新五代史

巻三十六

__目次__

【序】

ああ、世の道は衰え、人倫は壊れ、親疎の理はその常に反し、干戈は骨肉より起こり、異類合して父子となる。開平・顕徳の五十年間、天下は五代にして実は八姓、その三は乞養より出づ。蓋しその大なる者は天下を取り、その次は功名を立て、将相の位に至る。豈に時の隙に因り、利を以て合し相資する者に非ずや。唐は自ら沙陀と号し、代北より起こり、その与に倶にする者は皆一時の雄傑・虣武の士にして、往々これを養いて児と為し、「義児軍」と号す。その天下を有するに至り、多く用いて功業を成し、その亡ぶるも亦これに由る。太祖の養子多し、その紀すべき者九人、その一はこれ明宗、その次は嗣昭・嗣本・嗣恩・存信・存孝・存進・存璋・存賢と曰う。義児伝を作る。李存審は、後に復た符氏を以て大いに顕る。故に別に自ら伝を為す。

李嗣昭

李嗣昭は、本姓は韓氏、汾州太谷県の民家の子なり。太祖猟に出で、その家に至り、その林中鬱鬱として気有るを見て、甚だこれを異とし、その父を召して問う。父言う、家に適た児を生むと。太祖因りに金帛を遺してこれを取り、その弟克柔に命じて養いて子と為さしむ。初め進通と名付け、後に更めて嗣昭と名づく。嗣昭は人となり短小なりと雖も、胆勇人に過ぐ。初め酒を嗜むを喜び、太祖嘗て微かにこれを戒む。遂に終身飲まず。太祖その謹厚を愛し、常に兵を用いるに従い、衙内指揮使と為る。

陝州の王珙、その兄珂と河中に於いて立つを争い、嗣昭を遣わして珂を助けしむ。猗氏に於いて珙を破り、その将三人を獲る。梁軍珙を救う。嗣昭又た胡壁堡に於いてこれを破り、その将一人を執る。光化元年、沢州の李罕之、潞州を襲いて梁に降る。梁は丁会を遣わして罕之に応ず。嗣昭会と含山に戦い、その将一人を執り、首級三千を斬り、遂に沢州を取る。二年、晋は李君慶を遣わして梁の潞州を攻む。君慶は梁に敗られ、太祖は君慶を酖殺す。嗣昭これを攻克す。三年、山東に出で、梁の洺州を取る。梁の太祖自ら将いてこれを攻め、葛従周を遣わして青山口に伏を設く。嗣昭、梁の太祖自ら来るを聞き、城を棄てて走る。前に伏兵に遇い、因りて大いに敗る。

天復元年、梁は河中を破り、王珂を執り、晋・絳・慈・隰を取る。因りて大いに挙げて晋を撃ち、太原を囲む。嗣昭は日に精騎を以て出でて梁兵を撃つ。会う大雨、梁軍解けて去る。晋の汾州刺史李瑭、叛きて梁軍に降る。梁軍已に去り、嗣昭復た汾州を取り、瑭を斬る。遂に陰地に出で、慈州を取り、その刺史唐礼を降す。又た隰州を取り、その刺史張瓌を降す。是の歳、梁軍西に京師を犯し、鳳翔を囲む。嗣昭は間を乗じて梁の晋・絳を攻め、平陽に戦い、梁の将一人を執る。進んで蒲県を攻む。梁の朱友寧・氏叔琮、兵十万を以て迎え撃つ。嗣昭等敗走す。友寧これを追う。晋は李存信に兵を率いさせて嗣昭を迎えしむ。存信又た敗る。梁軍遂に太原を囲み、而して慈・隰・汾州は復た梁に入る。太祖大いに恐れ、雲州に走らんと謀る。李存信等、太祖を勧めて契丹に奔らしむ。嗣昭力を争いて以て不可と為す。劉太妃の亦これを言うに頼り、乃ち止む。嗣昭は昼夜奇兵を出して梁軍を撃ち、梁軍解けて去る。嗣昭復た汾・慈・隰を取る。是の時、鎮・定は皆已に晋を絶ちて梁に附す。晋は外に大国の援を失い、内に諸州を亡い、仍歳の間、孤城囲まるること再びす。この時に於いて、嗣昭の力戦の功多し。

天祐三年、周徳威とともに梁の潞州を攻め、丁会を降す。嗣昭を以て昭義軍節度使と為す。梁は李思安に兵十万を将いて潞を攻めしめ、夾城を築いて以てこれを囲む。梁の太祖嘗て人を遣わして嗣昭を招降せしむ。嗣昭はその使者を斬り、城を閉じて拒み守る。一年を踰え、荘宗始めて夾城を攻め破る。嗣昭は兵民を完緝し、撫養すること甚だ恩意有り。梁・晋、胡柳に戦う。晋軍敗れ、周徳威戦死す。荘宗懼れ、兵を収めて臨濮に還らんと欲す。嗣昭曰く、「梁軍已に勝ち、旦暮帰るを思う。吾若し軍を収め、彼をして休息せしめ、整いて復た出でば、何を以てこれに当たらん。宜しく精騎を以てこれを撓し、その労乏に因りて、以て勝つべし」と。荘宗これを然りとす。是の時、梁軍已に無石山に登る。荘宗は嗣昭を遣わして転じて山北を撃たしめ、而して自ら銀槍軍を以て趨りて呼びて曰く、「今日の戦い、山を得る者は勝つ」と。晋軍皆争いて山に登る。梁軍遽かに下り、山の西に陣す。晋軍は上より急撃し、大いにこれを破る。ここに於いて晋は徳勝に城す。周徳威死し、嗣昭は権めて幽州を知る。数ヶ月居りて、李紹宏を以てこれに代う。嗣昭将に去らんとす。幽州の人皆号哭し、関を閉めて遮り留む。嗣昭夜に遯れ、乃ち去るを得。

十九年、荘宗に従いて望都に於いて契丹を撃つ。荘宗は契丹に囲まれること数十重。嗣昭は三百騎を以て囲を決し、荘宗を取って出づ。是の時、晋は閻宝を遣わして鎮州に於いて張文礼を攻む。宝は鎮人に敗られ、乃ち嗣昭を以てこれに代う。鎮兵出でて九門を掠む。嗣昭は奇兵を以てこれを撃つ。鎮軍将に尽きんとす。余る三人破れたる垣中に匿る。嗣昭は馬を馳せてこれを射る。反って賊に射中てられて脳に及ぶ。嗣昭、箙の中の矢尽くるを顧み、脳より矢を抜き、一人を射殺し、還りて営にて卒す。

嗣昭の諸子、継儔は長じて懦し。その弟継韜、これを囚えて以て自立す。荘宗方に梁兵と河上に相持し、その事を究むる暇無し。因りて即ちこれをもって昭義軍留後と為す。継韜はその政を魏琢・申蒙に委ぬ。琢等は常に継韜を教えて反せしむ。継韜未だ決せず。荘宗魏に在り、事を以て監軍張居翰・節度判官任圜を召す。琢等以て謂う、荘宗は居翰等を召して継韜の事を問い、継韜将に見誅せられんと。因りて語を以てこれを趣す。継韜乃ちその弟継遠を遣わして梁に入らしむ。梁の末帝即ち継韜を拝して同中書門下平章事と為す。数ヶ月居りて、荘宗梁を滅ぼす。継韜将に契丹に走らんとす。会う赦至り、乃ち已む。因りてその母に随いて京師に朝す。継遠諫めて曰く、「兄は臣子と為り、反を以て名と為す。復た何の面を以て天子に見えん。且つ潞城は堅くして倉廩は実なり。城を閉じて坐して積粟を食い、以て歳月を延ばすに如かず。往きて就戮に就くに愈れるかな」と。継韜聴かず。継韜の母楊氏は、財を蓄えるに善く、平生居積行販し、貲百万に至る。当に嗣昭が梁に囲まれて夾城を以て一年を弥ぐる時、軍用乏絶す。楊氏の積み、蓋し助くる有り。ここに至りて、乃ち銀数十万両を齎して京師に至り、厚く宦官・伶人に賂る。宦官・伶人皆言う、「継韜初め悪意無く、姦人の悞れる所と為るのみ」と。楊夫人も亦賂を以て劉皇后に謁す。劉皇后為に言う、「嗣昭は功臣なり、宜しく恩貸を蒙るべし」と。ここに由りて荘宗は継韜を釈す。嘗て猟に従い、寵倖間無し。李存渥は尤も切歯し、数え詆責す。継韜は自ら安からざるを懐き、復た宦官・伶人に賂って帰鎮を求めしむ。荘宗許さず。継韜は陰かに人をして継遠に告げしめ、軍中に変を起こさしむ。天子の己を遣わして往き安緝せしめんことを冀う。事泄れ、天津橋に於いて斬らる。その二子は嘗て梁に質と為る。荘宗梁を破りてこれを得、その背を撫でて曰く、「爾幼し、猶おその父の反するを佐くることが能う。長じて復た何を為さん」と。ここに因りて幷せてこれを誅す。即ち人を遣わして継遠を斬り、継儔を以て潞州事を知らしむ。

やがて、継儔を召し還して京師に帰らせると、継儔は継韜の妓妾と珍玩をことごとく取り上げたが、すぐには出発しなかった。その弟の継達は怒って言った、「我が兄父子は誅殺されたのに、長兄は仁ならず、その財貨を利し、その妻妾を淫するとは、我が忍ぶところにあらず」と。そこで縗麻を服し、数百騎を率いて戟門に坐し、人を遣わして継儔を殺させた。節度副使李継珂が市人千余りを募って継達を攻め、継達は城外に走り、自ら剄して死んだ。

嗣昭には七人の子があったが、明宗の時に至り、子の継能が母の蔵を預かる婢を笞殺した罪に坐し、婢の家が変事を告げて、継能が謀反したと言い、その弟の継襲とともに皆殺され、ただ一人の子の継忠のみが辛うじて免れた。継忠は晋陽に家を構え、楊氏が積み残した余財はなお巨万に上り、晋の高祖こうそが太原より起兵し、契丹を召して援けと求めると、契丹は賂を求め、高祖は継忠から借りて足しとした。高祖が帝位に即くと、大いにその恩を感じ、沂・棣・単の三州刺史とし、開運年中に卒した。楊氏が平生に積んだ産は、嗣昭父子三人がこれに頼ったのである。

李嗣本

嗣本は、本来張氏を姓とし、雁門の人である。代々銅冶鎮の将であった。嗣本は若くして太祖に仕え、太祖はこれを愛し、姓名を賜い、養子とした。居庸関を撃つに従い、功により義児軍使に遷る。王行瑜を破るに従い、威遠軍使に遷る。羅弘信を攻めるに従い、先鋒の兵をもって湯陰を破る。荘宗に従って潞州の夾城を破る。累ねて戦功により代州刺史・雲州防禦使・振武節度使に遷り、威信可汗と号した。天祐十三年、荘宗に従って劉鄩を故元城に撃ち、洺・磁の諸州を下し、六月、軍を還して振武に至る。契丹が代北に入り、蔚州を攻め、嗣本は戦没した。

李嗣恩

嗣恩は、本来駱氏を姓とし、吐谷渾部の人である。若くして太祖に仕え、騎射に優れ、鉄林軍の将となり、次第に戦功により突陣指揮使に遷り、姓名を賜いられて子とされた。河西において康懐英を敗るに従い、左廂馬軍都指揮使に遷る。李嗣昭に従って河中において朱友謙を援け、梁軍と力戦し、矟がその口に中ったが、戦いを止めなかった。遼州刺史に遷る。荘宗に従って魏に入り、天雄軍馬歩都指揮使に遷る。劉鄩が太原を攻め、兵を楽平に向けると、嗣恩は後よりこれを追い、別の道より先に太原に入って守った。鄩の兵が去ると、嗣恩もまた兵を率いて魏において荘宗と会し、莘において戦うに従う。代州刺史・石嶺関以北都知兵馬使・振武節度使に遷る。天祐十五年、太原において卒した。太尉を追贈された。

李存信

存信は、本来張氏を姓とし、その父の君政は、回鶻の李思忠の部の人である。存信は若くして騎射に長け、四夷の語に通じ、六蕃の書に通じた。太祖に従って代北より起ち、関に入って黄巣を破り、累ねて功により馬歩軍都指揮使となり、ついに姓名を賜いられて子とされた。存信と存孝はともに養子であったが、材勇は存孝に及ばず、しかも存信はその下に立つことをせず、これにより交悪し、存孝のなすところを、存信は毎々沮害して激しめ、存孝はついに罪を得て死んだ。一方で存信は数々征伐に従い、功により郴州刺史を領した。太祖が将兵を遣わして朱宣を救わしめると、存信は莘県に屯し、羅弘信に撃たれて敗れ、太祖の子の落落を亡くした。後に太祖に従って劉仁恭を討ち、安塞において大敗した。太祖は大いに怒り、存信を顧みて言った、「昨日我は酔っていたが、公は我がために戦うことができなかったのか。古人に三敗ありというが、公はすでに二つである」と。これを殺そうとすると、存信は叩頭して謝罪し、免れた。これにより大いに懼れ、常に病と称し、天復二年に卒し、年四十一であった。

李存孝

存孝は、代州飛狐の人である。本来安氏を姓とし、名は敬思といった。太祖が代北を掠地してこれを得、帳中に給事せしめ、姓名を賜い、子とし、常に従って騎将とした。

文徳元年、河南の張言が河陽を襲撃して破り、李罕之が晋に帰順して来ると、晋は罕之を沢州に処し、存孝と薛阿檀・安休休らに兵七千を率いさせて罕之を助け、河陽を還撃させた。梁もまた丁会・牛存節らを遣わして言を助けた。温県において戦い、梁軍は先んじて太行を扼し、存孝は大敗し、安休休は捕らえられた。この時、晋はすでに沢・潞を得て、毎年山東に出て、孟方立と邢・洺・磁を争い、存孝は兵間に在らなかったことはなかった。方立が死ぬと、晋は三州を取り、存孝の功が多かった。

翌年、潞州の軍が乱を起こし、李克恭を殺して唐に帰すると、梁は李讜を遣わして李罕之を沢州において攻め、存孝は騎兵五千をもってこれを救った。梁軍は罕之に向かって呼びかけた、「公は常に太原を恃んで命としているが、今や上党はすでに唐に帰し、唐兵が大いに集まり、太原を囲んでいる。沙陀の将は穴を以て自ら処する所なく、公はまた誰を恃んで降らぬのか」と。存孝は精騎五百をもって、梁の柵を巡って呼ばわった、「我ら沙陀の穴を求める者、汝らの肉を待って軍に食わせん、肥える者を出して戦わせよ」と。梁のぎょう将鄧季筠が軍を率いて出戦すると、存孝は矟を舞わせてこれを擒え、李讜は敗走し、馬牢関まで追撃した。還って潞州を攻めた。唐は孫揆を潞州節度使としたが、揆は儒者で、梁の卒三千を衛兵とし、褒衣大蓋を着け、節を擁して先駆した。存孝は三百騎をもって長子の西崖谷間に伏せ、揆の軍が過ぎるのを伺い、横撃してこれを断ち、揆を擒えて帰った。初め、梁は葛従周・朱崇節を遣わして潞州を守らせて揆を待たせたが、揆が捕らえられたと聞き、皆棄てて去り、晋はついに潞州を再び取った。この時、張濬・韓建が晋を伐ち、陰地関を撃つと、晋は李存信・薛阿檀らをもって濬に当たらせ、別に存孝を趙城に軍させた。唐軍は陰地関において戦いに敗れ、濬は退いて晋州を保ち、韓建は絳州に走った。存孝は晋州を攻め、濬の兵が出戦するも、また敗れ、そこで壁を閉じて敢えて出なかった。存孝は去り、絳州を攻めた。濬・建は皆走った。

存孝は猿の如き腕を持ち、弓射に長け、身には重鎧を纏い、弓をゆみぶくろに納め、ほこを傍らに置き、手に鉄檛てっかを舞わし、陣中を出入りし、二騎を以て自ら従え、戦いたけなわなれば馬を換え、上下すること飛ぶが如し。初め、存孝が潞州を取った功績は最も多かったが、太祖は別に大将康君立を潞州留後とし、存孝を汾州刺史とした。存孝はその功を恃み、数日間食を絶った。張濬を走らせた後、邠州刺史に遷る。大順二年、邢州留後に移る。この時、晋軍は連年趙の常山を攻め、存孝は常に先鋒となり、趙の臨城・元氏を陥とした。趙王は幽州の李匡威に救援を求め、匡威の兵が至れば、晋軍は引き去った。存孝は平素より存信と不和であり、存信は讒して曰く、「存孝に二心あり、常に趙を避けて撃たず」と。存孝は自ら安からず、乃ち梁に附き趙に通じ、自ら唐に帰順し、因って兵を会して晋を伐つことを請うた。唐は趙王王鎔に命じてこれを援けしむ。翌年、趙は幽州と不和となり、懼れて晋と和し、却って兵三万を以て晋を助け存孝を撃つ。存孝は城に拠りて自ら守り、太祖自ら兵を将いてその城に迫り、塹壕を掘ってこれを囲む。存孝は兵を出して衝撃し、塹壕は成らざりき。裨将袁奉韜は人を遣わし存孝を説いて曰く、「公の畏るるは晋王のみ。王は塹壕成るを俟ち、且つ兵を留めて去らんとす。諸将は公の敵に非ず、塹壕有りと雖も何を為さん」と。存孝は然りと以為い、兵を縦して塹壕を成さしむ。塹壕成り、深溝高塁、近づくべからず、存孝遂に窮す。城中食尽き、城に登り呼んで曰く、「児は王の恩を蒙り、位将相に至る。豈に父子を捨て仇讐に附せんと欲せんや、乃ち存信の構陷する所なり。願わくは生きて王に一言を聞かせて死せん」と。太祖之を哀れみ、劉夫人を遣わし城に入りて慰諭す。劉夫人引きて俱に来たり、存孝泥首して罪を請い曰く、「児は晋に功有りて過無し。此に至る所以は、存信の為す所なり」と。太祖叱して曰く、「爾が書檄を作り、我を罪すること百端、亦た存信の為す所か」と。縛して後車に載せ、太原に至り、車裂きにして徇す。然れども太祖其の材を惜しみ、悵然として諸将の能く容れざるを恨み、之が為に視事せざること十余日。

康君立は素より存信と善くし、方に二人の交悪するや、君立は毎に存信を左右して之を傾けしむ。存孝既に死す、太祖諸将と博す。語存孝に及び、流涕已まず。君立以て然らずと為す。太祖怒り、酖殺す。君立初め雲州牙将たり。唐僖宗の時、段文楚を逐い、太祖と俱に雲中に起つ。蓋し君立首事たり。其の後累ね戦功を立て、昭義節度使を表し、存孝の故を以て之を殺す。

李存進

存進は振武の人なり。本姓は孫、名は重進。太祖朔州を攻破し之を得、姓名を賜い、子として養う。太祖に従い関に入り黄巢を破り、義児軍使と為す。

庄宗に従い柏郷に戦い、行営馬歩軍都虞候に遷り、慈・沁二州刺史を歴任す。庄宗初め魏博を得、天雄軍都部署と為し、梁の乱軍を治め、一切法を以てし、人犯有る者は、輒ち梟首磔尸して市にす。魏人は屏息して之を畏る。河上に戦い従い、功を以て振武軍節度使に遷る。是の時、晋軍徳勝に在り、南北の寨を為し、毎に舟兵を以て来往す。頗る以て労と為す。而して河北に竹石無し。存進乃ち葦苲を以て大艦を維ぎ浮橋と為す。庄宗大いに喜び、衣を解きて之を賜う。

晋、鎮州に於いて張文礼を討つ。久しく克たず。而して史建瑭・閻宝・李嗣昭相次いで戦歿す。乃ち存進を以て嗣昭に代わり招討使と為し、軍を東垣渡にす。東垣の土悪しく、壘を築くも就く能わず。存進木を伐り柵と為す。晋軍晨に出で芻牧す。文礼の子処球、兵千余を以て存進の柵に逼る。存進出でて橋上に戦い、処球の兵を殆んど尽く殺す。而して存進も亦た陣に歿す。太尉を追贈す。

子漢韶、明宗の時本姓に復し、洋州節度使と為る。潞王従珂、鳳翔を以て反す。漢韶、張虔釗と会し唐軍をして之を討たしむ。唐軍皆従珂に降る。独り漢韶と虔釗の軍降らず、俱にしょくに奔る。蜀に事え、永平・興元・武信節度使を歴任す。年七十余、蜀に卒す。

李存璋

存璋、字は徳璜。初め康君立・薛志勤等と太祖に従い関に入り、黄巢を破り、累遷して義児軍使と為る。太祖病革、璋は張承業等と顧命を受け、庄宗を立てて晋王と為す。晋王、存璋を河東馬歩軍使と為す。晋は先王の時より、嘗て軍士を優仮す。軍士多く法を犯し禁を踰ゆ。庄宗新に立ち、尤も之を患う。存璋一切之を法に縄し、境内之が為に清粛と為る。夾城を攻め従い、柏郷に戦い、功を以て汾州刺史に遷る。庄宗、劉鄩と魏博に戦う。梁、王檀を遣わし来たり、虚に乗じて太原を襲う。存璋、汾州の兵を以て太原に入り距守し、功を以て大同軍防禦使に遷り、遂に節度使と為る。天祐十九年、疾を以て卒す。太尉を追贈す。

存賢

存賢は許州の人なり。本姓は王、名は賢。少く軍卒と為り、角觝に善し。太祖、陳州に於いて黄巢を撃ち之を得、姓名を賜い、子として養う。後ち義児軍副兵馬使と為り、沁州刺史に遷る。先ず、沁州は敵衝に当たり、其の南百余里に徙し、険に拠り柵を立てて寓居す。存賢刺史と為るに至り、曰く、「城を徙し敵を避くるは、豈に勇者の為す所ならんや」と。乃ち故州に城を復す。梁兵屡之を攻む。存賢力を尽くして自ら距守し、卒に近づく能わず。武州刺史・山北団練使に遷り、又慈州に遷る。

天祐十八年、梁兵、河中に於いて朱友謙を攻む。庄宗、存賢を遣わし友謙を援けしむ。是の時、友謙新たに梁に叛き晋に帰す。而して河中食少なく、人心多く貳す。諜者因り存賢に謂いて曰く、「河中の人、子を殺して梁に帰せんと欲す。宜しく亟に去るべし」と。存賢曰く、「王事に死するは、吾が志なり。復た何を恨みんや」と。卒に梁兵を撃走す。

庄宗即位し、右武衛上將軍を拝す。庄宗も亦た角觝を好み、嘗て王と較べて屡勝ち、頗る以て自ら矜る。因り顧みて存賢に曰く、「爾能く我に勝たば、爾に一鎮を与えん」と。存賢搏ちて之に勝つ。同光二年春、幽州の符存審病む。庄宗酒を宮中に置き、歎じて曰く、「吾が創業の故人、零落殆んど尽く。其の存する者は惟だ存審のみ。今又病篤し。北方の事誰か之に代わる可き」と。因り顧みて存賢に曰く、「以て卿に易うる無し。角觝の勝、吾食言せず」と。即日に盧龍軍節度使と為す。是歳、幽州に卒す。年六十五。太傅を贈る。