新五代史

巻三十三

目次

ああ、はなはだしいことよ。開平より顕徳に至るまで、五十三年の間、天下は五代に分かれ、士の不幸にしてこの時に生まれ、その節を全うして二心なからんと欲する者は、もとより少なかった。この時に当たり、士に死を求め、必ず去ることを責めれば、天下に士無きに至るであろう。しかしその習俗は、ついに苟くも生きて去らざることを当然とするに至った。儒者に至っては、仁義忠信を学とし、人の禄を享け、人の国に任ずる者が、その存亡を顧みず、皆恬然として苟生を得たりとする。ただ愧を知らぬのみならず、かえってその得たるを栄えとする者は、数え尽くすことができようか。故に私は死事の臣について、取るべきところがある。君子の人に臨むや、その美を成すを楽しみてその備わりを求めず、まして死は人の難きところである。私は五代において、全節の士三人を得たに過ぎない。その初めは卓然たる節なく、終わりに人の事に死する者、十五人を得たり。しかして戦没する者は与からず。しかし私は王清、史彦超を取るのは、それに旨があるからである。それに旨があるからである。死事伝を作る。

張源徳

張源徳は、その家系を知らず、あるいはもと晋の人であるという。若くして晋に仕え、称すべきところなし。李罕之に従い潞州をもって晋に叛き梁に降る。罕之は源徳をして梁の太祖に見えしむ。太祖の時、源徳は金吾衛将軍より蔡州刺史となる。

梁の貞明三年、魏博節度使楊師厚卒す。末帝は魏・相等六州を分かちて両鎮とし、魏軍の従わざるを懼れ、劉鄩に兵一万を将いて魏に屯し、変を虞れしむ。魏軍果たして叛き、その節度使賀徳倫を迫りて魏・博二州をもって晋に降る。この時、源徳は劉鄩のために貝州を守る。晋王、魏に入る。諸将は先ず貝州を撃たんと欲す。晋王曰く、「貝城は小さくして堅く、これを攻むればたちまち下し難し。かつ源徳は劉鄩の兵を恃むといえども、滄州と首尾相応ず。今、德州はその中に居りて備えなし。先ずこれを取るに如かず。然らば則ち滄・貝の勢分かれて図り易からん」と。乃ち先ず襲い德州を破り、然る後に兵五千をもって源徳を攻む。源徳は堅く守りて下らず。晋軍は塹を築きてこれを囲む。

やがて劉鄩、故元城に大敗し、南に走りて黎陽に至る。晋軍は洺州を攻め破り、衛州刺史来昭・邢州節度使閻宝は皆城をもって晋に降る。磁州刺史靳昭・相州張筠・滄州戴思遠は皆城を棄てて走る。この時、晋はすでに先んじて全燕を下し、鎮・定は皆晋に附す。河以北、山以東、四面千里、六鎮数十州の地は皆晋に帰す。ただ貝一州のみ、これを囲むこと一年を踰えても下すこと能わず。源徳の守り既に堅く、貝人は晋すでに河北を尽く有するを聞き、城中の食いよいよ尽きんとす。乃ち源徳を勧めて出降せしむ。源徳従わず、遂に殺さる。

源徳既に死す。貝人は謀りて曰く、「晋、吾を囲むこと久し。吾、窮して後に降らば、皆免れざるを懼る」と。乃ち晋に告げて曰く、「吾ら甲を被り兵を執りて降らんと欲す。赦を得て後にこれを釈かん。いかん」と。晋軍諾す。貝人三千出でて降る。既に甲を釈く。晋兵は四面より囲みて尽くこれを殺す。

夏魯奇

夏魯奇、字は邦傑、青州の人なり。唐の荘宗の時、姓名を賜わりて李紹奇と曰う。その後、荘宗の姓名を賜わりし者は、皆その故に復す。

魯奇、初め梁に事えて宣武軍校と為り、後に晋に奔り、衛護指揮使と為る。周徳威に従い劉守光を幽州に攻む。守光の将たる単廷珪・元行欽はぎょう勇を以て自ら負う。魯奇、毎に二将と鬬うときは、輒ち解くこと能わず。両軍は皆兵を釈きてこれを観る。

晋すでに魏博を下す。梁の将劉鄩、洹水に軍す。荘宗、百騎をもって敵を覘う。鄩の伏兵に遇い、数重にこれを囲まれる。幾くんか脱することを得ず。魯奇力戦し、手ずから百余人を殺し、身に二十余瘡を受け、荘宗とともに囲みを決して出づ。荘宗ますますこれを奇とし、磁州刺史と為す。中都に戦い従い、王彦章を擒う。荘宗これを壮とし、絹千匹を賜い、鄭州防禦使を拝す。河陽節度使に遷る。政に恵愛有り。鎮を忠武に徙む。河陽の人は遮り留めて行くことを得ず。父老、京師に詣りて留まることを乞う。明宗、中使を遣わして往き諭さしむ。魯奇乃ち去ることを得たり。

唐の師、荊南を伐つ。魯奇を以て招討副使と為す。功無くして還る。鎮を武信に徙む。東川の董璋反す。遂州を攻む。魯奇、城を閉じてこれを拒ぐ。旬月、救兵至らず。城中の食尽きる。魯奇自刎して死す。年四十九。

姚洪

姚洪は、もと梁の小校であった。董璋が梁の将であった時より、洪は嘗て璋に仕え、後に唐に仕えて指揮使となった。

長興年中、洪を遣わして千人を率い閬州を戍らしめた。董璋が反すると、人を遣わして書を以て洪を招いたが、洪は璋の書を得るや、直ちに厠中に投げ捨てた。後に璋の兵が閬州を攻め破り、洪を捕らえると、璋は言った、「汝は健児である。我は汝を厚く遇した。何ぞ我に背くのか」と。洪は罵って言った、「老賊め、汝は昔、李七郎の奴隷となり、馬糞を掃き、一片の残り炙りを得て、恩を感ずるに已まなかった。今天子は汝を用いて節度使となした。何ぞ苦しんで反するのか。我は国家のために死すべく、人奴に従い生きる能わず」と。璋は怒り、鑊を前に燃やし、壮士十人に命じてその肉を刲り取って食わせた。洪は死に至るまで大声で罵った。明宗はこれを聞き涙を流し、その二子を録用し、厚くその家を恤った。

王思同

王思同は、幽州の人である。その父の敬柔は、劉仁恭の女を娶り、思同を生んだ。思同は仁恭に仕えて銀胡䩮指揮使となり、仁恭がその子の守光に囚われた時、思同は晋に奔り、飛勝指揮使とされた。梁と晋が莘に対峙した時、思同を遣わして楊劉に堡塁を築かせ、功により神武十軍都指揮使に遷り、累遷して鄭州防禦使となった。思同は人となり敢勇にして、騎射を善くし、学を好み、頗る詩を作るを喜び、財を軽んじ義を重んじ、多く文士を礼したが、然れども未だ嘗て戦功は無かった。

明宗の時、久しく在任したことを以て匡国軍節度使とし、雄武に移鎮した。この時、吐蕃が数度寇掠し、秦州には亭障が無かったので、思同は四十余りの柵を列ねてこれを防いだ。五年居て、来朝し、明宗が辺事を問うと、思同は山川を指画し、その利害を陳べた。思同が去ると、明宗は左右を顧みて言った、「人は思同は事を管せずと言うが、能くかくの如くせんや」と。ここに於いて初めてその材を知り、右武えい上將軍・京兆尹・西京留守とした。石敬瑭が董璋を討つに当たり、思同は先鋒指揮使となり、兵は剣門に入ったが、後軍が続かず、思同は璋と戦い、勝たずして退いた。敬瑭の兵が罷むと、思同は山南西道に移鎮し、已にして再び京兆尹・西京留守となった。

応順元年二月、潞王従珂が鳳翔で反し、馳檄を四隣に飛ばし、姦臣が先帝の疾病に乗じ、秦王を賊殺して幼嗣を立て、宗室を侵弱し、藩方を動揺させたと述べ、己が兵を興して乱を討つ所以の状を陳べた。因って伶奴の安十十を遣わし五絃を携えて思同に謁せしめ、その歓を因りて意を通ぜんとした。この時、諸鎮は皆向背を懐いており、得た潞王の書檄は、上聞にはするも、その使者を絶たなかった。独り思同は十十及び従珂の遣わした推官郝詡等を執らえて京師に送った。愍帝はその忠を嘉し、即ち思同を西面行営馬歩軍都部署とした。三月、諸鎮の兵を会して鳳翔を囲み、東西の関城を破った。従珂の兵は弱いが守りは甚だ堅く、外兵の傷死者は多く、従珂は城に登り外兵を呼んで泣いて言った、「我は先帝に従うこと二十年、大小数百戦、甲は解けず、金瘡は身に満ち、士卒は固より嘗て我に従った。今、先帝新たに天下を棄てたのに、朝廷は姦人を信用し、骨肉を離間する。我は実に何の罪あって伐たれるのか」と。因って慟哭した。これを聞いた士卒は皆、悲しみ憐れんだ。興元の張虔釗が城西を攻め、督戦甚だ急であったので、士卒はこれを苦しみ、兵を返して虔釗を攻め、虔釗は走った。羽林指揮使楊思権が呼ばわって言った、「潞王は我が主なり」と。乃ち軍を率いて西門より入り従珂に降った。而して思同は未だ知らず、猶督戦していた。嚴衞指揮使尹暉はその衆に麾して言った、「城西の軍は城に入り賞を受けた。何ぞ戦を用いん」と。士卒は甲を解き仗を棄て、声は数里に聞こえ、遂に皆城に入り降った。諸鎮の兵は皆潰走した。思同は身を挺して走り、長安ちょうあんに至ったが、西京副留守劉遂雍は門を閉ざして納れず、乃ち潼関に走った。従珂は兵を率いて東し、昭応に至り、前鋒が追いかけて思同を捕らえた。従珂は責めて言った、「罪は逃れ得るか」と。思同は言った、「王に従えば生を得るを知らざるに非ず、終に死して地下に先帝を見る能わざるを恐れるのみ」と。従珂はその言を媿じて、乃ちこれを殺した。漢の高祖こうそが即位すると、侍中を贈った。思同が東走し、将に自ら天子に帰らんとしたのは、元行欽の走り方とは異なる。故にその死を許す。

張敬達

張敬達、字は志通、代州の人である。小字を生鐵という。少より騎射を以て唐の荘宗に仕え、廳直軍使となった。明宗の時、河東馬歩軍都指揮使となり、欽州刺史を領し、累遷して彰国・大同軍節度使となり、武信・晋昌に移鎮した。

清泰二年、契丹が数度辺境を犯したので、廃帝は河東節度使石敬瑭に大同・彰国・振武・威塞等軍蕃漢馬歩軍都総管を兼ねさせ、忻州に屯させた。屯兵が集まって騒ぎ、敬瑭を遮って「万歳」と呼んだので、敬瑭は三十余人を斬ってこれを止めた。廃帝は敬瑭に異志あるを疑い、乃ち敬達を北面副総管として、その兵を分かたしめた。明年の夏、敬瑭を天平に移鎮させ、遂に敬達を大同・彰国・振武・威塞等軍蕃漢馬歩軍都部署とし、敬瑭はこれにより遂に反した。即ち敬達を太原四面招討使とした。六月、兵を以て太原を囲み、敬達は長城を連ね柵とし、雲梯飛礮を以てこれを攻めた。為す所の城柵将に成らんとする度に、輒ち大風雨水が暴至してこれを壊した。

敬瑭は契丹に救援を求めた。九月、契丹の耶律徳光が鴈門より入り、旌旗相属すること五十余里に及んだ。徳光は先ず人を遣わして敬瑭に告げて言った、「我は今日敵を破らんと欲する。可ならんか」と。敬瑭は報じて言った、「大兵遠来し、而して賊の勢い方に盛んである。要は成功に在り、速きを必ずしもせず」と。使者未だ復命せざるに、兵已に交わった。敬達は西山に陣し、契丹は羸騎三千を以て、革鞭木𩍐、人馬皆甲冑を着けず、唐軍に向かって趨った。唐軍は争ってこれを馳せ、契丹兵は走り、汾曲まで追うと、伏兵が発し、唐軍を断って二つとし、その北に在る者は皆死に、死者は万余人に及んだ。敬達は軍を収めて晋安に柵し、契丹はこれを囲んだ。廃帝は趙延壽・范延光等を遣わしてこれを救わしめた。延壽は団柏谷に屯し、延光は遼州に屯し、相去ること皆百余里であった。契丹の敬達を囲む兵は、晋安寨より南に、長さ百余里、闊さ五十里に及び、敬達の軍中よりこれを望むと、但だ穹廬が連属して岡阜の如く、四面に毛索を亘らせ、鈴を掛けて警とし、犬を放ち往来するのみであった。敬達の軍中に夜出する者あれば、輒ち契丹の得るところとなり、これにより閉壁して敢えて復た出でず。延寿等は皆二心あり、敬達を救う意無し。敬達は猶ほ兵五万人、馬一万匹有り、久しくして食尽き、木を削り糞を篩いてその馬に飼い、馬の死する者はこれを食い、已にして馬尽きた。副招討使楊光遠は敬達に晋に降るを勧めた。敬達は自ら唐に背くに忍びず、而して救兵将に至らんとするを以てしたが、光遠の促すこと已まず、敬達は言った、「諸公何ぞ相迫るや。何ぞ我を殺して降らざる」と。光遠は即ち敬達を斬って降った。契丹の耶律徳光は敬達の死を聞き、その忠を哀しみ、人を遣わして収葬させた。本紀は、光遠を誅せずしてその殺己くして賊に降るを諷したことを責む。故に死と書かずしてその志の如くに書く。而して伝にその死を録するは、終にその降らざるを嘉するなり。然れども己は屈せざるも人を諷して賊に降らしむ。故に死節と為すを得ず。

翟進宗張萬迪を附す。

翟進宗と張萬迪は、いずれもその出自を知る由もない。初めは唐に仕え、後に晉に仕え、進宗は淄州刺史となり、萬迪は登州刺史となった。楊光遠が反乱を起こすと、騎兵百騎を以て二刺史を脅迫して青州に連行し、萬迪は命に従ったが、進宗のみは屈せず、光遠は遂に進宗を殺した。出帝は進宗を左武衞上將軍に追贈した。光遠が平定された後、青州を曲赦したが、光遠の子孫さえも慰撫して赦免されたのに、萬迪のみは赦さず、その罪を暴いて斬った。詔して進宗の屍を求め、礼を加えて帰葬させ、葬事は官が給し、その子仁欽を東頭供奉官とした。

沈斌

沈斌は字を安時といい、徐州下邳の人である。若くして軍卒となり、梁に仕えて拱辰都指揮使となった。後に唐に仕え、魏王繼岌に従ってしょくを破り、康延孝を平定し、功により虢州刺史となり、随・趙など八州刺史を歴任した。

晉の開運元年、祁州刺史となった。契丹が塞を犯して榆林に至り、祁州を過ぎた時、斌は契丹が深く晉の地に入り、帰兵は疲弊しているから撃つべきであると考え、直ちに州兵を以て邀撃した。契丹は精騎を以て門を剣で削り、斌の兵は多く死に、城中に備えがなく、虜の将趙延壽は兵を留めて急攻し、延壽は斌を招いて降伏を促したが、斌は城上から延壽を罵って言うには、「公父子は誤った計略を以て、腥膻の地に陥り、犬羊の衆を以て父母の邦を残賊することを忍ぶか。斌は国のために死ぬるのみ、公の為す所に倣うことはできぬ」と。やがて城は陥落し、斌は自尽し、その家眷は皆虜に没した。

王清

王清は字を去瑕といい、洺州曲周の人である。初め唐に仕えて寧衞指揮使となった。後に晉に仕えて奉国都虞候となった。安從進が襄州で叛くと、高行周に従ってこれを攻め、一年を過ぎても陥とせず、清は行周に言うには、「從進は孤城を閉じて自守するも、その勢い久しからんや」と。因って先登を請い、遂にこれを攻め破った。

開運二年の冬、杜重威に従って陽城で戦い、清は力戦の功により歩軍の最と為り、検校司徒しとを加えられた。この冬、重威の軍は中渡橋の南にあり、虜軍はその北に在って相拒し、虜は精騎を以て西山に並び出でて晉軍の背後に現れ、南進して欒城を撃ち、晉の糧道を断った。清は重威に言うには、「晉軍危うし。今鎮州を去ること五里にして、ここに守り死せんとするは、営孤にして食尽き、将に之を如何せん。歩兵二千を以て先鋒と為し、橋を奪い路を開かんことを請う。公は諸軍を率いて継進し、鎮州に入れば守るべし」と。重威はこれを許し、宋彥筠と共に前進させた。清は虜と戦い、これを破って橋を奪った。この時、重威には既に二心あり、躊躇して進まず、彥筠もまた退走した。清は言う、「吾独りここに死せん」と。因って力戦して死した。年五十三。漢の高祖が立つと、清を太傅に贈った。

史彥超

史彥超は、雲州の人である。人となり勇悍驍捷であった。周の太祖が魏で挙兵した時、彥超は漢の龍捷都指揮使として兵を率いて従った。太祖が即位すると、虎捷都指揮使に遷り、晉州に戍守した。劉旻が晉州を攻めると、州に主帥なく、知州王萬敢は拒げず、彥超は戍兵を以て月余り堅守し、太祖は王峻を遣わして救わせ、旻の兵は解いて去った。功により龍捷右廂都指揮使に遷り、鄭州防禦使を領した。周と漢が高平で戦うと、彥超は前鋒となり、先登して陣を陥れ、功により感徳軍節度使に拝された。

周兵が漢の太原を囲むと、契丹が漢を救い、忻・代より出撃した。世宗は符彥卿を遣わしてこれを拒がせ、彥超を先鋒とし、忻口で戦うと、彥超は勇憤俱に発し、左右に馳撃し、解けて復合すること数四、遂に陣に歿した。

この時、世宗は漢を高平に破り、勝に乗じて進み、城を囲む役において、諸将の議一ならず、故に久しく成功がなかった。世宗は解去しようとして未だ決せず、彥超の戦死を聞くと、遽かに班師し、倉卒の際、亡失甚だ衆かった。世宗は彥超を惜しみ、かつ成功無きを憤り、憂忿して食らわざること数日に及んだ。彥超を太師に贈り、その家を優しく卹った。

孫晟

孫晟は初め名を鳳といい、また忌ともいい、密州の人である。学を好み、文辞あり、特に詩に長じた。若くして道士となり、廬山の簡寂宮に住した。常に唐の詩人賈島の像を画いて屋壁に置き、朝夕これに事えた。簡寂宮の道士は晟を悪み、妖と為し、杖を以てこれを駆り出した。乃ち儒服して北の趙・魏に至り、唐の莊宗に鎮州で謁し、莊宗は晟を著作佐郎とした。

天成の中、朱守殷が汴州を鎮守すると、辟いて判官とした。守殷が反逆し、誅せられると、晟は妻子を棄て、陳・宋の間に亡命した。安重誨は晟を憎み、守殷を教えて反逆させたのは晟であるとして、その像を画いて購求したが、得られず、遂にその家を族誅した。

晟は呉に奔った。この時、李昪は楊氏を篡奪せんとし、四方の士を多く招き、晟を得て、その文辞を喜び、教令を為さしめ、これにより知名となった。晟は口吃であり、人に遇えば寒喧を道う能わず、坐定して後、談辯鋒生し、聴く者は倦みを忘れた。昪は特にこれを愛し、引いて計議に与らしめ、多く意に合い、右僕射と為し、馮延巳と並んで昪の相となった。晟は延巳の人となりを軽んじ、常に言う、「金椀玉盃にして狗屎を盛る可きか」と。晟は昪父子に事えること二十余年、官は司空しくうに至り、家は益々富み驕り、毎食几案を設けず、衆妓をして各々一器を執らせ、環立して侍らしめ、「肉臺盤」と号し、時人多くこれを倣った。

周の世宗が淮を征伐すると、李景は恐れ、初めに泗州の牙将王知朗を徐州に遣わし、書を奉じて和睦を求めたが、世宗は答えなかった。また翰林学士鍾謨・文理院学士李德明を遣わし、表を奉じて臣と称したが、答えなかった。そこで礼部尚書王崇質を孫晟の副使として表を奉じさせ、謨と晟らは皆、景が寿・濠・泗・楚・光・海の六州の地を割き、毎年百万を貢いで軍を助けることを願うと述べた。しかし世宗は既に滁・揚・濠・泗の諸州を取っており、淮南をことごとく取るまで止めようとし、使者を留めて返さず、寿州を攻めることますます急であった。謨らは世宗の英武が景の敵でなく、軍勢が甚だ盛んであり、寿春が危うくなろうとしているのを見て、言うには、「願わくは陛下、臣らに五日間の誅罰を寛容し、臣らをして還り景の表を取らせ、淮北の諸州をことごとく献上させたまえ」と。世宗はこれを許し、供奉官安弘道に徳明・崇質を護送させて南還させたが、謨と晟は皆留め置かれた。徳明らが既に帰還すると、景は後悔し、地を割くことを肯んじなかった。世宗もまた暑雨のため軍を返し、李重進・張永徳らを留めて廬・寿を分かち攻めさせたが、周兵が得た揚・泰の諸州は皆守ることができず、景の兵は再び振るった。重進と永徳の両軍は互いに疑い、隙があったので、永徳は上書して重進が反逆すると言ったが、世宗は聞き入れなかった。景は二将が互いに疑っていることを知ると、蠟丸の書を重進に送り、その反逆を勧めた。

初め、晟が使節を奉じた時、崇質に語って言うには、「我が行きて必ず免れざるべし、然れども我は終に永陵の一抔の土に背かざるなり」と。永陵とは、昪の墓である。崇質が帰還し、晟と鍾謨が共に京師に至ると、都亭駅に宿泊させ、これを厚く待遇し、毎朝会して閣に入る時は、東省の官の後に班列させ、召し見れば必ず醇酒を以て飲ませた。やがて周兵が数度敗れ、得た諸州をことごとく失うと、世宗はこれを憂い、晟を召して江南の事を問うたが、晟は答えなかった。世宗は怒ったが、発する由がなかった。時に重進が景の蠟丸の書を持って来て上呈したが、多く周の過悪を斥けて言と為していた。これにより怒りを発して言うには、「晟が来て我を使わしめ、景が我が神武を畏れ、北面して臣と称することを願い、二心無きを保つと言う。どうしてこの指斥の言を得るのか」と。急ぎ侍衛軍虞候韓通を召して晟を収め獄に下し、その従者二百余人を皆殺した。晟が臨死に際し、世宗はなお近臣を遣わしてこれを問うたが、晟は終に答えず、神色怡然として、その衣冠を正し南を望んで拝して言うには、「臣はただ死を以て国に報いるのみ」と。乃ち刑に就いた。晟が既に死ぬと、鍾謨もまた耀州司馬に貶された。その後、世宗の怒りが解け、晟の忠を憐れみ、これを殺したことを悔い、鍾謨を召して衛尉少卿に拝した。景は既に江北を割譲したので、遂に謨を還らせたが、景は晟の死を聞き、また魯国公を贈った。