目次
蘇逢吉
蘇逢吉は京兆長安の人である。漢の高祖が河東を鎮守した時、父の蘇悅は高祖の従事となり、逢吉は常に父に代わって奏記を作成したので、蘇悅はこれを高祖に言上した。高祖は逢吉を召し出して対面すると、その精神爽秀なるを見て気に入り、節度判官に任じた。
高祖の性質は元来剛毅厳格であり、賓客や補佐官が謁見を請うことは稀であったが、逢吉だけは単身で入り、終日高祖の書閤に侍立した。両使から届く文書簿冊が山積みになっても、誰も取り次ごうとしなかったが、逢吉はそれを懐中に取り入れておき、高祖の機嫌の良い時を見計らって進上したので、高祖は多くそれを可とし、この故に大いに寵愛した。しかし逢吉の為人は貪欲で詐偽に長け、品行がなく、殺戮を好んだ。高祖が誕生日に因み、逢吉に獄中の囚人を整理して福を祈らせたことがあり、これを「静獄」と称した。逢吉は獄中に入って囚人を検閲し、罪の軽重や理非曲直を問わず全て殺害し、報告して「獄は静かになりました」と言った。
高祖が帝号を建てると、逢吉を中書侍郎・同中書門下平章事に拝した。この時、制度は草創期にあり、朝廷の大事は皆逢吉から出て、逢吉はこれを己が任務とした。しかし元来学問がなく、事に随って裁決し、己の意見を出すので、漢の世は特に法度がなく、徳政を施さず、民衆は称賛するところがなかった。
高祖が京師を平定した後、逢吉と蘇禹珪が共に中書におり、官吏の任命は多く旧制に違反した。逢吉は特に賄賂を受け入れ、権力を売り官職を鬻ぎ、非難する者は喧噪した。しかし高祖は二人を倚り信じていたので、敢えて告げる者はなかった。鳳翔の李永吉が初めて京師に朝した時、逢吉は永吉が故秦王李従曮の子であり、家は代々王侯であるから、必ず珍しい宝物があると考え、人を遣わして永吉に告げ、一州を与えることを条件に、その先王の玉帯を求めた。永吉は持っていないと弁解したので、逢吉は人を使って一本の玉帯を買わせ、価値数千緡に相当するものとして、永吉にその代償を請求した。前客省使の王筠が晋の末年に楚に使いし、この時に帰還したが、逢吉は王筠が楚王から多額の賄賂を得たと考え、人を遣わしてそれを求め、一州を与えることを約束した。王筠は不満ながらも、その行李の半分を献上した。しかし二人共に州を得ることはなかった。
晋の宰相李崧が契丹に従って北に行き、高祖が京師に入ると、李崧の邸宅を逢吉に賜った。李崧には別に西京に田宅があったので、逢吉はそれも全て奪い取った。李崧が北から帰還すると、宅券を逢吉に献上したが、逢吉は喜ばず、李崧の子弟がしばしば怨言を口にした。その後、逢吉は人を唆して李崧が弟の李嶼・李嶬らと謀ることを告げさせ、獄に下した。李崧は自ら誣伏を承服し、「家僮二十人と謀り、高祖の山陵に因んで乱を起こそうとした」と供述した。獄案が中書に上ると、逢吉は「二十人」を「五十人」に改め、遂に李崧の一族を誅滅した。
この時、天下には盗賊が多く、逢吉は自ら詔書を起草して州県に下し、凡そ盗賊が居住する本家及び隣保は皆族誅に処すとした。或る者が逢吉に言った。「盗賊を族誅するのは、既に王法に非ず、まして隣保をどうしてそうできようか」。逢吉は頑なに自説を是とし、已むを得ず、ただ族誅の条項を削除しただけだった。ここにおいて鄆州の捕賊使者張令柔は平陰県の十七村の民数百人を皆殺しにした。衞州刺史葉仁魯は管轄区域に盗賊がいると聞き、自ら兵を率いて捕らえに行った。当時、村民十数人が共に盗賊を追って山中に入り、盗賊は皆散り散りに逃げた。仁魯が後から到着し、民が盗賊を捕らえているのを見て、賊と思い、悉くこれを捕え、その脚の筋を断ち切り、山麓に晒し、彼らは転げ回り号呼して数日後に死んだ。聞く者はその冤罪に耐えられなかったが、逢吉は仁魯を有能とし、これによって天下では盗賊を理由に殺人がますます濫発するようになった。
逢吉は既に貴くなると、ますます豪奢を極め、中書の堂食(官庁の食事)は食べられないと言って、家の厨房に命じて珍味を進めさせ、日々極めて珍美なものを食べた。継母が死んでも喪に服さず、妻の武氏が卒去すると、百官及び州鎮に暗示して皆綾絹を輸送させて喪服とした。武氏の喪が一年も経たないうちに、その諸子を官に除した。庶兄が外から来て、逢吉に告げずにその諸子に会ったので、逢吉は怒り、他の事を託言して高祖に告げ、杖殺させた。
周の太祖が鄴を鎮守する時、枢密使を落とさなかったので、逢吉は枢密の職務は方鎮が帯びるのは不便であると言い、史弘肇と争った。ここにおいて結局は弘肇の議の通りになった。弘肇は逢吉が己と異なることを怨み、やがて王章の邸宅で会合した時、酒席で酔わせ、弘肇は大いに怒った。逢吉は出鎮を求めてこれを避けようと謀ったが、既にして中止した。人がその理由を問うと、逢吉は言った。「もしここを捨てて去れば、史公が一処分するだけで、我々は粉々になってしまうだろう」。
この時、隠帝は年少で、小人が側近にいた。弘肇らは威勢をもって君主を制し、帝と側近の李業・郭允明らは皆これを憂えた。逢吉は李業らに会う度に、言葉で彼らを煽り立て、李業らは遂に弘肇を殺害し、即座に逢吉を権知枢密院事とした。丁度麻を起草させようとした時、周の太祖が挙兵したと聞き、やめた。逢吉は夜、金祥殿の東閣に宿泊し、司天夏官正の王処訥に言った。「昨夜、まだ瞑らないうちに、既に李崧が側にいるのを見た。生者が死者と接するのは、吉事ではない」。周の太祖が北郊に至り、官軍は劉子陂で敗れた。逢吉は七里に宿泊し、夜、同宿の者と痛飲し、刀を求めて自殺しようとしたが、左右の者に止められた。翌日、隠帝と共に趙村に逃れ、民家で自殺した。周の太祖が京師を平定すると、その首を梟し、丁度李崧が刑死した場所に当たった。広順初年、その子に西京の荘園と邸宅一区を賜った。
史弘肇
史弘肇は字を化元といい、鄭州滎沢の人である。人となりは驍勇で、走れば奔馬に及んだ。梁の末年に、民七戸ごとに一兵を出すよう調発され、弘肇は兵となり、開道指揮に隷属し、禁兵に選ばれた。漢の高祖が禁兵を統率すると、弘肇は軍校となった。その後、漢の高祖が太原を鎮守するに及び、武節左右指揮を率いさせ、雷州刺史を兼ねた。高祖が太原で帝号を建てると、代州の王暉がこれに従わず、弘肇がこれを攻め破り、功により忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使に任ぜられた。
この時、契丹は北帰し、耿崇美を留めて潞州で王守恩を攻撃させた。高祖は弘肇を先発させてこれを撃たせ、崇美は敗走し、守恩は城を挙げて漢に帰順した。また河陽の武行徳・沢州の翟令奇らは、皆弘肇を迎えて自ら帰順した。弘肇が河陽に入ると、高祖は後から到着し、ついに京師に入った。
弘肇は将として、厳毅寡言であり、麾下が少しでも意に逆らうと、直ちに杖殺したので、軍中は股慄し、このため高祖が義兵を起こした当初、弘肇の兵の行く所は秋毫も犯さず、両京は平穏であった。侍衛親軍馬歩軍都指揮使に遷り、帰徳軍節度使・同中書門下平章事を兼ねた。高祖の病が篤くなると、楊邠・蘇逢吉らと共に顧命を受けた。
隠帝の時、河中の李守貞・鳳翔の王景崇・永興の趙思綰らが皆反逆し、関西で戦争が起こると、人情は恐懼し、京師の民は流言を以て互いに驚き恐れた。弘肇は兵を出して警戒巡察し、殺戮を事とし、罪の大小を問わず皆死罪とした。この時太白星が昼間に現れ、民でこれを仰ぎ見る者がいると、直ちに市中で腰斬に処した。市中に酔った者が一軍卒に逆らい、その訛言を誣告され、棄市の刑に処せられた。凡そ民が罪に当たると、吏が弘肇に報告するが、ただ三本の指で示すだけで、吏は直ちに腰斬した。また舌を断ち、口を裂き、筋を斬り、足を折る刑罰を設けた。李崧は奴僕の謀反告発に連座して族誅され、弘肇はその幼女を取って婢とした。ここにおいて以前の資歴を持つ故将や失職の家では、僮奴を姑息し、而して賤しい輩が往々にしてその主人を脅迫制圧した。侍衛孔目官の解暉は狡猾残酷で、これに乗じて姦悪を行い、罪に当たる民は、敢えて告訴する者もなかった。燕人の何福進は玉枕を持ち、その価は十四万銭で、僮僕を遣わして淮南で売り茶を買わせた。僮僕がその金を隠したので、福進が鞭打って責めると、僮僕は福進が趙延寿の玉枕を得て、呉人に贈ったと誣告した。弘肇が捕らえて処断し、福進は棄市となり、帳下の者がその妻子を分け取り、その家財を没収した。
弘肇は賓客を喜ばず、嘗て言うには、「文人は我慢がならぬ、我を卒と呼ぶからだ」と。
弘肇が帰徳を兼ねると、その副使らは月ごとに私銭千緡を率いて献上した。潁州の麹場官の麹温と軍将の何拯が官務を争い、三司に訴訟したが、三司は温を正当とした。拯が弘肇に訴えると、弘肇は潁州は既に自分の管轄する州であるのに、温が先に自分に報告しなかったとして、温を追及して殺し、連座した者は数十人に及んだ。
周の太祖が李守貞を平定し、功を群臣に推譲すると、弘肇は中書令に任ぜられた。隠帝が関西から兵を罷めてより、次第に小人に近づき、後贊・李業らと戯れ遊び度を過ごし、而して太后の親族が盛んに請託を行ったので、弘肇と楊邠が少しずつこれを抑制した。太后に故人の子がいて軍職への補任を求めたが、弘肇は直ちにこれを斬った。帝が初めて音楽を聴き、教坊使らに玉帯・錦袍を賜り、弘肇の許へ礼に行くと、弘肇は怒って言うには、「健児で国に征行する者に未だ偏賜が無いのに、お前たちに何の功があって、敢えてこれに当たるのか」と。賜った物を悉く取り上げて官に返した。
周の太祖が魏州に出鎮すると、弘肇は枢密使を帯同すべしと議し、蘇逢吉・楊邠は不可としたので、弘肇はこれを恨んだ。翌日、竇貞固の邸で会飲した時、弘肇は声を厲らして爵を挙げて太祖に属して言うには、「昨日の廷議で、何故異同があったのか。今日は公とこれを飲もう」と。逢吉と邠もまた大爵を挙げて言うには、「これは国家の事である、何ぞ介意する必要があろうか」と。遂に共に飲み干した。弘肇は言うには、「朝廷を安んじ、禍乱を定めるには、直ちに長槍大剣を要する、『毛錐子』など何の役に立とうか」と。三司使の王章が言うには、「『毛錐子』が無ければ、軍賦は何に従って集められようか」と。「毛錐子」とは、筆のことを言うのである。弘肇は黙然とした。他日、王章の邸で会飲し、酒が酣になると、手勢令をしたが、弘肇はできず、客省使の閻晋卿が弘肇の次席に座り、屡々教えた。蘇逢吉が戯れて言うには、「座に姓閻の人がいる、何ぞ罰爵を憂えようか」と。弘肇の妻の閻氏は酒家の娼妓であり、自分を嘲笑ったと思い、大いに怒り、醜い言葉で逢吉を罵ったが、逢吉は争わなかった。弘肇はこれを殴ろうとしたが、逢吉は先に出て行った。弘肇は起きて剣を求め追おうとしたので、楊邠が泣いて言うには、「蘇公は漢の宰相である、公がこれを殺せば、天子を何の地に置くのか」と。弘肇は馬を馳せて去り、邠はその邸まで送って帰った。ここにおいて将相は水火の如くになった。隠帝は王峻を遣わして公子亭に酒宴を設け和解させた。
弘肇が死んだ後、帝は崇元殿に坐して群臣を召し、弘肇らが謀反したことを告げると、群臣は応対できなかった。また諸軍校を万歳殿に召して見せ、帝は言うには、「弘肇らが専権し、お前たちをして常に横死を憂えさせたが、今日我はお前たちの主となった」と。軍校は皆拝礼した。周の太祖が即位すると、弘肇を追封して鄭王とし、礼を以て帰葬した。
楊邠
楊邠は、魏州冠氏の人である。若くして州の掌籍吏となり、租庸使の孔謙が度支を領すると、邠を勾押官に補し、孟・華・鄆三州の糧料院使を歴任した。漢の高祖に事えて右都押衙となり、高祖が即位すると、枢密使に任ぜられた。
邠は小吏の出身で、文士を喜ばず、蘇逢吉らと内々に排斥し合った。逢吉が李濤に諷して上疏させ邠と周の太祖の枢密使を罷めさせようとすると、邠は李太后の前で泣いて訴え、太后は怒り、濤の宰相を罷め、邠に中書侍郎兼吏部尚書・同平章事を加えた。この時、逢吉・禹珪は頗る私的な賄賂で官吏を除任し、誤りが多かった。邠が宰相となると、事の大小を問わず、必ず先ず邠に示し、邠が可とすれば、初めて入って奏上し、而して逢吉の行ったことを深く改革し、凡そ門蔭による出身や、諸司が補任した吏は、一切罷免した。
邠は吏事に長けていたが、大体を知らず、国家を治めるには、帑蔵が充実し、甲兵が完備されればそれでよく、礼楽文物は皆虚器であると考えた。この故に大政を執りながら苛細なことに務め、凡そ前資官は外に居住できず、而して天下の行旅は、皆過所(通行証)を与えられて初めて行くことができた。十日ほどの間に、人情は大いに擾乱し、邠は実行不可能と見て止めた。
邠は常に王章と帝の前で事を論じたが、帝が言うには、「事を行った後、言い分が出ないようにせよ」と。邠は急いで言うには、「陛下はただ声を禁じられよ、臣がおりますから」と。聞いた者はこれに戦慄した。李太后の弟の業が宣徽使を求めたが、帝と太后が密かに邠に問うと、邠はひたすら不可とした。帝は寵愛する耿夫人を立てて后としようとしたが、邠はまた不可とした。夫人が死に、后の礼を以て葬ろうとしたが、邠はまた不可とした。ここにおいて隠帝は大いに怒り、而して左右の者が隙に乗じてこれを陥れ、史弘肇らと同日に殺害された。
楊邠は人となり頗る倹約で静かであり、四方からの賄賂は拒まぬものの、しばしば帝に献上した。家に居ては賓客を謝絶したが、晩年はやや縉紳と交わり、客を門下に招いた。史伝が有用なるを知り、乃ち吏に課して写させた。未だ幾ばくもせず、禍に及んだ。周の太祖即位し、弘農王を追封した。
王章
王章は、魏州南楽の人である。州の孔目官となり、張令昭が節度使劉延皓を逐うと、章は令昭に仕えた。令昭敗れると、章の婦翁白文珂が副招討李周と親しく、乃ち章を周に託した。周は章を褚中に匿し、橐駝に負わせて洛陽に至り、周の邸に蔵した。唐滅び、章乃ち出で、河陽糧料使となる。漢の高祖が禁兵を典すと、章を孔目官に補し、之に従って太原に赴く。
高祖即位し、三司使・検校太尉を拝す。高祖崩じ、隠帝即位し、太尉・同中書門下平章事を加う。是の時、漢は方に新たに造り、契丹の後に承け、京師は空乏し、而して関西に三叛起こる。周の太祖西方に兵を用うるに、章は軍旅の供饋をなし、未だ嘗て乏絶せず。然れども利を征し下を剥ぎ、民甚だ之を苦しむ。往時、民租一石は二升を輸して「雀鼠耗」と為すを、章は乃ち一石に二斗を輸するを増して「省耗」と為す。緡銭の出入は、皆八十を以て陌と為すを、章は其の出づる者の陌を三減ず。州県の民田を訴ふる者は、必ず全州県をして之を覆せしめ、以て其の隠田を括る。天下此に由りて重く困す。然れども尤も文士を喜ばず、嘗て人に語りて曰く、「此輩に一把の算子を与ふれども、未だ顛倒を知らず、何ぞ国に益あらんや」と。百官の俸廩は皆供軍の余り不堪なるものを取り、有司をして其の価を高く估せしめ、估定して又増し、之を「擡估」と謂ふ。章猶ほ意満たさず、往々復た之を増す。民に塩・礬・酒麴を犯す者有れば、多少無く皆死に抵す。吏縁りて姦を為し、民命に堪ふる莫し。已にして史弘肇等と同日に見殺さる。
劉銖
劉銖は、陝州の人である。少くして梁の邵王の牙将となり、漢の高祖と旧有り、高祖太原に鎮すや、之を左都押衙と為す。銖は人となり惨酷にして殺戮を好み、高祖は勇断己に類すと以為ひ、特く信用す。高祖即位し、永興軍節度使を拝し、平盧に徙鎮し、検校太師・同平章事を加へ、又侍中を加ふ。
是の時、江淮通ぜず、呉越の銭鏐の使者常に海を泛して以て中国に至る。而して濱海の諸州皆博易務を置き、民と貿易す。民負して期を失ふ者は、務吏擅自に摂治し、刑獄を置き、州県に関せず。而して前に吏と為る者は、其の厚賂を納れ、之を縱して問はざりき。民頗る苦しむ。銖乃ち一切之を禁ず。然れども銖法を用ふるに、亦自ら刻深を為す。民に過有る者、其の年幾何を問ひ、若干と対ふれば、即ち其の数に随ひて之を杖し、之を「随年杖」と謂ふ。毎に一人を杖するに、必ず両杖倶に下し、之を「合歓杖」と謂ふ。又民租を増すことを請ひ、畝に銭三十を出だして以て公用と為す。民之に堪へず。隠帝銖の剛暴を患ひ、之を召すも、懼れて至らざりき。是の時、沂州の郭淮南唐を攻めて還り、兵を以て青州に駐す。隠帝乃ち符彦卿を遣はして往きて銖に代はらしむ。銖顧みて禁兵在るを以て、敢へて異意有る莫く、乃ち代はられて京師に還る。
銖嘗て史弘肇・楊邠等に切歯す。已にして弘肇等死す。銖李業等に謂ひて曰く、「諸君は僂儸児と謂ふべし」と。権知開封府たり。周の太祖兵京師を犯す。銖悉く太祖と王峻等の家属を誅す。太祖京師に入る。銖の妻裸露して席を以て自ら蔽ひ、銖と倶に見執はる。銖其の妻に謂ひて曰く、「我は則ち死す。汝は応に人の婢と為るべし」と。太祖人をして銖を責めしめて曰く、「公と共に先帝に事へしに、独り故人の情無きか。吾が家屠滅せらるるは、君命有ると雖も、之に酷毒を加ふる、何ぞ一も忍びんや。今公亦妻子有り、独り之を念はざるか」と。銖曰く、「漢の為に叛臣を誅するのみ。豈其の佗を知らんや」と。是の時、太祖方に人心を帰せんと欲し、乃ち羣臣と議して曰く、「劉侍中墜馬して傷甚だしく、而して軍士逼辱し、微生に迨かんとす。吾太后に奏し、其の家属を貸さんと欲す。如何」と。羣臣皆善しと以為ふ。乃ち銖を殺すを止め、李業等と市に梟首し、其の妻子を赦す。太祖即位し、陝州に庄宅各一区を賜ふ。
李業
李業は、高祖皇后の弟なり。后の昆弟七人、業最も幼し、故に尤も之を憐れむ。高祖の時、武徳使と為す。隠帝即位し、業皇太后の故を以て、益々事を用ひ、顧憚無し。時に天下旱魃・蝗害有り、黄河決溢し、京師大風木を抜き、城門を壊し、宮中数たび怪物の瓦石を投げ門扉を撼するを見る。隠帝司天の趙延乂を召して禳除の法を問ふ。延乂対へて曰く、「臣の職は天象日時を司り、其の変動を察し、以て順逆吉凶を考ふるのみ。禳除の事は、臣の知る所に非ず。然れども臣の聞く所、殆ど山魈なり」と。皇太后乃ち尼を召して仏書を誦せしめて以て之を禳はしむ。一尼廁に如く。既に還り、悲泣して人を知らざること数日。及ひ醒めて之を訊ねるも、其の然るを知る莫し。而して帝方に業及び聶文進・後贊・郭允明等と狎昵し、多く廋語を以て相誚戯し、紙鳶を宮中に放つ。太后数たび災異を以て帝を戒むるも、聴かず。
時に宣徽使闕く。業之を得んと欲し、太后亦人を遣はして大臣を諷す。大臣楊邠・史弘肇等皆以て不可と為す。業此に由りて怨望し、邠等を謀殺せんとす。邠等已に死す。又供奉官孟業を遣はして詔書を以て郭威を魏州に殺さしむ。威挙兵して反す。隠帝左神武統軍袁嶬・侍衞馬軍都指揮使閻晉卿等を遣はして兵を率ひ、威を澶淵に拒がしむ。兵未だ出でず、威已に滑州に至る。帝大いに懼れ、大臣に謂ひて曰く、「昨は太だ草草なりき」と。業府庫を出だして以て軍を賚はんことを請ふ。宰相蘇禹珪以て未だ可ならずと為す。業禹珪に帝の前に於て拝して曰く、「相公暫く官家の為に府庫を惜しむこと勿れ」と。乃ち詔して京師の兵及び魏の兵威に従ひて南する者に銭人十千を賜ひ、其の子弟を督めて書を作らしめ、以て北兵の来る者に告げしむ。漢兵北郊に敗るるに及び、業内庫の金宝を取り、之を懐いて其の兄保義軍節度使洪信に奔る。洪信拒みて納れず。業絳州に走り至り、人の為に殺さる。
聶文進
聶文進は、并州の人なり。少くして軍卒と為り、書算に善く、漢の高祖の帳中に給事す。高祖太原に鎮すや、之を押司官と為す。高祖即位し、歴拝して領軍屯衞将軍・枢密院承旨と為す。周の太祖枢密使と為り、頗る之を親信す。文進稍々横恣す。右領軍大将軍に遷り、入謝す。諸将軍を召して朝堂に食を設けしむ。儀鸞・翰林・御厨供帳飲食す。文進自ら如し。有司敢へて劾せず。
周の太祖鄴に鎮す。文進等事を用ひて居中す。楊邠等を謀殺するに及び、文進夜に詔書を作り、中外を制置す。邠等已に死す。文進兵籍を点閲し、指麾殺戮し、以て己が任と為す。周の太祖鄴に在りて邠等害に遇ふを聞き、初め文進与せずと以為ふ。詔書を発するに及び、皆文進の手跡なり。乃ち大いに之を詬る。
周兵京師に至る。隠帝北郊に敗る。太后懼れ、文進に謂はしめて善く帝を衞はしむ。対へて曰く、「臣此に在り。百の郭威何の害か有らん」と。慕容彦超敗走す。帝七里に宿す。文進夜其の徒と酒を飲み、歌呼自若たり。明旦、隠帝弑せらる。文進亦自殺す。
後贊
後贊は、兗州瑕丘の人である。その母は、倡(女芸人)であった。贊は幼くして謳(歌)をよくし、張延朗に仕えた。延朗が死ぬと、贊はさらに漢の高祖に仕え、高祖は彼を愛し、牙将とした。高祖が即位すると、飛龍使に任じられ、隱帝は特に彼を寵愛した。楊邠らが政権を執ると、贊は長らく昇進できず、そこで共に謀って邠らを殺害した。邠らが死ぬと、隱帝はこれを悔い、贊と允明らは交代で帝に侍り、左右の者が己の短所を言わないようにした。隱帝が北郊で兵に敗れると、贊は兗州に奔り、慕容彥超が捕らえて京師に送り、市で梟首した。
郭允明
郭允明は、若くして漢の高祖の廝養(下僕)となり、高祖は彼を愛し、翰林茶酒使とした。隱帝は特に彼を親しみ寵愛し、允明はますます驕横で顧み憚ることがなく、大臣もこれを禁じることができなかった。
允明が荊南の高保融のもとに使いすると、車服導従は節度使の如くであり、保融は彼を手厚くもてなした。允明は密かに人を歩かせてその城池の高下を測らせ、攻め取る計略をしているかのようにし、これをもって保融を動揺させた。荊の人々は皆恐れ、保融は厚く賄賂を贈って彼を送り返した。飛龍使に遷った。
やがて李業と允明は謀って楊邠らを殺害し、この日は雲がないのに暗く、霧雨が泣くようであり、日中に、邠ら十余人の屍を車に載せて市中に晒した。允明は手ずから邠ら諸子を朝堂西廡で殺し、王章の婿張貽肅の血は逆に流れ注いだ。隱帝が北郊で敗れ、封丘門に還って来たが、入ることができず、帝は趙村に走り、允明は後からこれを追い、民家で帝を弑し、乃ち自殺した。