新五代史

巻三十九

目次

王鎔

王鎔は、その先祖は回鶻の阿布思の遺種であり、名を沒諾干といった。鎮州の王武俊の騎将となり、武俊はこれを養子に録したので、遂に王姓を冒した。沒諾干の子は末坦活、末坦活の子は昇、昇の子は廷湊、廷湊の子は元逵、元逵の子は紹鼎・紹懿、紹鼎の子は景崇である。昇より以上三代は、常に鎮州の騎将であった。景崇より以上四世五代は、皆成徳軍節度使となった。景崇は官は守太尉に至り、常山郡王に封ぜられ、唐の中和二年に卒した。子の鎔が立ち、年十歳であった。

この時、晋は新たに太原を有し、李匡威は幽州に拠り、王処存は中山に拠り、赫連鐸は大同に拠り、孟方立は邢臺に拠り、四面の豪傑が並び起って交争した。鎔はその間に介在し、祖父・父の百年の業を承け、士馬は強く蓄積は富み、唐の累世の藩臣であった。故に鎔は年こそ少なかったが、その世家を藉りて重きを取った。四方の諸鎮で廃立承継があり、唐に請う者は、皆鎔を因って聞こえた。

晋兵が山東に出て、既に孟遷を破り、邢・洺・磁の三州を取ってから、景福元年、大いに挙兵して趙を撃ち、臨城を下した。鎔は李匡威に救いを求め、匡威が来救したので、晋軍は解いて去った。明年、晋は王処存と会して鎔の堅固・新市を攻めた。晋王と処存は皆自ら将となり、鎔は未だ軍に臨んだことがなく、追風都団練使段亮・翦寇都団練使馬珂らを遣わし、兵を匡威に属せしめたのみであった。匡威は磁河で戦い、晋軍は大敗した。明年の春、晋は天長軍を攻め、鎔は出兵してこれを救ったが、叱日嶺で敗れ、晋軍は遂に井陘を出た。鎔はまた匡威に救いを求め、晋軍は解いて去った。

初め、匡威はその弟匡儔の婦の美しさを悦びてこれと淫し、匡儔は怒った。鎔を救うに及んで、その軍を誘って乱を起こさせ、自ら立った。匡威は内に慚じて敢えて還らず、乃ち符印をその弟に帰し、京師に奔らんとした。深州に行き至ると、鎔は匡威が己を救ったことを徳とし、人を遣わしてこれを邀え、梅子園に館し、父としてこれに事えた。

匡威の客の李正抱という者は、少時に燕・趙の間を遊び、常に常山に徘徊し、これを愛して去ることができなかった。正抱と匡威は皆国を失って無聊であり、相与に城西の高閣に登り、山川を顧みては涙を流し、乃ち匡威と謀って鎔を劫いてこれに代わろうとした。因って忌日と詐り、鎔は衛従を去り、朝に館に詣って慰めた。坐が定まると、甲士が幕後より出で、鎔の両袖を持った。鎔は言った、「我が国は公に頼って存する。誠に厚徳に報いること無し。今日の事は、是れ甘心する所なり。」因って頭を叩いて位を匡威に与えようとした。匡威は平素より鎔を軽んじ、為す能わざる者と謂っていたので、因って鎔と並轡して府に詣り、その位を代わらんとした。親事営を行き過ぎると、軍士が門を閉じて大いに譟り、天雨震電し、暴風木を抜き、屋瓦皆飛んだ。屠者の墨君和が鎔を見て、これを識り、缺垣の中より躍り出で、鎔を馬上に挟み、これを負って走った。乱軍は匡威・正抱を撃殺し、燕人は皆走った。匡儔はその兄を憾んではいたが、陽に大義を以て鎔を責めること甚だ急であった。鎔は既に燕の援を失い、晋軍は平山を急攻し、鎔を劫いて盟わせたので、鎔は遂に晋と和した。

その後、梁の太祖が晋の邢・洺・磁の三州を下すと、乃ち書を為して鎔を詔し、晋を絶って梁に帰らせようとしたが、鎔は依違して決しなかった。晋将の李嗣昭がまた洺州を取り返すと、梁の太祖は嗣昭を撃破し、嗣昭は洺州を棄てて走った。梁はその輜重を獲、鎔と嗣昭との書を得たが、多く梁の事を道っていた。太祖は怒り、因って兵を移して常山に至り、顧みて葛従周に謂って言った、「鎮州を得て汝に与えよう。汝は我が先鋒となれ。」従周が臨城に至ると、流矢に中り、輿の中に臥したので、梁軍は大いに沮んだ。梁の太祖は自ら将いて城下に傅き、その南関を焚いた。鎔は懼れ、その属を顧みて言った、「事急なり。奈何。」判官の周式は、弁士であった。対えて言った、「此れは力争するに難く、而して理を以て奪うべし。」式は梁の太祖と旧交があったので、因って梁軍に入ることを請うた。太祖は式を見ると罵って言った、「我は常に書を以て鎔を招くも来らず。今我ここに至るに、而して汝は説客たり。晩し。且つ晋は我が仇なり。而るに鎔はこれに附す。我は李嗣昭が城中に在るを知る。先ず出でしむべし。」乃ち得たる所の鎔と嗣昭との書を式に示した。式は進みて言った、「梁は一鎮州を取るに止まらんとするか、而して天下に覇業を成さんとするか。且つ覇者は人を責むるに義を以てして私せず。今天子は上に在り、諸侯は封を守り隣を睦ましむるは、争いを息め、且つ民を休ます所以なり。昔、曹公は袁紹を破り、魏の将吏と紹との書を得て、悉くこれを焚けり。此れ英雄の事ならずや。今、梁は兵を挙ぐるに名無きを知り、而して嗣昭を仮りて以て辞と為す。且つ王氏は五世六公、此の土を撫すること、豈に死士無くして嗣昭を待たんや。」太祖は大いに喜び、起ちて式の衣を牽きこれを撫でて言った、「我が言は戯れのみ。」因って式を上坐に延じて、鎔と和することを議した。鎔は子の昭祚を質とし、梁の太祖は女を以てこれに妻せしめた。太祖が即位すると、鎔を趙王に封じた。

鎔の祖母が喪に服した時、諸鎮は皆弔問した。梁の使者は晋の使が館に在るのを見て、還って趙王に二心有りと言った。この時、魏博の羅紹威が卒し、梁は因って河北を尽く取らんと欲し、開平四年の冬、供奉官杜廷隠に魏博の将夏諲を監せしめ、兵三千を以て深・冀の二州を襲わせ、王景仁を北面行営招討使とした。鎔は懼れ、晋に兵を乞うた。晋人は柏郷で景仁を撃破し、梁は遂に鎮・定を失い、而して荘宗は此れより益々強くなり、北は幽・燕を破り、南は魏博を併せた。鎔は常に兵を以て従った。鎔は晋を甚だ徳とした。明年、承天軍で荘宗と会し、觴を奉って寿を為した。荘宗は鎔を父の友として尊礼し、酒酣に鎔のために歌い、佩刀を抜いて衣を断ちて盟い、女を以て鎔の子昭誨に妻せんことを許した。

王鎔は人となり仁愛であるが武勇に乏しく、かつて敢えて兵を先駆けさせたことはなく、他国の兵が趙を攻めれば、常に隣国の兵を借りて救援とした。当時、諸鎮は互いに戦争に疲弊していたが、趙のみは安泰であり、王氏の無事を喜び、都の人士女は褒衣博帯を着て、奢侈を誇り遊興に耽ることを務めた。王鎔は特に富貴に驕り、また左道を好み、丹薬を煉り、長生を求め、道士の王若訥と共に西山に留まって遊び、王母祠に登り、婦人に錦繡を繋いで引かせて登らせた。毎回外出すれば、一月を過ぎても帰ることを忘れ、その政務を宦官に任せた。宦官の石希蒙は王鎔と共に起居を共にした。天祐十八年冬、王鎔は西山から鶻営荘に宿泊し、府に還ろうとしたが、希蒙がこれを止めた。宦官の李弘規が諫めて言うには、「今、晋王は自ら身を曝して矢石に親しんでいるのに、大王は軍国の用を尽くして遊猟の資とし、城門を開き宮室を空にして、一月を過ぎても帰らず、もし一人の者が門を閉ざして従者を入れなければ、大王は何処に帰ろうとされるのか」と。王鎔は懼れ、車駕を促したが、希蒙は固くこれを止めた。弘規は怒り、親事軍将の蘇漢衡に命じて兵に甲を着け刃を露わにさせて帳前で言わせた、「軍士は労している!願わくは王に従って帰らん」と。弘規は続いて進み出て言うには、「王を惑わす者は希蒙なり、請う、これを殺して軍士に謝せん」と。王鎔は答えず、弘規は王鎔の甲士を呼んで希蒙の首を斬らせ、王鎔の前に投げ出した。王鎔は懼れ、急いで帰還した。その子の昭祚と大将の張文礼に命じて弘規と漢衡の一族を誅し、その偏将を捕らえて獄に下し、反状を窮究したので、親軍は皆懼れた。文礼はこれに乗じて乱を誘い、夜半、親軍千余人が垣を踰えて進入し、王鎔はちょうど道士と共に香を焚いて籙を受けているところであった。軍士は王鎔の首を斬り、袖に隠して出て、これに乗じて火を放ってその宮室を焼き、遂に王氏の一族を滅ぼした。

王鎔の末子の昭誨は、年十歳、その軍士の中に王鎔に恩義のある者がおり、これを穴の中に隠した。乱が平定した後、その髪を剃り、僧衣を着せ、湖南人の李震に遇い、昭誨を茶籠の中に匿って湖南に載せ、南嶽に依って浮屠となり、名を崇隠と改めた。明宗の時、昭誨は既に成長し、帰郷を思った。そして王鎔の旧将の符習が宣武軍節度使となっていたので、李震は昭誨を連れて符習に帰した。符習は朝廷に上表した。昭誨は自ら前成徳軍中軍使を称して謁見し、考功郎中・司農少卿に拝された。周の顕徳年間、なお少府監であったという。

張文礼は、狡猾な人物であり、王鎔は彼を惑い愛して、子とし、王徳明と号した。王鎔が死ぬと、文礼は自ら留後となった。荘宗は初めこれを受け入れたが、後に彼が梁と通じていることを知り、趙の旧将の符習と閻宝を派遣してこれを撃たせた。文礼の家では鬼が夜に哭き、野河の水が血に変わり、游魚は皆死んだ。文礼は懼れ、疽の病で卒した。子の処瑾は喪を秘して守りを固め、符習らを撃破した。李嗣昭を代わりに派遣したが、嗣昭は流れ矢に当たって卒した。李存進を代わりにしたが、存進はまた戦死した。そこで符存審を招討使とし、遂にこれを破った。文礼の妻と子の処瑾・処球・処琪らを捕らえ、足を折って晋に帰した。趙の人々は請うてこれらを醢にし、文礼の尸を市中で磔にした。

羅紹威

羅紹威、字は端己、その先祖は長沙の人である。祖父の羅譲は、北に遷って魏州貴郷の人となった。

父の弘信は、牧監の卒であった。文徳元年、魏博牙軍が乱を起こし、遂にその帥の楽彦貞を殺し、その将の趙文建を立てて留後としたが、やがてまたこれを殺した。牙将は誰を立てるべきか知らず、乃ち集まって呼んで曰く、「誰か我らの帥となる者はいないか」と。弘信が衆の中から出て応えて曰く、「我が君らの帥となることができよう」と。弘信は状貌奇怪で、面色青黒く、軍中はこれを異とし、共に立てて留後とした。唐の昭宗が即位すると、弘信を節度使に拝した。

梁の太祖が晋を攻めようとし、弘信に穀物の貸与を乞うたが、弘信は与えず、これによって隙が生じた。梁兵が魏を攻め、黎陽・淇門・えい県を取った。内黄で戦い、魏兵は五戦五敗し、弘信は懼れて盟を請い、乃ち止んだ。この時、梁は東に兗・鄆を攻め、北に晋を敵としていた。晋は李存信を派遣して朱宣を救い、魏に仮道を求めた。太祖はこれを聞き、使者を遣わして弘信に語らせて曰く、「晋人の志は河朔にあり、兵が還れば魏を滅ぼすであろう」と。弘信はこれを然りとし、乃ち兵を発して存信を莘県で撃ち、太祖は葛従周を派遣してこれを助けた。梁兵は晋王の子の落落を擒らえ、魏に送ると、弘信はこれを殺し、乃ち晋と絶交した。太祖はなお弘信に二心あることを疑い、乃ち兄として弘信に事え、常に卑辞と厚幣をもって魏に聘した。魏の使者が梁に至ると、太祖は北面して拝して幣を受け、使者に謂って曰く、「六兄は我より倍年の長あり、我何ぞ敢えてこれを慢にせんや」と。弘信は大いに喜び、己を厚くしていると思った。この故に太祖が燕・趙の間を往来し、遂に河北を有するに至っても、魏はその患いとならなかった。弘信が死ぬと、紹威が立った。

紹威は学を好み書に巧みで、頗る文を綴ることを知り、書数万巻を集め、館を開いて四方の士を招いた。弘信は唐に在って、その先祖が長沙の人であることから、故に長沙郡王に封ぜられ、紹威は父の爵である長沙を襲封した。紹威が新たに立つと、幽州の劉仁恭が兵十万をもって魏を攻め、貝州を屠った。紹威は梁に救援を求め、内黄で燕軍を大敗させた。明年、梁の太祖は葛従周を派遣して魏兵と会し滄州を攻め、その德州を取り、遂に老鴉隄で燕軍を破った。紹威はこの故に梁が己を助けたことを徳とした。

魏博は田承嗣より牙軍が始まり、牙軍は年を経るに従ってますます驕り、紹威の時に至って既に二百年、父子代々婚姻を結んで自ら固めていた。前帥の史憲誠・何全皡・韓君雄・楽彦貞らは、皆牙軍によって立てられ、怒らせれば即ち殺された。紹威は人となり精悍明敏で、吏事に通習し、政を行うに威厳があったが、その家世は牙軍によって立てられていた。天祐二年、魏州城中で地が陥没した。紹威は変事あることを懼れた。やがて牙校の李公佺が乱を起こしたので、紹威はこれを誅した。乃ち密かに使者を遣わして梁に兵を乞い、牙軍を尽く誅そうとした。梁の太祖はこれを許し、李思安らを派遣して滄州を攻めさせ、魏に兵を召集した。紹威はこれに因み悉く魏兵を発して従わせ、独り牙軍のみが在城した。

紹威の子の廷規は梁の女を娶っていたが、ちょうど梁の女が卒した。太祖は密かに客将の馬嗣勲に命じて良兵を選んで輿の中に潜ませ、長直軍千人を輿夫に混ぜて魏に入らせ、葬儀を助けると偽らせ、太祖は兵を率いてその後を継いだ。紹威は夜に奴兵数百をもって、嗣勲の兵と会し牙軍を撃ち、その家族も併せて尽く殺した。太祖は内黄から馳せて魏に至った。魏兵で滄州攻めに従っていた者は歴亭まで行き、これを聞いて皆反し、澶・博諸州に入り、魏の境内は大乱した。数ヶ月後、太祖が悉くこれを平定した。牙軍が死に、魏兵は悉く叛いたので、紹威の勢力は益々孤立し、太祖は乃ちその地を奪おうと欲し、紹威は初めて大いに悔いた。

この年、太祖はまた滄州を攻め、長蘆に兵を宿した。紹威は梁兵に糧秣を供給し、滄から魏までの五百里に亭堠を設け、供帳什物を自ら整え、梁兵数十万は皆これで充足した。紹威はこれによって重く困窮した。

昭宗が東遷して洛陽らくように遷ると、詔して諸鎮に京師の修繕を命じた。紹威は太廟を営んで完成させ、守侍中を加拝され、鄴王に進封された。

太祖が滄州を包囲して未だ陥落せざる中、劉守光が晋軍と会して梁の潞州を破る。太祖は長蘆より帰還し、魏を過ぎし時、病発し、府中に臥し、諸将は見ゆるを得ず、紹威は太祖が終に己を襲わんことを懼れ、乃ち隙に乗じて入見し言う、「今四方兵を称し、梁の患となるは、唐の在る故なり。唐家の天命已に去れり、早く自ら取るに如かず」と。太祖大いに喜び、乃ち急ぎ帰る。太祖即位し、都を洛陽にせんとす。紹威は魏の良材を取りて五鳳楼・朝元前殿を造り、河を浮かびて上り、之を京師に立てる。太祖嘆じて曰く、「吾聞く、蕭何しょうか関中を守り、漢の為に未央宮を起こすと。豈に紹威の千里を越えて此れを為すに若かんや、神の化の如く然り。功は蕭何に遠く過ぎたり」と。宝帯・名馬を賜う。

燕王劉守光、其の父仁恭を囚え、其の兄守文と隙有り。紹威は書を馳せて守光等を勧め梁に降らしむ。太祖之を聞きて笑い曰く、「吾常に燕を攻めて下さず、今紹威簡を折る乃ち兵十万を用いるに勝る」と。太祖は大事有る毎に、多く使者を遣わして之を問い、紹威も時に簡を馳せ入れて白す。使者道中に相遇い、其の事往々にして相合す。

紹威自ら魏久しく兵を用いざるを以て、木を伐ち安陽・淇門に船を為し、河より洛に入り、歳に穀百万石を漕ぎ、以て京師に供せんことを願う。太祖益々紹威の忠を尽くすを以てし、将程厚・盧凝を遣わして其の役を督めしむ。舟未だ成らざるに紹威病み、乃ち表して言う、「魏は故に大鎮、外兵多し。梁の一の功有る重臣を得て之に臨まんことを願い、骸骨を以て第に就かんことを請う」と。太祖亟に其の子周翰に命じて府事を監せしめ、使者に語りて曰く、「亟に行き、而が主に語れ、我が為に彊飯せよ。もし不諱有らば、当に世々爾が子孫を貴ばん。今周翰に府事を監せしむは、尚卿の復た愈ゆるを冀うなり」と。紹威梁に仕え、累ねて太師兼中書令に拝され、卒す年三十四、尚書令しょうしょれいを贈られ、謚して貞壮と曰う。

子三人、廷規、官は司農卿に至り卒す。周翰は父の位を襲い、乾化二年八月楊師厚に逐われ、宣義軍節度使に徙り、官に卒す、年十四。周敬、代わって宣義軍節度使と為り、年十歳、鎮を忠武に徙す。明年、秘書監・駙馬都尉・光禄卿と為る。唐の庄宗の時は金吾大将軍、明宗は之を以て匡国軍節度使と為し、罷めて上将軍と為す。晋の天福二年卒す、年三十二。廷規は梁の太祖の二女を娶る、一は安陽公主、一は金華公主。周翰は末帝の女を娶る、寿春公主と曰う。周敬も亦た末帝の女を娶る、晋安公主と曰う。

王処直

王処直は字允明、京兆万年の人なり。父は宗、財貨を殖やすに善くし、富は王侯に擬す。唐の神策軍吏と為り、官は金吾大将軍に至り、興元節度使を領す。子に処存・処直有り。

処存は父の任に因りてぎょう衛将軍・定州已来制置内閑廐宮苑等使と為る。乾符六年、即ち義武軍節度使を拝す。黄巢長安ちょうあんを陥す。処存は感憤涕を流し、鎮兵を率いて関に入り賊を討つ。巢敗れて功を第すに、城を収め賊を撃つは李克用を第一とし、王に勤め義を倡うは処存を第一とす。乾寧二年、処存は鎮に卒す。三軍は河朔の故事に以て、処存の子郜を推して留後と為し、即ち節度使を拝し、検校司空しくう・同中書門下平章事を加う。処直は後院中軍都知兵馬使と為る。

光化三年、梁兵定州を攻む。郜は処直を遣わし兵を率いて之を拒がしむ。沙河に戦い、梁兵に敗る。兵返り入城して郜を逐う。郜は出奔して晋に至る。乱兵は処直を推して留後と為す。梁兵之を囲む。処直は人を遣わし梁に告げ、晋を絶ちて梁に事えんことを請い、絹十万匹を出して軍を犒い、乃ち梁と盟す。梁の太祖は処直を義武軍節度使に表し、累ねて太原王に封ず。太祖即位し、処直を北平王に封ず。

其の後梁兵王鎔を攻む。鎔は晋に求救す。処直も亦た人を晋に遣わし、梁を絶ちて以て自ら効わんことを願う。晋兵鎔を救う。処直は兵五千を以て従い、梁軍を柏郷に破る。其の後晋は北に燕を破り、南に魏博を取り、梁と河上に戦うこと十余年、処直未だ嘗て兵を以て従わざること無し。

処直は巫を好み、而して客に李応之と曰う者有り、妖妄の人なり。処直疾有り、応之は左道を以て之を治めて愈ゆ。処直益々之を神と以為い、道士の服を衣せしめ、以て行営司馬と為し、軍政の大小無く、咸く之を取决す。初め、応之は陘邑に於いて小児劉雲郎を闌得し、養いて以て子と為す。而して処直は未だ子有らず、乃ち雲郎を処直に与え、而して紿いて曰く、「此の子生まれながらして異有り」と。処直は養いて以て子と為し、更めて名づけて都と曰い、甚だ之を愛す。応之は此れに由りて益々横なり。乃ち管内の丁壮を籍し、別に新軍を立て、自ら之を将い、第を博陵坊に治め、四面門を開き、皆左道を用う。処直の将吏其の必ず患と為らんことを知るも、而して諫むる能う者莫し。是の時、幽州の李匡儔は中山を仮道して以て京師に如かんとす。処直は甲を城外に伏せ、以て不虞に備う。匡儔已に去る。甲士入城して応之の第を囲み、執いて之を殺す。因りて処直に詣で都を殺さんことを請う。処直は与えず。明日、功を第して賞を行い、因りて陰に甲士の姓名を疏し、隊長已上より別籍に蔵す。其の後事に因りて之を誅す。凡そ二十年、一人として免るる者無く、而して処直は終に都に殺さる。

都は人と為り狡佞にして謀多し。処直は之を以て節度副使と為す。張文礼は王鎔をしいす。庄宗は兵を発して文礼を討たんとす。処直は左右と謀りて曰く、「鎮は定の蔽なり。文礼は罪有りと雖も、然れども鎮亡びて定は独り存せず」と。乃ち人を遣わし庄宗に兵を発する毋かれと請う。庄宗は獲たる所の文礼と梁との蠟書を取りて処直に示し曰く、「文礼は我に負く、師は止む可からず」と。処直に孽子郁有り。郜の晋に亡ぶ時当たり、郁も亦た奔る。晋王は女を以て之に妻し、新州防禦使と為す。処直は庄宗の必ず文礼を討たんとするを見て、益々自ら疑い、乃ち陰に郁と交通し、郁をして北に契丹を招き塞に入らしめて以て晋兵を牽かしめ、且つ郁を召して嗣と為すを許す。都之を聞きて説ばず。而して定人は皆言う、契丹は召す可からず、恐らくは自ら患を貽すと。処直は聴かず。郁は晋に奔りしより、常に処直の容れざるを恐る。此れに因りて大いに喜び、以て其の隙に乗じて之を取る可しと為し、乃ち厚賂を以て契丹の阿保機を誘う。阿保機は国を挙げて入寇す。定人は皆契丹の挙を欲せず。小吏和昭訓は都に事を挙げんことを勧む。都は因りて処直を執い、之を西宅に囚え、自ら留後と為す。凡そ王氏の子孫及び処直の将校は殺戮殆ど尽くす。明年正月朔旦、都は西宅に於いて処直に拝す。処直は奮い起ちて其の胸を揕え而して呼びて曰く、「逆賊、吾何ぞ爾に負くこと有らん」と。然れども左右に兵無く、遂に其の鼻を囓まんと欲す。都は袖を掣きて走る。処直は遂に見殺さる。

初め、黄蛇の碑楼に見ゆる有り。処直は之を龍と以為い、蔵して之を祠る。又た野鵲数百有り、麦田中に巣くう。処直は之を己が徳の致す所と以為う。而して定人は皆其の不祥なるを知り、曰く、「蛇は山沢に穴くい、而して人の室に処る。鵲は鳥に巣くい、降りて田に居す。小人位を窃み、而して上に在る者は其の居る所を失うの象なり」と。已にして処直は果たして廃され殺さる。

荘宗は既に契丹を沙河に破り、追撃して定州を過ぎ、王都と相見えて甚だ歓び、その子継岌に王都の娘を娶せ、王都を義武軍節度使とした。同光二年、荘宗が鄴に幸し、王都が来朝し、賜与は巨万に及んだ。荘宗は継岌の縁故により、王都を待すること甚だ厚く、請うところは従わざるはなかった。明宗が立つに及んで、頗る王都の為人を悪み、而して安重誨は毎に法を以てこれを糾し、王都は初めて異志を抱く。是の時、唐兵は契丹を撃ち、数往来して定州を過ぎ、王都の供饋多く闕き、益々自ら安からず。和昭訓が王都のために謀りて曰く、「天子新たに立ち、四方未だ附かず、その勢い離れ易し、自安の計を為すべし」と。已にして朱守殷が汴州に反す、王都は遂に亦反し、人を遣わして蠟書を以て青・徐・岐・潞・梓の五鎮を招き、約して皆挙兵せんとす、而して五鎮は応ぜず。明宗は王晏球を遣わしてこれを討たしむ。王都は復た王郁と契丹を招きて援と為し、契丹は禿餒を遣わして万騎を将いて王都を救わしむ。王都は指揮使鄭季璘・龍泉鎮将杜弘寿を遣わして二千人を以て契丹を迎えしむ、王晏球に敗られる。季璘・弘寿は執えられ、晏球は責めて曰く、「吾嘗て人をして汝を招かしむ、何の故に降らざるや」と。弘寿対えて曰く、「恩を受くること中山に両世なり、敢えて二心あらじ」と。遂に見殺され、弘寿は刑に臨み、神色自若たり。晏球は軍を望都に屯し、王都及び契丹と戦い、大いにこれを曲陽に破り、王都及び禿餒は数騎を得て遁去し、城を閉じて復た出でず。

初め、荘宗の軍中に一人の男子を闌得し、これを愛し、姓を冒して李と為し、名を継陶とし、宮中に養いて子と為す。明宗即位し、安重誨これを出だして段徊に乞わしむ、徊も亦これを悪みて逐う。王都人をしてこれを求め得しむ。是に至り、その衆を紿して曰く、「これ荘宗の太子なり」と。天子の服を被せ、城上を巡らしめて、以て晏球の軍に示す、軍士に識る者曰く、「継陶なり」と。共にこれを詬う。王都城の中に居り、兵少なく、惟だ契丹二千人を以て城を守り、禿餒を呼んで餒王と為し、身を屈めてこれを事とす。諸将に降らんと欲する者有るも、王都は伺察厳密にして、殺戮虚日無く、以て故に経年堅守す。天成四年二月、城破れ、王都は家属と皆自焚して死し、王氏は遂に中山に絶ゆ。而して王処存に子鄴有り、鄴の子廷胤は、荘宗と外姻を連ね、人となり驍勇にして、自ら軍校と為り、士卒と辛苦を同じうする能く、明宗の時、貝・忻・密・澶・隰州刺史を歴任す。范延光が鄴に反す、晋高祖こうそは廷胤を楊光遠行営中軍使と為す。延光を破るに功有り、彰徳軍節度使を拝す。

初め、王処直は王都に囚われ、幼子の王威は北走して契丹に奔る。契丹は晋高祖に謂いて曰く、「吾、威をしてその先人の爵土を襲わしめんと欲す、如何」と。高祖対えて曰く、「中国の法、将校より刺史と為り、団練防禦を升りて節度使に至る、威を帰して中国に送り、漸くこれを進めしめんことを請う」と。契丹怒りて曰く、「爾自ら諸侯より天子と為る、豈に漸有らんや」と。高祖これを聞き、遽かに廷胤を徙めて義武を鎮めしめ、曰く、「これ亦王氏の後なり」と。後に鎮海に徙めて卒す。

劉守光

劉守光は、深州楽寿の人なり。その父仁恭は、幽州の李可挙に事え、能く地を穴ぐって道と為し城を攻む、軍中に号して「劉窟頭」とす。稍々功を以て遷り軍校と為る。仁恭は人となり勇有り、大言を好む。可挙死し、子の匡威その為人を悪み、軍中に居らしむるを欲せず、徙めて瀛州景城県令と為す。瀛州軍乱し、刺史を殺す、仁恭は県中に募りて千人を得、これを討平し、匡威喜び、復た将と為し、蔚州を戍らしむ。戍兵期を過ぎて代わるを得ず、皆帰るを思い、怨言を出す。匡威は弟の匡儔に逐われ、仁恭乱を聞き、乃ち戍兵を擁して幽州を攻め、行くこと居庸関に至り、戦いに敗れ、晋に奔り、晋は寿陽鎮将と為す。

仁恭は智詐多く、人に事えることを善くし、晋王の愛将蓋寓に事えること尤も謹み、毎に寓に対し涕泣し、自ら言う、「燕に居るも罪無く、讒を以て逐わる」と。因りて燕の虚実を道い、取るべきの謀を陳べ、晋王益々信じてこれを愛す。乾寧元年、晋は匡儔を撃破し、乃ち仁恭を幽州留後と為し、その親信燕留得等十余人を留めてその軍を監せしめ、そのために唐に命を請わしめ、検校司空・盧龍軍節度使を拝す。

その後晋は羅弘信を攻め、兵を仁恭に求む、仁恭与えず、晋王は書を以て微かにこれを責め誚る、仁恭大怒し、晋の使者を執え、燕留得等を殺して以て叛く。晋王自ら将いてこれを討ち、安塞に戦う、晋王大いに敗る。光化元年、その子守文を遣わして滄州を襲わしめ、節度使盧彦威を逐い、遂に滄・景・徳の三州を取る。その子のために唐に命を請わしむ、昭宗これを遅らし、即ち従わず、仁恭怒り、唐の使者に語りて曰く、「我がために天子に語れ、旌節は吾自ら有り、但だ長安の本色を要するのみ、何ぞ屡求めて得ざるや」と。昭宗遂に守文を横海軍節度使と為す。

仁恭父子は両鎮の兵十万を率い、号して三十万と称して魏を撃ち、貝州を屠る。羅紹威は梁に求救す、梁は李思安を遣わして魏を救わしむ、内黄に於いて守文を大破し、首五万を斬る。仁恭走り、梁軍これを追撃し、魏より長河に至り、横尸数百里。梁軍是より連歳これを攻め、その瀛・漠の二州を破り、仁恭懼れ、復た晋に附く。

天祐三年、梁は滄州を攻む、仁恭はその境内の凡そ男子年十五已上・七十已下を調べ、皆その面をげいし、文して「定覇都」と曰い、二十万人を得、兵糧自ら具え、瓦橋に屯す。梁軍は長蘆に壁し、深溝高壘す、仁恭近づく能わず。滄州は百余日囲まれ、城中食尽き、人自ら相食い、骸を析いて爨と為し、或いは墐土を丸めて食い、死者十六七。仁恭は晋に求救す、晋王そのために潞州を攻めて以て梁の囲を牽制し、晋は潞州を破り、梁軍乃ち解きて去る。

然れども仁恭は世の多故を幸い、富貴に驕り、大安山に宮を築き、窮極奢侈にし、燕の美女を選びて其中に充つ。又道士と丹薬を鍊り、冀くは不死ならんことを。燕人に令して墐土を以て銭と為し、悉く銅銭を斂め、山を鑿ちてこれを蔵し、已にしてその工を殺して口を滅す、後人皆その処を知る莫し。

仁恭に愛妾羅氏有り、その子守光これを烝す、仁恭怒り、守光を笞ち、これを逐う。梁の開平元年、李思安を遣わして仁恭を攻めしむ、仁恭は大安山に在り、守光は外より兵を将いて入り、思安を撃走し、乃ち自ら盧龍節度使を称し、李小喜・元行欽を遣わして兵を以て大安山を攻めしめ、仁恭を執えてこれを幽す。その兄守文は父将に囚われんとするを聞き、即ち兵を率いて守光を討ち、盧台に至り、守光に敗られ、進みて玉田に戦い、又敗れ、乃ち契丹に兵を乞う。明年、守文は契丹・吐渾の兵四万人を将いて鷄蘇に戦う、守光の兵敗れ、守文は陽に忍びざるを為し、陣を出でてその衆に呼びて曰く、「吾が弟を殺すこと無かれ」と。守光の将元行欽は守文を識り、馬を躍らせてこれを擒にし、又別室にこれを囚う、既にしてこれを殺す。

守文の将吏孫鶴・呂兗等は、守文の子延祚を立てて以て守光に距ましむ、守光これを百余日囲み、城中食尽き、米一㪷直ち銭三万、人相殺して食い、或いは墐土を食い、馬相いその騣尾を食う、兗等は城中の饑民を率いて麹を食わしめ、号して「宰務」と曰い、日々殺して以て軍に餉う。久しくして、延祚力窮まり、遂に降る。

守光は元来凡庸で愚かであったが、これによりますます驕慢となり、鉄籠や鉄刷を作り、過ちある者を籠に座らせ、外から火で焼き、あるいは皮膚を刷いて削り死に至らしめたので、燕の士人は禍を逃れて他境に去った。守光は自ら赭黄の衣を着て、その将吏に謂いて曰く、「我れ此れを衣て南面すれば、以て天下に帝たるべしや」と。孫鶴は切に諫めて以て不可と為す。梁が趙を攻むると、趙王王鎔は守光に救いを求む。孫鶴曰く、「今趙は罪無く、而して梁之を伐つ。諸侯趙を救うの兵、先ず至る者は覇たり。臣恐らくは燕軍未だ出でざるに、晋已に先んじて梁を破らん。此れ失うべからざるの時なり」と。守光曰く、「趙王嘗て我と盟して之に背けり。今急なり乃ち来たりて我に帰す。且つ両虎方に鬬わんとす、之を待つべし。吾当に卞荘子と為らん」と。遂に兵を出さず。晋王果たして趙を救い、柏郷に於いて梁兵を大いに破り、進みて邢・洺を掠め、黎陽に至る。守光、晋が国を空しくして深く梁に入るを聞き、乃ち兵を治め厳に戒め、人を遣わして以て語を以て鎮・定を動かして曰く、「燕に精兵三十万有り、二鎮を率いて以て晋に従わんとす。然れども誰か当に此の盟を主るべき者ぞ」と。晋人患之、謀りて曰く、「昔夫差黄池の会を争いて、而して越呉に入り、項羽こうう斉を伐つ利を貪りて、而して漢楚を敗る。今吾千里を越えて以て人を伐ち、而して強燕其の後に在り。此れ腹心の患なり」と。乃ち之が為に班師す。

守光は諸鎮が其の強を畏るると思い、乃ち諸鎮を諷して共に己を推尊せしむ。ここにおいて晋王は天徳宋瑤・振武周徳威・昭義李嗣昭・義武王処直・成徳王鎔等を率い、墨制を以て冊し守光を尚書令・尚父と尊む。守光また梁に告げて、己に河北兵馬都統を授け、以て鎮・定・河東を討たんことを請う。梁は閤門使王瞳を遣わし守光を河北採訪使に拝す。有司守光に白して曰く、尚父冊を受くるには、唐の冊太尉の礼儀を用うと。守光問うて曰く、「此の儀注何ぞ郊天せず、改元せざるや」と。有司曰く、「此れ天子の礼なり。尚父尊しと雖も、乃ち人臣のみ」と。守光怒りて曰く、「我れ尚父と為りて、誰か当に帝たるべき者ぞ。且つ今天下四分五裂し、大なる者は帝と称し、小なる者は王と称す。我れ二千里の燕を以て、独り一方に帝たること能わざるや」と。乃ち梁・晋の使者を械して獄に下し、斧鑕を其の庭に置き、令して曰く、「敢えて諫むる者は死す」と。孫鶴進みて曰く、「滄州の敗、臣は王の殺さざるの恩を蒙る。今日の事、敢へず諫めざるべからず」と。守光怒り、之を推して鑕に伏せしめ、軍士をして割きて啖わしむ。鶴呼びて曰く、「百日を出でず、大兵当に至らん」と。命じて其の口を窒ぎて之を醢にす。守光遂に梁の乾化元年八月を以て、自ら大燕皇帝と号し、改元して応天と曰い、王瞳・齊涉を左右相と為す。晋は太原少尹李承勳を遣わし尚父冊を賀す。燕に至るに、而して守光已に僭号す。有司承勳を迫りて臣と称せしむ。承勳屈せず、列国交聘の礼を以て入見す。守光怒り、之を殺す。

明年、晋は周徳威を遣わし三万人を将い、鎮・定の兵を会して以て燕を攻め、祈溝関より入る。其の澶・涿・武・順諸州皆迎えて降る。守光囲まるること経年、累戦常に敗れ、乃ち客将王遵化を遣わし書を徳威に致して曰く、「予晋に罪を得て、迷いて復せず。今其れ病めり。公善く我が為に之を辞せよ」と。徳威遵化に謂いて曰く、「大燕皇帝未だ郊天せず、何ぞ此に至らんや。予命を受けて以て僭乱を討つ。其の佗を知らず」と。守光益々窘まり、乃ち絹千匹・銀千両・錦百段を献じ、其の将周遵業を遣わし徳威に謂いて曰く、「吾が王情を以て公に告ぐ。富貴成敗は人の常理なり。功を録し過を宥むるは覇者の事なり。守光去歳妄りに自ら尊崇し、本より朱温の下たる能わざるのみ。豈に意図せんや大国師を暴して経年するを。幸いに少しく之を寛げよ」と。徳威許さず。守光城に登り徳威を呼びて曰く、「公三晋の賢士、独り人の危きを急がざるや」と。人を遣わし以て乗ずる所の馬を以て徳威の馬と易えて去り、因りて告げて曰く、「晋王の至るを俟てば則ち降らん」と。晋王乃ち自ら軍に臨む。守光城に登り晋王を見る。晋王問うて将に如何にせんと。守光曰く、「今日俎上の肉のみ。惟だ王の為す所なり」と。守光に嬖する者李小喜有り、其の降る毋からんことを勧む。守光因りて佗日を俟たんことを請う。是の夕、小喜叛きて晋軍に降る。明旦、晋軍其の城を攻め破り、仁恭及び其の家族三百口を執る。

守光は其の妻李氏・祝氏、子継珣・継方・継祚等と、南に走りて滄州に至るも、道を失い、燕楽の界中に至り、数日食を得ず。其の妻祝氏を遣わし田家に食を乞わしむ。田家怪しみて之を詰む。祝氏実を以て告ぐ。乃ち擒えられて幽州に送らる。晋王方に大いに軍を饗す。客将守光を引きて見えしむ。晋王之を戯れて曰く、「主人何ぞ客を避くるの遽きや」と。守光頭を叩きて死を請う。命じて守光を械しへいせて其の父仁恭を以て軍に従わしむ。軍還りて趙を過ぐ。趙王王鎔晋王に会し、酒を置く。酒酣に請うて曰く、「願わくは仁恭父子を見ん」と。晋王命じて械を破りて之を出だし、引きて下坐に置く。飲食自若たり、皆慚色無し。

晋王太原に至り、仁恭父子を組練を以て曳き、太廟に献ず。守光将に死せんとし、泣いて曰く、「臣死するに恨み無し。然れども臣に降らざるを教うる者は、李小喜なり。罪人死せずんば、臣将に地下に訴えん」と。晋王使いして小喜を召す。小喜目を瞋して曰く、「父を囚え兄を弑し、其の骨肉を烝すも、亦小喜の爾を教うるや」と。晋王怒り、命じて先ず小喜を斬らしむ。守光免れ難きを知り、呼びて曰く、「王将に唐室を復して以て覇業を成さんとす。何ぞ臣を赦して自ら効せしめざるや」と。其の二婦旁より従いて罵りて曰く、「事已に此に至る。生くる復た何を為さん。願わくは先んじて死せん」と。乃ち俱に死す。晋王命じて李存仁恭を執りて鴈門に至らしめ、其の心血を刺して以て先王の墓に祭り、然る後に之を斬る。