新五代史

原文新五代史

巻四十九

原文卷49

翟光鄴

原文翟光鄴

翟光鄴、字あざなは化基、濮州鄄城の人である。その父の景珂は、豪放で胆力があった。梁と晉が河上で対峙したとき、景珂は郷里の人々を率いて永定駅を守り、晉軍が攻撃したが、一年を過ぎても陥落させることができず、景珂はついに戦死した。光鄴は当時十歳で、晉兵に捕らえられたが、明宗はその聡明さを愛で、常に側に置いた。

原文翟光鄴字化基,濮州鄄城人也。其父景珂,倜儻有膽氣。梁、晉相距于河上,景珂率聚邑人守永定驛,晉人攻之,踰年不能下,景珂卒戰死。光鄴時年十歲,為晉兵所掠,明宗愛其穎悟,常以自隨。

光鄴は唐に仕え、官は耀州団練使に至った。晉の高祖の時、棣州・沂州の二州刺史、西京副留守を歴任した。出帝が楊光遠を破った後、光鄴を青州防禦使とした。光鄴は兵士と民衆を招き集め、非常に恩情のある統治を行った。契丹きったんが晉を滅ぼすと、光鄴を派遣して曹州を治めさせた。許王従益が汴に入ると、彼を枢密使とした。漢の高祖が京師に入ると、右領軍衛大将軍・左金吾大将軍に改め、街使を兼任させた。周の太祖が即位すると、宣徽使・枢密副使に任じ、出て永興軍を治め、任地で没した。

原文光鄴事唐,官至耀州團練使。晉高祖時,歷棣沂二州刺史、西京副留守。出帝已破楊光遠,以光鄴為青州防禦使。光鄴招輯兵民,甚有恩意。契丹滅晉,遣光鄴知曹州。許王從益入汴,以為樞密使。漢高祖入京師,改右領軍衞大將軍、左金吾大將軍,充街使。周太祖入立,拜宣徽使、樞密副使,出知永興軍,卒于官。

光鄴は人となり沈黙寡言で謀略に富み、継母に仕えることは孝行として知られた。貴くなっても財産を営まず、常に官舎を借りて住み、質素で風雨を凌ぐだけの暮らしであった。親族と和やかに睦まじく、粗末な衣服と粗食で、有無を共にし、光鄴はそれを平然と受け入れ、日々賓客と酒を飲み書を集めて楽しんだ。その統治するところは、寛容で静謐、民を休養させることを旨とした。病が重くなると、左右の者に戒め、息が絶えたら遺体を洛陽に帰し、長く留まって軍府を煩わせないようにと言った。没後、州民が上書して留めて葬り祠を立てることを乞うたが、許されなかった。

原文光鄴為人沈默多謀,事繼母以孝聞。雖貴,不營財產,常假官舍以居,蕭然僅蔽風雨。雍睦親族,粗衣糲食,與均有無,光鄴處之晏然,日與賓客飲酒聚書為樂。其所臨政,務以寬靜休息為意。病亟,戒其左右,氣絕以尸歸洛,無久留以煩軍府。既卒,州人上書乞留葬立祠,不許。

馮暉

原文馮暉

馮暉は、魏州ぎしゅうの人である。効節軍の兵卒となり、功により隊長に昇進した。唐の荘宗が魏に入り、梁と河上で対峙したとき、暉は隊長として梁軍に亡命し、王彦章は暉の勇猛さを認め、その麾下に属させた。梁が滅びると、荘宗は暉を赦して咎めず、明宗に従って楊立を討った。魏王継岌が蜀しょくを平定すると、累進して夔州・興州の二州刺史となった。董璋が東川で反乱を起こすと、暉は晉の高祖に従って璋を討ち、軍が剣門に至ったが、剣門の兵が守って入れず、暉は別の道からその左側に出て、蜀の守備兵をほとんど撃ち滅ぼした。晉の高祖が軍を返すと、暉を澶州せんしゅう刺史に任じた。

原文馮暉,魏州人也。為効節軍卒,以功遷隊長。唐莊宗入魏,與梁相距于河上,暉以隊長亡入梁軍,王彥章以暉驍勇,隸之麾下。梁亡,莊宗赦暉不問,從明宗討楊立。魏王繼岌平蜀,累遷夔、興二州刺史。董璋反東川,暉從晉高祖討璋,軍至劍門,劍門兵守,不得入,暉從佗道出其左,擊蜀守兵殆盡。會晉高祖班師,拜暉澶州刺史。

天福年間、范延光が魏州で反乱を起こし、暉を派遣して滑州かつしゅうを襲撃させたが、陥落せず、ついに魏に入り、延光のために守った。後に降伏し、義成軍節度使に任じられ、霊武に転鎮した。霊武は唐の明宗以後、馬を買い粟を購入し、部族を招来し、軍士に給賜するのに、毎年度支の銭六千万を使い、関以西から転輸供給したため、民は役に堪えず、流亡する者が非常に多かった。青岡・土橋の間では、氐・羌が道路を略奪し、商人旅人は必ず兵を伴わねばならなかった。暉が着任すると、恩信をもって推し進め、部族はその恵みを懐き、侵奪を止めた。そして広く屯田を行って転餉を省き、倉庫・亭館千余区を整備し、多くは俸銭を出して、民に賦課を加えず、管内は大いに治まった。晉の高祖は詔書を下して褒め称えた。

原文天福中,范延光反魏州,遣暉襲滑州,不克,遂入于魏,為延光守。已而出降,拜義成軍節度使,徙鎮靈武。靈武自唐明宗已後,市馬糴粟,招來部族,給賜軍士,歲用度支錢六千萬,自關以西,轉輸供給,民不堪役,而流亡甚眾。青岡、土橋之間,氐、羌剽掠道路,商旅行必以兵。暉始至,則推以恩信,部族懷惠,止息侵奪,然後廣屯田以省轉餉,治倉庫、亭館千餘區,多出俸錢,民不加賦,管內大治,晉高祖下詔書褒美。

党項とうこうの拓拔彦超が最も大族で、諸族の向背は常に彦超の動向に従った。暉が到着すると、彦超が来謁し、暉は彼を留め、城中に邸宅を建て、豊かに賜与して、その意を満たすことに努めた。彦超が留まったので、諸部族は競って羊馬を市易に持ち込み、一年で馬五千匹を得た。晉は暉が多くの馬を得て夷狄の心を得たのを見て、かえって禍患とみなし、静難に転鎮させ、さらに保義に転じさせた。その年のうちに、召されて侍衛歩軍都指揮使とし、河陽節度使を兼ねさせた。暉はここに至って初めて、晉が自分を患いとしている意図を悟った。

原文党項拓拔彥超最為大族,諸族嚮背常以彥超為去就。暉之至也,彥超來謁,遂留之,為起第於城中,賜予豐厚,務足其意。彥超既留,而諸部族爭以羊馬為市易,期年有馬五千匹。晉見暉馬多而得夷心,反以為患,徙鎮靜難,又徙保義。歲中,召為侍衞步軍都指揮使,領河陽節度使,暉於是始覺晉有患己意。

この時、出帝は昏乱で、馮玉・李彦韜らが権力を握っていた。暉は彼らにへつらって仕え、それによって再び霊武に鎮することを得た。当時、王令温が霊武を鎮守していたが、夷狄の心を失い、大いに辺境の患いとなっていた。暉はすぐに請うて言った。「今、朝廷は多事で、必ずや兵をもって臣を援けることはできません。自ら兵を募って護衛としたいと願います。」そこで千余人の兵を募得し、梅戍まで行くと、蕃夷が次第に来謁した。暉は首領の一人を見て、その佩剣を指して言った。「これは板橋王氏の剣か? 王氏の剣は天下の利器と聞く。」うつむいてその腰から取り上げ、いざ玩ぼうとするかのようにして、首領を撃ち殺した。その従騎十余人も皆殺した。裨将ひしょうの薬元福が言った。「今、霊武までまだ五六百里あります。どうしましょう。」暉は笑って言った。「これは夷狄の豪族で、部族が頼りにしている者だ。私がこれを殺せば、残りはどうして動けようか。」やがて諸族は皆、兵をもって道路を扼したが、暉は言葉で諭し、ただ殺した首領の一族だけが求戦したので、すぐにこれと戦って敗走させ、諸族はついに動かなくなった。暉は霊武に至り、辺境の部族を慰撫し、凡そ十余年、恩信が大いに著しかった。官は中書令に至り、陳留王に封ぜられた。広順三年に卒去し、衛王を追封された。子に継業がいる。

原文是時,出帝昏亂,馮玉、李彥韜等用事,暉曲意事之,因得復鎮靈武。時王令溫鎮靈武,失夷落心,大為邊患。暉即請曰:「今朝廷多事,必不能以兵援臣,願得自募兵以為衞。」乃募得兵千餘人,行至梅戍,蕃夷稍稍來謁,暉顧首領一人,指其佩劍曰:「此板橋王氏劍邪?吾聞王氏劍天下利器也。」俯而取諸腰間,若將玩之,因擊殺首領者,其從騎十餘人皆殺之。裨將藥元福曰:「今去靈武尚五六百里,奈何?」暉笑曰:「此夷落之豪,部族之所恃也,吾能殺之,其餘豈敢動哉!」已而諸族皆以兵扼道路,暉以言譬諭之,獨所殺首領一族求戰,即與之戰而敗走,諸族遂不敢動。暉至靈武,撫綏邊部,凡十餘年,恩信大著。官至中書令,封陳留王。廣順三年卒,追封衞王。子繼業。

皇甫暉

原文皇甫暉

皇甫暉は、魏州の人である。魏軍の兵卒となり、瓦橋関に戍守し、年限が満ちて交替帰還すべきであったが、留まって貝州に駐屯した。この時、唐の荘宗はすでに政を失い、天下は離心していた。暉は人となり勇猛で無頼であり、夜、軍中で博打をして負けると、その徒党と謀って乱を起こし、その都将の楊仁晟を脅して言った。「唐が梁を破って天下を得たのは、先に魏を得て河北の兵をことごとく有したからだ。魏軍は甲冑を体から離さず、馬の鞍を解かぬこと十余年、今天下はすでに定まったが、天子は魏軍の久しく戍守した労苦を顧みず、家から咫尺の距離にありながら、相見えることができない。今、将士の帰郷を思う気持ちは抑えがたい。貴公は我と共に行くべきだ。不幸にも天子が我が軍を怒れば、一州を坐して占拠し、事を起こすに足りる。」仁晟は言った。「貴公らはどうしてこのような過ちを計るのか。今、英主が上にあり、天下一家、精鋭の兵は数十万に下らず、貴公らにはそれぞれ家族がある。どうしてこのような不吉な言葉を出すのか。」軍士は強いることができないと知り、遂に彼を斬り、一小校を推して主としようとしたが、従わず、また斬った。そして二つの首を携えて裨将の趙在礼のところに行き、在礼はこれに従った。そこで夜、貝州を焼いて魏に入り、在礼は暉を馬歩軍都指揮使とした。暉は甲士こうし数百騎を擁し、城中を大いに掠奪し、ある民家に至り、その姓を問うと、「姓は国です」と言った。暉は言った。「我は国を破るのだ。」遂に皆殺しにした。また一家に至り、姓を問うと、「姓は万です」と言った。暉は言った。「我は万家を殺せば足りる。」また皆殺しにした。明宗が魏に入ると、遂に在礼と謀を合わせ、荘宗の禍いは暉から始まったのである。明宗が即位すると、暉は軍卒から抜擢されて陳州ちんしゅう刺史に任じられ、唐の世を通じて常に刺史であった。

原文皇甫暉,魏州人也。為魏軍卒,戍瓦橋關,歲滿當代歸,而留屯貝州。是時,唐莊宗已失政,天下離心。暉為人驍勇無賴,夜博軍中,不勝,乃與其徒謀為亂,劫其都將楊仁晟曰:「唐能破梁而得天下者,以先得魏而盡有河北兵也。魏軍甲不去體、馬不解鞍者十餘年,今天下已定,而天子不念魏軍久戍之勞,去家咫尺,不得相見。今將士思歸不可遏,公當與我俱行。不幸天子怒吾軍,則坐據一州,足以起事。」仁晟曰:「公等何計之過也!今英主在上,天下一家,精甲銳兵,不下數十萬,公等各有家屬,何故出此不祥之言?」軍士知不可彊,遂斬之,推一小校為主,不從,又斬之,乃攜二首以詣裨將趙在禮,在禮從之,乃夜焚貝州以入于魏,在禮以暉為馬步軍都指揮使。暉擁甲士數百騎,大掠城中,至一民家,問其姓,曰:「姓國。」暉曰:「吾當破國!」遂盡殺之。又至一家,問其姓,曰:「姓萬。」暉曰:「吾殺萬家足矣。」又盡殺之。及明宗入魏,遂與在禮合謀,莊宗之禍自暉始。明宗即位,暉自軍卒擢拜陳州刺史,終唐世常為刺史。

晉の天福年間、衛将軍として京師に居住した。在礼はすでに旌節を執り、鎮を罷めて来朝した。暉は往ってこれを訪ねて言った。「貴公と共に甘陵で起こり、ついに大事を成した。しかしそれは私が発したのだ。貴公は今富貴である。私を顧みてくれるか? そうでなければ、禍いは座中から起こるぞ。」在礼は恐れ、急いで器物幣帛数千を出して与え、酒を飲ませた。暉は平然と飲み、礼を言わずに去った。久しくして、密州刺史となった。

原文晉天福中,以衞將軍居京師。在禮已秉旄節,罷鎮來朝,暉往候之曰:「與公俱起甘陵,卒成大事,然由我發也,公今富貴,能卹我乎?不然,禍起坐中!」在禮懼,遽出器幣數千與之,而飲以酒,暉飲自若,不謝而去。久之,為密州刺史。

契丹が都を犯すや、暉はその州の民を率いて江南に奔り、李景は彼を歙州刺史・奉化軍節度使に任じ、江州を鎮守させた。周の軍が淮を征するに及び、景は暉を北面行営応援使とし、清流関に駐屯させたが、周の軍に敗れ、その都監姚鳳と共に捕らえられた。世宗は引見し、暉は全身に金瘡を負っていたのを哀れみ、金帯・鞍馬を賜い、数日後に卒した。鳳を左屯衛上將軍に任じた。

原文契丹犯闕,暉率其州人奔于江南,李景以為歙州刺史、奉化軍節度使,鎮江州。周師征淮,景以暉為北面行營應援使,屯清流關,為周師所敗,并其都監姚鳳皆被擒。世宗召見,暉金瘡被體,哀之,賜以金帶、鞍馬,後數日卒。拜鳳左屯衞上將軍。

唐景思

原文唐景思

唐景思は秦州の人である。幼い頃より角觝に長じ、屠狗を業として生計を立てた。後に去って軍卒となり、累進して指揮使となった。唐の魏王継岌が蜀を伐つ時、景思は蜀の固鎮を守っていた。継岌の軍が至ると、景思は城を挙げて降伏し、興州刺史に任じられた。晋の高祖の時、貝州行軍司馬となった。出帝の時、契丹が貝州を攻め陥とすと、景思は趙延寿に得られ、壕砦使とされた。契丹が晋を滅ぼすと、景思を亳州防禦使に任じた。漢の高祖の時、鄧州とうしゅう行軍司馬となり、後に沿淮巡検となった。

原文唐景思,秦州人也。幼善角觝,以屠狗為生。後去為軍卒,累遷指揮使。唐魏王繼岌伐蜀,景思為蜀守固鎮。繼岌兵至,景思以城降,拜興州刺史。晉高祖時,為貝州行軍司馬。出帝時,契丹攻陷貝州,景思為趙延壽所得,以為壕砦使。契丹滅晉,拜景思亳州防禦使。漢高祖時,為鄧州行軍司馬,後為沿淮巡檢。

漢の法は酷烈で、史弘肇が権力を握り、告発によって人を殺すことを好んだ。景思に奴がおり、かつて求めるところが意の如くならず、直ちに馳せて弘肇に会い、景思が李景と通じ、私かに兵甲を蓄えていると訴えた。弘肇は吏に三十騎を率いさせて景思を収捕に向かわせた。奴は吏に言うには、「景思は勇者である。捕らえたら殺すがよい。さもなくば彼を逃がすことになろう」と。吏が到着すると、景思は進み出て、両手で吏を抱きながら冤罪を叫び、獄に赴いて自ら弁明することを請うた。吏は奴を引き連れて景思と対質させた。景思は言うには、「私の家はここにある。どうか捜索されたい。銭十千があるが、それは外部からの賄賂を受けたものである。甲一具があるが、それは私かに兵を蓄えたものである」と。吏が捜索すると、ただ衣笥一つがあるのみで、軍籍と糧簿だけであった。吏は哀れんで寛大に扱い、景思は枷をはめられて京師に送られ、自らの潔白を明らかにすることを請うた。景思には僕の王知権が京師におり、景思が告訴されたと聞くと、弘肇に会い、景思が謀反していないことを明らかにするため、まず自分が獄に下ることを願い出た。弘肇はこれを憐れみ、知権を獄中に送り、日々酒食をもって労った。景思が枷をはめられて道につくと、潁・亳の人々が京師まで随行して共に彼の無実を証明した。弘肇はそこでその奴を審問し、ことごとく自白したので、直ちに上奏して奴を斬り、景思を釈放した。

原文漢法酷,而史弘肇用事,喜以告訐殺人。景思有奴,嘗有所求不如意,即馳見弘肇,言景思與李景交通,而私畜兵甲。弘肇遣吏將三十騎往收景思,奴謂吏曰:「景思勇者也,得則殺之,不然將失之也。」吏至,景思迎前,以兩手抱吏呼冤,請詣獄自理。吏引奴與景思驗,景思曰:「我家在此,請索之。有錢十千,為受外賂。有甲一屬,為私畜兵。」吏索之,惟一衣笥,軍籍、糧簿而已。吏閔而寬之,景思請械送京師以自明。景思有僕王知權在京師,聞景思被告,乃見弘肇,願先下獄明景思不反,弘肇憐之,送知權獄中,日勞以酒食。景思既械就道,潁、亳之人隨至京師共明之。弘肇乃鞫其奴,具伏,即奏斬奴而釋景思。

後に世宗に従って高平で戦い、世宗は得た漢の降兵数千をもって効順指揮とし、景思を指揮使とし、再び淮上を戍守させた。周の軍が淮南を伐つ時、功により饒州刺史を兼ね、濠州刺史に遷った。兵が濠州を攻め、戦傷が重くて卒し、武清軍節度使を追贈された。

原文後從世宗戰高平,世宗以所得漢降兵數千為効順指揮,以景思為指揮使,復戍淮上。周師伐淮南,以功領饒州刺史,遷濠州刺史,兵攻濠州,以戰傷重卒,贈武清軍節度使。

王進

原文王進

王進は幽州ゆうしゅう良郷の人である。人となり勇猛で悍悪、走れば奔馬に及んだ。若い頃徒党を集めて盗賊となり、郷里はこれを患い、符彦超が人を遣わして賄賂で招き、麾下に置いた。彦超が安遠軍を鎮守する時、軍中に変事が起こり、進を馳せさせて京師に奏上させた。明宗はその来訪の速さを怪しみ、その足力を賞賛し、寧衛指揮に属させた。漢の高祖が侍衛親軍指揮使の時、進を軍校とした。高祖が河東を鎮守するに及び、これに従い、急事がある度に進を京師に馳せさせ、往復五六日を超えず、これによってますます親愛し、累進して奉国軍都指揮使となった。周の太祖に従って魏で挙兵し、虎捷右廂都指揮使に遷った。汝・鄭二州防禦使・彰徳軍節度使を歴任した。顕徳元年秋、病により卒し、太師を追贈された。

原文王進,幽州良鄉人也。為人勇悍,走及奔馬。少聚徒為盜,鄉里患之,符彥超遣人以賂招置麾下。彥超鎮安遠軍,軍中有變,遣進馳奏京師,明宗怪其來速,嘉其足力,以隸寧衞指揮。漢高祖為侍衞親軍指揮使,以進為軍校。高祖鎮河東,因以之從,每有急,遣進馳至京師,往返不過五六日,由是愈親愛之,累遷奉國軍都指揮使。從周太祖起魏,遷虎捷右廂都指揮使。歷汝、鄭二州防禦使、彰德軍節度使。顯德元年秋,一本作初。以疾卒,贈太師。

ああ、余が旧史を述べて王進の事に至る時、未だ嘗て書を擱いて歎息せざるはない。甚だしいかな、五代の君主は皆武人が崛起し、その与にしたる者は勇夫悍卒、各々土地を裂き封侯王となること、豺狼が斯の人を牧するに何ぞ異ならんや。その附託遭遇、一時の幸いより出づるといえども、なお必ず皆身を横たえて陣敵に当たり、百夫の勇なきに非ざれば、則ち必ず一日の労あり。進の如きに至りては、徒に疾足善走を以て旄節を秉る、何ぞ其れ甚だしきや。豈に名器の用、世に随って軽重する者ならずや。世治まれば則ち君子之に居りて重く、世乱るれば則ち小人易く得て軽しとするか。あるいは因縁僥倖、未だ嘗て有らざるは無しといえども、乱世に尤も多く、其の極みに既に至りて、遂に是に至るか。豈に其れ又是より甚だしき者有らざらんや。此の時、国を為す者の長きは十餘年を過ぎず、短きは三四年より一二年に至る。天下の人、其の上に易君代国するを見ること、戍長を更えるに異ならざるが如し、蓋し其の軽きこと此の如し、況んや其の下なる者をや。進等の如きは、豈に足らんて道うべきや。易に否泰消長有り、君子小人常に相上下し、上に在る者を進等の如く視れば、則ち其の下に在る者は知るべし。余が進の事を書く所以は、斯人の乱れを哀しみ、而して当時賢人君子の下に在る者を見んがためなり。勝えんて道わんや、勝えんて道わんや。

原文嗚呼!予述舊史,至於王進之事,未嘗不廢書而歎曰:甚哉,五代之君,皆武人崛起,其所與俱勇夫悍卒,各裂土地封侯王,何異豺狼之牧斯人也!雖其附託遭遇,出於一時之幸,然猶必皆橫身陣敵,非有百夫之勇,則必一日之勞。至如進者,徒以疾足善走而秉旄節,何其甚歟!豈非名器之用,隨世而輕重者歟?世治則君子居之而重,世亂則小人易得而輕歟?抑因緣僥倖,未始不有,而尤多於亂世,既其極也,遂至於是歟?豈其又有甚於是者歟?當此之時,為國長者不過十餘年,短者三四年至一二年。天下之人,視其上易君代國,如更戍長無異,蓋其輕如此,況其下者乎!如進等者,豈足道哉!易否泰消長,君子小人常相上下,視在上者如進等,則其在下者可知矣。予書進事,所以哀斯人之亂,而見當時賢人君子之在下者,可勝道哉!可勝道哉!

常思

原文常思

常思は字を克恭といい、太原の人である。初め唐の荘宗に従って卒となり、後に長剣指揮使となった。唐・晋に歴任して六軍都虞候となった。漢の高祖が河東節度使の時、思を牢城指揮使とした。高祖が入って帝位に即くと、武勝軍節度使を領し、鎮を昭義に移した。思は軍卒より起り、未だ嘗て戦功有ることなく、徒に幸いに漢の興起に会い、遂に旄節を秉った。潞州ろしゅうに在ること五年、聚斂を事とし、性質は鄙吝であった。

原文常思字克恭,太原人也。初從唐莊宗為卒,後為長劍指揮使。歷唐、晉為六軍都虞候。漢高祖為河東節度使,以思為牢城指揮使。高祖入立,領武勝軍節度使,徙鎮昭義。思起軍卒,未嘗有戰功,徒以幸會漢興,遂秉旄節。在潞州五年,以聚斂為事,而性鄙儉。

初め、思が微賤の時、周の太祖は幼くして孤となり依る所無く、思の家に食していた。思を叔父とし、後に思と周の太祖は共に漢に遭って富貴を取った。周の太祖が既に即位すると、毎に思を常叔と呼び、その妻に拝礼し、家人の礼の如くであった。広順三年、鎮を帰徳に移し、三年居て来朝し、又平盧に移された。思は因って啓上して言うには、「臣は宋に居りましたが、宋の民が臣に負う絲息十万両があります。願わくはその券を進上いたします」と。太祖は頷き、直ちにその券を焼き、宋州に詔して悉くこれを蠲除させた。思は青州に居り、一年を踰えて疾を得、洛陽に帰り、卒し、中書令を追贈された。

原文初,思微時,周太祖方少孤無依,食于思家,以思為叔,後思與周太祖俱遭漢以取富貴。周太祖已即位,每呼思為常叔,拜其妻,如家人禮。廣順三年,徙鎮歸德,居三年來朝,又徙平盧,思因啟曰:「臣居宋,宋民負臣絲息十萬兩,願以券上進。」太祖頷之,即焚其券,詔宋州悉蠲除之。思居青州,踰年得疾,歸于洛陽,卒,贈中書令。

孫方諫

原文孫方諫

孫方諫は鄭州清苑の人である。初め、定州ていしゅうの西北に狼山堡があり、定人は常にここを保って契丹を避けた。尼の深意が其中に居り、佛法をもって民を誘い、民多くこれに帰した。後に尼が死ぬと、堡の人はその尸不朽なりと言い、因って奉じてこれを事とした。尼は孫氏を姓とし、方諫は自ら尼の族人と為し、即ちその法を継いで行い、堡人は推して主と為した。

原文孫方諫,鄭州清苑人也。初,定州西北有狼山堡,定人常保以避契丹,有尼深意居其中,以佛法誘民,民多歸之。後尼死,堡人言其尸不朽,因奉而事之。尼姓孫氏,方諫自以為尼族人,即繼行其法,堡人推以為主。

晋の出帝の時、義武軍節度使は方諫が山中に徒党を聚めるのを憎み、辺患となることを恐れ、因って表して遊奕使と為した。方諫は求むるところ有りて得られず、乃ち北に契丹に通じた。契丹が後に晋を滅ぼすと、方諫を義武軍節度使とした。已にして方諫を雲中に移そうとしたが、方諫は命を受けず、その徒を率いて再び狼山に入った。

原文晉出帝時,義武軍節度使惡方諫聚徒山中,恐為邊患,因表以為遊奕使。方諫因有所求不得,乃北通契丹。契丹後滅晉,以方諫為義武軍節度使。已而徙方諫於雲中,方諫不受命,率其徒復入狼山。

漢の高祖が起ると、契丹は火を放って定州を焼き、その人民を虜らえて北去した。方諫はこれを聞き、狼山より入り、これを占拠して漢に帰した。高祖はこれを嘉し、即ち方諫を義武軍節度使に任じた。

原文漢高祖起,契丹縱火燒定州,虜其人民北去。方諫聞之,自狼山入,據之以歸漢,高祖嘉之,即拜方諫義武軍節度使。

周太祖の時、鎮国に遷鎮し、その弟行友を以て定州留後となした。世宗太原を攻め、方諫朝かかんちょう(かかんちょう)行在あんざい(あんざい)にあり、還るに従い京に入り、洛に至り疾を得、匡国に遷鎮し、洛陽に卒し、年六十二、太師を贈られた。

原文周太祖時,徙鎮鎮國,以其弟行友為定州留後。世宗攻太原,方諫朝于行在,從還京,至洛得疾,徙鎮匡國,卒于洛陽,年六十二,贈太師。