新五代史

原文新五代史

巻四十四

原文卷44

劉知俊

原文劉知俊

劉知俊、字あざなは希賢、徐州じょしゅう沛の人である。若くして時溥に仕え、溥が梁と相攻めたとき、知俊はその麾下二千人を率いて梁に降り、太祖(朱全忠)は彼を左開道指揮使とした。

原文劉知俊字希賢,徐州沛人也。少事時溥,溥與梁相攻,知俊與其麾下二千人降梁,太祖以為左開道指揮使。

知俊の姿形は雄傑で、甲冑を着て馬に上り、剣を輪舞させて敵陣に入り、その勇は諸将を抜きん出ていた。当時、劉開道の名は軍中に重んじられた。海州・懐州・鄭州の三州刺史を歴任し、青州攻略に従軍し、功により匡国軍節度使に表された。

原文知俊姿貌雄傑,能被甲上馬,輪劍入敵,勇出諸將。當是時,劉開道名重軍中。歷海、懷、鄭三州刺史,從破青州,以功表匡國軍節度使。

邠州の楊崇本が兵六万を率いて雍州を攻め、美原に駐屯した。この時、太祖は諸将と共に滄州そうしゅうを攻めていたが、知俊は命令を待たず、康懐英らと共に崇本を撃破し、斬首二万、馬三千匹を獲、その偏将・裨将ひしょう百人を捕らえた。

原文邠州楊崇本以兵六萬攻雍州,屯于美原。是時,太祖方與諸將攻滄州,知俊不俟命,與康懷英等擊敗崇本,斬馘二萬,獲馬三千匹,執其偏裨百人。

李思安が夾城を築いて潞州ろしゅうを攻めたが、長く落とせず、太祖は思安を罷め、知俊を行営招討使に任じた。潞州に至らぬうちに夾城は既に陥ち、西路行営招討使に転じ、幕谷において邠州・岐州の兵を破った。この時、延州の高万興が楊崇本に叛いて梁に降り、太祖は知俊を遣わして万興と合流させ、丹州・延州・鄜州・坊州の四州を攻め落とさせた。検校太尉兼侍中を加えられ、大彭郡王に封ぜられた。知俊の功績はますます高くなり、太祖の性格は猜忌心が強く、しばしば諸将を殺した。王重師は罪なくして殺され、知俊はますます恐れ、安らかでなくなった。太祖が既に鄜州・坊州を下した後、知俊を遣わして再び邠州を攻めさせたが、知俊は軍糧が供給されないことを理由に行かなかった。

原文李思安為夾城攻潞州,久不下,太祖罷思安,拜知俊行營招討使,未至潞,夾城已破,徙西路行營招討使,敗邠、岐兵於幕谷。是時,延州高萬興叛楊崇本降梁,太祖遣知俊會萬興,攻下丹、延、鄜、坊四州,加檢校太尉兼侍中,封大彭郡王。知俊功益高,太祖性多猜忌,屢殺諸將,王重師無罪見殺,知俊益懼,不自安。太祖已下鄜、坊,遣知俊復攻邠州,知俊以軍食不給未行。

太祖が河中に行幸し、宣徽使王殷を使わして知俊を召し出した。その弟の知浣は親軍指揮使であり、密かに人を遣わして知俊に来るべきでないと告げさせた。知俊は遂に叛き、李茂貞に臣従し、兵を率いて雍州・華州を攻め、劉捍を捕らえて鳳翔ほうしょうに送った。太祖は人を遣わして知俊に言わせた、「朕は卿をこれ以上なく遇してきた。どうして背くのか」と。知俊は答えて言った、「王重師は陛下に背かずして族滅されました。臣は徳に背くのではなく、ただ死を恐れるだけです」と。太祖は再び語らせた、「朕は固より卿がこのゆえであることを知っている。吾が重師を誅したのは、劉捍が吾を誤らせたからで、卿をここまで追いやった。吾はどうしてこれを恨まないことがあろうか。今や捍は既に死んだが、責めを塞ぐには至らない」。知俊は返答せず、兵をもって潼関を遮断した。

原文太祖幸河中,使宣徽使王殷召知俊。其弟知浣為親軍指揮使,間遣人告知俊以不宜來。知俊遂叛,臣於李茂貞,以兵攻雍、華,執劉捍送于鳳翔。太祖使人謂知俊曰:「朕待卿至矣,何相負邪?」知俊報曰:「王重師不負陛下而族滅,臣非背德,但畏死爾!」太祖復使語曰:「朕固知卿以此,吾誅重師,乃劉捍誤我,致卿至此,吾豈不恨之邪?今捍已死,未能塞責。」知俊不報,以兵斷潼關。

太祖は劉鄩・牛存節を遣わして知俊を攻めさせた。知俊は遂に茂貞のもとに奔った。茂貞の地は狭く、彼を処遇する術がなく、彼を西に遣わして霊武を攻めさせた。韓遜が急を告げると、太祖は康懐英・寇彦卿らを遣わして邠寧ひんねいを攻めさせ、牽制した。知俊は昇平において懐英を大破し、梁の将許従実を殺した。茂貞は大いに喜び、知俊を涇州節度使とし、興元を攻めさせ、興州・鳳州を取らせ、西県を包囲させた。

原文太祖遣劉鄩、牛存節攻知俊,知俊遂奔于茂貞。茂貞地狹,無以處之,使之西攻靈武。韓遜告急,太祖遣康懷英、寇彥卿等攻邠寧以牽之。知俊大敗懷英於昇平,殺梁將許從實。茂貞大喜,以知俊為涇州節度使,使攻興元,取興、鳳,圍西縣。

やがて茂貞の側近が知俊の功績を妬み、事を構えて彼を疎んじさせ、茂貞はその軍権を奪った。知俊は乃ち蜀しょくに奔り、王建は彼を武信軍節度使とし、茂貞を攻め返させ、秦州・鳳州・階州・成州の四州を取らせた。建は知俊を甚だ厚く遇したが、しかしまた密かにその才能を忌み、嘗て側近に言った、「吾は老いた。吾が死ねば、知俊はお前たちの制することのできる者ではない。早く図った方がよい」と。而して蜀の人々もまた共に彼を嫉んだ。知俊は人となり色黒く、その生まれ年は丑であった。建の諸子は皆「宗」「承」の字を名に用いていたので、里巷に流言を捏造して言った、「黒牛が囲いを出て棕櫚の縄が切れる」と。建はますますこれを憎み、遂に(知俊は)殺された。

原文已而茂貞左右忌知俊功,以事間之,茂貞奪其軍。知俊乃奔于蜀,王建以為武信軍節度使,使返攻茂貞,取秦、鳳、階、成四州。建雖待知俊甚厚,然亦陰忌其材,嘗謂左右曰:「吾老矣,吾且死,知俊非爾輩所能制,不如早圖之!」而蜀人亦共嫉之。知俊為人色黑,而其生歲在丑。建之諸子,皆以「宗」、「承」為名,乃於里巷構為謠言曰:「黑牛出圈椶繩斷。」建益惡之,遂見殺。

丁会

原文丁會

丁会、字は道隠、寿州寿春の人である。若い頃、葬送の挽歌を巧みに歌い、特にその声を悲愴にすることができ、自ら喜んでいた。後に去って盗賊となり、梁の太祖と共に黄巢に従った。梁の太祖が宣武を鎮守すると、彼を宣武都押衙とした。

原文丁會字道隱,壽州壽春人也。少工挽喪之歌,尤能悽愴其聲以自喜。後去為盜,與梁太祖俱從黃巢。梁太祖鎮宣武,以為宣武都押衙。

光啓四年、東都の張全義が河陽を襲撃して破り、李罕之を追い払った。罕之は晋の兵を召し寄せて河陽を包囲したので、全義が急を告げた。この時、梁軍は魏にいたが、乃ち会及び葛従周らに万人を率いて救援させた。会らは河陰まで進んだとき、謀って言った、「罕之は我々が九鼎を渡る勇気がないと見くびり、我々の兵が少なく遠くから来ることを考え、まして我々の速やかな到着を予期していない。その不意を衝き、その不備を掩うのは、兵家の勝策である」と。乃ち九鼎を渡り、直ちに河陽に向かい、沇水において戦い、罕之を大破し、河陽の包囲は解けた。

原文光啟四年,東都張全義襲破河陽,逐李罕之,罕之召晉兵圍河陽,全義告急。是時,梁軍在魏,乃遣會及葛從周等將萬人救之。會等行至河陰,謀曰:「罕之料吾不敢渡九鼎,以吾兵少而來遠,且不虞吾之速至也。出其不意,掩其不備者,兵家之勝策也。」乃渡九鼎,直趨河陽,戰于沇水,罕之大敗,河陽圍解。

大順元年、梁軍が魏を撃ち、会及び葛従周は黎陽・臨河を破り、遂に内黄において羅弘信を破った。梁軍が徐州において時溥を攻めたとき、会を別に遣わして宿州しゅくしゅうを攻めさせた。刺史張筠は城門を閉じて防戦したが、会は汴水を堰き止めてその東側を水浸しにし、城壁が崩れたので、筠は降伏した。兗州えんしゅうの朱瑾が兵一万余りを率いて単父を撃ったとき、会は瑾と金郷において戦い、これを大破した。

原文大順元年,梁軍擊魏,會及葛從周破黎陽、臨河,遂敗羅弘信于內黃。梁軍攻時溥於徐州,遣會別攻宿州,刺史張筠閉城距守,會堰汴水浸其東,城壞,筠降。兗州朱瑾以兵萬餘擊單父,會及瑾戰于金鄉,大敗之。

光化二年、李罕之が晋に叛き、潞州を以て梁に降る。会は河陽より晋の澤州を攻め、これを下す。乃ち会を以て昭義軍留後と為す。会は梁の太祖の雄猜を畏れ、常に疾を称すること累年なり。

原文光化二年,李罕之叛晉,以潞州降梁。會自河陽攻晉澤州,下之。乃以會為昭義軍留後,會畏梁太祖雄猜,常稱疾者累年。

天復元年、太祖復た会を起して昭義軍節度使と為す。昭宗弑せらる。会は三軍と縞素を以て哀を発す。梁軍燕の滄州を攻む。燕王守光、師を晋に乞う。晋人潞州を攻むる為めに、会乃ち晋に降る。晋王会を太原に帰し、甲第を賜い、位を諸将の上に置く。

原文天復元年,太祖復起會為昭義軍節度使。昭宗遇弒,會與三軍縞素發哀。梁軍攻燕滄州,燕王守光乞師于晉,晉人為攻潞州,會乃降晉。晉王以會歸于太原,賜以甲第,位在諸將上。

荘宗立つ。会を以て都招討使と為す。天祐七年、疾にて太原に卒す。唐興り、太師を追贈す。

原文莊宗立,以會為都招討使。天祐七年,以疾卒于太原。唐興,追贈太師。

賀德倫

原文賀德倫

賀德倫は河西の人なり。少くして滑州かつしゅう牙将と為る。梁の太祖宣義を兼領す。德倫、太祖に従い征伐し、功を以て累遷して平盧軍節度使と為る。

原文賀德倫,河西人也。少為滑州牙將。梁太祖兼領宣義,德倫從太祖征伐,以功累遷平盧軍節度使。

貞明元年、魏州ぎしゅうの楊師厚卒す。末帝、魏兵素より驕りて制し難きを以て、乃ち相・澶・衞の三州を分ちて昭徳軍を建て、張筠を以て節度使と為す。魏・博・貝の三州は仍て天雄軍と為し、德倫を以て節度使と為す。劉鄩を遣わし兵六万を以て河を渡らしめ、声言して鎮定を攻む。王彦章、騎兵五百を以て魏州に入り、金波亭に屯して変を虞う。魏牙兵の半を分ちて昭徳に入る。租庸使、孔目吏を遣わし魏兵の籍を閲し、府庫を検校す。德倫牙兵を促して道に上らしむ。牙兵親戚相訣別し、哭声途に盈つ。効節軍将張彦其の衆に謀りて曰く、「朝廷我が軍府の彊盛を以て、法を設けて之を残破せんとす。況んや我が六州旧く藩府と為り、未だ嘗て河門を遠出せず。一旦親戚を離れ、郷里を去らば、生は死に如かず」と。乃ち相与に夜金波亭を攻む。彦章走出す。遅明、魏兵牙城を攻め、五百余人を殺し、德倫を執して之を楼上に致し、兵を縦して大いに掠む。

原文貞明元年,魏州楊師厚卒,末帝以魏兵素驕難制,乃分相、澶、衞三州建昭德軍,以張筠為節度使;魏、博、貝三州仍為天雄軍,以德倫為節度使。遣劉鄩以兵六萬渡河,聲言攻鎮定,王彥章以騎兵五百入魏州,屯金波亭以虞變;分魏牙兵之半入昭德。租庸使遣孔目吏閱魏兵籍,檢校府庫。德倫促牙兵上道,牙兵親戚相訣別,哭聲盈塗。効節軍將張彥謀於其眾曰:「朝廷以我軍府彊盛,設法殘破之。況我六州舊為藩府,未嘗遠出河門,一旦離親戚,去鄉里,生不如死。」乃相與夜攻金波亭,彥章走出。遲明,魏兵攻牙城,殺五百餘人,執德倫致之樓上,縱兵大掠。

末帝、供奉官扈異を遣わし馳せて魏に至り彦を諭し、刺史を以て許す。彦異に謂ひて曰く、「我が為に皇帝に報ぜよ。三軍朝廷に負かず、朝廷三軍に負く。割隷名無く、以て乱るる所以なり。但だ六州を以て魏に還し、而して詔して劉鄩に兵を反らしめば、皇帝高枕すべし」と。異還り、彦の狂蹶畏るるに足らず、宜しく鄩の兵を促して之を撃つべしと言ふ。末帝人をして彦を諭さしめ、制置已に定まり、復た易ふべからざるを以てす。使者三反す。彦怒りて曰く、「傭保の児敢えて是の如くせんや」と。乃ち羅紹威の故吏司空頲を召して曰く、「我が為に奏を作れ。若し復た依違せば、則ち河を渡りて之を虜はんのみ」と。末帝優詔を以て之に答え、言ふ、「王鎔死し、鎮人降を請ふ。鄩を遣わし兵を以て鎮州ちんしゅうを定む。他あるに非ず。若し魏之を便とせざれば、即ち鄩を召して還らしむ」と。彦を戒めて朝廷の為に事を生ぜしむる勿からんことを。

原文末帝遣供奉官扈異馳至魏諭彥,許以刺史。彥謂異曰:「為我報皇帝,三軍不負朝廷,朝廷負三軍,割隸無名,所以亂耳。但以六州還魏,而詔劉鄩反兵,皇帝可以高枕。」異還,言彥狂蹶不足畏,宜促鄩兵擊之。末帝使人諭彥,以制置已定,不可復易。使者三反,彥怒曰:「傭保兒敢如是邪!」乃召羅紹威故吏司空頲曰:「為我作奏,若復依違,則渡河虜之耳!」末帝優詔答之,言:「王鎔死,鎮人請降,遣鄩以兵定鎮州,非有佗也,若魏不便之,即召鄩還。」戒彥勿為朝廷生事。

彦乃ち楊師厚の魏州を鎮めしとき嘗て招討使を帯せしを以て、德倫を逼りて之を論列せしむ。末帝許さず、詔書を以て諭す。彦詔書を裂きて地に抵し、曰く、「愚主人の鼻を穿つに聴き、与に事を共にし難し」と。乃ち德倫を迫りて晋に降らしむ。德倫惶恐して曰く、「惟だ将軍の命に在り」と。乃ち牙将曹廷隠を遣わし書を奉じて荘宗に至らしむ。

原文彥乃以楊師厚鎮魏州嘗帶招討使,逼德倫論列之,末帝不許,諭以詔書,彥裂詔書抵于地,曰:「愚主聽人穿鼻,難與共事矣!」乃迫德倫降晉,德倫惶恐曰:「惟將軍命。」乃遣牙將曹廷隱奉書莊宗。

荘宗魏に入る。德倫彦の己を逼るるを以て、人を遣わし陰に荘宗に訴ふ。荘宗彦を臨清に斬りて而して後に入る。德倫を徙めて大同軍節度使と為す。行きて太原に至る。監軍張承業之を留む。王檀太原を攻む。德倫の麾下多く檀に奔る。承業德倫の変を為さんことを懼れ、之を殺す。

原文莊宗入魏,德倫以彥逼己,遣人陰訴於莊宗,莊宗斬彥於臨清而後入。徙德倫為大同軍節度使。行至太原,監軍張承業留之。王檀攻太原,德倫麾下多奔檀,承業懼德倫為變,殺之。

閻宝

原文閻寶

閻宝は字は瓊美、鄆州うんしゅうの人なり。少くして朱瑾の牙将と為る。瑾淮南に走る。宝梁に降る。梁の太祖の時、諸軍都虞候と為り、常に諸将に従ひ征伐し、未だ嘗て独立の戦功無し。末帝の時に至り、宝を以て保義軍節度使と為す。

原文閻寶字瓊美,鄆州人也。少為朱瑾牙將,瑾走淮南,寶降於梁。梁太祖時,為諸軍都虞候,常從諸將征伐,未嘗獨立戰功。至末帝時,以寶為保義軍節度使。

貞明元年、賀德倫魏博を以て晋に降る。晋軍洺・磁・相・衞を攻め下し、兵を移して邢州けいしゅうを囲む。末帝、捉生都指揮使張温を遣わし五百騎を将ひて宝を救はしむ。温内黄に至り、晋軍に遇ひ、乃ち晋に降る。晋温を遣はし降る所の梁軍を将ひて城下に至り宝を招かしむ。宝遂に晋に降る。晋王宝に拝して検校太尉・同中書門下平章事と為し、天平軍節度使・東南面招討使を領せしめ、位を諸将の上に置く。

原文貞明元年,賀德倫以魏博降晉,晉軍攻下洺、磁、相、衞,移兵圍邢州。末帝遣捉生都指揮使張溫將五百騎救寶,溫至內黃,遇晉軍,乃降晉。晉遣溫將所降梁軍至城下招寶,寶遂降晉。晉王拜寶檢校太尉、同中書門下平章事,領天平軍節度使、東南面招討使,位在諸將上。

梁・晋胡柳に戦ふ。晋軍敗る。荘宗兵を引き退きて臨濮に保たんと欲す。宝曰く、「夫れ勝を決するは勢を料ひ、戦を決するは情を料ふ。情勢既に得れば、断つは疑はざるに在り。今梁兵窘蹙す。其の勢破るべし。勝ちて驕怠す。其の情知るべし。此れ失ふべからざるの時なり」と。荘宗謝して曰く、「公無くば、幾くにか吾が事を敗らん」と。乃ち軍を整へて復た戦ひ、遂に梁兵を敗る。

原文梁、晉戰胡柳,晉軍敗。莊宗欲引兵退保臨濮,寶曰:「夫決勝料勢,決戰料情,情勢既得,斷在不疑。今梁兵窘蹙,其勢可破;勝而驕怠,其情可知。此不可失之時也。」莊宗謝曰:「微公,幾敗吾事。」乃整軍復戰,遂敗梁兵。

十八年、晋軍鎮州に於て張文礼を討つ。宝を以て招討使と為す。明年三月、宝戦ひ敗れ、退きて趙州に保つ。慚憤して疽を発し卒す。太師を追贈す。晋の天福中、太原王を追封す。

原文十八年,晉軍討張文禮於鎮州,以寶為招討使。明年三月,寶戰敗,退保趙州。慚憤發疽卒,追贈太師。晉天福中,追封太原王。

康延孝

原文康延孝

康延孝は代北の人である。太原の軍卒となり、罪を得て梁に亡命した。末帝は段凝を河上に軍せしめ、延孝を左右先鋒指揮使とした。延孝は梁の末帝が群小を用いるを見て、その必ず亡ぶを知り、百騎を率いて唐に奔った。朝城において荘宗に謁し、荘宗は御衣と金帯を解いてこれを賜う。延孝を博州刺史・捧日軍使兼南面招討指揮使に拝した。

原文康延孝,代北人也。為太原軍卒,有罪亡命于梁。末帝遣段凝軍于河上,以延孝為左右先鋒指揮使。延孝見梁末帝任用羣小,知其必亡,乃以百騎奔于唐。見莊宗于朝城,莊宗解御衣、金帶以賜之。拜延孝博州刺史、捧日軍使兼南面招討指揮使。

荘宗は人を屏いて延孝に梁の事を問うと、延孝は詳らかに言う、「末帝は懦弱なり。趙巖は婿、張漢傑は婦家、皆用事す。段凝は姦邪にして、金を入れる多きをもって大将と為り、その父の時の故将は皆その下に出づ。王彦章は驍将なり、漢傑を遣わしてその軍を監せしめてこれを制す。小人進み任ぜられ、忠臣勇士は皆疎斥せらる。これその必ず亡ぶの勢いなり」と。荘宗また梁の計いかんと問うと、曰く、「臣梁に在りし時、窃かにその議を聞く。期す仲冬に大挙し、董璋を遣わして陝虢・澤潞の衆を以て石会より出でて太原を攻めしめ、霍彦威に関西・汝・洛の兵を以て邢洺を掠め鎮定に趨らしめ、王彦章に京師の禁衛を以て鄆州を撃たしめ、段凝に河上の軍を以て陛下に当たらしむ」と。荘宗初め延孝の梁必ず亡ぶと言うを聞きて喜び、その大挙するを聞きて懼れ、曰く、「将に何を以てかこれを禦がん」と。延孝曰く、「梁の兵衆しといえども、分かれば余り無し。臣請うその既に分かるるを待ち、鉄騎五千を以て鄆より汴に趨り、その不意に出で、その空虚を擣ち、旬日ならずして天下定まれり」と。荘宗甚だその言を壮とす。後に董璋等兵を出さざりしも、梁兵は悉く段凝に属して河上にあり、京師に備え無く、荘宗ついに延孝の策を用い、鄆より汴に入り、凡そ八日にして梁を滅ぼす。功を以て鄭州防禦使に拝し、姓名を賜うて李紹琛と曰う。二年、保義軍節度使に遷る。

原文莊宗屏人問延孝梁事,延孝具言:「末帝懦弱。趙巖婿也,張漢傑婦家,皆用事。段凝姦邪,以入金多為大將,自其父時故將皆出其下。王彥章,驍將也,遣漢傑監其軍而制之。小人進任,而忠臣勇士皆見疎斥,此其必亡之勢也。」莊宗又問梁計如何,曰:「臣在梁時,竊聞其議:期以仲冬大舉,遣董璋以陝虢、澤潞之眾出石會以攻太原;霍彥威以關西、汝、洛之兵掠邢洺以趨鎮定;王彥章以京師禁衞擊鄆州;段凝以河上之軍當陛下。」莊宗初聞延孝言梁必亡,喜,及聞其大舉也,懼,曰:「其將何以禦之?」延孝曰:「梁兵雖眾,分則無餘。臣請待其既分,以鐵騎五千自鄆趨汴,出其不意,擣其空虛,不旬日,天下定矣。」莊宗甚壯其言。後董璋等雖不出兵,而梁兵悉屬段凝于河上,京師無備,莊宗卒用延孝策,自鄆入汴,凡八日而滅梁。以功拜鄭州防禦使,賜姓名曰李紹琛。二年,遷保義軍節度使。

三年、蜀を征し、延孝を先鋒排陣斬斫使と為し、鳳州を破り、固鎮を取り、興州を降す。王衍と三泉に戦い、衍敗走し、吉柏江の浮橋を断つ。延孝舟を造りて渡り、進みて綿州を取る。衍また綿江の浮橋を断つ。延孝、招撫使李嚴に謂いて曰く、「吾れ遠く軍すること千里、人の国に入り、利は速戦に在り。衍の胆を破れる時に乗じ、ただ百騎を得て鹿頭関を過ぎば、彼将に迎え降るに暇あらじ。若し橋梁を修繕せば、必ず数日を留まり、衍に関を閉じて備えを為さしめん。則ち勝負未だ知るべからず」と。因りて厳と馬に乗じて江を浮かび、軍士これに随いて済る者千余人、遂に鹿頭関に入り、漢州を下す。三日居て、後軍始めて至る。衍の弟宗弼果たして蜀を以て降る。延孝漢州に屯し、以て魏王継岌を俟つ。

原文三年,征蜀,以延孝為先鋒排陣斬斫使,破鳳州,取固鎮,降興州。與王衍戰三泉,衍敗走,斷吉柏江浮橋,延孝造舟以渡,進取綿州。衍復斷綿江浮橋。延孝謂招撫使李嚴曰:「吾遠軍千里,入人之國,利在速戰。乘衍破膽之時,但得百騎過鹿頭關,彼將迎降不暇。若修繕橋梁,必留數日,使衍得閉關為備,則勝負未可知也。」因與嚴乘馬浮江,軍士隨之濟者千餘人,遂入鹿頭關,下漢州,居三日,後軍始至。衍弟宗弼果以蜀降。延孝屯漢州,以俟魏王繼岌。

蜀平らぎ、延孝の功最も多し。左廂馬歩軍都指揮使董璋は位延孝の下に在りしも、然れども特に郭崇韜に重んぜらる。崇韜軍事有れば、独り璋を召して計議し、而して延孝を問わず。延孝大いに怒り、璋を責めて曰く、「吾れ平蜀の功有り。公等僕遬として相従うも、反って郭公の門に俛首す。吾れ都将たり、独り軍法を以て公を斬る能わざらんや」と。璋崇韜に訴う。崇韜璋の軍職を解き、表して東川節度使と為す。延孝愈々怒りて曰く、「吾れ白刃を冒し、険阻を犯し、以て両川を定む。璋何の功か有りて旄節を得ん」と。因りて崇韜に見えその不可を言う。崇韜曰く、「紹琛反すか。敢えて吾が節度に違わんとは」と。延孝懼れて退く。明年崇韜死す。延孝璋に謂いて曰く、「公復た何の門に俛首せん」と。璋哀を求めて以て免る。

原文蜀平,延孝功為多。左廂馬步軍都指揮使董璋位在延孝下,然特見重於郭崇韜。崇韜有軍事,獨召璋與計議,而不問延孝,延孝大怒,責璋曰:「吾有平蜀之功,公等僕遬相從,反俛首郭公之門,吾為都將,獨不能以軍法斬公邪?」璋訴于崇韜,崇韜解璋軍職,表為東川節度使,延孝愈怒曰:「吾冒白刃,犯險阻,以定兩川,璋有何功而得旄節!」因見崇韜言其不可。崇韜曰:「紹琛反邪?敢違吾節度!」延孝懼而退。明年崇韜死,延孝謂璋曰:「公復俛首何門邪?」璋求哀以免。

継岌師を班し、命じて延孝に万二千人を以て殿たらしむ。武連に行き至り、朱友謙罪無くして殺さるるを聞く。友謙に子令德遂州に在り。荘宗使者を遣わし詔して継岌に即ちこれを誅せしむ。継岌延孝を遣わさずして董璋を遣わす。延孝已に自ら疑う。及び璋延孝の軍を過ぐるも、また謁せず。延孝大いに怒り、その下に謂いて曰く、「南は梁を平げ、西は蜀を取り、その謀いは尽く郭公より出づ。而して汗馬の労、城を攻め敵を破る者は我なり。今郭公已に死す。我豈に存するを得ん。而して友謙と我は俱に梁を背きて唐に帰する者、友謙の禍次に我に及ばん」と。延孝の部下は皆友謙の旧将、友謙の族せらるるを知り、皆号哭して軍門に訴えて曰く、「朱公罪無し。二百口誅せらる。旧将往々として死に従う。我ら死すること必せり」と。延孝遂にその衆を擁し剣州より返り入り蜀し、自ら西川節度・三川制置等使と称す。檄を馳せて蜀人に告ぐ。数日の間、衆五万に至る。継岌任圜を遣わし七千騎を以てこれを追わしむ。漢州に及び、孟知祥の夾攻するに会す。延孝戦いに敗れ、擒らえられ、檻車に載せらる。

原文繼岌班師,命延孝以萬二千人為殿,行至武連,聞朱友謙無罪見殺。友謙有子令德在遂州,莊宗遣使者詔繼岌即誅之。繼岌不遣延孝,而遣董璋,延孝已自疑,及璋過延孝軍,又不謁,延孝大怒,謂其下曰:「南平梁,西取蜀,其謀盡出於郭公;而汗馬之勞,攻城破敵者我也。今郭公已死,我豈得存?而友謙與我俱背梁以歸唐者,友謙之禍次及我矣!」延孝部下皆友謙舊將,知友謙被族,皆號哭訴于軍門曰:「朱公無罪,二百口被誅,舊將往往從死,我等死必矣!」延孝遂擁其眾自劍州返入蜀,自稱西川節度、三川制置等使。馳檄蜀人,數日之間,眾至五萬。繼岌遣任圜以七千騎追之,及于漢州,會孟知祥夾攻之,延孝戰敗,被擒,載以檻車。

圜軍中に酒を置き、檻車を引いて坐上に至り、知祥酌く(く)んで大巵さかずき(さかずき)を車中よりこれに飲ませて謂って曰く:「公梁朝より身を脱して帰命し、遂に節旄を擁す。今蜀を平らぐの功、何ぞ富貴を患いてこの檻車に入るや?」延孝曰:「郭崇韜は佐命の臣、功第一に在り、兵血を刃に濡らさずして両川を取る、一旦罪無く、闔門(一家)戮を受く。顧おも(おも)うに延孝の如き、何ぞ首領を保たん?此れを以て朝に帰るを敢えてせざるのみ!」任圜東還し、延孝檻車鳳翔に至り、荘宗宦者を遣わしてこれを殺した。

原文圜置酒軍中,引檻車至坐上,知祥酌大巵從車中飲之而謂曰:「公自梁朝脫身歸命,遂擁節旄。今平蜀之功,何患富貴,而入此檻車邪?」延孝曰:「郭崇韜佐命之臣,功在第一,兵不血刃而取兩川,一旦無罪,闔門受戮。顧如延孝,何保首領?以此不敢歸朝耳!」任圜東還,延孝檻車至鳳翔,莊宗遣宦者殺之。