目次
華溫琪
華溫琪は字を德潤といい、宋州下邑の人である。代々は農家を本業としていた。溫琪の身長は七尺あった。若くして黄巢に従い盗賊となり、黄巢が長安を陥落させると、溫琪を供奉官都知に任じた。黄巢が敗れると、溫琪は滑州へ逃れたが、自分の容貌が魁偉であることを顧みて、それを受け容れられまいと恐れ、白馬河に身を投げた。数千里流されたが死なず、河辺の人が救い出した。また桑林で首を吊ろうとしたが、桑の枝が折れてしまった。そこで胙縣へ行くと、ある田舎の老人がこれを見て言うには、「あなたの容貌は堂堂として、並みの人ではない」と。そこでその家に匿われた。後、一年余りして、濮州刺史の朱裕が兵士を募っていると聞き、そこへ身を寄せた。
その後、梁に仕え、開道指揮使となり、戦功を重ねて絳州刺史・棣州刺史となった。棣州は黄河の水害に苦しんでいたので、溫琪は州を新州に移してこれを避け、民はその利益を頼りにした。斉州・晉州を歴任した。荘宗が晉州を攻めたが、一ヶ月を過ぎても陥落させられず、梁の末帝は溫琪の善く守ることを賞賛し、晉州を定昌軍に昇格させ、溫琪をその節度使に任じた。部民の妻を掠めた罪で、その夫に訴えられ、罷免されて金吾衞大將軍・左龍武統軍となった。朱友謙が河中で叛き晉に附くと、末帝は溫琪を汝州防禦使・河中行營排陣使に任じた。耀州觀察留後に遷った。
荘宗が梁を滅ぼし、溫琪を見て言うには、「これは梁のために平陽を守った者である」と。これを賞賛し、耀州を順義軍とし、溫琪をその節度使に任じ、雄武軍に移鎮させた。明宗の時に朝参し、朝廷に留まることを願い出て、左驍衞上將軍とされた。一年余りして、明宗が樞密使の安重誨に言うには、「溫琪は旧臣である。重鎮を与えるべきである」と。重誨は与えたくない意向で、員闕がないと答えた。他日、明宗がまたこのことに言及すると、重誨は言うには、「代わり得るのは樞密使のみです」と。明宗は言うには、「よろしい」と。重誨は答えることができなかった。溫琪はこれを聞いて恐れ、病と称して数ヶ月出仕しなかった。やがて鎮國軍節度使とされた。廢帝の時、太子太保をもって致仕した。
萇從簡
萇從簡は、陳州の人である。代々は羊屠りを本業としていた。從簡は去って晉に仕え軍校となり、数人に匹敵する力を持ち、槊を用いるのが巧みであった。荘宗が兵を用いて城を攻める時、從簡はしばしば梯子の先頭となり、荘宗はその勇を愛し、功により累進して歩軍都指揮使となった。荘宗が梁軍と対陣した時、梁軍に大旗を執って陣間を出入りする者がいた。荘宗が高き丘に登ってこれを見て歎息し言うには、「あれは猛士である。誰か我がためにこれを取って来られる者はいないか」と。從簡は進み出て請い行こうとしたが、荘宗は彼を惜しんで許さなかった。從簡はひそかに数騎を率い、馳せ入って梁軍に突入し、その旗を奪って還った。軍中は皆鬨の声を上げ、荘宗はこれを壮とし、甚だ厚く賜与した。
從簡はかつて流れ矢に当たり、鏃が大腿骨に入った。工匠を呼んでこれを取り出させた。工匠に良薬がなく、その骨を鑿ろうとしたが、人々は皆これを不可とした。從簡は急いで鑿らせた。工匠は躊躇して忍びず下せなかった。從簡は叱って速やかに鑿らせた。左右で見ている者は皆、その痛みに耐えられないかのようであったが、從簡は談笑自若であった。しかしその人となりは剛暴で制し難く、荘宗は常に法を曲げて優しく容れた。累進して蔡州防禦使となった。明宗の時、麟州・汝州・汾州・金州の四州防禦使を歴任した。明宗はかつてこれを戒めて言うには、「富貴は惜しむべきものだが、しかし汝はこれを守ることができない。先帝は汝を赦すことができたが、我は恐らくできないであろう」と。從簡の性質は改まらず、明宗もまたこれを責めなかった。
廢帝が鳳翔で挙兵すると、從簡は諸鎮の兵と共にこれを包囲したが、やがて兵は潰え、從簡は東へ逃走し、捕らえられた。廢帝は降伏しなかったことを責めると、從簡は言うには、「主君に仕えて二心を抱きません」と。廢帝はこれを釈放し、潁州團練使に任じた。晉の高祖が太原で挙兵すると、廢帝は親征しようとし、從簡を召して招討副使とし、河陽に従駕し、河陽三城節度使に任じた。廢帝が洛陽に還ると、從簡はすぐに晉に降った。忠武軍・武寧軍を歴鎮し、入朝して左金吾衞上將軍となった。六十五歳で卒去し、太師を追贈された。
從簡は人肉を食することを好み、赴任先では多く民間の小児をひそかに捕らえて食した。許州の富人に玉帯があり、これを欲したが得られず、二人の兵卒を遣わして夜にその家に入り殺して奪い取らせた。兵卒は夜に垣を越え、木の間に隠れていると、その夫婦が賓客をもてなすように互いに接しているのを見た。二人の兵卒は歎息して言うには、「我が公はその宝を奪おうとして、この人を害そうとしている。我々は必ず免れまい」と。そこで躍り出てこれを告げ、速やかに帯を献上するよう勧め、そして垣を越えて去り、その行く先は知れなかった。
張筠(弟の籛)
張筠は、海州の人である。代々は財を以て商賈を業としていた。筠は節度使の時溥に仕えて宿州刺史となった。梁の兵が時溥を攻めて宿州を取ると、筠を得て、その弁舌の聡明さを愛し、四鎮客将・長直軍使とし、累進して宣徽使に任じた。末帝が相州・澶州・衞州の三州を分けて昭徳軍とし、筠をその節度使とした。これにより魏博軍が叛き晉に附いた。晉王が相州を攻めると、筠は城を棄てて逃走した。後に永平軍節度使とされた。
梁が滅びて唐に仕え、なお京兆尹となった。郭崇韜に従って蜀を伐ち、剣南両川安撫使となった。蜀が平定されると、河南尹に任ぜられ、興元に移鎮した。筠はかつて病にかかり、将吏に面会せず、副使符彦琳が病を問うて入ったが、筠はまた辞して会わなかった。彦琳は筠が既に死んだかと疑い、ただちに牌印の出納を請うた。筠は怒り、左右に命じて彦琳を収めて獄に下し、その謀反を上聞した。明宗は彦琳に謀反の情状なきを知り、彦琳を召して釈放し、表向き筠を西京留守に転任させ、守る者に内に入れぬよう戒めた。筠は長安に至って入ることができず、そこで京師に朝し、左驍衛上將軍とされた。
筠の弟籛は、筠が京兆尹であった時に、牙内指揮使・三白渠営田制置使とされた。筠が西征して蜀を伐つとき、籛を留めて京兆を守らせた。蜀が平定され、魏王継岌が軍を返し、興平に至ったとき、明宗が魏より挙兵し、京師は大いに乱れた。籛はそこで咸陽の浮橋を断って継岌を拒ぎ、継岌はついに自殺した。
初め、筠が康懐英に代わって永平軍節度使となったとき、懐英が死ぬと、筠はただちにその家財を掠奪した。また唐の故宮において地を掘り、多く金玉を得た。偏将に侯莫陳威という者がおり、かつて温韜とともに唐の諸陵を発掘し、宝貨を分け得ていた。筠は事を構えて威を殺し、それを取った。魏王継岌が渭南で死ぬと、籛はその行嚢をことごとく取った。また王衍が蜀より行きて秦川に至ったとき、荘宗は宦官の向延嗣を遣わしてこれを殺させた。延嗣はそこで衍の蜀中の珍宝をことごとく得た。明宗が即位すると、ただちに人を遣わして宦官を捕らえて誅し、延嗣は亡命したが、蜀の珍宝は籛がまたこれを取った。これにより兄弟の財はみな巨万となった。しかし筠は人となり施しを好み、その富をもって、ゆえに至るところで聚斂を行わず、民はこれに頼って安んじた。一方、籛は酒を嗜み貪鄙で、沂・密二州刺史を歴任した。晋の出帝のとき、将軍として回鶻に馬を市したが、馬が中式せずに坐し、有司がその価直を理めようとした。籛の性は鄙吝であり、ついに鬱々として卒した。
ああ、五代に謀反する者は多かったが、我は明宗においてのみその言い難きを感じる。魏王継岌が薨じて、その後初めてその事を終えたのである。荘宗が弑逆に遇い、継岌は元子として重兵を握りながら、外に死して立つことを得ず、これは大事である。しかし前史はその所以然を書かない。継岌の存亡は、張籛にとって利害の及ぶところではない。籛は何ゆえにこれを拒んで東に行かせなかったのか。あるいは誰かに使われてこれを為したのか。しかし明宗は符彦超に対しては深く徳とし、籛に対しては厚くすることなく、これまた疑わしいところである。さもなくば、乱を好む臣が、風を望んで響応したのであろうか。もし籛が浮橋を断たなければ、継岌は兵を以て東することができ、明宗は必ずしも自立できなかったであろう。すると継岌の死は、籛の拒絶によるものであり、その関係するところは小さいと言えようか。
楊彦詢
楊彦詢、字は成章、河中宝鼎の人である。若くして青州の王師範に仕え、師範は学を好み、書を万巻聚め、彦詢にこれを掌らせた。彦詢は人となり聡明で悟りが早く、ついに親信された。師範が梁に降り、後に殺されると、彦詢は帰する所なく、そこで魏に行き、楊師厚に仕えて客将となった。魏博が梁に叛いて晋に入ると、彦詢は留まって晋に仕えた。荘宗が梁を滅ぼし、彦詢を引進副使とし、呉・蜀に奉使し、常に旨に称した。徳州刺史・羽林将軍を歴任した。
晋の高祖が太原を鎮めると、廃帝はその二心あることを疑い、諸将のうち謹厚なる者を選んでこれを補佐させ、彦詢を太原節度副使とした。その後、晋の高祖は疑いにより転任させられ、命に従わんと欲し、彦詢に問うた。彦詢は正言することができず、ついに言うには、「太原の力は、唐と対等に戦えるでしょうか。公はよく計らわれよ」と。高祖の反意は既に決しており、彦詢もまた敢えて言わなかった。高祖の左右は彦詢が異議を唱えるとして、これを殺さんとしたが、高祖は急ぎこれを止め、「ただ副使一人は、我自らこれを保つ」と言い、ついに免れた。
この時、高祖は契丹に兵を乞い、契丹の耶律徳光が高祖を太原に立て、兵を以て河上まで送った。彦詢は宣徽使となり、数度往来して虜の帳中に入り、徳光もまたその人となりを愛した。明年、感徳軍節度使に任ぜられ、また入って宣徽使となり、さらに安国軍節度使に任ぜられた。天福七年、鎮国に移鎮し、歳の大飢饉に遭い、為政に恵愛があった。風病により罷められて右金吾衛上将軍となった。卒年七十四、太子太師を贈られた。
李周
李周、字は通理、邢州内丘の人、唐の昭義軍節度使李抱真の後裔である。父の矩は世の乱れに遭い仕えず、かつて周に言うには、「邯鄲は武を用いる地である。今世道未だ平らかでない。汝は軍旅に従って我が門を興すべし」と。
周は十六歳で内丘の捕賊将となり、勇をもって聞こえた。この時、梁・晋の兵は山東を争い、群盗が道路に充満し、行く者は必ず兵をもって護衛した。内丘の人盧嶽が家を太原に移さんとし、旅舎に宿り、傍徨して進むことを敢えなかった。周はこれを憐れみ、西山まで送り届けた。盗賊が林の中より嶽を射て、その馬に中った。周は大呼して言うには、「我ここにあり、誰か敢えてかくの如くせん」と。盗賊はその声を聞き、「これは李周なり」と言い、ついに各々潰走して去った。周は嶽を太原に送り届けた。嶽はこれに言うには、「我は若くして星暦を学び、かつ人相をよくする。子は頤が方で隆準、眉目は疏徹、身長七尺、真の将相なり。我が天象を占うに、晋は必ず天下を持つであろう。子は留まって晋に仕え、富貴を図るべし」と。周は母老いるを以て辞して帰った。
この時、梁は葛従周を遣わして邢・洺を攻め落とし、晋王は兵を青山口に柵した。周は帰す所を知らず、ついに嶽の言を思い、青山に至って晋に帰した。晋王は周を万勝黄頭軍使とした。後に征伐に従い常に功があった。柏郷の戦いに従い、先登して、匡覇指揮使に遷り、楊劉を守った。周は将として甚だ勇猛であり、その用兵においては、守るに善く、士卒と甘苦を共にすることができた。梁兵が周を攻めると、周は堅く守った。久しくして、周は母の喪を聞き奔って帰った。荘宗は他の将を遣わして周に代わって守らせたが、ほとんど梁兵に破られんとした。荘宗は急ぎ周を追い返して守らせ、ついに破られずに済んだ。その後、梁人は既に徳勝を破り、ついで東進して楊劉を撃ち、巨艦をもって河を絶ち、晋の糧餉の援けを断った。周は人を馳せて荘宗に救いを求め、日百里を行きて急に赴かんことを請うた。荘宗は笑って言うには、「周が我のために守る、何ぞ憂えん」と。日六十里を行き、かつ行きかつ狩りをし、「周は梁の将に敵しうる者ではない」と言った。至るころには、周は既に三日糧を絶っていた。荘宗は巨栰に薪を積み油を沃ぎ、順流に火を放って梁の艦を焚き、梁兵は解いて去った。荘宗は周を見て労うには、「公なくば、諸将は梁に擒らわれていたであろう」と。相・蔡二州刺史を歴任した。明宗のとき、武信軍節度使に任ぜられ、静難に移鎮し、武寧・安遠・永興・宣武の四鎮を歴任し、至るところ多く善政があった。
晋の高祖のとき、また静難を鎮め、罷められて還った。出帝が澶淵に幸するとき、周を以て東京を留守させ、還って開封尹に任ぜられた。卒年七十四、太師を贈られた。
劉処譲
劉處讓、字は德謙、滄州の人である。
若くして張萬進の親吏となり、萬進が梁に入り泰寧軍節度使となると、處讓を牙将とした。
萬進が梁に叛いて晉に附くと、梁は劉鄩を遣わしてこれを討たせた。
萬進は處讓を遣わして晉に救援を求めさせた。晉王はちょうど梁と対峙しており、兵を出すことができなかったので、處讓は軍門において耳を切り落として訴えて言うには、「萬進が包囲される所以は、晉に附いたためである。どうしてその危急を顧みられぬのか。もし兵を出されぬならば、死を請いたい」と。
晉王はこれを壮として、「義士なり」と言い、彼のために兵を発した。
河を渡らぬうちに、萬進は梁兵に敗れたので、處讓はそのまま留まって晉に仕えた。
莊宗が即位すると、客省使となり、常に四方に使わされ、多くは旨にかなった。
天成年間、引進使に遷り、累遷して左驍衞大将軍となった。
廢帝の時、魏州で軍乱が起こり、その帥劉延皓が追放されたので、范延光を招討使として遣わし、處讓を河北都転運使とした。
晉高祖が立つと、宣徽南院使を歴任した。
范延光が反すると、高祖は楊光遠を招討使とし、處讓をその軍事に参じさせた。
やがて副招討使張従賓が河陽で叛いたので、處讓は兵を分けて従賓を撃破した。
帰還し、光遠とともに鄴を攻めたが、一年を過ぎても陥落させられなかった。
その後、延光に降伏の意思がありながら躊躇していたので、處讓が城に入り、禍福を譬えて説くと、延光はついに出て降伏した。
唐の制度では、枢密使は常に宦官をもってこれに充てたが、梁において敬翔・李振を用いて以来、莊宗に至って初めて武臣を用い、その権は将相よりも重くなった。
廃帝が鳳翔にて挙兵し、檄を四方の隣国に馳せると、応ずる者はなく、ただ張金のみが判官薛文遇を遣わして廃帝に謁見させ、往来して事を計らった。廃帝が即位すると、その恩を徳とし、保義軍節度使に拝した。晋の高祖が太原にて挙兵すると、廃帝は張金を太原四面歩軍都指揮使とした。
高祖が入って立つと、建雄に移鎮させ、上將軍に罷免した。天福五年に卒し、太師を贈られた。
張廷蘊
張廷蘊は、開封襄邑の人である。若くして宣武軍の兵卒となり、去って晋に仕え、次第に軍校に昇進した。常に荘宗に従って征伐し、先登して力戦し、金瘡が体に満ちた。荘宗はこれを壮とし、帳前黄甲二十指揮歩軍都虞候・魏博三城巡検使とした。この時、荘宗は魏におり、劉皇后を従えていた。劉氏はその下の者を多く放任して人を擾し不法を行わせたが、敢えて言う者はいなかった。廷蘊は直ちにこれを収めて斬った。
李継韜が潞州にて叛くと、荘宗は明宗を招討使とし、元行欽を都部署とし、廷蘊を馬歩軍都指揮使として、兵を将いて前鋒とした。廷蘊が潞に至った時、日は既に暮れており、即ち百余りの兵を率いて濠を踰え城に登った。城を守る者は防ぐことができず、遂に潞州を破った。翌朝、明宗と行欽が後から到着した。明宗は内心、これを頗る恨んだ。廷蘊は功により羽林都指揮使・申懐沂三州刺史・金潁隴絳四州防禦団練使・左監門衞上將軍に遷った。開運年中、疾を以て卒した。
廷蘊は武人であり、識る所は数字に過ぎなかったが、平生より文士を重んじた。嘗て明宗に従って梁の鄆州を破った時、判官趙鳳を捕らえた。廷蘊はこれに謂って「我、汝が貌を見れば必ずや儒人であろう。隠すことは無い」と言った。鳳は実を以て答えた。廷蘊は急ぎ明宗に薦めた。後に鳳は貴くして相となり、数度にわたり廷蘊を安重誨に薦めた。重誨は屡々これを言ったが、明宗は廷蘊が潞を破った時の隙を以て、終にこれを恨み、故に終に髦節を秉ることがなかった。廷蘊は素より廉であり、七州を歴任し、卒した日、家に余財無かった。
馬全節
馬全節は字を大雅といい、大名元城の人である。唐の同光年中、全節は捉生指揮使であった。趙在禮が鄴都にて反すると、全節を馬歩軍指揮使とした。明宗が即位すると、博単郢沂四州刺史・金州防禦使を歴任した。廃帝の時、蜀人が金州を攻めた。州兵は僅か数百であったが、全節は家財を散じて士卒と共に堅く守った。蜀人が去ると、廃帝は全節を召し、滄州留後とした。
晋の高祖が入って立つと、即ち全節を横海軍節度使に拝し、安遠に移鎮させ、李金全に代わった。金全が叛いて李昪に附くと、高祖は兵三万を発し、全節と安審暉をしてこれを討たせた。金全は南に奔った。昪の将李承裕が安州を守った。全節は承裕と州の南で戦い、大いに承裕を破り、首三千級を斬り、千余人を生け捕りにした。承裕は城を棄てて去った。審暉は雲夢まで追撃し、承裕及びその兵二千人を執った。全節は千五百人を斬り、その余りの兵と共に承裕を京師に献じた。承裕は全節に謂って「我が城中を掠めて得た所は百万を計り、将軍は皆これを取った。我が天子に見えれば、必ずこれを訴えて後に刑に就かん」と言った。全節は懼れ、因って承裕を殺した。高祖はこれを置いて問わず、全節を昭義に移鎮させた。又、安国に移した。杜重威に従って安重栄を討ち、功により義武に移鎮した。
全節は人となり謙虚で謹厳であり、母に事えること至孝であった。その政に臨み事を決するには、必ず法は如何と問うた。初め、広晋に移る時、元城を過ぎ、白襴を衣てその県令に謁し、州里はこれを栄とした。
皇甫遇
皇甫遇は、常山真定の人である。人となり勇力有り、虬髯にして善く射た。若くして唐の明宗に従って征伐し、唐に仕えて武勝軍節度使となった。至る所で苛暴であり、誅斂を務めとしたため、賓佐は多く官を解いて逃げ去り、その禍を避けた。
晋の高祖の時、義武・昭義・建雄・河陽の四鎮を歴任し、神武統軍に罷免された。契丹が入寇し、貝州を陥落させると、出帝は高行周を北面行営都部署とし、皇甫遇を馬軍右廂排陣使とした。この時、青州の楊光遠が城を拠って反した。出帝は乃ち李守貞及び皇甫遇を遣わし、兵を分けて鄆州を守らせた。遇らが馬家渡に至ると、契丹は将に河を渡って光遠を助けんとしていた。遇らはこれを撃破し、功により義成軍節度使・馬軍都指揮使に拝した。
嗚呼、梁亡びて敬翔死すも、死節と為すを得ず。晋亡びて皇甫遇死すも、死事と為すを得ず。吾豈に意無からんや。梁の唐を篡ふ、翔の謀を用ふること多し。子其の父を佐けて其の祖を弑す、可ならんや。其の斧鉞に戮せられざるは、幸免を為すのみ。方に晋兵の虜に降るや、士卒初め知らず。及んで甲を解かしむるに、哭声天を震はす。則ち降ること豈に其の欲する所ならんや。遇をして奮然として攘臂して起ち、坐中に重威を殺さしめば、不幸にして免れずして害を見ると雖も、猶ほ其の死を得たりと為すべし。其の義烈豈に凜然たらざらんや。既に俛首して命を聴き、相与に人の国を亡ぼせり。死すと雖も贖ふ能はず。豈に貴ぶに足らんや。君子の人に於ける、或ひは恕を以て推し、或ひは備を以て責む。恕なれば故に善に遷り自新の路広し。備は則ち得難し。得難ければ故に貴ぶべし。然れども其の恕す可き所を知り、其の貴ぶ可き所を知る、豈に又た難からざらんや。
安彦威
安彦威、字は国俊、代州崞県の人なり。少くして軍卒として唐明宗の麾下に隷す。彦威は射を善くし、頗る兵法を知る。明宗、天平・宣武・成徳を鎮むるに、彦威を以て常に牙将と為し、謹厚を以て信を見らる。明宗入りて立つ。皇子従栄、鄴を鎮む。彦威は護聖指揮使と為る。従栄をして六軍を判せしむるに、彦威は捧聖指揮使に遷り、寧国軍節度使を領す。
晋高祖入りて立つ。彦威を拝して北京留守と為し、鎮を帰徳に徙す。是の時、河滑州に決す。彦威を命じて之を塞がしむ。彦威は私錢を出だして民を募り堤を治む。西京留守に遷る。歳大饑に遭ふ。彦威は饑民を賑撫し、民法を犯す者有れば皆寛貸す。饑民之を愛し、流れ去るを忍びず。母憂に丁し、哀毀制を過ぐ。出帝、契丹と盟を隳す。彦威を拝して北面行営副都統と為す。彦威は悉く家財を以て軍用を佐く。疾を以て京師に卒す。
彦威は安太妃と同宗なり。出帝之を事へて以て舅と為す。彦威未だ嘗て以て言と為さず。及んで卒すに及び、太妃臨哭す。人は始めて同宗なるを知る。当時益々其の慎重を称す。
李瓊
明宗、魏に兵変して南す。瓊は高祖に従ひて三百騎を以て先づ汴州に趨る。高祖、保義軍節度使と為る。之を以て牙隊指揮使と為す。高祖国を建つ。之を以て護聖都虞候と為し、金帛を賜ふこと甚だ厚し。而して之に官爵を与へず。瓊亦鬱鬱たり。久しくして、相・申二州刺史を拝す。出帝の時、棣州刺史と為る。楊光遠反す。書を以て瓊を招く。瓊は拒みて納れず。洺州団練使に遷り、又た護聖右廂都指揮使と為る。
晋亡び、契丹京師に入る。瓊を以て威州刺史と為す。行きて鄭州に至り、盗に遇ひ見殺さる。
劉景巌
劉景巌、延州の人なり。其の家素より富み、能く貲を以て豪俊と交游す。高万金に事へて部曲と為り、其の後丹州刺史と為る。晋高祖、太原に起兵す。唐廃帝、民七戸に一卒を出だして義兵と為すを調ふ。延州節度使楊漢章、郷民を発して京師に赴かしむ。将に行かんとす。景巌、人を遣わして之を激怒せしむ。義兵乱れ、漢章を殺し、景巌を迎へて留後と為す。晋高祖即位す。即ち景巌を拝して節度使と為す。
景巌の従事熊皦、人として智多し。陰に景巌の跋扈して制し難きを察し、其の異心有るを懼れ、利を以て之を愚かさんと欲す。因りて景巌に語り、以て謂く辺地は以て久しく安んずべからずと。名を保ち利を享するの策を陳ぶ。邠・涇に善田多しと言ひ、其の利百倍、宜しく多く田を市ひ利を射て以て自ら厚くすべしと。景巌之を信ず。歳余、其の獲甚だ多し。景巌、皦をして京師に朝せしむ。皦乃ち言ふ、「景巌は辺に在るべからず、内に徙す可し」と。乃ち景巌を邠州に移す。皦入りて補闕を拝す。而して景巌又た鎮を保義に徙す。居ること未だ幾ばくもなく、又た武勝に徙す。景巌乃ち皦の己を売るを悟り、遂に皦を誣奏して己が玉帯を隠すとす。皦坐して商州上津令に貶せらる。皦は景巌の邀ひて之を害するを懼れ、道に亡び、山中に匿る。
長子の行琮は徳州刺史であったが、罷免されて京師に留まり、また誅殺された。
次子の行謙は允権の妻の父であり、上奏して劉氏の子ではないと述べたため、遂に誅殺を免れた。