新五代史

原文新五代史

巻二十五

原文卷25

周徳威

原文周德威

周徳威は字あざなを鎮遠といい、朔州馬邑の人である。人となり勇猛にして智謀多く、塵埃を望んで敵の数を知ることができた。その容貌は雄偉で、笑っても顔色を変えず、人これを見れば凛然たるものがあった。晋王に仕えて騎将となり、次第に鉄林軍使に昇進し、王行瑜を破るに従い、功により衙内指揮使に遷った。その小字は陽五といい、梁・晋の争いの際には、周陽五の勇名は天下に聞こえた。

原文周德威字鎮遠,朔州馬邑人也。為人勇而多智,能望塵以知敵數。其狀貌雄偉,笑不改容,人見之,凜如也。事晉王為騎將,稍遷鐵林軍使,從破王行瑜,以功遷衙內指揮使。其小字陽五,當梁、晉之際,周陽五之勇聞天下。

梁軍が晋の太原を包囲したとき、軍中に令して言った、「周陽五を生け捕りにした者を刺史とする」と。驍将陳章という者がおり、陳野义と号し、常に白馬に乗り朱甲を着けて自らを異ならせ、陣中を出入りし、周陽五を求め、必ず生け捕りにしようとした。晋王は徳威に戒めて言った、「陳野义は汝を得て刺史を求めようとしている。白馬に朱甲の者を見たら、よく備えよ」と。徳威は笑って言った、「陳章は大言を好むだけです。どうして刺史が臣のものにならないと分かりましょうか」と。そこで配下の兵に戒めて言った、「白馬に朱甲の者を見たら、偽って退走してこれを避けよ」と。両軍ともに陣を布き、徳威は微服して兵卒の間に混じった。陳章が出て来て挑戦し、兵が交わり始めると、徳威の部下が白馬に朱甲の者を見て、退走した。章は果たして矟を奮って急ぎこれを追い、徳威は章が通り過ぎたのを見計らい、鉄鎚を揮ってこれを撃ち、章に命中して馬から落ち、ついに生け捕りにした。

原文梁軍圍晉太原,令軍中曰:「能生得周陽五者為刺史。」有驍將陳章者,號陳野义,常乘白馬被朱甲以自異,出入陣中,求周陽五,欲必生致之。晉王戒德威曰:「陳野义欲得汝以求刺史,見白馬朱甲者,宜善備之!」德威笑曰:「陳章好大言耳,安知刺史非臣作邪?」因戒其部兵曰:「見白馬朱甲者,當佯走以避之。」兩軍皆陣,德威微服雜卒伍中。陳章出挑戰,兵始交,德威部下見白馬朱甲者,因退走,章果奮矟急追之,德威伺章已過,揮鐵鎚擊之,中章墮馬,遂生擒之。

梁が燕を攻めたとき、晋は徳威に五万の兵を率いさせて燕のために梁を攻めさせ、潞州ろしゅうを奪い、代州刺史・内外蕃漢馬歩軍都指揮使に遷った。梁軍は燕を捨てて潞を攻め、夾城でこれを包囲した。潞州守将の李嗣昭は城を閉ざして防ぎ守ったが、徳威は梁軍と外で相持すること一年を越えた。嗣昭と徳威は平素から不和があった。晋王が病に伏せり危篤となり、荘宗に語って言った、「梁軍が潞を包囲しているが、徳威と嗣昭に不和がある。私は大いに憂える」と。王の喪が殯中にあり、荘宗が新たに立ち、その叔父克寧を殺し、国中が未だ定まらないうちに、晋の重兵はすべて徳威に属して外におり、晋人は皆恐れた。荘宗は人をやって喪と克寧の難を徳威に告げさせ、かつその軍を召還した。徳威は命を聞くと、即日に軍を返して太原に帰り、その兵を城外に留め、徒歩で入城し、梓宮の前に伏して慟哭し幾度か気絶し、晋人はようやく安堵した。ついに荘宗に従って再び梁軍を撃ち、夾城を破り、李嗣昭と初めのように和した。夾城を破った功により、振武節度使・同中書門下平章事に拝された。

原文梁攻燕,晉遣德威將五萬人為燕攻梁,取潞州,遷代州刺史、內外蕃漢馬步軍都指揮使。梁軍捨燕攻潞,圍以夾城,潞州守將李嗣昭閉城拒守,而德威與梁軍相持於外踰年。嗣昭與德威素有隙,晉王病且革,語莊宗曰:「梁軍圍潞,而德威與嗣昭有隙,吾甚憂之!」王喪在殯,莊宗新立,殺其叔父克寧,國中未定,而晉之重兵,悉屬德威于外,晉人皆恐。莊宗使人以喪及克寧之難告德威,且召其軍。德威聞命,即日還軍太原,留其兵城外,徒步而入,伏梓宮前慟哭幾絕,晉人乃安。遂從莊宗復擊梁軍,破夾城,與李嗣昭歡如初。以破夾城功,拜振武節度使、同中書門下平章事。

天祐七年の秋、梁は王景仁に魏・滑・汴・宋などの兵七万人を率いさせて趙を撃たせた。趙王王鎔は晋に援軍を乞い、晋は徳威を先に趙州に駐屯させた。冬、梁軍が柏郷に至ると、趙人が危急を告げ、荘宗は自ら将として賛皇から出撃し、石橋で徳威と会い、進んで柏郷から五里の地点に迫り、野河の北に営した。晋兵は少なく、景仁の率いる神威・龍驤・拱宸などの軍は、いずれも梁の精兵で、人馬の鎧甲は組繍金銀で飾り、その光は日を耀かし、晋軍はこれを見て顔色を動かした。徳威はその衆を励まして言った、「これは汴・宋の傭販の児輩で、ただ外見を飾っているだけだ。中身は恐れるに足らぬ。その鎧一領は数十千の値打ちがあり、これを捕らえればまさに我が軍の資と足る。ただ眺めて愛でるな。努めてこれを取りに行け」と。退いて荘宗に告げて言った、「梁兵は甚だ鋭く、争うべきでありません。少し退いてこれを待つべきです」と。荘宗は言った、「我は孤軍を提げて千里を出てきた。その利は速戦にある。今勢いに乗じて急ぎこれを撃たず、敵に我が衆寡を知らせれば、我は施すところがなくなる」と。徳威は言った、「そうではありません。趙人は城を守ることはできても野戦はできません。我が勝利を取る利は騎兵にあり、平川広野は騎兵の長じるところです。今我が軍は河上にあり、賊の営門に迫っています。これは我が長所を用いる地ではありません」と。荘宗は悦ばず、退いて帳中に臥し、諸将は敢えて入って見る者もなかった。徳威は監軍の張承業に言った、「王は老兵を怒っておられる。速戦をしないのは、臆病なのではない。しかも我が兵は少なくて賊の営門に臨み、恃むところは、一水を隔てているだけだ。もし梁が舟栰を得て河を渡れば、我らは生き残れない。軍を退いて鄗邑に引き、敵を誘い出して営を出させ、かく乱して疲労させれば、策をもって勝つことができる」と。承業が入って言った、「徳威は老将で兵を知っております。どうかその言を軽んじないでください」と。荘宗は急ぎ起きて言った、「我はちょうどそれを考えていたところだ」と。やがて徳威が梁の遊兵を捕らえ、景仁が何をしているかと問うと、言った、「数百の舟を造り、浮橋としようとしている」と。徳威はこれを引き連れてともに謁見し、荘宗は笑って言った、「果たして公の予想どおりであった」と。そこで軍を退いて鄗邑に引き下がった。徳威は朝に三百騎を遣わして梁の営を叩き挑戦させ、自ら勁兵三千を率いてこれに続いた。景仁は怒り、その軍を悉く出して、徳威と転戦すること数十里、鄗の南に至った。両軍ともに陣を布き、梁軍は横に六七里に亘り、汴・宋の軍は西に居り、魏・滑の軍は東に居った。荘宗は馬を策って高みに登り、眺めて喜んで言った、「平原浅草、進むも退くもでき、まさに我が勝地である」と。そこで人をやって徳威に告げさせた、「我は公のために先んじよう。公は続いて進め」と。徳威は諫めて言った、「梁軍は軽々しく出て遠く来たり、我と転戦してきた。その来るには必ず糧秣を携える暇がなく、たとえ携えることができても、また食う暇もない。日午に及ばずして人馬ともに飢える。その退こうとする時に乗じて撃てば勝てます」と。諸将もまた皆そうあるべきと思った。未申の刻に至り、梁軍の東側に塵埃が上がった。徳威は鬨の声を上げて進み、その西側を指して言った、「魏・滑の軍が逃げた」と。またその東側を指して言った、「梁軍が逃げた」と。梁の陣は動揺し、再び整えることができず、皆逃げ出し、ついに大敗した。鄗から柏郷まで追撃し、横たわる死体は数十里に及び、景仁は十余騎で辛うじて免れた。梁と晋が争って以来、数十戦したが、このような大敗はかつてなかった。

原文天祐七年秋,梁遣王景仁將魏、滑、汴、宋等兵七萬人擊趙。趙王王鎔乞師于晉,晉遣德威先屯趙州。冬,梁軍至柏鄉,趙人告急,莊宗自將出贊皇,會德威于石橋,進距柏鄉五里,營于野河北。晉兵少,而景仁所將神威、龍驤、拱宸等軍,皆梁精兵,人馬鎧甲飾以組繡金銀,其光耀日,晉軍望之色動。德威勉其眾曰:「此汴、宋傭販兒,徒飾其外耳,其中不足懼也!其一甲直數十千,擒之適足為吾資,無徒望而愛之,當勉以往取之。」退而告莊宗曰:「梁兵甚銳,未可與爭,宜少退以待之。」莊宗曰:「吾提孤軍出千里,其利速戰。今不乘勢急擊之,使敵知吾之眾寡,則吾無所施矣!」德威曰:「不然,趙人能城守而不能野戰。吾之取勝,利在騎兵,平川廣野,騎兵之所長也。今吾軍於河上,迫賊營門,非吾用長之地也。」莊宗不悅,退臥帳中,諸將無敢入見。德威謂監軍張承業曰:「王怒老兵。不速戰者,非怯也。且吾兵少而臨賊營門,所恃者,一水隔耳。使梁得舟栰渡河,吾無類矣!不如退軍鄗邑,誘敵出營,擾而勞之,可以策勝也。」承業入言曰:「德威老將知兵,願無忽其言!」莊宗遽起曰:「吾方思之耳。」已而德威獲梁遊兵,問景仁何為,曰:「治舟數百,將以為浮梁。」德威引與俱見,莊宗笑曰:「果如公所料。」乃退軍鄗邑。德威晨遣三百騎叩梁營挑戰,自以勁兵三千繼之。景仁怒,悉其軍以出,與德威轉鬬數十里,至于鄗南。兩軍皆陣,梁軍橫亙六七里,汴、宋之軍居西,魏、滑之軍居東。莊宗策馬登高,望而喜曰:「平原淺草,可前可却,真吾之勝地!」乃使人告德威曰:「吾當為公先,公可繼進。」德威諫曰:「梁軍輕出而遠來,與吾轉戰,其來必不暇齎糧糗,縱其能齎,亦不暇食,不及日午,人馬俱饑,因其將退而擊之勝。」諸將亦皆以為然。至未申時,梁軍東偏塵起,德威鼓譟而進,麾其西偏曰:「魏、滑軍走矣!」又麾其東偏曰:「梁軍走矣!」梁陣動,不可復整,乃皆走,遂大敗。自鄗追至于柏鄉,橫尸數十里,景仁以十餘騎僅而免。自梁與晉爭,凡數十戰,其大敗未嘗如此。

劉守光が燕で僭号を称した。晋は徳威に三万の兵を率いさせて飛狐から出撃してこれを撃たせた。徳威は祁溝関に入り、涿州を奪い、ついに守光を幽州ゆうしゅうに包囲し、その外城を破った。守光は門を閉ざして防ぎ守った。晋軍は燕の諸州県をことごとく陥落させたが、ただ幽州だけが落ちず、包囲すること一年を越えてようやくこれを破り、功により盧龍軍節度使に拝された。徳威は大将と雖も、常に身をもって士卒とともに矢石の間を馳せた。守光の驍将単廷珪は、陣中で徳威を見て言った、「これは周陽五だ」と。そこで槍を挺てて騎を馳せてこれを追った。徳威は偽って逃げ、廷珪がまさに追いつかんとするのを見計らい、身を側めにして少し退いた。廷珪の馬はちょうど疾走しており、止めることができず、その少し通り過ぎるのを待ち、檛を奮ってこれを撃ち、廷珪は馬から墜ち、ついに捕らえられた。

原文劉守光僭號於燕,晉遣德威將三萬出飛狐以擊之。德威入祁溝關,取涿州,遂圍守光於幽州,破其外城,守光閉門距守。而晉軍盡下燕諸州縣,獨幽州不下,圍之踰年乃破之,以功拜盧龍軍節度使。德威雖為大將,而常身與士卒馳騁矢石之間。守光驍將單廷珪,望見德威於陣,曰:「此周陽五也!」乃挺槍馳騎追之。德威佯走,度廷珪垂及,側身少却,廷珪馬方馳,不可止,縱其少過,奮檛擊之,廷珪墜馬,遂見擒。

荘宗と劉鄩が魏で相持した。鄩は夜に軍を潜めて黄沢関から出て太原を襲おうとした。徳威は幽州から千騎を率いて土門に入り、これを追跡した。鄩は楽平に至り、雨に遭って進むことができずに引き返した。徳威は鄩とともに東へ向かい、臨清へ急ごうと争った。臨清には積み粟があり、かつ晋軍の糧道であった。徳威は先に馳せてこれを占拠した。このため荘宗はついに鄩軍を窮地に陥れてこれを破ることができた。

原文莊宗與劉鄩相持于魏,鄩夜潛軍出黃澤關以襲太原,德威自幽州以千騎入土門以躡之。鄩至樂平,遇雨不得進而還。德威與鄩俱東,爭趨臨清。臨清有積粟,且晉軍餉道也,德威先馳據之,以故莊宗卒能困鄩軍而敗之。

荘宗は勇猛にして戦を好み、殊に敵を見るに鋭かった。徳威は老将であり、常に持重を務めて人の鋒を挫くことを旨とし、故にその用兵は常に敵の隙を窺って勝を取った。十五年、徳威は燕兵三万人を率い、鎮・定等の軍と共に荘宗に従って河上におり、麻家渡より進軍して臨濮に至り、汴州べんしゅうに向かった。軍は胡柳陂に宿営し、黎明、斥候騎兵が報じて言うには、「梁軍が至りました!」。荘宗が徳威に戦について問うと、徳威は答えて言うには、「ここより汴州までは、二泊ほどの近さであり、梁軍の父母妻子は皆その中におり、梁人の家国の命運はこの一挙に懸かっている。我らは深入りした兵をもって、その必死の戦いに当たるのであり、計略をもって勝つことはできようが、力戦して争うことは難しい。かつ我が軍は先にここに至り、糧食炊事の具は整い営柵は完備している、これこそ以逸待労の師というものである。王は軍を押さえて動かず、臣に騎兵をもってこれを撹乱させ、その営柵を成さしめず、薪を採り炊事する暇を与えず、その疲労困憊に乗ずれば、勝つことができるでしょう」。荘宗は言う、「我が軍は河上にあり、終日敵を待っていた。今敵を見て撃たねば、また何を為すというのか」。李存審を顧みて言う、「公は輜重しちょうを先に行かせよ、我は公の後衛となろう」。急いで軍を督して出陣した。徳威はその子に言う、「我は死ぬべき場所を知らぬ!」。前に進んで梁軍と遭遇し陣を布いた。王は中央に、鎮・定の軍は左翼に、徳威の軍は右翼に、そして輜重は右翼の西に次いだ。兵が既に接戦すると、荘宗は銀槍軍を率いて梁の陣に馳せ入り、梁軍は小敗し、晋の輜重を犯した。輜重の兵は梁の朱旗を見て、皆驚いて徳威の軍に走り入り、徳威の軍は乱れ、梁軍がこれに乗じ、徳威父子は共に戦死した。荘宗は諸将と相抱いて泣きながら言う、「老将の言を聞かず、その父子をここに至らしめた!」。荘宗が即位すると、徳威に太師を追贈した。明宗の時、太尉を加贈し、荘宗の廟に配享された。晋の高祖は徳威を燕王に追封した。子の光輔は、刺史にまで至った。

原文莊宗勇而好戰,尤銳於見敵。德威老將,常務持重以挫人之鋒,故其用兵,常伺敵之隙以取勝。十五年,德威將燕兵三萬人,與鎮、定等軍從莊宗于河上,自麻家渡進軍臨濮,以趨汴州。軍宿胡柳陂,黎明,候騎報曰:「梁軍至矣!」莊宗問戰於德威,德威對曰:「此去汴州,信宿而近,梁軍父母妻子皆在其中,而梁人家國繫此一舉。吾以深入之兵,當其必死之戰,可以計勝,而難與力爭也。且吾軍先至此,糧爨具而營柵完,是謂以逸待勞之師也。王宜按軍無動,而臣請以騎軍擾之,使其營柵不得成,樵爨不暇給,因其勞乏而乘之,可以勝也。」莊宗曰:「吾軍河上,終日俟敵,今見敵不擊,復何為乎?」顧李存審曰:「公以輜重先,吾為公殿。」遽督軍而出。德威謂其子曰:「吾不知死所矣!」前遇梁軍而陣:王居中,鎮、定之軍居左,德威之軍居右,而輜重次右之西。兵已接,莊宗率銀槍軍馳入梁陣,梁軍小敗,犯晉輜重,輜重見梁朱旗,皆驚走入德威軍,德威軍亂,梁軍乘之,德威父子皆戰死。莊宗與諸將相持而哭曰:「吾不聽老將之言,而使其父子至此!」莊宗即位,贈德威太師。明宗時,加贈太尉,配享莊宗廟。晉高祖追封德威燕王。子光輔,官至刺史。

符存審(子は彦超、彦饒、彦卿)

原文符存審子彥超 彥饒 彥卿

符存審、字は徳詳、陳州ちんしゅう宛丘の人である。初めは名を存といい、若い頃は微賤で、かつて法を犯して死罪に当たり、刑に臨んで、傍らの壊れた塀を指さして刑吏を見て言うには、「願わくは彼処で死に就き、塀の土で屍を覆うことを得たい」。刑吏は哀れんでこれを許し、塀の下に移した。ところが主将がちょうど酒を飲んでおり、その愛妓を顧みて、上手な歌い手を得て酒の助けとしたいと思い、妓が言うには、「符存という者が常に妾のために歌い、甚だ上手です」。主将は騎馬を馳せて存審を召し、存審は塀の下に移された故に、未だ刑を加えられておらず、そこで召しに応じて往き、歌わせてこれを喜び、存審はこれによって死を免れた。その後、李罕之に仕え、罕之に従って晋に帰順し、晋王はこれを義児軍使とし、李氏の姓を賜り、名を存審とした。

原文符存審字德詳,陳州宛丘人也。初名存,少微賤,嘗犯法當死,臨刑,指旁壞垣顧主者曰:「願就死于彼,冀得垣土覆尸。」主者哀而許之,為徙垣下。而主將方飲酒,顧其愛妓,思得善歌者佐酒,妓言:「有符存常為妾歌,甚善。」主將馳騎召存審,而存審以徙垣下故,未加刑,因往就召,使歌而悅之,存審因得不死。其後事李罕之,從罕之歸晉,晉王以為義兒軍使,賜姓李氏,名存審。

晋王に従って李匡儔を撃ち、前鋒となり、居庸関を破った。また従って王行瑜を撃ち、龍泉寨を破り、功により検校左僕射に遷った。李嗣昭に従って汾州を攻め、李瑭を捕らえ、左右廂歩軍指揮使に遷った。また嗣昭に従って潞州を攻め、丁会を降した。周徳威に従って梁の夾城を破り、忻州刺史・蕃漢馬歩軍指揮使に遷った。晋・趙が燕を攻め、梁が燕を救い、趙の深州を撃ち、蓨県を包囲した時、存審は史建瑭と軍を下博に進め、梁軍を撃退し、邢州けいしゅう団練使を領するに遷った。魏博が梁に叛いて晋に降ると、存審は前鋒となり、臨清に屯した。荘宗が魏に入ると、存審は後衛として魏県にあり、劉鄩と莘西で対峙した。荘宗に従って故元城で劉鄩を破り、閻宝が邢州を降すと、乃ち存審を安国軍節度使とした。毛璋が滄州そうしゅうを降すと、存審を横海に移し、同中書門下平章事を加えた。

原文從晉王擊李匡儔,為前鋒,破居庸關。又從擊王行瑜,跛龍泉寨,以功遷檢校左僕射。從李嗣昭攻汾州,執李瑭,遷左右廂步軍指揮使。又從嗣昭攻潞州,降丁會。從周德威破梁夾城,遷忻州刺史、蕃漢馬步軍指揮使。晉、趙攻燕,梁救燕,擊趙深州,圍蓨縣,存審與史建瑭軍下博,擊走梁軍,遷領邢州團練使。魏博叛梁降晉,存審為前鋒,屯臨清。莊宗入魏,存審殿軍魏縣,與劉鄩相距於莘西。從莊宗敗鄩於故元城,閻寶以邢州降,乃以存審為安國軍節度使。毛璋以滄州降,徙存審橫海,加同中書門下平章事。

契丹きったんが幽州を包囲した。この時晋は梁と河上で相持しており、兵を発そうとすれば兵は少なく、救わねば、失うことを恐れた。荘宗は疑い、諸将に問うたが、存審のみが救うべきであるとし、言うには、「願わくは臣に騎兵五千を貸し与えられれば足ります!」。乃ち存審に分兵してこれを救わせ、遂に契丹を撃退した。胡柳陂の戦いに従い、晋軍は朝に敗れ、周徳威を失ったが、存審はその子彦図と力戦し、暮れに土山で再び梁軍を破り、遂に徳勝を取って、河南北に両城を築き、晋人はこれを「夾寨」と呼んだ。内外蕃漢馬歩軍総管に遷った。

原文契丹圍幽州,是時晉與梁相持河上,欲發兵,兵少,欲勿救,懼失之。莊宗疑,以問諸將,而存審獨以為當救,曰:「願假臣騎兵五千足矣!」乃遣存審分兵救之,卒擊走契丹。從戰胡柳陂,晉軍晨敗,亡周德威,存審與其子彥圖力戰,暮復敗梁軍於土山,遂取德勝,築河南北為兩城,晉人謂之「夾寨」。遷內外蕃漢馬步軍總管。

梁の朱友謙が河中・同州を以て晋に降ると、梁は劉鄩を遣わして同州を攻め、友謙が救援を求めたので、乃ち存審と李嗣昭を遣わしてこれを救った。河中の兵は少なく弱く、梁人は平素これを軽んじており、且つ晋軍の速やかに至ることを予期していなかった。存審は精騎二百を選び河中の兵に混ぜて劉鄩の陣営を出撃し、陽に敗れて走り、劉鄩の兵がこれを追うと、晋の騎兵が反撃し、その騎兵五十を捕らえた。梁人はこれが晋軍であると知り、皆大いに驚いた。しかし河中は糧食が少なく新たに降ったばかりで、人心は頗る両端を持していた。晋軍は朝邑に屯し、諸将は皆速戦を欲したが、存審は言う、「梁軍に我らが速戦を利とすることを知らしめれば、則ち渭水を挟んで営を張り、我が糧道を断ち、持久をもって我を困らせ、則ち進退もできず、敗の道である。緩やかに軍を進めて弱きを示し、隙を窺って奇を出すに如かず、勝を取ることができる」。乃ち軍を押さえて動かず。十日ほど経ち、望気者が言うには、「黒気あり、形は闘鶏の如し」。存審は言う、「一戦することができる」。乃ち進軍して劉鄩を撃ち、大いにこれを破った。劉鄩は壁を閉じて再び出てこなかった。存審は言う、「劉鄩の兵は既に敗れた、逸らすに如かず」。乃ち士卒を休め、裨将ひしょうの王建及を遣わして沙苑で馬を牧させた。劉鄩は晋軍が懈怠するであろうと思い、乃ち夜遁走した。存審は渭河でこれを追撃し、また大いにこれを破った。

原文梁朱友謙以河中同州降晉,梁遣劉鄩攻同州,友謙求救,乃遣存審與李嗣昭救之。河中兵少而弱,梁人素易之,且不虞晉軍之速至也。存審選精騎二百雜河中兵出擊鄩壘,陽敗而走,鄩兵追之,晉騎反擊,獲其騎兵五十,梁人知其晉軍也,皆大驚。然河中糧少而新降,人心頗持兩端,晉軍屯朝邑,諸將皆欲速戰,存審曰:「使梁軍知吾利於速戰,則將夾渭而營,斷我餉道,以持久困我,則進退不可,敗之道也。不若緩師示弱,伺隙出奇,可以取勝。」乃按軍不動。居旬日,望氣者言:「有黑氣,狀如鬬鷄。」存審曰:「可以一戰矣!」乃進軍擊鄩,大敗之,鄩閉壁不復出。存審曰:「鄩兵已敗,不如逸之。」乃休士卒,遣裨將王建及牧馬于沙苑,鄩以謂晉軍且懈,乃夜遯去,存審追擊于渭河,又大敗之。

張文礼が趙王王鎔を弑逆し、晋は閻宝・李嗣昭等を遣わしてこれを攻めたが、至るや戦死し、最後に存審を遣わしてこれを破った。

原文張文禮弒趙王王鎔,晉遣閻寶、李嗣昭等攻之,至輒戰死,最後遣存審破之。

存審は将として機略あり、大小百余戦、未だ嘗て敗北せず、周徳威と斉名した。徳威が死ぬと、晋の旧将で存するは存審のみであった。契丹が遮虜を攻めると、乃ち存審を盧龍軍節度使とした。時に存審は既に病んでおり、辞して行こうとせず、荘宗は人を遣わして慰諭し、強いてこれを遣わした。

原文存審為將,有機略,大小百餘戰,未嘗敗衄,與周德威齊名。德威死,晉之舊將獨存審在。契丹攻遮虜,乃以存審為盧龍軍節度使。時存審已病,辭不肯行,莊宗使人慰諭,彊遣之。

荘宗が梁を滅ぼして洛に入ると、存審は自ら大将の身でありながら、梁を破る功に与ることができず、怏怏として、病い益々甚だしくなり、因って京師への朝請を請うた。この時、郭崇韜の権位は既に重かったが、その名望は平素より存審の下にあり、その来朝して己の上に加わることを快く思わず、因ってその事を阻んだ。存審の妻郭氏が崇韜に泣き訴えて言うには、「我が夫は国に功があり、且つ公とは郷里の旧誼があるのに、如何にして忍んで死を棄てて窮野に置くのですか!」。崇韜はますます怒った。存審の上奏は累次に及び、許されず、存審は枕に伏して嘆いて言う、「老夫は二主に仕えて四十年、今日天下一家となり、四夷遠俗、亡国の将に至るまで、射鈎斬袪の人も皆、親しく天子に謁し、觴を奉じて寿を為すことを得るのに、独り我のみがここに棄てられて死ぬ、豈に命でないことがあろうか!」。崇韜は存審の病が既に急であると推し量り、乃ちその来朝を許すことを請うた。存審を宣武軍節度使に移し、幽州で卒した。臨終に、その子を戒めて言う、「我は若くして一剣を提げて郷里を去り、四十年の間に将相を取った。然れども鋒を履み刃を冒し、死を出で生に入ってここに至ったのである」。因ってその平生、身に中った矢鏃百余りを取り出して示し、言う、「爾ら其れ勉めよ!」。存審に三子あり。彦超、彦饒、彦卿。

原文莊宗滅梁入洛,存審自以身為大將,不得與破梁之功,怏怏,疾益甚,因請朝京師。是時,郭崇韜權位已重,然其名望素出存審下,不樂其來而加己上,因沮其事,存審妻郭氏泣訴于崇韜曰:「吾夫於國有功,而於公鄉里之舊,奈何忍令死棄窮野!」崇韜愈怒。存審章累上,輒不許,存審伏枕嘆曰:「老夫事二主四十年,今日天下一家,四夷遠俗,至于亡國之將、射鈎斬袪之人,皆得親見天子,奉觴為壽,而獨予棄死於此,豈非命哉!」崇韜度存審病已亟,乃請許其來朝。徙存審宣武軍節度使,卒于幽州。臨終,戒其子曰:「吾少提一劍去鄉里,四十年間取將相,然履鋒冒刃出死入生而得至此也。」因出其平生身所中矢鏃百餘而示之曰:「爾其勉哉!」存審三子:彥超、彥饒、彥卿。

彦超は汾州刺史となった。郭従謙が荘宗を弑し、明宗が洛陽に入ると、この時、彦超は北京巡検であり、永王存霸が太原に奔った。彦超は留守張憲に会いこれを謀った。憲は儒者で、荘宗に仕えたこと最も久しく、恩に背くに忍びず、存霸を納れようとしたが、彦超は従わず、存霸は遂に殺された。明宗が即位すると、彦超は来朝し、明宗はこれを徳とし、労って言った、「河東に事なきは、爾が力に頼るなり」と。建雄軍留後とした。北京留守に遷り、昭義に移鎮し、上将軍に罷められ、また泰寧軍節度使となり、さらに安遠に移った。

原文彥超為汾州刺史。郭從謙弒莊宗,明宗入洛陽,是時,彥超為北京巡檢,永王存霸奔于太原,彥超見留守張憲謀之。憲,儒者,事莊宗最久,不忍背恩,欲納之,彥超不從,存霸遂見殺。明宗即位,彥超來朝,明宗德之,勞曰:「河東無事,賴爾之力也。」以為建雄軍留後。遷北京留守,徙鎮昭義,罷為上將軍,復為泰寧軍節度使,又徙安遠。

彦超の主蔵奴王希全がその資を盗み、彦超が少しこれを責めたので、奴は懼れ、夜その門を叩き、急事があると言った。彦超が出ると、殺され、太尉を贈られた。

原文彥超主藏奴王希全盜其貲,彥超稍責之,奴懼,夜叩其門,言有急,彥超出,見殺,贈太尉。

次子彦饒は、汴州馬歩軍都指揮使となった。天成元年、汴兵三千を発して瓦橋関を戍らせたが、控鶴指揮使張諫が乱を起こし、権知州高逖を殺し、彦饒を迫って帥とした。彦饒は陽らにこれを許して言った、「吾を帥と欲するならば、焚掠を止め、明日軍礼をもって吾に南衙で会え」と。乃ち密かに拱衙指揮使龐起と謀り、衙内に甲を伏せた。明日、諫ら皆集まり、伏兵発し、諫らを誅し、四百余人を殺し、即日州事を推官韋儼に牒した。明宗は詔を下し、その忠略を褒めた。その後累遷して彰聖都指揮使となり、曹・沂・饒の三州刺史を歴任した。

原文次子彥饒,為汴州馬步軍都指揮使。天成元年,發汴兵三千戍瓦橋關,控鶴指揮使張諫為亂,殺權知州高逖,迫彥饒為帥。彥饒陽許之曰:「欲吾為帥,當止焚掠,明日以軍禮見吾於南衙。」乃陰與拱衙指揮使龐起伏甲于衙內。明日,諫等皆集,伏兵發,誅諫等,殺四百餘人,即日牒州事與推官韋儼。明宗下詔褒其忠略。其後累遷彰聖都指揮使,歷曹、沂、饒三州刺史。

清泰三年、饒州刺史より忠正軍節度使・侍衛馬歩軍都指揮使に拝された。晋高祖が太原より起つと、彦饒は侍衛兵を率いて廃帝に従い河陽に至った。廃帝が敗れると、晋高祖は楊光遠を以て彦饒に代えて親軍を将とし、彦饒を義成軍節度使に移した。

原文清泰三年,自饒州刺史拜忠正軍節度使、侍衞馬步軍都指揮使。晉高祖起太原,彥饒以侍衞兵從廢帝至河陽。廢帝敗,晉高祖以楊光遠代彥饒將親軍,徙彥饒義成軍節度使。

范延光が反すると、白奉進は侍衛兵三千を率いて滑州かつしゅうに屯した。兵士が法を犯し、奉進が五人を捕え、その内三人は義成兵であったので、併せて斬った。彦饒は怒った。明日、奉進は数騎を従えて彦饒の許を過ぎ、先に告げずして殺したことを謝した。彦饒は言った、「軍士にはそれぞれ部分あり、義成兵卒をどうして公が斬るを得ようか。何ぞ主客の礼なきや」と。奉進は怒って言った、「軍士が法を犯せば、何ぞ彼我あらんや。且つ僕は既に自ら過ちを謝したのに、公の怒り止まず、延光とともに反せんと欲するか」と。衣を払って起ち上がると、彦饒は再び留めず、その麾下大いに譟り、奉進を追って殺したが、彦饒はこれを止めなかった。やがて屯駐軍将馬万ら乱を聞き、兵を以て彦饒を擒らえて京師に送り、遂に彦饒が延光の反に応じたと聞こえた。赤岡に行き至ると、高祖は人を遣わしてこれを殺し、詔を下して在身の官爵を削奪した。

原文范延光反,白奉進以侍衞兵三千屯滑州。兵士犯法,奉進捕得五人,其三人義成兵也,因并斬之,彥饒怒。明日,奉進從數騎過彥饒謝不先告而殺,彥饒曰:「軍士各有部分,義成兵卒豈公所得斬邪?何無主客之禮也!」奉進怒曰:「軍士犯法,安有彼此!且僕已自謝過,而公怒不息,欲與延光同反邪!」拂衣而起,彥饒不復留之,其麾下大譟,追奉進殺之,彥饒不之止也。已而屯駐軍將馬萬等聞亂,以兵擒彥饒送之京師,遂以彥饒應延光反聞。行至赤岡,高祖使人殺之,下詔削奪在身官爵。

彦饒は晋と初め隙間なく、一旦の忿りに、その軍を馭する能わず、奉進を殺したのは既にその本意に非ず、反を以て誅せられたのは、その罪に非ざるなり。

原文彥饒與晉初無釁隙,以一旦之忿,不能馭其軍,殺奉進已非其本意,以反見誅,非其罪也!

史建瑭(子に匡翰あり)

原文史建瑭子匡翰

史建瑭は、雁門の人である。晋王が雁門節度使であった時、その父敬思は九府都督となり、晋王に従い関に入り黄巣を破り、京師を復し、秦宗権を陳州に撃つに、嘗て騎兵を将いて先鋒となった。晋王が東に黄巣を冤朐に追い、還って梁を過ぎ、その城北に軍した。梁王は酒宴を上源駅に設け、独り敬思と薛鉄山・賀回鶻かいこつら十余りが侍した。晋王酔い、梁の駅に留宿すると、梁兵夜に囲んでこれを攻めた。敬思は駅楼に登り、梁兵十余りを射殺した。会うこと天大雨、晋王は従者とともに去るを得、尉氏門を縋って出た。而して敬思は梁の追兵に得られ、殺された。

原文史建瑭,鴈門人也。晉王為鴈門節度使,其父敬思為九府都督,從晉王入關破黃巢,復京師,擊秦宗權于陳州,嘗將騎兵為先鋒。晉王東追黃巢于冤朐,還過梁,軍其城北。梁王置酒上源驛,獨敬思與薛鐵山、賀回鶻等十餘人侍。晉王醉,留宿梁驛,梁兵夜圍而攻之。敬思登驛樓,射殺梁兵十餘人,會天大雨,晉王得與從者俱去,縋尉氏門以出。而敬思為梁追兵所得,見殺。

建瑭は若くして軍中に事えて裨校となり、晋が丁会を降してより、梁と潞州に相距つに、建瑭は既に晋兵の先鋒となった。梁兵は数え建瑭に殺され、常に史先鋒を避けよと戒め合った。梁は王景仁を遣わして趙を攻め、晋軍は趙を救う。建瑭は先鋒兵を率いて井陘より出で、柏郷に戦う。梁軍は方陣を為し、その兵を二つに分けた。汴・宋の軍は左に居り、魏・滑の軍は右に居った。周徳威はその左を撃ち、建瑭はその右を撃つと、梁軍皆走り、遂にこれを大敗した。功により検校左僕射を加えられた。

原文建瑭少事軍中為裨校,自晉降丁會,與梁相距於潞州,建瑭已為晉兵先鋒。梁兵數為建瑭所殺,相戒常避史先鋒。梁遣王景仁攻趙,晉軍救趙,建瑭以先鋒兵出井陘,戰于柏鄉。梁軍為方陣,分其兵為二:汴、宋之軍居左,魏、滑之軍居右。周德威擊其左,建瑭擊其右,梁軍皆走,遂大敗之。以功加檢校左僕射。

天祐九年、晋が燕を攻めると、燕王劉守光は梁に師を乞い、梁太祖自ら将いて趙を撃ち、棗彊・蓨県を囲んだ。この時晋の精兵は皆北に燕を攻め、独り符存審と建瑭が三千騎を率いて趙州に屯した。梁軍は既に棗彊を破り、存審は下博橋を扼した。建瑭はその麾下五百騎を分けて五隊と為した。一隊は衡水に、一隊は南宮に、一隊は信都に、一隊は阜城に向かい、而して自らはその一隊を将い、各々梁の芻牧者十人を取って下博に会うことを約した。暮れに至り、梁兵数十人を擒らえ、皆殺し、各々その一人を留め、逃がして去らせ、告げて言った、「晋王の軍将に大いに至らん」と。明日、建瑭は百騎を率いて梁の旗幟を為し、その芻牧者に雑じ、暮れに梁の営を叩き、その守門卒を殺し、火を放ち大いに呼び、数十百人を斬撃した。而して梁の芻牧者の出づる所、各々晋兵に遇い、亡失する所あり、その逃がして殺さざる者は、帰って皆晋軍将に至ると言った。梁太祖は夜に営を抜いて去り、蓨県人はこれを追撃し、梁軍はその輜重鎧甲を棄てること算うべからず。梁太祖は方に病み、ここにより増劇した。而して晋軍は故を以て力を併せて燕を収め得たのは、二人の力である。後に荘宗に従い魏博に入り、劉鄩を故元城に敗り、累ねて功により貝・相の二州刺史を歴任した。

原文天祐九年,晉攻燕,燕王劉守光乞師于梁,梁太祖自將擊趙,圍棗彊、蓨縣。是時晉精兵皆北攻燕,獨符存審與建瑭以三千騎屯趙州。梁軍已破棗彊,存審扼下博橋。建瑭分其麾下五百騎為五隊:一之衡水,一之南宮,一之信都,一之阜城,而自將其一,約各取梁芻牧者十人會下博。至暮,擒梁兵數十,皆殺之,各留其一人,縱使逸去,告之曰:「晉王軍且大至。」明日,建瑭率百騎為梁旗幟,雜其芻牧者,暮叩梁營,殺其守門卒,縱火大呼,斬擊數十百人。而梁芻牧者所出,各遇晉兵,有所亡失,其縱而不殺者,歸而皆言晉軍且至。梁太祖夜拔營去,蓨縣人追擊之,梁軍棄其輜重鎧甲不可勝計。梁太祖方病,由是增劇。而晉軍以故得并力以收燕者,二人之力也。後從莊宗入魏博,敗劉鄩於故元城,累以功歷貝、相二州刺史。

十八年、晋軍は鎮州ちんしゅうにおいて張文礼を討ち、建瑭は先鋒兵を率いて趙州を下し、その刺史王鋋を執った。兵鎮州に傅き、建瑭はその城門を攻め、流矢に中り卒した。年四十二。

原文十八年,晉軍討張文禮於鎮州,建瑭以先鋒兵下趙州,執其刺史王鋋。兵傅鎮州,建瑭攻其城門,中流矢卒,年四十二。

建瑭の子匡翰は、晋高祖の女を尚し、これ魯国長公主である。匡翰は将として、沈毅にして謀あり、而して下に接するに礼を以てし、部曲ぶきょくと語るに未だ嘗て名を呼ばざるはなかった。天雄軍歩軍都指揮使・彰聖馬軍都指揮使を歴任した。晋に事えて懐・和二州刺史・鄭州防禦使・義成軍節度使となり、至る所兵民これを称慕した。

原文建瑭子匡翰,尚晉高祖女,是為魯國長公主。匡翰為將,沉毅有謀,而接下以禮,與部曲語未嘗不名。歷天雄軍步軍都指揮使、彰聖馬軍都指揮使。事晉為懷和二州刺史、鄭州防禦使、義成軍節度使,所至兵民稱慕之。

史氏は世々将を為し、而して匡翰は読書を好み、特に春秋三伝を喜び、学者と講論し、終日倦むことなかった。

原文史氏世為將,而匡翰好讀書,尤喜春秋三傳,與學者講論,終日無倦。

義成軍従事関澈は特に酒を嗜み、嘗て酔って匡翰を罵りて言った、「近く張彦澤が張式を臠にしたと聞くも、未だ史匡翰が関澈を斬るを見ず、天下の談者未だ偶々ならざるなり」と。匡翰は怒らず、杯を満たして自ら罰し、これを慰勉した。人皆その量に服した。卒す年四十。

原文義成軍從事關澈尤嗜酒,嘗醉罵匡翰曰:「近聞張彥澤臠張式,未見史匡翰斬關澈,天下談者未有偶爾!」匡翰不怒,引滿自罰而慰勉之,人皆服其量。卒年四十。

王建及

原文王建及

王建及は許州きょしゅうの人である。若くして李罕之に仕え、罕之に従って晋に奔り、匡衞指揮使となった。梁と晋が柏郷で戦い、鄗邑の野河上で対峙したとき、鎮州・定州ていしゅうの兵が河橋を扼したが、梁兵が急にこれを撃った。荘宗が高台に登って望見すると、鎮・定の兵が敗れようとしていたので、顧みて建及に言うには、「橋が梁に奪われれば、わが軍は危うい。どうしたものか」と。建及は二百人を選んで馳せて梁兵を撃ち、梁兵は敗れて解き去った。莘県・故元城の戦いに従い、いずれも先登して陣を陥し、功により累進して遼州刺史に拝され、銀槍効節軍を将いた。

原文王建及,許州人也。少事李罕之,從罕之奔晉,為匡衞指揮使。梁、晉戰柏鄉,相距鄗邑野河上,鎮、定兵扼河橋,梁兵急擊之。莊宗登高臺望見鎮、定兵將敗,顧建及曰:「橋為梁奪,則吾軍危矣,奈何?」建及選二百人馳擊梁兵,梁兵敗,解去。從戰莘縣、故元城,皆先登陷陣,以功累拜遼州刺史,將銀槍效節軍。

晋が楊劉を攻めたとき、建及はみずから葦を背負って塹壕を埋め、先登してこれを抜いた。胡柳の戦いに従い、晋兵はすでに敗れ、梁と土山を争ったが、梁兵が先に至り、山に登って陣を布いた。荘宗が山下に至って梁の陣が堅く整っているのを望見し、その軍を呼んで言うには、「今日の戦いは、山を得る者が勝つ」と。そこで騎兵を馳せてこれを犯させた。建及は銀槍軍を率いて続いて進み、梁兵は下って走り、山の西に陣したので、晋兵はついに土山を得た。諸将は皆言うには、「潰走した兵はまだ集まっていない。朝夕には戦えない」と。閻宝が言うには、「彼らは山上に陣し、我らはその下にいる。それでもなおこれを撃つことができる。まして高きより低きを撃つこと、機会を失うべきではない」と。建及はこれを然りとし、そこで荘宗に申し上げて言うには、「高きに登って臣が敵を破るのをご覧ください」と。すぐに衆を呼んで言うには、「今日失った輜重は皆、山の西にある。どうして取りに行かぬのか」と。すぐに馳せて梁の陣を犯し、梁兵は大敗した。晋はついに徳勝に軍し、河上に南北の城を築いた。梁の将賀瓌がその南城を攻め、竹の笮で戦艦を河に繋ぎ止めたので、晋兵は渡ることができず、南城は非常に危うかった。荘宗は軍門に金帛を積み、梁の戦艦を破ることができる者を募ったが、吐火や禁呪に至るまであらゆる者がいた。建及は重鎧を着て矟を執り、呼んで言うには、「梁と晋は一水の隔たりのみ。何ぞ巧みなことをする必要があろうか。我、今これを破る」と。すぐに大甕に薪を積み、上流より火を放って梁の戦艦を焼き、建及は二隻の舟に甲士こうしを載せてこれに従い、その竹の笮を斧で断ったので、梁兵は皆走り去った。晋軍はついに渡ることができ、南城を救い、瓌の包囲は解けて去った。

原文晉攻楊劉,建及躬自負葭葦堙塹,先登拔之。從戰胡柳,晉兵已敗,與梁爭土山,梁兵先至,登山而陣。莊宗至山下望梁陣堅而整,呼其軍曰:「今日之戰,得山者勝。」因馳騎犯之,建及以銀槍軍繼進,梁兵下走,陣山西,晉兵遂得土山。諸將皆言:「潰兵未集,旦暮不可戰。」閻寶曰:「彼陣山上,吾在其下,尚能擊之,況以高而擊下,不可失也。」建及以為然,因白莊宗曰:「請登高望臣破敵!」即呼眾曰:「今日所失輜重皆在山西,盍往取之!」即馳犯梁陣,梁兵大敗。晉遂軍德勝,為南北城于河上。梁將賀瓌攻其南城,以竹笮維戰艦于河,晉兵不得渡,南城危甚。莊宗積金帛於軍門,募能破梁戰艦者,至於吐火禁呪莫不皆有。建及重鎧執矟呼曰:「梁、晉一水間爾,何必巧為!吾今破之矣。」即以大甕積薪,自上流縱火焚梁戰艦,建及以二舟載甲士隨之,斧其竹笮,梁兵皆走。晉軍乃得渡,救南城,瓌圍解去。

荘宗が魏博を得て以来、建及は銀槍効節軍を将いた。建及は将として、家財を士卒に散じることを好んだ。荘宗は宦官韋令図を遣わしてその軍を監させたが、令図は言うには、「建及は士卒の心を得ている。異志を抱くことを恐れるので、牙兵を統率させるべきではない」と。すぐに代州刺史とした。建及は怏怏として卒し、年五十七であった。

原文自莊宗得魏博,建及將銀槍效節軍。建及為將,喜以家貲散士卒。莊宗遣宦官韋令圖監其軍,令圖言:「建及得士心,懼有異志,不可令典牙兵。」即以為代州刺史。建及怏怏而卒,年五十七。

元行欽

原文元行欽

元行欽は幽州の人である。劉守光の裨将となり、守光がその父仁恭を簒奪すると、行欽に兵を率いさせて大安山で仁恭を攻めて幽閉させ、また行欽に諸兄弟を害させた。その後、晋が幽州を攻めると、守光は行欽に雲州・朔州の間で兵を募らせた。この時、明宗が山北の地を掠め、行欽と広辺軍で相拒し、合わせて八度戦い、明宗は七度行欽に射中てたが、行欽は矢を抜いて戦い、また明宗の股に射中てた。行欽はたびたび敗れ、ついに降伏した。明宗はその背を撫でて酒を飲ませて言うには、「壮士なり」と。そこで養子とした。常に明宗に従って戦い、数度功を立てた。荘宗がすでに魏を下すと、ますます驍将を選んで自衛し、行欽の驍勇を聞いてこれを取り、散員都部署とし、姓名を賜って李紹栄と言った。

原文元行欽,幽州人也。為劉守光裨將,守光篡其父仁恭,使行欽以兵攻仁恭於大安山而因之,又使行欽害諸兄弟。其後晉攻幽州,守光使行欽募兵雲、朔間。是時明宗掠地山北,與行欽相拒廣邊軍,凡八戰,明宗七射中行欽,行欽拔矢而戰,亦射明宗中股。行欽屢敗,乃降。明宗撫其背而飲以酒曰:「壯士也!」因養以為子。常從明宗戰,數立功。莊宗已下魏,益選驍將自衞,聞行欽驍勇,取之為散員都部署,賜姓名曰李紹榮。

荘宗は戦いを好み軽敵し、梁軍と潘張で戦い、軍は敗れて潰走し、荘宗は三四騎を得て馳せ去ったが、梁兵数百が追い付き、矟を集めてこれを囲んだ。行欽はその旗を望見して識り、一騎を馳せ、奮って剣でその二矛を断ち、首級一つを斬り、梁兵は解き去った。荘宗は営に還り、行欽の手を取って泣いて言うには、「富貴は卿と共にす」と。これにより寵愛は諸将を絶した。忻州刺史に拝され、武寧軍節度使に遷った。荘宗が内殿で群臣を宴すると、酒酣に楽が奏され、平生の戦陣の事を道いて笑楽としたが、行欽がいないのを怪しみ、左右を顧みて言うには、「紹栄はどこにおるか」と。所司が奏上して言うには、「勅命により使相を宴するので、紹栄は散官であり、与ることができません」と。荘宗は会を罷めて楽しからず、明日、すぐに行欽を同中書門下平章事に拝した。これより群臣を内殿に召し入れることはせず、ただ武臣のみを宴した。

原文莊宗好戰而輕敵,與梁軍戰潘張,軍敗而潰,莊宗得三四騎馳去,梁兵數百追及,攢矟圍之。行欽望其旗而識之,馳一騎,奮劍斷其二矛,斬首一級,梁兵解去。莊宗還營,持行欽泣曰:「富貴與卿共之!」由是寵絕諸將。拜忻州刺史,遷武寧軍節度使。莊宗宴羣臣於內殿,酒酣樂作,道平生戰陣事以為笑樂,而怪行欽不在,因左右顧視曰:「紹榮安在?」所司奏曰:「奉敕宴使相,紹榮散官,不得與也。」莊宗罷會不樂。明日,即拜行欽同中書門下平章事。自此不召羣臣入內殿,但宴武臣而已。

趙在礼が魏で反すると、荘宗はちょうど大将を選んでこれを撃たんとしていたが、劉皇后が言うには、「これは小事である。紹栄に指揮させればよい」と。そこで鄴都行営招撫使とし、二千人を率いてこれを討たせた。行欽は鄴の南門を攻め、詔書をもって在礼を招いた。在礼は羊酒を送って軍を犒い、城に登って行欽に言うには、「将兵は長年父母を離れ、勅旨を取らずに奔り帰り、上は聖慮を貽す。追悔しても及ばぬ。もし公が善く言葉を尽くせば、なお過ちを改めて自新することができよう」と。行欽は言うには、「天子は汝らに社稷の功があるとし、小さな過ちは必ず赦し宥すであろう」と。在礼は再拝し、詔書を諸軍に示した。皇甫暉が傍らから詔書を奪い取ってこれを破ったので、軍士は大いに騒いだ。行欽はことごとくこれを聞かせると、荘宗は大いに怒り、行欽に勅して言うには、「城を破る日には、種を遺すなかれ」と。そこでますます諸鎮の兵を召し、皆を行欽に属させた。行欽は澶州せんしゅうに屯し、諸鎮の兵を五道に分け、民の車輪・門扉・屋椽を毀って筏とし、長慶河を渡って冠氏門を攻めたが、克たなかった。

原文趙在禮反於魏,莊宗方選大將擊之,劉皇后曰:「此小事,可趣紹榮指揮。」乃以為鄴都行營招撫使,將二千人討之。行欽攻鄴南門,以詔書招在禮。在禮送羊酒犒軍,登城謂行欽曰:「將士經年離去父母,不取敕旨奔歸,上貽聖憂,追悔何及!若公善為之辭,尚能改過自新。」行欽曰:「天子以汝等有社稷之功,小過必當赦宥。」在禮再拜,以詔書示諸軍。皇甫暉從旁奪詔書壞之,軍士大譟。行欽具以聞,莊宗大怒,敕行欽:「破城之日,無遺種!」乃益召諸鎮兵,皆屬行欽。行欽屯澶州,分諸鎮兵為五道,毀民車輪、門扉、屋椽為筏,渡長慶河攻冠氏門,不克。

この時、邢州・洺州などの諸州が相次いで皆叛き、行欽は鄴を攻めて功がなく、荘宗はみずから将として行かんとしたが、群臣は皆諫めて止めさせ、ついに明宗を遣わしてこれを討たせた。明宗は魏に至り、城西に軍し、行欽は城南に軍した。ところが明宗の軍が変じ、魏に入り、在礼と合した。行欽はこれを聞き、退いて衞州に屯し、明宗の反を聞かせた。

原文是時,邢、洺諸州,相繼皆叛,而行欽攻鄴無功,莊宗欲自將以往,羣臣皆諫止,乃遣明宗討之。明宗至魏,軍城西,行欽軍城南。而明宗軍變,入于魏,與在禮合。行欽聞之,退屯衞州,以明宗反聞。

荘宗は金槍指揮使李従璟を遣わし、詔を馳せて明宗に事を計らせた。従璟は明宗の子である。衞州に行き至ったが、明宗はすでに反しており、行欽は従璟を縛り、これを殺さんとした。従璟は京師に還ることを請うたので、ついにこれを許した。明宗は魏県より兵を率いて南し、行欽は兵を率いて急ぎ京師に還った。荘宗に従って汴州に幸し、滎沢に行き至ると、明宗がすでに黎陽を渡ったと聞き、荘宗はまた従璟を遣わして明宗に通問させたが、行欽は不可とし、そこで従璟を撃ち殺した。

原文莊宗遣金槍指揮使李從璟馳詔明宗計事。從璟,明宗子也。行至衞州,而明宗已反,行欽乃縶從璟,將殺之,從璟請還京師,乃許之。明宗自魏縣引兵南,行欽率兵趨還京師。從莊宗幸汴州,行至滎澤,聞明宗已渡黎陽,莊宗復遣從璟通問于明宗,行欽以為不可,因擊殺從璟。

明宗が汴州に入ると、荘宗は萬勝鎮に至って進むことができず、行欽と道傍の冢に登り、酒を置き、互いに顧みて涙を流した。野人が雉を献じたので、その冢の名を問うと、野人は言うには、「愁臺です」と。荘宗はますます悦ばず、そこで酒を罷めて去った。西に石橋に至り、野次に酒を置き、荘宗は行欽に言うには、「卿らは我に従うこと久しく、富貴も急難も共にせざるはなかった。今この危難に際し、黙々として言わず、成敗を坐視する。我は滎沢に至り、単騎で河を渡り、自ら総管を求めんとしたが、卿らは各々利害を陳べよ。今日我をここに至らしめたのは、卿らはどうするつもりか」と。行欽は泣いて答えて言うには、「臣はもと小人であり、陛下の撫養を受け、位は将相に至りました。危難の時に、国に報いることができず、たとえ死しても責めを塞ぐことができません」と。そこで諸将百余人と共に、皆髻を解き髪を断ち、これを地に置き、死をもって報いることを誓い、君臣相い持って慟哭した。

原文明宗入汴州,莊宗至萬勝鎮不得進,與行欽登道旁冢,置酒,相顧泣下。有野人獻雉,問其冢名,野人曰:「愁臺也。」莊宗益不悅,因罷酒去。西至石橋,置酒野次,莊宗謂行欽曰:「卿等從我久,富貴急難無不同也。今茲危蹙,而默默無言,坐視成敗。我至滎澤,欲單騎渡河,自求總管,卿等各陳利害。今日俾我至此,卿等何如?」行欽泣而對曰:「臣本小人,蒙陛下撫養,位至將相。危難之時,不能報國,雖死無以塞責。」因與諸將百餘人,皆解髻斷髮,置之于地,誓以死報,君臣相持慟哭。

荘宗は洛陽に還り、数日後、また汜水に幸した。郭従謙が反し、荘宗は崩じ、行欽は出奔した。平陸に行き至ると、野人に捕らえられ、虢州に送られ、刺史石潭がその両足を折り、檻車に載せて京師に送った。明宗がこれを見て罵って言うには、「我が児が何ぞ爾に負くところあらんや」と。行欽は瞋目して直視し言うには、「先皇帝は何ぞ爾に負くところあらんや」と。そこで洛陽の市で斬り、市人は皆これのために涙を流した。

原文莊宗還洛陽,數日,復幸汜水。郭從謙反,莊宗崩,行欽出奔。行至平陸,為野人所執,送虢州,刺史石潭折其兩足,載以檻車,送京師。明宗見之,罵曰:「我兒何負於爾!」行欽瞋目直視曰:「先皇帝何負於爾!」乃斬于洛陽市,市人皆為之流涕。

嗚呼、死が貴ぶべき所以は、その義に殉じて苟くも生きることをしないが故である。故に曰く、主君が在れば共に在り、主君が亡びれば共に亡びる者は、社稷の臣であると。明宗が魏で兵変を起こした時、諸将は去就を知らず、行欽のみが反逆を聞き、またその子従璟を殺し、断髪して自ら誓うに至り、その誠節は賞賛に足るものがあった。然るに荘宗が崩じた時、自ら決断することができず、却って死を逃れて生を求め、遂には捕らえられて殺されるに至った。その言葉は屈しなかったが、死はその志ではなかった。何ぞ貴ぶに足らんや。

原文嗚呼!死之所以可貴者,以其義不苟生爾。故曰:主在與在,主亡與亡者,社稷之臣也。方明宗之兵變于魏,諸將未知去就,而行欽獨以反聞,又殺其子從璟,至於斷髮自誓,其誠節有足嘉矣。及莊宗之崩,不能自決,而反逃死以求生,終於被執而見殺。其言雖不屈,而死非其志也,烏足貴哉!

安金全

原文安金全

安金全は代北の人である。人となり驍勇果断にして、騎射に巧み、生け捕りや伏兵の踏み潰しに長けると称された。晋に仕えて騎将となり、数度荘宗に従って兵を用い功績があり、官は刺史に至り、病のため太原に居住した。

原文安金全,代北人也。為人驍果,工騎射,號能擒生踏伏。事晉為騎將,數從莊宗用兵有功,官至刺史,以疾居于太原。

荘宗が既に魏博を下し、梁と河上で対峙していた。梁の将王檀が太原を襲撃した。晋の兵は皆河上の荘宗に従っており、太原には備えがなく、監軍張承業は大いに恐れ、諸司の工匠を率いて城に登り防禦したが、外からの攻撃は甚だ急であった。金全は強いて起き上がり承業に言うには、「太原は晋の根本である。一旦守りを失えば、則ち大事去る。老夫は確かに疲弊しているが、尚公のために賊を破ることができよう。」承業は喜び、甲兵を授けた。金全は甲を着け馬に跨り、子弟及び旧将吏を召し集めて百余りを得、夜に北門を出て、羊馬城中の檀を撃ち、檀軍は驚いて潰走し、晋の救兵が漸く到着した。然るに荘宗は金全を能ある者とせず、その世を終えるまでその功績を記録しなかった。

原文莊宗已下魏博,與梁相距河上。梁將王檀襲太原,晉兵皆從莊宗于河上,太原無備,監軍張承業大恐,率諸司工匠登城扞禦,而外攻甚急。金全彊起謂承業曰:「太原,晉之根本也。一旦不守,則大事去矣!老夫誠憊矣,然尚能為公破賊。」承業喜,授以甲兵。金全被甲跨馬,召率子弟及故將吏得百餘人,夜出北門,擊檀於羊馬城中,檀軍驚潰,而晉救兵稍至。然莊宗不以金全為能,終其世不錄其功。

金全は明宗と旧知の間柄であり、明宗が即位すると、金全を振武軍節度使・同中書門下平章事に任じた。鎮に在ること二年、京師に召還され、病により卒した。

原文金全與明宗有舊,明宗即位,拜金全振武軍節度使、同中書門下平章事。在鎮二年,召還京師,以疾卒。

袁建豐

原文袁建豐

袁建豐、その家系は知られていない。晋王が黄巢を討って華陰に至った時、偶然彼を得た。時に九歳、その俊爽さを愛で、養育した。成長して騎射を習い、鉄林都虞候となり、王行瑜・李匡威を撃つに従い、功により突陣指揮使に遷った。荘宗に従って夾城を破り、柏郷で戦い、左廂馬軍指揮使に遷った。明宗が衙内指揮使となると、建豊はその副使となり、荘宗に従って魏に入り、衛・磁・洺の三州を取って、洺州刺史に任じられた。梁の将王千を撃ち、千余級を斬首し、その将校七十余人を捕らえた。相州刺史に遷った。胡柳の戦いに従い、指揮使孟謙が相州に拠って叛くと、建豊は還って討ち平げた。隰州刺史に移り、中風の病により廃した。

原文袁建豐,不知其世家也。晉王討黃巢至華陰,闌得之,時方九歲,愛其俊爽,收養之。長習騎射,為鐵林都虞候,從擊王行瑜、李匡威,以功遷突陣指揮使。從莊宗破夾城,戰柏鄉,遷左廂馬軍指揮使。明宗為衙內指揮使,建豐為副使,從莊宗入魏,取衞、磁、洺三州,拜洺州刺史。擊梁將王千,斬首千餘級,獲其將校七十餘人。遷相州刺史。從戰胡柳,指揮使孟謙據相州叛,建豐還討平之。徙隰州刺史,病風廢。

明宗が即位すると、旧恩により京師に召還し、自らその邸に幸して、撫慰すること甚だ厚く、検校太尉を加え、遥かに鎮南軍節度使を領せしめ、その俸給を食ませて卒するに至らしめ、太尉を贈られた。

原文明宗即位,以舊恩召還京師,親幸其第,撫慰甚厚,加檢校太尉,遙領鎮南軍節度使,俾食其俸以卒,贈太尉。

西方鄴

原文西方鄴

西方鄴は定州満城の人である。父再遇は汴州の軍校となり、鄴は軍中に居て、勇力をもって聞こえた。二十歳の時、南に渡河して梁に遊び、用いられず、再び河上の荘宗に帰り、荘宗は孝義指揮使とし、数度征伐に従い功績があり、同光年中に曹州刺史となり、州兵を率いて汴州に屯した。

原文西方鄴,定州滿城人也。父再遇,為汴州軍校,鄴居軍中,以勇力聞。年二十,南渡河遊梁,不見用,復歸莊宗于河上,莊宗以為孝義指揮使,數從征伐有功,同光中為曹州刺史,以州兵屯汴州。

明宗が魏より反し、兵は南に渡河し、荘宗は東に汴州に幸した。汴州節度使孔循は二心を抱き、北門で明宗を迎え、西門で荘宗を迎え、供帳や蓄えを同一にし、「先に至る者を入れよ」と言った。鄴は因って循を責めて言うには、「主上は梁を破って公を得、殺さざる恩有り。如何にして総管(明宗)を納れんとして国に背かんとするのか。」循は答えなかった。鄴は循と争うべからざるを思い、石敬瑭の妻は明宗の女であり、時に汴に在ったので、鄴は彼女を殺して人心を堅くせんとした。循はその謀を知り、彼女を家に匿い、鄴はどうすることもできなかった。而して明宗が既に汴に及んだので、乃ち五百騎を将いて西に汜水で荘宗を迎え、嗚咽して泣き下り、荘宗も亦之に為って嘘唏し、乃ち兵を以て先鋒たらしめた。荘宗は汴西に至り、入ることができず、洛陽に還り、弑逆に遇った。明宗が洛に入ると、鄴は馬前で死を請うた。明宗は久しく嘉歎した。

原文明宗自魏反,兵南渡河,而莊宗東幸汴州,汴州節度使孔循懷二志,使北門迎明宗,西門迎莊宗,所以供帳委積如一,曰:「先至者入之。」鄴因責循曰:「主上破梁而得公,有不殺之恩,奈何欲納總管而負國!」循不答。鄴度循不可爭,而石敬瑭妻,明宗女也,時方在汴,鄴欲殺之,以堅人心。循知其謀,取藏其家,鄴無如之何。而明宗已及汴,乃將五百騎西迎莊宗於汜水,嗚咽泣下,莊宗亦為之噓唏,乃使以兵為先鋒。莊宗至汴西,不得入,還洛陽,遇弒。明宗入洛,鄴請死於馬前,明宗嘉歎久之。

翌年、荊南けいなんの高季興が叛いた。明宗は襄州じょうしゅう節度使劉訓らを遣わして招討させ、東川の董璋を西南面招討使とし、乃ち鄴を夔州刺史に任じ、璋に副えて兵を率い三峡より出撃させた。已にして訓らは功無くして罷免され、諸将は皆罷められ、璋も亦嘗て出兵したが、惟だ鄴のみ三州を取り、乃ち夔州を寧江軍とし、鄴を節度使に任じた。已にして又帰州を取り、数度季興の兵を破った。

原文明年,荊南高季興叛,明宗遣襄州節度使劉訓等招討,而以東川董璋為西南面招討使,乃拜鄴夔州刺史,副璋以兵出三峽。已而訓等無功見黜,諸將皆罷,璋亦嘗出兵,惟鄴獨取三州,乃以夔州為寧江軍,拜鄴節度使。已而又取歸州,數敗季興之兵。

鄴は武人で、為すところ多く法度に中らず、判官譚善達は数度諫めた。鄴は怒り、人を遣わして善達が金を受けたことを告げさせ、獄に下した。善達は素より剛直で、辞は益々不遜となり、遂に獄中に死んだ。鄴は病み、善達が祟るを見、鎮において卒した。

原文鄴,武人,所為多不中法度,判官譚善達數以諫。鄴怒,遣人告善達受人金,下獄。善達素剛,辭益不遜,遂死于獄中。鄴病,見善達為祟,卒于鎮。