新五代史

卷第四十六

目次

趙在禮

趙在禮、字は幹臣、涿州の人なり。若くして劉仁恭に仕えて軍校となり、仁恭は其の子守文を輔けしめて滄州を襲取せしむ。其の後、守文が其の弟守光に殺さるるに及び、在禮は乃ち晉に奔る。莊宗の時、効節指揮使となり、魏兵を将いて瓦橋關を戍る。還りて貝州に至るに、軍士皇甫暉乱を起こし、其の将楊仁晟を推して首領と為す。仁晟従わず、之を殺す。又た一小校を推す。小校従わず、又た之を殺す。乃ち二首を携えて在禮に詣る。在禮乱を聞き、衣帯に及ばず、方に垣を踰えて走らんとす。暉其の足を曳きて之を下ろし、白刃を以て環らしめ、二首を示して曰く、「我に従わざる者は此の首の如し」と。在禮之に従い、遂に反す。

在禮貝州より自ら還りて魏を攻め、軍を縦して大いに掠奪す。是の時、興唐尹王正言は年老いて病み昏し、在禮の至れるを聞き、吏を呼びて奏を草せしむ。吏は已に奔散し、正言猶知らず、方に案に据りて大いに怒る。左右告げて曰く、「賊已に市中に人を殺し、吏民皆走る。誰をか呼ばんと欲するや」と。正言大いに驚きて曰く、「吾初め此れを知らず」と。即ち馬を索めて将に去らんとす。廐吏曰く、「公の妻子虜と為れり。安んぞ馬を得んや」と。正言惶恐し、歩み出でて府門を出づ。在禮を見て、望みて下拝す。在禮正言を呼びて曰く、「公何ぞ自ら屈すること甚だしきや。此れ軍士の情にして、予が志に非ざるなり」と。在禮即ち自ら兵馬留後と称す。

莊宗元行欽を遣わして之を討たしむ。行欽魏を攻めて克たず、乃ち明宗を遣わして行欽に代わらしむ。明宗鄴に至り、軍変し、因りて城に入り在禮と合す。明宗兵を反して京師に向かわしむ。在禮は魏に留まる。明宗即位し、在禮を義成軍節度使に拝す。在禮命を受けず、遂に鄴都留守・興唐尹に拝す。久しくして、皇甫暉等皆去り、在禮独り魏に在り。魏軍の驕れるを患え、禍に及ぶを懼れ、乃ち鎮を横海に徙るるを求む。歴鎮して泰寧・匡國・天平・忠武・武寧・帰德・晉昌に至り、至る所邸店羅列し、資を積むこと巨万なり。

晉出帝の時、在禮を以て北面行営馬歩都虞候と為し、以て契丹を撃たしむ。未だ嘗て戦功有ること無し。在禮宋州に在り、人尤も之に苦しむ。已にして罷め去る。宋人喜びて相謂いて曰く、「眼中の釘を抜く、豈に楽しからざらんや」と。既にして復た詔を受けて職に居る。乃ち管内に籍し、口ごとに率いて銭一千を出だし、自ら「抜釘銭」と号す。

晉亡び、契丹汴に入る。在禮宋より馳せて洛陽らくように至り、契丹の拽剌等に遇う。馬首に拝す。拽剌等兵共に侵辱し、貨財を誅責す。在禮其の憤りに勝えず。行きて鄭州に至り、晉の大臣多く契丹に鎖せらるるを聞き、中夜惶惑し、衣帯を解きて馬櫪に就き自経して卒す。年六十二。漢高祖こうそ立ち、中書令を贈る。

霍彦威

霍彦威、字は子重、洺州曲周の人なり。少くして兵乱に遭う。梁の将霍存掠め得て之を愛し、其の儁爽なるを以て養いて子と為す。嘗て存に従いて戦い、矢に中り、其の一目を眇ます。後梁の太祖に事え、太祖も亦之を愛し、稍く遷りて左龍驤軍使・右監門えい上將軍となる。友珪を誅するに預かり、功を以て洺州刺史に拝し、邠寧節度使に遷る。

李茂貞梁の叛将劉知俊を遣わして邠州を攻めしむ。彦威固守すること踰年、知俊の兵を獲る毎に、必ず縱ちて還し之。知俊之に徳し、後復た攻めず。鎮を義成に徙し、又た天平に徙し、兼ねて北面行営招討使と為り、晉軍と河上に相持す。彦威屢敗し、降りて陝州留後と為る。

莊宗梁を滅ぼす。彦威陝より来朝す。莊宗酒を故梁の崇元殿に置く。彦威と梁の将段凝・袁象先等皆在り。莊宗酒酣にして、彦威等を指し酒を挙げて明宗に属して曰く、「此れ皆前日の勍敵、今吾に侍りて飲むは、乃ち卿が功なり」と。彦威等惶恐して地に伏し死を請う。莊宗之を労して曰く、「吾総管と戲るる爾。卿畏るる無かれ」と。姓名を賜いて李紹真と曰す。明年、鎮を武寧に徙し、明宗に従いて契丹を撃つ。明宗其の人となりを愛し、甚だ親厚に之す。

其の後、趙在禮反す。彦威別に趙太を邢州に討ち、之を破り、還りて兵を以て明宗に属し在禮を討たしむ。明宗軍変し、従馬直の軍吏張破敗率い衆をいて将校を殺し、火を放ち営を焚き譟呼す。明宗之を叱して曰く、「吾帥と為りて十有余年、何ぞ爾輩に負くこと有らん。今賊城破れんこと旦夕に在り、乃ち爾輩功名を立て、富貴を取るの時なり。況んや爾天子の親軍、返りて賊に効せんや」と。軍士対えて曰く、「城中の人何の罪か有らん。戍卒帰らんと思いて得ざるのみ。天子垂れて原宥せず、志は勦除に在り。且つ魏を破りて後、魏博諸軍を尽く坑せんと欲するを聞く。某等初め叛心無く、直に死を畏るるのみ。今宜しく城中と勢を合し、諸鎮の兵を撃退し、天子に請うて河南に帝せしめ、令公に河北を鎮せしむべし」と。明宗涕泣して之を諭す。乱兵環列して呼びて曰く、「令公河北に帝せんと欲せざれば、則ち佗人之を有たん。我輩狼虎、豈に尊卑を識らんや」と。彦威と安重誨明宗を勧めて之を許さしむ。乃ち兵を擁して城に入り、在禮と合す。彦威独り入らず。明宗城に入り、在禮と酒を置き大会す。而して部兵外に在る者明宗の反するを聞き、皆潰走す。独り彦威の将うる五千人城の西北隅に営して動かず。二日居りて、明宗復た出で、彦威の兵を得、乃ち魏県に之き、謀りて鎮州に還らんと欲す。彦威・重誨明宗を勧めて兵を以て南に向かわしむ。

莊宗崩ず。彦威明宗に従い洛陽に入り、首めて群臣を率いて進むを勧め、内外の機事皆彦威に決す。彦威素より段凝・溫韜と隙有り。因りて擅に凝・韜を捕え獄に下し、将に之を殺さんとす。安重誨曰く、「凝・韜の悪、天下知る所なり。然れども主上方に内難を平げ、恩信を以て人に示す。豈に公の仇を報ずるの時ならんや」と。彦威乃ち止む。明宗即位し、乃ち凝・韜を赦し、放ちて田里に帰らしむ。已にして卒に死を賜う。

彦威は平盧に移鎮した。朱守殷が反逆し、誅殺されると、彦威は使者を馳せて二本の矢を献上して祝賀とした。明宗は二本の矢を賜ってこれに報いた。夷狄の法では、兵を起こして衆を集めるのに、矢を伝えて号令とするが、しかし下の者が上に対して用いることはない。明宗は元来夷狄の出であり、彦威は武人であるため、君臣ともに礼を知らず、この類の行動が多かった。しかし彦威の客に淳于晏という者がいた。登州の人で、若くして明経に及第したが、世の乱れに遭い、彦威に寄寓した。彦威が偏裨であった時から既に従っていた。彦威はかつて戦いに敗れて身を脱して逃走した時、麾下の兵で従う者はなく、ただ晏のみが徒歩で一剣を携え、彼に従って榛棘の間を逃れ、難を免れた。彦威はその義を重んじ、歴任した方鎮において常に彼を辟召して自ら従わせ、家事の大小に至るまで皆晏に決させた。彦威はこの故に過失を少なくすることができた。当時、諸鎮が僚属を辟召する際は、皆晏を手本とした。

天成三年の冬、彦威は鎮において卒去した。この時、明宗はちょうど近郊で狩猟しており、青州から馳せて彦威の死が奏上されると、明宗は涙を流して宮中に戻り、朝儀を停止し、さらにその月いっぱい音楽を挙げず、彦威に太師を追贈し、諡して忠武といった。

房知温

房知温は字を伯玉といい、兗州瑕丘の人である。若くして勇力をもって赤甲都の官健となり、後に魏州馬鬬軍に隷属し、次第に親随軍指揮使に昇進した。荘宗が魏博を取ると、知温を得て、李の姓を賜り、名を紹英といい、澶州刺史とし、曹・貝の二州刺史を歴任し、瓦橋関を戍守した。

明宗が魏より兵を反して南に向かうと、知温は真っ先に馳せ赴いた。天成元年、泰寧軍節度使に拝された。翌年、北面招討使となり、盧台に駐屯した。明宗は烏震を遣わして知温と代わりに還鎮させようとしたが、その戍卒である効節軍の将龍晊らが震を攻撃して殺害した。効節は魏州の軍である。魏州では羅紹威が衙軍を誅殺して以来、楊師厚が節度使となり、再び銀槍効節軍を設置した。梁の末帝の時、師厚はほとんど梁の患いとなった。師厚が卒去すると、賀徳倫をもって代えた。末帝は魏軍の強盛で制し難いことを憂え、趙巌らと謀って相・魏を二鎮に分割しようとした。魏軍はこれにより乱を起こし、徳倫を脅迫して梁に叛き晋に降ったため、梁は遂に河北を失った。荘宗は魏兵を得て以来、梁と河上で戦い、幾度も功績があり、その軍に梁を滅ぼして厚く賞することを約束した。梁が滅亡すると、魏軍は幾度か賜与を受けたが、驕り高ぶって飽くことを知らず、常に怨望を抱いていた。皇甫暉の乱で趙在礼を脅迫して魏に入らせたのも、皆この軍である。明宗が立つと、在礼は天雄軍を鎮めたが、魏軍が元来驕慢であるため、常に禍を恐れて安住できず、密かに人を遣わして明宗に訴え、解任を求めた。明宗は皇子の従栄をもって在礼と代え、魏の効節九指揮を北の盧台に戍守させた。軍が発する日、兵甲を与えず、ただ長竿に旗幟を繫いで隊伍を表したため、軍士は大いに疑惑を抱いた。翌年、明宗は烏震を遣わして知温と代わりに戍守させようとしたが、知温の心中は特に快く思わなかった。盧台の戍軍は水を挟んで東西に両寨を構えていた。震が初めて到着し、知温と東寨で会い、ちょうど博戯をしていると、効節軍が乱を起こし、門外で騒ぎ立てた。知温は直ちに馬に乗って出た。乱軍は震を撃殺し、手綱を取って知温を引き留めた。知温は欺いて言った、「騎兵は皆西寨におり、今は歩軍のみでは、恐らく為すところはないだろう」。知温は即座に馬を躍らせて舟に登り、河を渡って西寨に入り、騎軍をもって乱を起こした者をことごとく殺した。明宗は詔を下し、その家族を魏州で悉く誅殺させた。凡そ九指揮三千余家数万口を漳水のほとりに駆り立てて殺したため、漳水はそのために色を変えた。魏の驕兵はここに尽きた。明宗は変乱が知温から起こったことを知りながら、釈放して問わず、武寧に移鎮させ、兼侍中を加え、天平・平盧を歴鎮した。

初め、明宗が北面招討使であった時、知温はその副使であり、廃帝(後の末帝)は当時裨将として知温に仕え、甚だ謹んでいたが、後に杯酒のことで意を失った。廃帝が鳳翔で兵を起こし、愍帝が出奔すると、知温は隙に乗じて覬覦の意を抱き、その司馬李沖に言った、「私は数屋の銭を持ち、数千の兵を養っている。時に乗じて義を建てれば、功は必ず成るだろう」。沖は言った、「今天子は懦弱で、上下心を離し、潞王(廃帝)の兵威は甚だ盛んです。事の成否は未だ知れません。沖は表を懐いて西行し、これを窺うことを請います」。沖が京師に至った時、廃帝は既に入って立っており、沖は直ちに表を奉って祝賀を称え、還って知温に入朝を勧めた。廃帝は彼を大いに慰労した。知温は還鎮し、東平王に封ぜられた。太常が上言した、「王公を策拝するには、皇帝が臨軒して策を遣わします。その在外の者に対しては、正衙で使を命じますが、鹵簿・鼓吹・輅車・法物は都城を出ません。故事を考証しても明文がありません。今、北平王徳鈞・東平王知温が封を受け策を遣わされるに当たり、兵部・太常・太僕に下し、鹵簿・鼓吹・輅車・法物を給して本道に赴かせ、礼が終われば有司に還すことを請います」。

知温は鎮において、常にその民に重税を課し、資財を巨万に積み、邸宅を青州南城に営み、出入りには声妓を従え、遊び戯れて政事を顧みなかった。天福元年、官において卒去し、太尉を追贈された。

知温の卒去後、その子の彦儒は父の銭三万緡・絹布三万匹・金百両・銀千両・茶千五百斤・糸十万両を献上し、沂州刺史に拝された。その将吏で残りの資財を分け与えられた者は、皆富家となったという。

王晏球

王晏球は字を瑩之といい、洛陽の人である。若くして乱に遭い、盗賊に掠め取られたが、汴州の富人杜氏が彼を得て、子として養い、杜の姓を冒した。梁の太祖が宣武を鎮めていた時、富家の子で材武ある者を選んで帳下に置き、「庁子都」と号した。晏球は人となり倜儻として大節があり、庁子都指揮使となった。太祖が即位すると、右千牛衞将軍となった。友珪が立つと、龍驤の戍卒が反乱し、懐州より京師に向かった。晏球を遣わして河陽でこれを撃破し、功により龍驤第一指揮使に遷った。

末帝が即位すると、龍驤四軍指揮使に遷った。梁は捉生軍の将李覇に千人を率いさせて楊劉を戍守させたが、覇が夜に乱を起こし、水門より入り、火を放って大いに騒ぎ、長竿に布を縛り油を浸し、仰いで建国門を焼いた。晏球は乱を聞くと、命令を待たず、龍驤五百騎を率いてこれを撃ち、賊の勢いはやや退いた。末帝が楼に登ってこれを見て呼んだ、「これは我が龍驤軍ではないか!」。晏球は奏上した、「乱を起こしたのは、李覇一都のみです。陛下は宮城を厳守され、臣に賊を破ることをお責めください」。夜明け前にことごとくこれを殺し、功により澶州刺史に拝された。

梁と晋が河上で軍を対峙させると、晏球を行営馬歩軍都指揮使とした。荘宗が汴に入ると、晏球は兵を率いてこれを追い、封丘に行き着いた時、末帝が既に崩じたと聞き、直ちに甲を解いて唐に降った。荘宗は姓名を賜って李紹虔といい、斉州防禦使に拝し、瓦橋関を戍守させた。

明宗が兵変を起こし、鄴より南進するに及び、人を遣わして晏球を招く。晏球はこれに従って洛陽に至り、帰徳軍節度使に拝された。定州の王都が反逆し、晏球を招討使とし、宣徽南院使張延朗らとともにこれを討たしむ。王都は人を北に遣わして契丹を招き、契丹は禿餒に万騎を将いて王都を救わしむ。晏球、禿餒らの兵来たらんとするを聞き、張延朗を留めて新楽に屯せしめ、自ら望都にてこれを迎え撃つ。しかるに契丹は他道より定州に入り、王都とともに不意に張延朗の軍を撃ち、延朗大敗す。残兵を収めて晏球と会し曲陽に趨る。王都は勝に乗じてこれを追う。晏球先んじて水辺に至り、胡牀に坐して指揮するに方たり。王都の衆掩至す。晏球は左右十余騎とともに連続して矢を射かけ、王都の衆稍く退く。しかるに後軍もまた至る。晏球高岡に立ち、諸将に号令して皆弓矢を橐に収め、短兵を用い、顧みる者は斬らんとす。符彦卿は左軍を以てその左を攻め、高行珪は右軍を以てその右を攻め、中軍の騎士は馬の項を抱いて馳せ入り王都の軍を破る。王都遂に大敗し、曲陽より定州に至るまで、横尸棄甲六十余里に及ぶ。王都と禿餒は城に入り、敢えて再び出でず。契丹また惕隠を遣わして七千騎を以て王都を益す。晏球はこれを唐河に遇い、追撃して満城に至り、二千級を斬り、千匹の馬を獲る。契丹は中国の多事に乗じ、北方に強盛となり、北方の諸夷は大小を問わず皆畏服す。しかるに中国の兵、契丹に遭うものは、未だ嘗て少しくも志を得たる者なし。晏球が禿餒を撃破し、また惕隠を走らせしより、その余衆は奔潰して村落に投ず。村落の人は鋤耰白梃を以て所在にこれを撃殺し、再び遺類無し。惕隠は数十騎とともに走りて幽州の西に至り、趙徳鈞に擒えられて京師に送られる。明宗、詔を下して契丹を責め誚る。契丹後たびたび使を中国に遣わし、惕隠らの帰還を求め、その言辞甚だ卑遜なり。輒ちその使を斬りてこれを絶つ。この時に当たり、中国の威は幾くんか大いに震い、契丹は稍く衰伏す。これ晏球に始まる。

晏球、定州を攻むること久しく克たず。明宗たびたび人を遣わして賊を破るを促す。晏球は以て急攻すべからずと謂う。その偏将朱弘昭・張虔釗ら宣言して曰く、「晏球は怯懦するのみ」と。乃ち兵を駆りて進む。兵果たして敗れ、三千余人を殺傷す。これにより諸将敢えて復た攻撃を言わず。晏球乃ち士卒を休養し、その三州の賦を食み、俸禄の入る所を悉く以て牛酒を具え、日々諸将と高会す。久しうして、都城中の食尽き、先ずその民万余りを出だす。たびたび禿餒と謀りて囲みを決して走らんとすれども果たさず。王都の将馬譲能、城を以て降る。王都自ら焚死す。

晏球、将たるに機略有り、士卒を撫するを善くす。その禿餒を撃つや、既に敗を因りて以て功と為す。而して諸将皆勝に乗じて王都を取らんと欲す。晏球返りて独り動かず、卒に持久を以てこれを弊す。天成三年四月王都の反より、明年二月に至りて始めてこれを克つ。軍中未だ嘗て一人を戮せず。王都を破るの功により、天平軍節度使に拝す。また平盧に徙り、累官して兼中書令に至る。この歳卒す。年六十二。太尉を贈られる。

安重

安重霸は雲州の人なり。初め明宗とともに晋王に事う。重霸罪を得て梁に奔り、またしょくに奔る。

重霸は人となり狡譎多智、人に事えるを善くす。蜀の王建、これをもって親将と為す。王衍立つ。年少にして、宦者王承休用事す。重霸深く承休に結びて自ら託す。梁の末、蜀は李茂貞の秦・成・階の三州を取る。重霸、承休を勧めて秦州を鎮めんことを求めしむ。王衍、承休を節度使と為し、重霸をその副使と為す。重霸と承休は多く秦州の花木を取りて王衍に献じ、王衍の東遊を請う。唐の魏王、兵を以て蜀を伐つ。承休大いに恐れ、以て重霸に問う。重霸曰く、「剣門は天下の険なり。精兵有りと雖も、過ぐるべからず。然れども公は国恩を受け、難を聞きて赴かざるべからず。願わくは公とともに西せん」と。承休は素よりこれを親信し、然りと以為う。承休、軍を整えて将に発たんとす。秦人これを送り、城外に帳飲す。酒罷みて、承休上道す。重霸、承休の馬前に立ち、辞して曰く、「秦・隴は失うべからず。願わくは留まりて公のために守らん」と。承休は業すでに上道し、これを如何ともすべからず。

唐軍すでに蜀を破る。重霸もまた秦・成・階の三州を以て唐に降る。明宗、これをもって閬州団練使と為す。罷めて左衛大將軍と為す。久しうして、匡国軍節度使と為す。廃帝の時、京兆尹・西京留守と為り、大同に徙鎮す。病を以て罷められ潞州に還り、ここに卒す。

王建立

王建立は遼州榆社の人なり。唐の明宗、代州刺史と為る時、建立を虞候将と為す。荘宗嘗て女奴を代州に遣わし墓を祭らしむ。女奴、代人を侵擾す。建立これを捕えて笞つ。荘宗怒り、これを殺さんと欲す。明宗これを庇護して以て免れしむ。明宗、魏より反し、京師を犯す。曹皇后・王淑妃皆常山に在り。建立、常山の監軍へいびにその守兵を殺す。明宗の家属因りて患い無きを得。これにより明宗ますますこれを愛す。明宗即位し、これをもって成徳軍節度副使と為し、已にして節度使・検校太尉・同中書門下平章事に拝す。

建立は安重誨と素より協わず。定州の王都に二心有り。たびたび書を以て建立に通じ、兄弟たるを約す。重誨これを知りて以て言上す。明宗、建立を傷つけんと欲せず、亟に召し還して京師に入らしむ。建立入見し、また多く重誨の過失を言う。明宗大いに怒り、亟に重誨を罷めんと欲す。群臣左右諷諫してこれを解き、乃ち止む。然れども遂に建立を右僕射・同中書門下平章事・判三司事と為す。歳余り居りて、自ら文字を識らざるを言い、三司を解かんことを願う。明宗許さず。久しうして、建立疾有りと称す。明宗笑いて曰く、「人固より詐りて疾を得て、疾を得る者有り」と。乃ち出して平盧節度使と為し、また上党に徙す。建立怏怏として志を得ず、遂に職を解かんことを求め、乃ち太子少保を以て致仕す。

建立たびたび朝見を請うも許されず。乃ち自ら京師に詣り、闌入して後楼に至り明宗に見え、涕泣して己が罪無きを言い、重誨に擯斥せられたるを訴う。明宗曰く、「汝は節度使たり。好事を行わざるに、豈に独り重誨の汝を讒るのみならんや」と。茶薬を賜いてこれを遣わす。廃帝立ち、復た起して天平軍節度使と為す。

晋の高祖の時、平盧に徙鎮す。天福五年来朝す。高祖これを労いて曰く、「三十年前の老兄、拝せずとも可なり」と。肩輿を賜いて朝に入り、二宦者を与えて掖かせて殿に昇らしめ、宴見甚だ渥し。また昭義に徙し、玉斧・蜀馬を賜う。累封して韓王と為す。

建立は人を殺すを好む。その晩節に至り始めて浮屠法に惑い、殺生を戒め、その至る所の人稍く安んず。卒す。年七十。尚書令しょうしょれいを贈られる。

子の守恩、蔭を以て補われ、稍く遷りて諸衛將軍と為る。建立既に卒し、潞に家す。守恩、京師より告を得て帰る。而して契丹、晋を滅ぼす。昭義節度使張従恩は守恩と姻家なり。乃ち守恩を権巡検使と為し、以て潞州を守らしめ、而して従恩は契丹に入見す。従恩既に去るや、守恩因りて従恩の家財を剽劫し、潞州を以て漢に降る。漢の高祖即位し、守恩を昭義軍節度使と為し、静難に徙鎮し、西京留守と為し、同中書門下平章事を加う。

守恩は性貪にして卑しく、人々は甚だこれを苦しめた。時に周の太祖は枢密使として白文珂等の軍を率いて西の三叛を平らげ、還るに洛陽を過ぎた。守恩は使相として自ら処し、肩輿に乗って出迎えた。太祖は怒り、即日に頭子をもって文珂に命じて守恩に代わり留守と為し、守恩は館に詣でて謁見を待つに客次に坐していたが、吏が馳せて報じて新留守が府に於いて視事すと。守恩は大いに驚き、為すべきを知らず、遂に罷め去り、京師に於いて朝請を奉じた。

後に隠帝が史弘肇等を殺し、群臣を召して殿上に慰諭す。群臣は恐懼し、敢えて言う者無し。独り守恩のみ前に進み対して曰く、「陛下始めて覚醒せられたり」と。聞く者皆頸を縮めた。顕徳年中、左金吾衛上将軍として卒す。

嗚呼、道徳仁義は以て治めるところなり。而して法制綱紀も亦以てこれを維持する所以なり。古より乱亡の国は必ず先ず其の法制を壊し而して後に乱これに従う。乱と壊れとは相乗じ、蕩然として復た綱紀無きに至り、則ち必ず大乱に極まりて後に返る。此れ勢の然る所以なり。五代の際は是れ已に然り。文珂・守恩の如きは皆位将相を兼ね、漢の大臣なり。而るに周の太祖は一枢密使の頭子を以てこれを易え置くこと、戍卒を更えるが如し。是の時、太祖と漢とは未だ間隙の端有らず。其の君無く上に叛くの志は宜しく未だ心に萌さざるべし。而して其の為すところ此の如きは何ぞや。蓋し其の習い常事と為す故に、特だ喜怒頤指の間に発し、而して文珂は敢えて違わず、守恩は拒むことを得ず。太祖既にこれを処すること疑わず、而して漢廷の君臣も亦これを置いて問わず。其の上下安然として怪しまざるは、豈に朝廷の法制綱紀壊乱相乗じ、其の来ること遠く、既に極まりて此に至れるに非ずや。是を以て天下を善く慮る者は、微を忽せずして常に其の漸を杜す。戒めざるべけんや。

康福

康福は蔚州の人なり。世々軍校と為る。福は騎射を以て晋王に事えて偏将と為る。荘宗嘗て曰く、「吾が家は羊馬を以て生と為す。福は状貌胡人に類して豊厚なり。胡は宜しく羊馬に適す」と。乃ち福に命じて相州に馬を牧せしめ、小馬坊使と為す。逾年して馬大いに蕃滋す。明宗魏より反し、兵相州を過ぐ。福は小坊の馬二千匹を以て帰命す。明宗の軍勢是れより由って益々盛ん。明宗入りて立ち、飛龍使を拝し、磁州刺史・襄州兵馬都監を領す。劉訓に従い荊南を討つも、功無くして還る。

福は将と為るに他に能無く、諸戎の語に善し。明宗嘗て便殿に召し入れ、外事を訪う。福は輒ち蕃語を以て対す。枢密使安重誨これを悪み、常に福を戒めて曰く、「妄りに事を奏すること無かれ。汝を斬らん」と。福懼れ、外任を求む。

霊武の韓洙死し、其の弟澄立ち、而して偏将李従賓乱を作す。澄表して朝廷に帥を命ぜんことを請う。而して重誨は霊武は夷境に深く入り、帥と為る者は多く害に遇うと謂い、乃ち福を拝して涼州刺史・朔方河西軍節度使と為す。福入りて明宗に見え、涕泣して重誨に擠さるると言う。明宗重誨を召して福の為に他鎮に更えしめんとす。重誨曰く、「福は刺史と為りて功効無くして節旄を建つ。其れ敢えて択ぶところ有らんや」と。明宗怒り、福に謂いて曰く、「重誨汝を遣わすは吾が意に非ず。吾当に兵を遣わして汝を護らん。憂い無かるべし」と。乃ち将軍牛知柔に命じて兵を以て福を衛わしむ。行くこと方渠に至り、而して羌夷果たして出でて福を邀う。福は兵を以てこれを撃ち走らす。青岡峡に至り、雪に遇う。福山に登りて望み見るに川谷の中に煙火有り。吐蕃数千帳有り、福の至るを覚えず。福其の兵を分かち三道と為し、其の意に出でずしてこれを襲う。吐蕃大いに駭き、車帳を棄てて走る。これを殺すこと殆んど尽くし、其の玉璞・綾錦・羊馬を獲ること甚だ衆し。是れより由って威声大いに振う。

福霊武に居すること三歳、歳常に豊稔し、馬千駟有り、蕃夷畏服す。言事者福に異志有りと疑い、重誨も亦福必ず朝廷に負かんと言う。明宗人を遣わして福に謂いて曰く、「我何ぞ汝に少くして我に負かんと欲するや」と。福言う、「国恩を受くること深し。死有りて二無し」と。因りて還朝を乞う。許さず。福の章再び上る。即ち随いて至る。明宗これを罪せず、鎮を彰義に徙す。静難・雄武を歴て、西面都部署を充つ。

晋の高祖の時、鎮を河中に徙す。代わり還り、京師に卒す。太師を贈られ、謚して武安と曰う。

福の世本夷狄なり。夷狄は沙陀を貴ぶ。故に常に自ら沙陀の種なりと言う。福嘗て疾有りて閤中に臥す。寮佐入りて疾を問う。其の錦衾を見て、相顧みて窃に戯れて曰く、「錦衾爛たり」と。福これを聞き、怒りて曰く、「我は沙陀の種なり。安んぞ我を奚と謂わんや」と。聞く者これを笑う。

郭延魯

郭延魯は沁州綿上の人なり。父饒はぎょう勇を以て晋に事え、数たび軍功を立て、沁州刺史と為ること九年、政を為すに恵愛有り、州人これを思う。

延魯は槊を善くするを以て将と為り、累遷して神武都知兵馬使と為る。朱守殷反す。従いて汴州を攻め、先登の功を以て汴州馬歩軍都指揮使と為り、累遷して復州刺史と為る。延魯歎いて曰く、「吾が先君沁州と為ること九年、民今に至るまでこれを思う。吾今幸いに刺史を得たり。其れ敢えて吾が先君の志を忘れんや」と。是れより由って益々廉平を以て自ら励み、民甚だこれを頼む。秩満つ。州人留まることを乞うも、許さず。皆道を遮り号泣して攀ず。天福年中、単州刺史を拝し、官に卒す。

是の時に当たり、刺史は皆軍功を以て拝せらる。言事者多く以て言と為し、天下多事、民力困敝の時に当たり、刺史を武夫に任せ、功を恃み下に縦つるは、害小さからずと謂う。而して延魯父子は、特だ善政を以て聞こえたり。

嗚呼、五代の民其れ何を以てか之に堪えん。上は兵賦の急を輸し、下は剝斂の苛に困す。荘宗以来、方鎮進献の事稍々作る。晋に至りては勝げて紀すべからず。其の「添都」「助国」の物、動もすれば千数を以て計う。来朝・奉使・買宴・贖罪に至るまで、進献より出でざるは莫し。而して功臣大将、不幸にして死すれば、則ち其の子孫率ね家貲を以て刺史を求め、其の物多き者は大州善地を得たり。蓋し天子より皆賄賂を以て事と為す。則ち其の民と為る者其れ何を以てか之に堪えん。此の時に於いて、廉を循るの吏延魯の徒の如きは、誠に得難くして貴ぶべし。