目次
李茂貞
李茂貞は深州博野の人である。本姓は宋、名は文通、博野軍の兵卒となり、鳳翔に戍守した。黄巢が京師を犯すと、鄭畋が博野軍を率いて賊を撃ち、茂貞は功により隊長から軍校に昇進した。
茂貞はその子継密を表して権知興元軍府事とし、昭宗は茂貞を山南西道節度使に転任させ、宰相徐彦若をして鳳翔を鎮守させた。茂貞は詔を奉ぜず、上表して自ら論じて曰く、「ただ軍情の忽変を慮い、戎馬羈縻し難きを慮う。徒らに甸服の生霊をして、茲に因り幣を受からしむ。未だ審らかにせず、乗輿播越して、此より何れにか之くべきかと」と。昭宗は茂貞の表辞が不遜であるとして、これを忍ぶことができず、宰相杜譲能に問うた。譲能は謂う、「茂貞は地大兵強にして、唐の力未だ以て討つべからず。鳳翔はまた京師に近く、自危し易くして後悔し難し。他日晁錯を誅して諸侯に謝せんと欲すとも、恐らく能わざるべし」と。昭宗怒って曰く、「吾孱孱として坐して凌弱を受くる能わず」と。乃ち譲能を責めて兵を治めさせ、覃王嗣周を京西招討使とした。令下るや、京師の市人皆不可と知り、相与に承天門に集まり、宰相を遮って兵を挙げざることを請い、争って瓦石を投げて宰相を撃ち、宰相は輿を下りて逃走し、その堂印を亡くし、人情大いに恐れ、昭宗の意は益々堅くなった。覃王は扈駕軍五十四都を率いて盩厔に戦い、唐軍は敗潰し、茂貞は遂に京師を犯し、三橋に屯した。昭宗は安福門に御し、両枢密を殺して茂貞に謝し、兵を罷めさせた。茂貞は素より譲能と隙有り、因って曰く、「兵を挙げんと謀る者は両枢密に非ず、乃ち譲能なり」と。兵を陳べて臨皋駅に臨み、譲能を殺すことを請うた。譲能曰く、「臣故に先ず之を言えり。惟だ臣を殺すを以て国難を紓うべし」と。昭宗は泣下して襟を沾し、譲能を雷州司戸参軍に貶し、死を賜う。茂貞は乃ち兵を罷めた。
翌年、河中節度使王重盈が卒し、その諸子珂・珙が立つことを争った。晋王李克用は珂を立てることを請い、茂貞と韓建・王行瑜は珙を立てることを請うたが、昭宗は許さなかった。茂貞らは怒り、三鎮の兵を率いて京師を犯し、昭宗を廃し吉王保を立てんと謀った。未だ果たさずして、晋王もまた兵を挙げた。茂貞は懼れ、宰相韋昭度・李磎を殺し、その養子継鵬に兵二千を以て宿衛させて去った。晋兵が河中に至ると、継鵬は行瑜の弟行実らと争って昭宗を劫いて出奔せんとし、京師大いに乱れ、昭宗は石門に出居した。茂貞は兵を以て鄠県に至り、継鵬を斬って自ら贖罪した。
晋兵は既に王行瑜を破り、軍を還して渭北に駐し、茂貞を撃つことを請うた。昭宗は、晋は遠く茂貞は近しと謂い、因って之を庇って以て徳と為し、且つ緩急の際恃むべきを冀った。また茂貞は既にその子を殺して自ら贖罪したので、乃ち詔して晋軍に帰還を罷めさせた。克用歎じて曰く、「唐茂貞を誅せず、憂い未だ已まざるべし」と。
昭宗は石門より還り、益々安聖・捧宸等の軍万余人を募り、諸王を以て之を将とした。茂貞は唐が将に己を討たんとすと謂い、また兵を治めて覲見を請うた。京師大いに恐れ、居人は山谷に逃亡した。茂貞は遂に京師を犯し、昭宗は覃王を遣わして之を拒がせたが、覃王三橋に至りて軍潰え、昭宗は華州に出居した。宰相孫偓を遣わして兵を以て茂貞を討たせたが、韓建が茂貞のために請うたので、乃ち止んだ。久しくして、茂貞に尚書令を加拝し、岐王に封ぜられた。
その後、昭宗は宦者に廃せられ、既に反正したが、宰相崔胤は梁の兵を借りて諸宦者を誅せんと欲し、密かに梁太祖と之を謀った。中尉韓全誨らもまた茂貞の強きに倚り、以て外援と為し、茂貞はその子継筠を遣わし兵数千を以て京師を宿衛させた。宦者は岐兵を恃み、益々驕って制すべからざるに至った。
梁太祖が即位するに及んで、諸侯の強き者は皆相次いで帝を称したが、独り茂貞は能わず、ただ岐王と称し、開府して官属を置き、妻を以て皇后と為し、鳴梢羽扇して朝を視、出入天子に擬するのみであった。茂貞は岐に居り、寛仁を以て物を愛し、民頗る之に安んず。嘗て地狭く賦薄きを以て、油を搉ることを下令し、因って城門に松薪を内るる無からしむ。其炬と為し得るを以てなり。優者有りて之を誚って曰く、「臣請う併せて月明を禁ぜん」と。茂貞は笑って怒らず。
初め、茂貞は楊守亮を破り興元を取った時、邠・寧・鄜・坊皆之に附き、二十州の地を有した。其梁に囲まれたる時、興元は蜀に入り、開平以後、邠・寧・鄜・坊は梁に入り、秦・鳳・階・成は又蜀に入った。梁の末年当時、所有するは七州のみであった。
従曮は人となり柔にして善く書画す、茂貞は制を承けて従曮を彰義軍節度使に拝す。茂貞卒し、鳳翔節度使を拝す。魏王継岌蜀を征するに、供軍転運応接使と為る。
蜀平らぎ、継岌は従曮に王衍を部送せしむ、行くこと鳳翔に至り、監軍使柴重厚拒みて納れず、従曮遂に東して華州に至り、荘宗の難を聞きて乃ち西帰す。明宗入りて立ち、重厚嘗て従曮を拒めりと聞き、人を遣わして之を誅す。従曮上書し、重厚鳳翔を守り、軍民擾わす所無しと言い、願わくは其の過を貸さんと。許さざるも、士人此を以て之を多しとす。宣武・天平を歴鎮す。
従曮に田千頃・竹千畝鳳翔に在り、民利を侵すを懼れ、未だ嘗て省理せず、鳳翔人之を愛す。廃帝鳳翔より起つ、将に行かんとす、鳳翔人馬に叩きて従曮を乞う。廃帝入りて立ち、復た従曮を以て鳳翔節度使と為し、年四十九にて卒す。
韓建
韓建字は佐時、許州長社の人なり。少くして蔡州軍校と為り、忠武軍将鹿晏弘に隷す。楊復光に従い長安に於いて黄巢を攻む、巢既に破れ、復光亦死し、晏弘と建等属する所無く、乃ち麾下の兵を以て西に蜀に僖宗を迎え、過ぐる所攻劫す。行くこと興元に至り、牛叢を逐い、山南を拠る。已にして守る能わず、晏弘東に許州に走り、建乃ち蜀に奔り、金吾衞将軍を拝す。
僖宗長安に還り、建は潼関防禦使・華州刺史と為る。華州数たび大兵を経、戸口流散す、建少くして賤しく、農事に習い、乃ち荊棘を披き、民を督めて耕植せしめ、閭里に出入りし、其の疾苦を問う。建初め書を知らず、乃ち人して其の服する器皿牀榻に題せしめ、其の名目を為して以て之を視しむ、久しくして漸く文字を通ず。玉篇を見て、喜びて曰く、「吾類を以て之を求めば、何ぞ得ざる所あらんや」と。因りて音韻声偶を通じ、暇あれば則ち書史を学ぶことを課す。是の時、天下已に乱れ、諸鎮皆武夫なり、独り建兵民を撫緝し、又好学す。荊南成汭時に姓を郭と冒す、亦善く荊楚を緝む。当時「北韓南郭」と号す。
是の時、天子孤弱にして、独り殿後軍及び定州三都の将李筠等の兵千余人有りて衞と為り、諸王を以て之を将う。建既に昭宗の其の鎮に幸するを得て、遂に之を制せんと欲し、因りて諸王の兵を将うるを罷め、殿後諸軍を散じ去らんことを請う、累表報えず。昭宗斉雲楼に登り、西北顧みて京師を望み、菩薩蛮の辞三章を作りて以て帰らんことを思う、其の卒章に曰く、「野煙碧樹に生じ、陌上の行人去る。安んぞ英雄有らん、迎えて大内の中に帰さん」と。酒酣に、従臣と悲歌して泣下す、建と諸王皆之に属和す。建心に尤も悦ばず、因りて人を遣わして諸王建を謀殺し、天子を劫して佗鎮に幸せんとすと告ぐ。昭宗建を召し、将に之を弁せんとす、建疾と称して出でず、乃ち諸王をして自ら詣らしむ、建見ず、諸王を十六宅に送らんことを請う、昭宗之を難ず。建乃ち精兵数千を率いて行宮を囲み、李筠を誅せんことを請う。昭宗大いに懼れ、遽に詔して筠を斬り、悉く殿後及び三都の衞兵を散じ、諸王を十六宅に幽す。昭宗益々華に幸するを悔い、延王戒丕を遣わして晋に使せしめ、以て興復を謀らしむ。戒丕還り、建と中尉劉季述諸王の謀反を誣い、兵を以て十六宅を囲み、諸王皆屋に登り叫呼す、遂に見殺さる。昭宗之を如何ともする無く、為に建に徳政碑を立てて以て之を慰安す。
梁太祖兵を以て長安に向かい、張存敬を遣わして同州を攻む、建の判官司馬鄴城を以て降る、太祖鄴をして建を召さしむ、建乃ち出でて降る。太祖建に己に背くを責む、建曰く、「判官李巨川の謀なり」と。太祖怒り、即ち巨川を殺し、建を以て従行せしむ。
昭宗東遷し、建従いて洛に至る、昭宗酒を挙げて太祖と建に属して曰く、「遷都の後、国歩小康、社稷の安危、卿両人に繫る」と。次いで何皇后觴を挙ぐ、建太祖の足を躡む、太祖乃ち陽に酔いて去る。建出でて、太祖に謂いて曰く、「天子と宮人眼語し、幕下に兵仗の声有り、恐らくは公免れざらん」と。太祖故を以て尤も之を徳とし、建を平盧軍節度使に表す。
太祖即位し、司徒同中書門下平章事を拝す。太祖性剛暴にして、臣下諫諍する者莫し、惟だ建時に言有り、太祖亦之を優容す。太祖洛に郊し、建大礼使と為る。相を罷め、許州に出鎮す、太祖崩じ、許州軍乱れ、見殺さる、年五十八。
李仁福
李仁福、その家系は知られず。
唐末より天下大乱し、史官の実録多く欠け、諸鎮は時に乗じて倔起し、大なる善悪世に顕著なる者でなければ、その始終を記すことができなかった。この時、興元、鳳翔、邠寧、鄜坊、河中、同華諸鎮の兵が、四面より並び起こりて交争したが、ただ霊夏のみは唐の患いとならず、また大功もなかった。朱玫の乱に、思敬は鄜州の李思孝とともに兵を率いて渭橋に駐屯した。その後、黄巣が京師を陥とすと、王重栄、李克用らが諸鎮の兵を集めて賊を討ち、思敬は黄巣を破り京師を回復したが、いずれも称すべきところがなく、故に思敬の世次、功過は顕れず伝わらない。
その弟彝興、累官して検校太師兼侍中に至り、周の顕徳中、西平王に封ぜられ、その後の事は国史に具わる。
韓遜
この時、邠寧の楊崇本、鄜延の李周彝、鳳翔の李茂貞は、皆梁と争戦したが、ただ遜と夏州の李思諫のみは梁に臣属し、兵をもって争うことはなかった。李茂貞がかつて劉知俊を遣わして遜を攻めたが、陥とせず、遜もまたその部をよく撫で、人皆これを愛し、遜のために生祠を立てた。
貞明中、遜が卒すと、軍中その子洙を立てて留後とし、梁は即座にこれを節度使とした。荘宗の時に至り、また洙をして河西節度を兼ねさせた。
天成四年、洙が卒すと、即座に洙の子澄を朔方軍留後とした。その将李賓が乱を起こすと、澄は上章して朝廷に帥を請い、明宗は康福を朔方河西節度使として澄に代えさせ、これにより命吏して相代わることとなった。韓氏は遜より霊武を有し、伝世皆称述すべきところなく、澄の後はその終わりを知らない。
楊崇本
楊崇本、幼くして李茂貞に仕え、養子とされ、李姓を冒し、名を継徽と曰う。茂貞は崇本を静難軍節度使に表した。梁の太祖が岐を攻めて下さず、乃ち兵を移して邠州を攻めると、崇本は迎えて降り、太祖はその姓を復させ、名を崇本と賜り、その家を河中に移して人質とした。
崇本の妻は美色あり、太祖が用兵のため往来する河中にて、嘗てこれを幸した。崇本の妻は甚だ愧恥し、隙を見て人を遣わし崇本を誚めて曰く、「大丈夫たるものその伉儷を庇うこと能わず、我は既に朱公の婦となりたり、君を見る面なく、刀と縄あるのみ」と。崇本は涕泣して憤怒した。その後梁兵が岐の包囲を解くと、崇本の妻は帰ることができ、崇本は乃ち再び梁に背き茂貞に帰した。
茂貞は西に蜀兵を連ねて崇本と会し雍、華を攻め、関西大いに震動した。太祖は兵を率いて西に河中に至り、郴王友裕を遣わしてこれを撃たせたが、友裕は永寿に至って卒し、梁兵は乃ち引き揚げた。崇本は美原に屯し、太祖は再び劉知俊、康懐英らを遣わしてこれを撃たせ、崇本は大敗し、これより東に出ず。
乾化四年、その子彦魯に弑せらる。崇の養子李保衡、彦魯を殺して梁に降る。
高萬興
萬興兄弟皆驍勇なりしも、未だ戦功を立てず、然れども戍兵を以て梁に降り、梁の鄜・坊・丹・延を取るは萬興より始まる、故に其の兄弟世々其の土を守る。
溫韜
溫韜は京兆華原の人なり。少くして盗を為し、後に李茂貞に事へ、華原鎮将と為り、姓を李と冒し、名を彦韜と曰ふ。茂貞華原県を以て耀州と為し、韜を以て刺史と為す。梁太祖茂貞を鳳翔に囲む、韜耀州を以て梁に降る、已にして復た叛き茂貞に帰す。茂貞又美原県を以て鼎州と為し、義勝軍を建て、韜を以て節度使と為す。末帝の時、韜復た茂貞に叛き梁に降る、梁耀州を改めて崇州と為し、鼎州を裕州と為し、義勝を静勝軍と為し、即ち韜を以て節度使と為し、其の姓を温に復し、其の名を昭図と更む。
韜鎮に在ること七年、其の境内に在る唐諸陵を悉く発掘し、其の蔵する所の金宝を取り、而して昭陵最も固し、韜埏道より下り、宮室の制度閎麗なるを見る、人間に異ならず、中を正寝と為し、東西廂に石牀を列ね、牀上の石函中に鉄匣有り、悉く前世の図書、鍾・王の筆迹を蔵し、紙墨新しきが如し、韜悉く之を取り、遂に人間に伝はる、惟だ乾陵は風雨の為め発く可からず。
其の後朱友謙梁に叛き、同州を取り、晋王兵を以て友謙を援け華原に趨る、韜懼れ、佗の鎮に徙るを求め、遂に忠武に徙る。荘宗梁を滅ぼし、韜許より来朝し、伶人景進に因り賂を劉皇后に納る、皇后之を言ふ為めに、荘宗韜を待すること甚だ厚く、姓名を賜ひて李紹沖と曰ふ。郭崇韜曰く「此れ陵を劫る賊爾、罪赦す可からず」と。荘宗曰く「已に之を宥せり、信を失ふ可からず」と。遽かに還鎮せしむ。
明宗洛に入り、段凝と共に収めて獄に下し、已にして之を赦し、勒して田里に帰らしむ。明年、德州に流し、死を賜ふ。
嗚呼、厚葬の弊は、秦漢已来、率ね多くは聰明英偉の主、高談善説の士有りと雖も、其の禍福を極めて陳ぶるも、其の惑ひを開く能はざる者有りき。豈富貴の欲、其の自私する所に溺るる篤くして、未然の禍は形無きに述べ難く、以て其の心を動かすに足らざるか。然れども温韜の事を聞く者は、以て少しく戒む可し。
五代の君は、往々にして其の死を得ず、何ぞ其の後を顧みる暇あらん。独り周太祖能く韜の禍を鑒み、其の将に終らんとするや、書を為て以て世宗に遺し、瓦棺・紙衣を以て斂めしむ。将に葬らんとし、棺を開きて人に示し、既に葬り、石を刻みて以て後世に告げ、下宮を作ること毋れ、守陵の妾を置くこと毋れと。其の意丁寧切至なり、然れども実録は其の葬の薄厚を書せず。又其の平生服する所の衮冕・通天冠・絳紗袍各二を葬らしむ、其一は京師に、其一は澶州に。又其の剣・甲各二を葬らしむ、其一は河中に、其一は大名に。其の旨を原ふる莫き者なり。