新五代史

巻四十八

目次

盧文進

盧文進は字を大用といい、范陽の人である。劉守光の騎将となった。唐の荘宗が范陽を攻めたとき、文進は先に降伏した功により寿州刺史に任ぜられ、荘宗は彼を弟の存矩に属させた。存矩は新州団練使となり、山後八軍を統率した。荘宗が劉鄩と莘で対峙すると、存矩を召して兵を合わせて劉鄩を撃たせた。存矩は山後の精兵数千人を募り、民に馬を出すよう課した。民は牛十頭で馬一頭と交換せねばならず、山後の人々は皆怨み、兵もまた南行を好まず、祁溝関に至ったとき、集まって乱を謀った。文進には幼くて美しい娘がおり、存矩は彼女を側室に求め、文進は彼が大将であるため拒めず、与えたものの、心には常に恨みを抱き、乱軍と共に存矩を殺して反した。新州を攻めたが落とせず、武州を攻めたがまた落とせず、遂に契丹に奔った。契丹は彼に平州を守らせた。

明宗が即位すると、文進は平州から数万の衆を率いて唐に帰順した。明宗は彼を得て大いに喜び、義成軍節度使とした。一年余り在鎮した後、威勝に移鎮し、同平章事を加えられ、入朝して上將軍となり、出鎮して昭義を守り、安遠に移った。

晉の高祖こうそが立ち、契丹と父子の約を結ぶと、文進は自ら安らかでないことを恐れた。天福元年の冬、その行軍司馬馮知兆、副使杜重貴を殺し、李昪に内通した。李昪は兵を遣わして彼を迎えさせた。文進は数鎮を歴任し、頗る善政があり、兵民に愛された。彼が去ろうとするとき、数騎を従え、自ら営中に至って将士に別れを告げ、契丹を避ける意を告げると、将士は皆再拝して訣別し、乃ち南奔した。李昪は文進を天雄統軍、宣潤節度使とした。

文進は身長七尺、状貌偉然としていた。彼が契丹に奔って以来、しばしば契丹を引きいて幽・薊の間を攻め掠め、その人民を虜にし、契丹に中国の織紝工作の術を教えて備えざるものなく、契丹はこれによって益々強くなった。同光年間、契丹はしばしば奚の騎兵を以て塞上を出入りし、燕・趙を攻め掠め、人々に安寧の歳は無かった。唐の兵は涿州に屯し、歳時の饋運は、瓦橋関から幽州に至るまで、厳兵斥候を置いたが、常に鈔奪に苦しみ、唐の患となったこと十余年、皆文進が為したところである。彼が南奔してからは、初めて身を屈し跡を晦まし、努めて恭謹を務め、文士を礼遇して接し、謙謙として足らざるが如く、その談論する所は、近代の朝廷儀制、臺閣故事のみであり、未だ兵を言わなかった。後に左えい上將軍として金陵で卒した。

李金全

李金全、その先祖は吐谷渾に出づ。金全は若くして唐の明宗に廝養され、ぎょう勇にして騎射に善くし、常に明宗に従って戦伐し、功により刺史となった。天成年間、彰義軍節度使となり、在鎮中は貪暴を務めた。罷められて帰朝し、馬数十匹を献上した。数日居て、また献上しようとした。明宗は彼に言った、「卿は馬が多いのを患えるか、何ぞ献上の数かくの如きや。且つ卿の涇州における治状は如何、馬を以て事とすること無からんや」。金全は慚じて答えることができなかった。横海に移鎮した。久しくして、罷められて右衞上將軍となった。

晉の高祖の時、安州屯防指揮使王暉が節度使周瓌を殺した。高祖は金全に騎兵千人を将いて往かせ、詔書を下して王暉を招き、「暉降らば、以て唐州刺史と為す」と言った。また信箭を以て安州に諭し、一人も戮さず、且つ金全に戒めて曰く、「吾が信を失うこと無かれ」。金全未だ至らざるうち、襄州の安従進は王暉必ず江南に走らんと意し、精兵を以てその要路を遮った。王暉は金全の来るを聞き、果たして南走し、従進の兵に殺された。金全後れて至り、王暉の余党数百人を得て、皆京師に送った。

王暉の乱、城中を大いに掠めて三日に及んだ。金全はその掠めた資に利あり、因ってその将武克和等十余人を擒えて殺した。克和は呼んで曰く、「王暉首乱するも、猶ほ信誓を賜い、以て刺史と為す。我等何の罪か、反って殺されんや。若し朝廷の命ならば、何を以て信を示さん。苟くも将軍詔に違いて降を殺さば、亦将ち免れざらん」。高祖は詰問することができなかった。即ち金全を安遠軍節度使とした。

金全の左都押衙明漢栄が権を握り、為す所不法であった。高祖はこれを患え、漢栄の故に功臣を累わすを欲せず、廉吏賈仁沼を選んで彼に代え、且つ漢栄を召そうとした。漢栄は金全に教えて己を留めて遣わさず、金全の客龐令図は諫めて曰く、「仁沼昔王晏球に事えしとき、晏球が中山において王都を攻めしに、都は善射の者を遣わして城に登り晏球を射て、兜牟に中つ。仁沼後より弓を引き、善射の者を射て、一発にして斃す。晏球その人を求め、厚く賞せんと欲すれど、仁沼退きて言わず。これ天下の忠臣なり。都敗れて、晏球仁沼を遣わして京師に捷を献ぜしむ。凡そ賜与する所甚だ厚きも、悉く以て故人、親戚の貧しき者に分つ。これ天下の廉士なり。人として此の如くんば、豈に人の為に謀りて善からざらんや。宜しく仁沼を納れて漢栄を遣うべし」。漢栄これを聞き、夜人を遣わして令図を殺し、仁沼に毒を飲ませた。仁沼は舌が腐って死んだ。

天福五年の夏、高祖は馬全節を以て金全に代えようとした。而して仁沼の二子、京師に詣でてその父の冤を訴えんと欲す。漢栄大いに懼れ、金全を欺いて曰く、「前日天子漢栄を召すに、公詔に違いて遣わさず。仁沼の死、その二子将に朝に訴えんとす。今全節を以て公に代うるは、是れ公を召して獄に対せしむるなり」。金全これを信じ、遂に叛き、李昪に内通した。高祖は兵三万を発して全節に授け、これを討たせた。李昪はその将李承裕を遣わして安州に入らせ、金全は遂に南奔した。行くこと㲼川に至り、頸を引きて北を望み、涕泣して去った。李昪は金全を天威統軍とした。

漢の隠帝の時、李守貞が河中で反し、李昪に兵を乞うた。金全は李昪の潤州節度使として、查文徽等と共に出でて 陽に至った。李昪の諸将は皆攻取に鋭かったが、金全独り遠くして相及ばず、行くべからずと謂い、乃ち止めた。その後もまた用いられず、その終わりを知らない。

楊思権

楊思権は、邠州新平の人である。梁に仕えて控鶴右第一軍使となった。唐の荘宗が梁を滅ぼすと、夾馬都指揮使に任じられた。

明宗の時、秦王従栄が河東節度使となり、馮贇を副使とし、思権を北京歩軍都指揮使としてこれを補佐させた。従栄は平素より驕慢で、その行い多く法に背いた。この時、宋王従厚が河南尹であった。従厚は年少ながら、謙虚で礼を好んだ。明宗は密かに人を遣わし、従厚の善行をさりげなく語らせ、それをもって従栄を諫め励まそうとした。従栄は喜ばず、思権に告げて言うには、「天下はこぞって河南(従厚)を賢しとし、我を非とする。我は廃されようとしている。どうしたものか」と。思権は言った、「公には甲士があり、また思権がおります。何を憂えましょうか」と。そこで従栄に死士を募り、兵器を増強して備えとするよう勧めた。馮贇はこれを憂い、その事を上聞した。明宗は思権を召し還して京師に帰らせたが、従栄のためでもあり、彼を責めることもなかった。後に右羽林都指揮使となり、兵を率いて興元を守った。

潞王従珂が鳳翔で反逆すると、興元の張虔釗が諸鎮の兵を集めて賊を討った。諸鎮の兵は鳳翔を包囲し、思権は城西を攻め、厳衛指揮使尹暉は城東を攻めて、その両関城を破った。従珂は城に登り外の兵を呼び、己が反逆者ではないことを告げた。その言葉は甚だ哀切で、外兵でこれを聞く者は皆悲しんだ。しかし虔釗は督戦甚だ急であり、軍士は逆に兵を返して虔釗を追い払った。思権はそこでその衆に呼びかけて言うには、「潞王こそ真に我が主なり」と。即ち軍士を擁して城に入り降伏した。暉は思権が既に降ったと聞き、またその軍に麾して甲を解かせた。これによって諸鎮の兵は皆潰走した。思権と暉は入って従珂に謁見し、思権は進み出て言った、「臣は赤心をもって殿下に奉仕します。殿下が事を成し遂げられましたならば、どうか防禦使や團練使ではなさらずに臣を処遇されますよう」と。そこで懐中から一枚の紙を取り出して言うには、「どうか臣の姓名を記して証とされますよう」と。従珂は即座に書して言うには、「邠寧節度使に任ずべし」と。

廃帝(従珂)が即位すると、思権を静難軍節度使に任じた。後に右龍武統軍、左衛上將軍となった。天福八年、京師で卒去し、太傅を追贈された。

尹暉

尹暉は、魏州大名の人である。廃帝に従って洛陽らくように入ったが、晋の高祖(石敬瑭)が来朝し、暉は道中で彼と出会った。暉は当時なお厳衛指揮使であったが、先に降伏した功を恃み、高祖に屈せず、馬上で鞭を横たえて揖した。高祖は怒り、廃帝に暉を名藩に任じてはならないと上言した。そこで応州節度使に任じられた。晋の高祖が即位すると、罷免されて右衛大將軍となった。范延光が反逆し、書を送って暉を招いた。暉は恐れ、出奔して淮南に至り、人に殺された。子に勳があった。

王弘贄

王弘贄は、その家系がどのようなものであるかは知られていない。唐の明宗の時、合・階二州刺史、右千牛衛將軍、衛州刺史となった。

潞王従珂が鳳翔で反逆し、兵を擁して東へ進み陝に至った。愍帝は恐れ、夜に百余騎を率いて出奔し、衛州の東七八里に至ったところで、晋の高祖が京師に朝するために進んで来るのに遇った。先導の騶卒が道を譲らないので、愍帝は左右の者を遣わして叱らせた。答えて言うには、「成徳軍節度使石敬瑭でございます」と。愍帝は即座に馬から下り慟哭し、敬瑭に言うには、「潞王が反逆し、康義誠らは皆我を叛きました。私は頼るところがなく、長公主が道であなたを迎えるよう教えてくれました」と。高祖は言った、「衛州刺史王弘贄は宿将であり、かつ時事に通じております。どうか彼のもとに行き、図りましょう」と。即ち騎を馳せて先に行き弘贄に会い言うには、「主上は危急に迫っておられます。私は戚属です。どうすれば全うできるでしょうか」と。弘贄は言った、「天子が狄を避けることは、古よりありました。しかし将相大臣は従っているか」と。答えて言うには、「いません」と。「国宝、乗輿、法物は従っているか」と。答えて言うには、「ありません」と。弘贄は歎息して言った、「いわゆる大木将に顛んんとするは、一縄の維ぐる所に非ず、というものです。今、万乗の主が百余騎を率いて出奔され、将相大臣一人として従う者がいない。それでは人心の去就は知れましょう。たとえ興復を図ろうとも、どうしてできましょうか」と。即ち高祖に従って駅舎で愍帝に謁見した。高祖は暫く弘贄の言葉を愍帝に伝えた。弓箭庫使沙守栄と奔弘進が進み出て高祖に言うには、「主上は明宗の愛子、公は愛婿です。公はこの時にあって国に報いることができず、かえって大臣や国宝の所在を問うとは、公もまた賊を助けて反逆するのか」と。そこで佩刀を抜いて高祖を刺した。高祖の親将陳暉がこれを防ぎ、守栄は暉と戦って死に、弘進もまた自刎した。高祖はそこで帝の従兵をことごとく殺し、帝だけを駅舎に残して去った。

弘贄は帝を奉じて州の官舎に住まわせた。弘贄に子の巒があり、殿直であった。廃帝が即位すると、巒を遣わして鴆毒を弘贄に持たせた。初め、愍帝が衛州にいた時、弘贄は市中の酒家に命じて酒を献上させた。愍帝はこれを見て大いに驚き、たちまち地に倒れ、久しくして蘇った。弘贄は言った、「これは酒家でございます。酒を献じて物寂しさを慰めたいと願っております」と。愍帝はこれを受け、これによって毎日一觴を献上させた。巒が鴆毒を持って来た時、酒家を使わせてこれを献上させた。愍帝は疑うことなく飲み、遂に崩じた。

弘贄は後に晋に仕えて鳳翔行軍司馬となり、光禄卿の官で致仕し、卒去して太傅を追贈された。

劉審交

劉審交、字は求益、幽州文安の人である。若い頃少し書物を知り、吏事に通じ、唐興県令となり、范陽牙校に補された。劉守光が僭号すると、審交を兵部尚書とした。守光が敗れると、太原に帰順し、唐の荘宗は彼を従事とした。その後、趙徳鈞が范陽を鎮守し、北面転運使馬紹宏が審交を判官に辟召した。

王晏球が王都を討った時、審交を転運供軍使とした。定州が平定されると、遼州刺史に任じられた。再び北面転運使となり、慈州刺史に改められたが、母が老齢のため官を去った。母の喪に服し、哀毀礼を過ぎ、累年官に就かなかった。

晉の高祖が即位すると、楊光遠が魏州において范延光を討ち、審交は再び供軍使となった。この時、晉の高祖は戸部・度支・塩鉄を三使に分けたが、一年余りで三司はますます煩雑で弊害が多くなったため、再び一つに合併し、審交を三司使に任じた。議者が天下の民田を検察し、租税を増やすべきであると請うたが、審交は言った、「租税には定額があり、天下には近年閑田はない。民の苦楽は同等ではない」と。そこで検察を止め、民はこれによって擾乱されずに済んだ。右衞上將軍・陳州防禦使に遷った。民田を視察に出て、民の耕具が粗末で劣っているのを見ると、河北の耕具を手本として取り、民のために改めて鋳造させた。安従進が平定されると、審交は襄州に移り、さらに青州に移ったが、いずれも善政を施した。罷免されて帰還した。

契丹が京師を侵犯し、蕭翰を留めて去ると、翰は再び審交を三司使とした。やがて翰は許王従益を召して京師を守らせた。漢の高祖が太原で挙兵すると、従益は高行周を召して高祖を拒がせようとしたが、行周は来なかった。従益の母である王淑妃が群臣と謀って高祖を迎えようとしたが、ある者は燕兵が京師にまだ数千いるので、城を守って行周を待つべきだと説いた。淑妃は従わず、議論は決しなかった。審交が進み出て言った、「私は燕人である。今燕のために城を守るならば、燕のために謀るべきだが、事勢は為すべからざるものがある。太妃の言葉は正しい」と。従益はそこで防備を設けるのを止め、人を西に遣わして高祖を迎えさせた。高祖が到着すると、審交を罷免して用いなかった。

隱帝の時、汝州防禦使となり、能吏として名があった。乾祐三年に卒去、七十四歳。州人は柩の前に集まって泣き、上疏して近郊に留めて葬り、民が歳時に祠祭を行えるようにと乞うた。詔により特に太尉を追贈し、祠を建て碑を立てた。

王周

王周は魏州の人である。若くして勇力をもって軍に従い、唐の荘宗・明宗に仕え、裨校となり、力戦して功があり刺史に任じられた。

晉の天福年間、楊光遠に従って魏州において范延光を討ち、また杜重威に従って鎮州において安重栄を討ち、いずれも功があった。貝州・涇州の節度使を歴任した。涇州では張彦沢が苛酷な政治を行い、民は多く流亡したので、周は改めて寛恕を旨とし、民の疾苦を問い、苛酷な弊害二十余事を除いたので、民は皆再び帰ってきた。武勝・保義・義武・成徳の四鎮を歴任し、いずれも善政を施した。定州で橋が壊れ、民の租税を運ぶ車が転覆した。周は言った、「橋梁を修めないのは刺史の過ちである」と。そこで民に粟を償い、その橋を修治させた。

杜重威が契丹に降ると、契丹兵が鎮州を通り過ぎ、城に臨んで周を呼び出して降伏を促した。周は泣いて言った、「晉の厚恩を受けながら、死戦せずに城を以て降るなど、何の面目あって南行し人主と士大夫に会えようか」と。そこで大いに飲み、刀を求めて自決しようとしたが、家人に止められ、迫られて出降した。契丹は周を武勝軍節度使とした。

漢の高祖が入って立つと、武寧に移鎮した。鎮において卒去し、中書令を追贈された。

高行周(行珪を附す)

高行周は字を尚質といい、媯州の人である。代々懐戎の戍将であった。父は思継。思継兄弟はいずれも武勇に優れ北辺に雄をなした。幽州節度使李匡威の戍将となった。匡威がその弟匡儔にさんさんだつされると、晉王(李克用)はその乱を討とうと謀り、言った、「高思継兄弟は孔領関にあり、兵三千を有する。これは後患である。人を遣わして招くに如かず。思継が我に用いられれば、事成らざるはない」と。克用は人を遣わして思継兄弟を招いた。燕の俗は気義を重んじ、思継らは晉兵が匡威の仇を討つと聞き、欣然としてこれに従い、晉兵の前鋒となった。匡儔は思継兄弟が皆叛いたと聞き、城を棄てて逃げた。克用は劉仁恭に幽州を守らせ、その兄某を先鋒都指揮使とし、思継を中軍都指揮使とし、弟某を後軍都指揮使とし、高氏兄弟に燕兵を分掌させた。克用は別れに臨んで仁恭に言った、「思継兄弟は勢い一方を傾ける。燕の患いとなる者は必ず高氏である。宜しく善く防ぐべし」と。克用は晉兵千人を留めて仁恭の護衛とした。しかし晉兵は多く法を犯し、思継らはしばしばこれを誅殺した。克用は仁恭を責め、仁恭は高氏のことを訴えた。これにより晉は思継兄弟をことごとく誅殺した。

仁恭はその兄某の子行珪を牙将とし、また思継の子行周は十余歳であったが、これも帳下に収め、やや成長すると軍職に補した。仁恭が囚われ、守光が立つと、行珪を武州刺史とした。その後、守光が晉に背くと、晉兵がこれを攻めた。守光の将元行欽は山後で馬を牧していたが、守光が包囲されようとしていると聞き、すぐに牧馬を率いて救援に赴こうとした。しかし麾下の兵が途中で叛き、行欽を推して幽州留後とした。行欽は言った、「私の畏れる者は行珪である」と。そこで人を懐戎に遣わし、行珪の子を捕らえて縛った。兵が武州を通り過ぎるとき、行珪を招いて言った、「守光は取って代わることができる。我が行いに従うべきである。そうでなければ、公子を殺す」と。行珪は謝して言った、「君と共に劉公の将であるのに、どうして叛くことを忍びえようか。私は劉氏のためにある。どうしてわが子を顧みようか」と。行欽はすぐに兵をもって行珪を包囲した。一月余りして、行珪の城中の食糧が尽きた。そこで州人を召し集めて告げた、「私は父老のために守らないのではない。今劉公の救兵が至らない。どうしたものか。私を殺して晉に降るがよい」と。父老は皆泣き、死を以て守ることを願った。この時、行周はちょうど行珪に従って武州におり、すぐに夜間に縋り出して行周を馳せ入らせ晉の荘宗に会わせた。荘宗はそこで明宗を遣わして武州を救わせた。到着する頃には、行欽はすでに解いて去っており、行珪は晉に降った。荘宗の時、朔・忻・嵐の三州刺史・大同軍節度使を歴任した。明宗が入って立つと、威勝・安遠に移鎮した。

行珪は性貪婪で卑劣であり、なすところ多く法に背いた。副使范延策は人となり剛直で、しばしばこれを諫めたが、行珪は聞き入れず、恨みに思った。やがて戍兵に謀叛を企てる者があった。行珪は先んじてこれを察知し、密かに庫の兵器を他所に移した。戍兵が叛き、庫に急いで兵器を奪おうとしたが得るものなく、潰走した。行珪は追ってこれを殺した。そこで延策が共に反したと誣奏し、その子もろともに誅殺された。天下の人はこれを冤とした。行珪は鎮において卒去し、太尉を追贈された。

行珪が晉に降った時、行周は明宗の帳下に隷属し、初め裨将となった。趙徳鈞はこれを見識し、明宗に言った、「この子は容貌が厚くて小心である。他日必ず大貴するであろう。宜しく善く遇すべきである」と。梁・晉が河上で軍を対峙させた時、荘宗は明宗を遣わし東に鄆州を襲わせた。行周は前軍を率い、夜に雨に遇った。軍中は皆進むのを止めようとしたが、行周は言った、「これは天が我を助けるものである。鄆人は雨を恃んで、我が来るを備えていない。その不意を衝くべきである」と。すぐに夜間に馳せて済水を渡り、その城に入った。鄆人がようやく気づき、これを取った。荘宗が梁を滅ぼすと、功により端州刺史を領し、絳州に遷った。

明宗の時、朱守殷平定に従い、王都を克ち、潁州団練使・振武軍節度使に遷った。彰武・昭義を歴鎮した。

晉の高祖の時、西京留守となり、天雄に移鎮した。安従進が叛くと、行周を襄州行営都部署とし、これを討平し、帰徳に移鎮した。出帝の時、景延広に代わって侍衞親軍都指揮使となった。この時、李彦韜・馮玉らが権力を握り、行周は帰鎮を求めた。

契丹が晉を滅ぼし、蕭翰を留めて汴を守らせたが、翰もまた棄て去り、唐の故許王從益を召して汴に入らせた。時に漢高祖が太原より起ち、從益は人を遣わして行周を召し、以て漢に抗せんとした。行周は歎じて曰く、「衰世は輔け難し、況んや児戯をや」と。乃ち従わず。

漢高祖が京師に入ると、行周に守中書令を加え、鎮を天平軍に移し、臨清王に封じた。周太祖が立つと、齊王に封じた。卒し、尚書令しょうしょれいを贈られ、秦王を追封された。子に懷德あり。

白再榮

白再榮、其の世家何なる人なるかを知らず。少くして軍卒と為る。唐・晉の間、護聖指揮使と為る。契丹京師を犯すに、再榮契丹に従いて北に帰り、鎮州に至る。契丹麻荅を留めて鎮州を守らせて去り、晉の従う者多く焉に留まる。居ること未だ幾ばくもせず、李筠・何福進等麻荅を逐わんと謀り、人をして再榮を召さしむ。再榮は猶予して往かんと欲せず、軍士之を迫り、乃ち往き、共に之を攻む。麻荅走る。諸将再榮の名次最も高きを以て、乃ち推して留後と為す。

再榮は行伍より出で、貪にして謀無し。是の時、李崧・和凝等皆契丹に随いて鎮州に留まる。再榮兵を以て其の居を環らし、迫って物を求め、又崧を害して其の資を取らんと欲す。李穀謂ひて曰く、「公等親しく契丹の苦しみを被り、死を憂ふるに暇あらず。然れども麻荅を逐ひしは、乃ち衆人の為す所にして、独り公の力に非ず。今纔に生路を得て、而して遽かに宰相を殺さば、此れ契丹すら尚ほ或は為さざる所なり。然れども它日京師に至り、天子宰相の何くに在るかを問はば、何を以て之に対へん」と。再榮默然たり、乃ち止む。而して嘗て麻荅に事へし者を悉く拘へて其の財を取る。鎮人之を「白麻荅」と謂ふ。

漢高祖即位し、再榮を留後に拝し、義成軍節度使に遷す。罷めて京師に還る。周太祖兵を以て京師に入る。軍士再榮を第に攻め、其の財を悉く取る。已にして前に啓して曰く、「士卒嘗て公に隷し麾下に事ふ。一旦無礼此の如きは、亦復何の面目か有って公を見ん」と。乃ち之を斬り、其の首を携へて去る。家人帛を以て贖ひて之を葬る。

安叔千

安叔千、字は胤宗、沙陀三部落の人なり。少くして騎射に善くし、唐の莊宗に事へ、以て奉安指揮使と為す。明宗の時王都を討つに与り、秦州刺史に拝す。契丹を撃つに従ひ、先鋒都指揮使と為り、功を以て昭武軍節度使に拝す。静難・横海・安國・建雄の四鎮を歴る。叔千状貌堂堂たりと雖も、文字に通ぜず、為す所鄙陋なり。人之を「没字碑」と謂ふ。

晉の出帝の時、左金吾衞上將軍と為る。契丹京師を犯す。晉の百官赤岡に於いて耶律德光を迎へ見る。叔千班を出でて夷言す。德光労して曰く、「是れ安沒字か否や。汝邢州に在りし時、已に誠款を通ぜり。吾今此に至る、当に汝に一喫飯の処を与へん」と。叔千再拝す。乃ち以て鎮國軍節度使と為す。

漢高祖入立し、罷めて京師に帰る。自ら常に私に契丹に附するを以て、頗る媿懼を懐く。太子太師を以て致仕す。

周太祖兵京師に入る。軍士大いに掠む。叔千の家資已に尽く、而して軍士其の蔵する所有りと意ひ、箠掠已まず。傷重く、洛陽に帰り、卒す。年七十二。