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盧光稠 譚全播
盧光稠と譚全播は、ともに南康の人である。光稠は容貌雄偉であったが、他に才能はなく、全播は勇敢で識見と謀略があった。しかし全播は常に光稠の人物を非凡であると見做していた。
唐末、群盗が南方に起こると、全播は光稠に言った。「天下が騒然としている。これはまさに我らの時である。ただこの貧賤を守っているだけではいられぬ。」そこで共に兵を集めて盗賊となった。衆は全播を主に推したが、全播は言った。「諸君はただ賊となるだけか?それとも成功を欲するか?もし成功を欲するならば、良き帥を得るべきである。盧公は堂堂たる人物、まさに君らの主たるべき方だ。」衆は表向き承諾したが、全播は怒り、剣を抜いて木を三度打ち、それを斬って言った。「令に従わぬ者はこの木のようになるぞ。」衆は恐れ、そこで光稠を帥に立てた。
その時、王潮が嶺南を攻め落とした。全播は王潮を攻撃し、その虔州と韶州の二州を奪い、さらに光稠の弟・光睦を遣わして潮州を攻撃させた。光睦は勇を好み軽率に進軍した。全播は慎重を期すよう戒めたが、聞き入れず、必ず敗れると見越して、奇兵をその帰路に伏せさせた。光睦は果たして敗走し、潮州の兵がこれを追撃した。全播は伏兵で邀撃し、これを大破し、ついに潮州を取った。
その時、劉巖が南海より起こり、光睦を撃退し、数万の兵をもって虔州を攻撃した。光稠は大いに恐れ、全播に言った。「虔州も潮州も公が取ったものだ。今日は公でなければ守れぬ。」全播は言った。「劉巖は容易に対処できる者と知っている。」そこで精兵一万人を選び、山谷に伏せさせ、城南に偽りの戦場を設け、劉巖に戦いの期日を告げた。老弱五千を率いて出戦し、戦いが酣になると、偽って敗走した。劉巖が急いで追撃すると、伏兵が起こり、劉巖は大敗した。光稠が戦功を評すると、全播はすべて諸将に推譲したので、光稠はますますその賢さを心に留めた。
梁の初め、江南と嶺表はすべて呉と南漢に分かれて占拠されていたが、光稠だけは虔州・韶州の二州をもって京師に命を請い、道路を通じ、貢賦を輸送することを願った。太祖(朱全忠)は百勝軍を置き、光稠を防禦使・兼五嶺開通使とし、また鎮南軍を建て、留後とした。
開平五年、光稠が病み、符印を全播に託したが、全播は受けなかった。光稠が卒去すると、全播はその子・延昌を立ててこれに仕えた。延昌は遊猟を好み、その将・黎求が門を閉ざして延昌を拒み、延昌は殺害された。求はついで全播を謀殺しようと図ったので、全播は恐れ、病と称して出仕しなかった。求はそこで自立し、梁に命を請うた。
全播は虔州を治めること七年、善政があった。楊隆演が劉信を遣わして虔州を攻め破り、全播を広陵に連れ帰った。卒去した年は八十五。盧氏の時、劉龑はすでに韶州を取っていた。全播が捕らえられると、虔州はついに呉に帰した。
雷満
雷満は武陵の人である。人となりは兇悍で獰猛勇敢、文身断髪であった。唐の広明年中、湖南に飢饉があり、盗賊が起こると、満は同里の区景思・周岳らとともに諸蛮数千を集め、大沢の中で狩猟し、そこで生肉を撃ち酒を漉し、座中の豪傑を選んで伍長に補任し、土団軍と号した。諸蛮はこれに従い、満を帥に推した。
その時、高駢が荊南を鎮め、満を召し寄せて麾下に隷属させ、蛮軍をもって賊を撃たせた。高駢が淮南に移ると、満はこれに従って広陵まで行ったが、逃げ帰り、刺史の崔翥を殺害し、ついに朗州を占拠し、唐に命を請うた。昭宗は澧州・朗州を武貞軍とし、満を節度使に拝した。
この時、澧陽の人向瓌が刺史呂自牧を殺して澧州を占拠し、また溪洞の諸蛮たる宋鄴昌・師益らは皆挙兵して湖外を掠奪し、雷満もまた軽舟をもって荊江を上下し、州県を攻撃し略奪した。楊行密が鄂州において杜洪を攻めると、荊南の成汭は兵を出して洪を救い、汭は戦いに敗れ、君山において溺死した。雷満は荊南を襲撃して破ったが守ることができず、焼き払い略奪してことごとく荒廃させて去った。
雷満はかつて府中に深い池を掘らせ、客があればこれを招いて池のほとりで宴を催し、その水を指して言うには、「蛟龍や水怪は皆ここに巣くっている、まさに水府である」と。酒が酣になると、座上の器物を取って池中に投げ入れ、自ら裸になって入り、器物を取って水上で戯れ、しばらくしてから出て、衣を整えて再び座に着き、意気自若としていた。
鍾傳
鍾傳は、洪州高安の人である。州に仕えて小校となり、黄巢が江淮を攻め掠めると、所在に盗賊が起こり、しばしば州県を占拠した。傳は州兵をもって賊を撃ち、頻りに勝ち、ついに観察使を逐い、自ら留後と称した。唐は洪州を鎮南軍とし、傳を節度使に拝した。江夏の伶人杜洪なる者もまた鄂州を占拠し、楊行密がしばしばこれを攻めたが、洪は頗る傳を恃んで首尾とした。久しくして、洪は敗れて死んだ。
この時、危全諷・韓師徳らは撫・吉諸州を分かち占拠し、傳は皆これを節度することができず、兵をもってこれを攻め、次第に命を聴くようになったが、ただ全諷だけは下すことができなかった。そこで自ら兵を率いてこれを包囲した。城中で夜に火災が起こると、諸将は急ぎ攻めることを請うたが、傳は言うには、「吾れ聞く、君子は人の危きを迫らず、と」と。そこで地を掃き清めて天を祭り、城に向かって再拝し、祝して言うには、「全諷が降らざるは、民の罪にあらず、願わくは天よ火を止め給え」と。全諷これを聞き、明日になってついにまた命を聴き、娘を傳の子匡時に娶せんことを請うた。
趙匡凝
趙匡凝は字を光儀といい、蔡州の人である。その父徳諲は秦宗権に仕え、申州刺史となった。宗権が反すると、徳諲は襄陽を攻め落とした。梁の太祖が蔡州を攻めると、宗権は屡々敗れ、徳諲はついに山南東道七州をもって降った。梁の太祖が初め宣武を鎮めた時、嘗て宗権に困らされたことがあり、徳諲の降るを聞き、大いに喜び、行営副都統、河陽・保義・義昌三節度行軍司馬に表した。その兵を合わせて蔡州を攻め、これを破り、徳諲の功績は多かった。徳諲が卒すると、子の匡凝が自立した。
この時、成汭が死に、雷彦恭が荊南を襲い取ると、匡凝はその弟匡明を遣わして彦恭を逐い、太祖は匡凝を荊襄節度使に表し、匡明を荊南留後とした。この時、唐は衰え、藩鎮は再び朝廷に奉じず、ただ匡凝兄弟のみが貢賦を絶やさなかった。
匡凝は人となり気貌甚だ偉く、性質方正厳格にして、自ら修飾することを好み、頗る学問を好み、書数千巻を集め、政を行うに威と恵みとがあった。
太祖が兗州を攻めると、朱瑾は晋に救援を求め、晋は史儼らを遣わして兵数千を将いて瑾を救い、瑾は敗れ、儼らとともに淮南に奔った。晋王李克用は人を遣わして書幣を匡凝に通じさせ、楊行密に聘問し、儼らの帰還を求めた。晋王の使者は梁に捕らえられ、太祖は大いに怒った。この時、梁はすでに兗・鄆を破り、氏叔琮・康懐英らを遣わして匡凝を攻め、叔琮は泌・随の二州を取り、懐英は鄧州を取り、匡凝は懼れて盟を請うたので、やっと止んだ。
太祖が昭宗を弑し、唐に代わらんと謀ると、匡凝兄弟が従わぬことを畏れ、使者を遣わして告げた。匡凝は使者に対し涙を流して答えて言うには、「唐の恩を受くること深く、敢えて妄りに他の志し有ることなし」と。太祖は楊師厚を遣わしてこれを攻め、太祖自ら兵を率いて漢北に陣した。匡凝は戦いに敗れ、軽舟をもって楊行密のもとに奔った。師厚は進んで荊南を攻め、匡明は蜀に奔った。
匡凝が広陵に至ると、行密これに会い、戯れて言うには、「君が鎮に在りし時、軽車重馬を以て、歳ごとに梁に輸す、今敗れて乃ち我に帰するか」と。匡凝は言うには、「僕は世々唐の臣たり、歳時の職貢は、賊に輸するに非ず。今、賊に従わざるが故に、力屈して公に帰す、ただ公の生死に任すのみ」と。行密は厚くこれをもてなした。その後行密が死ぬと、楊渥は次第に礼を失した。渥がちょうど宴を催し、青梅を食していた時、匡凝は渥を顧みて言うには、「多く食うことなかれ、小児熱を発すべし」と。諸将はこれを侮慢と為し、渥は匡凝を海陵に遷し、後に徐温に殺された。匡明は蜀において卒した。