目次
豆盧革
豆盧革、父は瓚、唐の舒州刺史なり。豆盧は世の名族たり、唐末天下乱れ、革は中山に避地し、唐亡びて、王処直の掌書記となれり。
荘宗魏に在り、唐国を建つるを議し、而して故唐の公卿の族乱に遭ひ喪亡すること且く尽き、革を以て名家の子と為し、召して行臺左丞相と為す。荘宗即位し、同中書門下平章事を拝す。革は唐の名族と雖も、而して素より学問せず、官吏を除拜すること、多く其の序を失ひ、常に尚書郎蕭希甫に駁正せられ、革頗る之を患ふ。荘宗既に梁を滅ぼし、革乃ち韋説を相に薦む。説は、唐末殿中侍御史と為り、事に坐して南海に貶せられ、後に梁に事へて礼部侍郎と為る。革は説の能く前朝の事を知るを以て、故に引いて己を佐けしむ、而して説亦学術無く、徒に流品を以て自ら高しとす。
是の時、荘宗内に劉皇后を畏れ、外に宦官・伶人に惑はされ、郭崇韜は国に尽忠すと雖も、而して亦学術無く、革・説は俯仰默默として為す所無く、唯だ崇韜に諾するのみ。唐・梁の際、仕宦乱に遭ひ奔亡し、而して吏部銓の文書完からず、因縁を以て姦利と為し、私に告敕を鬻ぎ、昭穆を乱易し、而して季父・母舅反って姪・甥に拝する者有り、崇韜法を以て論ずるを請ふ。是の時唐新に梁を滅ぼし、朝廷の紀綱未だ立たず、議者以て漸を以て革むべしと為す、而して崇韜悪を疾むこと甚だ甚しく、必行に果し、説・革心に其の未だ可からざるを知るも、而して能く建言する所有らず。是の歳冬、選人吳延皓亡き叔の告身を改めて事を行ひ、事発し、延皓及び選吏尹玫皆坐して死し、尚書左丞吏部銓を判ずる崔沂等皆貶せられ、説・革閤門に詣りて罪を待つ。是に由りて一に新法を以て事に従ひ、往々偽濫を以て駁放せられて羈旅に斃踣し、道路に号哭する者、数ふるに勝へず。崇韜死して後、説乃ち門人を教へて上書して其の事を言はしむ、而して議者亦以て之を罪す。
是の歳、大水有り、四方地連り震ひ、流民殍死する者数万人、軍士の妻子皆稆を採りて以て食す。荘宗日を以て三司使孔謙を責む、謙為す所を知らず。樞密小吏段徊曰く、「臣嘗て前朝の故事を見る、国に大故有らば、則ち天子朱書の御札を以て宰相に問ふ。水旱は、宰相の職なり。」荘宗乃ち学士に命じて詔を草せしめ、手自ら之を書し、以て革・説に問ふ。革・説対ふる能はず、第に曰く、「陛下の威徳四海に著はし、今西兵蜀を破り、得る所の珍宝億万、以て軍に給すべし。水旱は、天の常道、憂ふるに足らず。」
革自ら相と為り、天下の多故に遭ふ、而して方に丹砂を服し気を鍊りて以て長生を求め、嘗て血を嘔すること数日、幾くんか死せんとす。二人各其の子を以て拾遺と為し、父子同じ省に在り、人以て非と為し、遽かに佗の官に改む、而して革は説の子を以て弘文館学士と為し、説は革の子を以て集賢院学士と為す。
荘宗崩じ、革は山陵使と為り、荘宗既に廟に祔せらる、革は故事に当り出鎮すべし、乃ち私第に還る、数日命を得ず、而して故人賓客趣に使ひて朝に入らしむ。樞密使安重誨朝に於て之を詬りて曰く、「山陵使の名尚ほ在り、改命を俟たず、遽かに新朝に履む、我武人を以て欺く可きか!」諫官旨に希ひ、上疏して革を誣りて田客を縱して人を殺さしむ、説は隣人と井を争ふに坐す、遂に俱に罷む。革は辰州刺史に貶せられ、説は溆州刺史に貶せられ、所在馳驛に発遣す。宰相鄭珏・任圜三たび章を上り、後命を行ふ毋からんことを請ふ、報へず。革復た俸を請ひて私自ら入るるに坐し、説は官を選人に売る、責めて革を授けて費州司戸参軍と為し、説を夷州司戸参軍と為し、皆員外置同正員なり。已にして革を陵州に竄し、説を合州に竄し、皆長流の百姓と為す。
革の子昇、説の子濤、皆官尚書郎に至り、其の父に坐して廢せらる。晋の天福初に至り、濤は尚書膳部員外郎と為り、卒す。
盧程
盧程、其の世家何なる人なるかを知らず。唐の昭宗の時、程進士に挙げられ、鹽鐵出使巡官と為る。唐亡び、燕・趙に乱を避け、服を変じて道士と為り、諸侯の間を遊ぶ。豆盧革は王処直の判官と為り、盧汝弼は河東節度副使と為る、二人皆故唐の時の名族、程と門地相等しきを以て、因りて共に之を薦めて以て河東節度推官と為す。
荘宗嘗て程を召して文書を草せしむ、程辞して能はず。其の後胡柳に戦ひ、掌書記王緘陣に歿す、荘宗軍を還して太原に至り、酒を置きて監軍張承業に謂ひて曰く、「吾巵酒を以て坐に一の書記を辟く。」因りて巵を挙げて巡官馮道に属す。程の位道上に在り、嘗て辞して能はざりしを以て、故に用ひず、而して程を支使に遷す。程大いに恨みて曰く、「人を用ふるに門閥を以てせずして先づ田舎兒を先んずるか!」
荘宗が即位した後、宰相を選ぶことを議し、盧汝弼・蘇循は既に死去していたので、次は節度判官の盧質が任じられるべきであったが、盧質は職務を担うことを好まず、豆盧革と盧程はともに旧唐の名族であるから宰相とすべきであると述べた。そこで荘宗は盧程を中書侍郎・同平章事に任じた。当時、朝廷は新たに創設されたばかりで、諸制度は未だ整っておらず、盧程と豆盧革が任命を受けた日、肩輿に乗り導従を従えて、道中で喧噪した。荘宗はその声を聞いて左右に問うと、左右は答えて「宰相の檐子が門に入ります」と言った。荘宗が楼に登ってこれを見ると、笑って「いわゆる似て非なるものというやつだ」と言った。
盧程は皇太后の冊書を奉じて、魏から太原へ赴いたが、山険を上下する際、通過する州県で丁夫を駆使し役務に就かせ、官吏は迎えて拝礼したが、盧程は肩輿に座って泰然自若としており、少しでもその意に逆らえば、必ず笞打ち辱めた。ある人が盧程に驢夫を借りようとしたところ、盧程は興唐府に帖を下してこれを給するよう命じた。府吏が先例がないと申し上げると、盧程は怒って吏の背を笞打った。少尹の任圜は、荘宗の姉婿であったが、盧程のもとを訪れてその不当を訴えた。盧程は華陽巾を戴き、鶴氅を着て、机によりかかって事を裁決し、任圜を見て罵って「お前は何という虫けらか、婦人の家の力を恃んでいるのか。宰相が州県から取り立てることに、何の不都合があろうか」と言った。任圜は返答せずに立ち去り、夜を徹して博州に馳せ至り荘宗に面会した。荘宗は大いに怒り、郭崇韜に「朕は誤ってこの痴物を宰相としたが、朕の九卿を辱めるとは。速やかに自尽を命じよ」と言った。郭崇韜もまた彼を殺そうとしたが、盧質が力を尽くしてこれを解き、罷免して右庶子とした。荘宗が洛に入ると、盧程は途中で落馬し、中風で卒去した。礼部尚書を贈られた。
任圜
任圜は京兆三原の人である。人となりは聡明で機敏、談弁に長じ、会う者はその容姿と立ち居振る舞いを愛したが、その議論が縦横に展開されるのを聞くと、さらに皆悚然として心を動かされた。李嗣昭が昭義節度使となった時、任圜を観察支使に辟召した。梁軍が夾城を築いて潞州を包囲し、一年余りして晉王(李克用)が薨去すると、潞州を救援していた晉兵は皆解囲して去った。嗣昭は非常に危険な状況にあり、任圜に去就の計を問うた。任圜は嗣昭に堅守して待つよう勧め、二心を抱くべきでないと言った。やがて荘宗が梁の夾城を攻め破り、任圜が嗣昭のために守備の計略を画策したことを聞き、大いにこれを賞賛し、これによって任圜は一層有名となった。その後、嗣昭と荘宗の間に隙が生じたが、任圜は数度使節として往来し、讒言による中傷を弁明し解きほぐしたので、嗣昭はついに禍を免れることができた。これは任圜の力によるものである。嗣昭が荘宗に従って胡柳で戦い、梁軍を撃破した時、任圜は大いに功績があり、荘宗は労って「儒者もまた体を破るのか。仁者の勇は、なんと壮んなることか」と言った。
張文禮が王鎔を弑逆すると、荘宗は嗣昭を派遣してこれを討たせた。嗣昭は戦死し、任圜が代わってその軍を率いたが、号令は厳粛であった。やがて文礼の子の処球らは城門を閉ざして堅守し、陥落させることができなかった。任圜はたびたび禍福をもって鎮州の人々を諭したところ、鎮人はこれを信じた。任圜がかつて兵を擁して城下に至った時、処球が城壁に登って任圜を呼び「城中の兵糧は共に尽き、長く王師に抵抗してきた。もし泥首して自ら帰順すれば、責めを塞ぐことができないことを恐れる。幸いにも公が哀れみをかけ、生路を示してくださることを願う」と言った。任圜はこれに告げて「そちの先人のことを考えれば、もとより容赦しがたいが、罰はその子孫に及ばない。そちは軽く処せられるであろう。しかしながら、一年余りも抵抗して守り、我が大将を傷つけ、一朝にして困窮し尽くしてから、ようやく誠意を示そうとする。これを考えれば、そちもまた免れ難い。しかしながら、座して疲弊を待つよりは、伏して命を待つ方がどうであろうか」と言った。処球は涙を流して「公の言う通りです」と言い、そこで子を遣わして降伏を願い出る状を送らせた。人々は皆、任圜の言葉が欺きでなかったと称賛した。やがて他の将軍が鎮州を攻め破り、処球は殺害されたが、鎮州の吏民はかつて降伏を乞うたことがあったため、その家族を保全することができた者は非常に多かった。
魏王継岌と崇韜が蜀を討伐した時、任圜が後方で自分を攻撃することを恐れ、任圜を辟召して魏王軍事に参じさせた。蜀が滅亡すると、任圜を黔南節度使に上表したが、任圜は懇ろに辞退して就任しなかった。継岌が崇韜を殺害すると、任圜に代わってその軍を率いさせて凱旋した。康延孝が反乱を起こすと、継岌は任圜に三千人の兵を率いさせ、董璋・孟知祥らの軍と合流させ、漢州で延孝を撃破した。しかし魏王は先に渭南に至り、自殺したので、任圜はその軍をすべて率いて東へ向かった。明宗はその功績を賞賛し、任圜を同中書門下平章事に任じ、三司を判らせた。当時、明宗は新たに孔謙を誅殺したばかりであったが、任圜は才俊を選抜辟召し、僥倖を抑え絶ったので、公私ともに給与は充足し、天下の人はこれを便利とした。
その秋、韋説と豆盧革が宰相を罷免され、任圜は安重誨・鄭珏・孔循とともに宰相となるべき者を選ぶことを議した。任圜の意は李琪に属していたが、鄭珏と孔循はもとより李琪が宰相となることを望まず、重誨に「李琪は文芸の才がないわけではないが、ただ廉潔でないだけです。宰相は、端方で器量のある者がこれに足ります。太常卿の崔協がよろしいでしょう」と言った。重誨はこれを正しいと思った。ある日、明宗が誰を宰相とすべきか問うと、重誨はすぐに崔協と答えた。任圜は前に進み出て争って「重誨は朝廷の人物に通じておらず、人に売り渡されています。天下の人は皆、崔協が文字を識らず、虚しく儀表だけは立派で、『没字碑』と号されていることを知っています。臣は陛下が誤ってこれを採り上げ抜擢され、功績もないのに幸いにも進められること、これが書を読まないこと、臣一人が笑いを取るだけで十分です。宰相の位はいくつもなく、どうしてさらに笑いの種を増やすことができましょうか」と言った。明宗は「宰相は重い位である。卿らはさらに自ら詳しく審査せよ。しかし朕が藩鎮にいた時、易州刺史の韋肅を知っている。世間では韋肅は名家の子と言われ、かつて朕を厚く遇してくれた。この位に置くことはできるか。韋肅がまだ適さないなら、馮書記は先朝の判官で、長者と称えられている。宰相とすることができよう」と言った。馮書記とは馮道である。議論は決せず、重誨らは中興殿の廊下で退き、孔循は揖もせず、衣を払って立ち去り、歩きながら罵って「天下の事は一つには任圜、二つには任圜、任圜とは何者か」と言った。任圜は重誨に「李琪の才芸は、同時代の百人に匹敵する。しかし讒言する者が巧みに阻み、その才能を妬み害している。もし李琪を捨てて崔協を宰相とするならば、蘇合の丸を棄てて蜣蜋の転(糞玉)を取るようなものだ」と言った。重誨は笑ってやめた。しかし重誨は結局、孔循の言葉を信じ、一月余りして、崔協と馮道はともに宰相に任じられた。崔協は宰相の位に数年いたが、人々はその行いを嗤うことが多かった。しかし任圜と重誨が交悪するのは崔協から始まったのである。
旧来、使臣が四方に出る時は、すべて戸部から券(証明書)を給付していたが、重誨は内廷(宮中)から出すよう奏請した。任圜は故事を理由にこれに争ったが、認められず、遂に重誨と帝の前で論争し、任圜は声も顔色もともに激しかった。明宗が朝を罷めた後、後宮の嬪御が前に出て迎え、「重誨と論じていた者は誰ですか」と問うた。明宗は「宰相だ」と言った。宮人が奏上して「妾が長安にいた時、宰相が奏事するのを見ましたが、このようであったことはありません。これは陛下を軽んじているのです」と言った。明宗はこれによって不愉快になり、使臣の給券はついに内廷から出すこととなり、任圜はますます憤慨し意気消沈した。重誨がかつて任圜を訪れた時、任圜は妓を出したが、歌が上手で美色であったので、重誨はこれを欲したが、任圜は与えなかった。これによって二人はますます憎み合うようになった。そして任圜は急いで職を辞することを求め、罷免されて太子少保となった。任圜は自ら安んじることができず、そこで致仕を請い、磁州に退居した。
朱守殷が汴州にて反逆し、重誨は圜が守殷と共謀したと誣告し、人を遣わして詔を偽り彼を殺害させた。圜は命を受けて怡然とし、一族を集めて酣飲して死んだ。明宗は知りながら問わず、詔を下し、圜が守殷と書簡を通じ怨望の言を交わした罪に坐せしめた。愍帝が即位すると、圜に太傅を追贈した。
趙鳳
趙鳳は幽州の人である。若くして儒学で名を知られた。燕王劉守光の時、燕人を悉く黥して兵士としようとしたので、鳳は恐れ、髠して僧となり、燕王の弟守奇を頼り身を隠した。守奇が梁に奔ると、梁は守奇を博州刺史とし、鳳をその判官とした。守奇が卒すると、鳳は去って鄆州節度判官となった。晋が鄆州を取ると、荘宗は鳳の名を聞き、彼を得て喜び、扈鑾学士とした。荘宗が即位すると、鳳を中書舎人・翰林学士に任じた。
荘宗及び劉皇后が河南尹張全義の邸に幸した時、酒酣の際、皇后に命じて全義を父として拝させた。翌日、宦官を遣わして学士に牋を作り全義に上らせ、父として事えさせようとしたが、鳳は上書してその不可を極言した。全義の養子郝継孫が法を犯して死んだ時、宦官・伶人はその財産を望み、強く籍没を請うたが、鳳はまた上書して言うには「継孫は全義の養子であるから、別籍の財を持つべきでなく、また法上籍没に至らず、刑人が財を利することは天下に示すべからず」と。この時、皇后及び群小が権を握り、鳳の言は容れられなかった。
明宗は武人で文字に通ぜず、四方の章奏は常に安重誨に読ませた。重誨もまた書を知らず、奏読は多く旨に称わなかった。孔循が重誨に儒者を求めて側に置くよう教え、而して両人とも唐の故事を知らなかったので、ここに端明殿学士を置き、馮道及び鳳をこれに任じた。
鳳は直言を好み性剛強で、平素より任圜と親しく、圜が宰相となってから、しばしば彼を推薦した。初め、端明殿学士の班位は翰林学士の下にあり、また結銜も官の下であった。翌年、鳳が礼部侍郎に遷ると、圜に諷して学士を官の上に昇めさせ、また詔して班位を翰林学士の上とした。圜が重誨に殺され、謀反と誣告された時、重誨は権勢を振るっており、明宗でさえ詰問できなかったが、鳳ひとり号哭して重誨に呼びかけ「任圜は天下の義士、どうして謀反など肯んじようか。公が彼を殺すとは、何をもって天下に示すのか」と言った。重誨は慚じて答えることができなかった。
術士周玄豹は相法で人事を言い多く当たり、荘宗は特にこれを信重し、北京巡官とした。明宗が内衙指揮使であった時、重誨は玄豹を試そうと、他人に明宗と服を替えさせ、明宗を下座に坐らせて玄豹に相させた。玄豹は言う「内衙は貴将であるが、この者はそれに当たらない」と。そして下座の明宗を指して「これがそうだ」と言い、明宗にその後の貴不可言を説いた。明宗が即位すると、玄豹を神異と思い、京師に召そうとしたが、鳳は諫めて言う「好悪は、上(天子)の慎むところである。今陛下がその術を神として召せば、傾国の人が皆吉凶の説に奔走し、転々と惑乱し、患い小さからず」と。明宗は遂に召さなかった。
朱守殷が反逆し、明宗が汴州に幸した時、守殷は既に誅されていたが、また詔して鄴に幸そうとした。この時、従駕諸軍はちょうど河南から家を汴に移したばかりで、北行を欲せず、軍中はこのため洶洶としていた。而定州の王都は、天子が汴州に幸して守殷を誅し、また鄴に幸して己を図ろうとしていると思い、疑って自ら安んぜず。宰相は百官を率いて閤に詣で、鄴行幸の中止を請うたが、明宗は聞き入れず、人情は大いに恐れ、群臣は再び敢えて言わなかった。鳳は手疏を以て安重誨を責め、言甚だ切直であり、重誨がこれを上奏したので、遂に行幸は中止された。
西域を遊歴した僧が仏牙を得て献上したので、明宗は大臣に示した。鳳は言う「世に伝えるところでは仏牙は水火も傷つけられないという。その真偽を験すべし」と。そこで斧でこれを斬ると、手に応じて砕けた。この時、宮中で施物は既に数千に及び、鳳がこれを砕いたので止んだ。
天成四年夏、門下侍郎・同中書門下平章事に任じられた。秘書少監の于嶠という者は、荘宗の時より鳳と共に翰林学士であったが、嶠もまた訐直で敢えて言い、鳳と平素親しかった。鳳が貴くなった後も嶠は久しく昇進せず、自ら材名が鳳の上にあるのに用いられないと思い、蕭希甫と共にしばしば時政を非難し、特に鳳を誹謗したので、鳳は心にこれを恨み、発する機会がなかった。嶠が隣家と水路を争い、安重誨の怒りを買うと、鳳は即座に嶠を左遷して秘書少監とした。嶠は酒に酔って鳳を訪ねたが、鳳は彼が必ず不遜であると知り、髪を洗うと辞した。嶠は直吏を罵り、また従者の直廬で放尿して去った。省吏が鳳に報告すると、嶠が客次で放尿し、かつ鳳を罵ったという。鳳はこの事を上聞し、明宗は詔して嶠の官を奪い、長流して武州の百姓とし、さらに振武に流した。天下はこれを冤とした。
その後、安重誨が辺彦温等に変事を告発され、明宗は彦温等を召して廷で詰問させると、詐りであることを悉く自供したので、即座にこれを斬った。数日後、鳳が中興殿で奏事し、啓して言う「臣聞く、姦人に重誨を誣告する者ありと」と。明宗は言う「これは閑事である。朕は既に処置した。卿は問うに及ばない」と。鳳は言う「臣の聞くところは、国家の利害に係わることであり、陛下は閑事とすべきではありません」と。そして殿屋を指して言う「この殿が尊厳宏壮である所以は、棟梁柱石の支えるところによる。もしその一棟を折り、一柱を去れば、傾危となるでしょう。大臣は国の棟梁柱石です。かつ重誨は微賤より起り、艱危を歴て、陛下を中興の主と致しました。どうして姦人に動揺させてよいでしょうか」と。明宗は顔色を改めて謝し「卿の言う通りである」と言い、遂に彦温等の三族を誅した。
李襲吉
李襲吉の父は図、洛陽の人である。或いは唐の宰相林甫の後裔という。乾符年中、襲吉は進士に挙げられ、河中節度使李都の搉塩判官となった。後に去って晋に赴き、晋王は彼を榆次令とし、遂に掌書記とした。
襲吉は博学で、唐の故事に通じていた。節度副使に遷り、官は諫議大夫に至った。晋王は梁と隙があり、累年交戦したが、後晋王は数度困窮し、梁と通和しようとし、襲吉に書を作って梁を諭させた。その文辞は甚だ弁麗であった。梁太祖は人に読ませ、「毒手尊拳、暮夜に交相し、金戈鉄馬、明時に蹂躙す」の句に至り、歎じて言う「李公は僻遠の地にありながら、このような士を持つとは。もし吾が彼を得れば、虎に翼を傅えるようなものだ」と。その従事敬翔を顧みて言う「善く我がためにこれに答えよ」と。翔の答えた書は文辞が巧みでなかったが、襲吉の書は多く世に伝わった。
汝弼は書画に巧みであったが、文辞は襲吉に及ばなかった。その父簡求は河東節度使となり、唐の名家であったので、汝弼もまた唐の故事に通じていた。晉王が薨じ、莊宗が晉王を嗣ぐと、承制により官爵を封拜することは皆汝弼の手に成った。十八年、卒した。
莊宗が即位すると、襲吉に礼部尚書を、汝弼に兵部尚書を追贈した。
張憲
張憲は字を允中といい、晉陽の人である。人となり沈静寡欲で、若くして学を好み、琴を鼓し酒を飲むことができた。莊宗は平素よりその文辞を知り、天雄軍節度使掌書記とした。莊宗が即位すると、工部侍郎・租庸使に拝し、刑部侍郎・判吏部銓・東都副留守に遷った。憲は吏事に精しく、甚だ能政があった。
莊宗が東都に幸したとき、定州の王都が来朝し、莊宗は憲に鞠場を造営させ、都とともに撃鞠をさせた。初め、莊宗が東都で建号したとき、鞠場を即位壇としたので、ここに憲が言うには、「即位壇は、王者の興る所以のものである。漢の鄗南、魏の繁陽の壇は、今に至るまで皆存在し、毀つべからず」と。乃ち別に宮の西に鞠場を造営したが、場が未だ成らぬうちに、莊宗は怒り、両虞候に命じて急ぎ壇を毀って場とさせた。憲は退いて歎じて言うには、「これは不祥の兆なり」と。
初め、明宗が契丹を北伐し、魏の鎧仗を取って軍に給したとき、細鎧五百があったが、憲は遂にこれを給して上聞しなかった。莊宗が魏に至り、大いに怒り、憲に馳せて自ら取りに行くよう責めたが、左右が諫めてやっと止んだ。また憲に庫の銭がいくらあるかと問うた。憲が上った庫簿には銭三万緡とあったので、莊宗はますます怒り、その寵愛する伶人史彥瓊に言うには、「我が群臣と博するに、銭十余万を須いるのに、憲は故紙をもって我を欺く。我が未だ河を渡らざりし時、庫銭は常に百万緡ありしが、今また何処にあるか」と。彥瓊が憲のためにこれを解いてやっと止んだ。
郭崇韜が蜀を伐つとき、憲を推薦して相に任ずべきとし、しかし宦官・伶人は憲が朝廷に在ることを欲せず、樞密承旨段徊が言うには、「宰相は天子の面前にあり、事に非あるも、尚お改め作すべし。一方の任は、苟もその人に非ざれば、則ち患い小さからず。憲の材誠に用いるべし、一方を任ずるに如かず」と。乃ち太原尹・北京留守とした。
趙在禮が乱を起こすと、憲の家は魏州にあり、在礼はその家を厚く遇し、人を遣わして書をもって憲を招いたが、憲はその使者を斬り、その書を発することなくしてこれを上った。莊宗が弑され、明宗が京師に入ると、太原は未だ知らず、永王存霸が太原に奔った。左右が憲に告げて言うには、「今魏兵は南に向かい、主上の存亡未だ知るべからず、存霸の来るに詔書なく、而して乗る馬の鞦を断つは、豈に戦敗者に非ずや。宜しくこれを拘えて命を俟つべし」と。憲は言う、「我は本より書生、尺寸の功無く、而して人主我を遇すること甚だ厚し。豈に二心を懐いて変を幸いせんや。第たこれと俱に死すべしのみ」と。憲の従事張昭遠が憲に表を奉じて明宗に進むよう教えたが、憲は涕泣してこれを拒んだ。やがて存霸は髪を削り、北京巡檢符彥超に見え、僧となって生きんことを願ったが、彥超の麾下の兵が大いに譟ぎ、存霸を殺した。憲は沂州に出奔し、また見殺された。
嗚呼、予は死節の士について、三人を得て三人を失う。鞏廷美・楊溫の死は、予既にこれを哀しまれたり。張憲の事に至っては、特にこれを痛惜するなり。予は旧史を以て憲の事実を考うるに、永王存霸・符彥超と憲伝の書く始末は皆同じからず、考正するを得ず。蓋し其の変故倉卒の時に当たり、伝うる者これを失えるのみ。然れども其の大節を要するに、亦以て見るべし。憲の志誠に忠と謂うべし。其の家を顧みず、在礼を絶ちて其の使を斬り、涕泣して昭遠の説を拒みしは、其の志甚だ明らかなり。其の存霸と俱に死せんと欲し、及び存霸殺され、反って太原を棄てて出奔するに至っては、然れども猶ほ其の心果たして何を為さんと欲するかを知らず。而して旧史は憲を棄城に坐して賜死すと書く。予も亦以て然らずと為す。予の憲に於けるは固より其の美志を成さんと欲すれども、要は憲が其の官守を失い而其の死明らかならざるに在り。故に死節に列するを得ざるなり。
蕭希甫
蕭希甫は宋州の人である。人となり機弁あり、多く矯激で、若くして進士に挙げられ、梁の開封尹袁象先の掌書記となった。象先が青州節度使となると、希甫を巡官とした。希甫はこれを楽しまず、乃ち其の母妻を棄て、姓名を変え、鎮州に亡れ、自ら青州掌書記と称し、趙王王鎔に謁した。鎔は希甫を参軍としたが、特に不楽で、歳余居り、また易州に亡れ、髪を削って僧となり、百丈山に居した。莊宗将に魏に国を建てんとし、百官を置き、天下の隠逸の士を求めたとき、幽州の李紹宏が希甫を推薦して魏州推官とした。
莊宗が帝位に即くと、知制誥にしようとしたが、詔があり内宴の儀を定め、希甫に問うた、「樞密使は坐を得るか」と。希甫は不可と為した。樞密使張居翰これを聞いて怒り、希甫に謂うには、「老夫歴事三朝の天子、内宴数百を見る。子は本田舎の児、安んぞ宮禁の事を知らんや」と。希甫は対することができなかった。ここにより宦官用事の者皆切歯した。宰相豆盧革ら宦官の旨を希い、共にこれを排斥し、駕部郎中と為した。希甫は志を失い、特に怏怏とした。
莊宗が梁を滅ぼし、希甫を遣わして青斉を宣慰させたとき、希甫は始めて其の母既に死し、而して妻袁氏もまた改嫁したことを知った。希甫は乃ち哀を発して喪に服し、魏州に居した。人が漢の李陵の書を引き以てこれを譏って言うには、「老母終堂し、生妻室を去る」と。時に皆伝えて笑いと為した。
希甫は性偏狭にして躁進、嘗て人を遣わし夜宮門を叩き上変し、言うに河堰牙官李筠が本軍の謀反を告ぐと、詰旦、追問して状無く、李筠を斬り、軍士安重誨に詣り希甫を啖らんことを求む。是の時、明宗将に南郊に事有らんとし、前齋一日、羣臣殿廷に於いて儀を習う、宰相馮道・趙鳳、河南尹秦王従栄、枢密使安重誨月華門外に於いて班を候う。希甫は両省班と先に入り、道等は廊下に坐して起たず、既に出でて、希甫は堂頭直省朝堂駆使官を召し、責問して宰相・枢密両省官を見て何ぞ起たざるを得んと、因り大いに詬詈す。是の夜、疾を託して第に還る。月余り、李筠の事を告げ軍衆を動揺せしめしに坐し、嵐州司戸参軍に貶せられ、貶所に卒す。
劉贊
劉贊は魏州の人なり。父玭は県令たり、贊始めて学に就き、青布の衫襦を衣せしめ、毎食すと則ち玭自ら肉食し、而して別に蔬食を以て贊を牀下に食わしめ、之に謂いて曰く、「肉食は君の禄なり、爾之を欲せば、則ち学問を勤めて以て禄を干せ、吾が肉は爾が食する所に非ざるなり」と。是れより贊益々力学し、進士に挙げらる。羅紹威の判官となり、去りて租庸使趙巖の巡官となり、又孔謙の塩鉄判官となる。明宗の時、累遷して中書舎人・御史中丞・刑部侍郎に至る。官を守るに法を以てし、権豪も私を以て干すべからず。
是の時、秦王従栄兵を握りて驕り、過失多く、言事者師傅を置き以て之を輔導せんことを請う。大臣王を畏れ、敢えて其の事を決せず、因りて王の自ら択ぶを得んことを請い、秦王即ち贊を請う、乃ち贊を秘書監に拝し、秦王の傅と為す。贊泣いて曰く、「禍将に至らん」と。
秦王の請う所の王府元帥官属十余人、類多く浮薄傾險の徒、日に諛諂を献じて以て王を驕らしめ、独り贊従容として諷諫し、率ね正道を以てす。秦王嘗て賓客に命じ坐中に文を作らしむ、贊自ら師傅を以てし、羣小と比伍するを恥じ、筆を操るに勉彊すと雖も、悦ばざるの色有り。秦王之を悪み、後左右に戒め贊来れば通ずるを得ずと、贊も亦往かず、月一たび府に至るのみ、退けば則ち門を杜して人事を交えず。
已にして秦王果たして敗死す、唐の大臣王の属官坐すべきを議し、馮道曰く、「元帥判官任贊は秦王と素より好みに非ず、而して在職一月を逾えず、詹事王居敏及び劉贊皆以て正直の為め王に悪まれ、河南府判官司徒詡は病を告げ家に居ること久しく、皆宜しく其の謀に与せざるべし。而して諮議参軍高輦は王と最も厚く、輦は法当に死すべく、其の余は次第に原減すべし」と。朱弘昭曰く、「諸公其の意を知らざる爾、秦王をして光政門に入るを得しめば、当に贊等を如何に待たん、吾徒復に家族有らんや、且つ法に首従有り、今秦王夫婦男女皆死し、而して贊等其の一身を止むるは幸いなり」と。道等之を難ず。而して馮贇も亦争いて不可とし、贊等乃ち死を免る。是に於いて高輦を論じて死とし、而して任贊等十七人皆長流す。
何瓚
何瓚は閩の人なり、唐末進士に挙げられ及第す。荘宗太原節度使と為り、辟いて判官と為す。荘宗毎に出征伐するに、張承業を留めて太原を守らしめ、承業卒し、瓚代わりて留守の事を知る。
瓚は人と為り明敏、吏事に通じ、外は疎簡の若くして内は頗る周密なり。荘宗大号を鄴都に建つ、瓚を諫議大夫に拝す、瓚は荘宗の事成らざるを慮り、北京留守を求む。
瓚は明宗と旧有り、明宗即位し、召し還し、内殿に見え、労問すること久しく、已にして瓚を以て西川節度副使と為す。是の時、孟知祥已に二志有り、方に副使趙季良を以て心腹と為し、瓚之に代わると聞き、亟に奏して季良を留め、遂に瓚を行軍司馬に改む。瓚自ら辞するを恥じ、已むを得ずして往く、明宗賜与甚だ厚し。初め、知祥は北京に在りて馬歩軍都虞候と為り、而して瓚は太原を留守し、知祥は軍礼を以て瓚に事え、瓚は常に法を以て之を縄し、知祥初め楽しまず、及び瓚司馬と為り、猶勉めて之を待つこと甚だ厚し。知祥反し、瓚の司馬を罷め、之を私第に置く、瓚は恨みを飲みて卒す。