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桑維翰
桑維翰、字は國僑、河南の人である。容貌は醜怪で、身は短く面は長く、常に鏡に臨んで自ら奇異とし、「七尺の身、一尺の面に如かず」と言った。慨然として公輔(三公・宰相)の位を志した。初め進士に挙げられんとしたが、主司がその姓を嫌い、「桑」と「喪」とは同音であるという。人に勧められて、進士に挙げる必要はなく、他の方法で仕官を求めるべきだと言われたが、維翰は慨然として、『日出扶桑賦』を著して志を示した。また鉄硯を鋳て人に示し、「硯が弊せば改めて他の仕官を求めよう」と言った。ついに進士に及第した。晉の高祖(石敬瑭)が河陽節度掌書記に辟召し、その後常に自ら従わせた。
高祖が太原から天平に移鎮する際、命令を受けず、異謀を抱き、将佐に問うたところ、将佐は皆恐懼して敢えて言わなかったが、維翰と劉知遠のみがこれを賛成し、そこで維翰を使者として契丹に援軍を求める書状を書かせた。耶律徳光はすでに承諾していたが、趙徳鈞もまた重賄をもって徳光を誘い、己を助けて唐を簒奪させようと求めた。高祖は事が成就しないことを懼れ、維翰を遣わして徳光に会わせ、利害を甚だ雄弁に陳述させた。徳光の意はそこで決し、ついに唐を滅ぼして晉を興すこととなったのは、維翰の力である。高祖が即位すると、維翰を翰林学士・礼部侍郎・知枢密院事とし、中書侍郎・同中書門下平章事に遷し、枢密使を兼ねた。天福四年、相州節度使として出鎮し、一年余りして、泰寧に移鎮した。
吐渾の白承福が契丹に迫られ、鎮州の安重栄に附いて晉に帰順した。重栄はそこで契丹との友好関係を断ち、吐渾を用いてこれを攻撃することを請うた。高祖は重栄の意に逆らい難く、決断できなかった。維翰は上疏して、契丹と争うべからざる理由七つを述べた。高祖は維翰の使者を臥内に召し寄せ、「北面(契丹)のことは、まさに我が胸中を悩ませていたところである。卿のこの上疏を得て、計らいはすでに決した。憂うることはない」と言った。維翰はまた高祖に鄴都に行幸するよう勧めた。七年、高祖が鄴にいた時、維翰が来朝し、晉昌に移鎮した。
出帝が即位すると、召して侍中に拝した。しかし景延広が権力を握り、契丹との盟約を断ったため、維翰の言は入れられず、ひそかに人を遣わして帝に説かせた。「契丹を制し天下を安んずるには、維翰を用いなければならない」。そこで延広を河南に出し、維翰を中書令に拝し、再び枢密使とし、魏国公に封じた。事の大小を問わず、すべてを彼に委ねた。数ヶ月の間に、あらゆる制度が次第に整った。初め、李瀚が翰林学士であったが、酒を好み酒の過ちが多く、高祖は軽薄であると考えた。天福五年九月、詔を下して翰林学士を廃し、唐六典に従ってその職務を中書舎人に帰属させ、端明殿学士・枢密院学士も皆廃止した。維翰が枢密使となると、再び学士を置くよう奏上し、すべて親旧の者を用いてこれに充てた。
維翰の権勢が盛んになると、四方からの賄賂・贈り物が、歳ごとに巨万に積もった。内客省使の李彦韜・端明殿学士の馮玉が権力を握り、共に維翰を讒言した。帝は急いで維翰を罷免しようとしたが、大臣の劉昫・李崧は皆不可であると考え、ついに馮玉を枢密使とし、やがて宰相とした。維翰は日に日に疎んじられるようになった。帝は飲酒過度で病を得た。維翰は人を遣わしてひそかに太后に申し上げ、皇弟重睿のために師傅を置くよう請うた。帝の病が癒え、このことを知ると、怒り、維翰を罷免して開封尹とした。維翰はそこで足疾を称し、再び朝見することは稀になった。
契丹が中渡に駐屯し、欒城を破り、杜重威らの大軍が隔絶された。維翰は言った。「事態は急を要する」。そこで馮玉らに会って事を計ったが、謀略は合わなかった。また帝に拝謁を求めたが、帝はちょうど苑中で鷹を調教しており、会う暇がなかった。維翰は退いて嘆息して言った。「晉の祭祀は絶えるであろう」。
契丹と晉の盟約は、初め維翰によって成り、終わりに景延広によって敗れた。ゆえに兵乱が起こって以来、契丹が書く檄文は、常にこの二人のことを言及しないことはなかった。耶律徳光が京師を侵犯した時、張彦沢を遣わして太后に書を送り、この二人が健在かどうかを問い、先に来させるようにと言った。しかし帝は、維翰がかつて盟約を絶つなと議したのに自らこれを違えたので、維翰を徳光に会わせたくなく、そこで彦沢にほのめかしてこれを謀らせた。彦沢もまたその資産を利した。維翰の容貌はすでに異様で、平素から威厳をもって自らを保ち、晉の老将・大臣で彼に会う者で屈服しない者はなかった。彦沢は驍勇で強悍なことを自ら誇り、毎回維翰を見舞いに行っても、冬の月であっても汗を流さないことはなかった。初め、彦沢が京師に入った時、左右の者が維翰に禍を避けるよう勧めたが、維翰は言った。「我は大臣である。国家ここに至る。どこに逃れて死を免れようか」。安座して府中で動かなかった。彦沢が兵を率いて入り、「維翰はどこにいるか」と問うた。維翰は厲声で言った。「我は晉の大臣である。自ら国に死すべきである。どうして無礼なことがあろうか」。彦沢は股が慄いて敢えて仰ぎ見ず、退いて人に言った。「我は桑維翰がどのような人物か知らなかったが、今日これを見て、なお人をしてこのように恐懼させる。再び会うことができようか」。そこで帝の命をもって維翰を召した。維翰が行く途中、李崧に遇い、馬を止めて語った。軍吏が前に進み出て維翰に白し、侍衛司の獄に赴くよう請うた。維翰は免れられぬことを知り、顧みて崧に言った。「相公が国政を執りながら、維翰を独り死なせるのか」。崧は慚じて答えることができなかった。この夜、彦沢は人を遣わして維翰を縊り殺させ、帛を頸に加え、徳光に告げて「維翰は自縊した」と言った。徳光は言った。「我はもとより維翰を殺す心はなかった。維翰はどうして自ら死に至ったのか」。徳光が京師に至ると、人を遣わしてその尸を検分させ、確かに縊死したと信じ、そこで尸をその家に賜り、資財はすべて彦沢に掠め取られた。
景延広
景延広、字は航川、陝州の人である。父の建は射術に優れ、かつて延広に教えて言った。「射て鉄に入らざるは、発せざるに如かず」。これにより延広は強弓を引くことで称えられた。梁の邵王友誨に仕え、友誨が謀反して幽閉されると、延広は逃亡した。後に王彦章に従って中都で戦い、彦章が敗れると、延広は身に数ヶ所の創傷を受け、辛うじて身をもって免れた。
明宗の時、朱守殷が汴州で反逆した。晉の高祖が六軍副使として、守殷に従って反逆した者を誅殺することを主管した。延広は汴州の軍校として誅殺されるべきであったが、高祖はその才能を惜しみ、ひそかに逃がして亡命させ、後に客将として登用した。高祖が即位すると、侍衛歩軍都指揮使とし、果州団練使を領させ、寧江軍節度使を領するよう移した。天福四年、義成に出鎮し、また保義に移し、再び召されて侍衛馬歩軍都虞候とし、河陽三城に移鎮させ、馬歩軍都指揮使に遷し、天平を領させた。
高祖が崩御し、出帝が立つと、延広は功績があり、大いにその功を誇った。初め、出帝が立った時、晉の大臣は契丹に告げ、表を奉って臣と称することを議したが、延広のみが肯んぜず、ただ書を奉って孫と称するのみであった。大臣は皆それが不可であると知りながらも、彼の意見を変えることができなかった。契丹は果たして怒り、しばしば晉を責めた。延広は契丹の使者喬瑩に言った。「先皇帝は北朝によって立てられたが、今天子は中国において自ら冊立された。孫となることはできても、臣となることはできない。かつ晉には横磨の大剣十万口がある。翁が戦おうとするならば、来たれ。他日、孫子を禁じることができず、天下の笑いを取るであろう」。瑩はその言葉が必ず両国の争いを引き起こすことを知り、後に信を取る術がなくなることを懼れ、そこで紙に記載するよう請い、遺忘に備えようとした。延広は吏に命じて詳細に記載させて瑩に授けた。瑩はその書を衣領の中に隠して帰り、延広の言葉をことごとく契丹に告げた。契丹はますます怒った。
天福八年の秋、出帝が大年荘に行幸して還り、酒宴を景延広の邸に設けた。延広が進上した器服、鞍馬、茶牀、椅榻はいずれも金銀で包み、龍鳳で飾られていた。また帛五千匹、綿一千四百両、馬二十二匹、玉鞍、衣襲、犀玉、金帯などを進上し、従官に賜るよう請うた。皇弟重睿から下は伴食刺史、重睿の従者に至るまで、それぞれ差等があった。帝もまた延広とその母、妻、従事、押衙、孔目官らに相応のものを賜った。時に天下は旱魃と蝗害に見舞われ、民が餓死する者は年に十数万に及んだが、君臣は奢侈を極めて互いに誇示し合うこと、この如きであった。
翌年の春、契丹が侵入し、延広は出帝に従って北征し御営使となり、澶州・魏州の間で対峙した。先鋒の石公霸が戚城で虜に遭遇し、高行周・符彦卿は兵が少なく救えず、騎兵を走らせて延広に増兵を促したが、延広は兵を押さえて動かなかった。三将は幾重にも包囲され、帝自ら軍を率いて救いに出て、三将は脱出できたが、皆泣いて訴えた。しかし延広は親兵を掌握し、功を恃んで恣に横暴であり、諸将は皆その節度に従い、帝もまた制することができなかった。契丹はかつて晋人に向かって呼びかけた、「景延広が我らを呼び寄せたのに、何故速やかに戦わないのか」と。この時、諸将は皆力戦したが、延広は一度も敵と対峙しなかった。契丹が去った後、延広はただ城壁を閉ざして敢えて出撃しなかった。延広の一言によって契丹と晋の関係が悪化して以来、凡そ号令征伐は全て延広から出て、晋の大臣は皆関与できず、故に契丹が発する文書や檄文は、必ず延広の名を挙げずにはいられなかった。契丹が去り、出帝が京師に還ると、延広を河南尹として出し、西京を留守させた。翌年、出帝が澶淵に行幸し、延広を従えたが、いずれも功績はなかった。
延広は洛陽に居て、鬱々として志を得ず。晋が日に日に衰退するのを見て、必ずや契丹に抗しきれぬと覚り、長夜の飲宴に耽り、大いに邸宅を造営し、庭園に妓楽を置き、ただ己の意のままに振る舞った。後に帝もまた後悔し、供奉官張暉を遣わして表を奉り臣と称して和を求めたが、徳光は答えて言った、「桑維翰と景延広を遣わし、かつ鎮州・定州を我に割譲すれば、和することができよう」と。晋はそれが不可能と知り、やめた。契丹が中渡に至り、延広は河陽に駐屯したが、杜重威が降伏したと聞き、引き返した。
徳光が京師を犯し、相州に至った時、騎兵数千を晋軍に混ぜて黄河を渡らせ洛陽へ急行させ、延広を捕らえようとし、戒めて言った、「延広が南へ呉に奔るか、西へ蜀に走ろうとも、必ず追って捕らえよ」と。しかし延広は家族を顧慮し、自決することができず、虜の騎兵が突然到来すると、従事の閻丕と共に騎馬で封丘の徳光のもとに赴き、丕も共に鎖で繋がれた。延広は言った、「丕は臣の従事であり、職務に従って付き従ったまでです。何の罪があって鎖をかけられるのですか」と。丕はこれにより釈放された。徳光は延広を責めて言った、「南北が友好を失ったのは、全て汝のためである」と。喬瑩を召して以前の発言を対質させると、延広は初めは服さなかったが、瑩が衣領の中から隠し持っていた書状を取り出すと、延広は服した。そこで十箇条に亘って延広を責め、一つ服するごとに一本の牙籌を授け、八本目を授けられた時、延広は顔を地面に伏せて、仰ぎ見ることができず、遂に叱咤して鎖で繋いだ。北へ送還する途中、陳橋に至り、民家に泊まった。夜半、延広は守衛が油断したのを見計らい、自ら手を伸ばして喉を扼して死んだ。時に五十六歳。漢の高祖の時、侍中を追贈された。
嗚呼、古より禍福成敗の理は、晋氏の如く明らかな験しは未だなかった。その始めは契丹によって興り、終わりは契丹によって滅ぼされた。然るに、逆をもって順に抗し、大事未だ成らず、孤城包囲され、外に救援無くして、ただ一介の命を将い、一片の舌の強さを持ちて、能く契丹をして国を空しくして師を興させ、符契の如く応じ、危難を脱し、遂に晋氏を成し遂げた。当の時、維翰の力が多かった。少主が新たに立ち、隙が生じて兵が連なり、盟約を破り争いを起こしたのは、延広から発した。されば晋氏の事は、維翰が成し、延広が壊した。二人の心を用いる所は異なるが、その禍を受けることは同じである。その故は何ぞや。そもそも本末順わずして夷狄と事を共にする者は、常にその禍を見るも、未だその福を見ない。戒めざるべけんや、戒めざるべけんや。
呉巒
呉巒は字を宝川といい、鄆州盧県の人である。若くして明経に挙げられたが及第せず、清泰年間に大同の沙彦珣の節度判官となった。晋の高祖が太原で挙兵し、契丹を援けとして招くと、契丹は雲州を通り過ぎた。彦珣は城を出て迎え謁したが、契丹に捕らえられた。城中では巒を推して州の事を主宰させ、巒は即座に門を閉ざして守りを固め、契丹は兵をもって包囲した。高祖が即位すると、雲州を契丹に割譲したが、巒はなお城を守って降伏せず、契丹は包囲すること凡そ七月に及んだ。高祖は巒の行いを義とし、書状をもって契丹に告げ、兵を解いて去らせた。高祖は巒を召し、武寧軍節度副使・諫議大夫・復州防禦使とした。