新五代史

原文新五代史

巻第四十一

原文卷41

盧光稠 譚全播

原文盧光稠 譚全播

盧光稠と譚全播は、ともに南康の人である。光稠は容貌雄偉であったが、他に才能はなく、全播は勇敢で識見と謀略があった。しかし全播は常に光稠の人物を非凡であると見做していた。

原文盧光稠、譚全播,皆南康人也。光稠狀貌雄偉,無佗材能,而全播勇敢有識略,然全播常奇光稠為人。

唐末、群盗が南方に起こると、全播は光稠に言った。「天下が騒然としている。これはまさに我らの時である。ただこの貧賤を守っているだけではいられぬ。」そこで共に兵を集めて盗賊となった。衆は全播を主に推したが、全播は言った。「諸君はただ賊となるだけか?それとも成功を欲するか?もし成功を欲するならば、良き帥を得るべきである。盧公は堂堂たる人物、まさに君らの主たるべき方だ。」衆は表向き承諾したが、全播は怒り、剣を抜いて木を三度打ち、それを斬って言った。「令に従わぬ者はこの木のようになるぞ。」衆は恐れ、そこで光稠を帥に立てた。

原文唐末,羣盜起南方,全播謂光稠曰:「天下洶洶,此真吾等之時,無徒守此貧賤為也!」乃相與聚兵為盜。眾推全播為主,全播曰:「諸君徒為賊乎?而欲成功乎?若欲成功,當得良帥,盧公堂堂,真君等主也。」眾陽諾之,全播怒,拔劍擊木三,斬之,曰:「不從令者如此木!」眾懼,乃立光稠為帥。

その時、王潮が嶺南を攻め落とした。全播は王潮を攻撃し、その虔州と韶州の二州を奪い、さらに光稠の弟・光睦を遣わして潮州を攻撃させた。光睦は勇を好み軽率に進軍した。全播は慎重を期すよう戒めたが、聞き入れず、必ず敗れると見越して、奇兵をその帰路に伏せさせた。光睦は果たして敗走し、潮州の兵がこれを追撃した。全播は伏兵で邀撃し、これを大破し、ついに潮州を取った。

原文是時,王潮攻陷嶺南,全播攻潮,取其虔、韶二州,又遣光稠弟光睦攻潮州。光睦好勇而輕進,全播戒其持重,不聽,度其必敗,乃為奇兵伏其歸路。光睦果敗走,潮人追之,全播以伏兵邀擊,大敗之,遂取潮州。

その時、劉巖が南海より起こり、光睦を撃退し、数万の兵をもって虔州を攻撃した。光稠は大いに恐れ、全播に言った。「虔州も潮州も公が取ったものだ。今日は公でなければ守れぬ。」全播は言った。「劉巖は容易に対処できる者と知っている。」そこで精兵一万人を選び、山谷に伏せさせ、城南に偽りの戦場を設け、劉巖に戦いの期日を告げた。老弱五千を率いて出戦し、戦いが酣になると、偽って敗走した。劉巖が急いで追撃すると、伏兵が起こり、劉巖は大敗した。光稠が戦功を評すると、全播はすべて諸将に推譲したので、光稠はますますその賢さを心に留めた。

原文是時,劉巖起南海,擊走光睦,以兵數萬攻虔州。光稠大懼,謂全播曰「虔、潮皆公取之,今日非公不能守也。」全播曰:「吾知劉巖易與爾!」乃選精兵萬人,伏山谷中,陽治戰地於城南,告巖戰期。以老弱五千出戰,戰酣,偽北,巖急追之,伏兵發,巖遂大敗。光稠第戰功,全播悉推諸將,光稠心益賢之。

梁の初め、江南と嶺表はすべて呉ごと南漢に分かれて占拠されていたが、光稠だけは虔州・韶州の二州をもって京師に命を請い、道路を通じ、貢賦を輸送することを願った。太祖(朱全忠)は百勝軍を置き、光稠を防禦使・兼五嶺開通使とし、また鎮南軍を建て、留後とした。

原文梁初,江南、嶺表悉為吳與南漢分據,而光稠獨以虔、韶二州請命于京師,願通道路,輸貢賦。太祖為置百勝軍,以光稠為防禦使、兼五嶺開通使,又建鎮南軍,以為留後。

開平五年、光稠が病み、符印を全播に託したが、全播は受けなかった。光稠が卒去すると、全播はその子・延昌を立ててこれに仕えた。延昌は遊猟を好み、その将・黎求が門を閉ざして延昌を拒み、延昌は殺害された。求はついで全播を謀殺しようと図ったので、全播は恐れ、病と称して出仕しなかった。求はそこで自立し、梁に命を請うた。

原文開平五年,光稠病,以符印屬全播,全播不受。光稠卒,全播立其子延昌而事之。延昌好遊獵,其將黎求閉門拒延昌,延昌見殺。求因謀殺全播,全播懼,稱疾不出。求乃自立,請命于梁。

乾化元年、求を防禦使に拝した。求は急病で死に、その将・李彦図が自立した。全播はますます恐れ、ついに病篤いと称し、門を閉ざして自ら世を絶った。彦図はこれを疑い、人を遣わしてその動静を窺わせたが、全播は窺いに対応して様子を示し、自らを免れた。彦図が死ぬと、州人が相率いて全播の邸に赴き、門を叩いてこれを請うた。全播はそこで起き上がり、使者を遣わして梁に命を請い、防禦使に拝された。

原文乾化元年,拜求防禦使。求暴病死,其將李彥圖自立,全播益懼,遂稱疾篤,杜門自絕。彥圖疑之,使人覘其動靜,全播應覘為狀以自免。彥圖死,州人相率詣全播第,扣門請之,全播乃起,遣使請命于梁,拜防禦使。

全播は虔州を治めること七年、善政があった。楊隆演が劉信を遣わして虔州を攻め破り、全播を広陵に連れ帰った。卒去した年は八十五。盧氏の時、劉龑はすでに韶州を取っていた。全播が捕らえられると、虔州はついに呉に帰した。

原文全播治虔州七年,有善政,楊隆演遣劉信攻破虔州,以全播歸廣陵,卒年八十五。當盧氏時,劉龑已取韶州,及全播被執,虔州遂入于吳。

雷満

原文雷滿

雷満は武陵の人である。人となりは兇悍で獰猛勇敢、文身断髪であった。唐の広明年中、湖南に飢饉があり、盗賊が起こると、満は同里の区景思・周岳らとともに諸蛮数千を集め、大沢の中で狩猟し、そこで生肉を撃ち酒を漉し、座中の豪傑を選んで伍長に補任し、土団軍と号した。諸蛮はこれに従い、満を帥に推した。

原文雷滿,武陵人也。為人兇悍獢勇,文身斷髮。唐廣明中,湖南饑,盜賊起,滿與同里人區景思、周岳等聚諸蠻數千,獵于大澤中,乃擊鮮釃酒,擇坐中豪者,補置伍長,號土團軍,諸蠻從之,推滿為帥。

その時、高駢が荊南けいなんを鎮め、満を召し寄せて麾下に隷属させ、蛮軍をもって賊を撃たせた。高駢が淮南に移ると、満はこれに従って広陵まで行ったが、逃げ帰り、刺史の崔翥を殺害し、ついに朗州を占拠し、唐に命を請うた。昭宗は澧州・朗州を武貞軍とし、満を節度使に拝した。

原文是時,高駢鎮荊南,召滿隸麾下,使以蠻軍擊賊。駢徙淮南,滿從至廣陵,逃歸,殺刺史崔翥,遂據朗州,請命于唐。昭宗以澧、朗為武貞軍,拜滿節度使。

この時、澧陽の人向瓌が刺史呂自牧を殺して澧州を占拠し、また溪洞の諸蛮たる宋鄴昌・師益らは皆挙兵して湖外を掠奪し、雷満もまた軽舟をもって荊江を上下し、州県を攻撃し略奪した。楊行密が鄂州において杜洪を攻めると、荊南の成汭は兵を出して洪を救い、汭は戦いに敗れ、君山において溺死した。雷満は荊南を襲撃して破ったが守ることができず、焼き払い略奪してことごとく荒廃させて去った。

原文是時,澧陽人向瓌殺刺史呂自牧據澧州,而溪洞諸蠻宋鄴昌、師益等,皆起兵剽掠湖外,滿亦以輕舟上下荊江,攻劫州縣。楊行密攻杜洪于鄂州,荊南成汭出兵救洪,汭戰敗,溺死於君山。滿襲破荊南,不能守,焚掠殆盡而去。

雷満はかつて府中に深い池を掘らせ、客があればこれを招いて池のほとりで宴を催し、その水を指して言うには、「蛟龍や水怪は皆ここに巣くっている、まさに水府である」と。酒が酣になると、座上の器物を取って池中に投げ入れ、自ら裸になって入り、器物を取って水上で戯れ、しばらくしてから出て、衣を整えて再び座に着き、意気自若としていた。

原文滿嘗鑿深池於府中,客有過者,召宴池上,指其水曰:「蛟龍水怪皆窟於此,蓋水府也。」酒酣,取坐上器擲池中,因裸而入,取器嬉水上,久之乃出,治衣復坐,意氣自若。

雷満は朗州に居て、沅水を引き入れてその城を堀とし、上に長橋を架け、攻め難からしめる計略を立てた。天祐年間、雷満が卒すると、子の彦恭が自立した。彦恭は楊行密に附き、やはし荊・湖の患となるべく攻撃略奪を行った。開平元年、馬殷が兵を発して彦恭を攻めると、堀を恃んで防ぎ、一年を過ぎても破ることができなかった。三年、彦恭は楊行密のもとに奔り、馬殷はその弟彦雄ら七人を捕らえて梁に送り、汴の市で斬った。彦恭は淮南において卒し、澧・朗はついに楚そに帰した。

原文滿居朗州,引沅水塹其城,上為長橋,為不可攻之計。天祐中,滿卒,子彥恭自立。彥恭附于楊行密,亦嘗攻劫為荊、湖患。開平元年,馬殷發兵攻彥恭,恃塹為阻,逾年不能破。三年,彥恭奔于楊行密,馬殷擒其弟彥雄等七人送于梁,斬于汴市,彥恭卒於淮南,澧、朗遂入于楚。

鍾傳

原文鍾傳

鍾傳は、洪州高安の人である。州に仕えて小校となり、黄巢が江淮を攻め掠めると、所在に盗賊が起こり、しばしば州県を占拠した。傳は州兵をもって賊を撃ち、頻りに勝ち、ついに観察使を逐い、自ら留後と称した。唐は洪州を鎮南軍とし、傳を節度使に拝した。江夏の伶人杜洪なる者もまた鄂州を占拠し、楊行密がしばしばこれを攻めたが、洪は頗る傳を恃んで首尾とした。久しくして、洪は敗れて死んだ。

原文鍾傳,洪州高安人也。事州為小校,黃巢攻掠江淮,所在盜起,往往據州縣。傳以州兵擊賊,頻勝,遂逐觀察使,自稱留後。唐以洪州為鎮南軍,拜傳節度使。江夏伶人杜洪者,亦據鄂州,楊行密屢攻之,洪頗倚傳為首尾。久之,洪敗死。

この時、危全諷・韓師徳らは撫・吉諸州を分かち占拠し、傳は皆これを節度することができず、兵をもってこれを攻め、次第に命を聴くようになったが、ただ全諷だけは下すことができなかった。そこで自ら兵を率いてこれを包囲した。城中で夜に火災が起こると、諸将は急ぎ攻めることを請うたが、傳は言うには、「吾れ聞く、君子は人の危きを迫らず、と」と。そこで地を掃き清めて天を祭り、城に向かって再拝し、祝して言うには、「全諷が降らざるは、民の罪にあらず、願わくは天よ火を止め給え」と。全諷これを聞き、明日になってついにまた命を聴き、娘を傳の子匡時に娶せんことを請うた。

原文是時,危全諷、韓師德等分據撫、吉諸州,傳皆不能節度,以兵攻之,稍聽命,獨全諷不能下,乃自率兵圍之。城中夜火起,諸將請急攻之,傳曰:「吾聞君子不迫人之危。」乃掃地祭天,嚮城再拜,祝曰:「全諷不降,非民之罪,願天止火。」全諷聞之,明日乃亦聽命,請以女妻傳子匡時。

傳は江西に居ること三十余年、累ねて太保・中書令に拝され、南平王に封ぜられた。天祐三年、傳が卒すると、子の匡時が自ら留後と称し、唐に命を請うた。全諷は言うには、「鍾郎が節度使となることを三年聴き、吾れ自らこれとならん」と。やがて傳の養子延規が匡時と立つことを争い、楊渥に兵を乞うた。渥は秦裴らを遣わして匡時を攻め、匡時は敗れ、捕らえられて広陵に帰った。開平三年、全諷らが江西において挙兵し、鍾氏の故地を回復せんと謀ったが、全諷は楊隆演の将周本に敗れ、江西はついに呉に帰した。

原文傳居江西三十餘年,累拜太保、中書令,封南平王。天祐三年,傳卒,子匡時自稱留後,請命于唐。全諷曰:「聽鍾郎為節度使三年,吾將自為之。」已而傳養子延規與匡時爭立,乞兵於楊渥,渥遣秦裴等攻匡時,匡時敗,被執歸廣陵。開平三年,全諷等起兵江西,謀復鍾氏故地,全諷為楊隆演將周本所敗,江西遂入于吳。

趙匡凝

原文趙匡凝

趙匡凝は字あざなを光儀といい、蔡州さいしゅうの人である。その父徳諲は秦宗権に仕え、申州刺史となった。宗権が反すると、徳諲は襄陽を攻め落とした。梁の太祖が蔡州を攻めると、宗権は屡々敗れ、徳諲はついに山南東道七州をもって降った。梁の太祖が初め宣武を鎮めた時、嘗て宗権に困らされたことがあり、徳諲の降るを聞き、大いに喜び、行営副都統、河陽・保義・義昌三節度行軍司馬に表した。その兵を合わせて蔡州を攻め、これを破り、徳諲の功績は多かった。徳諲が卒すると、子の匡凝が自立した。

原文趙匡凝字光儀,蔡州人也。其父德諲事秦宗權,為申州刺史。宗權反,德諲攻下襄陽。梁太祖攻蔡州,宗權屢敗,德諲乃以山南東道七州降。梁太祖初鎮宣武,嘗為宗權所困,聞德諲降,大喜,表為行營副都統,河陽、保義、義昌三節度行軍司馬。會其兵以攻蔡州,破之,德諲功多。德諲卒,子匡凝自立。

この時、成汭が死に、雷彦恭が荊南を襲い取ると、匡凝はその弟匡明を遣わして彦恭を逐い、太祖は匡凝を荊襄節度使に表し、匡明を荊南留後とした。この時、唐は衰え、藩鎮は再び朝廷に奉じず、ただ匡凝兄弟のみが貢賦を絶やさなかった。

原文是時,成汭死,雷彥恭襲取荊南,匡凝遣其弟匡明逐彥恭,太祖表匡凝荊襄節度使,以匡明為荊南留後。是時,唐衰,藩鎮不復奉朝廷,獨匡凝兄弟貢賦不絕。

匡凝は人となり気貌甚だ偉く、性質方正厳格にして、自ら修飾することを好み、頗る学問を好み、書数千巻を集め、政を行うに威と恵みとがあった。

原文匡凝為人氣貌甚偉,性方嚴,喜自脩飾,頗好學問,聚書數千卷,為政有威惠。

太祖が兗州えんしゅうを攻めると、朱瑾は晋に救援を求め、晋は史儼らを遣わして兵数千を将いて瑾を救い、瑾は敗れ、儼らとともに淮南に奔った。晋王李克用は人を遣わして書幣を匡凝に通じさせ、楊行密に聘問し、儼らの帰還を求めた。晋王の使者は梁に捕らえられ、太祖は大いに怒った。この時、梁はすでに兗・鄆を破り、氏叔琮・康懐英らを遣わして匡凝を攻め、叔琮は泌・随の二州を取り、懐英は鄧州とうしゅうを取り、匡凝は懼れて盟を請うたので、やっと止んだ。

原文太祖攻兗州,朱瑾求救於晉,晉遣史儼等將兵數千救瑾,瑾敗,與儼等奔于淮南。晉王李克用遣人以書幣假道于匡凝,以聘于楊行密,求歸儼等。晉王使者為梁得,太祖大怒。是時,梁已破兗、鄆,遣氏叔琮、康懷英等攻匡凝,叔琮取泌、隨二州,懷英取鄧州,匡凝懼,請盟,乃止。

太祖が昭宗を弑し、唐に代わらんと謀ると、匡凝兄弟が従わぬことを畏れ、使者を遣わして告げた。匡凝は使者に対し涙を流して答えて言うには、「唐の恩を受くること深く、敢えて妄りに他の志し有ることなし」と。太祖は楊師厚を遣わしてこれを攻め、太祖自ら兵を率いて漢北に陣した。匡凝は戦いに敗れ、軽舟をもって楊行密のもとに奔った。師厚は進んで荊南を攻め、匡明は蜀しょくに奔った。

原文太祖弒昭宗,將謀代唐,畏匡凝兄弟不從,遣使告之,匡凝對使者流涕答曰:「受唐恩深,不敢妄有佗志。」太祖遣楊師厚攻之,太祖以兵殿漢北,匡凝戰敗,以輕舟奔于楊行密。師厚進攻荊南,匡明奔于蜀。

匡凝広陵に至り、行密見て戯れて曰く:「君鎮に在る時、軽車重馬、歳々梁に輸(貢ぎ)せしに、今敗れて乃ち我に帰らんとするか?」匡凝曰:「僕世々唐臣たり、歳々職貢するは、賊に輸するに非ざるなり。今不従賊の故を以て、力屈して公に帰す、惟公生死之耳!」行密厚遇した。其の後行密死し、楊渥稍不礼にせし。渥方まさ(まさ)に宴し、青梅を食し、匡凝顧かえり(かえり)みて渥に曰く:「多食する勿れ、小児熱を発せん。」諸将以て慢なりとなし、渥は匡凝を海陵に遷し、後に徐温に殺された。匡明蜀に卒した。

原文匡凝至廣陵,行密見之,戲曰:「君在鎮時,輕車重馬,歲輸于梁,今敗乃歸我乎?」匡凝曰:「僕世為唐臣,歲時職貢,非輸賊也。今以不從賊之故,力屈歸公,惟公生死之耳!」行密厚遇之。其後行密死,楊渥稍不禮之。渥方宴,食青梅,匡凝顧渥曰:「勿多食,發小兒熱。」諸將以為慢,渥遷匡凝海陵,後為徐溫所殺。匡明卒于蜀。