目次
【序】
翌年三月、唐の哀帝は梁に位を譲り、中書侍郎・同中書門下平章事張文蔚を冊礼使とし、礼部尚書蘇循を副使とした。中書侍郎・同中書門下平章事楊涉を押伝国宝使とし、翰林学士・中書舎人張策を副使とした。御史大夫薛貽矩を押金宝使とし、尚書左丞趙光逢を副使とした。四月甲子、文蔚らは上源駅より冊宝を奉じ、輅車に乗り、金吾仗衛・太常鹵簿を導きとし、金祥殿において梁に朝した。王は袞冕を着て南面し、臣文蔚・臣循は冊を奉じて殿に昇り、読み進め終わると、臣涉・臣策は伝国璽を奉じ、臣貽矩・臣光逢は金宝を奉じ、順次昇殿し、読み進め終わると降り、文武百官を率いて北面し舞蹈して再拝し賀した。
そもそも一つの太常卿と社稷と、どちらが重いであろうか。枢らが死なずにいたならば、尚お一卿を惜しんだであろう、どうして国を人に与えようか。枢らの力では必ずしも唐を存続できなかったであろうが、しかし必ずや唐を滅ぼして自分だけが生き残るようなことはなかったであろう。ああ、唐の滅亡にあたり、賢人君子は既にこれと共に尽き、その余り残った者は皆、凡庸で懦弱な不肖の者、傾いて険悪で狡猾、利に趨り国を売る徒であった。そうでなければ、どうしてこのように梁の朝廷において恥を蒙り辱を忍ぶことができようか。唐六臣伝を作る。
張文蔚
張文蔚、字は右華、河間の人である。初め文行をもって知名となり、進士に挙げられ及第した。唐の昭宗の時、翰林学士承旨となった。この時、天子は微弱で、制度は既に廃れていたが、文蔚は翰林に居て、四方に制詔を下すに、独り大体を守った。昭宗が洛陽に遷ると、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。柳璨が裴枢ら七人を殺し、朝士を蔓引しては誅殺を加え、縉紳は目をもって互いに見合わせ、皆自ら保つことができなかったが、文蔚は力を尽くしてこれを講解し、朝士は多くこれにより全活を頼んだ。
楊涉
子の凝式は、文詞があり、筆札を善くし、梁・唐・晋・漢・周に歴事し、常に心疾により致仕し、洛陽に居住した。官は太子太保に至った。
張策
趙光逢
趙光逢は字を延吉といい、父の隠は唐の左僕射である。光逢は唐において文行をもって知られ、当時の人はその方正で温潤なさまを称し、「玉界尺」と言った。昭宗の時に翰林学士承旨・御史中丞となり、世の乱れにより官を棄て、洛陽に住み、門を閉ざして人事を絶つこと五六年であった。柳璨が相となると、光逢とは旧恩があり、光逢を起して吏部侍郎・太常卿とした。
唐が滅び、梁に仕えて中書侍郎・同中書門下平章事となり、累遷して左僕射となり、太子太保をもって致仕した。末帝が即位すると、起して司空・同中書門下平章事とし、再び司徒をもって致仕した。唐の天成年中、その家において太保に拝し、斉国公に封ぜられ、卒し、太傅を贈られた。
薛貽矩
蘇循(杜曉を附す)
蘇循は、何許の人か知れない。人となり巧佞で、阿諛に廉恥なく、ただ利に趨くのみであった。唐に仕えて礼部尚書となった。この時、太祖はすでに昭宗を弑し、哀帝を立てた。唐の旧臣は皆憤惋して歯ぎしりし、あるいは首を垂れて禍を畏れ、あるいは去って仕えず、しかし循は特に梁に附会して進用を希った。梁の兵が楊行密を攻め、渒河で大敗すると、太祖は躁忿し、禅代を急ぎ、唐の九錫を邀えようとした。群臣はその議を敢えて承ける者なく、ただ循が唱えて言った、「梁王の功德、天命の帰する所、まさに即時に禅を受けよ」と。翌年、梁の太祖が即位すると、循は冊礼副使となった。
循には子の楷があり、乾寧年中に進士に挙げられ及第したが、昭宗が学士陸扆に覆落させたので、楷は常に慚恨していた。昭宗が弑害に遇い、唐の政が梁より出ると、楷は起居郎となり、柳璨・張廷範等と結び、廷範に言った、「謚というものは、名を易えて信を貴ぶ所以である。先に有司が先帝を『昭』と謚したが、名実相称せず。公は太常卿、予は史官である。言わざるべからず」と。そこで上疏して駁議した。廷範はもと梁の客将で、かつて太常卿を求めて得られなかった者であり、廷範もまたこれにより唐を怨んでいたので、楷の疏を廷範に下すと、廷範は議して言った、「臣聞く、執事堅固なるを恭と謂い、乱れて損なわざるを霊と謂い、武にして遂げざるを荘と謂い、国に難に逢うを閔と謂い、事に因り功あるを襄と謂う。昭宗皇帝の謚を改めて恭霊荘閔皇帝とし、廟号を襄宗とせんことを請う」と。
梁の太祖が即位すると、玄徳殿に酒宴を設け、群臣を顧みて自ら徳薄くして天命に当たるに足らず、皆諸公の推戴の力なりと陳べた。唐の旧臣楊涉・張文蔚等は皆慚懼して俯伏し対えることができず、ただ循と張禕・薛貽矩が盛んに梁王の功德、天に順い人に応ずる所以を称した。循父子は皆自ら梁に附会して託す所を得たとし、朝夕首を引き、進用を見んことを希った。敬翔は特にこれを憎み、太祖に言った、「梁室新たに造らる。まさに端士を得て風俗を厚くすべし。循父子は皆無行なり。新朝に立つべからず」と。ここにおいて父子は皆田舎に帰ることを命ぜられ、そこで朱友謙に依って河中に住んだ。その後、友謙が梁に叛き晋に降ると、晋王が即位せんとし、唐の故臣で存する者を求め、百官の欠を備えようとしたので、友謙は循を魏州に遣わした。この時梁は未だ滅びず、晋の諸将相は多く晋王の即帝位を欲しなかった。晋王の意は鋭いものの、将相大臣には未だその議に賛成する者なかった。循が初めて魏州に至り、州廨の聴事堂を見るや即座に拝し、これを「拝殿」と言った。入謁すると、蹈舞して万歳を呼び臣と称したので、晋王は大いに悦んだ。明日また「画日筆」三十管を献じたので、晋王はますます喜び、そこで循を節度副使とした。やがて病没した。荘宗が即位すると、左僕射を贈られた。
楷は、同光年中に尚書員外郎となった。明宗が即位すると、大臣がその駁謚の罪を理めようとしたので、憂い死した。
杜曉 附
【贊】
嗚呼、朋黨の論を始めた者は誰か。人形を殉葬に用いるより甚だしい、真に不仁の人と言うべきであろう。私はかつて繁城に至り魏の受禅碑を読み、漢の群臣が魏の功德を称え、大書深刻して自らその姓名を列ね、世に誇耀するのを見た。また梁の実録を読み、文蔚らの為したことがこのようであるのを見て、未だ嘗てこれがために涙を流さざることはなかった。国を人に与えて自ら誇耀し、遂にその宰相となる、これ小人でなくして誰が能く為そうか。漢・唐の末、その朝を挙げて皆小人であり、その君子は何処に在ったか。漢の亡びる時、先ず朋黨を以て天下の賢人君子を禁錮し、その朝に立つ者は皆小人であり、然る後漢従って亡んだ。唐の亡びるに及んで、また先ず朋黨を以て朝廷の士を尽く殺し、その余り存する者は皆庸懦不肖の傾險の人であり、然る後唐従って亡んだ。
人の国を空しくしてその君子を去らんと欲する者は、必ず朋黨の説を進め、人主の勢いを孤にしてその耳目を蔽わんと欲する者は、必ず朋黨の説を進め、国を奪いて人に与えんと欲する者は、必ず朋黨の説を進める。君子たる者は、故に嘗て過ち少なく、小人これに罪を加えんと欲すれば、則ち誣うべきもの有り、誣うべからざるもの有りて、遍く及ぶ能わず。天下の善を挙げてその類を求め尽く去らんと欲するに至っては、ただ指して朋黨と為すのみ。故にその親戚故旧、これを朋黨と謂う可く、交游執友、これを朋黨と謂う可く、宦学相同、これを朋黨と謂う可く、門生故吏、これを朋黨と謂う可し。この数者は皆その類にして、皆善人なり。故に曰く、人の国を空しくしてその君子を去らんと欲する者は、ただ朋黨を以てこれを罪すれば、則ち免るる者無し。善と善と相楽しむは、その類同じきを以てする、これ自然の理なり。故に善を聞けば必ず相称誉し、称誉すれば則ちこれを朋黨と謂い、善を得れば必ず相薦引し、薦引すれば則ちこれを朋黨と謂う。人をして善を聞きて敢えて称誉せず、人主の耳下に善有るを聞かず、善を見て敢えて薦めず、則ち人主の目善人を見るを得ず。善人日々に遠ざかり、小人日々に進めば、則ち人主たる者、倀倀然として誰とこれと治安の計を図らんや。故に曰く、人主の勢いを孤にしてその耳目を蔽わんと欲する者は、必ず朋黨の説を用いる。一君子存すれば、群小人衆く雖も、必ず忌む所有りて敢えて為さざる所あり、ただ国を空しくして君子無くして、然る後小人志を肆にして為さざる無きを得る、則ち漢魏・唐梁の際これなり。故に曰く、国を奪いて人に与うる可きは、その国君子無きに由り、国を空しくして君子無きは、朋黨を以てこれを去るに由る。
嗚呼、朋黨の説、人主察す可からざるか。
伝に曰く「一言以て邦を喪う可し」とは、これこれを謂うか。鑒とす可からざるか。戒めざる可からざるか。