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和凝
和凝、字は成績、鄆州須昌の人である。その九世の祖逢堯は唐の監察御史であったが、その後は代々官途に就かず学問もしなかった。凝の父矩は酒を好み、小節に拘らなかったが、ただ礼文の士を好み、常に財を傾けて彼らと交わり、それゆえ凝は彼らと交遊することができた。凝は幼くして聡明で、容姿・精神ともに秀でていた。進士に挙げられ、梁の義成軍節度使賀瓌に召し出されて従事となった。賀瓌が唐の荘宗と胡柳で戦い、敗れて身一つで逃げる時、凝だけが従った。瓌が振り返って凝を見つけ、手を振って去らせようとした。凝は言った。「丈夫たるもの、知己のために死すべきである。私はまだ死に場所を得られぬことを恨むのみで、どうして去れようか」。やがて一騎が瓌を追い、ほとんど追いつかんとした時、凝が叱しても止まらないので、直ちに弓を引いてこれを射殺した。瓌はこれによって難を免れた。瓌は帰還し、諸子に戒めて言った。「和生は志義の士である。後必ず富貴になるであろう。汝らは謹んで彼に仕えよ」。そこで娘を娶らせた。
天成年間、殿中侍御史に任ぜられ、累進して主客員外郎、知制誥となり、翰林学士、知貢挙となった。当時、進士は多く浮薄で、喧嘩騒ぎを起こして主司を動かすことを好んだ。主司は毎回放榜の際、棘で囲い、省門を閉ざし、人の出入りを絶つことを常としていた。凝は棘を取り払い門を開け放ったが、士人たちは皆粛然として喧嘩せず、取った者は皆当代の秀才であり、人を得たと称された。
晋の初め、端明殿学士に任ぜられ、度支を兼ねて判じ、翰林学士承旨となった。高祖はしばしば彼を召し、時事について問うたが、凝の答えるところは皆意に適った。天福五年、中書侍郎、同中書門下平章事に任ぜられた。
高祖が鄴に行幸しようとした時、襄州の安従進の反逆の兆しが既に現れていた。凝は言った。「陛下が鄴に行幸されれば、従進は必ずこの時に反逆するでしょう。その時はどうなさいますか」。高祖は言った。「卿はどう対処しようというのか」。凝は言った。「先んずる者は、人を制する所以です。宣敕を十余通作り、鄭王に授け、急があれば将を命じてこれを討たせてください」。高祖はその通りだと思った。当時、鄭王は開封尹で、行幸に従わず留まっていたので、宣敕を授けた。高祖が鄴に到着すると、従進は果たして反逆し、鄭王は直ちに宣敕をもって騎将の李建崇、焦継勲らに命じてこれを討たせた。従進は高祖がちょうど鄴に行幸中と思い、晋の兵の速さを予期せず、花山に至って李建崇らの兵と遭遇し、神のごとしと思い、遂に敗走した。出帝が即位すると、右僕射を加えられ、一年余りして平章事を罷め、左僕射に遷った。
趙瑩
趙瑩、字は玄輝、華州華陰の人である。人となり純朴で厚く、風采が美しかった。梁の将康延孝に仕えて従事となった。晋の高祖が保義軍節度使であった時、瑩を書記に任じて以来、鎮を移すごとに常に瑩を従えた。
高祖が太原で挙兵しようとした時、諸将吏に問うた。将吏の中には賛成する者もあったが、瑩だけは恐れの色を顔に表し、高祖に反逆しないよう勧めた。高祖はその言を用いなかったが、心に甚だ彼を愛した。高祖が即位すると、翰林学士承旨、戸部侍郎、同中書門下平章事に任ぜられた。累進して中書令となった。出て晋昌軍節度使、開封尹となった。当時、出帝は幼く愚昧で、馮玉、李彦韜らが権力を握り、桑維翰と権力を争い、共に讒言して彼を去らせ、瑩が柔和で制しやすいと考え、再び引いて宰相とした。
契丹が晋を滅ぼすと、瑩は出帝に従って北に移され虜中に至り、瑩は兀欲に仕えて太子太保となった。周の太祖の時、契丹と通好し、尚書左丞田敏を使者として契丹に遣わした。田敏は幽州で瑩に会い、瑩は田敏を見て悲しみに耐えられなかった。瑩の子に易則、易従がいた。北に移された時、易従と共に行き、易則は漢に仕えて留まり、官は刑部郎中に至った。後に瑩が病で危篤に陥り、契丹に告げて、願わくば尸を中国に還すことを願い、契丹はこれを許した。卒去すると、易従を遣わしてその喪を護り南帰させた。太祖はこれを哀れみ、瑩に太傅を追贈し、華陰に葬った。
馮玉
馮玉は字を璟臣といい、定州の人である。若くして進士に挙げられたが及第せず。馮贇が河東節度使となったとき、推官として召し出された。朝廷に入り監察御史に任ぜられ、累進して礼部郎中となり、塩鉄判官となった。晋の出帝が馮玉の姉を后に納れると、馮玉は后の外戚として知制誥を掌り、中書舎人に任ぜられた。馮玉は学問を知らず、殷鵬とともに舎人となったが、制誥は常に殷鵬に代作させた。ほどなく、馮玉は潁州団練使として出向し、端明殿学士・戸部侍郎に任ぜられ、枢密使・中書侍郎・同中書門下平章事に遷った。
この時、出帝は幼く愚昧で、馮皇后が政事を専断し、軍国の大事はすべて馮玉が決裁した。馮玉がかつて病気で休暇をとったとき、刺史以上の官職について、宰相は任命を敢えて行わず、馮玉の決裁を待った。馮玉が中書舎人盧價を工部侍郎に任命しようとしたとき、桑維翰は盧價の資歴声望が浅いとして不可とした。これにより馮玉は維翰と不和となり、維翰はこれによって宰相を罷免された。
盧質
盧質は字を子徴といい、河南の人である。父の盧望は、唐の司勲郎中であった。質は幼くして聡明で、文章をよくした。唐に仕えて秘書郎となり、母の喪に服し職を解かれた。後に太原に遊び、晋王(李克用)が彼を河東節度掌書記とした。
秦王李従栄が謀反の罪に坐して誅殺されると、質は右僕射として河南府事を権知した。廃帝(李従珂)が鳳翔で反旗を翻すと、愍帝(李従厚)は兵を発してこれを討とうとし、府庫を尽くして厚く賞を与えたが、兵は鳳翔に至ると皆叛いて降った。廃帝はすべての兵を率いて東進し、事が成れば重賞を約束したが、軍士は皆期待を超えたものを望んだ。廃帝が入って立つと、有司が献上した簿籍の数が甚だ少なく、廃帝は激怒した。諸鎮から刺史に至るまで、皆銭帛を進めて国用を助けたが、なお不足し、三司使王玫は民財を率いて用を助けることを請うた。そこで質と王玫らに命じてともに配率を議させたが、貧富が均しからず、怨みと訴訟が並び起こり、囚人が獄に満ちた。六七日の間に、得たもの十万に満たなかった。廃帝はこれを憂い、質らに命じて民の屋税を五月分前借りさせた。これにより民は大いに怨嗟した。
晋の高祖(石敬瑭)が入って立つと、質は病気のため西京で分司し、太子太保に任ぜられた。卒す。享年七十六。太子太師を贈られ、謚を文忠といった。
呂琦
呂琦は字を輝山といい、幽州安次県の人である。父の呂兗は、横海軍節度判官であった。節度使劉守文がその弟の劉守光と兵を交えて攻め合い、守文は敗れて死に、その吏民はその子の劉延祚を立ててこれに仕え、呂兗を謀主とした。やがて延祚もまた守光に敗れ、呂兗は殺された。守光は呂兗を怒り、その一族を皆殺しにした。呂琦は十五歳のとき捕らえられ、刑に処せられようとしたが、呂兗の旧客の趙玉が監視者を欺いて言うには、「これは私の弟である」と。監視者はこれを信じ、呂琦を逃がした。趙玉と呂琦はともに逃げ去り、呂琦は足が弱く歩けなかったので、趙玉が背負って行き、数百里を越え、姓名を変え、道で食を乞い、難を免れた。
呂琦は人となり風采が美しく、節概を重んじた。若くして家を喪い、汾・晋の間を遊学した。唐の荘宗が太原を鎮守したとき、代州軍事推官とした。後に横海の趙徳鈞の節度推官となり、朝廷に入って殿中侍御史となった。
明宗のとき、駕部員外郎となり、侍御史知雑事を兼ねた。河陽の主蔵吏が監守する物を盗み、軍巡獄に下されたが、獄吏の尹訓が賄賂を納めてその獄を覆した。その冤家が朝廷に訴え、御史台に下して按検させると、尹訓の贓状を得たので、奏上して尹訓を召し出して御史台に赴かせようとした。尹訓は安重誨に庇護され、引き渡されなかったが、呂琦が請うてやまなかったので、尹訓は恐れて自殺し、獄はようやく明らかとなり、生き延びた者は甚だ多かった。一年余りして、礼部郎中・史館修撰に遷った。
長興年間、廢帝が河中を失守し、罷めて清化坊に居住し、呂琦と同巷にあり、琦は数え往きて之を過ぐ。後に廢帝が入りて立つと、琦を待つこと甚だ厚く、知制誥・給事中・樞密院直學士・端明殿學士に拝す。是の時、晉高祖が河東を鎮め、二心あり、廢帝之を患う。琦は李崧と俱に顧問に備わり、裨畫する所多し。琦言う、「太原の患は、必ず契丹を引きて助けと為さん。事に先んじて之を制するに如かず」と。明宗の時、王都が定州に反し、契丹は禿餒・萴剌等を遣わして都を助け、而して趙德鈞・王晏球に敗られ、禿餒は見殺され、萴剌等は皆京師に送らる。其の後契丹は数え使者を遣わして萴剌等を求め、其の辞甚だ卑恭なり。明宗は輒ち其の使者を斬りて報ぜず。而して東丹王又中国に亡入す。契丹是れより数え和を求めんと欲す。琦因りて言う、「方今の勢は、契丹と通和するに如かず。漢の故事の如く、歳に金帛を給し、女を以て之に妻し、彊藩大鎮をして外を顧みて引援する所無からしめば、其の乱心を弭ぐべし」と。崧、琦の語を以て三司使張延朗に語る。延朗欣然として曰く、「苟くも国患を紓ぐ能わば、歳に県官十数万緡を費やすと雖も、吾に責めて取足る可し」と。因りて共に此の事を建つ。廢帝大いに喜び、佗日に琦等の語を以て樞密直學士薛文遇に問う。文遇大いに以て非と為し、因りて戎昱の「社稷は明主に依り、安危は婦人に託す」の詩を誦し、以て琦等を誚る。廢帝大いに怒り、急ぎ崧・琦等を召して和戎の計如何と問う。琦等帝の色怒るを察し、亟に曰く、「臣等国を計る為なり。契丹と中国に利を求むるに非ざるなり」と。帝即ち怒りを発して曰く、「卿等朕を佐けて太平を致さんと欲して而して是くの如きか。朕が一女尚幼く、之を夷狄に棄てんと欲す。金帛は以て士を養い国を扞ぐ所以なり。又虜に輸じて資す可きか」と。崧等惶恐して拝謝し、拝すること数え無し。琦は足力乏しくして拝する能わずして先に止む。帝曰く、「呂琦強項にして、肯て人主を以て我を視るか」と。琦曰く、「臣素より病みて羸る。拝多くして乏し。容れ臣をして少しく息わしめよ」と。頃くして喘定まり、奏して曰く、「陛下臣等の言を非と為さば、之を罪す可し。拝すと雖も何の益かあらん」と。帝の意稍く解け、曰く、「拝す勿れ」と。酒一巵を賜いて之を遣わす。其の議遂に寝す。因りて琦を遷して御史中丞と為し、数ヶ月居りて、復た端明殿學士と為す。其の後晉高祖太原より起ち、果たして契丹を引きて助けと為し、遂に以て唐を亡ぼす。
琦は晉に事えて祕書監と為り、累遷して兵部侍郎に至る。天福八年卒す。
趙玉は仕えて職方員外郎に至る。琦は之に事うること父の如し。玉疾有れば、親しく薬を嘗め扶侍し、及び卒せしに当たり、其の家の為に喪葬を主辦す。玉の子文度幼くして孤なり。琦は学を以て之を教うること己が子の如し。後に挙げて進士及び第すと云う。
琦に子餘慶・端有り。
薛融
薛融は、汾州平遙の人なり。少くして儒学を以て知名なり。唐明宗の時、右補闕・直弘文館と為る。晉高祖太原を鎮むるに、融は觀察判官と為る。高祖鄆に徙る。太原に拠りて命に拒がんと欲し、賓佐を延見し、可否を以て問う。而坐中或いは之を賛成し、或いは恐懼して敢えて言わず。融独り従容として対えて曰く、「融本儒生爾。軍旅の事は、未だ嘗て学ばず。進退存亡の理は、豈に易く言わんや」と。高祖之を責めず。
高祖入りて立つと、吏部郎中を拝し、兼ねて侍御史知雜事と為る。累拝して左諫議大夫、遷りて中書舍人と為る。融曰く、「文辞は臣の長ずる所に非ず」と。遂に辞して拝せず。時に詔して洛陽大内を修めしむ。融上疏して切に諫む。高祖其の言を褒納し、即ち詔して其の役を罷む。遷りて御史中丞、改めて尚書右丞、西京に分司す。卒す。年六十。
何澤
何澤は、広州の人なり。父鼎は、唐末に容管經略使と為る。澤は少くして学を好み、歌詩に長ず。進士に挙げられ、洛陽令と為る。唐莊宗は畋獵を好み、数え民田を践む。澤乃ち潜み身を草間に伏して莊宗を伺い、馬に当たりて諫めて曰く、「陛下未だ天下を一にして兵を休めずして、而して暴に疲民を斂めて以て軍食を給す。今田将に熟せんとす。奈何ぞ恣に畋游して以て多稼を害せん。民をして何を以て租賦を出さしめ、吏をして何を以て民耕を督めしめん。陛下臣が言を聴かずば、願わくは臣をして馬前に死を賜い、後世をして陛下の過ちを知らしめよ」と。莊宗大笑い、為に獵を止む。倉部郎中を拝す。
明宗の時、数え上書して事を言う。明宗汴州に幸す。又た鄴に幸せんと欲す。而して人情便ならず。大臣屡りて言うも聴かず。澤は閤に伏して切に諫む。明宗之を嘉し、吏部郎中・史館脩撰を拝す。澤は外は直言するも、内は実に邪佞なり。嘗て内殿に起居し、班退きて、独り留まり、笏を以て顙を叩き、北を望みて呼びて曰く、「明主、明主」と。聞く者皆之を哂う。
五代の際、民は兵に苦しみ、往々因りて親の疾を以て股を割き、或いは既に喪して乳を割き墓に廬し、以て州県の賦役を免れんと規る。戸部は歳に蠲符を給す。勝え数う可からず。而して課して州県に紙を出さしめ、「蠲紙」と号す。澤上書して其の敝を言う。明宗詔を下して悉く戸部の蠲紙を廃す。
澤は宰相趙鳳と旧有り。数え私に鳳に于り、給諫を求めんとす。鳳其の人為りを薄しと為し、太常少卿と為すことを以てす。勅未だ出でざるに澤先ず之を知り、即ち新官を称して上章し自ら訴う。章中書に下る。鳳等言う、「澤未だ命を拝せずして新官を称す。朝廷を軽侮す。請う法を以て坐せん」と。乃ち太僕少卿を以て致仕せしめ、河陽に居于る。澤時年已に七十、尚仕進を希う。即ち婢宜子を遣わし匭に詣でて上章し事を言い、請う秦王を立てて皇太子と為さんと。秦王は素より驕り多く不軌なり。遂に其の禍を成す。澤より而して始まる。
晉高祖入りて立つと、召して太常少卿と為し、疾を以て家に卒す。
王權
王權は字を秀山と云い、太原の人なり。唐の左僕射王起の曾孫なり。父蕘は、官右司郎中に至る。權は進士に挙げられ、右補闕と為る。唐亡び、梁に事えて職方員外郎・知制誥・翰林學士と為り、累遷して御史中丞に至る。唐莊宗梁を滅ぼし、權を貶して隨州司馬と為す。起きて右庶子と為り、累遷して戸部尚書に至る。晉高祖の時、兵部尚書と為る。是の時、高祖は父の事を以て契丹に事う。權当に使を奉ずべし。歎いて曰く、「我れ不才と雖も、安んぞ穹廬に稽顙せんや」と。因りて辞して行かず。是に坐して任を停む。踰年して太子少傅を以て致仕す。卒す。年七十八。左僕射を贈らる。
史圭
史圭は常山石邑の人である。人となりは明敏で学問を好んだ。寧晋・楽寿県令となり、善政を施し、県民は碑を立ててこれを称えた。郭崇韜が成徳を鎮守したとき、従事に辟召した。明宗のとき、尚書郎となった。安重誨が枢密使となると、史圭を直学士に推薦した。故事によれば、直学士の職は清要ではあるが、文書を承領し庶務を参掌することは、判官と異ならなかった。重誨はもともと書に通じず、史圭を頼りとして顧問に備え、初めて史圭の昇殿侍立を許すよう奏請した。枢密直学士が昇殿するのは史圭から始まった。尚書右丞に改め、吏部銓事を判じた。重誨が敗死すると、史圭は貝州刺史として出された。罷免されて常山に帰り、人事を閉絶し、出入りするときは閭里で輜軿車に乗った。
晋の高祖が立つと、召されて刑部侍郎・塩鉄副使に拝され、吏部侍郎に遷り、銓事を分知し、能ある名声があった。病により罷免され、常山で卒した。
龍敏
龍敏、字は欲訥、幽州永清の人である。若くして州に仕え、参軍を摂った。劉守光の乱に際し、敏は滄州に避難し、ついに梁に客寓し、長く調任されなかった。敏はもとより馮道と親善であり、道が唐の荘宗の従事となったので、ひそかに赴きこれに依った。監軍張承業が馮道に言うには、「聞くところでは、君に客があるという。ともに来るがよい」と。道は敏を承業に引見し、承業は敏を監軍巡官に辟召し、奏記を掌らせた。荘宗が即位すると、召されて司門員外郎に拝された。
敏の父咸式は七十余歳、その祖父は九十余歳で、ともに鄴におり、敏は興唐尹を求めて仕え、祖父・父に仕えて孝行で知られた。母の憂に服し、職を去った。趙在礼が反乱すると、敏を逼って起ち視事させた。明宗が即位し、在礼が滄州を鎮守すると、敏はようやく再び喪に居ることができた。喪服を除くと、累遷して兵部侍郎に拝された。
馮贇が北京留守となると、敏を副留守に辟召した。贇が入朝して枢密使となると、敏は吏部侍郎に拝された。このとき、晋の高祖が太原で挙兵し、契丹に兵を乞うた。唐の廃帝は懐州におり、趙徳鈞父子に異志があり、張敬達は晋安に屯し、情勢は甚だ危急であった。廃帝が従臣に計を問うと、敏は言った、「晋の恃むところは契丹である。東丹王は国を失った君、今京師におり、もし兵をもって東丹王を護送し幽州から西楼に入らせれば、契丹は内顧の憂いを抱き、どうして晋を助ける暇があろうか。晋が契丹を失えば、大事は去ったも同然である」と。また李懿に言った、「敏は燕の者ゆえ、徳鈞を知ることができる。徳鈞が将として、城を守り塹を嬰うのは、健児を篤く励ますだけのこと。彼に大敵を当たらせ、奮戦して身を顧みないことは、その能うところではない。ましてや異志があるときはなおさらである。今、聞くところでは、駕前の馬がなお五千騎あるという。願わくは壮健な馬千匹、健兵千人を得て、勇将郎万金とともに、平遙より山に沿って虜中を冒し官砦に急行し、戦いながら進み、その半ばが到達すれば、事は成るであろう」と。懿がこれを廃帝に言上したが、廃帝は用いることができなかった。しかし人々は皆、その大言を壮とした。