新五代史

巻二十四

目次

郭崇韜

郭崇韜は代州雁門の人であり、河東教練使となった。人となりは明敏で、応対に巧み、才幹をもって称された。

荘宗が晋王であった時、孟知祥が中門使となり、崇韜はその副使となった。中門の職務は機要に参与し、以前は呉珙・張虔厚らが皆中門使として相次いで罪を得ていた。知祥は恐れて外任を求めると、荘宗は言った、「公が事を避けたいなら、公に代わるべき者を推挙すべきである。」知祥はそこで崇韜を中門使に推薦し、崇韜は大いに親信された。

晋の兵が鎮州で張文礼を包囲したが、長く落とせず、定州の王都が契丹を引き入れて侵入した。契丹が新楽に至ると、晋人は皆恐れ、包囲を解いて去ろうとしたが、荘宗は決断できなかった。崇韜は言った、「契丹が来たのは、文礼を救うためではなく、王都が利で誘ったからです。かつ晋は梁軍を破ったばかりで、既に振るう勢いに乗ずべきであり、急に自ら退いて怯むべきではありません。」荘宗はこれをよしとし、果たして契丹を破った。荘宗が即位すると、崇韜を兵部尚書・枢密使に任じた。

梁の王彦章が徳勝を撃破し、唐軍は東に退いて楊劉を保ち、彦章がこれを包囲した。荘宗が塁に登り、彦章が重い塹壕を築いて唐軍を絶とうとするのを見て、軽んじ、笑って言った、「我はその心を知った。持久して我を疲弊させようとするのだ。」すぐに短兵を率いて出戦したが、彦章の伏兵に射られ、大敗して帰った。荘宗が崇韜に問うた、「計はどう出そうか。」この時、唐は既に鄆州を得ていた。崇韜はそれに乗じて言った、「彦章がここに我を包囲するのは、その志は鄆州を取ることにあるのです。臣は数千の兵を得て、河の下流を占め、必ず争うべき地に塁を築き、鄆州に応ずることを名目とすれば、彦章は必ず争いに来ます。兵を分けたならば、図ることができます。しかし板築の工事は急に成し難い。陛下は日に精兵を以て挑戦し、彦章の兵を東に行かせず、十日で塁は完成します。」荘宗はこれをよしとし、崇韜と毛璋に数千人を率いさせ夜行させ、通過する所で住民を駆り掠め、屋を壊し木を伐り、河を渡って博州の東に塁を築かせ、昼夜を分かたず役事を監督させ、六日で塁は完成した。彦章は果たして兵を率いて急攻した。時は大暑のさなかであり、彦章の兵は熱死し、塁を攻めて克たず、失うところ大半に及び、楊劉に引き返した。荘宗は迎え撃って、遂にこれを破った。

康延孝が梁から唐に奔った時、まず崇韜に会い、崇韜は彼を臥内に招き入れ、梁の虚実をことごとく知った。この時、荘宗の軍は朝城にあり、段凝の軍は臨河にあった。唐は徳勝を失って以来、梁兵は日に澶・相を掠め、黎陽・えい州を取り、李継韜が沢潞を以て叛き梁に入り、契丹はたびたび幽・涿を犯し、また延孝の言うところによれば梁は諸鎮の兵を召して大挙しようとしていると聞き、唐の諸将は皆憂い惑い、成敗は未だ知るべからずと言った。荘宗はこれを憂い、諸将に問うた。諸将は皆言った、「唐は鄆州を得たが、河を隔てて守るのは難しく、鄆を棄てて梁に与え、西に衞州・黎陽を取り、河を境とし、梁と約して兵を罷め、互いに攻めず、後図とすべきです。」荘宗は喜ばず、退いて帳中に臥し、崇韜を召して計を問うた。崇韜は言った、「陛下は兵を興して義を仗ち、将士は戦争に疲れ、生民は転餉に苦しむこと、十余年になります。況んや今大号は既に建てられ、河以北の人々は皆首を伸ばして成功を望み休息を思っています。今一つの鄆州を得て、守れずに棄てるならば、たとえ河を境としようとも、誰が陛下のためにこれを守るでしょうか。かつ唐が徳勝を失わなかった時は、四方の商賈、征輸は必ず集まり、薪芻糧餉はその積み山の如くでした。南城を失い楊劉を保って以来、道路は転徙し、消耗亡失すること大半です。しかも魏・博の五州は秋の作物が実らず、民を尽くして徴収しても、数ヶ月を支えられません。これはまさに兵を按じて持久すべき時でしょうか。臣は康延孝が来て以来、梁の虚実をことごとく得ました。これは真に天が梁を亡ぼす時です。願わくは陛下は兵を分けて魏を守らせ、楊劉を固め、自らは鄆から長駆してその巣穴を擣き、半月を出ずして天下は定まります。」荘宗は大いに喜んで言った、「これは大丈夫の事である。」そこで司天に問うと、司天は言った、「歳は兵を用いるに利あらず。」崇韜は言った、「古、将を命ずるには、凶門を鑿ちて出ます。況んや成算は既に決し、区区の常談、どうして信ずるに足りましょうか。」荘宗は即日軍中に令を下し、その家族を魏に帰らせ、夜に楊劉を渡り、鄆州から入って汴を襲い、八日で梁を滅ぼした。荘宗は功を推し、崇韜に鉄券を賜い、侍中・成徳軍節度使に任じ、前のごとく枢密使とした。

荘宗は諸将と兵を以て天下を取ったが、崇韜は戦陣に居たことはなく、ただ謀議を以て佐命の第一の功に居り、位は将相を兼ね、遂に天下を己が任とし、事に遇って回避する所がなかった。そして宦官・伶人が権力を用いることを、特に快しとしなかった。

初め、崇韜と宦官の馬紹宏が共に中門使であったが、紹宏の位は上にあった。荘宗が即位すると、二人は枢密使となるべきであったが、崇韜は紹宏が己の上にいるのを欲せず、張居翰を枢密使とし、紹宏を宣徽使とした。紹宏は職を失って怨み望み、崇韜はそこで内勾使を置き、紹宏にこれを領させた。天下の銭穀で租庸を出入りするものは、皆内勾を経た。やがて文簿が繁多となり、州県が弊害をなしたので、急いでその事を罷めたが、紹宏は特に側目した。崇韜はやや懼れ、その故人子弟に語って言った、「我は天子を佐けて天下を取り、今大功は既に成ったが、群小が交々興り、我はこれを避け、鎮陽に帰って守り、禍を免れたいと思うが、よろしいか。」故人子弟は答えて言った、「俚諺に『虎に騎る者は、勢い下るを得ず』と言います。今公の権位は既に隆く、下には怨み嫉む者が多い。一旦その勢いを失えば、自ら安んずることができましょうか。」崇韜は言った、「どうすればよいか。」答えて言った、「今中宮は未だ立てられず、劉氏は寵を得ています。宜しく劉氏を立てて皇后とし、天下の利害で民に便なることを多く建て、それから退いて身を乞うべきです。天子は公が大功ありて過ちなしとすれば、必ずや公の去ることを聴かないでしょう。これにより外には権を避ける名があり、内には中宮の助けがあり、また天下に悦ばれ、讒間があっても動かされましょうか。」崇韜はこれをよしとし、上書して劉氏を立てて皇后とすることを請うた。

崇韜は元来廉潔であったが、洛に入ってから初めて四方からの賂遺を受け、故人子弟が或いはこれを言うと、崇韜は言った、「我は位は将相を兼ね、禄賜は巨万である。どうしてこれが少ないと言えようか。今藩鎮諸侯は、多く梁の旧将であり、皆主上の斬袪射鈎の人です。今一切これを拒めば、反側がないと言えましょうか。かつ私家に蔵するのは、公帑と何の異なることがあろうか。」翌年、天子が南郊で祭祀を行うと、崇韜はその蔵する所を悉く献じて、賞給を助けた。

荘宗は郊祀を終えると、遂に劉氏を立てて皇后とした。崇韜は累表して自らを陳べ、唐の旧制に依り枢密使を内臣に還し、併せて鎮陽を辞することを請うたが、優詔して允さなかった。崇韜はまた言った、「臣は陛下に従い軍朝城にあり、計を定めて梁を破った時、陛下は臣の背を撫でて約して言われました、『事が済んだら、卿に一鎮を与えよう。』と。今天下は一家となり、俊賢は並び進みます。臣は疲れました。願わくは身を乞いて約のごとくに。」荘宗は崇韜を召して謂って言った、「朝城の約は、卿に一鎮を許したのであって、卿の去ることを許したのではない。朕を捨てて、どこに行こうとするのか。」崇韜はそこで天下の利害二十五事を建て、施行させた。

李嗣源が成徳軍節度使となると、崇韜を忠武に移した。崇韜はそこで自ら権位が既に極まったことを陳べ、言葉は甚だ懇切であった。荘宗は言った、「どうして朕が天下の尊に居りながら、卿に尺寸の地も無からしめようか。」崇韜が辞して止まないので、遂にその命を罷め、依然として侍中・枢密使とした。

同光三年の夏、霖雨止まず、大水民田を害し、民多く流死す。荘宗、宮中の暑湿に堪えず居るべからざるを患い、高楼を得て避暑せんと思ふ。宦官進みて曰く、「臣、長安ちょうあん全盛の時を見るに、大明・興慶宮の楼閣百数なり。今大内は故時の卿相の家に及ばず」と。荘宗曰く、「吾天下に富み有り、豈に一楼を作ること能はざらんや」と。乃ち宮苑使王允平を遣はして之を営ましむ。宦官曰く、「郭崇韜眉頭伸びず、常に租庸の為に財用を惜しむ。陛下たとひ作らんと欲すとも、其れ得べけんや」と。荘宗乃ち人をして崇韜に問はしめて曰く、「昔吾梁と河上に対壘せし時は、祁寒盛暑と雖も、甲を被り馬に跨り、以て労と為さず。今深宮に居り、広廈に蔭り、其の熱に勝へず、何ぞや」と。崇韜対へて曰く、「陛下昔は天下を以て心と為し、今は一身を以て意と為す。艱難と逸とは、慮ふる所同じからず、其の勢自然なり。願はくは陛下創業の難きを忘れず、常に河上の如くならんことを。然らば則ち繁暑をして坐して清涼に変ぜしむべし」と。荘宗黙然たり。終に允平を遣はして楼を起さしめ、崇韜果たして切に諫む。宦官曰く、「崇韜の第は、皇居に異ならず、安んぞ陛下の熱きを知らんや」と。是より讒間愈々入る。

河南県令羅貫、人となり強直にして、頗る崇韜に知らる。貫は身を正しくして法を奉じ、権豪の請託を受けず、宦官・伶人の求請する所あるも、書幾案に積み、一も以て報ひず、皆な崇韜に示す。崇韜数へて以て言ふ。宦官・伶人是より切歯す。河南は故唐の時張全義尹たりしより、県令多く其の門を出づ。全義厮養して之を畜ふ。及て貫之を為すに及び、全義に奉じて屈せず、県民全義を恃みて不法を為す者は、皆な按じて之を誅す。全義大いに怒り、嘗て人をして劉皇后に告げしめ、従容として貫の事を白せしむ。而して左右日夜共に其の短を攻む。荘宗未だ以て発する所なし。皇太后崩じ、坤陵に葬る。陵は寿安に在り。荘宗陵の作所に幸し、而して道路泥塗、橋壊る。荘宗輿を止めて問ふ、「誰か主なる者」と。宦官曰く、「河南に属す」と。因りて亟に貫を召す。貫至りて対へて曰く、「臣初め詔を奉ぜず、主者を詰め請ふ」と。荘宗曰く、「爾が所部なり、復た何人をか問はん」と。即ち貫を獄に下す。獄吏榜掠して、体完膚無し。明日、詔を伝へて之を殺す。崇韜諫めて曰く、「貫の罪他に無し。橋道修めざるは、法当に死すべからず」と。荘宗怒りて曰く、「太后の霊駕将に発せんとす。天子の車輿往来す。橋道修めざるに、卿罪無しと言ふは、是れ朋党なり」と。崇韜曰く、「貫罪有りと雖も、当に獄を具して有司に法を行ふべし。陛下万乗の尊を以て、一県令を怒り、天下の人をして、陛下の法を用ふる公平ならざるを言はしむるは、臣等の過ちなり」と。荘宗曰く、「貫は公の愛する所なり。公に任せて裁決せしめよ」と。因りて起ちて宮に入る。崇韜之に随ひ、論じて已まず。荘宗自ら殿門を闔ふ。崇韜入るを得ず。貫卒に見殺さる。

明年しょくを征す(此の「明年」は誤り)。大将を択ぶを議す。時に明宗総管たり、行くべし。而して崇韜讒を以て危きを見、大功を立てて自安の計と為さんと思ひ、乃ち曰く、「契丹北辺に患ひを為すは、総管に非ざれば禦ぐべからず。魏王継岌は国の儲副なり。而して大功未だ立たず。且つ親王元帥と為るは、唐の故事なり」と。荘宗曰く、「継岌は小子なり。豈に大事を任すべけんや。必ず我が為に其の副を択べ」と。崇韜未だ言はざるに、荘宗曰く、「吾之を得たり。以て卿に易ふる無し」と。乃ち継岌を以て西南面行営都統と為し、崇韜を招討使と為す。軍政皆な崇韜に決す。

唐軍蜀に入り、過ぐる所迎へて降る。王衍の弟宗弼、陰に款を崇韜に送り、西川兵馬留後を求めんとす。崇韜節度使を以て之を許す。軍成都に至り、宗弼衍を西宮に遷し、悉く衍の嬪妓・珍宝を取って崇韜及び其の子廷誨に奉る。又蜀人と列状して魏王に見え、崇韜の蜀に留まって鎮せんことを請ふ。継岌頗る崇韜を疑ふ。崇韜自ら明かす所無く、因りて事を以て宗弼及び其の弟宗渥・宗勳を斬り、其の家財を没す。蜀人大いに恐る。

崇韜素より宦官を嫉む。嘗て継岌に謂ひて曰く、「王蜀を破るの功有り。師旋らば必ず太子と為らん。主上の千秋万歳を俟ちて、当に宦官を尽く去るべし。扇馬に至るまで、亦騎すべからず」と。継岌の監軍李従襲等、崇韜の軍事を専任するを見て、心已に平らかならず、及び此言を聞き、遂に皆な切歯し、以て之を図らんと思ふ有り。荘宗蜀破れたるを聞き、宦官向延嗣を遣はして軍を労す。崇韜郊迎せず。延嗣大いに怒り、因りて従襲等と共に之を構ふ。延嗣還りて蜀簿を上る。兵三十万、馬九千五百匹、兵器七百万、糧二百五十三万石、錢一百九十二万緡、金銀二十二万両、珠玉犀象二万、文錦綾羅五十万匹を得たり。荘宗曰く、「人言ふ、蜀は天下の富国なりと。所得此れに止まるか」と。延嗣因りて蜀の宝貨皆な崇韜に入り、且つ其の異志有るを誣ひ、将に魏王を危くせんとすとを言ふ。荘宗怒り、宦官馬彦珪を蜀に遣はし、崇韜の去就を視しむ。彦珪以て劉皇后に告ぐ。劉皇后彦珪に魏王に詔を矯めて之を殺さしむ。

崇韜に子五人あり。其の二は蜀に従ひて死し、余は皆な見殺さる。其の蜀を破りて得たる所は、皆な籍没せらる。明宗即位し、詔して帰葬を許し、其の太原の故宅を以て其二孫に賜ふ。

崇韜の用事なる時、宰相豆盧革・韋悦等より皆な傾きて之に附す。崇韜の父諱は弘なり。革等即ち他事に因り、奏して弘文館を崇文館に改む。其の姓郭なるを以て、因りて子儀の後と為す。崇韜遂に以て然りと為す。其の蜀を伐つや、子儀の墓を過ぎ、馬を下りて号慟して去る。聞く者頗る以て笑ふと為す。然れども崇韜忠を国家に尽くし、大略有り。其の已に蜀を破り、因りて使者を遣はして唐の威徳を以て南詔諸蛮に風諭し、因りて以て之を綏来せんと欲す。志有りと謂ふべし。

安重誨

安重誨は応州の人なり。其の父福遷は、晋に事へて将と為り、ぎょう勇を以て知名なり。梁鄆州に於て朱宣を攻む。晋兵宣を救ふ。宣敗れ、福遷戦死す。

重誨少くして明宗に事ふ。人となり明敏謹恪なり。明宗安国を鎮むるに、以て中門使と為す。及び兵変魏に於て有り、与に謀議する大計は、皆な重誨と霍彦威之を決す。明宗即位し、以て左領軍衛大将軍・枢密使と為し、兼ねて山南東道節度使を領す。固く辞して拝せず、兵部尚書に改め、使は故の如し。位に在ること六年、累ねて侍中兼中書令を加ふ。

重誨自ら中門使と為りしより、已に親信を見る。而して佐命の功臣を以て、機密の任に処り、事の大小無く、皆な以て参決す。其の勢天下を傾動す。其の忠を尽くし心を労する有りと雖も、時に補益有り。而して功を恃み寵を矜り、威福自ら出づ。旁らに賢人君子の助け無し。其の独見の慮は、禍釁の生ずる所、主臣俱に傷き、幾くんぞ其の族を滅ぼさんとす。斯れ其の哀れむべし。

重誨嘗て出で、御史台門を過ぐ。殿直馬延其の前導に悞って衝く。重誨怒り、即ち台門に於て延を斬りて後に奏す。是の時、随駕廳子の軍士桑弘遷、相州録事参軍を毆傷す。親従兵馬使安虔、走馬して宰相の前導に衝く。弘遷は罪死し、虔は杖を決するのみ。重誨延を斬りしを以て、乃ち勅を降して処分せんことを請ふ。明宗已むを得ず之に従ふ。是より御史・諫官言ふ者無し。

宰相の任圜が三司を判じ、その職事を重誨と争い、得ることができず、圜は怒り、病を理由に辞し、磁州に退居した。朱守殷が汴州で反乱を起こすと、重誨は人を遣わし詔を偽ってその家に馳せ至らせ、圜を殺してから後で報告し、圜が守殷と通謀したと誣告したが、明宗はすべて詰問することができなかった。重誨は天下が己を非議することを恐れ、三司の積み残りの欠損二百余万を理由に、これを免除するよう請い、人々を喜ばせて責任を逃れようとした。明宗はやむなく詔を下してこれを免除した。その威福を自ら出すこと、多くはこの類であった。

この時、四方からの奏事は、すべて先に重誨に報告してから明宗に聞かせた。河南県が嘉禾(瑞穂)を献上した。一本の茎に五つの穂がついていた。重誨はこれを見て「偽物なり」と言い、その者を鞭打って追い返した。夏州の李仁福が白鷹を献上したが、重誨はこれを退けた。翌日、「陛下は天下に鷹鷂を献上することを禁ずる詔を下されましたが、仁福は詔に背いて鷹を献上しました。臣はすでに退けました」と報告した。重誨が出た後、明宗は密かに人を遣わしてそれを持ち込ませた。ある日、西郊で鷹を調教し、左右の者に戒めて「重誨に知らせるな」と言った。宿州が白兎を献上すると、重誨は「兎は陰険で狡猾なもの、白くとも何の役に立とうか」と言い、遂に退けて報告しなかった。

明宗の為人は寛厚であったが、その性質は夷狄のようで、人を殺すことに果断であった。馬牧軍使の田令方が牧養する馬が痩せて多く死んだので、弾劾されて死罪に当たった。重誨が諫めて言うには、「天下に馬の故をもって一軍使を殺すと聞かせれば、これは畜を貴び人を賤しむというものなり」。令方はこれによって死罪を減ぜられた。明宗が回鶻の侯三を駅伝でその国に遣わした。侯三が醴泉県に至ると、県はもとより僻遠で駅馬がなく、その県令劉知章が狩猟に出て、時に応じて馬を与えなかった。侯三は急いでこれを報告した。明宗は大いに怒り、知章を械にかけて京師に連行し、殺そうとした。重誨が落ち着いて言上したので、知章は死を免れた。その忠を尽くし補益することも、この類であった。

重誨はすでに天下を己が任とし、内には社稷の計を為し、外には諸侯の強を制せんと欲した。しかし彼は軽率に韓玫の讒言を信じて銭鏐の臣たることを絶ち、徒らに楊彦温を死に陥れながら潞王の患いを除くことができず、李嚴を一出させて孟知祥を離反させ、李仁矩が未だ至らぬうちに董璋を叛かせた。四方は騒動し、師旅は並び起こり、膏を投じて火を止めるが如く、かえってこれを速めるに足りた。これすなわち所謂独見の慮、禍いの生ずる所である。

銭鏐は両浙を拠有し、呉越を兼ねて王と号し、梁から荘宗に至るまで、常にその礼を異にし、羈縻して臣属させるのみであった。明宗が即位すると、鏐は使者を遣わして京師に朝し、重誨に書を送ったが、その礼が傲慢であった。重誨は怒ったが、発する由がなく、その寵吏の韓玫と副供奉官の烏昭遇を再び鏐のもとに使わせた。玫は重誨の勢いを恃み、しばしば昭遇を凌辱し、酔って酒乱し、馬の鞭で彼を打った。鏐はこの事を奏上しようとしたが、昭遇は国辱となると固く止めた。玫が帰還すると、返って重誨に讒言して言うには、「昭遇は鏐に会い、舞蹈して臣と称し、朝廷の事を私かに鏐に告げました」。昭遇は御史の獄に坐して死に、制を下して鏐の官爵を削奪し、太師をもって致仕させた。ここにおいて銭氏は遂に唐より絶えた。

潞王の従珂が河中節度使であった時、重誨は従珂は李氏の子でないから、後必ず国家の患いとなると考え、密かにこれを図ろうとした。従珂が黄龍荘で馬を閲兵していると、その牙内指揮使の楊彦温が城門を閉じて叛いた。従珂は人を遣わして彦温に言わせた、「我は汝を厚く遇した。何の苦しみがあって反するのか」と。返答して言うには、「彦温は叛くにあらず。枢密院の宣を得て、公に朝廷に急ぎ帰ることを請うたまでです」。従珂は虞郷に走り、駅馬を馳せて変事を上奏した。明宗はその事が明らかでないことを疑い、その所以を究めようとし、殿直都知の范氳を遣わし、金帯の襲衣と金の鞍勒の馬を彦温に賜い、彦温を絳州刺史に拝して、これを誘い寄せようとした。重誨は固く出兵を請い、明宗はやむなく、侍衛指揮使の薬彦稠と西京留守の索自通に兵を率いて討たせ、「我がために彦温を生け捕りにせよ。我自らその事を訊問しよう」と戒めた。彦稠らは河中を攻め破り、重誨の意を迎え、彦温を斬って口を滅ぼした。重誨は群臣を率いて賀したが、明宗は大いに怒って言った、「朕の家事が未だ了わらぬのに、卿らは賀すべきにあらず」。従珂は鎮を罷め、清化里の邸宅に居た。重誨はしばしば宰相にほのめかし、従珂が守りを失ったので罪を得るべきだと述べた。馮道がこれに因み法を行なうよう請うた。明宗は怒って言った、「我が児が姦人にあたられ、事未だ辨明せざるに、公らこの言を出すは、我が児を人間に容れまいとするか」。趙鳳が言った、「春秋に帥を責むるの義は、臣たる者を励ます所以なり」。明宗は言った、「皆、公らの意にあらず」。道らは恐れおののいて退いた。数日を経て、道らがまた請うたので、明宗は左右を顧みて他事を言った。翌日、重誨が自ら論列すると、明宗は言った、「公は如何に処置せんと欲するか。我すなわち公に従わん」。重誨は言った、「これは父子の間の事、臣の言うべき所にあらず。惟だ陛下の裁決を仰ぐのみ」。明宗は言った、「我が小校たりし時、衣食自ら足らず、この児我がために石灰を担ぎ、馬糞を拾い、以て相養い活かせり。今貴くして天子と為るも、独りこれを庇うこと能わざるか。その門をとざして私第に居らしむるも、何ぞ公事に関わらん」。重誨はここにおいて再び敢えて言わなかった。

孟知祥は西川を鎮め、董璋は東川を鎮めた。二人は皆異志を持っていた。重誨は事毎に裁抑し、努めてその姦心を制せんと欲し、凡そ両川の守将の更代には、多く己が親信を用い、必ず精兵をこれに従わせ、漸次に諸州に分戍させ、緩急に備えさせた。二人はこれを覚り、己を図るものと思い、ますます自ら安んぜず。既にして李嚴を西川監軍として遣わすと、知祥は大いに怒り、嚴を斬った。また閬州を分けて保寧軍とし、李仁矩を節度使として璋を制し、かつその地を削ろうとした。璋は兵をもって仁矩を攻め殺した。二人は遂に皆反した。蜀に戍る唐兵は、積もりて三万人に及んだ。その後、知祥は璋を殺し、両川を兼ねて拠えたので、唐の精兵は皆蜀に陥った。

初め、明宗が汴州に行幸した時、重誨は建議し、これに因って呉を伐たんと欲したが、明宗はこれを難事とした。その後、戸部尚書の李鏻が呉の間諜の言葉を得た、「徐知誥は呉国を挙げて藩と称せんと欲し、安公の一言を得て信と為さんことを願う」と。鏻は即ち間諜を引いて重誨に会わせた。重誨は大いに喜びこれを然りとし、玉帯を間諜に与え、知誥に遺して信と為させた。その価は千緡であった。初めはこの事を報告しなかったが、その後一年余りを経て、知誥からの音信が至らなかったので、始めて奏上して鏻を行軍司馬に貶した。やがて捧聖都軍使の李行徳と十将の張儉が変事を告げて言うには、「枢密承旨の李虔徽がその客の辺彦温に語って云う、『重誨は密かに士卒を募り、甲器を繕治し、自ら呉を伐たんと欲す。また間諜と交わり私す』と」。明宗が重誨に問うと、重誨は恐れおののき、その事を究めるよう請うた。明宗は初め頗るこれを疑ったが、大臣左右皆これがために弁明し、やがて少し解けたので、始めて彦温の言葉を重誨に告げ、廷において彦温を詰問したところ、ことごとくその詐りを伏した。ここにおいて君臣相顧みて泣下した。彦温・行徳・儉は皆坐して族誅に処せられた。重誨はこれにより職の解任を請うた。明宗は慰めて言った、「事すでに辨明せり。慎んで胸中に措くな」。重誨が論請して止まないので、明宗は怒って言った、「卿を放ち去らば、朕は人無きを患えず」。武徳使の孟漢瓊を顧みて中書に至らせ、馮道らに代わりの重誨を議するよう促した。馮道は言った、「諸公苟くも安公を惜しみ、罷め去らしめんとすれば、これその禍いをぶるなり」。趙鳳は大臣は軽々しく動かすべからずと考えた。ここにおいて范延光を枢密使とし、重誨は職に居ること従前の如くであった。

董璋らが反逆し、石敬瑭を派遣してこれを討たせたが、川路は険阻で、糧食の輸送は甚だ困難であり、毎に一石を費やして一斗を致す有様であった。関以西より、民は輸送に苦しみ、往々にして山林に亡命し集まって盗賊となった。明宗は重誨に謂いて曰く、「事勢この如し、吾自ら行くべし」と。重誨曰く、「これは臣の責なり」と。乃ち行くことを請うた。関西の人々、重誨の来るを聞き、皆すでに恐れ動揺し、而して重誨は日に数百里を馳せ、遠近驚駭した。糧運を督励し、日夜絶えることなく、道路に斃れ倒れる者は、数え勝えなかった。重誨が鳳翔を過ぎると、節度使朱弘昭はこれを寝室に招き、その妻子に命じて左右に奉事させ、甚だ謹んであった。重誨酒酣に及び、弘昭に言う、「昨、讒構に遭い、ほとんど自ら全からず、人主の明聖に頼り、家族を保つを得たり」と。因りて感歎し泣下した。重誨去りて後、弘昭は騎を馳せて上言す、「重誨怨望す、行営に至らしむべからず、その事を生ずるを恐る」と。而して宣徽使孟漢瓊は行営より使いして還り、また西人の震駭する状を言い、因りて重誨の過悪を述べた。重誨は三泉に行き至り、召還を受けた。鳳翔を過ぎるに、弘昭は拒絶して受け入れず、重誨懼れ、馳せて京師に赴く。未だ至らざるに、河中節度使に拝された。

重誨既に罷免されると、旨に迎合する者は争ってその過失を求めた。宦官の安希倫は、重誨と交わり私するに坐し、常に重誨と共に宮中の動静を陰に窺っていたが、事発して市に棄てられた。重誨益々懼れ、因りて上章して老を告げた。太子太師を以て致仕し、而して李従璋を河中節度使とし、薬彦稠に兵を率いさせて河中に赴き、変事に備えさせた。重誨の子崇緒・崇贊は、京師に宿衛していたが、制書の下るを聞き、即日その父の許に奔った。重誨これを見て、驚いて曰く、「彼ら何ぞ来たるを得んや」と。已にして曰く、「これは彼らの意にあらず、人に使わされたるなり。吾は一死を以て国に報い、余復何をか言わん」と。乃ち二子を械送して京師に送り、陝州に行き至りて獄に下された。明宗はまた翟光業を河中に遣わし、重誨の去就を視察させ、戒めて曰く、「異志あれば、則ち従璋と図れ」と。また宦官を使者として重誨の許に遣わした。使者重誨に会い、号泣して已まず、重誨その故を問うと、使者曰く、「人言う、公に異志ありと、朝廷薬彦稠に師を率いさせて至れり」と。重誨曰く、「吾が死も責を塞ぐに足らず、遽かに朝廷を労して師を興さしめ、以て明主の憂いを重くす」と。光業至り、従璋は兵を率いて重誨の邸を囲み、庭に入りて拝した。重誨降りて答拝す、従璋は檛を以てその首を撃つ、重誨の妻走り寄りてこれを抱きて呼びて曰く、「令公の死は未だ晩からず、何ぞ遽にこの如くせん」と。またその首を撃ち、夫妻ともに死し、流血庭に盈つ。従璋その家財を検査せしむるに、数千緡に及ばずのみであった。明宗は詔を下し、その銭鏐を絶ち、孟知祥・董璋の反を致し、及び呉を伐たんと議したことを以て罪と為した。併せてその二子を殺し、その余の子孫は皆免じた。

重誨罪を得て、その必ず死すべきを知り、歎じて曰く、「我固より死すべきなり、但だ国家の為に潞王を除去せざるを恨む」と。これその恨みなり。

嗚呼、官その職を失うこと久し。予、梁の宣底を読み、敬翔・李振が崇政院使たりしを見るに、凡そ上旨を承け、これを宰相に宣して奉行せしむ。宰相に見る時ならずして事上決すべきもの、及び旨を受けながら復た請うべきものあるときは、則ち記事を具えて入り、因りて崇政使をして聞かしめ、旨を得れば則ち復た宣してこれを出す。梁の崇政使は、乃ち唐の枢密の職にして、蓋し出納の任なり。唐は常に宦官を以てこれを行い、梁に至りその禍を戒め、始めて士人を用いるに更む。その顧問に備え、中に参謀議するは則ちこれ有り、未だ始めて外に事を行い専らにせざりき。崇韜・重誨これを行うに至り、始めて唐の枢密の名を復たす、然れども権は宰相に侔びたり。後世これに因り、遂に二つに分かれ、文事は宰相に任じ、武事は枢密に任ず。枢密の任既に重く、而して宰相はここよりその職を失うなり。