新五代史

原文新五代史

巻第四十二

原文卷42

朱宣(弟 瑾)

原文朱宣弟瑾

朱宣は宋州下邑の人である。幼くして父に従い塩を売り盗賊となり、父が法に触れて死すと、宣は去って青州節度使王敬武に仕え軍校となり、敬武は彼をその将曹全晟に配属させた。中和二年、敬武は全晟を関中に遣わして黄巢を破らせた。帰途鄆州うんしゅうに立ち寄ると、鄆州節度使薛崇が卒し、その将崔君預が自ら留後を称していた。全晟は君預を攻め殺し、遂に鄆州を占拠した。宣は戦功により、鄆州馬歩軍都指揮使となった。やがて全晟が死ぬと、軍中は宣を推して留後とし、唐の僖宗は直ちに宣を天平軍節度使に任じた。

原文朱宣,宋州下邑人也。少從其父販鹽為盜,父抵法死,宣乃去事青州節度使王敬武為軍校,敬武以隸其將曹全晟。中和二年,敬武遣全晟入關與破黃巢。還過鄆州,鄆州節度使薛崇卒,其將崔君預自稱留後。全晟攻殺君預,遂據鄆州。宣以戰功,為鄆州馬步軍都指揮使。已而全晟死,軍中推宣為留後,唐僖宗即拜宣天平軍節度使。

梁の太祖(朱全忠)が宣武軍を鎮守していた時、兄として宣に仕えた。太祖が新たに鎮守に就いたばかりで兵力はまだ少なく、しばしば秦宗権に苦しめられたので、太祖は宣に援軍を請うた。宣は弟の瑾と共に兗・鄆の兵を率いて汴を救い、蔡軍を大破して宗権を敗走させた。この時、太祖は既に滑州かつしゅうを襲撃して奪取し、次第に諸鎮を併呑しようとしていたので、宣・瑾が帰還すると、早速檄を飛ばして兗・鄆を非難し、宣・瑾が多く宣武軍の兵卒を誘い出して東に逃亡させたと述べ、兵を発して逃亡兵を捕らえ、それに乗じて攻撃したので、遂に敵国となり、曹・濮の間で苦戦した。この時、梁はまた東は徐州じょしゅうを攻め、西には蔡賊(秦宗権)がおり、北には強晋(李克用)を敵とし、宣・瑾兄弟は互いに首尾を援け合ったが、結局は梁に滅ぼされた。

原文梁太祖鎮宣武,以兄事宣。太祖新就鎮,兵力尚少,數為秦宗權所困,太祖乞兵於宣。宣與其弟瑾以兗、鄆之兵救汴,大破蔡兵,走宗權。是時,太祖已襲取滑州,稍欲并吞諸鎮,宣、瑾既還,乃馳檄兗、鄆,言宣、瑾多誘宣武軍卒亡以東,乃發兵收亡卒,因攻之,遂為敵國,苦戰曹、濮間。是時,梁又東攻徐州,西有蔡賊,北敵強晉,宣、瑾兄弟自相首尾,然卒為梁所滅。

乾寧四年、宣は敗れ、中都に逃れたが、葛従周に捕らえられ、汴橋の下で斬られた。(世間では宣と瑾を兄弟とし、名に「王」を加える者がいるが、それは誤りである。)

原文乾寧四年,宣敗,走中都,為葛從周所執,斬于汴橋下。今流俗以宣瑾兄,於名加「王」者,非也。

瑾は、宣の従父弟(父の兄弟の子)である。宣に従って鄆州に住み、軍校に補された。若い頃から豪放で大志があり、兗州えんしゅう節度使斉克譲はその人柄を愛し、娘を妻として与えた。瑾が親迎の儀を行った時、壮士を輿夫に選び、兵器を輿の中に隠し伏せさせた。夜に兗州に到着すると、兵を起こし、遂に克譲を虜にして、自ら留後を称した。僖宗は直ちに瑾を泰寧軍節度使に任じた。

原文瑾,宣從父弟也。從宣居鄆州,補軍校。少倜儻,有大志,兗州節度使齊克讓愛其為人,以女妻之。瑾行親迎,乃選壯士為輿夫,伏兵器輿中。夜至兗州,兵發,遂虜克讓,自稱留後。僖宗即拜瑾泰寧軍節度使。

瑾は宣と共に汴州べんしゅうで秦宗権を破った後、梁の太祖は瑾が宣武軍の兵卒を誘い出して帰還させたことを責め、朱珍を遣わして瑾を攻め、曹州を奪い、また濮州を攻め、一方で太祖自らは鄆を攻めた。瑾兄弟は往来して互いに救援し、凡そ十余年にわたり、大小数十戦を繰り広げ、太祖としばしば勝敗を争った。

原文瑾與宣已破秦宗權於汴州,梁太祖責瑾誘宣武軍卒以歸,遣朱珍攻瑾,取曹州,又攻濮州,而太祖自攻鄆。瑾兄弟往來相救,凡十餘年,大小數十戰,與太祖屢相勝敗。

太祖は宣の将賀瓌・何懐宝及び瑾の兄瓊を捕らえると、瓊らを率いて兗城の下に至り、瑾に告げて言うには、「汝の兄は敗れた!今、瓊らは既に降った。早く自ら帰順するがよい。」瑾は偽って「承知した。」と言った。そこで牙将胡規を遣わし、書状と礼物を持たせて軍門に赴き降伏を請わせた。太祖は大いに喜び、延寿門まで出て瑾と語り交わした。瑾は言う、「瓊を送り返して符印を渡させたい。」太祖はこれを信じ、客将劉捍を遣わして瓊を送らせた。瑾は壮士を橋の下に伏せさせ、単騎で瓊を迎え、手を振って捍に言う、「瓊だけを来させよ!」瓊が進むと、壮士がこれを捕らえ、直ちに城門を閉ざし、瓊が先に降ったことを責めて斬り、その首を城外に投げ捨てた。太祖は攻め落とせぬと悟り、兵を留めて包囲したまま去った。

原文太祖得宣將賀瓌、何懷寶及瑾兄瓊,乃將瓊等至兗城下,告瑾曰:「汝兄敗矣!今瓊等已降,不如早自歸。」瑾偽曰:「諾。」乃遣牙將胡規持書幣詣軍門請降。太祖大喜,至延壽門與瑾交語,瑾曰:「願得瓊送符印。」太祖信之,遣客將劉捍送瓊往。瑾伏壯士橋下,單騎迎瓊,揮手語捍曰:「請瓊獨來!」瓊前,壯士擒之,遂閉門,責瓊先降,斬之,擲其首城外。太祖度不可下,乃留兵圍之而去。

瑾は城に拠って自ら守り、葛従周らと城下で戦ったが、瑾の兵は屡々敗れ、宣もまた鄆州で敗れたので、晋に援軍を請うた。晋は李承嗣・史儼らに騎兵五千を率いさせて救援に向かわせた。太祖は既に宣を破ると、急ぎ兗州に向かった。瑾の城中は食糧が尽き、承嗣らと共に豊・沛の間で略奪して食を調達していたが、梁軍が急襲して来たので、瑾の将康懐英らが城を挙げて梁に降った。瑾らは麾下の兵を率いて沂州に逃れたが、沂州刺史尹処賓は受け入れなかった。また海州に逃れたが、梁軍が急追して来たので、淮南に奔った。楊行密は瑾が来ると聞き、大いに喜び、自らの玉帯を解いて贈り、瑾を武寧軍節度使に任ずるよう上表し、行軍副使とした。その後、梁が龐師古・葛従周らを遣わして淮南を攻めると、行密は瑾を用い、清口で梁軍を大破し、師古を斬った。行密は累次にわたり瑾を東南諸道行営副都統・平盧軍節度使・同中書門下平章事に任ずるよう上表した。

原文瑾嬰城自守,而與葛從周等戰城下,瑾兵屢敗,宣亦敗於鄆州,乃乞兵於晉,晉遣李承嗣、史儼等以騎兵五千救之。太祖已破宣,乃急趨兗。瑾城中食盡,與承嗣等掠食豐、沛間,梁兵奄至,瑾將康懷英等以城降梁。瑾等將麾下兵走沂州,沂州刺史尹處賓不納。又走海州,梁兵急追之,乃奔于淮南。楊行密聞瑾來,大喜,解其玉帶贈之,表瑾領武寧軍節度使,以為行軍副使。其後,梁遣龐師古、葛從周等攻淮南,行密用瑾,大破梁兵於清口,斬師古。行密累表瑾東南諸道行營副都統、領平盧軍節度使、同中書門下平章事。

行密が死ぬと、渥及び隆演が相次いで立ったが、皆年少であり、徐温とその子知訓が政権を専断し、瑾を畏れて除こうとしたので、瑾は知訓を謀殺しようとした。かつて月初めに愛妾を遣わして知訓の家に伺わせたことがあったが、知訓が強いて彼女と関係を持ち、妾が帰って訴えたので、瑾はますます憤慨した。屡々隆演を勧めて徐氏を誅し、国の患いを除くべきだと説いたが、隆演にはそれができなかった。

原文行密死,渥及隆演相繼立,皆年少,徐溫與其子知訓專政,畏瑾,欲除之,瑾乃謀殺知訓。嘗以月旦遣愛妾候知訓家,知訓強通之,妾歸自訴,瑾益不平。屢勸隆演誅徐氏,以去國患,隆演不能為。

やがて知訓が泗州に静淮軍を建て、瑾をその節度使として出向させようとした。出発に際し、夜に酒宴を開いて招いた。翌日、知訓が瑾のもとを訪れ礼を述べると、瑾は彼を堂上に招き入れ、妻の陶氏を出して会わせた。知訓が拝礼しようとした時、瑾は笏で彼を打ち倒し、戸口から伏兵が躍り出て、知訓を殺した。初め、瑾は二頭の悍馬を庭中に繋いでおき、知訓が入ると馬を放ち、互いに蹴り合い嘶かせたので、外の者はその変事を聞き知らなかった。瑾はその首を携えて馳せ参じ隆演に示して言う、「今日、呉ごの患いを除きました!」隆演は言う、「このことは私の知るところではない!」急いで起き上がり奥に入った。瑾は憤然としてその首を柱に打ち付け、剣を提げて出ようとしたが、府門は既に閉ざされていたので、垣を乗り越えようとして足を折った。瑾は行き詰まったのを見て、大声で叫んだ、「私は万民のために害を除いたのに、一身をもって死ぬのか!」遂に自刎した。

原文既而知訓以泗州建靜淮軍,出瑾為節度使。將行,召之夜飲。明日,知訓過瑾謝,延之升堂,出其妻陶氏,知訓方拜,瑾以笏擊踣之,伏兵自戶突出,殺之。初,瑾以二惡馬繫庭中,知訓入而釋馬,使相踶鳴,故外人莫聞其變。瑾攜其首馳示隆演曰:「今日為吳除患矣!」隆演曰:「此事非吾敢知!」遽起入內。瑾忿然以首擊柱,提劍而出,府門已闔,因踰垣,折其足。瑾顧路窮,大呼曰:「吾為萬人去害,而以一身死之!」遂自刎。

潤州の徐知誥(後の南唐なんとう烈祖)が乱を聞き、兵を率いて広陵に急行し、瑾の一族を誅滅した。瑾の妻陶氏は刑に臨んで泣いたが、その妾が言う、「何故泣くのですか?今すぐ公(瑾)にお会いできるのですよ!」陶氏は涙を収め、欣然として刑に就き、これを聞いた者は哀れんだ。

原文潤州徐知誥聞亂,以兵趨廣陵,族瑾家。瑾妻陶氏臨刑而泣,其妾曰:「何為泣乎?今行見公矣!」陶氏收淚,欣然就戮,聞者哀之。

瑾の名声は江淮に重く、人々は彼を畏れた。その死後、遺体は広陵北門に晒されたが、通行人が密かに共同で埋葬した。この時、民は多く瘧(マラリア)に病んでおり、皆その墓の土を取って水で服すると、病はたちまち癒えると言われ、更に新たな土を加えるので、次第に高い墳丘となった。徐温らはこれを憎み、その遺体を発掘し、雷公塘に投げ捨てた。後に温が病むと、夢に瑾が弓を引いて自分を射るのを見た。温は恐れ、その骨を網で引き上げ、塘の側に葬り、その上に祠を建てた。初め、瑾がかつて癰はれもの(はれもの)を病んだ時、医者が診て、顔色が恐れおののいた。瑾は言う、「ただ治療せよ。私はこの病で死ぬ者ではない。」果たしてその通りであった。享年五十二。

原文瑾名重江淮,人畏之,其死也,尸之廣陵北門,路人私共瘞之。是時,民多病瘧,皆取其墓上土,以水服之,云病輒愈,更益新土,漸成高墳。徐溫等惡之,發其尸,投於雷公塘。後溫病,夢瑾挽弓射之。溫懼,網其骨,葬塘側,立祠其上。初,瑾嘗病疽,醫者視之,色懼,瑾曰:「但理之,吾非以病死者。」於是果然。卒年五十二。

王師範

原文王師範

王師範は青州の人である。その父の敬武は平盧軍の牙将であった。唐の広明元年、無棣の人洪霸郎が斉・棣の間で盗賊となり、平盧節度使安師儒は敬武に兵を率いてこれを撃破させた。敬武は兵を返して師儒を逐い、自ら留後を称し、都統王鐸は制を承けて敬武を節度使に拝した。

原文王師範,青州人也。其父敬武,為平盧軍牙將。唐廣明元年,無棣人洪霸郎為盜齊、棣間,平盧節度使安師儒遣敬武率兵擊破之。敬武反兵逐師儒,自稱留後,都統王鐸承制拜敬武節度使。

敬武が卒すると、師範はなお幼く、その棣州刺史張蟾が叛いた。昭宗は師範が年少で、その下が服従しないと考え、太子少師崔安潜を平盧節度使に拝した。師範は交代を受けず、張蟾は安潜を迎えて棣州に入れた。師範はその将盧洪を遣わして張蟾を攻めさせたが、盧洪は兵を返して青州を襲撃しようとした。師範は表面上好意的な言葉を用い、人を遣わして盧洪を迎え、語って曰く、「私は幼くして事を任せることができず、諸将に頼って共にこれを支えているだけである。そうでなければ、公のなさるままに任せよう」と。盧洪は師範に為す能なしとみて、急ぎ還り、備えをしなかった。師範は道に伏兵を置き、その僕の劉鄩に語って曰く、「盧洪が来たら、我のためにこれを斬れ。お前を牙将に用いよう」と。翌日、盧洪が来ると、師範は出迎え、劉鄩が座席上でこれを斬り、伏兵が起こって、その余の兵をことごとく殺した。そこで急ぎ棣州を攻め、張蟾を破り、安潜は京師に奔って帰った。昭宗はそこで師範を節度使に拝した。

原文敬武卒,師範尚幼,其棣州刺史張蟾叛。昭宗以為師範年少,其下不服從,乃拜太子少師崔安潛為平盧節度使。師範不受代,蟾迎安潛入棣州。師範遣其將盧洪攻蟾,洪以兵返襲青州,師範陽為好辭,遣人迎語洪曰:「吾幼未能任事,賴諸將共持之爾。不然,聽公所為也。」洪以師範無能為,遽還,不為備。師範伏兵於道,語其僕劉鄩曰:「洪來,為我斬之!用爾為牙將。」明日,洪來,師範出迎,鄩於坐上斬之,伏兵發,盡殺其餘兵,乃急攻棣州,破張蟾,安潛奔歸于京師。昭宗乃拜師範節度使。

師範は頗る儒学を好み、書を集めて万巻に至り、政を行うに威と愛とがあった。梁の太祖が昭宗を鳳翔ほうしょうに囲んだ時、宦官韓全誨らが詔を矯って諸鎮の兵を召し、梁を撃たせた。詔が青州に至ると、師範は泣いて曰く、「諸鎮に兵があるのは、天子を藩屏し守るためである。今、天子が危辱に瀕しているのに、諸鎮はかえって兵をもって自らを衞する。我が力は足りないが、成敗はこれにかけよう」と。そこで使者を楊行密に遣わして兵を乞うた。この時、梁は既に東下して兗・鄆を取っており、師範は劉鄩とその弟の師魯を遣わして分かれて兗・密の諸州を攻めさせた。張居厚に壮士二百人を輿夫とさせ、輿の中に伏兵を置き、西に馳せて梁軍に向かい、師範の使者として梁に聘問すると称し、ついで太祖を劫殺しようとした。居厚が華州の東城に至ると、華州の将婁敬思はその異状を疑い、輿を割いて視ると、その兵を見た。居厚はそこで敬思を撃殺し、兵をもって西城を攻めたが、克たずして返った。劉鄩は葛従周を逐って兗州を取り、平盧の諸州は皆起兵して梁を攻めた。

原文師範頗好儒學,聚書至萬卷,為政有威愛。梁太祖圍昭宗於鳳翔,宦官韓全誨等矯詔召諸鎮兵以擊梁。詔至青州,師範泣曰:「諸鎮有兵,所以藩扞天子,今天子危辱,而諸鎮反以兵自衞;吾雖力不足,當成敗以之。」乃遣使乞兵於楊行密。是時,梁已東下兗、鄆,師範乃遣劉鄩與其弟師魯分攻兗、密諸州。遣張居厚以壯士二百為輿夫,伏兵輿中,西馳梁軍,稱師範使者聘梁,因欲劫殺太祖。居厚至華州東城,華州將婁敬思疑其有異,剖輿視之,見其兵。居厚遂擊殺敬思,以兵攻西城,不克而反。劉鄩逐葛從周取兗州,而平盧諸州皆起兵攻梁。

その後、梁の太祖が鳳翔から東還し、朱友寧を遣わして師範を攻めさせたが、友寧は戦死した。再び楊師厚を遣わしてこれを攻めさせ、臨朐に屯した。師範は兵をもってこれを迫った。師厚は表面上怯えて出ようとせず、隙を見て人を遣わし、偽って言わせて曰く、「梁兵は少なく、今まさに鳳翔に兵を乞い、糧も将に絶えようとしている。軍を還すべきである」と。師範はこれを真に受け、師魯に悉く兵を率いて攻めさせた。師厚は拒んで戦わず、師魯の兵が退くと、これを追撃して聖王山に至り、師魯を大いに破った。そこでその城に迫り、梁の別将劉重霸がその棣州を下したので、師範は降伏を請うた。太祖はこれを許した。師範は素服で驢に乗り、太祖に詣でて罪を請うた。太祖は客礼をもってこれをもてなした。久しくして、師範を河陽節度使に表した。

原文其後,梁太祖自鳳翔東還,遣朱友寧攻師範,友寧戰死。復遣楊師厚攻之,屯于臨朐。師範以兵迫之,師厚陽為怯不敢出,間遣人陽言曰:「梁兵少,方乞兵於鳳翔,今糧且絕,當還軍。」師範以為然,乃遣師魯悉兵攻之,師厚拒而不戰。師魯兵却,師厚追擊至聖王山,師魯大敗,遂傅其城,而梁別將劉重霸下其棣州,師範乃請降,太祖許之。師範素服乘驢詣太祖請罪,太祖待以客禮。久之,表師範河陽節度使。

太祖が即位すると、師範を召して右金吾衞上將軍とし、洛陽に居住させた。太祖は心の中でこれを誅しようと思ったが、発する由がなかった。太祖の諸子は既に王に封ぜられ、宮中で宴があった時、友寧の妻が泣いて太祖に謂いて曰く、「陛下は家を化して国と為され、諸子は人々皆封を得ました。しかし妾の夫だけは戦死したのに、どうして仇人はなお朝廷にいるのでしょうか」と。太祖は奮然として手を戟の如く指し、曰く、「我もまたこの賊を忘れるところであった」と。そこで人を遣わして洛陽に行かせ、その一族を滅ぼした。使者が至ると、先ず外に坑を掘り、それから入って告げた。師範は席を設けて酒肴を整え、諸宗族と飲酒し、使者に謂いて曰く、「死は人の免れざる所、況んや罪あるにおいてをや。しかし少長の序を失うことを懼れ、下って先人に愧じる」と。酒半ばにして、少長に命じて次第に起たせ、坑の所に就いて戮せられた。これを聞く者皆哀れみ憐れんだ。同光三年、師範に太尉を贈った。

原文太祖即位,召為右金吾衞上將軍,居于洛陽。太祖心欲誅之,未有以發。太祖諸子已封王,宴於宮中,友寧妻泣謂太祖曰:「陛下化家為國,諸子人人皆得封,而妾夫獨以戰死,奈何讎人猶在朝廷!」太祖奮然戟手曰:「吾亦幾忘此賊!」乃遣人就洛陽族滅之。使者至,先掘坑於外,乃入告之。師範設席為具,與諸宗族飲酒,謂使者曰:「死,人之所不免,況有罪乎?然懼少長失序,下愧於先人。」酒半,令少長以次起,就戮於坑所,聞者皆哀憐之。同光三年,贈師範太尉。

李罕之

原文李罕之

李罕之は陳州ちんしゅう項城の人である。人となり驍勇で、力は数人を兼ねた。少時に学び、読書成らず、去って僧となったが、その無頼のため、行く所皆容れられなかった。そこで酸棗の市中で乞食したが、市中の人皆与えず、罕之は器を地に擲ち、その衣を裂き、また去って盗賊となった。

原文李罕之,陳州項城人也。為人驍勇,力兼數人。少學,讀書不成,去為僧,以其無賴,所往皆不容。乃乞食酸棗市中,市中人皆不與,罕之擲器于地,裂其衣,又去為盜。

この時、黄巢が曹・濮で起こると、そこでこれに依った。黄巢が北して江を渡ると、罕之はその麾下と共に淮南に走り、自ら高駢に帰順した。駢は罕之を光州刺史に表した。歳余りして、秦宗権が急に光州を攻めたので、罕之は守ることができず、還って項城に走り、その余衆を収め、河陽の諸葛爽に依った。爽は罕之を懐州刺史とした。黄巢が既に敗走し、爽が唐に降ると、僖宗は爽を東南面招討使に拝して宗権を攻めさせ、爽は罕之を副使に表し、兵をもって宋州に屯させ、また河南尹・東都留守に表した。秦宗権が孫儒を遣わして河南を攻めると、罕之は兵少なく、西に澠池に走った。孫儒は宮闕を焼き、剽掠して去った。罕之は澠池に壁した。

原文是時,黃巢起曹、濮,乃往依之。巢北渡江,罕之與其麾下走淮南,自歸於高駢,駢表光州刺史。歲餘。秦宗權急攻光州,罕之不能守,還走項城,收其餘眾,依諸葛爽於河陽,爽以罕之為懷州刺史。巢已敗走,爽降唐,僖宗拜爽東南面招討使,以攻宗權,爽表罕之副使,以兵屯宋州,又表河南尹、東都留守。秦宗權遣孫儒攻河南,罕之兵少,西走澠池,儒燒宮闕,剽掠而去。罕之壁澠池。

歳余りして、諸葛爽が死に、その将劉経が爽の子仲方を立てた。仲方は年少で、事は皆劉経に任せた。劉経は罕之の兇勇で制し難いことを慮り、兵をもってこれを攻めた。罕之は返り撃って劉経を走らせた。罕之は鞏県まで追い、汜水に舟を陳べて、将に河を渡らんとした。劉経は張言を遣わしてこれを河上で拒がせたが、張言はかえって劉経に背き、罕之と合して河陽を攻めたが、劉経に敗れ、退いて懐州を保った。やがて孫儒が河陽を陥とし、仲方は梁に奔った。梁兵が孫儒を撃走すると、罕之は河陽を襲い取り、張言は河南を取り、皆梁に附いた。

原文歲餘,諸葛爽死,其將劉經立爽子仲方。仲方年少,事皆任經,經慮罕之兇勇難制,以兵攻之,罕之返擊走經。罕之追至鞏縣,陳舟于汜水,將渡河,經遣張言拒之河上,言反背經,與罕之合攻河陽,為經所敗,退保懷州。已而孫儒陷河陽,仲方奔于梁。梁兵擊走儒,罕之襲取河陽,言取河南,皆附于梁。

罕之と張言は皆諸葛爽の叛将であり、事が既に成ると、乃ち相い交臂して盟を為し、誓って休戚を同じくし相忘れざらんとした。罕之は衆を御するに法なく、性苛暴で、頗る士心を失った。一方、張言は軍旅を治めるに善く、民に播殖を教え、積聚を務めた。罕之が用兵する時、張言は嘗てその乏しきを供給した。罕之は求取すること已むことなく、張言は頗るこれを苦しみ、輸することができなかった。罕之は張言の軍吏を召して笞責したので、張言はますます不平を抱いた。罕之は悉く兵を挙げて晋・絳を攻め、張言は夜に河陽を襲い、罕之は晋に奔った。晋は罕之を沢州刺史に表し、李存孝に兵三万を以て罕之を助けさせて張言を攻めさせた。張言は梁に救いを求めた。罕之は沇河で敗れ、乃ち太原に帰り、李克用はこれを帳中に延いた。罕之はその子の頎を留めて晋に事えさせ、乃ち沢州に赴き、日に兵をもって懐・孟の間を鈔略し、人を啖って食とした。居民が摩雲山に屯聚すると、罕之は悉くこれを攻め殺し、その上に柵を立てた。時人はこれを李摩雲と号した。この時、晋はまさに山東の地を徇い、頗る罕之を倚りて扞蔽とした。李茂貞らが京師を犯すと、克用は兵をもって渭北に至り、僖宗は克用を邠州四面行営都統とし、罕之を副と表した。王行瑜を破り、検校太尉を加え、食邑千戸とした。

原文罕之與言皆爽叛將,事已成,乃相與交臂為盟,誓同休戚不相忘。罕之御眾無法,性苛暴,頗失士心。而言善治軍旅,教民播殖,務為積聚。罕之用兵,言嘗供給其乏。罕之求取無已,言頗苦之,不能輸,罕之召言軍吏笞責之,言益不平。罕之悉兵攻晉、絳,言夜襲河陽,罕之奔晉。晉表罕之澤州刺史,使李存孝以兵三萬助罕之攻言。言求救於梁。罕之敗于沇河,乃歸太原,李克用延之帳中。罕之留其子頎事晉,乃之澤州,日以兵鈔懷、孟間,啖人為食。居民屯聚摩雲山,罕之悉攻殺之,立柵其上,時人號曰李摩雲。是時,晉方徇地山東,頗倚罕之為扞蔽。李茂貞等犯京師,克用以兵至渭北,僖宗以克用為邠州四面行營都統,表罕之為副。破王行瑜,加檢校太尉,食邑千戶。

罕之は自ら功が晋より多いと思い、ひそかに蓋寓に謂いて曰く、「我が河陽より身を脱するより以来、晋に頼って我を容れられたが、未だこれに報いるものがない。今、老いて行き、能為すところなし。若し我が王憐れみ見て、一小鎮を与え、兵を休め疾を養って後に老いを帰らしめられるなら、幸いである」と。蓋寓がこれを言上すると、克用は答えなかった。他日、諸鎮の守将を選ぶ時、嘗て罕之に及ぶことがなく、罕之の心はますます怏怏とした。蓋寓が克用に告げ、罕之に他心あることを懼れると、克用曰く、「我が罕之に一鎮を惜しまんや。しかし鷹鳥の性、飽けば則ち颺ぐのみ」と。

原文罕之自以功多於晉,私謂蓋寓曰:「自吾脫身河陽,賴晉容我,未能有以報之;今行老矣,無能為也。若吾王見憐,與一小鎮,使休兵養疾而後歸老,幸也!」寓為言之,克用不對。佗日,諸鎮擇守將,未嘗及罕之,罕之心益怏怏。寓告克用,懼罕之有佗心,克用曰:「吾於罕之豈惜一鎮,然鷹鳥之性,飽則颺矣!」

光化元年、潞州ろしゅうの薛志勤が卒す。李罕之は急ぎ潞州に入り、人を遣わして晋王に啓して曰く、「志勤は将に死せんとし、新たな帥は未だ至らず。然る所以は、他の盗賊に備うるのみ」と。李克用は大いに怒り、李嗣昭を遣わして之を攻めしむ。罕之は晋の守将馬溉・伊鐔等を執り、子の李顥を遣わして梁に送り兵を乞う。梁の太祖は丁会を遣わして潞州を守らしめ、罕之を河陽節度使と為す。行きて懐州に至り、疾を以て卒す。年五十八。

原文光化元年,潞州薛志勤卒,罕之遽入潞州,使人啟晉王曰:「志勤且死,新帥未至,所以然者,備佗盜耳!」克用大怒,遣李嗣昭攻之。罕之執晉守將馬溉、伊鐔等,遣子顥送于梁以乞兵。梁太祖遣丁會守潞州,以罕之為河陽節度使,行至懷州,以疾卒,年五十八。

李罕之が初め梁を背きて晋に帰した時、晋王は罕之に沢州を守らせ、罕之は其の子の李頎を留めて荘宗と遊ばしめ、甚だ親しむ。後に罕之が晋を背きて梁に帰すと、晋王は怒り、頎を殺さんと欲す。荘宗は之に駿馬を与え、梁に奔らしむ。太祖は頎父子を得て大いに喜び、之をして朱友倫と兵を将いて昭宗を衛わしむ。故に頎は太祖の時に当たり、常に禁兵を掌る。末帝が友珪を誅するに、頎は其の謀に与り、右羽林統軍・澶州せんしゅう刺史に拝せらる。唐に事え、衛・衍二州刺史を歴任し、累遷して右領軍衛上将軍に至る。天福年中に卒す。年七十。太尉を贈らる。

原文罕之初背梁而歸晉,晉王以罕之守澤州,罕之留其子頎與莊宗遊,甚狎。後罕之背晉以歸梁,晉王怒,欲殺頎,莊宗與之駿馬,使奔于梁。太祖得頎父子大喜,使與友倫將兵以衛昭宗,故頎當太祖時,常掌禁兵。末帝誅友珪,頎與其謀,拜右羽林統軍、澶州刺史。事唐,歷衛、衍二州刺史,累遷右領軍衛上將軍。天福中卒,年七十,贈太尉。

孟方立

原文孟方立

孟方立は、邢州けいしゅう平郷の人なり。少くして軍卒と為り、勇力を以て選ばれて隊将と為る。唐の広明年中、潞州節度使高潯が河陽に於いて諸葛爽を攻むるに、方立を遣わして兵を将い天井関より出で先鋒と為さしむ。潯は其の将劉広に逐はれ、広は乱軍に殺さる。方立乱を聞き、兵を引き天井より入り潞州を拠す。唐因りて之を昭義軍節度使と為す。

原文孟方立,邢州平鄉人也。少為軍卒,以勇力選為隊將。唐廣明中,潞州節度使高潯攻諸葛爽于河陽,遣方立將兵出天井關為先鋒。潯為其將劉廣所逐,廣為亂軍所殺。方立聞亂,引兵自天井入據潞州,唐因以為昭義軍節度使。

昭義の節制する所は沢・潞・邢・洺・磁の五州なり。而して潞州に治す。方立は謂う、潞州は山川高険にして、人俗勁悍なり。劉稹以来嘗て其の帥を逐う。且つ己は邢人なりと。因りて其の軍を邢州に徙す。而して潞人は方立の徙を怨み、因りて沢・潞二州を以て晋に帰す。晋は李克修を遣わして沢潞節度使と為し、方立は邢・洺・磁の三州を以て自ら昭義軍と為す。

原文昭義所節制澤、潞、邢、洺、磁五州,而治潞州。方立以謂潞州山川高險,而人俗勁悍,自劉稹以來嘗逐其帥;且己邢人也,因徙其軍于邢州。而潞人怨方立之徙也,因以澤、潞二州歸于晉。晉遣李克修為澤潞節度使,方立以邢、洺、磁三州自為昭義軍。

晋は数え李存孝等を遣わし兵を出だして山東を窺わしむ。三州の人は俘掠殆んど尽き、赤地数千里、復た耕桑する者無きこと累年なり。方立は孤城を以て自ら守り、梁に求救す。梁は方に東にて兗・鄆の事有り、救う能わず。文徳元年、方立は王鎔に兵を乞いて晋を攻めんとす。鎔之を許す。方立乃ち其の将奚忠信を遣わして晋の遼州を攻めしむ。而して鎔は他の故を以て兵を出す能わず。兵既に約を失い、忠信大いに敗れ、而して晋兵勝に乗じて之を攻む。

原文晉數遣李存孝等出兵以窺山東,三州之人俘掠殆盡,赤地數千里,無復耕桑者累年。方立以孤城自守,求救于梁,梁方東事兗、鄆,不能救也。文德元年,方立乞兵于王鎔以攻晉,鎔許之。方立乃遣其將奚忠信攻晉遼州,而鎔以佗故不能出兵。兵既失約,忠信大敗,而晉兵乘勝攻之。

方立の将石元佐と為る者は、兵に善くして智多し。方立嘗て之を信用す。忠信の敗るるや、元佐は晋将安金俊の得る所と為り、金俊厚く之を遇し、以て邢を攻むるの策を問う。元佐曰く、「方立は守りに善くして邢城堅し。若し之を攻むれば、必ず志を得ず。宜しく急ぎ其の磁州を攻むべし。方立来りて救わば、以て敗つべし」と。金俊然りと為す。滏水の西に軍す。方立果たして兵を帥いて来り救う。金俊に敗れられ、馳せて邢州に入り、壁を閉じて復た出でず。外に救兵無く、城中食将に尽きんとす。方立夜に出でて城を巡り、守る者に号令す。守る者皆応ぜず。方立不可なるを知り、乃ち帰りて酖を飲みて卒す。

原文方立將石元佐者,善兵而多智,方立嘗信用之。忠信之敗也,元佐為晉將安金俊所得,金俊厚遇之,問以攻邢之策,元佐曰:「方立善守而邢城堅,若攻之,必不得志。宜急攻其磁州,方立來救,可以敗也。」金俊以為然。軍于滏水之西,方立果帥兵來救,為金俊所敗,馳入邢州,閉壁不復出。外無救兵,城中食且盡,方立夜出巡城,號令守者,守者皆不應,方立知不可,乃歸飲酖而卒。

軍中其の弟の洺州刺史孟遷を以て留後と為し、梁に求救す。梁の太祖は王虔裕を遣わし騎兵三百を将いて遷を助け守らしむ。遷は虔裕を執りて晋に降る。晋は遷の族を太原に徙し、之を汾州刺史と為し、後ち之を沢潞節度使と為す。

原文軍中以其弟洺州刺史遷為留後,求救於梁。梁太祖遣王虔裕將騎兵三百助遷守,遷執虔裕降晉。晉徙遷族于太原,以為汾州刺史,後以為澤潞節度使。

天復元年、梁は氏叔琮を遣わし晋を攻めしめ、天井関より出づ。遷は門を開きて降り、梁兵の為に郷導と為りて太原を攻むるも、克たず。叔琮軍還りて潞を過ぐるに、遷を以て梁に帰す。梁の太祖其の返覆を悪み、之を殺す。

原文天復元年,梁遣氏叔琮攻晉,出天井關,遷開門降,為梁兵鄉道以攻太原,不克。叔琮軍還過潞,以遷歸于梁,梁太祖惡其返覆,殺之。

王珂

原文王珂

王珂は、河中の人なり。其の仲父王重榮は、河中の兵を以て黄巣を破り、唐に功有り、河中節度使に拝せらる。重榮に子無く、其の兄重簡の子珂を以て後と為す。重榮卒し、弟の重盈立つ。重盈卒し、軍中乃ち珂を重榮の子と為し、之を立つ。

原文王珂,河中人也。其仲父重榮,以河中兵破黃巢,有功於唐,拜河中節度使。重榮無子,以其兄重簡子珂為後。重榮卒,弟重盈立,重盈卒,軍中乃以珂重榮子,立之。

重盈の子、陝州節度使王珙・絳州刺史王瑤、珂と立つことを争う。珙・瑤は書を以て梁の太祖に与え、言う、珂は故に王氏の蒼頭、小字あざな忠児なり。応に立つを得べからずと。珂も亦た晋に援を求め、晋人は之を朝に言う。昭宗は晋の故を以て、之を許す。而して珙・瑤も亦た西に王行瑜・韓建・李茂貞を結びて援と為す。行瑜等交わって章を上り論列す。昭宗報えて、重榮と晋は唐に嘗て大功有り、業に之を許せり。易うべからずと。行瑜等怒り、兵を以て京師を犯し、宰相李磎等を殺して去る。珙・瑤連兵して珂の河中を攻む。珂は晋に援を求め、晋兵西に三鎮を討ち、行きて絳州を下し、瑤を斬りて過ぎ、渭北に至り、行瑜を撃ち破る。昭宗遂に珂を以て河中節度使と為す。晋は女を以て之に妻せしめ、李嗣昭を遣わし兵を将いて珂を助け珙の陝州を攻めしむ。珙は人となり惨刻にして、嘗て人を斬り其の首を前に擲ち、言笑自若たり。其の下之を苦しむ。偏将李璠、珙の戦敗に因り、珙を殺し、自ら留後と称す。

原文重盈子陝州節度使珙、絳州刺史瑤,與珂爭立,珙、瑤以書與梁太祖,言珂故王氏蒼頭,小字忠兒,不應得立。珂亦求援於晉,晉人言之朝,昭宗以晉故,許之。而珙、瑤亦西結王行瑜、韓建、李茂貞為援,行瑜等交章論列,昭宗報以重榮與晉於唐嘗有大功,業許之,不可易。行瑜等怒,以兵犯京師,殺宰相李磎等而去。珙、瑤連兵攻珂河中,珂求援於晉,晉兵西討三鎮,行下絳州,斬瑤而過,至于渭北,擊破行瑜。昭宗卒以珂為河中節度使。晉以女妻之,遣李嗣昭將兵助珂攻珙陝州。珙為人慘刻,嘗斬人擲其首於前,言笑自若,其下苦之。偏將李璠因珙戰敗,殺珙,自稱留後。

是の時、梁は已に鎮・定を下し、将に兵を移して西せんとす。而して昭宗は劉季述に廃せられ、京師大いに乱る。崔胤陰に梁を召して兵を以て西せしむ。梁の太祖は珂の河中に在るを以て、患いと為るを懼れ、乃ち張存敬・侯言を顧み、一大繩を以て之に与え、曰く、「我が為に持し珂を縛して来れ」と。存敬等兵を出だして含山を破り、晋・絳二州を破り、何絪を遣わし兵を以て之を守らしめ、晋の援を絶つ。存敬河中を囲む。珂は晋に急を告ぐ。晋は絪の故を以て前進するを得ず。珂乃ち其の妻を遣わし書を以て晋王に告げて曰く、「賊勢此の如し。朝夕梁に食を乞わん。大人何ぞ忍びて而して救わざる邪」と。晋王之に報えて曰く、「梁兵阻みを為し、衆寡敵せず。之を救わば則ち晋と倶に亡びん。王郎と自ら朝廷に帰るに若かず」と。珂乃ち書を為りて李茂貞に与えて曰く、「天子初めに返正し、詔して藩鎮に相侵さずして以て王室を安んぜしむ。今朱公約を棄てて以て攻め見ゆ。其の勢は弊邑に止まらず。若し弊邑朝に亡びば、則ち西北諸鎮は諸君の能く守る所に非ざるなり。願わくは華州と兵を出だし潼関を以て応と為さん」と。茂貞報えず。珂計窮まり、乃ち河に舟を治め、将に京師に帰らんとす。

原文是時,梁已下鎮、定,將移兵西,而昭宗為劉季述所廢,京師大亂。崔胤陰召梁以兵西,梁太祖以珂在河中,懼為患,乃顧張存敬、侯言,以一大繩與之,曰:「為我持縛珂來!」存敬等兵出含山,破晉、絳二州,遣何絪以兵守之,絕晉援。存敬圍河中,珂告急於晉,晉以絪故不得前。珂乃遣其妻以書告晉王曰:「賊勢如此,朝夕乞食於梁矣!大人何忍而不救邪?」晉王報之曰:「梁兵為阻,眾寡不敵,救之則并晉俱亡,不若與王郎自歸朝廷。」珂乃為書與李茂貞曰:「天子初返正,詔藩鎮無相侵以安王室。今朱公棄約以見攻,其勢不止於弊邑;若弊邑朝亡,則西北諸鎮非諸君所能守也!願與華州出兵潼關以為應。」茂貞不報。珂計窮,乃治舟于河,將歸于京師。

珂夜に城に登りて陴を守る者に諭す。陴を守る者皆応ぜず。牙将劉訓夜に珂の寝に入り事を白す。珂之を叱して曰く、「兵反かんと欲する邪」と。訓乃ち衣を解き自ら索して入りて曰く、「公苟くも疑わば、請う先ず臂を断たん」と。珂曰く、「事急なり。計安くより出でんや」と。訓曰く、「公若し家を携え夜に済わば、人必ず舟を争わん。一夫鴟張すれば、大事即ち去らん。明け方に情を以て軍中に諭し、願いて従う者猶ほ其の半を得るに若かず。然らずんば、且つ款状を為して以て梁兵を緩め、徐ろに向背を図らん」と。珂然りと為す。

原文珂夜登城諭守陴者,守陴者皆不應。牙將劉訓夜入珂寢白事,珂叱之曰:「兵欲反邪!」訓乃解衣自索而入曰:「公苟懷疑,請先斷臂!」珂曰:「事急矣!計安出乎?」訓曰:「公若攜家夜濟,人必爭舟,一夫鴟張,大事即去。不若遲明以情諭軍中,願從者猶得其半。不然,且為款狀以緩梁兵,徐圖向背。」珂以為然。

梁の太祖は同州より唐に降り、即ち重榮に依り、母王氏を以てする故に、事に重榮を舅と為す。珂乃ち城に登りて存敬に呼びて曰く、「吾は梁王に家世の旧有り。兵当に舎を退くべし。梁王の来るを俟て、吾将に命を聴かん」と。存敬乃ち舎を退き、馳せて太祖に詣で洛陽に於いて告げしむ。太祖河中に至り、先ず其の城東に至り、重榮の墓に哭して而して後に入る。珂は面縛牽羊して以て太祖に見えんと欲す。太祖之に謂いて曰く、「太師阿舅の恩何の時にか忘るべけん。郎君若し亡国の礼を以て見えんには、太師其れ我を何と謂わん」と。珂は路に於いて迎え、手を握りて噓唏す。乃ち珂を汴に徙す。太祖は珂を晋の婿と為すを以て、其の己に貳するを疑い、珂をして西に入り覲せしむ。行きて華州に至り、人をして之を伝舎に殺さしむ。

原文梁太祖自同州降唐,即依重榮,以母王氏,故事重榮為舅。珂乃登城呼存敬曰:「吾於梁王有家世之舊,兵當退舍,俟梁王來,吾將聽命。」存敬乃退舍,使馳詣太祖於洛陽。太祖至河中,先之城東,哭於重榮之墓而後入。珂欲面縛牽羊以見太祖,太祖謂曰:「太師阿舅之恩何時可忘,郎君若以亡國之禮見,太師其謂我何?」珂迎於路,握手噓唏,乃徙珂於汴。太祖以珂晉壻也,疑其貳己,使珂西入覲,行至華州,使人殺之傳舍。

瓚は重盈の諸子なり、梁の太祖既に珂を執り、自ら河中節度使を領し、瓚を吏と為す。瓚梁に事へ、諸衞大將軍、泰寧・鎮國軍節度使と為る。末帝の時、開封尹と為る。貞明五年、賀瓌に代りて北面行營招討使と為る。是の時、晉既に德勝に城し、瓚黎陽より河を渡り澶州を攻むるも克たず、退きて楊村に屯し、河の上流を扼し、晉人と相持すること經年、大小百餘戰、瓚遂に功無し、末帝戴思遠を遣はして代はらしめ、瓚復た開封尹と為る。

原文瓚,重盈之諸子也,梁太祖已執珂,自領河中節度使,以瓚為吏。瓚事梁,為諸衞大將軍,泰寧、鎮國軍節度使。末帝時,為開封尹。貞明五年,代賀瓌為北面行營招討使。是時,晉已城德勝,瓚自黎陽渡河攻澶州,不克,退屯楊村,扼河上流,與晉人相持經年,大小百餘戰,瓚卒無功,末帝遣戴思遠代,瓚復為開封尹。

莊宗鄆より京師に入る、末帝唐兵將に至らんとするを聞き、日夜涕泣し、為す所を知らず、自ら國寶を把り、其の宮室を指して瓚に謂ひて曰く、「吾をして此れを保たしむるは、卿が畫如何に在るかに繫がる」と。唐兵既に宛朐を過ぐ、瓚市人を驅率して城に登り拒ぎ守る。唐兵封丘門を攻む、瓚門を開きて降を迎へ、地に伏して死を請ふ、莊宗勞して之を起して曰く、「朕と卿家は世婚姻なり、然れども人臣各主に為るのみ、復た何の罪か有らん」と。因りて以て開封尹と為し、宣武軍節度使に遷す。已にして故梁の臣趙巖・張漢傑等相次いで誅死す、瓚憂ひを以て卒す、太子太師を贈らる。

原文莊宗自鄆入京師,末帝聞唐兵且至,日夜涕泣,不知所為,自持國寶,指其宮室謂瓚曰:「使吾保此者,繫卿之畫如何耳!」唐兵已過宛朐,瓚驅率市人登城拒守。唐兵攻封丘門,瓚開門迎降,伏地請死,莊宗勞而起之曰:「朕與卿家世婚姻,然人臣各為主耳,復何罪邪!」因以為開封尹,遷宣武軍節度使。已而故梁臣趙巖、張漢傑等相次誅死,瓚以憂卒,贈太子太師。

趙犨

原文趙犨

趙犨、其の先青州の人なり。世陳州の牙將と為る。犨幼くして羣兒と道中に戲れり、行伍を部分し、指顧將帥の如く、諸の大兒と雖も皆其の節度を聽く、其の父叔文之を見て、驚きて曰く、「吾が門を大にするは、此の兒なり」と。壯に及び、弓劍を用ふるに善く、人と為り勇果、氣義を重んず、刺史其の材を聞き、召して麾下に置く。累遷して忠武軍馬步軍都虞候と為る。

原文趙犨,其先青州人也。世為陳州牙將。犨幼與羣兒戲道中,部分行伍,指顧如將帥,雖諸大兒皆聽其節度,其父叔文見之,驚曰:「大吾門者,此兒也!」及壯,善用弓劍,為人勇果,重氣義,刺史聞其材,召置麾下。累遷忠武軍馬步軍都虞候。

王仙芝河南を寇し、汝州を陷し、將に東都を犯せんとす、犨兵を引きて之を撃ち破る、仙芝乃ち南に去る。已にして黃巢起る、在る所の州縣、往往賊に陷る。陳州の豪傑數百人、相與に忠武軍に詣り、犨を求めて刺史と為し以て自ら保たんとす、忠武軍表して犨を陳州刺史と為す。已にして巢長安を陷す、犨諸の將吏に語りて曰く、「吾が計を以てすれば、巢若し長安市人に誅せられずんば、必ず其の眾を驅りて東走せん、吾州正に其の衝に當たる」と。乃ち城池を治めて守備と為し、民六十里内に在る者を遷して皆城中に入らしめ、其の子弟を選び、兵甲を配し、其の弟昶・珝を將と為す。巢敗れ、果たして東走し、先づ孟楷を遣はして項城に據らしむ、昶之を撃ち破り、楷を執へて歸る。巢後より至り、楷の執へられたるを聞きて大怒す。

原文王仙芝寇河南,陷汝州,將犯東都,犨引兵擊敗之,仙芝乃南去。已而黃巢起,所在州縣,往往陷賊。陳州豪傑數百人,相與詣忠武軍,求得犨為刺史以自保,忠武軍表犨陳州刺史。已而巢陷長安,犨語諸將吏曰:「以吾計,巢若不為長安市人所誅,必驅其眾東走,吾州適當其衝矣!」乃治城池為守備,遷民六十里內者皆入城中,選其子弟,配以兵甲,以其弟昶、珝為將。巢敗,果東走,先遣孟楷據項城,昶擊破之,執楷以歸。巢從後至,聞楷被執,大怒。

既にして秦宗權蔡州さいしゅうを以て巢に附く、巢の勢甚だ盛んなり、乃ち眾を悉くして犨を圍み、舂磨を置き、人の肉を糜して以て食と為す。陳人恐る、犨其の下に語りて曰く、「吾が家三世陳の將、必ず能く此れを保たん。爾曹男子、當に死中に生を求め、功を建て業を立つべし、必ずしも此時に因らざる無からん」と。陳人皆踴躍す。巢城北三里に柵して八仙營と為し、宮闕を起し、百官を置き、糧餉を聚め、以て久しく之を弊はんと欲す、其の兵號二十萬。陳人舊に巨弩數百有り、皆廢壞す、後生の弩工皆其の器を識らず。珝創意を以て之を理む、弩矢五百步を激し、人馬皆洞く、以て故に巢敢へて近づかず。圍むこと凡そ三百日、犨食將に盡きんとす、乃ち梁に兵を乞ふ。梁の太祖と李克用皆自ら將として陳に會し、西華に於て巢の將黃鄴を撃ち破る。西華に積粟有り、巢之を恃みて以て餉と為す、鄴の敗るるに及び、巢乃ち圍みを解きて去る。

原文既而秦宗權以蔡州附巢,巢勢甚盛,乃悉眾圍犨,置舂磨,糜人之肉以為食。陳人恐,犨語其下曰:「吾家三世陳將,必能保此。爾曹男子,當於死中求生,建功立業,未必不因此時。」陳人皆踴躍。巢柵城北三里為八仙營,起宮闕,置百官,聚糧餉,欲以久弊之,其兵號二十萬。陳人舊有巨弩數百,皆廢壞,後生弩工皆不識其器。珝創意理之,弩矢激五百步,人馬皆洞,以故巢不敢近。圍凡三百日,犨食將盡,乃乞兵於梁。梁太祖與李克用皆自將會陳,擊敗巢將黃鄴于西華。西華有積粟,巢恃以為餉,及鄴敗,巢乃解圍去。

梁の太祖陳州に入る、犨兄弟迎へ謁ひて馬首に甚だ恭し。然れども犨陰に太祖必ず大事を成すを識り、乃ち心を降し迹を屈し、自ら託するの計を為す。梁の己を援ける恩を以て、太祖の為に生祠を立て、朝夕拜謁す。其の子巖を以て太祖の女に尚せしむ、是を長樂公主と謂ふ。黃巢既に去り、秦宗權復た淮西に亂し、旁ら二十餘州を陷し、而して陳蔡に去ること最近く、犨兄弟力めて之を拒ぎ、遂に下す能はず。後巢・宗權皆敗死す、唐の昭宗即ち陳州を以て忠武軍と為し、犨を拜して節度使と為す。犨既に病み、乃ち位を其の弟昶に與ふ、後數月にして卒す。

原文梁太祖入陳州,犨兄弟迎謁馬首甚恭。然犨陰識太祖必成大事,乃降心屈迹,為自託之計。以梁援己恩,為太祖立生祠,朝夕拜謁。以其子巖尚太祖女,是謂長樂公主。黃巢已去,秦宗權復亂淮西,陷旁二十餘州,而陳去蔡最近,犨兄弟力拒之,卒不能下。後巢、宗權皆敗死,唐昭宗即以陳州為忠武軍,拜犨節度使。犨已病,乃以位與其弟昶,後數月卒。

昶大寇新たに滅びしに乘じ、乃ち兵を休め農を課し、梁に事ふること尤だ謹みたり。梁兵四方を攻戰す、昶饋輓供億し、未だ嘗て少しく懈らず。昶卒し、珝代りて立つ。

原文昶乘大寇新滅,乃休兵課農,事梁尤謹。梁兵攻戰四方,昶饋輓供億,未嘗少懈。昶卒,珝代立。

珝頗る書を知る、乃ち鄧艾の故迹を求め、翟王陂を決して民田を溉ぐ。兄弟陳に居ること二十餘年、陳人大いに之に頼る。梁の太祖既に韓建を降し、同・華を取り、珝を徙めて同州留後と為す。唐に入り、右金吾衞上將軍と為る。歲餘、疾を以て免官歸り、家に卒す、陳人の為に市を罷む。

原文珝頗知書,乃求鄧艾故迹,決翟王陂溉民田。兄弟居陳二十餘年,陳人大賴之。梁太祖已降韓建,取同、華,徙珝為同州留後。入唐,為右金吾衞上將軍。歲餘,以疾免官歸,卒于家,陳人為之罷市。

犨の次子巖、梁の末帝の時に戶部尚書・租庸使と為り、張漢傑・漢倫等と居中して事を用ふ。梁太祖より暴虐殺戮を以て事と為し、而して末帝人と為り特に和柔恭謹なり、然れども性庸愚、漢傑婦家にして、而して巖壻なり、故に之を親信し、大臣老將皆切齒す、末帝獨り悟らず、以て亡ぶに至る。

原文犨次子巖,梁末帝時為戶部尚書、租庸使,與張漢傑、漢倫等居中用事。梁自太祖以暴虐殺戮為事,而末帝為人特和柔恭謹,然性庸愚,以漢傑婦家,而巖壻也,故親信之,大臣老將皆切齒,末帝獨不悟,以至於亡。

初め、友珪太祖を殺し自立し、末帝を以て東都留守と為す。巖東都に如く、末帝之と酒を飲み、從容として誠款を以て之に告ぐ。巖末帝の為に謀り、人を遣はして楊師厚の兵を召し事を起さしむ。巖西都に還り、卒に袁象先と以て禁兵を以て友珪を誅し、傳國寶を取り以て末帝に授く。

原文初,友珪殺太祖自立,以末帝為東都留守。巖如東都,末帝與之飲酒,從容以誠款告之。巖為末帝謀,遣人召楊師厚兵起事。巖還西都,卒與袁象先以禁兵誅友珪,取傳國寶以授末帝。

末帝立つ、巖自ら梁に功有りとし、又公主を尚ふ、唐の駙馬杜悰位將相に至り、自奉甚だ豐かなるを聞き、其の及ばざるを恥づ。乃ち天下の良田大宅を占め、商旅を裒刻し、其の門市の如く、租庸の物、半ば其の私に入り、巖飲食必ず萬錢を費やす。

原文末帝立,巖自以有功於梁,又尚公主,聞唐駙馬杜悰位至將相,自奉甚豐,恥其不及。乃占天下良田大宅,裒刻商旅,其門如市,租庸之物,半入其私,巖飲食必費萬錢。

故時に、魏州ぎしゅうの牙兵驕り、數たび亂を為す、羅紹威盡く之を誅す。太祖崩じ、楊師厚羅氏を逐ひ、魏州に據り、復た牙兵二千を置く、末帝之を患ふ。師厚死す、巖租庸判官邵贊と議して曰く、「魏唐の患と為ること百有餘年、先帝の時より、嘗て紹威を切齒し、其の前恭にして後倨なるを以てす。今先帝新たに天下を棄て、師厚復た陛下の憂と為る、然る所以の者は、魏地大にして兵多きを以てなり。陛下此時を以て之を制せずんば、寧ぞ後人の師厚と為らざるを知らんや?相・魏を分けて兩鎮と為さば、則ち北顧の憂無からん」と。末帝然りと為し、乃ち相・澶・衛を分けて昭德軍と為す。牙兵亂を為し、魏博を以て晉に降る、梁是に由りて盡く河北を失ふ。

原文故時,魏州牙兵驕,數為亂,羅紹威盡誅之。太祖崩,楊師厚逐羅氏,據魏州,復置牙兵二千,末帝患之。師厚死,巖與租庸判官邵贊議曰:「魏為唐患,百有餘年,自先帝時,嘗切齒紹威,以其前恭而後倨。今先帝新棄天下,師厚復為陛下憂,所以然者,以魏地大而兵多也。陛下不以此時制之,寧知後人不為師厚也?不若分相、魏為兩鎮,則無北顧之憂矣。」末帝以為然,乃分相、澶、衛為昭德軍。牙兵亂,以魏博降晉,梁由是盡失河北。

是の時、梁の將劉鄩等莊宗と澶・魏の間に相距ち、兵數たび敗る。巖曰く、「古の王者必ず天地を郊祀す、陛下即位猶未だ天を郊せず、議者朝廷藩鎮に異ならずと為す、此くの如くして何を以て天下を威重せん。今河北失ふと雖も、天下幸ひに安し、願はくは陛下力行せよ」と。敬翔以て不可と為し、曰く、「今府庫虛竭し、箕斂して軍を供す、若し郊禋を行はば、則ち必ず賞賚有らん、是れ虛名を取りて實弊を受く」と。末帝聽かず、乃ち法駕を備へて西京に幸す、而して莊宗楊劉を取り、或は傳ふ、「晉兵東都に入れり」と。或は曰く、「汜水を扼せり」と。或は曰く、「鄆・濮を下せり」と。京師大風木を拔く、末帝大いに懼れ、從官相顧みて泣く、末帝乃ち東都に還り、遂に果たして郊せず。

原文是時,梁將劉鄩等與莊宗相距澶、魏之間,兵數敗。巖曰:「古之王者必郊祀天地,陛下即位猶未郊天,議者以為朝廷無異藩鎮,如此何以威重天下?今河北雖失,天下幸安,願陛下力行之。」敬翔以為不可,曰:「今府庫虛竭,箕斂供軍,若行郊禋,則必賞賚;是取虛名而受實弊也。」末帝不聽,乃備法駕幸西京,而莊宗取楊劉,或傳:「晉兵入東都矣!」或曰:「扼汜水矣!」或曰:「下鄆、濮矣!」京師大風拔木,末帝大懼,從官相顧而泣,末帝乃還東都,遂不果郊。

鎮州ちんしゅうの張文禮王鎔を殺し、人をして梁に告げて曰く、「臣已に北して契丹きったんを召す、願はくは梁兵萬人を以て德・棣州に出ださば、則ち晉兵憊れん」と。敬翔然りと為す、巖と漢傑皆以て不可と為し、乃ち止む。其の後王彥章を黜し段凝を用ふるは、皆巖の力なり。

原文鎮州張文禮殺王鎔,使人告梁曰:「臣已北召契丹,願梁以兵萬人出德、棣州,則晉兵憊矣。」敬翔以為然,巖與漢傑皆以為不可,乃止。其後黜王彥章用段凝,皆巖力也。

荘宗の兵が汴に至らんとするに及び、末帝は惶惑として為す所を知らず、建國樓に登りて群臣に問う。或いは曰く、「晋は孤軍を以て遠くより来たり、その勢い持久し難し。仮令汴に入らしむるも、守る能わざるべし。宜しく洛陽に幸し、険を保ちて天下の兵を召し、徐ろにこれを図るべし。勝負未だ知るべからず」と。末帝は猶豫す。巖曰く、「勢已に此の如し。一たび此の楼を下らば、何人か保つべき」と。末帝遂に楼上に死す。

原文莊宗兵將至汴,末帝惶惑不知所為,登建國樓以問羣臣,或曰:「晉以孤軍遠來,勢難持久,雖使入汴,不能守也。宜幸洛陽,保嶮以召天下兵,徐圖之,勝負未可知也。」末帝猶豫,巖曰:「勢已如此,一下此樓,何人可保!」末帝卒死於樓上。

巖の用事たる時、許州きょしゅうの温韜は特に曲げて巖に事えしが、巖は因って其の左右を顧みて曰く、「吾常に韜を厚く待つ。今急を以て之に投ぜば、必ず吾を利とせずして幸いせざるべし」と。乃ち走りて韜に投ず。韜は其の首を斬りて献ず。荘宗既に梁を滅ぼすや、巖が素より善くする所の段凝、奏請して巖の家屬を誅せんとす。乃ち族を滅ぼす。

原文當巖用事時,許州溫韜尤曲事巖,巖因顧其左右曰:「吾常待韜厚,今以急投之,必不幸吾為利。」乃走投韜,韜斬其首以獻。莊宗已滅梁,巖素所善段凝奏請誅巖家屬,乃族滅之。

嗚呼、禍福の理、豈に一ならんや。君子小人の禍福は異なり。老子曰く、「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所」と。後世の禍福を談ずる者は、皆其の言を以て至論と為す。善を為して福を受くるは、焉んぞ禍を得ん。悪を為して禍を受くるは、焉んぞ福を得ん。惟だ君子の非禍に罹る者は、未だ必ずしも福と為らざるに非ず。小人の非福を求むる者は、未だ嘗て禍に及ばざるは無し。此れ自然の理なり。初め、犨は自ら先見の明を以て、深く梁の太祖に結び、其の子孫皆其の祿利を享く。自ら託する所を知れりと謂えり。安んぞ其の族卒に梁と俱に滅ぶるを知らんや。犨の梁に福を求むるは、蓋し老氏の所謂福なり。君子の求むる所に非ざるなり。戒めざるべけんや。

原文嗚呼,禍福之理,豈可一哉!君子小人之禍福異也。老子曰:「禍兮福所倚,福兮禍所伏。」後世之談禍福者,皆以其言為至論也。夫為善而受福,焉得禍?為惡而受禍,焉得福?惟君子之罹非禍者,未必不為福;小人求非福者,未嘗不及禍,此自然之理也。始,犨自以先見之明,深結梁太祖,及其子孫皆享其祿利,自謂知所託矣,安知其族卒與梁俱滅也?犨之求福於梁,蓋老氏之所謂福也,非君子之所求也,可不戒哉!

馮行襲

原文馮行襲

馮行襲、字は正臣、均州の人なり。唐末、山南の盗賊孫喜、衆千人を以て均州刺史呂燁を襲う。燁は禦ぐ能わず。行襲は州の校たり。乃ち陰に勇士を選び江南に伏せ、独り小舟に乗りて喜を逆う。告げて曰く、「州人公の至るを聞き、皆帰せんと欲す。然れども公の兵多きを知り、民は虜掠を懼れ、其の驚擾を恐る。請う兵を江北に留め、独り腹心数人を以て従行し、願わくは前導と為り、以て州民を慰安せん。事は立って定まるべし」と。喜然りと以為い、乃ち其の兵を江北に留め、独り行襲と江を渡る。軍吏前に謁す。行襲喜を撃ちて地に仆し、之を斬る。伏兵発し、従行者を尽く殺す。余兵江北に在り、喜の死するを聞き、皆潰く。山南節度使劉巨容、行襲を均州刺史に表す。

原文馮行襲字正臣,均州人也。唐末,山南盜孫喜以眾千人襲均州刺史呂燁,燁不能禦。行襲為州校,乃陰選勇士伏江南,獨乘小舟逆喜,告曰:「州人聞公至,皆欲歸矣!然知公兵多,民懼虜掠,恐其驚擾,請留兵江北,獨與腹心數人從行,願為前導,以慰安州民,事可立定。」喜以為然,乃留其兵江北,獨與行襲渡江。軍吏前謁,行襲擊喜仆地,斬之,伏兵發,盡殺從行者。餘兵在江北,聞喜死,皆潰。山南節度使劉巨容表行襲均州刺史。

是の時、僖宗蜀しょくに在り。諸鎮の行在に貢獻する者は皆山南を道とす。盗賊多く州西の長山に拠りて之を邀け劫う。行襲諸賊を尽く破る。洋州の葛佐、行襲を行軍司馬に辟し、兵をして谷口を鎮めしめ、秦・蜀の道を通ぜしむ。行襲此れより知名と為る。

原文是時,僖宗在蜀,諸鎮貢獻行在者皆道山南,盜賊多據州西長山以邀劫之,行襲盡破諸賊。洋州葛佐辟行襲行軍司馬,使以兵鎮谷口,通秦、蜀道,行襲由此知名。

李茂貞山南を兼領し、子の継臻を遣わして金州を守らしむ。行襲之を逐い、遂に金州を拠る。昭宗乃ち金州を以て戎昭軍と為し、行襲を節度使に拝す。昭宗岐に在り。梁の太祖兵を引きて西す。中尉韓全誨、中官郄文晏等二十余人を遣わし兵を江淮に召し、以て太祖に拒がんとす。行襲已に梁に附く。乃ち文晏等を尽く殺す。太祖襄陽に於いて趙匡凝を攻む。行襲子の勗を遣わし舟兵を以て均・房に会せしめ、功を以て匡國軍節度使に遷る。

原文李茂貞兼領山南,遣子繼臻守金州,行襲逐之,遂據金州。昭宗乃以金州為戎昭軍,拜行襲節度使。昭宗在岐,梁太祖引兵而西,中尉韓全誨遣中官郄文晏等二十餘人召兵江淮,以拒太祖,行襲已附梁,乃盡殺文晏等。太祖攻趙匡凝于襄陽,行襲遣子勗以舟兵會均、房,以功遷匡國軍節度使。

行襲は人となり厳酷少恩、而して至る所輒すなわ(すなわ)ち天幸あり、境旱して蝗有れば、則ち飛鳥これを食し、歳凶なれば、田中の鹵穀自ら生ず。唐衰え、梁必ず興らんを知り、尤も尽心傾附して梁に事え、官司空に至り、長楽郡王に封じられ、卒して太傅を贈られ、謚は忠敬。

原文行襲為人嚴酷少恩,而所至輒天幸,境旱有蝗,則飛鳥食之,歲凶,田中鹵穀自生。唐衰,知梁必興,尤盡心傾附事梁,官至司空,封長樂郡王,卒贈太傅,謚曰忠敬。