる。

原文澤與宰相趙鳳有舊,數私于鳳,求為給諫。鳳薄其為人,以為太常少卿。敕未出而澤先知之,即稱新官上章自訴。章下中書,鳳等言:「澤未拜命而稱新官,輕侮朝廷,請坐以法。」乃以太僕少卿致仕,居于河陽。澤時年已七十,尚希仕進,即遣婢宜子詣匭上章言事,請立秦王為皇太子。秦王素驕,多不軌,遂成其禍,由澤而始。

晉高祖入りて立つと、召して太常少卿と為し、疾を以て家に卒す。

原文晉高祖入立,召為太常少卿,以疾卒于家。

王權

原文王權

王權は字を秀山と云い、太原の人なり。唐の左僕射王起の曾孫なり。父蕘は、官右司郎中に至る。權は進士に挙げられ、右補闕と為る。唐亡び、梁に事えて職方員外郎・知制誥・翰林學士と為り、累遷して御史中丞に至る。唐莊宗梁を滅ぼし、權を貶して隨州司馬と為す。起きて右庶子と為り、累遷して戸部尚書に至る。晉高祖の時、兵部尚書と為る。是の時、高祖は父の事を以て契丹に事う。權当に使を奉ずべし。歎いて曰く、「我れ不才と雖も、安んぞ穹廬に稽顙せんや」と。因りて辞して行かず。是に坐して任を停む。踰年して太子少傅を以て致仕す。卒す。年七十八。左僕射を贈らる。

原文王權字秀山,太原人也。唐左僕射起之曾孫。父蕘,官至右司郎中。權舉進士,為右補闕。唐亡,事梁為職方員外郎、知制誥、翰林學士,累遷御史中丞。唐莊宗滅梁,貶權隨州司馬。起為右庶子,累遷戶部尚書。晉高祖時為兵部尚書。是時,高祖以父事契丹,權當奉使,歎曰:「我雖不才,安能稽顙於穹廬乎?」因辭不行,坐是停任。踰年以太子少傅致仕。卒,年七十八,贈左僕射。

史圭

原文史圭

史圭は常山石邑の人である。人となりは明敏で学問を好んだ。寧晋・楽寿県令となり、善政を施し、県民は碑を立ててこれを称えた。郭崇韜が成徳を鎮守したとき、従事に辟召した。明宗のとき、尚書郎となった。安重誨が枢密使となると、史圭を直学士に推薦した。故事によれば、直学士の職は清要ではあるが、文書を承領し庶務を参掌することは、判官と異ならなかった。重誨はもともと書に通じず、史圭を頼りとして顧問に備え、初めて史圭の昇殿侍立を許すよう奏請した。枢密直学士が昇殿するのは史圭から始まった。尚書右丞に改め、吏部銓事を判じた。重誨が敗死すると、史圭は貝州刺史として出された。罷免されて常山に帰り、人事を閉絶し、出入りするときは閭里で輜軿車に乗った。

原文史圭,常山石邑人也。為人明敏好學。為寧晉、樂壽縣令,有善政,縣人立碑以頌之。郭崇韜鎮成德,辟為從事。明宗時,為尚書郎。安重誨為樞密使,薦圭直學士。故事,直學士職雖清,而承領文書,參掌庶務,與判官無異。重誨素不知書,倚圭以備顧問,始白許圭升殿侍立。樞密直學士升殿自圭始。改尚書右丞,判吏部銓事。重誨敗死,圭出為貝州刺史。罷歸常山,閉絕人事,出入閭里乘輜軿車。

晋の高祖が立つと、召されて刑部侍郎・塩鉄副使に拝され、吏部侍郎に遷り、銓事を分知し、能ある名声があった。病により罷免され、常山で卒した。

原文晉高祖立,召拜刑部侍郎、鹽鐵副使,遷吏部侍郎,分知銓事,有能名。以疾罷,卒于常山。

龍敏

原文龍敏

龍敏、字は欲訥、幽州永清の人である。若くして州に仕え、参軍を摂った。劉守光の乱に際し、敏は滄州そうしゅうに避難し、ついに梁に客寓し、長く調任されなかった。敏はもとより馮道と親善であり、道が唐の荘宗の従事となったので、ひそかに赴きこれに依った。監軍張承業が馮道に言うには、「聞くところでは、君に客があるという。ともに来るがよい」と。道は敏を承業に引見し、承業は敏を監軍巡官に辟召し、奏記を掌らせた。荘宗が即位すると、召されて司門員外郎に拝された。

原文龍敏字欲訥,幽州永清人也。少仕州,攝參軍。劉守光亂,敏避之滄州,遂客於梁,久調。敏素善馮道,道為唐莊宗從事,乃潛往依之。監軍張承業謂道曰:「聞子有客,可與俱來。」道以敏見承業,承業辟敏監軍巡官,使掌奏記。莊宗即位,召拜司門員外郎。

敏の父咸式は七十余歳、その祖父は九十余歳で、ともに鄴におり、敏は興唐尹を求めて仕え、祖父・父に仕えて孝行で知られた。母の憂に服し、職を去った。趙在礼が反乱すると、敏を逼って起ち視事させた。明宗が即位し、在礼が滄州を鎮守すると、敏はようやく再び喪に居ることができた。喪服を除くと、累遷して兵部侍郎に拝された。

原文敏父咸式,年七十餘,而其王父年九十餘,皆在鄴,敏乃求為興唐尹,事祖、父以孝聞。丁母憂,去職。趙在禮反,逼敏起視事。明宗即位,在禮鎮滄州,敏乃復得居喪。服除,累拜兵部侍郎。

馮贇が北京留守となると、敏を副留守に辟召した。贇が入朝して枢密使となると、敏は吏部侍郎に拝された。このとき、晋の高祖が太原で挙兵し、契丹に兵を乞うた。唐の廃帝は懐州におり、趙徳鈞父子に異志があり、張敬達は晋安に屯し、情勢は甚だ危急であった。廃帝が従臣に計を問うと、敏は言った、「晋の恃むところは契丹である。東丹王は国を失った君、今京師におり、もし兵をもって東丹王を護送し幽州から西楼に入らせれば、契丹は内顧の憂いを抱き、どうして晋を助ける暇があろうか。晋が契丹を失えば、大事は去ったも同然である」と。また李懿に言った、「敏は燕の者ゆえ、徳鈞を知ることができる。徳鈞が将として、城を守り塹を嬰かこ(かこ)うのは、健児を篤く励ますだけのこと。彼に大敵を当たらせ、奮戦して身を顧みないことは、その能うところではない。ましてや異志があるときはなおさらである。今、聞くところでは、駕前の馬がなお五千騎あるという。願わくは壮健な馬千匹、健兵千人を得て、勇将郎万金とともに、平遙より山に沿って虜中を冒し官砦に急行し、戦いながら進み、その半ばが到達すれば、事は成るであろう」と。懿がこれを廃帝に言上したが、廃帝は用いることができなかった。しかし人々は皆、その大言を壮とした。

原文馮贇留守北京,辟敏副留守。贇入為樞密使,敏拜吏部侍郎。是時,晉高祖起太原,乞兵契丹。唐廢帝在懷州,趙德鈞父子有異志,張敬達屯于晉安,勢甚危急。廢帝問計從臣,敏曰:「晉所恃者契丹也。東丹王失國之君,今在京師,若以兵送東丹自幽州而入西樓,契丹且有內顧之憂,何暇助晉?晉失契丹,大事去矣。」又謂李懿曰:「敏,燕人也,能知德鈞。德鈞為將,守城嬰塹,篤勵健兒而已。使其當大敵,奮不顧身,非其能也。況有異志乎?今聞駕前之馬,猶有五千,願得壯者千匹,健兵千人,與勇將郎萬金,自平遙沿山冒虜中而趨官砦,且戰且行,得其半達,則事濟矣!」懿為言之廢帝,廢帝莫能用。然人皆壯其大言。

晋を歴し太常卿となり、呉ご越に使した。是の時、呉越に使する者、呉越王を見る毎に皆下拝したが、敏独りこれに揖いす(いす)した。還りて、工部侍郎に遷る。乾祐元年、瘍できもの(できもの)首に発して卒し、右僕射を贈られた。

原文歷晉為太常卿,使于吳越。是時,使吳越者,見吳越王皆下拜,敏獨揖之。還,遷工部侍郎。乾祐元年,瘍發於首卒,贈右僕射。