新五代史

巻三十八

目次

ああ、古より宦官と后妃の禍は深い。明らかな者は未だ形を成さずして懼れを知り、暗き者は患い及びてなお安んずる。乱亡に至りて悔ゆべからざるに及ぶ。然りといえども、戒めざるべからず。ここに『宦者伝』を作る。

張承業

張承業、字は継元、唐の僖宗の時の宦官である。本姓は康、幼くして去勢され、内常侍張泰の養子となった。晋王(李克用)が兵を起こして王行瑜を撃つとき、承業はしばしば兵の間を往来し、晋王はその人となりを喜んだ。昭宗が李茂貞に迫られ、太原に奔らんとするに及び、先に承業を晋に遣わして意を伝えさせ、よって河東監軍とした。その後、崔胤が宦官を誅殺し、外にいる宦官は、すべて所在の地で殺すよう詔があった。晋王は承業を憐れみ、殺すに忍びず、斛律寺に匿った。昭宗が崩御し、ようやく承業を出し、再び監軍とした。

晋王(李克用)が病に伏し危篤となり、荘宗(李存勗)を承業に託して言うには、「亞子(荘宗の小字)を公らに累わす」と。荘宗は常に兄のごとく承業に仕え、歳時には堂に昇り母を拝し、甚だ親しく重んじた。荘宗が魏に在り、梁と河上で十余年戦う間、軍国の事はすべて承業に委ね、承業もまた心を尽くして懈らなかった。およそ金穀を蓄積し、兵馬を買い集め、農桑を勧めて課し、荘宗の業を成したのは、承業の功が多い。貞簡太后、韓徳妃、伊淑妃および諸公子で晋陽に在る者は、承業が一切法をもってこれを律し、権貴もみな手を束ねて承業を畏れた。

荘宗は歳時ごとに魏から帰省するが、蒲博の銭や伶人への賞賜に銭を要し、承業が蔵を主管するので、銭を得ることができなかった。荘宗は庫中に酒宴を設け、酒酣のとき、子の継岌に承業のために舞をさせた。舞い終わると、承業は宝帯・幣・馬を贈り物として出した。荘宗は銭の積み山を指さし、継岌の小字を呼んで承業に語って言うには、「和哥(継岌の小字)は銭に乏しい。一積みの銭を与えるがよい。帯や馬を用いるには及ばぬ」と。承業は謝して言うには、「国家の銭は、臣が私すべきものにあらず」と。荘宗が言葉で彼を責めると、承業は怒って言うには、「臣は老いた敕使、子孫のために計るにあらず、この庫の銭を惜しむは、王を佐けて覇業を成さんがためである。もしこれを用いんと欲せば、何ぞ必ずしも臣に問わん。財尽き兵散じれば、豈に臣ひとり禍を受くべきのみならんや」と。荘宗は元行欽を顧みて言うには、「剣を取れ」と。承業は立ち上がり、荘宗の衣をとらえて泣きながら言うには、「臣は先王の顧托の命を受け、家国の讐を雪がんことを誓う。今日、王のために庫物を惜しんで死するは、死して先王に愧じざるなり」と。閻宝が傍らより承業の手を解き去らせようとすると、承業は奮って拳を挙げて宝を殴り倒し、罵って言うには、「閻宝、朱温の賊、晋の厚恩に蒙りながら、一言の忠もなすこと能わず、かえって諂諛して自ら容れられんとするか」と。太后はこれを聞き、人を遣わして荘宗を召した。荘宗は性、至孝にして、太后の召しを聞き、甚だ懼れ、すなわち両卮の酒を酌んで承業に謝して言うには、「吾が杯酒の過失、かつ太后に罪を得んとす。願わくは公、これを飲み、吾が過ちを分かたんことを」と。承業は肯じて飲まなかった。荘宗が内に入ると、太后は人を遣わして承業に謝して言うには、「小児、公に忤う、すでにこれを笞った」と。翌日、太后と荘宗はともに承業の邸を訪れ、慰労した。

盧質は酒を嗜み傲慢で、荘宗および諸公子も多く侮慢され、荘宗は深くこれを憎んだ。承業は隙をみて請うて言うには、「盧質は酒を嗜み礼なく、臣、王のためにこれを殺さんことを請う」と。荘宗は言うには、「吾は今まさに賢才を招き納れて功業を成さんとす。公、何ぞ言の過ぎたるや」と。承業は立ち上がって賀して言うには、「王、能くこの如くせば、天下平らぐに足らざるなり」と。質はこれによって罪を免れた。

天祐十八年、荘宗はすでに諸将に諾して皇帝の位に即かんとした。承業はちょうど臥病しており、これを聞き、太原より肩輿に乗って魏に至り、諫めて言うには、「大王父子、梁と血戦すること三十年、本より家国の讐を雪ぎ、唐の社稷を復せんと欲す。今、元凶未だ滅びずして、急に尊名を以て自ら居るは、王父子の初心にあらず、かつ天下の望を失う。不可なり」と。荘宗は謝して言うには、「これは諸将の欲する所なり」と。承業は言うには、「然らず。梁は唐・晋の仇賊にして、天下の共に悪む所なり。今、王誠に能く天下のために大悪を去り、列聖の深讐を復し、然る後に唐の後を求めてこれを立てよ。唐の子孫在らしめば、誰か敢えて当たらん。唐に子孫なければ、天下の士、誰か王と争うべき者あらん。臣は唐家の一老奴に過ぎず、誠に願わくは大王の成功を見て、然る後に身を退きて田里に帰り、百官をして洛東門を送り出させ、路人をして指さして嘆かしめ、『これ本朝の敕使、先王の時の監軍なり』と言わしめん。豈に臣主ともに栄えざらんや」と。荘宗は聴かなかった。承業は諫め得ざるを知り、すなわち天を仰いで大哭して言うには、「吾が王自らこれを取る。我が奴を誤る」と。肩輿に乗って太原に帰り、食を絶って卒す。年七十七。同光元年、左武衛上將軍を贈られ、謚して正憲といった。

張居翰

張居翰、字は徳卿、故唐の掖廷令張従玫の養子である。昭宗の時、范陽軍監軍となり、節度使劉仁恭と親善であった。天復年中、宦官を大いに誅殺するとき、仁恭は居翰を大安山の北谿に匿って免れさせた。その後、梁の兵が仁恭を攻めると、仁恭は居翰を遣わして晋王に従い梁の潞州を攻めてその兵を牽制させ、晋はついに潞州を取って、居翰を昭義監軍とした。荘宗が即位すると、郭崇韜とともに枢密使となった。荘宗は梁を滅ぼして驕り、宦官はこれによって事を用い、郭崇韜はまた政を専任し、居翰は黙黙として、ただ免れるのみであった。魏王(李継岌)がしょくを破り、王衍が京師に朝するため、秦川に行き至ったとき、明宗の軍が魏で変を起こした。荘宗が東征し、衍に変ありと慮り、人を馳せて詔を魏王に遣わし、これを殺させた。詔書はすでに印画されたが、居翰が発してこれを視ると、詔書に「衍一行を誅す」とある。居翰は降る者を殺すは不祥なりと謂い、すなわち詔を柱に傅え、「行」の字を拭い去り、一「家」の字に改めた。時に蜀の降人で衍とともに東する者千余人、皆免れた。荘宗がしいされると、居翰は至徳宮で明宗に謁し、田里に帰ることを求めた。天成三年、長安ちょうあんにて卒す。年七十一。

【論】

五代の文章は陋しい。そして史官の職は喪乱に廃れ、伝記小説多くその伝を失い、故にその事跡は終始完からず、訛繆を交える。英豪奮起し、戦争勝敗し、国家興廃の際に至って、豈に謀臣の略、弁士の談なからんや。而して文字以てこれを発するに足らず、遂に泯然として後世に伝わらず。然るに独り張承業の事は卓卓として人の耳目に在り、今に至るまで故老なお能くこれを道う。その論議は傑然というべし。殆ど宦官の言に非ざるか。

古より宦者かんじゃ人の国を乱るは、その源女禍よりも深し。女は色のみなり、宦者の害は一端にあらず。蓋しその事を用うるや近くして習熟し、その心を為すや専一にして忍びあり。小善を以て人の意にあたり、小信を以て人の心を固くし、人主をして必ず信じて之に親しましむ。その已に信ぜらるるを待ちて、然る後に禍福を以て懼れさせて之を把持す。忠臣碩士せきし朝廷に列なるといえども、人主は以て己を去りて疏遠なりと為し、起居飲食・前後左右の親しむが如く恃むべきにあらざるに若かずとす。故に前後左右の者は日に益々親しみ、忠臣碩士は日に益々疎んぜられ、人主の勢いは日に益々孤となる。勢い孤なれば、則ち禍を懼るるの心日に益々切にして、把持する者は日に益々かたし。安危その喜怒に出で、禍患帷闥いとうに伏す。則ちさきに所謂恃むべき者と為すは、乃ち患を為す所以なり。患已に深くして之を覚り、疎遠の臣と図りて左右の親近を謀らんと欲す。緩やかにすれば則ち禍を養いて益々深くし、急げば則ち人主を挟みて質と為す。聖智ありといえども与に謀る能わず、謀りて為すべからず、為して成すべからず。その甚だしきに至りては、則ち俱に傷きて両敗す。故にその大なる者は国を亡ぼし、その次は身を亡ぼし、奸豪をして借りて資と為し起つを得しめ、ついにその種類をえぐり、尽く殺して以て天下の心を快くするに至りて後已む。これ前史の載する所、宦者の禍常に此の如きは、一世のみにあらず。人主たる者は、内に禍を養い外に忠臣碩士を疎んずるを欲するに非ざるなり、蓋しその漸く積りて勢い之を然らしむるなり。女色の惑いは、不幸にして悟らずんば則ち禍ここに及ぶ。その一たび悟らしめば、とらえて之を去るべし。宦者の禍を為すは、悔悟せんと欲すれども、勢い去るを得ざる者有り。唐の昭宗の事是れ已なり。故に曰く、女禍よりも深しとは、これを謂うなり。戒めざるべけんや。昭宗宦者を信じれしむ。ここによりて東宮の幽有り。既に出でて崔胤と之を図る。胤宰相と為り、顧みて力足らず為すべからず、乃ち梁に兵を召す。梁の兵将に至らんとし、宦者天子を挟みて岐に走る。梁の兵之を囲むこと三年、昭宗既に出でて、唐亡ぶ。

初め、昭宗の出ずるや、梁王唐の宦者第五可範等七百余人を悉く誅し、その外に在る者は、天下に詔して悉く捕え殺さしむ。而して宦者は多く諸鎮の蔵匿する所となりて殺さず。是の時、方鎮僭擬せんぎし、悉く宦官を以て給事きゅうじせしめ、呉越最も多し。荘宗立つに及び、天下に詔して故唐時の宦者を訪求し悉く京師に送らしむ。数百人を得、宦者遂に復た事を用うるに至り、以て亡ぶに及ぶ。これは已に覆える車を求め、みずから駕してその轍を履むに何の異なるか。悲しむべし。

荘宗未だ梁を滅ぼさざる時、承業已に死す。その後居翰枢密使と為るといえども、事を用いず。宣徽使馬紹宏と称する者有り、嘗て姓を賜わり李と為す。頗る信用せらる。然れども大臣をいて殺し、貨賂かろけがし、威福を専らにし、以て天下に怨みを取る者は、左右の狎匿きょうとくし、黄門内養の徒なり。是の時、明宗鎮州より入覲し、京師に於いて朝請を奉ず。荘宗頗るその異志有るを疑い、陰に紹宏を遣わしてその動静を伺わしむ。紹宏反って情を以て明宗に告ぐ。明宗魏よりして反す。天下皆禍の魏より起こるを知る。たれか明宗の二心を啓く者は、紹宏より始まるを知らんや。郭崇韜已に蜀を破る。荘宗宦者の言を信じて之を疑う。然れども崇韜の死は、荘宗知らず、皆宦者の之を為すなり。当に此の時、唐の精兵を挙げて皆蜀に在り。崇韜をして死なざらしめば、明宗洛に入る、豈に西顧の患無からんや。その能く晏然として唐を取りて之に代わることあらんや。明宗入りて立つに及び、又天下に詔して悉く宦者を捕え殺さしむ。宦者山谷に亡竄し、多く髪を削りて浮図と為る。その亡れて太原に至る者七十余人、悉く捕え都亭驛にて殺す。流血庭に盈つ。

明宗晩年にして病多く、王淑妃内を専らにして以て政をあやつり、宦者孟漢瓊因りて以て事を用う。秦王明宗の疾の已にあらたまるを見んと入る。既に出でて哭聲を聞き、以て帝崩ずと謂い、乃ち兵を以て宮に入らんと謀る。立つを得ざるを懼るるなり。大臣朱弘昭等方に其事を図り、議未だ決せず。漢瓊遽にわかに入りて明宗に見え、秦王の反するを言い、即ち兵を以て之を誅す。秦王を大悪に陥れ、明宗此を以て恨みを飲みて終わる。後、湣帝衛州に奔る。漢瓊西に路に於いて廃帝を迎う。廃帝悪みて之を殺す。

嗚呼、人情安楽に処るは、自ら聖哲に非ざれば、能く久しくして驕怠無からず。宦・女の禍は一日に非ず、必ず人の驕怠を伺いて浸入す。明宗は佚君いつくんに非ざるも、而も猶此の若きは、蓋しその位に在ることやや久しきなり。その余は多く武人崛起し、その嗣續に及び、世数短くして年永からず。故に宦者は施為する暇無し。その大害を為す者は、略ね見るべし。独り承業の論は、偉然として愛すべく、居翰は一字を更えて以て千人を活かす。君子の人に於けるや、いやしくも善有らば、取らざる所無し。吾れ斯の二人に於いて、取る所有り。その善を取りてその悪を戒む。所謂「愛してその悪を知り、憎んでその善を知る」なり。故に並びにその禍敗の所以然る者を述べて篇に著す。