新五代史

巻二十五

目次

周徳威

周徳威は字を鎮遠といい、朔州馬邑の人である。人となり勇猛にして智謀多く、塵埃を望んで敵の数を知ることができた。その容貌は雄偉で、笑っても顔色を変えず、人これを見れば凛然たるものがあった。晋王に仕えて騎将となり、次第に鉄林軍使に昇進し、王行瑜を破るに従い、功により衙内指揮使に遷った。その小字は陽五といい、梁・晋の争いの際には、周陽五の勇名は天下に聞こえた。

梁軍が晋の太原を包囲したとき、軍中に令して言った、「周陽五を生け捕りにした者を刺史とする」と。ぎょう将陳章という者がおり、陳野义と号し、常に白馬に乗り朱甲を着けて自らを異ならせ、陣中を出入りし、周陽五を求め、必ず生け捕りにしようとした。晋王は徳威に戒めて言った、「陳野义は汝を得て刺史を求めようとしている。白馬に朱甲の者を見たら、よく備えよ」と。徳威は笑って言った、「陳章は大言を好むだけです。どうして刺史が臣のものにならないと分かりましょうか」と。そこで配下の兵に戒めて言った、「白馬に朱甲の者を見たら、偽って退走してこれを避けよ」と。両軍ともに陣を布き、徳威は微服して兵卒の間に混じった。陳章が出て来て挑戦し、兵が交わり始めると、徳威の部下が白馬に朱甲の者を見て、退走した。章は果たして矟を奮って急ぎこれを追い、徳威は章が通り過ぎたのを見計らい、鉄鎚を揮ってこれを撃ち、章に命中して馬から落ち、ついに生け捕りにした。

梁が燕を攻めたとき、晋は徳威に五万の兵を率いさせて燕のために梁を攻めさせ、潞州を奪い、代州刺史・内外蕃漢馬歩軍都指揮使に遷った。梁軍は燕を捨てて潞を攻め、夾城でこれを包囲した。潞州守将の李嗣昭は城を閉ざして防ぎ守ったが、徳威は梁軍と外で相持すること一年を越えた。嗣昭と徳威は平素から不和があった。晋王が病に伏せり危篤となり、荘宗に語って言った、「梁軍が潞を包囲しているが、徳威と嗣昭に不和がある。私は大いに憂える」と。王の喪が殯中にあり、荘宗が新たに立ち、その叔父克寧を殺し、国中が未だ定まらないうちに、晋の重兵はすべて徳威に属して外におり、晋人は皆恐れた。荘宗は人をやって喪と克寧の難を徳威に告げさせ、かつその軍を召還した。徳威は命を聞くと、即日に軍を返して太原に帰り、その兵を城外に留め、徒歩で入城し、梓宮の前に伏して慟哭し幾度か気絶し、晋人はようやく安堵した。ついに荘宗に従って再び梁軍を撃ち、夾城を破り、李嗣昭と初めのように和した。夾城を破った功により、振武節度使・同中書門下平章事に拝された。

天祐七年の秋、梁は王景仁に魏・滑・汴・宋などの兵七万人を率いさせて趙を撃たせた。趙王王鎔は晋に援軍を乞い、晋は徳威を先に趙州に駐屯させた。冬、梁軍が柏郷に至ると、趙人が危急を告げ、荘宗は自ら将として賛皇から出撃し、石橋で徳威と会い、進んで柏郷から五里の地点に迫り、野河の北に営した。晋兵は少なく、景仁の率いる神威・龍驤・拱宸などの軍は、いずれも梁の精兵で、人馬の鎧甲は組繍金銀で飾り、その光は日を耀かし、晋軍はこれを見て顔色を動かした。徳威はその衆を励まして言った、「これは汴・宋の傭販の児輩で、ただ外見を飾っているだけだ。中身は恐れるに足らぬ。その鎧一領は数十千の値打ちがあり、これを捕らえればまさに我が軍の資と足る。ただ眺めて愛でるな。努めてこれを取りに行け」と。退いて荘宗に告げて言った、「梁兵は甚だ鋭く、争うべきでありません。少し退いてこれを待つべきです」と。荘宗は言った、「我は孤軍を提げて千里を出てきた。その利は速戦にある。今勢いに乗じて急ぎこれを撃たず、敵に我が衆寡を知らせれば、我は施すところがなくなる」と。徳威は言った、「そうではありません。趙人は城を守ることはできても野戦はできません。我が勝利を取る利は騎兵にあり、平川広野は騎兵の長じるところです。今我が軍は河上にあり、賊の営門に迫っています。これは我が長所を用いる地ではありません」と。荘宗は悦ばず、退いて帳中に臥し、諸将は敢えて入って見る者もなかった。徳威は監軍の張承業に言った、「王は老兵を怒っておられる。速戦をしないのは、臆病なのではない。しかも我が兵は少なくて賊の営門に臨み、恃むところは、一水を隔てているだけだ。もし梁が舟栰を得て河を渡れば、我らは生き残れない。軍を退いて鄗邑に引き、敵を誘い出して営を出させ、かく乱して疲労させれば、策をもって勝つことができる」と。承業が入って言った、「徳威は老将で兵を知っております。どうかその言を軽んじないでください」と。荘宗は急ぎ起きて言った、「我はちょうどそれを考えていたところだ」と。やがて徳威が梁の遊兵を捕らえ、景仁が何をしているかと問うと、言った、「数百の舟を造り、浮橋としようとしている」と。徳威はこれを引き連れてともに謁見し、荘宗は笑って言った、「果たして公の予想どおりであった」と。そこで軍を退いて鄗邑に引き下がった。徳威は朝に三百騎を遣わして梁の営を叩き挑戦させ、自ら勁兵三千を率いてこれに続いた。景仁は怒り、その軍を悉く出して、徳威と転戦すること数十里、鄗の南に至った。両軍ともに陣を布き、梁軍は横に六七里に亘り、汴・宋の軍は西に居り、魏・滑の軍は東に居った。荘宗は馬を策って高みに登り、眺めて喜んで言った、「平原浅草、進むも退くもでき、まさに我が勝地である」と。そこで人をやって徳威に告げさせた、「我は公のために先んじよう。公は続いて進め」と。徳威は諫めて言った、「梁軍は軽々しく出て遠く来たり、我と転戦してきた。その来るには必ず糧秣を携える暇がなく、たとえ携えることができても、また食う暇もない。日午に及ばずして人馬ともに飢える。その退こうとする時に乗じて撃てば勝てます」と。諸将もまた皆そうあるべきと思った。未申の刻に至り、梁軍の東側に塵埃が上がった。徳威は鬨の声を上げて進み、その西側を指して言った、「魏・滑の軍が逃げた」と。またその東側を指して言った、「梁軍が逃げた」と。梁の陣は動揺し、再び整えることができず、皆逃げ出し、ついに大敗した。鄗から柏郷まで追撃し、横たわる死体は数十里に及び、景仁は十余騎で辛うじて免れた。梁と晋が争って以来、数十戦したが、このような大敗はかつてなかった。

劉守光が燕で僭号を称した。晋は徳威に三万の兵を率いさせて飛狐から出撃してこれを撃たせた。徳威は祁溝関に入り、涿州を奪い、ついに守光を幽州に包囲し、その外城を破った。守光は門を閉ざして防ぎ守った。晋軍は燕の諸州県をことごとく陥落させたが、ただ幽州だけが落ちず、包囲すること一年を越えてようやくこれを破り、功により盧龍軍節度使に拝された。徳威は大将と雖も、常に身をもって士卒とともに矢石の間を馳せた。守光の驍将単廷珪は、陣中で徳威を見て言った、「これは周陽五だ」と。そこで槍を挺てて騎を馳せてこれを追った。徳威は偽って逃げ、廷珪がまさに追いつかんとするのを見計らい、身を側めにして少し退いた。廷珪の馬はちょうど疾走しており、止めることができず、その少し通り過ぎるのを待ち、檛を奮ってこれを撃ち、廷珪は馬から墜ち、ついに捕らえられた。

荘宗と劉鄩が魏で相持した。鄩は夜に軍を潜めて黄沢関から出て太原を襲おうとした。徳威は幽州から千騎を率いて土門に入り、これを追跡した。鄩は楽平に至り、雨に遭って進むことができずに引き返した。徳威は鄩とともに東へ向かい、臨清へ急ごうと争った。臨清には積み粟があり、かつ晋軍の糧道であった。徳威は先に馳せてこれを占拠した。このため荘宗はついに鄩軍を窮地に陥れてこれを破ることができた。

荘宗は勇猛にして戦を好み、殊に敵を見るに鋭かった。徳威は老将であり、常に持重を務めて人の鋒を挫くことを旨とし、故にその用兵は常に敵の隙を窺って勝を取った。十五年、徳威は燕兵三万人を率い、鎮・定等の軍と共に荘宗に従って河上におり、麻家渡より進軍して臨濮に至り、汴州に向かった。軍は胡柳陂に宿営し、黎明、斥候騎兵が報じて言うには、「梁軍が至りました!」。荘宗が徳威に戦について問うと、徳威は答えて言うには、「ここより汴州までは、二泊ほどの近さであり、梁軍の父母妻子は皆その中におり、梁人の家国の命運はこの一挙に懸かっている。我らは深入りした兵をもって、その必死の戦いに当たるのであり、計略をもって勝つことはできようが、力戦して争うことは難しい。かつ我が軍は先にここに至り、糧食炊事の具は整い営柵は完備している、これこそ以逸待労の師というものである。王は軍を押さえて動かず、臣に騎兵をもってこれを撹乱させ、その営柵を成さしめず、薪を採り炊事する暇を与えず、その疲労困憊に乗ずれば、勝つことができるでしょう」。荘宗は言う、「我が軍は河上にあり、終日敵を待っていた。今敵を見て撃たねば、また何を為すというのか」。李存審を顧みて言う、「公は輜重を先に行かせよ、我は公の後衛となろう」。急いで軍を督して出陣した。徳威はその子に言う、「我は死ぬべき場所を知らぬ!」。前に進んで梁軍と遭遇し陣を布いた。王は中央に、鎮・定の軍は左翼に、徳威の軍は右翼に、そして輜重は右翼の西に次いだ。兵が既に接戦すると、荘宗は銀槍軍を率いて梁の陣に馳せ入り、梁軍は小敗し、晋の輜重を犯した。輜重の兵は梁の朱旗を見て、皆驚いて徳威の軍に走り入り、徳威の軍は乱れ、梁軍がこれに乗じ、徳威父子は共に戦死した。荘宗は諸将と相抱いて泣きながら言う、「老将の言を聞かず、その父子をここに至らしめた!」。荘宗が即位すると、徳威に太師を追贈した。明宗の時、太尉を加贈し、荘宗の廟に配享された。晋の高祖こうそは徳威を燕王に追封した。子の光輔は、刺史にまで至った。

符存審(子は彦超、彦饒、彦卿)

符存審、字は徳詳、陳州宛丘の人である。初めは名を存といい、若い頃は微賤で、かつて法を犯して死罪に当たり、刑に臨んで、傍らの壊れた塀を指さして刑吏を見て言うには、「願わくは彼処で死に就き、塀の土で屍を覆うことを得たい」。刑吏は哀れんでこれを許し、塀の下に移した。ところが主将がちょうど酒を飲んでおり、その愛妓を顧みて、上手な歌い手を得て酒の助けとしたいと思い、妓が言うには、「符存という者が常に妾のために歌い、甚だ上手です」。主将は騎馬を馳せて存審を召し、存審は塀の下に移された故に、未だ刑を加えられておらず、そこで召しに応じて往き、歌わせてこれを喜び、存審はこれによって死を免れた。その後、李罕之に仕え、罕之に従って晋に帰順し、晋王はこれを義児軍使とし、李氏の姓を賜り、名を存審とした。

晋王に従って李匡儔を撃ち、前鋒となり、居庸関を破った。また従って王行瑜を撃ち、龍泉寨を破り、功により検校左僕射に遷った。李嗣昭に従って汾州を攻め、李瑭を捕らえ、左右廂歩軍指揮使に遷った。また嗣昭に従って潞州を攻め、丁会を降した。周徳威に従って梁の夾城を破り、忻州刺史・蕃漢馬歩軍指揮使に遷った。晋・趙が燕を攻め、梁が燕を救い、趙の深州を撃ち、蓨県を包囲した時、存審は史建瑭と軍を下博に進め、梁軍を撃退し、邢州団練使を領するに遷った。魏博が梁に叛いて晋に降ると、存審は前鋒となり、臨清に屯した。荘宗が魏に入ると、存審は後衛として魏県にあり、劉鄩と莘西で対峙した。荘宗に従って故元城で劉鄩を破り、閻宝が邢州を降すと、乃ち存審を安国軍節度使とした。毛璋が滄州を降すと、存審を横海に移し、同中書門下平章事を加えた。

契丹が幽州を包囲した。この時晋は梁と河上で相持しており、兵を発そうとすれば兵は少なく、救わねば、失うことを恐れた。荘宗は疑い、諸将に問うたが、存審のみが救うべきであるとし、言うには、「願わくは臣に騎兵五千を貸し与えられれば足ります!」。乃ち存審に分兵してこれを救わせ、遂に契丹を撃退した。胡柳陂の戦いに従い、晋軍は朝に敗れ、周徳威を失ったが、存審はその子彦図と力戦し、暮れに土山で再び梁軍を破り、遂に徳勝を取って、河南北に両城を築き、晋人はこれを「夾寨」と呼んだ。内外蕃漢馬歩軍総管に遷った。

梁の朱友謙が河中・同州を以て晋に降ると、梁は劉鄩を遣わして同州を攻め、友謙が救援を求めたので、乃ち存審と李嗣昭を遣わしてこれを救った。河中の兵は少なく弱く、梁人は平素これを軽んじており、且つ晋軍の速やかに至ることを予期していなかった。存審は精騎二百を選び河中の兵に混ぜて劉鄩の陣営を出撃し、陽に敗れて走り、劉鄩の兵がこれを追うと、晋の騎兵が反撃し、その騎兵五十を捕らえた。梁人はこれが晋軍であると知り、皆大いに驚いた。しかし河中は糧食が少なく新たに降ったばかりで、人心は頗る両端を持していた。晋軍は朝邑に屯し、諸将は皆速戦を欲したが、存審は言う、「梁軍に我らが速戦を利とすることを知らしめれば、則ち渭水を挟んで営を張り、我が糧道を断ち、持久をもって我を困らせ、則ち進退もできず、敗の道である。緩やかに軍を進めて弱きを示し、隙を窺って奇を出すに如かず、勝を取ることができる」。乃ち軍を押さえて動かず。十日ほど経ち、望気者が言うには、「黒気あり、形は闘鶏の如し」。存審は言う、「一戦することができる」。乃ち進軍して劉鄩を撃ち、大いにこれを破った。劉鄩は壁を閉じて再び出てこなかった。存審は言う、「劉鄩の兵は既に敗れた、逸らすに如かず」。乃ち士卒を休め、裨将の王建及を遣わして沙苑で馬を牧させた。劉鄩は晋軍が懈怠するであろうと思い、乃ち夜遁走した。存審は渭河でこれを追撃し、また大いにこれを破った。

張文礼が趙王王鎔をしいしいぎゃくし、晋は閻宝・李嗣昭等を遣わしてこれを攻めたが、至るや戦死し、最後に存審を遣わしてこれを破った。

存審は将として機略あり、大小百余戦、未だ嘗て敗北せず、周徳威と斉名した。徳威が死ぬと、晋の旧将で存するは存審のみであった。契丹が遮虜を攻めると、乃ち存審を盧龍軍節度使とした。時に存審は既に病んでおり、辞して行こうとせず、荘宗は人を遣わして慰諭し、強いてこれを遣わした。

荘宗が梁を滅ぼして洛に入ると、存審は自ら大将の身でありながら、梁を破る功に与ることができず、怏怏として、病い益々甚だしくなり、因って京師への朝請を請うた。この時、郭崇韜の権位は既に重かったが、その名望は平素より存審の下にあり、その来朝して己の上に加わることを快く思わず、因ってその事を阻んだ。存審の妻郭氏が崇韜に泣き訴えて言うには、「我が夫は国に功があり、且つ公とは郷里の旧誼があるのに、如何にして忍んで死を棄てて窮野に置くのですか!」。崇韜はますます怒った。存審の上奏は累次に及び、許されず、存審は枕に伏して嘆いて言う、「老夫は二主に仕えて四十年、今日天下一家となり、四夷遠俗、亡国の将に至るまで、射鈎斬袪の人も皆、親しく天子に謁し、觴を奉じて寿を為すことを得るのに、独り我のみがここに棄てられて死ぬ、豈に命でないことがあろうか!」。崇韜は存審の病が既に急であると推し量り、乃ちその来朝を許すことを請うた。存審を宣武軍節度使に移し、幽州で卒した。臨終に、その子を戒めて言う、「我は若くして一剣を提げて郷里を去り、四十年の間に将相を取った。然れども鋒を履み刃を冒し、死を出で生に入ってここに至ったのである」。因ってその平生、身に中った矢鏃百余りを取り出して示し、言う、「爾ら其れ勉めよ!」。存審に三子あり。彦超、彦饒、彦卿。

彦超は汾州刺史となった。郭従謙が荘宗を弑し、明宗が洛陽らくように入ると、この時、彦超は北京巡検であり、永王存が太原に奔った。彦超は留守張憲に会いこれを謀った。憲は儒者で、荘宗に仕えたこと最も久しく、恩に背くに忍びず、存霸を納れようとしたが、彦超は従わず、存霸は遂に殺された。明宗が即位すると、彦超は来朝し、明宗はこれを徳とし、労って言った、「河東に事なきは、爾が力に頼るなり」と。建雄軍留後とした。北京留守に遷り、昭義に移鎮し、上将軍に罷められ、また泰寧軍節度使となり、さらに安遠に移った。

彦超の主蔵奴王希全がその資を盗み、彦超が少しこれを責めたので、奴は懼れ、夜その門を叩き、急事があると言った。彦超が出ると、殺され、太尉を贈られた。

次子彦饒は、汴州馬歩軍都指揮使となった。天成元年、汴兵三千を発して瓦橋関を戍らせたが、控鶴指揮使張諫が乱を起こし、権知州高逖を殺し、彦饒を迫って帥とした。彦饒は陽らにこれを許して言った、「吾を帥と欲するならば、焚掠を止め、明日軍礼をもって吾に南衙で会え」と。乃ち密かに拱衙指揮使龐起と謀り、衙内に甲を伏せた。明日、諫ら皆集まり、伏兵発し、諫らを誅し、四百余人を殺し、即日州事を推官韋儼に牒した。明宗は詔を下し、その忠略を褒めた。その後累遷して彰聖都指揮使となり、曹・沂・饒の三州刺史を歴任した。

清泰三年、饒州刺史より忠正軍節度使・侍衛馬歩軍都指揮使に拝された。晋高祖が太原より起つと、彦饒は侍衛兵を率いて廃帝に従い河陽に至った。廃帝が敗れると、晋高祖は楊光遠を以て彦饒に代えて親軍を将とし、彦饒を義成軍節度使に移した。

范延光が反すると、白奉進は侍衛兵三千を率いて滑州に屯した。兵士が法を犯し、奉進が五人を捕え、その内三人は義成兵であったので、併せて斬った。彦饒は怒った。明日、奉進は数騎を従えて彦饒の許を過ぎ、先に告げずして殺したことを謝した。彦饒は言った、「軍士にはそれぞれ部分あり、義成兵卒をどうして公が斬るを得ようか。何ぞ主客の礼なきや」と。奉進は怒って言った、「軍士が法を犯せば、何ぞ彼我あらんや。且つ僕は既に自ら過ちを謝したのに、公の怒り止まず、延光とともに反せんと欲するか」と。衣を払って起ち上がると、彦饒は再び留めず、その麾下大いに譟り、奉進を追って殺したが、彦饒はこれを止めなかった。やがて屯駐軍将馬万ら乱を聞き、兵を以て彦饒を擒らえて京師に送り、遂に彦饒が延光の反に応じたと聞こえた。赤岡に行き至ると、高祖は人を遣わしてこれを殺し、詔を下して在身の官爵を削奪した。

彦饒は晋と初め隙間なく、一旦の忿りに、その軍を馭する能わず、奉進を殺したのは既にその本意に非ず、反を以て誅せられたのは、その罪に非ざるなり。

史建瑭(子に匡翰あり)

史建瑭は、雁門の人である。晋王が雁門節度使であった時、その父敬思は九府都督ととくとなり、晋王に従い関に入り黄巣を破り、京師を復し、秦宗権を陳州に撃つに、嘗て騎兵を将いて先鋒となった。晋王が東に黄巣を冤朐に追い、還って梁を過ぎ、その城北に軍した。梁王は酒宴を上源駅に設け、独り敬思と薛鉄山・賀回鶻ら十余りが侍した。晋王酔い、梁の駅に留宿すると、梁兵夜に囲んでこれを攻めた。敬思は駅楼に登り、梁兵十余りを射殺した。会うこと天大雨、晋王は従者とともに去るを得、尉氏門を縋って出た。而して敬思は梁の追兵に得られ、殺された。

建瑭は若くして軍中に事えて裨校となり、晋が丁会を降してより、梁と潞州に相距つに、建瑭は既に晋兵の先鋒となった。梁兵は数え建瑭に殺され、常に史先鋒を避けよと戒め合った。梁は王景仁を遣わして趙を攻め、晋軍は趙を救う。建瑭は先鋒兵を率いて井陘より出で、柏郷に戦う。梁軍は方陣を為し、その兵を二つに分けた。汴・宋の軍は左に居り、魏・滑の軍は右に居った。周徳威はその左を撃ち、建瑭はその右を撃つと、梁軍皆走り、遂にこれを大敗した。功により検校左僕射を加えられた。

天祐九年、晋が燕を攻めると、燕王劉守光は梁に師を乞い、梁太祖自ら将いて趙を撃ち、棗彊・蓨県を囲んだ。この時晋の精兵は皆北に燕を攻め、独り符存審と建瑭が三千騎を率いて趙州に屯した。梁軍は既に棗彊を破り、存審は下博橋を扼した。建瑭はその麾下五百騎を分けて五隊と為した。一隊は衡水に、一隊は南宮に、一隊は信都に、一隊は阜城に向かい、而して自らはその一隊を将い、各々梁の芻牧者十人を取って下博に会うことを約した。暮れに至り、梁兵数十人を擒らえ、皆殺し、各々その一人を留め、逃がして去らせ、告げて言った、「晋王の軍将に大いに至らん」と。明日、建瑭は百騎を率いて梁の旗幟を為し、その芻牧者に雑じ、暮れに梁の営を叩き、その守門卒を殺し、火を放ち大いに呼び、数十百人を斬撃した。而して梁の芻牧者の出づる所、各々晋兵に遇い、亡失する所あり、その逃がして殺さざる者は、帰って皆晋軍将に至ると言った。梁太祖は夜に営を抜いて去り、蓨県人はこれを追撃し、梁軍はその輜重鎧甲を棄てること算うべからず。梁太祖は方に病み、ここにより増劇した。而して晋軍は故を以て力を併せて燕を収め得たのは、二人の力である。後に荘宗に従い魏博に入り、劉鄩を故元城に敗り、累ねて功により貝・相の二州刺史を歴任した。

十八年、晋軍は鎮州において張文礼を討ち、建瑭は先鋒兵を率いて趙州を下し、その刺史王鋋を執った。兵鎮州に傅き、建瑭はその城門を攻め、流矢に中り卒した。年四十二。

建瑭の子匡翰は、晋高祖の女を尚し、これ魯国長公主である。匡翰は将として、沈毅にして謀あり、而して下に接するに礼を以てし、部曲と語るに未だ嘗て名を呼ばざるはなかった。天雄軍歩軍都指揮使・彰聖馬軍都指揮使を歴任した。晋に事えて懐・和二州刺史・鄭州防禦使・義成軍節度使となり、至る所兵民これを称慕した。

史氏は世々将を為し、而して匡翰は読書を好み、特に春秋三伝を喜び、学者と講論し、終日倦むことなかった。

義成軍従事関澈は特に酒を嗜み、嘗て酔って匡翰を罵りて言った、「近く張彦澤が張式を臠にしたと聞くも、未だ史匡翰が関澈を斬るを見ず、天下の談者未だ偶々ならざるなり」と。匡翰は怒らず、杯を満たして自ら罰し、これを慰勉した。人皆その量に服した。卒す年四十。

王建及

王建及は許州の人である。若くして李罕之に仕え、罕之に従って晋に奔り、匡えい指揮使となった。梁と晋が柏郷で戦い、鄗邑の野河上で対峙したとき、鎮州・定州の兵が河橋を扼したが、梁兵が急にこれを撃った。荘宗が高台に登って望見すると、鎮・定の兵が敗れようとしていたので、顧みて建及に言うには、「橋が梁に奪われれば、わが軍は危うい。どうしたものか」と。建及は二百人を選んで馳せて梁兵を撃ち、梁兵は敗れて解き去った。莘県・故元城の戦いに従い、いずれも先登して陣を陥し、功により累進して遼州刺史に拝され、銀槍効節軍を将いた。

晋が楊劉を攻めたとき、建及はみずから葦を背負って塹壕を埋め、先登してこれを抜いた。胡柳の戦いに従い、晋兵はすでに敗れ、梁と土山を争ったが、梁兵が先に至り、山に登って陣を布いた。荘宗が山下に至って梁の陣が堅く整っているのを望見し、その軍を呼んで言うには、「今日の戦いは、山を得る者が勝つ」と。そこで騎兵を馳せてこれを犯させた。建及は銀槍軍を率いて続いて進み、梁兵は下って走り、山の西に陣したので、晋兵はついに土山を得た。諸将は皆言うには、「潰走した兵はまだ集まっていない。朝夕には戦えない」と。閻宝が言うには、「彼らは山上に陣し、我らはその下にいる。それでもなおこれを撃つことができる。まして高きより低きを撃つこと、機会を失うべきではない」と。建及はこれを然りとし、そこで荘宗に申し上げて言うには、「高きに登って臣が敵を破るのをご覧ください」と。すぐに衆を呼んで言うには、「今日失った輜重は皆、山の西にある。どうして取りに行かぬのか」と。すぐに馳せて梁の陣を犯し、梁兵は大敗した。晋はついに徳勝に軍し、河上に南北の城を築いた。梁の将賀瓌がその南城を攻め、竹の笮で戦艦を河に繋ぎ止めたので、晋兵は渡ることができず、南城は非常に危うかった。荘宗は軍門に金帛を積み、梁の戦艦を破ることができる者を募ったが、吐火や禁呪に至るまであらゆる者がいた。建及は重鎧を着て矟を執り、呼んで言うには、「梁と晋は一水の隔たりのみ。何ぞ巧みなことをする必要があろうか。我、今これを破る」と。すぐに大甕に薪を積み、上流より火を放って梁の戦艦を焼き、建及は二隻の舟に甲士を載せてこれに従い、その竹の笮を斧で断ったので、梁兵は皆走り去った。晋軍はついに渡ることができ、南城を救い、瓌の包囲は解けて去った。

荘宗が魏博を得て以来、建及は銀槍効節軍を将いた。建及は将として、家財を士卒に散じることを好んだ。荘宗は宦官韋令図を遣わしてその軍を監させたが、令図は言うには、「建及は士卒の心を得ている。異志を抱くことを恐れるので、牙兵を統率させるべきではない」と。すぐに代州刺史とした。建及は怏怏として卒し、年五十七であった。

元行欽

元行欽は幽州の人である。劉守光の裨将となり、守光がその父仁恭をさんさんだつすると、行欽に兵を率いさせて大安山で仁恭を攻めて幽閉させ、また行欽に諸兄弟を害させた。その後、晋が幽州を攻めると、守光は行欽に雲州・朔州の間で兵を募らせた。この時、明宗が山北の地を掠め、行欽と広辺軍で相拒し、合わせて八度戦い、明宗は七度行欽に射中てたが、行欽は矢を抜いて戦い、また明宗の股に射中てた。行欽はたびたび敗れ、ついに降伏した。明宗はその背を撫でて酒を飲ませて言うには、「壮士なり」と。そこで養子とした。常に明宗に従って戦い、数度功を立てた。荘宗がすでに魏を下すと、ますます驍将を選んで自衛し、行欽の驍勇を聞いてこれを取り、散員都部署とし、姓名を賜って李紹栄と言った。

荘宗は戦いを好み軽敵し、梁軍と潘張で戦い、軍は敗れて潰走し、荘宗は三四騎を得て馳せ去ったが、梁兵数百が追い付き、矟を集めてこれを囲んだ。行欽はその旗を望見して識り、一騎を馳せ、奮って剣でその二矛を断ち、首級一つを斬り、梁兵は解き去った。荘宗は営に還り、行欽の手を取って泣いて言うには、「富貴は卿と共にす」と。これにより寵愛は諸将を絶した。忻州刺史に拝され、武寧軍節度使に遷った。荘宗が内殿で群臣を宴すると、酒酣に楽が奏され、平生の戦陣の事を道いて笑楽としたが、行欽がいないのを怪しみ、左右を顧みて言うには、「紹栄はどこにおるか」と。所司が奏上して言うには、「勅命により使相を宴するので、紹栄は散官であり、与ることができません」と。荘宗は会を罷めて楽しからず、明日、すぐに行欽を同中書門下平章事に拝した。これより群臣を内殿に召し入れることはせず、ただ武臣のみを宴した。

趙在礼が魏で反すると、荘宗はちょうど大将を選んでこれを撃たんとしていたが、劉皇后が言うには、「これは小事である。紹栄に指揮させればよい」と。そこで鄴都行営招撫使とし、二千人を率いてこれを討たせた。行欽は鄴の南門を攻め、詔書をもって在礼を招いた。在礼は羊酒を送って軍を犒い、城に登って行欽に言うには、「将兵は長年父母を離れ、勅旨を取らずに奔り帰り、上は聖慮を貽す。追悔しても及ばぬ。もし公が善く言葉を尽くせば、なお過ちを改めて自新することができよう」と。行欽は言うには、「天子は汝らに社稷の功があるとし、小さな過ちは必ず赦し宥すであろう」と。在礼は再拝し、詔書を諸軍に示した。皇甫暉が傍らから詔書を奪い取ってこれを破ったので、軍士は大いに騒いだ。行欽はことごとくこれを聞かせると、荘宗は大いに怒り、行欽に勅して言うには、「城を破る日には、種を遺すなかれ」と。そこでますます諸鎮の兵を召し、皆を行欽に属させた。行欽は澶州に屯し、諸鎮の兵を五道に分け、民の車輪・門扉・屋椽を毀って筏とし、長慶河を渡って冠氏門を攻めたが、克たなかった。

この時、邢州・洺州などの諸州が相次いで皆叛き、行欽は鄴を攻めて功がなく、荘宗はみずから将として行かんとしたが、群臣は皆諫めて止めさせ、ついに明宗を遣わしてこれを討たせた。明宗は魏に至り、城西に軍し、行欽は城南に軍した。ところが明宗の軍が変じ、魏に入り、在礼と合した。行欽はこれを聞き、退いて衞州に屯し、明宗の反を聞かせた。

荘宗は金槍指揮使李従璟を遣わし、詔を馳せて明宗に事を計らせた。従璟は明宗の子である。衞州に行き至ったが、明宗はすでに反しており、行欽は従璟を縛り、これを殺さんとした。従璟は京師に還ることを請うたので、ついにこれを許した。明宗は魏県より兵を率いて南し、行欽は兵を率いて急ぎ京師に還った。荘宗に従って汴州に幸し、滎沢に行き至ると、明宗がすでに黎陽を渡ったと聞き、荘宗はまた従璟を遣わして明宗に通問させたが、行欽は不可とし、そこで従璟を撃ち殺した。

明宗が汴州に入ると、荘宗は萬勝鎮に至って進むことができず、行欽と道傍の冢に登り、酒を置き、互いに顧みて涙を流した。野人が雉を献じたので、その冢の名を問うと、野人は言うには、「愁臺です」と。荘宗はますます悦ばず、そこで酒を罷めて去った。西に石橋に至り、野次に酒を置き、荘宗は行欽に言うには、「卿らは我に従うこと久しく、富貴も急難も共にせざるはなかった。今この危難に際し、黙々として言わず、成敗を坐視する。我は滎沢に至り、単騎で河を渡り、自ら総管を求めんとしたが、卿らは各々利害を陳べよ。今日我をここに至らしめたのは、卿らはどうするつもりか」と。行欽は泣いて答えて言うには、「臣はもと小人であり、陛下の撫養を受け、位は将相に至りました。危難の時に、国に報いることができず、たとえ死しても責めを塞ぐことができません」と。そこで諸将百余人と共に、皆髻を解き髪を断ち、これを地に置き、死をもって報いることを誓い、君臣相い持って慟哭した。

荘宗は洛陽に還り、数日後、また汜水に幸した。郭従謙が反し、荘宗は崩じ、行欽は出奔した。平陸に行き至ると、野人に捕らえられ、虢州に送られ、刺史石潭がその両足を折り、檻車に載せて京師に送った。明宗がこれを見て罵って言うには、「我が児が何ぞ爾に負くところあらんや」と。行欽は瞋目して直視し言うには、「先皇帝は何ぞ爾に負くところあらんや」と。そこで洛陽の市で斬り、市人は皆これのために涙を流した。

嗚呼、死が貴ぶべき所以は、その義に殉じて苟くも生きることをしないが故である。故に曰く、主君が在れば共に在り、主君が亡びれば共に亡びる者は、社稷の臣であると。明宗が魏で兵変を起こした時、諸将は去就を知らず、行欽のみが反逆を聞き、またその子従璟を殺し、断髪して自ら誓うに至り、その誠節は賞賛に足るものがあった。然るに荘宗が崩じた時、自ら決断することができず、却って死を逃れて生を求め、遂には捕らえられて殺されるに至った。その言葉は屈しなかったが、死はその志ではなかった。何ぞ貴ぶに足らんや。

安金全

安金全は代北の人である。人となり驍勇果断にして、騎射に巧み、生け捕りや伏兵の踏み潰しに長けると称された。晋に仕えて騎将となり、数度荘宗に従って兵を用い功績があり、官は刺史に至り、病のため太原に居住した。

荘宗が既に魏博を下し、梁と河上で対峙していた。梁の将王檀が太原を襲撃した。晋の兵は皆河上の荘宗に従っており、太原には備えがなく、監軍張承業は大いに恐れ、諸司の工匠を率いて城に登り防禦したが、外からの攻撃は甚だ急であった。金全は強いて起き上がり承業に言うには、「太原は晋の根本である。一旦守りを失えば、則ち大事去る。老夫は確かに疲弊しているが、尚公のために賊を破ることができよう。」承業は喜び、甲兵を授けた。金全は甲を着け馬に跨り、子弟及び旧将吏を召し集めて百余りを得、夜に北門を出て、羊馬城中の檀を撃ち、檀軍は驚いて潰走し、晋の救兵が漸く到着した。然るに荘宗は金全を能ある者とせず、その世を終えるまでその功績を記録しなかった。

金全は明宗と旧知の間柄であり、明宗が即位すると、金全を振武軍節度使・同中書門下平章事に任じた。鎮に在ること二年、京師に召還され、病により卒した。

袁建豐

袁建豐、その家系は知られていない。晋王が黄巢を討って華陰に至った時、偶然彼を得た。時に九歳、その俊爽さを愛で、養育した。成長して騎射を習い、鉄林都虞候となり、王行瑜・李匡威を撃つに従い、功により突陣指揮使に遷った。荘宗に従って夾城を破り、柏郷で戦い、左廂馬軍指揮使に遷った。明宗が衙内指揮使となると、建豊はその副使となり、荘宗に従って魏に入り、衛・磁・洺の三州を取って、洺州刺史に任じられた。梁の将王千を撃ち、千余級を斬首し、その将校七十余人を捕らえた。相州刺史に遷った。胡柳の戦いに従い、指揮使孟謙が相州に拠って叛くと、建豊は還って討ち平げた。隰州刺史に移り、中風の病により廃した。

明宗が即位すると、旧恩により京師に召還し、自らその邸に幸して、撫慰すること甚だ厚く、検校太尉を加え、遥かに鎮南軍節度使を領せしめ、その俸給を食ませて卒するに至らしめ、太尉を贈られた。

西方鄴

西方鄴は定州満城の人である。父再遇は汴州の軍校となり、鄴は軍中に居て、勇力をもって聞こえた。二十歳の時、南に渡河して梁に遊び、用いられず、再び河上の荘宗に帰り、荘宗は孝義指揮使とし、数度征伐に従い功績があり、同光年中に曹州刺史となり、州兵を率いて汴州に屯した。

明宗が魏より反し、兵は南に渡河し、荘宗は東に汴州に幸した。汴州節度使孔循は二心を抱き、北門で明宗を迎え、西門で荘宗を迎え、供帳や蓄えを同一にし、「先に至る者を入れよ」と言った。鄴は因って循を責めて言うには、「主上は梁を破って公を得、殺さざる恩有り。如何にして総管(明宗)を納れんとして国に背かんとするのか。」循は答えなかった。鄴は循と争うべからざるを思い、石敬瑭の妻は明宗の女であり、時に汴に在ったので、鄴は彼女を殺して人心を堅くせんとした。循はその謀を知り、彼女を家に匿い、鄴はどうすることもできなかった。而して明宗が既に汴に及んだので、乃ち五百騎を将いて西に汜水で荘宗を迎え、嗚咽して泣き下り、荘宗も亦之に為って嘘唏し、乃ち兵を以て先鋒たらしめた。荘宗は汴西に至り、入ることができず、洛陽に還り、弑逆に遇った。明宗が洛に入ると、鄴は馬前で死を請うた。明宗は久しく嘉歎した。

翌年、荊南の高季興が叛いた。明宗は襄州節度使劉訓らを遣わして招討させ、東川の董璋を西南面招討使とし、乃ち鄴を夔州刺史に任じ、璋に副えて兵を率い三峡より出撃させた。已にして訓らは功無くして罷免され、諸将は皆罷められ、璋も亦嘗て出兵したが、惟だ鄴のみ三州を取り、乃ち夔州を寧江軍とし、鄴を節度使に任じた。已にして又帰州を取り、数度季興の兵を破った。

鄴は武人であり、為すところ多く法度に中らず、判官譚善達が数度諫めた。鄴は怒り、人を遣わして善達が人の金を受け取ったと告げ、獄に下した。善達は元来剛直であり、言葉益々不遜であったので、遂に獄中で死んだ。鄴は病み、善達が祟りをなすのを見て、鎮で卒した。