新五代史

巻第四十五

目次

張全義

張全義、字は國維、濮州臨濮の人である。若くして田家の子として縣に役せられ、縣令はしばしばこれを困辱したので、全義はついに亡びて黄巢の賊中に入った。長安ちょうあんが陥落すると、全義を吏部尚書・水運使とした。黄巢の賊が敗れると、去って河陽の諸葛爽に仕えた。爽が死ぬと、その子仲方に仕えた。

仲方が孫儒に逐われたとき、全義は李罕之とともに河陽・洛陽らくようを分かち据えて梁に附き、二人は互いに得て甚だ歓んだ。しかし罕之の性は貪暴で、日々に寇鈔を事とした。全義は勤儉で、軍を御するに法あり、民を督して耕殖させた。この故に、罕之は常に食に乏しく、全義は常に余りがあった。罕之は全義に仰給し、全義は給することができず、二人はここに隙を生じた。

罕之は兵を出して晉・絳を攻め、全義は河陽を襲い取った。罕之は晉に奔り、晉は兵を遣わして罕之を助け、全義を囲んで甚だ急であった。全義は梁に兵を乞い、梁は牛存節・丁會らに兵万人を率いさせて九鼎より河を渡り、沇水において罕之を撃ち破った。晉軍は解いて去った。梁は丁會に河陽を守らせ、全義は還って河南尹となった。全義は梁が己を出だしたことを徳とし、ここより心を尽くした。

この時、河南は黄巢・孫儒の兵火の後に遭い、城邑は残破し、戸は百に満たなかった。全義は荊棘を披き、耕殖を勧め、自ら酒食を載せて、畎畝の間に民を労い、南・北二城を築いてこれに居らしめた。数年を経て、人物は完盛し、民は甚だこれを頼んだ。梁の太祖が唐の昭宗を劫して東遷するに及び、宮闕・府廨・倉庫を繕理したのは、皆な全義の力によるものであった。

全義は初め名を言といい、唐の昭宗より全義の名を賜った。唐が滅び、全義は梁に仕え、また改名を請うたので、太祖より宗奭の名を賜った。太祖は猜忌で、晩年は特に甚だしく、全義は奉事すること益々謹み、ついに自ら免れた。

梁が晉と河北で戦って以来、兵は数えしばしば敗れ亡びたが、全義はすなわち卒伍と鎧馬を蒐め、月ごとにこれを献じてその欠を補った。太祖が蓨縣に兵敗れ、道中病み、洛に還り、全義の會節園に幸して避暑し、旬日を留まったとき、全義の妻女は皆な迫られてこれを淫された。その子継祚は憤恥に堪えず、太祖に剚刃せんとしたが、全義はこれを止めて言った、「我れは李罕之の兵に河陽を囲まれ、木屑を啖って食とし、ただ一馬あるのみで、これを殺して軍に餉らんとした。死は朝夕にありしに、梁の兵これを出だし、今日に至るを得たり。この恩は忘るべからず。」継祚はすなわち止んだ。

かつて全義について太祖に言う者があり、太祖は全義を召したが、その意は測りがたかった。全義の妻儲氏は明敏で口辯あり、遽かに入見し、厲声にて言った、「宗奭は種田の叟に過ぎませぬ。河南を守ること三十年、荒れ地を開き土を斸り、財賦を捃拾して、陛下の創業を助けました。今や年歯衰朽し、すでに能うところ無し。しかるに陛下これを疑われるのは、何故でございますか。」太祖は笑って言った、「我れに悪心は無い。嫗よ多く言うなかれ。」

全義は梁に仕え、累ねて中書令に拝され、食邑は一万三千戸に至り、忠武・陝虢・鄭滑・河陽の節度使を兼領し、六軍諸えい事を判じ、天下兵馬副元帥となり、魏王に封ぜられた。

初め、全義が李罕之に敗れたとき、その弟全武および家屬は晉兵に得られ、晉王は田宅を与えてこれを厚く遇した。全義は常に密かに人を遣わして太原に通問した。梁が滅び、莊宗が汴に入ると、全義は洛より来朝し、泥首して罪を待った。莊宗はこれを労って言った、「卿の家の弟姪、幸いまた相見ゆ。」全義は俯伏して感涕した。年老いて進趨することができず、人に掖き扶けられて登り、宴犒は歓を尽くした。皇子継岌・皇弟存紀らに命じて皆なこれを兄事させた。全義はここに梁の賜いし名を去り、その故なる名に復することを請うた。しかし全義はなお自ら安んぜず、乃ち厚く劉皇后に賂して自ら託した。

初め、梁の末帝が洛陽に幸し、南郊において天を祀らんとして果たさず、その儀仗法物はなお在った。全義はここに洛陽に幸することを請い、南郊の儀物はすでに具わると言上した。莊宗は大いに悦び、加えて全義を太師・尚書令しょうしょれいに拝した。明年十一月、莊宗が洛陽に幸したが、南郊の礼に物具わず、ここに来る年二月に改用した。しかし以前の言葉をもって全義を責めなかった。皇后の故をもって、これを遇すること愈々厚く、数えしばしばその第に幸し、皇后に命じて全義を父として拝せしめ、齊王に改封した。

初め、莊宗が梁を滅ぼし、梁の太祖の墓を掘り、棺を斲り尸を戮さんとした。全義はこれについて、梁は仇敵とはいえ、今やすでにその家を屠滅したことは、怨みに報いるに足り、棺を剖くの戮は、王者が大度をもって天下に示すことではない、と言った。莊宗はこれを然りとし、墓闕を鏟き去ったのみであった。

全義の監軍がかつて李徳裕の平泉の醒酒石を得たことがあり、徳裕の孫の延古が全義に託してこれを再び求めた。監軍は憤然として言うには、「黄巣の乱の後、洛陽の園宅は守りきれるものはなく、どうして平泉の一石のみであろうか」と。全義はかつて巣賊の中にいたので、己を讒ったと思い、大いに怒り、監軍を笞殺するよう上奏した。天下の人はこれを冤罪とした。その訴訟を聴くに、先に訴えた者を正しいとし、民はこれを大いに苦しんだ。

同光四年、趙在禮が魏で反乱を起こし、元行欽が賊を討って功がなく、荘宗は自ら将として討とうとした。大臣は皆諫めて不可とし、明宗が将とすべきであると言った。この時、郭崇韜・朱友謙は既に殺され、明宗は鎮州より来朝し、私第に処していた。荘宗はこれを疑い、派遣しようとしなかった。群臣が固く請うも従わず、最後に全義が力を尽くして言上したので、荘宗は従った。やがて明宗が魏に至って果たして反逆し、全義は憂いのうちに卒去した。七十五歳。諡して忠肅という。

子の継祚は、官は上将軍に至った。晋の高祖こうその時、張従賓とともに河陽で反逆し、族誅に当たった。ところが宰相の桑維翰がその父の珙がかつて全義に仕えて恩があったことを理由に、その命を全うするよう乞うたが、許されず、ただ継祚とその妻子を誅するのみであった。

朱友謙

朱友謙、字は徳光、許州の人である。初めの名は簡、兵卒として澠池鎮に隷属し、罪を得て逃亡し、石濠・三郷の間で盗賊となり、商旅行路は皆これを苦しめた。久しくして去り、陝州の軍校となった。

陝州節度使の王珙は、人となり厳酷で、その弟の珂と河中を争い、戦いに敗れた。その牙将の李璠が友謙と謀り、共に珙を殺し、梁に附いた。太祖は璠を上表して珙に代えさせた。璠が立つと、友謙はまた兵をもってこれを攻め、璠は逃げ去ることができた。梁の太祖はまた友謙を上表して璠に代えさせた。

梁の兵が西の李茂貞を攻めた時、太祖は往来して陝を過ぎた。友謙は奉事すること特に謹んで、請うて言うには、「僕はもとより功なくして、富貴ここに至るは、元帥の力なり。かつ幸い同姓なれば、名を改めて諸子の列に加わりたい」と。太祖はますますこれを憐れみ、その名を友謙と改め、子として録した。太祖が即位すると、鎮を河中に移し、累遷して中書令となり、冀王に封ぜられた。

太祖がしいしいぎゃくに遇うと、友珪が立った。友謙に侍中を加えたが、友謙は命を受けたとはいえ、心に常に不平であった。やがて友珪は使いを遣わして友謙を召し入朝させようとしたが、友謙は行かず、晋に附いた。友珪は招討使の韓勍に康懐英らの兵五万を率いさせて友謙を撃たせた。晋王は沢・潞より出てこれを救い、解県で懐英と遇い、これを大いに破り、白逕嶺まで追撃した。夜、炬火を秉ってこれを撃つと、懐英はまた敗れ、梁兵は遂に解いて去った。友謙は酔って晋王の帳中に寝ていた。晋王はこれを見て、左右を顧みて言うには、「冀王は甚だ貴いとはいえ、ただその臂の短きを恨むのみ」と。

末帝が即位すると、友謙はまた梁に臣従したが、晋との関係を絶たなかった。貞明六年、友謙はその子の令徳を遣わして同州を襲撃させ、節度使の程全暉を逐い、兼鎮を求めた。末帝は初め許さなかったが、やがてこれを許した。制命未だ至らざるうちに、友謙はまた叛き、始めて梁を絶ち晋に附いた。末帝は劉鄩らを遣わしてこれを討たせたが、鄩は李存審に敗れた。晋は友謙を西平王に封じ、守太尉を加え、その子の令徳を同州節度使とした。

荘宗が梁を滅ぼし洛に入ると、友謙は来朝した。姓名を賜って李継麟とし、賜与は巨万に及んだ。明年、守太師・尚書令を加え、鉄券を賜って死罪を恕された。その子の令徳を遂州節度使とし、令錫を忠武軍節度使とし、諸子およびその将校で刺史となった者は十余人に及び、恩寵の盛んなりしは、時に比するもの無かりき。

この時、宦官・伶人が権力を握り、多く友謙に賂を求めたが、友謙は与えることができず辞退したので、宦官・伶人は皆怒った。唐の兵がしょくを伐つ時、友謙はその精兵を閲し、その子の令徳に命じてこれを将いて従軍させた。郭崇韜が殺害されると、伶人の景進が言うには、「唐兵の初めに出た時、友謙は己を討つものと思い、兵を閲して自ら備えた」と。また言うには、「崇韜と謀反を図った」と。かつ、「崇韜が蜀で反逆したのは、友謙を内応としたからである。友謙は崇韜の死を見て、ひそかに存乂とともに郭氏の冤罪を報いようとした」と。荘宗は初めその事を疑ったが、群伶・宦官が日夜これを言上した。友謙はこれを聞いて大いに恐れ、入朝して自ら明らかにしようとした。将吏は皆その行かぬよう勧めたが、友謙は言うには、「郭公は国に大功ありて、讒言によりて死せり。我自ら明らかにせずんば、誰か我がために言わん」と。乃ち単車にて入朝した。景進は人を使い、偽りの変書を作らせ、友謙の反逆を告げた。荘宗はこれに惑わされ、友謙を義成軍節度使に転じ、朱守殷に夜兵を遣わしてその館を囲ませ、友謙を徽安門外に駆り出して殺し、その姓名を復した。詔して魏王継岌に令徳を遂州で殺させ、王思同に令錫を許州で殺させ、夏魯奇にその家属を河中で族誅させた。魯奇がその家に至ると、友謙の妻の張氏はその宗族二百余口を率いて魯奇に会い、言うには、「朱氏の宗族は死すべきなり。願わくは平人に濫り及ばざらんことを」と。乃ちその婢僕百人を別け、その一族百口を以て刑に就かせた。張氏は室に入り、その鉄券を取って魯奇に示し、言うには、「これは皇帝の賜わるところなり。何の言葉なるや知らず」と。魯奇もまたこれに慚じた。

友謙が死ぬと、その将の史武ら七人も皆友謙に連座して族誅に処せられ、天下の人はこれを冤罪とした。

袁象先

袁象先、宋州下邑の人、唐の南陽王恕己の後裔である。父の敬初は、梁の太府卿・駙馬都尉、太祖の妹を尚し、これが万安大長公主である。象先は梁の甥として宣武軍内外馬歩軍都指揮使となり、宿・洺・陳の三州刺史を歴任した。太祖が即位すると、累遷して左龍武統軍・在京馬歩軍都指揮使となった。

太祖が弑逆に遇うと、友珪が立った。末帝は東都に留守し、大事を趙巖に謀った。巖は言うには、「この事は反掌の如し。ただ招討の楊令公の一言を以て禁軍に諭せば、事成るべし」と。末帝は即ち人を魏州に遣わし、謀を楊師厚に告げた。師厚は裨将の王舜賢を洛陽に遣わし、象先と謀らせた。象先は諾した。この時、龍驤軍の将の劉重遇が懐州に戍しており、その軍を以て乱を起こした。友珪は霍彦威を遣わして鄢陵でこれを撃破したが、その余の兵は奔散し、これを捕えること甚だ急であった。末帝は即ち東京にいる龍驤軍を召し告げて言うには、「上は重遇の故を以て、龍驤軍を尽く洛に召し寄せて誅せんと欲す」と。乃ち偽りの友珪の詔書を作ってこれに示した。龍驤軍は恐懼し、なすところを知らず、これに告げて言うには、「友珪は父と君を弑し、天下の賊なり。汝ら能く洛陽に趨ってこれを擒え、その首を以て先帝を祭らば、いわゆる禍を転じて福となすなり」と。軍士は踊躍して言うには、「王の言うところ是なり」と。末帝は即ち馳奏して言うには、「龍驤軍反逆す」と。象先はこれを聞き、即ち禁軍千人を率いて宮中に入り、友珪を攻めた。友珪は死んだ。末帝が即位すると、象先を鎮南軍節度使・同中書門下平章事・開封尹・判在京馬歩軍諸軍事に拝した。貞明四年、平盧軍節度使となり、鎮を宣武に移した。

象先は梁の将軍であったが、戦功はなく、甥という縁故だけで親軍を掌握した。友珪を誅殺した際、末帝に功があった。宋州に十数年留まり、民から搾取して財貨を千万も蓄積した。荘宗が梁を滅ぼすと、象先は洛陽に来朝し、数十万の資財を車に積んで、唐の将相・伶官・宦官及び劉皇后らに賄賂を贈った。これにより内外でこぞってその人となりを称賛した。荘宗は彼を厚遇し、姓名を李紹安と賜い、宣武軍を帰徳軍と改め、「帰徳の名は卿のために設けたものなり」と言った。彼を帰鎮させた。この年に卒去、六十歳、太師を追贈された。

象先に二人の子があり、正辞は刺史に至り、嶬は周の世宗の時に横海軍節度使となった。象先が平生に蓄積した財産は数千万、邸宅四千棟に及んだが、その死に際し、諸子に分け与えず、全て正辞に与えた。正辞は初め父の任により飛龍副使となった。唐の廃帝の時、銭五万緡を献上し、衢州刺史を兼ねた。晋の高祖が即位すると、また五万緡を献上し、真の刺史を求めた。雄州刺史に任じられたが、州は霊武の西、吐蕃の境中にある。正辞は畏れて行きたがらず、また数万の銭を献上して、ようやく免れることができた。正辞は憤りに耐えかね、衣帯で自縊しようとしたが、家人に救われて止んだ。出帝の時、また銭三万緡・銀一万両を献上し、出帝はこれを哀れみ、内郡の一つを与えようとしたが、その前に卒去した。

正辞は銭を部屋いっぱいに積み上げた。部屋の中からかつて牛のような声がしたので、人々は妖異と思い、蓄積を散じて攘うよう勧めた。正辞は言った、「物に声があるのは、その同類を求めているだけだと聞く。むしろ銭を増やすべきで、声は必ず止むだろう」。聞いた者はこれを笑い話として伝えた。

朱漢賓

朱漢賓は字を績臣といい、亳州譙県の人である。その父の元礼は軍校となり、梁軍に従って戦い、清口で戦死した。漢賓は人となり胆力があり、梁の太祖はその父が戦死したことを憐れみ、養子とした。

この時、梁はちょうど東の兗州・鄆州を攻めており、鄆州の朱瑾は軍中のぎょう勇な者を募り、その頬に双雁をげいして「雁子都」と号した。太祖はこれを聞き、さらに勇士数百人を選び、「落雁都」と号し、漢賓を指揮使とした。漢賓が貴くなってからも、人々はなお「朱落雁」と呼んだ。漢賓は梁に仕えて天威軍使となり、磁・滑・宋・亳・曹の五州刺史、安遠軍節度使を歴任した。

荘宗が梁を滅ぼすと、漢賓を罷免して右龍武統軍とし、待遇は甚だ薄かった。後に荘宗が遊猟の際にその邸宅に立ち寄ると、漢賓の妻は容色があり聡明であったため、側に侍って酒食を進め、歌舞を奏した。荘宗は大いに喜び、夜漏二更まで留まって去った。漢賓はこれより寵愛を受けるようになった。

初め、漢賓が梁にいた時、朱友謙と共に太祖の養子であったが、友謙は年長であったので、漢賓は兄として仕えた。その後梁が滅び、漢賓はたびたび友謙に手紙を送ったが、友謙は返答せず、漢賓はこれを恨んだ。その後友謙が族滅された時、人々は皆、漢賓の力によるものと思った。

明宗が即位すると、漢賓が荘宗に厚遇されていたことを憎み、右衛上將軍とした。安重誨が権力を握ると、漢賓はこれに依附し、互いに婚姻を結んだ。これにより再び昭義軍節度使となることができた。重誨が死ぬと、漢賓は罷免されて上將軍となり、ついに太子少保で致仕した。

漢賓は将軍として、戦功はなかったが、政に臨んでよく法を守り、施しと恩恵を好んだので、人々は甚だ彼を愛した。清泰二年に卒去、六十四歳。晋の高祖の時、太子少傅を追贈され、諡を貞恵といった。

段凝

段凝は開封の人である。初めの名は明遠、後に名を凝と改めた。澠池の主簿となった。その父は梁の太祖に仕え、事に坐して流罪となった。後に凝は官を棄て、また太祖に仕え、軍巡使となった。またその妹を太祖に納れた。妹は容色があり、後に美人となった。

凝は人となり邪悪で巧みであり、人の意を窺い迎合するのが上手く、また妹の縁故もあって、太祖は次第に彼を親信し、常に諸軍を監察させた。懐州刺史となった時、梁の太祖が北征し、懐州を通りかかると、凝は献上品が甚だ豊かであったので、太祖は大いに喜んだ。相州を通りかかると、相州刺史の李思安の献上品は通常の礼の通りで、凝に比べて薄かった。太祖は怒り、思安はこれにより罪を得て死んだ。凝を鄭州刺史に遷し、河上で兵を監察させた。李振はしきりに彼を罷免するよう請うたが、太祖は「凝に罪はない」と言った。振は「罪があるのを待てば、社稷は亡びましょう」と言った。しかし結局罷免しなかった。

荘宗がすでに魏博を下し、梁と河上で対峙していた。梁は王彦章を招討使とし、凝を副使とした。この時、末帝は昏乱しており、小人の趙巌・張漢傑らが権力を握り、凝は巌らに依附して奸計をなした。彦章が招討使となって三日目に、奇計を用いて唐の徳勝南城を破った。しかし凝と彦章はそれぞれ自分の功績を上奏し、巌らは彦章の功績状を匿い、その功績を全て凝に帰した。凝はそこで金を巌らに贈り、彦章に代わることを求めた。末帝は巌らの言葉に惑わされ、ついに凝を招討使とし、王村に駐屯させた。

この時、唐はすでに鄆州を下していた。凝はそこで酸棗から黄河を決壊させて東に流し鄆州に注がせ、唐軍を隔絶しようとし、「護駕水」と号した。荘宗が鄆州から汴州に急行すると、汴兵は全て凝に属しており、京師には備えがなかった。そこで張漢倫を馹駅で急行させ河上の凝を召還しようとしたが、漢倫は途中で落馬し、傷ついて進めなかった。やがて梁が滅び、凝は精兵五万を率いて唐に降った。荘宗は錦袍と御馬を賜った。翌日、凝は奏上した、「故梁の奸人趙巌・張漢傑ら十余人は権柄を侮弄し、生霊を残害しました。どうか皆族滅させてください」。凝は唐朝に出入りしても慙色なく、唐の将相を見下し倡優のごとく扱い、伶人の景進を通じて劉皇后に賄賂を贈り、恩寵を求めた。荘宗は彼を甚だ親愛し、姓名を李紹欽と賜い、泰寧軍節度使とした。一ヶ月余り在任し、庫銭数十万を使った。有司がその償いを求めると、荘宗はこれを赦免した。郭崇韜が固く請うて不可とすると、荘宗は怒って言った、「朕は卿に制せられて、全く自由がきかぬ!」結局赦免した。

荘宗は李紹宏を遣わして諸将を監察させ契丹に備えさせた。凝は瓦橋関に駐屯し、諂って紹宏に仕え、紹宏はしばしば凝を大用に堪えると推薦したが、郭崇韜は常に不可と為した。武勝軍節度使に遷る。趙在礼が反逆すると、紹宏は凝を招討使とするよう請うた。荘宗は凝に方略を条奏させたが、凝が請うた偏裨の将は皆その旧党であったので、荘宗はこれを疑い、遂に止めた。明宗が即位すると、帰田里を勅した。明年、遼州に長流し、死を賜う。

劉玘

劉玘は汴州雍丘の人である。代々宣武軍の牙将を為す。梁の太祖が宣武を鎮守する時、玘は軍卒より隊長に補せられ、稍々戦功により牙将に遷り、襄州都指揮使と為る。

山南節度使王班が乱軍に殺害されると、乱軍は玘を推して留後と為す。玘は偽ってこれを許し、明日庭にて士卒を饗し、幕中に甲兵を伏せ、酒半ばにして乱を為す者を擒えて殺した。時に梁より陳暉の兵も遣わされて到り、襄州は平定され、功により復州刺史を拝し、亳州・安州に移る。

末帝の時、晋州観察留後と為り、凡そ八年、日々晋人と交戦す。荘宗が梁を滅ぼすと、玘は来朝した。荘宗はこれを労って曰く、「劉侯恙無しや、爾は晋陽の南鄙に久しく居るも、早く相聞かず、今日訪れ見る、其れ晩からずや」と。玘は頓首して謝罪し、還鎮を遣わされ、遂に節度使と為し、安遠に移鎮す。天成元年、史敬鎔を以てこれに代え、玘は京師に還る。未だ至らざるに、武勝軍節度使を拝し、疾を以て道中に卒す。侍中を贈られる。

周知裕

周知裕は字を好問と云い、幽州の人である。劉仁恭の騎将と為り、仁恭が其の子守光に囚われたる時、知裕は去って守光の兄守文に事う。守光又守文を攻め殺すと、乃ち張万進と共に守文の子延祚を立ててこれに事う。守光又延祚を殺し、其の子継威を以てこれに代える。万進は継威を殺し、知裕と共に梁に奔る。

梁の太祖は知裕を得て甚だ喜び、帰化軍を置き、知裕を指揮使と為す。凡そ晋と戦いて得たる者及び兵卒晋を背き梁に帰する者は、皆知裕に隷せしむ。梁・晋河上に相拒すること十餘年、其の堅を摧き陣を陥れるは、帰化一軍最も優れり。然れども知裕の位は刺史を過ぎず。

荘宗が汴に入ると、知裕は段凝と河上に軍し、梁既に亡ぶと聞き、自殺せんと欲す。賓客故人の止むる所と為り、乃ち唐に降る。荘宗は特に寵待し、諸将その寵を嫉み、狩猟に因りてこれを射る。知裕は走りて免る。荘宗は射たる者を殺し、知裕を房州刺史と為す。明宗の時、絳・淄二州刺史を歴任し、宿州団練使・安州留後に遷る。居る所皆善政有り。安州は淮に近く、俗悪しく病者を忌み、父母疾有れば、之を佗室に置き、竹竿を以て飲食を繫ぎて委ね、死に至るまで近づかず。知裕は深くこれを患い、教導を加う。是より稍々革まる。罷めて右神武統軍と為る。応順年中に卒す。太傅を贈られる。

陸思鐸

陸思鐸は澶州臨黄の人である。少くして梁に事え宣武軍の卒と為り、善射を以て知名。累遷して拱辰左廂都指揮使、恩州刺史を領す。

梁・晋河上に相拒する時、思鐸は其の姓名を箭筈に鏤りて以て晋軍を射る。而して矢は荘宗の馬鞍に中る。荘宗は矢を抜き、思鐸の姓名を見て、之を奇とす。其の後梁を滅ぼし、思鐸謁見す。荘宗は其の矢を出して以て之を示す。思鐸は地に伏して死を請う。荘宗は慰めて之を起こし、龍武右廂都指揮使を拝す。

晋の高祖の時、陳・蔡二州刺史と為る。卒年五十四。思鐸は陳州に在りて善政有り。臨終に其の子を戒めて曰く、「陳人の我を愛する、我死すれば則ち焉くに葬れ」と。遂に陳州に葬る。