新五代史

巻第三十一

王朴

王朴、字は文伯、東平の人である。若くして進士に挙げられ、校書郎となり、漢の枢密使楊邠に寄寓した。楊邠は王章・史弘肇らと不和であり、王朴は漢の興りが日浅く、隠帝が年少で懦弱、小人を用い、楊邠が大臣として将相と交悪しているのを見て、必ず乱が起こると知り、楊邠のもとを去って東に帰った。後に李業らが隠帝をそそのかして権臣を誅殺させると、楊邠と王章・弘肇は皆殺され、三家の食客多くが連座したが、王朴はこの故にただ一人免れた。

周の世宗が澶州の節度使であった時、王朴は節度掌書記となった。世宗が開封尹となると、王朴は右拾遺に任じられ、推官となった。世宗が即位すると、比部郎中に遷り、平辺策を献じて言った。

唐は道を失って呉・しょくを失い、晋は道を失って幽・へいを失った。その失った由縁を観察すれば、これを平定する術を知ることができる。失った当時は、君は暗く政は乱れ、兵は驕り民は困窮し、近き者は内で奸をなし、遠き者は外で叛き、小さく制しなければ僭称に至り、大きく制しなければ放縦に至り、天下は心を離し、人は命を用いず、呉・蜀はその乱に乗じてその号を窃み、幽・并はその隙に乗じてその地を占拠した。これを平定する術は、唐・晋の失を反するにあるのみである。必ずまず賢を進め不肖を退け、その時を清くし、能ある者を用い不能なる者を去り、その材を審らかにし、恩信と号令をもってその心を結び、功を賞し罪を罰してその力を尽くし、恭倹で用を節してその財を豊かにし、徭役を時に合わせてその民を富ませる。その倉廩が実り、器用が備わり、人が用いるに足るようになってからこれを挙行する。あちらの民は、我が政化が大いに行われ、上下心を同じくし、力強く財足り、人安らかに将和し、必ず取るべき勢いがあるのを知れば、彼の情状を知る者は間諜となることを願い、彼の山川を知る者は先導となることを願うであろう。彼の民とこの民の心が同じであれば、それは天意と同じである。天意と同じであれば、成らざる功はない。

攻め取る道は、易きものから始める。当今、ただ呉のみが図りやすく、東は海に至り、南は江に至るまで、撹乱できる地は二千里ある。守備の少ないところから先に撹乱し、東を備えれば西を撹乱し、西を備えれば東を撹乱すれば、彼は必ず奔走してその弱点を救おうとする。奔走の間に、彼の虚実・衆の強弱を知ることができる。虚を攻め弱を撃てば、向かうところ前なるものなしである。大挙してはならず、ただ軽兵をもって撹乱するのみである。彼の人は怯弱で、我が師がその地に入ったと知れば、必ず大発兵して応戦に来る。数度大発兵すれば民は困窮し国は疲弊し、一度大発兵しなければ我が利を得る。彼が疲弊し我が利を得れば、江北の諸州はすなわち国家の所有となろう。江北を得たならば、彼の民を用い、我が兵を揚げれば、江の南も難なくして平定できよう。このようにすれば、力を少なくして功を多く収める。呉を得れば、桂・広は皆内臣となり、岷・蜀は飛書をもって召すことができる。もし至らなければ、四面より並び進み、席巻して蜀を平定するであろう。呉・蜀が平定されれば、幽は風の便りを望んで至るであろう。ただ并のみは必死の寇であり、恩信をもって誘うことはできず、必ず強兵をもって攻めねばならない。力は既に尽き、気は既に喪われ、辺境の患いとなるに足らず、後回しに図ることができる。方今、兵力は精練され、器用は備わり、群下は法を知り、諸将は命を用いる。一稔の後、辺境を平定することができる。

臣は書生に過ぎず、大事を講ずるに足りず、大體に達せず、機変に合わない点については、ただ陛下のご寛容を願うのみです。

左諫議大夫に遷り、開封府事を知った。その年のうちに、左散騎常侍さんきじょうじに遷り、端明殿学士を充てた。この時、世宗は新たに即位し、征伐に鋭意であり、既に群議を撹乱し、自ら高平で劉旻を破り、帰ってますます兵を治め、慨然として天下を統一する志があった。数度にわたり大臣を顧みて治道を問い、文学の士徐台符ら二十人を選び、『為君難為臣不易論』及び『平辺策』を作らせた。王朴はその選中にあった。当時の文士は皆、上(天子)が急いで武力を用いることを望まず、僭乱を平定するには文徳を修めることを先とすべきであると論じた。ただ翰林学士陶穀・竇儀、御史中丞楊昭儉と王朴のみが用兵の策を言い、王朴は江淮を先に取るべきであると論じた。世宗はもとより王朴を知っていたが、その議論の偉然たるを見て、ますます奇異とし、引きいて天下の事を計議させると、合わないことがなく、遂に用いることを決意した。顕徳三年、淮を征伐するに当たり、王朴を東京副留守とした。帰還後、戸部侍郎・枢密副使に任じ、枢密使に遷った。四年、再び淮を征伐するに当たり、王朴をして京師を留守させた。

世宗の時代は、外では征伐を事とし、内では法度を修めた。王朴は人となり明敏で才智多く、ただ当世の務めに通じるのみならず、陰陽律暦の法に至るまで通じていないものはなかった。顕徳二年、詔して王朴に大暦を校定させると、近世の符天流俗の経学に合わないものを削り去り、通・経・統の三法を設け、歳軌・離交・朔望・周変・率策の数をもって、日月五星を歩測し、欽天暦を作った。六年、また詔して王朴に雅楽を考正させた。王朴は十二律管を互いに吹いては真を得難いと考え、京房に依って律準を作り、九尺の弦十三本を用い、管の長短の寸分に依って柱を設け、七声を均として用い、楽が完成して調和した。

王朴の性質は剛果であり、また世宗に信頼され、その行うところは、当時敢えて難じる者なく、しかし人もまたこれに勝ることはできなかった。世宗が淮を征伐した時、王朴は京師に留まり、新城を広げ、道路を通じ、壮偉宏闊であり、今の京師の制は多くその規画によるものである。その作った楽は、今日に至るまで用いられて変えることができない。その陳べた用兵の略は、ただ一時の策ではない。諸国の興滅の次第について言うには、「淮南は最も先に取ることができ、并は必死の寇であり、最後に滅びる」と。その後、宋が興り、四方を平定したが、ただ并のみが後になって服したことは、皆王朴の言う通りであった。

六年の春、世宗は王朴を遣わして汴口を巡視させ、斗門を作らせた。帰途、故相李穀の邸宅に立ち寄った時、病気が発作し、座に仆れ、舁いで帰って卒した。年五十四。世宗はその喪に臨み、玉鉞をもって地を叩き、数度にわたり大いに慟哭した。侍中を追贈した。

鄭仁誨

鄭仁誨、字は日新、太原晋陽の人である。初め、唐の将陳紹光に仕えた。陳紹光は人となりぎょう勇で酒を好み、かつて酔って怒り、鄭仁誨を抜剣して殺そうとした。左右の者は皆奔走したが、鄭仁誨は直立して動かず、懼れる色がなかった。陳紹光は剣を地に投げ捨て、鄭仁誨を撫でて言った。「汝には器量がある。必ず富貴するであろう。我が及ぶところではない」。鄭仁誨は後に陳紹光を棄てて去り、郷里に帰り、母に仕えて孝行で知られた。

漢の高祖こうそが河東節度使であった時、周の太祖はその幕下にあり、しばしば仁誨を訪れて語り合い、甚だ歓んだ。事ごとに疑わしいことがあれば、直ちに仁誨に質問し、仁誨の答えるところは迎合せず、周の太祖はますます彼を異才と認めた。漢が興ると、周の太祖は枢密使となり、そこで仁誨を召し出して用い、累進して内客省使に至った。太祖が河中において李守貞を破った時、軍中の機密計画は、仁誨が多く参与して決断した。太祖が帝位に即くと、仁誨を大内都点検・恩州団練使・枢密副使とし、累進して宣徽北院使となり、出て鎮寧軍節度使となった。顕徳元年、枢密使に任じられた。世宗が河東を攻めた時、仁誨は東都を留守した。翌年の冬、病により卒去した。世宗はその喪に臨もうとしたが、役人が年の利が喪に臨むに適さないと進言した。世宗は聞き入れず、先に桃茢を用いてから喪に臨んだ。

仁誨は微賤の時から、常に太祖のために謀画し、高位に居るようになってからも、聞くところによると何も言わなかったが、太祖・世宗ともに親しく重んじた。しかしまた謙虚で謹み深く礼を好み、自ら誇り高ぶることがなく、士大夫に称えられた。中書令を追贈され、韓国公を追封され、諡して忠正といった。

扈載

扈載、字は仲熙、北燕の人である。若くして学問を好み、文章を作ることに長じた。広順の初め、進士の高等に及第し、校書郎に任じられ、史館に直った。再び転じて監察御史となった。その文章は、文辞が多いことを自ら喜んだ。常に歴代の国家の興廃治乱の跡を順に並べて『運源賦』を作り、甚だ詳細であった。また相国寺に遊んだ折り、庭の竹が愛らしいのを見て、『碧鮮賦』を作り、その壁に題した。世宗はこれを聞き、小黄門を遣わして壁から書き写させ、閲覧して善しと称え、そこで水部員外郎・知制誥に任じた。翰林学士に転じ、緋色の袍を賜ったが、載は既に病んでおり、朝謝することができなかった。百余日を経て、ようやく病をおして学士院に入って職務に就いた。世宗はこれを憐れみ、告を賜って邸に帰らせ、太医を遣わして病を見させた。

初め、載は文をもって一時に知名となり、枢密使王朴は特にその才能を重んじ、宰相李穀に推薦したが、久しく用いられなかった。朴が穀に問うて言うには、「扈載が舎人とならないのは、何故か」と。穀は言った、「その才を知らぬのではないが、載は命が薄く、おそらくその任に堪えられまい」と。朴は言った、「公は宰相として、賢を進め不肖を退けることを職分とする。どうして命などと言うのか」。やがて召されて知制誥に任じられた。学士となってから、一年の内に病没し、年三十六であった。論者は、穀は人を知る能くあり、朴は士を薦める能くあったという。

この時、天子は英武で、天下の奇才を招き延べることを喜び、特に文士を礼遇した。載は張昭・竇儼・陶穀・徐台符らとともに進用された。穀は数人の中にあって、文辞が最も劣り、特に品行がなかった。昭・儼はしばしば議論を交わし、その文章は鮮やかであったが、穀はただ先に主君の意中を察して、諂いへつらい主君に迎合し、事の大小を問わず必ず称美頌賛し、広京城・木偶耕人・紫芝白兔の類に至るまで、皆頌を作って献上した。その文辞は大抵俳優の類に似ていた。しかし載は不幸にも早く卒去したため、議論は昭・儼には及ばなかったが、穀のような諂いはしなかった。

ああ、器物を作るには、良材がなくとも良匠があればよい。国を治めるには、能臣がなくとも能君があればよい。およそ材は匠を待って成り、臣は君を待って用いられる。故に言う、国を治めることは碁に譬えられる。その用い方を知り、適切な位置に置けば勝ち、その用い方を知らず、不適切な位置に置けば敗れる、と。敗れる者は碁盤に臨んで目を注ぎ、終日心を労するが、善く碁を打つ者に見せれば、その位置を容易に置き換えて勝たせることができる。勝者が用いるのは、敗者の碁石である。興国が用いるのは、亡国の臣である。王朴の才能は、誠に能いと言えよう。世宗に遇わなければ、どこに施すところがあろうか。世宗の時代、外には征伐に事とし、攻め取って戦いに勝ち、内には制度を整え、刑法を議し、律暦を定め、礼楽の遺文を講求した。用いた者は五代の士である。どうして皆、晋・漢の時には愚怯で、周においては才智があったと言えようか。ただ用い方を知っただけである。

乱国の君主は、常に愚かで不肖な者を上に置き、その不能を強いて短所悪行を露わにし、賢智な者を下に置き、その才能を埋没させ、君子も小人も共にその所を失わせ、自ら危亡に陥る。治国の君主は、賢智な者を近くに置き、愚かで不肖な者を遠ざけ、君子も小人もそれぞれその分に適うようにし、自ら安栄を享受する。治乱の相違は甚だ遠いが、それを招く所以は多くはない。ただその置き方を反対にするだけである。ああ、古より治君は少なく乱君は多い。まして五代において、士の遇うるものと遇わざるものは、嘆くに勝えぬことである。