新五代史

原文新五代史

巻第四十三

原文卷43

氏叔琮

原文氏叔琮

氏叔琮は開封尉氏の人である。梁の騎兵の伍長となり、梁兵が黄巢を陳・許の間で撃つとき、叔琮は戦って数たび功があり、太祖(朱全忠)はこれを壮とし、後院の馬軍を率いさせ、徐・兗を攻めるに従い、宿州しゅくしゅう刺史に表された。襄陽を攻めさせると、戦って数たび敗れ、陽翟鎮遏使に降格された。久しくして、曹州刺史に遷った。

原文氏叔琮,開封尉氏人也。為梁騎兵伍長,梁兵擊黃巢陳、許間,叔琮戰數有功,太祖壯之,使將後院馬軍,從攻徐、兗,表宿州刺史。使攻襄陽,戰數敗,降為陽翟鎮遏使。久之,遷曹州刺史。

太祖が河中を下し、晉・絳を取ると、晉王(李克用)は使者を遣わして太祖に書を致し和を求めた。太祖は晉の書の言葉が傲慢であるとして、乃ち叔琮を遣わし賀德倫らとこれを攻めさせた。叔琮は太行より入り、澤・潞を取り、石會に出て、洞渦に営した。久しくして糧尽き、乃ち引き返した。晉州刺史に表された。

原文太祖下河中,取晉、絳,晉王遣使致書太祖求成,太祖以晉書詞嫚,乃遣叔琮與賀德倫等攻之。叔琮自太行入,取澤、潞,出石會,營于洞渦,久之糧盡,乃旋。表晉州刺史。

晉人がまた絳州を取り、臨汾を攻めた。叔琮は壮士二人で目深く胡鬚ある者を選び、襄陵の道傍で馬を牧させた。晉人はこれを晉兵と思い、道中に雑じって行き、その怠るのを伺い、晉の二人を擒えて帰った。晉人は大いに驚き、伏兵ありと思い、乃ち蒲縣に退き屯した。太祖は友寧に兵万人を遣わし叔琮と会して晉を防がせた。友寧は兵を休めて待とうとしたが、叔琮は言った、「敵は救い至ると聞けば必ず走る。走れば何の功があろうか」と。乃ち夜にこれを撃ち、晉人は大いに敗れ、これを逐って太原に至った。太祖は大いに喜び言った、「太原を破るは氏老でなければならぬ」と。已にして兵に大疫が起こり、叔琮は班師し、令して曰く、「病みて行くこと能わざる者はこれを焚け」と。病める者は懼れ、皆無恙と言い、乃ち精卒を以て殿とし石會に還り、数騎を留め、大将の旗幟を以て高岡に立てた。晉兵はその伏兵あるかと疑い、乃ち敢えて追わなかった。久しくして、保大軍節度使に徙った。

原文晉人復取絳州,攻臨汾,叔琮選壯士二人深目而胡鬚者,牧馬襄陵道旁,晉人以為晉兵,雜行道中,伺其怠,擒晉二人而歸。晉人大驚,以為有伏兵,乃退屯于蒲縣。太祖遣友寧兵萬人會叔琮禦晉,友寧欲休兵以待,叔琮曰:「敵聞救至必走,走則何功邪?」乃夜擊之,晉人大敗,逐之至于太原。太祖大喜曰:「破太原非氏老不可。」已而兵大疫,叔琮班師,令曰:「病不能行者焚之。」病者懼,皆言無恙,乃以精卒為殿而還石會,留數騎,以大將旗幟立于高岡,晉兵疑其有伏,乃不敢追。久之,徙保大軍節度使。

昭宗が洛に遷ると、右龍武統軍に拝された。太祖は叔琮を遣わし李彥威らと昭宗を弑し、已にしてこれを殺した。

原文昭宗遷洛,拜右龍武統軍。太祖遣叔琮與李彥威等弒昭宗,已而殺之。

李彥威

原文李彥威

李彥威は壽州の人である。少くして梁の太祖に事え、人となり穎悟で、人の意を揣むことを善くし、太祖はこれを憐れみ、養って子とし、朱の姓を冒し、名を友恭とした。汝・潁の二州刺史を歴任した。昭宗が洛に下ると、右龍武統軍に拝された。

原文李彥威,壽州人也。少事梁太祖,為人穎悟,善揣人意,太祖憐之,養以為子,冒姓朱氏,名友恭。歷汝、潁二州刺史。昭宗下洛,拜右龍武統軍。

初め、劉季述が昭宗を廃し、皇太子裕を立てて天子とした。昭宗が反正すると、太子は幼く、賊に立てられたとして、これを赦し、その始封の徳王に復した。昭宗が岐より還ると、太祖は裕の眉目が疏秀なるを見て、これを悪み、宰相の崔胤に謂って曰く、「徳王は嘗て季述に立てられた。どうして猶お在るのか。公、天子に白してこれを殺せ」と。胤がこれを奏すと、昭宗は許さず、他日に太祖に問うと、太祖は言った、「臣安んぞこれに及ぼうや。胤が臣を売らんとしているだけです」と。昭宗が洛に遷ると、蔣玄暉に謂って曰く、「徳王は朕が愛子なり。全忠何ぞこれを殺さんと欲するのか」と。因りて泣き、指を囓みて血を流した。玄暉は具にこれを以て太祖に白すと、太祖はますますこれを悪んだ。

原文初,劉季述廢昭宗,立皇太子裕為天子。昭宗反正,以為太子幼,為賊所立,赦之,復其始封為德王。昭宗自岐還,太祖見裕眉目疏秀,惡之,謂宰相崔胤曰:「德王嘗為季述所立,安得猶在乎?公白天子殺之。」胤奏之,昭宗不許,佗日以問太祖,太祖曰:「臣安敢及之,胤欲賣臣爾。」昭宗遷洛,謂蔣玄暉曰:「德王,朕愛子也,全忠何為欲殺之?」因泣下,囓指流血。玄暉具以白太祖,太祖益惡之。

是の時、昭宗は元を天祐と改め、東都に遷り、梁に迫られたが、晉人・蜀しょく人は天祐の号は唐の建てたるに非ずとして、復たこれを称せず、ただ天復と称した。王建もまた檄を天下に伝え、兵を挙げて梁を誅さんとした。太祖は大いに懼れ、昭宗が他鎮に奔るを恐れ、兵七万を以て河中に如き、密かに敬翔を遣わし洛に至らせ、彥威と氏叔琮らに告げ、弑逆を行わしめた。八月壬辰、彥威・叔琮は龍武兵を以て禁中に宿し、夜二鼓、兵百人を以て宮門を叩き事を奏す。夫人の裴正一が門を開き問うて曰く、「事を奏するに何ぞ兵を以て入るを得ん」と。龍武牙官の史太がこれを殺し、椒蘭殿に趨り、昭宗の在る所を問う。昭宗方に酔い、起ちて走る。太は剣を持ちてこれを逐い、昭宗は単衣にて柱を旋りて走る。太の剣これに及び、昭宗崩ず。訃が河中に至ると、太祖は陽に驚駭を為し、地に投げて号哭し、罵って曰く、「奴輩我に負うて、我をして悪名を後世に被らしむるか」と。太祖が洛に至ると、彥威・叔琮を嶺南に流し、張廷範を使わしてこれを殺させた。彥威は刑に臨み大呼して曰く、「我を売りて口を滅ぼす、その神理を如何」と。廷範を顧みて曰く、「勉めよ、公行くも自ら及ぶ」と。遂に殺された。已にしてその姓名を還した。

原文是時,昭宗改元天祐,遷于東都,為梁所迫,而晉人、蜀人以為天祐之號非唐所建,不復稱之,但稱天復。王建亦傳檄天下,舉兵誅梁。太祖大懼,恐昭宗奔佗鎮,以兵七萬如河中,陰遣敬翔至洛,告彥威與氏叔琮等,使行弒逆。八月壬辰,彥威、叔琮以龍武兵宿禁中,夜二鼓,以兵百人叩宮門奏事,夫人裴正一開門問曰:「奏事安得以兵入?」龍武牙官史太殺之,趨椒蘭殿,問昭宗所在,昭宗方醉,起走,太持劍逐之,昭宗單衣旋柱而走,太劍及之,昭宗崩。訃至河中,太祖陽為驚駭,投地號哭,罵曰:「奴輩負我,俾我被惡名於後世邪!」太祖至洛,流彥威、叔琮嶺南,使張廷範殺之。彥威臨刑大呼曰:「賣我以滅口,其如神理何?」顧廷範曰:「勉之,公行自及。」遂見殺。已而還其姓名。

莊宗の時、故唐の内人景姹を得て、言うには、彥威らが昭宗を殺した時、諸王宗属数百人皆害に遇い、同じく一つの坑と為し、龍興寺の北に瘞された。請うて一つ冢と為し合せて改葬すべしと。詔して故濮王を首と為し、一品の礼を以て葬らしむと云う。

原文莊宗時,得故唐內人景姹,言當彥威等殺昭宗時,諸王宗屬數百人皆遇害,而同為一坑,瘞于龍興寺北,請合為一冢而改葬之。詔以故濮王為首,葬以一品禮云。

李振

原文李振

李振、字あざなは興緒、その祖は抱真、唐の潞州ろしゅう節度使である。振は唐の金吾衞將軍となり、台州刺史に拝された。盗賊が浙東に起こり、果たして行かず、乃ち西に帰った。梁を過ぎ、策を以て太祖に干し、太祖はこれを留めた。太祖が鄆州うんしゅうを兼領すると、振を節度副使に表した。

原文李振字興緒,其祖抱真,唐潞州節度使。振為唐金吾衞將軍,拜台州刺史。盜起浙東,不果行,乃西歸。過梁,以策干太祖,太祖留之。太祖兼領鄆州,表振節度副使。

李振が長安にて奏事するに当たり、梁の邸に宿泊した。宦官劉季述が昭宗を廃立せんと謀り、その甥の劉希正をして梁邸の吏程巖を通じて李振に会わせ、言うには、「今、主上は厳急にして、罪なき者を誅殺される。中尉(劉季述)は禍が及ぶことを恐れ、廃立を行わんとしている。諸邸の吏と協力して内外を定めんことを請う。如何か」と。李振は驚いて言うには、「百歳の奴たる者、三歳の主に事え、敢えてかくの如くせんや!今、梁王は百万の師を以て、正に大義を仗りて天子を尊ばんとしている。君等、この不祥のことを為すなかれ」と。李振が帰還すると、劉季述は遂に程巖らと共に昭宗を廃し、之を東宮に幽閉して太上皇と号し、皇太子李裕を立てて天子とした。この時、太祖(朱全忠)は兵を用いて邢州けいしゅう・洺州の間に在った。劉季述は太上皇の誥を偽造して太祖に告げた。太祖は猶豫し、為すべきことを知らなかった。李振は言う、「そもそも豎刁・伊戾の乱は、覇者の資と為る所以である。今、閹宦が乱を為し、天子は危辱に瀕している。これは王が仗義して功を立てる時である」と。太祖は大いに悟り、乃ち劉季述の使者を囚え、李振を京師に遣わして崔胤に会わせ、昭宗を出すことを謀らせた。昭宗が復位すると、太祖は大いに喜び、李振の手を執って言う、「卿の謀は成った」と。

原文振奏事長安,舍梁邸。宦官劉季述謀廢昭宗,遣其姪希正因梁邸吏程巖見振曰:「今主上嚴急,誅殺不辜,中尉懼及禍,將行廢立,請與諸邸吏協力以定中外,如何?」振駭然曰:「百歲奴事三歲主,而敢爾邪!今梁王百萬之師,方仗大義尊天子,君等無為此不祥也!」振還,季述卒與巖等廢昭宗,幽之東宮,號太上皇,立皇太子裕為天子。是時,太祖用兵在邢、洺間,季述詐為太上皇誥告太祖,太祖猶豫,未知所為,振曰:「夫豎刁、伊戾之亂,所以為霸者資也。今閹宦作亂,天子危辱,此王仗義立功之時。」太祖大悟,乃囚季述使者,遣振詣京師見崔胤,謀出昭宗。昭宗返正,太祖大喜,執振手曰:「卿謀得之矣!」

王師範が青州を以て梁に降ると、李振を遣わして師範に代わらせた。師範は疑懼し、為すべきことを知らなかった。李振は言う、「漢の張繡のことを聞かぬか?繡は曹公と敵対したが、然しながら袁紹に帰せずして曹公に帰したのは、その志の大なるを知り、私怨を以て人を殺さぬことを知ったからである。今、梁王は正に大事を成さんとしている。豈に故怨を以て忠臣を害せんや」と。師範は洗然として自ら釈然とし、乃ち西して梁に帰した。

原文王師範以青州降梁,遣振往代師範,師範疑懼,不知所為,振曰:「獨不聞漢張繡乎?繡與曹公為敵,然不歸袁紹而歸曹公者,知其志大,不以私讎殺人也。今梁王方欲成大事,豈以故怨害忠臣乎?」師範洗然自釋,乃西歸梁。

昭宗が洛陽に遷都すると、李振は京師に往来した。朝臣は皆側目したが、李振は之を視ること無人の如くであった。少しでも怒ることがあれば、必ず譴責・左遷を加えた。故に李振が一度京師に至れば、朝廷には必ず貶降があった。当時の人は李振を鴟梟と目した。

原文昭宗遷洛,振往來京師,朝臣皆仄目,振視之若無人。有所小怒,必加譴謫。故振一至京師,朝廷必有貶降。時人目振為鴟梟。

太祖が昭宗を弑逆した時、李振を京師に遣わして朱友恭・氏叔琮と之を謀らせた。昭宗が崩御すると、太祖は李振に、友恭らを如何に扱うべきかを問うた。李振は言う、「昔、晋の司馬氏が魏の君を殺して成済を誅した。然らずんば、何を以て天下の口を塞がん」と。太祖は乃ち罪を友恭らに帰して之を殺した。

原文太祖之弒昭宗也,遣振至京師與朱友恭、氏叔琮謀之。昭宗崩,太祖問振所以待友恭等宜如何?振曰:「昔晉司馬氏殺魏君而誅成濟,不然,何以塞天下口?」太祖乃歸罪友恭等而殺之。

李振は嘗て進士に挙げられ、咸通・乾符の年中、連ねて及第せず、殊に唐の公卿を憤った。裴樞ら七人が白馬驛にて賜死すると、李振は太祖に謂う、「此の輩は嘗て自ら清流と称した。之を河に投じて、濁流と為すべし」と。太祖は笑って之に従った。

原文振嘗舉進士咸通、乾符中,連不中,尤憤唐公卿,及裴樞等七人賜死白馬驛,振謂太祖曰:「此輩嘗自言清流,可投之河,使為濁流也。」太祖笑而從之。

太祖が即位すると、累遷して戸部尚書となった。朱友珪の時、李振を以て敬翔に代わり崇政院使とした。荘宗(李存勗)が梁を滅ぼして汴に入ると、李振は郭崇韜に謁見した。崇韜は言う、「人は李振を一代の奇才と言う。我今之を見るに、乃ち常人である」と。已にして伏誅した。

原文太祖即位,累遷戶部尚書。友珪時,以振代敬翔為崇政院使。莊宗滅梁入汴,振謁見郭崇韜,崇韜曰:「人言李振一代奇才,吾今見之,乃常人爾!」已而伏誅。

裴迪

原文裴迪

裴迪は字を昇之といい、河東聞喜の人である。人となり明敏にして、財賦を治めるに善く、簿書に精しかった。唐の司空裴璩が度支を判じ、之を辟いて出使巡官とした。都統王鐸が滑州かつしゅうを鎮めると、裴迪を汴・宋・鄆等州供軍院使に奏した。王鐸が租庸使となると、之を辟いて租庸招納使とした。

原文裴迪字昇之,河東聞喜人也。為人明敏,善治財賦,精於簿書。唐司空裴璩判度支,辟為出使巡官。都統王鐸鎮滑州,奏迪汴、宋、鄆等州供軍院使。鐸為租庸使,辟租庸招納使。

梁の太祖が宣武を鎮めると、之を辟いて節度判官とした。太祖が四方に兵を用いるも、常に裴迪を留めて兵賦を調えさせた。太祖は乃ち門に牓し、兵事は自ら処し、而して貨財・獄訟の一切を裴迪に任せた。

原文梁太祖鎮宣武,辟節度判官。太祖用兵四方,常留迪以調兵賦。太祖乃牓門,以兵事自處,而以貨財獄訟一切任迪。

太祖が西して岐を攻めると、王師範が汴を襲わんと謀り、健卒苗公立を使者として書を持たせて汴に至らせ、密かに虚実を窺わせた。裴迪は苗公立を召して東方の事情を問うと、公立の色が動いた。乃ち人を屏いて密かに詰問し、其の事を悉く得た。裴迪は啓上する暇なく、朱友寧に兵を以て兗・鄆を巡らせた。故に師範は窃かに発するも、事は遂に成らなかった。太祖が岐より還ると、将吏は皆「迎鑾叶贊功臣」を賜った。将吏が入見すると、太祖は裴迪を目して言う、「叶贊の功は、惟だ裴公之を有つ。他人は当たるに足らず」と。

原文太祖西攻岐,王師範謀襲汴,遣健卒苗公立持書至汴,陰伺虛實。迪召公立問東事,公立色動,乃屏人密詰之,具得其事。迪不暇啟,遣朱友寧以兵巡兗、鄆,以故師範雖竊發而事卒不成。太祖自岐還,將吏皆賜「迎鑾叶贊功臣」,將吏入見,太祖目迪曰:「叶贊之功,惟裴公有之,佗人不足當也。」

裴迪は唐に入り、累遷して太常卿となった。太祖が即位すると、召して右僕射に拝し、一年居て老を告げ、司空を以て致仕し、家に卒した。

原文迪入唐,累遷太常卿。太祖即位,召拜右僕射,居一歲告老,以司空致仕,卒于家。

韋震

原文韋震

韋震は字を東卿といい、雍州萬年の人である。初めの名は肇といった。人となり強敏にして、口辯があった。梁の太祖に事えて都統判官となった。申叢が秦宗権を執り、之を太祖に送らんと欲し、又自ら京師に献ぜんと欲し、又宗権を挟んで其の兵を奪わんと欲した。太祖は韋震を遣わして蔡州さいしゅうに入り之を視させた。申叢は騎兵三百を遣わして韋震を迎え、之を殺さんと欲したが、韋震は計を以て免れた。還って太祖に白して言う、「申叢は慮るに足らず。其の謀を為す者は牙将裴涉、妄庸の人なり」と。申叢は後果たして郭璠に殺された。郭璠は宗権を以て太祖に帰した。太祖は其の事を大いにせんと欲し、唐に献俘せんことを請うた。唐は時溥が黄巢を破り、献馘したのみで、宗権は俘虜とするに足らずとし、左拾遺徐彦枢も亦疏を上して所在にて斬決せんことを請うた。太祖は韋震を遣わして京師に奏事させ、往復論列し、遂に宗権を俘虜とした。太祖は之を徳とし、表して節度副使とした。

原文韋震字東卿,雍州萬年人也。初名肇。為人彊敏,有口辯。事梁太祖為都統判官。申叢執秦宗權,欲送于太祖,又欲自獻於京師,又欲挾宗權奪其兵。太祖遣震入蔡州視之,叢遣騎兵三百迎震,欲殺之,震以計得免。還白太祖曰:「叢不足慮,為其謀者牙將裴涉,妄庸人也。」叢後果為郭璠所殺。璠以宗權歸于太祖,太祖欲大其事,請獻俘于唐,唐以時溥破黃巢,獻馘而已,宗權不足俘,左拾遺徐彥樞亦疏請所在斬決。太祖遣震奏事京師,往復論列,卒俘宗權。太祖德之,表為節度副使。

昭宗が石門に幸すると、太祖は韋震を遣わし、虢略の間道より表を奉じて行在に至らせた。昭宗は其の名を震と賜うた。太祖は既に兗・鄆を破り、遂に呉ごを攻めたが、清口にて大敗した。太祖は諸鎮が隙に乗じて己を図らんことを懼れ、乃ち杜洪・鍾傳・王師範・錢鏐らに諷して己を元帥に薦めさせ、且つ鄆州を兼領せんことを求めた。昭宗は初め許さなかったが、韋震は強辯し、敢えて大言し、語数にして遜らず、昭宗は遂に梁に鄆州を許した。太祖は遂に四鎮を兼ね、韋震を鄆州留後に表した。

原文昭宗幸石門,太祖遣震由虢略間道奉表行在,昭宗賜其名震。太祖已破兗、鄆,遂攻吳,大敗于清口。太祖懼諸鎮乘間圖己,乃諷杜洪、鍾傳、王師範、錢鏐等薦己為元帥,且求兼領鄆州。昭宗初不許,震彊辯,敢大言,語數不遜,昭宗卒許梁以鄆州,太祖遂兼四鎮,表震鄆州留後。

昭宗が洛陽に遷ると、韋震は入って河南尹・六軍諸衞副使となり、瘖病を以て、太子太保を守り致仕した。太祖が禅を受けると、太子太傅に改めた。末帝が即位すると、太師を加えられ、卒した。

原文昭宗遷洛,震入為河南尹、六軍諸衞副使,以病瘖,守太子太保致仕。太祖受禪,改太子太傅。末帝即位,加太師,卒。

孔循

原文孔循

孔循は、その家世が何者であるか知られていない。幼くして孤児となり、汴州べんしゅうに流れ落ち、富者李譲がこれを拾い、養子とした。梁の太祖が宣武を鎮守するに及び、李譲を養子としたので、循は朱の姓を冒した。やや成長すると、太祖の帳中に給事し、太祖の諸子の乳母にこれを愛する者がおり、循を養子とした。乳母の夫は趙姓であったので、循はまた趙の姓を冒し、名を殷衡と称した。昭宗が東遷して洛陽に至ると、太祖は天子の左右をことごとく去らせ、すべて梁の人をもって代え、王殷を宣徽使とし、循をその副使とした。

原文孔循,不知其家世何人也。少孤,流落於汴州,富人李讓闌得之,養以為子。梁太祖鎮宣武,以李讓為養子,循乃冒姓朱氏。稍長,給事太祖帳中,太祖諸兒乳母有愛之者,養循為子,乳母之夫姓趙,循又冒姓為趙氏,名殷衡。昭宗東遷洛陽,太祖盡去天子左右,悉以梁人代之,以王殷為宣徽使,循為副使。

循は蒋玄暉・張廷範らとともに昭宗弑逆の謀に参与した。その後、循は玄暉と不和となり、哀帝が即位し、南郊で祭祀を行おうとしたとき、循は王殷とともに太祖に讒言して言うには、「玄暉は密かに何太后に仕え、廷範らとともに天子を奉じて郊天し、唐の国祚を延ばさんと図っています」と。太祖は大いに怒った。この時、梁の兵は寿春を攻めて大敗して帰還し、哀帝は裴迪を遣わして軍を労った。太祖は迪に会い、怒り甚だしく、迪が帰ると、哀帝は郊祀を行えなかった。太祖を魏王に封じ、九錫を備えようとしたが、太祖は拒んで受けなかった。玄暉と宰相柳璨は相次いで馳せて梁に至り自ら弁解し、璨は言うには、「古より王者の興るには、必ず封国があり、唐がすぐに位を譲らないのは、先に国を建て九錫を備え、それから禅譲するためです」と。太祖は言う、「我は九錫によらずして天子となることはできぬか」と。璨は恐れ、馳せ去った。太祖は循と王殷を遣わして何皇后を弑し、ついで璨及び玄暉・廷範らを殺し、循を枢密副使とした。

原文循與蔣玄暉、張廷範等共與弒昭宗之謀,其後循與玄暉有隙,哀帝即位,將有事于南郊,循因與王殷讒于太祖曰:「玄暉私侍何太后,與廷範等奉天子郊天,冀延唐祚。」太祖大怒。是時,梁兵攻壽春,大敗而歸,哀帝遣裴迪勞軍,太祖見迪,怒甚,迪還,哀帝不敢郊。封太祖魏王,備九錫,太祖拒而不受。玄暉與宰相柳璨相次馳至梁自解,璨曰:「自古王者之興,必有封國,而唐所以不即遜位者,當先建國備九錫,然後禪也。」太祖曰:「我不由九錫作天子可乎?」璨懼,馳去。太祖遣循與王殷弒何皇后,因殺璨及玄暉、廷範等,以循為樞密副使。

唐が滅び、梁に仕えて汝州防禦使・左衞大将軍・租庸使となり、初めて姓を孔と改め、名を循とした。荘宗の時、権をもって汴州を治めた。明宗が魏で兵を起こして南進すると、荘宗は東出して汜水に至った。循は両端を持し、北門では明宗を迎え、西門では荘宗を迎え、供帳や牲餼の礼を等しく整え、その者らに戒めて言うには、「先に至った者を入れよ」と。明宗が先に至ったので、遂にこれを納れた。

原文唐亡,事梁為汝州防禦使、左衞大將軍、租庸使,始改姓孔,名循。莊宗時,權知汴州。明宗自魏兵反而南,莊宗東出汜水,循持兩端,遣迎明宗於北門,迎莊宗於西門,供帳牲餼,其禮如一,而戒其人曰:「先至者入之。」明宗先至,遂納之。

明宗が即位すると、循を枢密使とした。明宗が汴州に行幸したとき、循は東都を留守し、民に麹を犯す者があったので、循はその一家を族誅した。明宗はその冤罪を知り、よって詔して天下の麹禁を除き、民に麹を造ることを許した。

原文明宗即位,以為樞密使。明宗幸汴州,循留守東都,民有犯麴者,循族殺其家,明宗知其冤,因詔天下除麴禁,許民得造麴。

循は人となり柔佞にして険猾であり、安重誨は特にこれを親信し、凡そ循の言うことは、聴用しないことがなかった。明宗はかつて皇子に重誨の女を娶らせようとした。重誨が循に問うと、循は言う、「公は機密の臣である。皇子と婚姻すべきではありません」と。重誨はこれを信じ、やめた。しかし循は密かに人を遣わして明宗に白し、己が女を皇子に娶らせてほしいと求めた。明宗は即ち宋王従厚に循の女を娶らせた。重誨は初めてその人となりを憎み、循を出して忠武軍節度使とし、鎮を横海に移し、鎮において卒した。年四十八。太尉を贈られた。

原文循為人柔佞而險猾,安重誨尤親信之,凡循所言,無不聽用。明宗嘗欲以皇子娶重誨女,重誨以問循,循曰:「公為機密之臣,不宜與皇子婚。」重誨信之,乃止。而循陰使人白明宗,求女妻皇子,明宗即以宋王從厚娶循女。重誨始惡其為人,出循為忠武軍節度使,徙鎮橫海,卒于鎮,年四十八,贈太尉。

孫德昭

原文孫德昭

孫德昭は、塩州五原の人である。その父惟最は、材略があった。黄巣が長安を陥落させると、惟最はその郷里の子弟を率い、義兵千人を得て、南進して咸陽において巣を攻め、興平州の将はその行いを壮とし、さらに州兵二千を加えた。賊を破る功により、右金吾衞大将軍に拝された。

原文孫德昭,鹽州五原人也。其父惟最,有材略。黃巢陷長安,惟最率其鄉里子弟,得義兵千人,南攻巢于咸陽,興平州將壯其所為,益以州兵二千。與破賊功,拜右金吾衞大將軍。

朱玫が京師を乱すと、僖宗は興元に行幸した。惟最は兵を率いて賊を撃った。累遷して鄜州節度使となり、京師に留まって宿衛した。鄜州の将吏が闕に詣でて惟最の鎮守を請うたが、京師の民数万と神策軍がまた遮り留めて行かせず、荊南けいなん節度使に改め、京師において制置し、神策軍を分判し、「扈駕都」と号した。この時、京師は乱れ、民は皆これに頼って保たれた。

原文朱玫亂京師,僖宗幸興元,惟最率兵擊賊。累遷鄜州節度使,留京師宿衛。鄜州將吏詣闕請惟最之鎮,京師民數萬與神策軍復遮留不得行,改荊南節度使,在京制置,分判神策軍,號「扈駕都」。是時,京師亂,民皆賴以為保。

徳昭は父の任により神策軍指揮使となった。光化三年、劉季述が昭宗を廃し、東宮に幽閉した。宰相崔胤は反正を謀り、密かに人を遣わして義士で共に事を成しうる者を求め、徳昭は孫承誨・董従実とともに胤に応じ、胤は衣襟を裂いて書を書き盟した。天復元年正月朔、未だ明けず、季述が朝しようとしたとき、徳昭は甲士こうしを道傍に伏せ、その輿を邀えてこれを斬り、承誨らは分かれて余党を索しことごとく尽くした。昭宗は外の喧噪を聞き、大いに恐れた。徳昭が馳せ至り、門を叩いて言うには、「季述は誅されました。皇帝はまさに反正すべきです」と。何皇后が呼んで言うには、「汝、逆の首を進めよ」と。徳昭はその首を投げ入れた。やがて承誨らは悉く余党の首を取って献じ、昭宗はこれを信じた。徳昭は鎖を破って昭宗を出し、丹鳳楼に御して反正し、功により静海軍節度使に拝され、李姓を賜り、「扶傾済難忠烈功臣」と号し、承誨らとともに皆節度使・同中書門下平章事に拝され、図形は凌煙閣に列せられ、ともに京師に留まり、「三使相」と号され、恩寵比類なきものがあった。

原文德昭以父任為神策軍指揮使。光化三年,劉季述廢昭宗,幽之東宮,宰相崔胤謀反正,陰使人求義士可共成事者,德昭乃與孫承誨、董從實應胤,胤裂衣襟為書以盟。天復元年正月朔,未旦,季述將朝,德昭伏甲士道旁,邀其輿斬之,承誨等分索餘黨皆盡。昭宗聞外諠譁,大恐。德昭馳至,扣門曰:「季述誅矣,皇帝當反正!」何皇后呼曰:「汝可進逆首!」德昭擲其首入。已而承誨等悉取餘黨首以獻,昭宗信之。德昭破鎖出昭宗,御丹鳳樓反正,以功拜靜海軍節度使,賜姓李,號「扶傾濟難忠烈功臣」,與承誨等皆拜節度使、同中書門下平章事,圖形凌煙閣,俱留京師,號「三使相」,恩寵無比。

この時、崔胤はまさに唐の宦官を誅せんとし、外では梁を交えて恃みとし、一方で宦官もまた李茂貞を倚りて蔽いとし、梁と岐は争いを交わした。冬十月、宦者韓全誨が昭宗を劫して鳳翔ほうしょうに行幸させ、承誨・従実は皆従ったが、徳昭は独り梁に与し、乃ち兵を率いて胤及び百官を衛し東街を保ち、梁兵を促して西に向かわせた。梁の太祖はその己に附くことを頗る徳とし、龍鳳の剣・鬬鶏の紗をこれに遺した。

原文是時,崔胤方欲誅唐宦官,外交梁以為恃,而宦官亦倚李茂貞為扞蔽,梁、岐交爭。冬十月,宦者韓全誨劫昭宗幸鳳翔,承誨、從實皆從,而德昭獨與梁,乃率兵衞胤及百官保東街,趣梁兵以西,梁太祖頗德其附己,以龍鳳劍、鬬鷄紗遺之。

太祖が華州に至ると、徳昭は軍礼をもって道傍で迎謁した。太祖が京師に至ると、表して同州留後とし、将に行かんとしたが、京師の民がまた留まることを請うたので、遂に両街制置使となった。梁兵が鳳翔を囲むと、徳昭はその兵八千を以て太祖に属し、太祖はますますこれを徳とし、先に洛陽に行かせ、甲第一区を賜った。

原文太祖至華州,德昭以軍禮迎謁道旁。太祖至京師,表同州留後,將行,京師民復請留,遂為兩街制置使。梁兵圍鳳翔,德昭以其兵八千屬太祖,太祖益德之,使先之洛陽,賜甲第一區。

昭宗が東遷すると、左威衞上将軍に拝され、疾を以て免ぜられた。太祖が即位すると、烏銀の帯・袍・笏・名馬を賜った。疾少し間もなく、左衞大将軍とした。末帝が立つと、左金吾大将軍に拝されて卒した。承誨・従実は鳳翔に至り、宦者とともに皆殺された。

原文昭宗東遷,拜左威衞上將軍,以疾免。太祖即位,以烏銀帶、袍、笏、名馬賜之。疾少間,以為左衞大將軍。末帝立,拜左金吾大將軍以卒。承誨、從實至鳳翔,與宦者俱見殺。

王敬蕘

原文王敬蕘

王敬蕘は、潁州汝陰の人である。州に事えて牙将となった。唐末、王仙芝らが汝・潁の間を攻撃劫掠し、刺史は拒げず、敬蕘は遂にこれに代わり、即ち刺史に拝された。敬蕘は人となり状貌魁傑にして、沈勇有力、鉄槍を用いることを善くし、重さ三十斤であった。

原文王敬蕘,潁州汝陰人也。事州為牙將。唐末,王仙芝等攻劫汝、潁間,刺史不能拒,敬蕘遂代之,即拜刺史。敬蕘為人狀貌魁傑,而沈勇有力,善用鐵槍,重三十斤。

潁州は淮西と隣境をなし、数たび秦宗権に攻められ、力戦してこれを拒ぎ、宗権は河南の諸州を悉く陥落させたが、独り敬蕘は下すことができず、これにより潁の傍らの諸州の民は、皆敬蕘を頼りとして賊を避けた。この時、所在は残破していたが、独り潁州のみ戸二万を数えた。

原文潁州與淮西為鄰境,數為秦宗權所攻,力戰拒之,宗權悉陷河南諸州,獨敬蕘不可下,由是潁旁諸州民,皆保敬蕘避賊。是時,所在殘破,獨潁州戶二萬。

梁の太祖が淮南を攻めるに当たり、道すがら潁州を通り過ぎた。敬蕘は梁兵への供給饋送を甚だ厚くし、太祖は大いに喜び、敬蕘を沿淮指揮使に表奏した。その後、梁兵が呉を攻め、龐師古が清口で戦死し、敗兵が帰還する途中、潁州を通り過ぎた。大雪が降り、士卒は飢え凍えていた。敬蕘はそこで淮河沿いに薪を積み、粥を作って彼らに食べさせ、亡命兵卒の多くはこれによって全活した。太祖は敬蕘を武寧軍留後に表奏し、遂に節度使に拝した。

原文梁太祖攻淮南,道過潁州,敬蕘供饋梁兵甚厚,太祖大喜,表敬蕘沿淮指揮使。其後梁兵攻吳,龐師古死清口,敗兵亡歸,過潁,大雪,士卒飢凍,敬蕘乃沿淮積薪為作糜粥餔之,亡卒多賴以全活,太祖表敬蕘武寧軍留後,遂拜節度使。

天祐三年、左衞上將軍となった。太祖が即位すると、敬蕘は病を理由に致仕し、後に家で卒した。

原文天祐三年,為左衞上將軍。太祖即位,敬蕘以疾致仕,後卒于家。

蔣殷

原文蔣殷

蔣殷は幼くして王重盈の養子となり、王氏の姓を冒した。梁の太祖が河中を取ると、王氏の旧恩によりその子孫を録用し、殷を牙将に表奏した。太祖は特に彼を愛した。

原文蔣殷,幼為王重盈養子,冒姓王氏。梁太祖取河中,以王氏舊恩錄其子孫,表殷牙將,太祖尤愛之。

唐が洛陽に遷都すると、殷は宣徽北院使となった。太祖が既に襄陽を下し、転じて淮南を攻め、正陽に還って屯した時、哀帝は殷を遣わして軍を労った。この時、哀帝はちょうど郊祀の日取りを占っていた。殷は枢密使蔣玄暉らと不和があり、そこで太祖に彼らを讒言し、玄暉らが天子に郊祀を占わせて天を祈り、且つ諸侯の助祭者を待って復興を謀っていると述べた。太祖は大いに怒り、哀帝は郊祀の日取りを改めさせられた。この時、太祖は既に簒奪弑逆の謀を抱いており、何太后はかつて涙を流し頭を叩いて玄暉らのために、「梁王が禅位した後も、唐家の子母の命を全うさせてほしい」と述べたことがあった。殷はそこで玄暉がかつて密かに太后に侍ったと誣告し、太祖は玄暉及び張廷範、柳璨らを斬り、殷を遣わして積善宮で太后を弑させた。哀帝は詔を下して慚愧し、母后の故をもって天に奉ずる道がないと自ら述べ、遂に郊祀を行わなかった。

原文唐遷洛陽,殷為宣徽北院使。太祖已下襄陽,轉攻淮南,還屯正陽,哀帝遣殷勞軍。是時,哀帝方卜郊,殷與樞密使蔣玄暉等有隙,因譖之太祖,言玄暉等教天子卜郊祈天,且待諸侯助祭者以謀興復,太祖大怒,哀帝為改卜郊。是時,太祖將有篡弒之謀,何太后嘗泣涕叩頭為玄暉等言:「梁王禪位後,願全唐家子母。」殷乃誣玄暉嘗私侍太后,太祖斬玄暉及張廷範、柳璨等,遣殷弒太后於積善宮。哀帝下詔慚愧,自言以母后故無以奉天,乃卒不郊。

庶人友珪、殷と善く、友珪太祖を弑して自立し、殷を武寧軍節度使に拝した。末帝即位し、福王友璋を以て殷に代わらせ、殷代かわり(かわり)を受諾せず。王瓚も亦た王氏の子、殷に累せられるを懼れ、乃ち殷は王氏の子に非ず、本姓蒋なりと言った。末帝詔して官爵を削り、その姓を還させ、牛存節を遣わしてこれを討たせ、殷族を挙げて自燔死した。

原文庶人友珪與殷善,友珪弒太祖自立,拜殷武寧軍節度使。末帝即位,以福王友璋代殷,殷不受代。王瓚亦王氏子,懼為殷所累,乃言殷非王氏子,本姓蔣。末帝詔削官爵,還其姓,遣牛存節討之,殷舉族自燔死。