新五代史

原文新五代史

巻二十四

原文卷24

郭崇韜

原文郭崇韜

郭崇韜は代州雁門の人であり、河東教練使となった。人となりは明敏で、応対に巧み、才幹をもって称された。

原文郭崇韜,代州鴈門人也,為河東教練使。為人明敏,能應對,以材幹見稱。

荘宗が晋王であった時、孟知祥が中あた門使となり、崇韜はその副使となった。中門の職務は機要に参与し、以前は呉ご珙・張虔厚らが皆中門使として相次いで罪を得ていた。知祥は恐れて外任を求めると、荘宗は言った、「公が事を避けたいなら、公に代わるべき者を推挙すべきである。」知祥はそこで崇韜を中門使に推薦し、崇韜は大いに親信された。

原文莊宗為晉王,孟知祥為中門使,崇韜為副使。中門之職,參管機要,先時,吳珙、張虔厚等皆以中門使相繼獲罪。知祥懼,求外任,莊宗曰:「公欲避事,當舉可代公者。」知祥乃薦崇韜為中門使,甚見親信。

晋の兵が鎮州ちんしゅうで張文礼を包囲したが、長く落とせず、定州ていしゅうの王都が契丹きったんを引き入れて侵入した。契丹が新楽に至ると、晋人は皆恐れ、包囲を解いて去ろうとしたが、荘宗は決断できなかった。崇韜は言った、「契丹が来たのは、文礼を救うためではなく、王都が利で誘ったからです。かつ晋は梁軍を破ったばかりで、既に振るう勢いに乗ずべきであり、急に自ら退いて怯むべきではありません。」荘宗はこれをよしとし、果たして契丹を破った。荘宗が即位すると、崇韜を兵部尚書・枢密使に任じた。

原文晉兵圍張文禮于鎮州,久不下,而定州王都引契丹入寇。契丹至新樂,晉人皆恐,欲解圍去,莊宗未決,崇韜曰:「契丹之來,非救文禮,為王都以利誘之耳,且晉新破梁軍,宜乘已振之勢,不可遽自退怯。」莊宗然之,果敗契丹。莊宗即位,拜崇韜兵部尚書、樞密使。

梁の王彦章が徳勝を撃破し、唐軍は東に退いて楊劉を保ち、彦章がこれを包囲した。荘宗が塁に登り、彦章が重い塹壕を築いて唐軍を絶とうとするのを見て、軽んじ、笑って言った、「我はその心を知った。持久して我を疲弊させようとするのだ。」すぐに短兵を率いて出戦したが、彦章の伏兵に射られ、大敗して帰った。荘宗が崇韜に問うた、「計はどう出そうか。」この時、唐は既に鄆州うんしゅうを得ていた。崇韜はそれに乗じて言った、「彦章がここに我を包囲するのは、その志は鄆州を取ることにあるのです。臣は数千の兵を得て、河の下流を占め、必ず争うべき地に塁を築き、鄆州に応ずることを名目とすれば、彦章は必ず争いに来ます。兵を分けたならば、図ることができます。しかし板築の工事は急に成し難い。陛下は日に精兵を以て挑戦し、彦章の兵を東に行かせず、十日で塁は完成します。」荘宗はこれをよしとし、崇韜と毛璋に数千人を率いさせ夜行させ、通過する所で住民を駆り掠め、屋を壊し木を伐り、河を渡って博州の東に塁を築かせ、昼夜を分かたず役事を監督させ、六日で塁は完成した。彦章は果たして兵を率いて急攻した。時は大暑のさなかであり、彦章の兵は熱死し、塁を攻めて克たず、失うところ大半に及び、楊劉に引き返した。荘宗は迎え撃って、遂にこれを破った。

原文梁王彥章擊破德勝,唐軍東保楊劉,彥章圍之。莊宗登壘,望見彥章為重塹以絕唐軍,意輕之,笑曰:「我知其心矣,其欲持久以弊我也。」即引短兵出戰,為彥章伏兵所射,大敗而歸。莊宗問崇韜:「計安出?」是時,唐已得鄆州矣,崇韜因曰:「彥章圍我於此,其志在取鄆州也。臣願得兵數千,據河下流,築壘於必爭之地,以應鄆州為名,彥章必來爭,既分其兵,可以圖也。然板築之功難卒就,陛下日以精兵挑戰,使彥章兵不得東,十日壘成矣。」莊宗以為然,乃遣崇韜與毛璋將數千人夜行,所過驅掠居人,毀屋伐木,渡河築壘於博州東,晝夜督役,六日壘成。彥章果引兵急攻之,時方大暑,彥章兵熱死,及攻壘不克,所失太半,還趨楊劉,莊宗迎擊,遂敗之。

康延孝が梁から唐に奔った時、まず崇韜に会い、崇韜は彼を臥内に招き入れ、梁の虚実をことごとく知った。この時、荘宗の軍は朝城にあり、段凝の軍は臨河にあった。唐は徳勝を失って以来、梁兵は日に澶・相を掠め、黎陽・衞州を取り、李継韜が沢潞を以て叛き梁に入り、契丹はたびたび幽・涿を犯し、また延孝の言うところによれば梁は諸鎮の兵を召して大挙しようとしていると聞き、唐の諸将は皆憂い惑い、成敗は未だ知るべからずと言った。荘宗はこれを憂い、諸将に問うた。諸将は皆言った、「唐は鄆州を得たが、河を隔てて守るのは難しく、鄆を棄てて梁に与え、西に衞州・黎陽を取り、河を境とし、梁と約して兵を罷め、互いに攻めず、後図とすべきです。」荘宗は喜ばず、退いて帳中に臥し、崇韜を召して計を問うた。崇韜は言った、「陛下は兵を興して義を仗ち、将士は戦争に疲れ、生民は転餉に苦しむこと、十余年になります。況んや今大号は既に建てられ、河以北の人々は皆首を伸ばして成功を望み休息を思っています。今一つの鄆州を得て、守れずに棄てるならば、たとえ河を境としようとも、誰が陛下のためにこれを守るでしょうか。かつ唐が徳勝を失わなかった時は、四方の商賈、征輸は必ず集まり、薪芻糧餉はその積み山の如くでした。南城を失い楊劉を保って以来、道路は転徙し、消耗亡失すること大半です。しかも魏・博の五州は秋の作物が実らず、民を尽くして徴収しても、数ヶ月を支えられません。これはまさに兵を按じて持久すべき時でしょうか。臣は康延孝が来て以来、梁の虚実をことごとく得ました。これは真に天が梁を亡ぼす時です。願わくは陛下は兵を分けて魏を守らせ、楊劉を固め、自らは鄆から長駆してその巣穴を擣き、半月を出ずして天下は定まります。」荘宗は大いに喜んで言った、「これは大丈夫の事である。」そこで司天に問うと、司天は言った、「歳は兵を用いるに利あらず。」崇韜は言った、「古、将を命ずるには、凶門を鑿ちて出ます。況んや成算は既に決し、区区の常談、どうして信ずるに足りましょうか。」荘宗は即日軍中に令を下し、その家族を魏に帰らせ、夜に楊劉を渡り、鄆州から入って汴を襲い、八日で梁を滅ぼした。荘宗は功を推し、崇韜に鉄券を賜い、侍中・成徳軍節度使に任じ、前のごとく枢密使とした。

原文康延孝自梁奔唐,先見崇韜,崇韜延之臥內,盡得梁虛實。是時,莊宗軍朝城,段凝軍臨河。唐自失德勝,梁兵日掠澶、相,取黎陽、衞州,而李繼韜以澤潞叛入于梁,契丹數犯幽、涿,又聞延孝言梁方召諸鎮兵欲大舉,唐諸將皆憂惑,以謂成敗未可知。莊宗患之,以問諸將,諸將皆曰:「唐得鄆州,隔河難守,不若棄鄆與梁,而西取衞州、黎陽,以河為界,與梁約罷兵,毋相攻,庶幾以為後圖。」莊宗不悅,退臥帳中,召崇韜問計,崇韜曰:「陛下興兵仗義,將士疲戰爭、生民苦轉餉者,十餘年矣。況今大號已建,自河以北,人皆引首以望成功而思休息。今得一鄆州,不能守而棄之,雖欲指河為界,誰為陛下守之?且唐未失德勝時,四方商賈,征輸必集,薪芻糧餉,其積如山。自失南城,保楊劉,道路轉徙,耗亡太半。而魏、博五州,秋稼不稔,竭民而斂,不支數月,此豈按兵持久之時乎?臣自康延孝來,盡得梁之虛實,此真天亡之時也。願陛下分兵守魏,固楊劉,而自鄆長驅擣其巢穴,不出半月,天下定矣!」莊宗大喜曰:「此大丈夫之事也!」因問司天,司天言:「歲不利用兵。」崇韜曰:「古者命將,鑿凶門而出。況成算已決,區區常談,豈足信也!」莊宗即日下令軍中,歸其家屬於魏,夜渡楊劉,從鄆州入襲汴,用八日而滅梁。莊宗推功,賜崇韜鐵券,拜侍中、成德軍節度使,依前樞密使。

荘宗は諸将と兵を以て天下を取ったが、崇韜は戦陣に居たことはなく、ただ謀議ぼうぎを以て佐命の第一の功に居り、位は将相を兼ね、遂に天下を己が任とし、事に遇って回避する所がなかった。そして宦官・伶人が権力を用いることを、特に快しとしなかった。

原文莊宗與諸將以兵取天下,而崇韜未嘗居戰陣,徒以謀議居佐命第一之功,位兼將相,遂以天下為己任,遇事無所回避。而宦官、伶人用事,特不便也。

初め、崇韜と宦官の馬紹宏が共に中門使であったが、紹宏の位は上にあった。荘宗が即位すると、二人は枢密使となるべきであったが、崇韜は紹宏が己の上にいるのを欲せず、張居翰を枢密使とし、紹宏を宣徽使とした。紹宏は職を失って怨み望み、崇韜はそこで内勾使を置き、紹宏にこれを領させた。天下の銭穀で租庸を出入りするものは、皆内勾を経た。やがて文簿が繁多となり、州県が弊害をなしたので、急いでその事を罷めたが、紹宏は特に側目した。崇韜はやや懼れ、その故人子弟に語って言った、「我は天子を佐けて天下を取り、今大功は既に成ったが、群小が交々興り、我はこれを避け、鎮陽に帰って守り、禍を免れたいと思うが、よろしいか。」故人子弟は答えて言った、「俚諺に『虎に騎る者は、勢い下るを得ず』と言います。今公の権位は既に隆く、下には怨み嫉む者が多い。一旦その勢いを失えば、自ら安んずることができましょうか。」崇韜は言った、「どうすればよいか。」答えて言った、「今中宮は未だ立てられず、劉氏は寵を得ています。宜しく劉氏を立てて皇后とし、天下の利害で民に便なることを多く建て、それから退いて身を乞うべきです。天子は公が大功ありて過ちなしとすれば、必ずや公の去ることを聴かないでしょう。これにより外には権を避ける名があり、内には中宮の助けがあり、また天下に悦ばれ、讒間があっても動かされましょうか。」崇韜はこれをよしとし、上書して劉氏を立てて皇后とすることを請うた。

原文初,崇韜與宦者馬紹宏俱為中門使,而紹宏位在上。及莊宗即位,二人當為樞密使,而崇韜不欲紹宏在己上,乃以張居翰為樞密使,紹宏為宣徽使。紹宏失職怨望,崇韜因置內勾使,以紹宏領之。凡天下錢穀出入于租庸者,皆經內勾。既而文簿繁多,州縣為弊,遽罷其事,而紹宏尤側目。崇韜頗懼,語其故人子弟曰:「吾佐天子取天下,今大功已就,而羣小交興,吾欲避之,歸守鎮陽,庶幾免禍,可乎?」故人子弟對曰:「俚語曰:『騎虎者,勢不得下。』今公權位已隆,而下多怨嫉,一失其勢,能自安乎?」崇韜曰:「奈何?」對曰:「今中宮未立,而劉氏有寵,宜請立劉氏為皇后,而多建天下利害以便民者,然後退而乞身。天子以公有大功而無過,必不聽公去。是外有避權之名,而內有中宮之助,又為天下所悅,雖有讒間,其可動乎?」崇韜以為然,乃上書請立劉氏為皇后。

崇韜は元来廉潔であったが、洛に入ってから初めて四方からの賂遺を受け、故人子弟が或いはこれを言うと、崇韜は言った、「我は位は将相を兼ね、禄賜は巨万である。どうしてこれが少ないと言えようか。今藩鎮諸侯は、多く梁の旧将であり、皆主上の斬袪射鈎の人です。今一切これを拒めば、反側がないと言えましょうか。かつ私家に蔵するのは、公帑と何の異なることがあろうか。」翌年、天子が南郊で祭祀を行うと、崇韜はその蔵する所を悉く献じて、賞給を助けた。

原文崇韜素廉,自從入洛,始受四方賂遺,故人子弟或以為言,崇韜曰:「吾位兼將相,祿賜巨萬,豈少此邪?今藩鎮諸侯,多梁舊將,皆主上斬袪射鈎之人也。今一切拒之,豈無反側?且藏于私家,何異公帑?」明年,天子有事南郊,乃悉獻其所藏,以佐賞給。

荘宗は郊祀を終えると、遂に劉氏を立てて皇后とした。崇韜は累表して自らを陳べ、唐の旧制に依り枢密使を内臣に還し、併せて鎮陽を辞することを請うたが、優詔して允さなかった。崇韜はまた言った、「臣は陛下に従い軍朝城にあり、計を定めて梁を破った時、陛下は臣の背を撫でて約して言われました、『事が済んだら、卿に一鎮を与えよう。』と。今天下は一家となり、俊賢は並び進みます。臣は疲れました。願わくは身を乞いて約のごとくに。」荘宗は崇韜を召して謂って言った、「朝城の約は、卿に一鎮を許したのであって、卿の去ることを許したのではない。朕を捨てて、どこに行こうとするのか。」崇韜はそこで天下の利害二十五事を建て、施行させた。

原文莊宗已郊,遂立劉氏為皇后。崇韜累表自陳,請依唐舊制,還樞密使於內臣,而并辭鎮陽,優詔不允。崇韜又曰:「臣從陛下軍朝城,定計破梁,陛下撫臣背而約曰:『事了,與卿一鎮。』今天下一家,俊賢並進,臣憊矣,願乞身如約。」莊宗召崇韜謂曰:「朝城之約,許卿一鎮,不許卿去。欲捨朕,安之乎?」崇韜因建天下利害二十五事,施行之。

李嗣源が成徳軍節度使となると、崇韜を忠武に移した。崇韜はそこで自ら権位が既に極まったことを陳べ、言葉は甚だ懇切であった。荘宗は言った、「どうして朕が天下の尊に居りながら、卿に尺寸の地も無からしめようか。」崇韜が辞して止まないので、遂にその命を罷め、依然として侍中・枢密使とした。

原文李嗣源為成德軍節度使,徙崇韜忠武。崇韜因自陳權位已極,言甚懇至。莊宗曰:「豈可朕居天下之尊,使卿無尺寸之地?」崇韜辭不已,遂罷其命,仍為侍中、樞密使。

同光三年の夏、霖雨止まず、大水民田を害し、民多く流死す。荘宗、宮中の暑湿に堪えず居るべからざるを患い、高楼を得て避暑せんと思ふ。宦官進みて曰く、「臣、長安全盛の時を見るに、大明・興慶宮の楼閣百数なり。今大内は故時の卿相の家に及ばず」と。荘宗曰く、「吾天下に富み有り、豈に一楼を作ること能はざらんや」と。乃ち宮苑使王允平を遣はして之を営ましむ。宦官曰く、「郭崇韜眉頭伸びず、常に租庸の為に財用を惜しむ。陛下たとひ作らんと欲すとも、其れ得べけんや」と。荘宗乃ち人をして崇韜に問はしめて曰く、「昔吾梁と河上に対壘せし時は、祁寒盛暑と雖も、甲を被り馬に跨り、以て労と為さず。今深宮に居り、広廈に蔭り、其の熱に勝へず、何ぞや」と。崇韜対へて曰く、「陛下昔は天下を以て心と為し、今は一身を以て意と為す。艱難と逸豫とは、慮ふる所同じからず、其の勢自然なり。願はくは陛下創業の難きを忘れず、常に河上の如くならんことを。然らば則ち繁暑をして坐して清涼に変ぜしむべし」と。荘宗黙然たり。終に允平を遣はして楼を起さしめ、崇韜果たして切に諫む。宦官曰く、「崇韜の第は、皇居に異ならず、安んぞ陛下の熱きを知らんや」と。是より讒間愈々入る。

原文同光三年夏,霖雨不止,大水害民田,民多流死。莊宗患宮中暑濕不可居,思得高樓避暑。宦官進曰:「臣見長安全盛時,大明、興慶宮樓閣百數。今大內不及故時卿相家。」莊宗曰:「吾富有天下,豈不能作一樓?」乃遣宮苑使王允平營之。宦官曰:「郭崇韜眉頭不伸,常為租庸惜財用,陛下雖欲有作,其可得乎?」莊宗乃使人問崇韜曰:「昔吾與梁對壘於河上,雖祁寒盛暑,被甲跨馬,不以為勞。今居深宮,蔭廣廈,不勝其熱,何也?」崇韜對曰:「陛下昔以天下為心,今以一身為意,艱難逸豫,為慮不同,其勢自然也。願陛下無忘創業之難,常如河上,則可使繁暑坐變清涼。」莊宗默然。終遣允平起樓,崇韜果切諫。宦官曰:「崇韜之第,無異皇居,安知陛下之熱!」由是讒間愈入。

河南県令羅貫、人となり強直にして、頗る崇韜に知らる。貫は身を正しくして法を奉じ、権豪の請託を受けず、宦官・伶人の求請する所あるも、書幾案に積み、一も以て報ひず、皆な崇韜に示す。崇韜数へて以て言ふ。宦官・伶人是より切歯す。河南は故唐の時張全義尹たりしより、県令多く其の門を出づ。全義厮養して之を畜ふ。及て貫之を為すに及び、全義に奉じて屈せず、県民全義を恃みて不法を為す者は、皆な按じて之を誅す。全義大いに怒り、嘗て人をして劉皇后に告げしめ、従容として貫の事を白せしむ。而して左右日夜共に其の短を攻む。荘宗未だ以て発する所なし。皇太后崩じ、坤陵に葬る。陵は寿安に在り。荘宗陵の作所に幸し、而して道路泥塗、橋壊る。荘宗輿を止めて問ふ、「誰か主なる者」と。宦官曰く、「河南に属す」と。因りて亟に貫を召す。貫至りて対へて曰く、「臣初め詔を奉ぜず、主者を詰め請ふ」と。荘宗曰く、「爾が所部なり、復た何人をか問はん」と。即ち貫を獄に下す。獄吏榜掠して、体完膚無し。明日、詔を伝へて之を殺す。崇韜諫めて曰く、「貫の罪他に無し。橋道修めざるは、法当に死すべからず」と。荘宗怒りて曰く、「太后の霊駕将に発せんとす。天子の車輿往来す。橋道修めざるに、卿罪無しと言ふは、是れ朋党なり」と。崇韜曰く、「貫罪有りと雖も、当に獄を具して有司に法を行ふべし。陛下万乗の尊を以て、一県令を怒り、天下の人をして、陛下の法を用ふる公平ならざるを言はしむるは、臣等の過ちなり」と。荘宗曰く、「貫は公の愛する所なり。公に任せて裁決せしめよ」と。因りて起ちて宮に入る。崇韜之に随ひ、論じて已まず。荘宗自ら殿門を闔ふ。崇韜入るを得ず。貫卒に見殺さる。

原文河南縣令羅貫,為人彊直,頗為崇韜所知。貫正身奉法,不受權豪請託,宦官、伶人有所求請,書積几案,一不以報,皆以示崇韜。崇韜數以為言,宦官、伶人由此切齒。河南自故唐時張全義為尹,縣令多出其門,全義廝養畜之。及貫為之,奉全義不屈,縣民恃全義為不法者,皆按誅之。全義大怒,嘗使人告劉皇后,從容為白貫事,而左右日夜共攻其短。莊宗未有以發。皇太后崩,葬坤陵,陵在壽安,莊宗幸陵作所,而道路泥塗,橋壞。莊宗止輿問:「誰主者?」宦官曰:「屬河南。」因亟召貫,貫至,對曰:「臣初不奉詔,請詰主者。」莊宗曰:「爾之所部,復問何人!」即下貫獄,獄吏榜掠,體無完膚。明日,傳詔殺之。崇韜諫曰:「貫罪無佗,橋道不修,法不當死。」莊宗怒曰:「太后靈駕將發,天子車輿往來,橋道不修,卿言無罪,是朋黨也!」崇韜曰:「貫雖有罪,當具獄行法于有司。陛下以萬乘之尊,怒一縣令,使天下之人,言陛下用法不公,臣等之過也。」莊宗曰:「貫,公所愛,任公裁決!」因起入宮,崇韜隨之,論不已,莊宗自闔殿門,崇韜不得入。貫卒見殺。

明年蜀しょくを征す(此の「明年」は誤り)。大将を択ぶを議す。時に明宗総管たり、行くべし。而して崇韜讒を以て危きを見、大功を立てて自安の計と為さんと思ひ、乃ち曰く、「契丹北辺に患ひを為すは、総管に非ざれば禦ぐべからず。魏王継岌は国の儲副なり。而して大功未だ立たず。且つ親王元帥と為るは、唐の故事なり」と。荘宗曰く、「継岌は小子なり。豈に大事を任すべけんや。必ず我が為に其の副を択べ」と。崇韜未だ言はざるに、荘宗曰く、「吾之を得たり。以て卿に易ふる無し」と。乃ち継岌を以て西南面行営都統と為し、崇韜を招討使と為す。軍政皆な崇韜に決す。

原文明年征蜀,此言「明年」誤。議擇大將。時明宗為總管,當行。而崇韜以讒見危,思立大功為自安之計,乃曰:「契丹為患北邊,非總管不可禦。魏王繼岌,國之儲副,而大功未立;且親王為元帥,唐故事也。」莊宗曰:「繼岌,小子,豈任大事?必為我擇其副。」崇韜未及言,莊宗曰:「吾得之矣,無以易卿也。」乃以繼岌為西南面行營都統,崇韜為招討使,軍政皆決崇韜。

唐軍蜀に入り、過ぐる所迎へて降る。王衍の弟宗弼、陰に款を崇韜に送り、西川兵馬留後を求めんとす。崇韜節度使を以て之を許す。軍成都に至り、宗弼衍を西宮に遷し、悉く衍の嬪妓・珍宝を取って崇韜及び其の子廷誨に奉る。又蜀人と列状して魏王に見え、崇韜の蜀に留まって鎮せんことを請ふ。継岌頗る崇韜を疑ふ。崇韜自ら明かす所無く、因りて事を以て宗弼及び其の弟宗渥・宗勳を斬り、其の家財を没す。蜀人大いに恐る。

原文唐軍入蜀,所過迎降。王衍弟宗弼,陰送款于崇韜,求為西川兵馬留後,崇韜以節度使許之。軍至成都,宗弼遷衍于西宮,悉取衍嬪妓、珍寶奉崇韜及其子廷誨。又與蜀人列狀見魏王,請崇韜留鎮蜀。繼岌頗疑崇韜,崇韜無以自明,因以事斬宗弼及其弟宗渥、宗勳,沒其家財。蜀人大恐。

崇韜素より宦官を嫉む。嘗て継岌に謂ひて曰く、「王蜀を破るの功有り。師旋らば必ず太子と為らん。主上の千秋万歳を俟ちて、当に宦官を尽く去るべし。扇馬に至るまで、亦騎すべからず」と。継岌の監軍李従襲等、崇韜の軍事を専任するを見て、心已に平らかならず、及び此言を聞き、遂に皆な切歯し、以て之を図らんと思ふ有り。荘宗蜀破れたるを聞き、宦官向延嗣を遣はして軍を労す。崇韜郊迎せず。延嗣大いに怒り、因りて従襲等と共に之を構ふ。延嗣還りて蜀簿を上る。兵三十万、馬九千五百匹、兵器七百万、糧二百五十三万石、錢一百九十二万緡、金銀二十二万両、珠玉犀象二万、文錦綾羅五十万匹を得たり。荘宗曰く、「人言ふ、蜀は天下の富国なりと。所得此れに止まるか」と。延嗣因りて蜀の宝貨皆な崇韜に入り、且つ其の異志有るを誣ひ、将に魏王を危くせんとすとを言ふ。荘宗怒り、宦官馬彦珪を蜀に遣はし、崇韜の去就を視しむ。彦珪以て劉皇后に告ぐ。劉皇后彦珪に魏王に詔を矯めて之を殺さしむ。

原文崇韜素嫉宦官,嘗謂繼岌曰:「王有破蜀功,師旋,必為太子,俟主上千秋萬歲後,當盡去宦官,至於扇馬,亦不可騎。」繼岌監軍李從襲等見崇韜專任軍事,心已不平,及聞此言,遂皆切齒,思有以圖之。莊宗聞破蜀,遣宦官向延嗣勞軍,崇韜不郊迎,延嗣大怒,因與從襲等共構之。延嗣還,上蜀簿,得兵三十萬,馬九千五百匹,兵器七百萬,糧二百五十三萬石,錢一百九十二萬緡,金銀二十二萬兩,珠玉犀象二萬,文錦綾羅五十萬匹。莊宗曰:「人言蜀天下之富國也,所得止於此邪?」延嗣因言蜀之寶貨皆入崇韜,且誣其有異志,將危魏王。莊宗怒,遣宦官馬彥珪至蜀,視崇韜去就。彥珪以告劉皇后,劉皇后教彥珪矯詔魏王殺之。

崇韜に子五人あり。其の二は蜀に従ひて死し、余は皆な見殺さる。其の蜀を破りて得たる所は、皆な籍没せらる。明宗即位し、詔して帰葬を許し、其の太原の故宅を以て其二孫に賜ふ。

原文崇韜有子五人,其二從死于蜀,餘皆見殺。其破蜀所得,皆籍沒。明宗即位,詔許歸葬,以其太原故宅賜其二孫。

崇韜の用事なる時、宰相豆盧革・韋悦等より皆な傾きて之に附す。崇韜の父諱いみなは弘なり。革等即ち他事に因り、奏して弘文館を崇文館に改む。其の姓郭なるを以て、因りて子儀の後と為す。崇韜遂に以て然りと為す。其の蜀を伐つや、子儀の墓を過ぎ、馬を下りて号慟して去る。聞く者頗る以て笑ふと為す。然れども崇韜忠を国家に尽くし、大略有り。其の已に蜀を破り、因りて使者を遣はして唐の威徳を以て南詔諸蛮に風諭し、因りて以て之を綏来せんと欲す。志有りと謂ふべし。

原文當崇韜用事,自宰相豆盧革、韋悅等皆傾附之。崇韜父諱弘,革等即因佗事,奏改弘文館為崇文館。以其姓郭,因以為子儀之後,崇韜遂以為然。其伐蜀也,過子儀墓,下馬號慟而去,聞者頗以為笑。然崇韜盡忠國家,有大略。其已破蜀,因遣使者以唐威德風諭南詔諸蠻,欲因以綏來之,可謂有志矣!

安重誨

原文安重誨

安重誨は応州の人なり。其の父福遷は、晋に事へて将と為り、驍勇を以て知名なり。梁鄆州に於て朱宣を攻む。晋兵宣を救ふ。宣敗れ、福遷戦死す。

原文安重誨,應州人也。其父福遷,事晉為將,以驍勇知名。梁攻朱宣于鄆州,晉兵救宣,宣敗,福遷戰死。

重誨少くして明宗に事ふ。人となり明敏謹恪なり。明宗安国を鎮むるに、以て中門使と為す。及び兵変魏に於て有り、与に謀議する大計は、皆な重誨と霍彦威之を決す。明宗即位し、以て左領軍衛大将軍・枢密使と為し、兼ねて山南東道節度使を領す。固く辞して拝せず、兵部尚書に改め、使は故の如し。位に在ること六年、累ねて侍中兼中書令を加ふ。

原文重誨少事明宗,為人明敏謹恪。明宗鎮安國,以為中門使,及兵變于魏,所與謀議大計,皆重誨與霍彥威決之。明宗即位,以為左領軍衞大將軍、樞密使,兼領山南東道節度使。固辭不拜,改兵部尚書,使如故。在位六年,累加侍中兼中書令。

重誨自ら中門使と為りしより、已に親信を見る。而して佐命の功臣を以て、機密の任に処り、事の大小無く、皆な以て参決す。其の勢天下を傾動す。其の忠を尽くし心を労する有りと雖も、時に補益有り。而して功を恃み寵を矜り、威福自ら出づ。旁らに賢人君子の助け無し。其の独見の慮は、禍釁の生ずる所、主臣俱に傷き、幾くんぞ其の族を滅ぼさんとす。斯れ其の哀れむべし。

原文重誨自為中門使,已見親信,而以佐命功臣,處機密之任,事無大小,皆以參決,其勢傾動天下。雖其盡忠勞心,時有補益,而恃功矜寵,威福自出,旁無賢人君子之助,其獨見之慮,禍釁所生,至於臣主俱傷,幾滅其族,斯其可哀者也。

重誨嘗て出で、御史台門を過ぐ。殿直馬延其の前導に悞って衝く。重誨怒り、即ち台門に於て延を斬りて後に奏す。是の時、随駕廳子の軍士桑弘遷、相州録事参軍を毆傷す。親従兵馬使安虔、走馬して宰相の前導に衝く。弘遷は罪死し、虔は杖を決するのみ。重誨延を斬りしを以て、乃ち勅を降して処分せんことを請ふ。明宗已むを得ず之に従ふ。是より御史・諫官言ふ者無し。

原文重誨嘗出,過御史臺門,殿直馬延悞衝其前導,重誨怒,即臺門斬延而後奏。是時,隨駕廳子軍士桑弘遷,毆傷相州錄事參軍;親從兵馬使安虔,走馬衝宰相前導。弘遷罪死,虔決杖而已。重誨以斬延,乃請降敕處分,明宗不得已從之,由是御史、諫官無敢言者。

宰相の任圜が三司を判じ、その職事を重誨と争い、得ることができず、圜は怒り、病を理由に辞し、磁州に退居した。朱守殷が汴州べんしゅうで反乱を起こすと、重誨は人を遣わし詔を偽ってその家に馳せ至らせ、圜を殺してから後で報告し、圜が守殷と通謀したと誣告したが、明宗はすべて詰問することができなかった。重誨は天下が己を非議することを恐れ、三司の積み残りの欠損二百余万を理由に、これを免除するよう請い、人々を喜ばせて責任を逃れようとした。明宗はやむなく詔を下してこれを免除した。その威福を自ら出すこと、多くはこの類であった。

原文宰相任圜判三司,以其職事與重誨爭,不能得,圜怒,辭疾,退居于磁州。朱守殷以汴州反,重誨遣人矯詔馳至其家,殺圜而後白,誣圜與守殷通謀,明宗皆不能詰也。而重誨恐天下議己,因取三司積欠二百餘萬,請放之,冀以悅人而塞責,明宗不得已,為下詔蠲除之。其威福自出,多此類也。

この時、四方からの奏事は、すべて先に重誨に報告してから明宗に聞かせた。河南県が嘉禾(瑞穂)を献上した。一本の茎に五つの穂がついていた。重誨はこれを見て「偽物なり」と言い、その者を鞭打って追い返した。夏州の李仁福が白鷹を献上したが、重誨はこれを退けた。翌日、「陛下は天下に鷹鷂を献上することを禁ずる詔を下されましたが、仁福は詔に背いて鷹を献上しました。臣はすでに退けました」と報告した。重誨が出た後、明宗は密かに人を遣わしてそれを持ち込ませた。ある日、西郊で鷹を調教し、左右の者に戒めて「重誨に知らせるな」と言った。宿州しゅくしゅうが白兎を献上すると、重誨は「兎は陰険で狡猾なもの、白くとも何の役に立とうか」と言い、遂に退けて報告しなかった。

原文是時,四方奏事,皆先白重誨然後聞。河南縣獻嘉禾,一莖五穗,重誨視之曰:「偽也。」笞其人而遣之。夏州李仁福進白鷹,重誨却之,明日,白曰:「陛下詔天下毋得獻鷹鷂,而仁福違詔獻鷹,臣已却之矣。」重誨出,明宗陰遣人取之以入。佗日,按鷹于西郊,戒左右:「無使重誨知也!」宿州進白兔,重誨曰:「兔陰且狡,雖白何為?」遂却而不白。

明宗の為人は寛厚であったが、その性質は夷狄のようで、人を殺すことに果断であった。馬牧軍使の田令方が牧養する馬が痩せて多く死んだので、弾劾されて死罪に当たった。重誨が諫めて言うには、「天下に馬の故をもって一軍使を殺すと聞かせれば、これは畜を貴び人を賤しむというものなり」。令方はこれによって死罪を減ぜられた。明宗が回鶻かいこつの侯三を駅伝でその国に遣わした。侯三が醴泉県に至ると、県はもとより僻遠で駅馬がなく、その県令劉知章が狩猟に出て、時に応じて馬を与えなかった。侯三は急いでこれを報告した。明宗は大いに怒り、知章を械にかけて京師に連行し、殺そうとした。重誨が落ち着いて言上したので、知章は死を免れた。その忠を尽くし補益することも、この類であった。

原文明宗為人雖寬厚,然其性夷狄,果於殺人。馬牧軍使田令方所牧馬,瘠而多斃,坐劾當死,重誨諫曰:「使天下聞以馬故,殺一軍使,是謂貴畜而賤人。」令方因得減死。明宗遣回鶻侯三馳傳至其國。侯三至醴泉縣,縣素僻,無驛馬,其令劉知章出獵,不時給馬,侯三遽以聞。明宗大怒,械知章至京師,將殺之,重誨從容為言,知章乃得不死。其盡忠補益,亦此類也。

重誨はすでに天下を己が任とし、内には社稷の計を為し、外には諸侯の強を制せんと欲した。しかし彼は軽率に韓玫の讒言を信じて銭鏐の臣たることを絶ち、徒らに楊彦温を死に陥れながら潞王の患いを除くことができず、李嚴を一出させて孟知祥を離反させ、李仁矩が未だ至らぬうちに董璋を叛かせた。四方は騒動し、師旅は並び起こり、膏を投じて火を止めるが如く、かえってこれを速めるに足りた。これすなわち所謂独見の慮、禍いの生ずる所である。

原文重誨既以天下為己任,遂欲內為社稷之計,而外制諸侯之彊。然其輕信韓玫之譖,而絕錢鏐之臣;徒陷彥溫於死,而不能去潞王之患;李嚴一出而知祥貳,仁矩未至而董璋叛;四方騷動,師旅並興,如投膏止火,適足速之。此所謂獨見之慮,禍釁所生也。

銭鏐は両浙を拠有し、呉越を兼ねて王と号し、梁から荘宗に至るまで、常にその礼を異にし、羈縻して臣属させるのみであった。明宗が即位すると、鏐は使者を遣わして京師に朝し、重誨に書を送ったが、その礼が傲慢であった。重誨は怒ったが、発する由がなく、その寵吏の韓玫と副供奉官の烏昭遇を再び鏐のもとに使わせた。玫は重誨の勢いを恃み、しばしば昭遇を凌辱し、酔って酒乱し、馬の鞭で彼を打った。鏐はこの事を奏上しようとしたが、昭遇は国辱となると固く止めた。玫が帰還すると、返って重誨に讒言して言うには、「昭遇は鏐に会い、舞蹈して臣と称し、朝廷の事を私かに鏐に告げました」。昭遇は御史の獄に坐して死に、制を下して鏐の官爵を削奪し、太師をもって致仕させた。ここにおいて銭氏は遂に唐より絶えた。

原文錢鏐據有兩浙,號兼吳越而王,自梁及莊宗,常異其禮,以羈縻臣屬之而已。明宗即位,鏐遣使朝京師,寓書重誨,其禮慢。重誨怒,未有以發,乃遣其嬖吏韓玫、副供奉官烏昭遇復使於鏐。而玫恃重誨勢,數凌辱昭遇,因醉使酒,以馬箠擊之。鏐欲奏其事,昭遇以為辱國,固止之。及玫還,返譖於重誨曰:「昭遇見鏐,舞蹈稱臣,而以朝廷事私告鏐。」昭遇坐死御史獄,乃下制削奪鏐官爵,以太師致仕,於是錢氏遂絕於唐矣!

潞王の従珂が河中節度使であった時、重誨は従珂は李氏の子でないから、後必ず国家の患いとなると考え、密かにこれを図ろうとした。従珂が黄龍荘で馬を閲兵していると、その牙内指揮使の楊彦温が城門を閉じて叛いた。従珂は人を遣わして彦温に言わせた、「我は汝を厚く遇した。何の苦しみがあって反するのか」と。返答して言うには、「彦温は叛くにあらず。枢密院の宣を得て、公に朝廷に急ぎ帰ることを請うたまでです」。従珂は虞郷に走り、駅馬を馳せて変事を上奏した。明宗はその事が明らかでないことを疑い、その所以を究めようとし、殿直都知の范氳を遣わし、金帯の襲衣と金の鞍勒の馬を彦温に賜い、彦温を絳州刺史に拝して、これを誘い寄せようとした。重誨は固く出兵を請い、明宗はやむなく、侍衛指揮使の薬彦稠と西京留守の索自通に兵を率いて討たせ、「我がために彦温を生け捕りにせよ。我自らその事を訊問しよう」と戒めた。彦稠らは河中を攻め破り、重誨の意を迎え、彦温を斬って口を滅ぼした。重誨は群臣を率いて賀したが、明宗は大いに怒って言った、「朕の家事が未だ了わらぬのに、卿らは賀すべきにあらず」。従珂は鎮を罷め、清化里の邸宅に居た。重誨はしばしば宰相にほのめかし、従珂が守りを失ったので罪を得るべきだと述べた。馮道がこれに因み法を行なうよう請うた。明宗は怒って言った、「我が児が姦人に中(あた)られ、事未だ辨明せざるに、公らこの言を出すは、我が児を人間に容れまいとするか」。趙鳳が言った、「春秋に帥を責むるの義は、臣たる者を励ます所以なり」。明宗は言った、「皆、公らの意にあらず」。道らは恐れおののいて退いた。数日を経て、道らがまた請うたので、明宗は左右を顧みて他事を言った。翌日、重誨が自ら論列すると、明宗は言った、「公は如何に処置せんと欲するか。我すなわち公に従わん」。重誨は言った、「これは父子の間の事、臣の言うべき所にあらず。惟だ陛下の裁決を仰ぐのみ」。明宗は言った、「我が小校たりし時、衣食自ら足らず、この児我がために石灰を担ぎ、馬糞を拾い、以て相養い活かせり。今貴くして天子と為るも、独りこれを庇うこと能わざるか。その門を杜とざ(とざ)して私第に居らしむるも、何ぞ公事に関わらん」。重誨はここにおいて再び敢えて言わなかった。

原文潞王從珂為河中節度使,重誨以謂從珂非李氏子,後必為國家患,乃欲陰圖之。從珂閱馬黃龍莊,其牙內指揮使楊彥溫閉城以叛。從珂遣人謂彥溫曰:「我遇汝厚,何苦而反邪?」報曰:「彥溫非叛也,得樞密院宣,請公趨歸朝廷耳!」從珂走虞鄉,馳騎上變。明宗疑其事不明,欲究其所以,乃遣殿直都知范氳以金帶襲衣、金鞍勒馬賜彥溫,拜彥溫絳州刺史,以誘致之。重誨固請用兵,明宗不得已,乃遣侍衞指揮使藥彥稠、西京留守索自通率兵討之,而誡曰:「為我生致彥溫,吾將自訊其事。」彥稠等攻破河中,希重誨旨,斬彥溫以滅口。重誨率羣臣稱賀,明宗大怒曰:「朕家事不了,卿等不合致賀!」從珂罷鎮,居清化里第。重誨數諷宰相,言從珂失守,宜得罪,馮道因白請行法。明宗怒曰:「吾兒為姦人所中,事未辨明,公等出此言,是不欲容吾兒人間邪?」趙鳳因言:「春秋責帥之義,所以勵為臣者。」明宗曰:「皆非公等意也!」道等惶恐而退。居數日,道等又以為請,明宗顧左右而言他。明日,重誨乃自論列,明宗曰:「公欲如何處置,我即從公!」重誨曰:「此父子之際,非臣所宜言,惟陛下裁之!」明宗曰:「吾為小校時,衣食不能自足,此兒為我擔石灰,拾馬糞,以相養活,今貴為天子,獨不能庇之邪!使其杜門私第,亦何與公事!」重誨由是不復敢言。

孟知祥は西川を鎮め、董璋は東川を鎮めた。二人は皆異志を持っていた。重誨は事毎に裁抑し、努めてその姦心を制せんと欲し、凡そ両川の守将の更代には、多く己が親信を用い、必ず精兵をこれに従わせ、漸次に諸州に分戍させ、緩急に備えさせた。二人はこれを覚り、己を図るものと思い、ますます自ら安んぜず。既にして李嚴を西川監軍として遣わすと、知祥は大いに怒り、嚴を斬った。また閬州を分けて保寧軍とし、李仁矩を節度使として璋を制し、かつその地を削ろうとした。璋は兵をもって仁矩を攻め殺した。二人は遂に皆反した。蜀に戍る唐兵は、積もりて三万人に及んだ。その後、知祥は璋を殺し、両川を兼ねて拠えたので、唐の精兵は皆蜀に陥った。

原文孟知祥鎮西川,董璋鎮東川,二人皆有異志,重誨每事裁抑,務欲制其姦心,凡兩川守將更代,多用己所親信,必以精兵從之,漸令分戍諸州,以虞緩急。二人覺之,以為圖己,益不自安。既而遣李嚴為西川監軍,知祥大怒,斬嚴;又分閬州為保寧軍,以李仁矩為節度使以制璋,且削其地,璋以兵攻殺仁矩。二人遂皆反。唐兵戍蜀者,積三萬人,其後知祥殺璋,兼據兩川,而唐之精兵皆陷蜀。

初め、明宗が汴州に行幸した時、重誨は建議し、これに因って呉を伐たんと欲したが、明宗はこれを難事とした。その後、戸部尚書の李鏻が呉の間諜の言葉を得た、「徐知誥は呉国を挙げて藩と称せんと欲し、安公の一言を得て信と為さんことを願う」と。鏻は即ち間諜を引いて重誨に会わせた。重誨は大いに喜びこれを然りとし、玉帯を間諜に与え、知誥に遺して信と為させた。その価は千緡であった。初めはこの事を報告しなかったが、その後一年余りを経て、知誥からの音信が至らなかったので、始めて奏上して鏻を行軍司馬に貶した。やがて捧聖都軍使の李行徳と十将の張儉が変事を告げて言うには、「枢密承旨の李虔徽がその客の辺彦温に語って云う、『重誨は密かに士卒を募り、甲器を繕治し、自ら呉を伐たんと欲す。また間諜と交わり私す』と」。明宗が重誨に問うと、重誨は恐れおののき、その事を究めるよう請うた。明宗は初め頗るこれを疑ったが、大臣左右皆これがために弁明し、やがて少し解けたので、始めて彦温の言葉を重誨に告げ、廷において彦温を詰問したところ、ことごとくその詐りを伏した。ここにおいて君臣相顧みて泣下した。彦温・行徳・儉は皆坐して族誅に処せられた。重誨はこれにより職の解任を請うた。明宗は慰めて言った、「事すでに辨明せり。慎んで胸中に措くな」。重誨が論請して止まないので、明宗は怒って言った、「卿を放ち去らば、朕は人無きを患えず」。武徳使の孟漢瓊を顧みて中書に至らせ、馮道らに代わりの重誨を議するよう促した。馮道は言った、「諸公苟くも安公を惜しみ、罷め去らしめんとすれば、これその禍いを舒の(の)ぶるなり」。趙鳳は大臣は軽々しく動かすべからずと考えた。ここにおいて范延光を枢密使とし、重誨は職に居ること従前の如くであった。

原文初,明宗幸汴州,重誨建議,欲因以伐吳,而明宗難之。其後戶部尚書李鏻得吳諜者言:「徐知誥欲舉吳國以稱藩,願得安公一言以為信。」鏻即引諜者見重誨,重誨大喜以為然,乃以玉帶與諜者,使遺知誥為信,其直千緡。初不以其事聞,其後逾年,知誥之問不至,始奏貶鏻行軍司馬。已而捧聖都軍使李行德、十將張儉告變,言:「樞密承旨李虔徽語其客邊彥溫云:『重誨私募士卒,繕治甲器,欲自伐吳。又與諜者交私。』」明宗以問重誨,重誨惶恐,請究其事。明宗初頗疑之,大臣左右皆為之辨,既而少解,始告重誨以彥溫之言,因廷詰彥溫,具伏其詐,於是君臣相顧泣下。彥溫、行德、儉皆坐族誅。重誨因求解職,明宗慰之曰:「事已辨,慎無措之胸中!」重誨論請不已,明宗怒曰:「放卿去,朕不患無人!」顧武德使孟漢瓊至中書,趣馮道等議代重誨者,馮道曰:「諸公苟惜安公,使得罷去,是紓其禍也。」趙鳳以為大臣不可輕動。遂以范延光為樞密使,而重誨居職如故。

董璋らが反逆し、石敬瑭を派遣してこれを討たせたが、川路は険阻で、糧食の輸送は甚だ困難であり、毎に一石を費やして一斗を致す有様であった。関以西より、民は輸送に苦しみ、往々にして山林に亡命し集まって盗賊となった。明宗は重誨に謂いて曰く、「事勢この如し、吾自ら行くべし」と。重誨曰く、「これは臣の責なり」と。乃ち行くことを請うた。関西の人々、重誨の来るを聞き、皆すでに恐れ動揺し、而して重誨は日に数百里を馳せ、遠近驚駭した。糧運を督励し、日夜絶えることなく、道路に斃れ倒れる者は、数え勝えなかった。重誨が鳳翔ほうしょうを過ぎると、節度使朱弘昭はこれを寝室に招き、その妻子に命じて左右に奉事させ、甚だ謹んであった。重誨酒酣に及び、弘昭に言う、「昨、讒構に遭い、ほとんど自ら全からず、人主の明聖に頼り、家族を保つを得たり」と。因りて感歎し泣下した。重誨去りて後、弘昭は騎を馳せて上言す、「重誨怨望す、行営に至らしむべからず、その事を生ずるを恐る」と。而して宣徽使孟漢瓊は行営より使いして還り、また西人の震駭する状を言い、因りて重誨の過悪を述べた。重誨は三泉に行き至り、召還を受けた。鳳翔を過ぎるに、弘昭は拒絶して受け入れず、重誨懼れ、馳せて京師に赴く。未だ至らざるに、河中節度使に拝された。

原文董璋等反,遣石敬瑭討之,而川路險阻,糧運甚艱,每費一石,而致一斗。自關以西,民苦輸送,往往亡聚山林為盜賊。明宗謂重誨曰:「事勢如此,吾當自行。」重誨曰:「此臣之責也。」乃請行。關西之人聞重誨來,皆已恐動,而重誨日馳數百里,遠近驚駭。督趣糧運,日夜不絕,斃踣道路者,不可勝數。重誨過鳳翔,節度使朱弘昭延之寢室,使其妻子奉事左右甚謹。重誨酒酣,為弘昭言:「昨被讒構,幾不自全,賴人主明聖,得保家族。」因感歎泣下。重誨去,弘昭馳騎上言:「重誨怨望,不可令至行營,恐其生事。」而宣徽使孟漢瓊自行營使還,亦言西人震駭之狀,因述重誨過惡。重誨行至三泉,被召還。過鳳翔,弘昭拒而不納,重誨懼,馳趨京師。未至,拜河中節度使。

重誨既に罷免されると、旨に迎合する者は争ってその過失を求めた。宦官の安希倫は、重誨と交わり私するに坐し、常に重誨と共に宮中の動静を陰に窺っていたが、事発して市に棄てられた。重誨益々懼れ、因りて上章して老を告げた。太子太師を以て致仕し、而して李従璋を河中節度使とし、薬彦稠に兵を率いさせて河中に赴き、変事に備えさせた。重誨の子崇緒・崇贊は、京師に宿衛していたが、制書の下るを聞き、即日その父の許に奔った。重誨これを見て、驚いて曰く、「彼ら何ぞ来たるを得んや」と。已にして曰く、「これは彼らの意にあらず、人に使わされたるなり。吾は一死を以て国に報い、余復何をか言わん」と。乃ち二子を械送して京師に送り、陝州に行き至りて獄に下された。明宗はまた翟光業を河中に遣わし、重誨の去就を視察させ、戒めて曰く、「異志あれば、則ち従璋と図れ」と。また宦官を使者として重誨の許に遣わした。使者重誨に会い、号泣して已まず、重誨その故を問うと、使者曰く、「人言う、公に異志ありと、朝廷薬彦稠に師を率いさせて至れり」と。重誨曰く、「吾が死も責を塞ぐに足らず、遽かに朝廷を労して師を興さしめ、以て明主の憂いを重くす」と。光業至り、従璋は兵を率いて重誨の邸を囲み、庭に入りて拝した。重誨降りて答拝す、従璋は檛を以てその首を撃つ、重誨の妻走り寄りてこれを抱きて呼びて曰く、「令公の死は未だ晩からず、何ぞ遽にこの如くせん」と。またその首を撃ち、夫妻ともに死し、流血庭に盈つ。従璋その家財を検査せしむるに、数千緡に及ばずのみであった。明宗は詔を下し、その銭鏐を絶ち、孟知祥・董璋の反を致し、及び呉を伐たんと議したことを以て罪と為した。併せてその二子を殺し、その余の子孫は皆免じた。

原文重誨已罷,希旨者爭求其過。宦者安希倫,坐與重誨交私,常與重誨陰伺宮中動息,事發棄市。重誨益懼,因上章告老。以太子太師致仕;而以李從璋為河中節度使,遣藥彥稠率兵如河中虞變。重誨子崇緒、崇贊,宿衞京師,聞制下,即日奔其父,重誨見之,驚曰:「渠安得來!」已而曰:「此非渠意,為人所使耳。吾以一死報國,餘復何言!」乃械送二子于京師,行至陝州,下獄。明宗又遣翟光業至河中,視重誨去就,戒曰:「有異志,則與從璋圖之。」又遣宦者使于重誨。使者見重誨,號泣不已,重誨問其故,使者曰:「人言公有異志,朝廷遣藥彥稠率師至矣!」重誨曰:「吾死未塞責,遽勞朝廷興師,以重明主之憂。」光業至,從璋率兵圍重誨第,入拜于庭。重誨降而答拜,從璋以檛擊其首,重誨妻走抱之而呼曰:「令公死未晚,何遽如此!」又擊其首,夫妻皆死,流血盈庭。從璋檢責其家貲,不及數千緡而已。明宗下詔,以其絕錢鏐,致孟知祥、董璋反,及議伐吳,以為罪。并殺其二子,其餘子孫皆免。

重誨罪を得て、その必ず死すべきを知り、歎じて曰く、「我固より死すべきなり、但だ国家の為に潞王を除去せざるを恨む」と。これその恨みなり。

原文重誨得罪,知其必死,歎曰:「我固當死,但恨不與國家除去潞王!」此其恨也。

嗚呼、官はその職を失うこと久し!予、梁宣底を読み、敬翔、李振が崇政院使となり、凡そ上の旨を承け、これを宰相に宣して奉行することを見た。宰相のその見に非ざる時、事の上の決すべきもの、其の旨を被りて復請することあるものは、具に記事して入る。「記事」とは、今の学士院の諮報のごときであり、今の士大夫間に文字あざなを以て往来するを「簡帖」と謂い、俚俗は猶お「記事」と謂うなり。崇政使を因りて聞けば、旨を得て則ち復た宣して出だす。梁の崇政使は、唐の枢密の職であり、蓋し出納の任である。唐は常に宦者を以てこれに為したが、梁に至りてその禍を戒め、始めて士人を用い、顧問に備え、中において参謀議することには有れど、未だ始めて外において事を専行するは無かった。崇韜、重誨がこれと為すに至り、始めて唐の枢密の名を復したが、権は宰相に侔う(等しい)までとなった。後世これに因り、遂に二に分かれ、文事は宰相に任じ、武事は枢密に任じた。枢密の任既に関重く、宰相は此れよりその職を失ったのである。

原文嗚呼,官失其職久矣!予讀梁宣底,見敬翔、李振為崇政院使,凡承上之旨,宣之宰相而奉行之。宰相有非其見時而事當上決者,與其被旨而有所復請者,則具記事而入,「記事」,若今學士院諮報,今士大夫間以文字相往來謂之「簡帖」,俚俗猶謂之「記事」也。因崇政使聞,得旨則復宣而出之。梁之崇政使,乃唐樞密之職,蓋出納之任也,唐常以宦者為之,至梁戒其禍,始更用士人,其備顧問、參謀議于中則有之,未始專行事於外也。至崇韜、重誨為之,始復唐樞密之名,然權侔於宰相矣。後世因之,遂分為二,文事任宰相,武事任樞密。樞密之任既重,而宰相自此失其職也。