新五代史

巻三十四

嗚呼、五代の乱は極まれり、伝に所謂「天地閉ざされ、賢人隠る」の時なるか。この時に当たりては、臣その君をしいし、子その父を弑し、而して搢紳の士、その禄に安んじてその朝に立ち、充然として復た廉恥の色なき者は皆是なり。吾は謂う、古より忠臣義士は多く乱世に出づと。而して怪しむ、当時道うべき者何ぞ少なきや、豈に果たしてその人無きならんや。干戈興り、学校廃れ、礼義衰え、風俗隳壊し、ここに至るとは雖も、然れども古より天下未だ嘗て人無きこと有らず。吾意うらには、必ずや潔身自負の士、世を嫉み遠く去りて見るべからざる者あらん。古より材賢、中に韞まれれて外に見えざる有り、或いは窮居陋巷し、身を草莽に委ね、顔子の行といえども、仲尼に遇わざれば名彰れず、況んや世変多く故有り、君子の道消ゆる時をや。吾また以て謂う、必ずや材能を負い、節義を修め、而して下に沈淪し、泯沒して聞こえざる者あらん。これを伝記に求めんとすれども、乱世崩離し、文字残欠して、復た得べからず。然れども僅かに得る者四五人に過ぎず。

山林に処りて麋鹿に群れんは、中道と為すに足らざるとは雖も、然れども人の禄を食み、首を俛めて羞を包むに若くは、心に愧じること無く、身を放ちて自得するにしかず。吾二人を得たり、曰く鄭遨、張薦明。勢利その心を屈せず、去就義に違わず、吾一人を得たり、曰く石昂。苟くも君に利すれば、忠を以て罪を獲るも、何ぞ必ずしも自ら明かすを要せん、死に至るまで言わざる者有り、これ古の義士なり、吾一人を得たり、曰く程福贇。五代の乱、君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらず、兄弟・夫婦人倫の際に至るまで、大いに壊れざる無く、天理ほとんど其れ滅せんとす。この時に当たりて、孝悌を以て一郷に自ら修め、而して天下に行わるる者、猶ほ或いはこれ有らん、然れどもその事跡著わさず、紀次すべき無し。独りその名氏或いは書に見ゆるに因る者、吾も敢えて没せず、而してその略録すべき者、吾一人を得たり、曰く李自倫。一行伝を作る。

鄭遨

鄭遨、字は雲叟、滑州白馬の人なり。唐の明宗の祖、廟諱遨なり、故に世その字を行わる。遨、少しく学を好み、文辞に敏なり。唐の昭宗の時、進士に挙げられて中らず、天下既に乱れたるを見て、拂衣遠去の意有り、その妻・子を携えて俱に隠れんと欲す。その妻従わず、遨乃ち少室山に入りて道士と為る。その妻数たび書を以て遨を勧めて家に還らしめんとす、輒ちこれを火に投ず。後にその妻・子卒せりと聞き、一慟して止む。

遨は李振と故より善し、振後に梁に事えて貴顕たり、遨に禄を以てせんと欲す。遨顧みず。後に振罪を得て南に竄す、遨歩行千里にして往きてこれを省みる。ここより聞く者益々その行を高しとす。

その後、遨聞く、華山に五粒松有り、脂地に淪ち入り、千歳して薬と化し、能く三尸を去ると。因りて華陰に徙り居し、これを求めんと欲す。道士李道殷・羅隠之と友善し、世目して三高士と為す。遨は田を種い、隠之は薬を売りて自給し、道殷は釣魚の術有り、鈎して餌せず、又能く石を化して金と為す。遨嘗てその信然なるを験すれども、これを求めず。節度使劉遂凝数たび宝貨を以てこれに遺う、遨一も受けず。唐の明宗の時、左拾遺を以て、晋の高祖こうその時、諫議大夫を以てこれを召す、皆起たず。即ち号を賜いて逍遙先生と曰う。天福四年卒す、年七十四。

遨の節高し、乱世に遭いて栄利に汚されず、妻・子を棄て顧みずして去るに至るは、豈に世と自ら絶ちてその身を篤く愛する者に非ずや。然れども遨は酒を飲み棊を奕するを好み、時時詩章を作りて人間に落つ。人間多く縑素に写し、相贈遺して宝と為し、或いはその形を図写し、屋壁に玩ぶに至る。その跡は遠しと雖もその名は愈々彰る、石門・荷蓧の徒と異なること有り。

附 張薦明

遨と同時の張薦明なる者、燕の人なり。少く儒学を以て河朔に遊び、後去りて道士と為り、老子・荘周の説に通ず。高祖召見し、問う、道家は以て国を治むべしや、と。対えて曰く、「道というものは、万物を妙として言と為し、その極を得る者は、尸居袵席の間に在りて天地を治むべし。」高祖その言を大とし、内殿に延いて入れて道德経を講ぜしめ、拝して師と為す。薦明、宮中にて時鼓を奏するを聞きて曰く、「陛下鼓を聞くか。その声一のみなり。五音十二律、鼓に一も無し。然れどもこれを和する者は鼓なり。夫れ一は万事の本なり、一を能く守る者は以て天下を治むべし。」高祖これを善しとし、号を賜いて通玄先生と曰う。後その終わる所を知らず。

石昂

石昂、青州臨淄の人なり。家に書数千巻有り、四方の士を延ぶるを喜び、士遠近無く、多く昂に就きて学問し、その門下に食する者或いは累歳す、昂未だ嘗て怠色有らず。而して昂は仕進を求めず。節度使符習その行を高しとし、召して臨淄令と為す。習朝に入りて京師に詣づ。監軍楊彦朗留後事を知る。昂公事を以て府に至り謁す。賛者彦朗の諱「石」を以て、その姓を改めて「右」と曰う。昂庭に趨り、仰ぎて彦朗を責めて曰く、「内侍奈何ぞ私を以て公を害せん。昂の姓は『石』なり、『右』に非ず。」彦朗大いに怒り、衣を拂いて起ち去る。昂即ち趨り出づ。官を解きて家に還り、その子に語りて曰く、「吾本より乱世に仕うるを欲せざりしが、果たして刑人に辱しめらる。子孫其れ我を以て戒めよ。」

昂の父もまた学を好み、平生仏説を喜ばず。父死す、昂柩の前に於いて尚書を誦し、曰く、「これ吾が先人の聞かんと欲する所なり。」その家に禁じて仏事を以て吾が先人を汚すべからずとす。

晉の高祖の時、詔して天下に孝悌の士を求めしめしに、戸部尚書王權、宗正卿石光贊、國子祭酒田敏、兵部侍郎王延等相與ひて東上閤門に詣で、翟昂の行義詔に應ずべきを上る。詔して昂を京師に至らしめ、便殿に召見し、以て宗正丞と為す。少卿に遷る。出帝即位し、晉の政日を追ひて壞れ、昂數たび上疏して極諫すれども聽かず、乃ち疾と稱して東に歸り、壽を以て家に終る。昂既に去りて、而して晉室大亂す。

程福贇

程福贇は、其の世家を知らず。人となり沈厚にして寡言、而して勇有り。少く軍卒と為り、戰功を以て累遷して洺州團練使と為る。晉の出帝の時、奉國右廂都指揮使と為る。開運中、契丹寇し入り、出帝北征し、奉國軍士隙に乘じて夜火を縱ち營を焚き、因りて以て亂を為さむと欲す。福贇身を以て火を救ひ傷つけられ、火滅して亂者發するを得ず。福贇契丹將に大至せんとし、而して天子軍中に在り、京師虛空なるを以て、宜しく小故を以て人の聽を動搖すべからずと為し、因りて其の事を匿して以て聞えしめず。軍將李殷位福贇の下に次ぎ、其の去りて之に代はらんことを利し、因りて誣ひて福贇亂者と同謀なりとし、然らずば何を以て奏せざるやとす。出帝福贇を獄に下し、人皆冤しと為すも、福贇終に自ら辨せずして殺さるるを見る。

李自倫

李自倫は、深州の人なり。天福四年正月、尚書戸部奏す、「深州司功參軍李自倫六世同居し、敕を奉じて格に准ず。格を按ずるに、孝義旌表は、必ず先づ按驗を加へ、孝者は其の終身を復し、義門仍ほ旌表を加ふ。本州の審して到る所の鄉老程言等の稱するを得るに、自倫の高祖訓、訓生みて粲、粲生みて則、則生みて忠、忠生みて自倫、自倫生みて光厚、六世同居して妄らならず」と。敕して以て其の居る所飛鳧鄉を孝義鄉と為し、匡聖里を仁和里と為し、式に准じて門閭を旌表す。

九月丙子、戸部復た奏す、「前登州の義門王仲昭六世同居し、其の旌表に聽事、步欄有り、前に屏を列ね、烏頭正門を樹て、閥閱一丈二尺、烏頭二柱の端瓦桶を以て冒し、雙闕一丈を築き、烏頭の南三丈七尺に在り、槐柳を夾みて樹て、十有五步、請ふらくは之の如くせんと」と。敕して曰く、「此れ故事なり、令式には之無し。其れ地の宜しきを量り、其の外門を高くし、門に綽楔を安んじ、左右に臺を建て、高一丈二尺、廣狹方正之に稱し、白を以て圬し而して其の四角を赤くし、孝ならず義ならざる者をして之を見しめ、以て心を悛めて行ひを易へしめん」と。