新五代史

原文新五代史

巻二十

原文卷20

柴守禮

原文柴守禮

周の太祖聖穆皇后柴氏には子がなく、后の兄守禮の子を養子として子とし、これが世宗である。

原文周太祖聖穆皇后柴氏,無子,養后兄守禮之子以為子,是為世宗。

守禮は字あざなを克讓といい、后の一族として銀青光禄大夫・檢校吏部尚書・兼御史大夫に任ぜられた。世宗が即位すると、金紫光禄大夫・檢校司空・光禄卿を加えられた。致仕して洛陽に住み、世宗の世が終わるまで、一度も京師に至らず、左右の者も敢えて言う者はなく、ただ元舅として礼を以て遇した。しかし守禮もまた甚だ恣横で、嘗て市中で人を殺し、有司がこれを聞上したが、世宗は問わなかった。この時、王溥・王晏・王彥超・韓令坤らは同時に将相たり、皆父が洛陽に在り、守禮と朝夕往来し、意のままに振る舞い、洛陽の人多くは畏れて避け、『十阿父』と号した。守禮は七十二歳で卒し、官は太傅に至った。

原文守禮字克讓,以后族拜銀青光祿大夫、檢校吏部尚書、兼御史大夫。世宗即位,加金紫光祿大夫、檢校司空、光祿卿。致仕,居于洛陽,終世宗之世,未嘗至京師,而左右亦莫敢言,第以元舅禮之。而守禮亦頗恣橫,嘗殺人于市,有司以聞,世宗不問。是時,王溥、王晏、王彥超、韓令坤等同時將相,皆有父在洛陽,與守禮朝夕往來,惟意所為,洛陽人多畏避之,號「十阿父」。守禮卒年七十二,官至太傅。

嗚呼、父子の恩は至れりと云うべきか。孟子は言う、舜が天子となって、瞽叟が人を殺せば、天下を棄て、窃かに之を背負って逃れる、と。天下は舜無くとも可なり、至公無くしては不可なり、舜は天下を棄て可なり、其の父を刑することは不可なり、と謂う。これは世のために立言した説である。然るに事柄には固より其の意の如くならざること多し。蓋し天子には宗廟社稷の重き、百官の衞、朝廷の厳しき有り、其の不幸にして窃かに逃れるを得ざる時は、如何にすべきか。予は周史を読み、守禮が人を殺すを、世宗が寝て問わざるを見る。蓋し天下の重任に進みて、而して子たる其の父に對するも亦至りたれば、故に寧ろ法を屈する過ちを受けて、以て父子の道を伸べ、其の義に合する所以は、権を知るが故なり。君子の事に處するは、其の軽重を択んで之を處するのみ。刑を失するは軽く、不孝は重し。刑は以て人の非を為すを禁じ、孝は以て人の善を為すを教う、其の意は一なり。孰れか重き。一人を刑するも、未だ必ずしも天下をして人を殺す無からしむる能わず、而して其の父を殺せば、天性を滅ぼし人道を絶つ。孰れか重き。其の所謂軽重を権衡すれば、天下は棄つる能わずと雖も、而して父も亦刑す可からざるなり。然らば則ち舜と世宗たる者は、如何にすべきか。瞽叟・守禮をして人を殺すに至らしめざらしむれば、孝と謂う可きなり。然るに其の意の如くならざる有れば、則ち其の軽重を択んで之を處するなり。世宗の権を知る、明らかなり。

原文嗚呼,父子之恩至矣!孟子言:舜為天子,而瞽叟殺人,則棄天下,竊負之而逃。以謂天下可無舜,不可無至公,舜可棄天下,不可刑其父,此為世立言之說也。然事固有不得如其意者多矣!蓋天子有宗廟社稷之重、百官之衞、朝廷之嚴,其不幸有不得竊而逃,則如之何而可?予讀周史,見守禮殺人,世宗寢而不問,蓋進任天下重矣,而子於其父亦至矣,故寧受屈法之過,以申父子之道,其所以合於義者,蓋知權也。君子之於事,擇其輕重而處之耳。失刑輕,不孝重也。刑者所以禁人為非,孝者所以教人為善,其意一也,孰為重?刑一人,未必能使天下無殺人,而殺其父,滅天性而絕人道,孰為重?權其所謂輕重者,則天下雖不能棄,而父亦不可刑也。然則為舜與世宗者,宜如何無使瞽叟、守禮至於殺人,則可謂孝矣!然而有不得如其意,則擇其輕重而處之焉。世宗之知權,明矣夫!

皇后劉氏

原文皇后劉氏

世宗に三皇后有り。貞惠皇后劉氏は、其の家世を知らず、蓋し微時に娶りし者なり。世宗が左監門衞將軍たりし時、彭城縣君に封ぜられた。世宗が太祖に従って魏に在りし時、后は京師に留まる。太祖が兵を挙げし時、漢其の族を誅す。太祖即位し、追封して彭城郡夫人とす。世宗顕徳四年夏四月、始めて詔して彭城郡夫人劉氏を追冊して皇后とし、有司謚して貞惠と曰い、陵を惠陵と曰う。

原文世宗三皇后。貞惠皇后劉氏,不知其世家,蓋微時所娶也,世宗為左監門衞將軍,得封彭城縣君。世宗從太祖于魏,后留京師,太祖舉兵,漢誅其族。太祖即位,追封彭城郡夫人。世宗顯德四年夏四月,始詔彭城郡夫人劉氏追冊為皇后,有司謚曰貞惠,陵曰惠陵。

皇后符氏

原文皇后符氏

宣懿皇后符氏、其の祖父は秦王存審、父は魏王彥卿。后は世々王家に生れ、将相の貴きより出で、人となり明果にして大志有り。初め李守貞の子崇訓に適す。守貞は漢に事えて河中節度使たり、既に異志を挟む。術者有りて人の声を聴きて吉凶を知るに善し。守貞其の家人を出だして之を聴かしむ。術者后の声を聞き、驚いて曰く「此れ天下の母なり」と。守貞益々自ら負うて曰く「吾が婦猶お天下の母たり、吾が天下を取る復た何の疑いか有らん」と。是に於て決して反す。而して漢周太祖を遣わして之を討たしむ。年を踰えて其の城を攻め破る。崇訓免れ難きを知り、手ずから其の家人を殺し、次いで后に及ぼんとす。后は走り匿れ、帷幔を以て自ら蔽う。崇訓惶遽として后を求め得ず、遂に自殺す。漢兵其の家に入る。后は儼然として堂上に坐し、軍士を顧みて曰く「郭公は吾が父と旧有り、汝輩我を犯す無かれ」と。軍士之を見て敢えて迫らず。太祖之を聞き、一女子にして乱兵をして敢えて犯さしめざらしむ、と謂い、之を奇とし、為に慰勉を加え、彦卿に帰らしむ。后は太祖の殺さざるを感し、太祖を拝して父と為す。其の母は后の夫家滅亡し、而して独り兵刃の間を脱れ死せざるを以て、天幸と為し、削髪して尼と為さしめんと欲す。后肯わずして曰く「死生は命有り、天なり。何ぞ妄りに形髪を毀損すべけんや」と。太祖は后に恩有り、而して世宗の性特に英鋭たり。后の此の如きを聞き、益々之を奇とす。劉夫人の卒するに及び、遂に納れて継室と為す。世宗即位し、冊して皇后と為す。世宗は卞急にして暴怒多く、而して后は嘗て追悔し、怒する毎に左右を、后は必ず従容として顔色を伺い、漸く為に解説し、世宗の意も亦随って解け、是に由りて益々之を重んず。世宗淮を征す。后は帝の親しく行く宜しからざるを以て、切に諫めて之を止めんとす。世宗聴かず。師久しく功無く、大暑雨に遭う。后は憂いを以て疾を成して崩ず。議者方に兵を用うるを以て、喪礼を殺すを請う。是に於て百官西宮に朝臨し、三日にして服を釈く。帝も亦七日にして釈く。新鄭に葬り、陵を懿陵と曰う。

原文宣懿皇后符氏,其祖秦王存審,父魏王彥卿。后世王家,出於將相之貴,為人明果有大志。初適李守貞子崇訓。守貞事漢為河中節度使,已挾異志。有術者善聽人聲以知吉凶,守貞出其家人使聽之,術者聞后聲,驚曰:「此天下之母也!」守貞益自負,曰:「吾婦猶為天下母,吾取天下復何疑哉!」於是決反。而漢遣周太祖討之,逾年,攻破其城。崇訓知不免,手自殺其家人,次以及后,后走匿,以帷幔自蔽,崇訓惶遽求后不得,遂自殺。漢兵入其家,后儼然坐堂上,顧軍士曰:「郭公與吾父有舊,汝輩無犯我!」軍士見之不敢迫。太祖聞之,以謂一女子能使亂兵不敢犯,奇之,為加慰勉,以歸彥卿。后感太祖不殺,拜太祖為父。其母以后夫家滅亡,而獨脫死兵刃之間,以為天幸,欲使削髮為尼,后不肯曰:「死生有命,天也。何必妄毀形髮為!」太祖於后有恩,而世宗性特英銳,聞后如此,益奇之。及劉夫人卒,遂納以為繼室。世宗即位,冊為皇后。世宗卞急多暴怒,而後嘗追悔,每怒左右,后必從容伺顏色,漸為解說,世宗意亦隨解,由是益重之。世宗征淮,后以帝不宜親行,切諫止之,世宗不聽。師久無功,遭大暑雨,后以憂成疾而崩。議者以方用兵,請殺喪禮,於是百官朝臨于西宮,三日而釋服,帝亦七日而釋,葬於新鄭,陵曰懿陵。

後に立つ皇后符氏は、后の妹なり。國初、西宮に遷し、周太后と号す。

原文後立皇后符氏,后妹也。國初,遷西宮,號周太后。

世宗七子

原文世宗七子

世宗の子七人。長ずるは宜哥、次ぎの二は皆名無し、次ぎは恭皇帝、次ぎは熙讓、次ぎは熙謹、次ぎは熙誨、皆其の母誰氏なるかを知らず。宜哥と其の二は、皆漢に誅せらる。太祖即位し、詔して皇孫に名を賜う。誼は左驍衞大將軍を贈り、誠は左武衞大將軍を贈り、諴は左屯衞大將軍を贈る。

原文世宗子七人:長曰宜哥,次二皆未名,次曰恭皇帝,次曰熙讓,次曰熙謹,次曰熙誨,皆不知其母為誰氏。宜哥與其二,皆為漢誅。太祖即位,詔賜皇孫名誼,贈左驍衞大將軍;誠,左武衞大將軍;諴,左屯衞大將軍。

顕徳三年、羣臣宗室の封を請う。世宗は國と為す日浅く、恩信未だ人に及ばず、而して須らく功德大成し、慶世に流れて、而る後に之を議する可きなりと謂う。明年夏四月癸未、先ず太祖諸子を封ず。又詔して曰く「父子の道は、聖賢忘れず。再び夭閼の端を思えば、愈々悲傷の抱きを動かす。故に皇子左驍衞大將軍誼・左武衞大將軍誠・左屯衞大將軍諴等、往事を載惟すれば、足りて懷を傷ます有り。宜しく一字の封を増し、仍て三台の秩を贈るべし。誼は太尉を贈り、越王を追封す可し。誠は太傅、呉ご王。諴は太保、韓王」と。而して皇子在る者は皆封ぜず。

原文顯德三年,羣臣請封宗室,世宗以謂為國日淺,恩信未及於人,而須功德大成,慶流于世,而後議之可也。明年夏四月癸未,先封太祖諸子。又詔曰:「父子之道,聖賢不忘,再思夭閼之端,愈動悲傷之抱。故皇子左驍衞大將軍誼、左武衞大將軍誠、左屯衞大將軍諴等,載惟往事,有足傷懷,宜增一字之封,仍贈三台之秩。誼可贈太尉,追封越王;誠太傅,吳王;諴太保,韓王。」而皇子在者皆不封。

六年、北に三関を回復し、病に罹り、京師に還る。六月癸未、皇子宗訓、特進左衞上將軍に進み、梁王に封ぜらる。而して宗讓も亦た左驍衞上將軍を拝し、燕國公に封ぜらる。後十日にして世宗崩じ、梁王即位す、是れ恭皇帝なり。其の年八月、宗讓名を熙讓と改め、曹王に封ぜらる。熙謹・熙誨は皆な前に封爵せられず、遂に熙謹を右武衞大將軍に拝し、紀王に封じ、熙誨を左領軍衞大將軍に拝し、蘄王に封ず。皇朝乾德二年十月、熙謹卒す。熙讓・熙誨は、其の終わる所を知らず。

原文六年,北復三關,遇疾,還京師。六月癸未,皇子宗訓,特進左衞上將軍,封梁王;而宗讓亦拜左驍衞上將軍,封燕國公。後十日而世宗崩,梁王即位,是為恭皇帝。其年八月,宗讓更名熙讓,封曹王。熙謹、熙誨皆前未封爵,遂拜熙謹右武衞大將軍,封紀王;熙誨左領軍衞大將軍,蘄王。皇朝乾德二年十月,熙謹卒。熙讓、熙誨,不知其所終。

嗚呼!至公は、天下の共にする所である。その是非曲直の際、父が子を愛するとしても、時に私するを得ないことがある。周太祖が魏に兵を挙げた時、漢は劉銖を派遣して京師でその家族を誅殺し、酷毒は極まった。後に太祖が入立すると、人を派遣して銖を責めたが、銖は辞せず屈せず、太祖は深くこれを恨んだが、銖の言葉が直であったため、終にその家族には及ばなかった。妻子が殺されたことを追封するに及んで、その言は深く自ら隠痛しただけであり、あえて漢を非とする言葉はなかった、その曲が己にあると知っていたからである。ゆえに略してその辞を存し、周がその心に愧じるところがあったことを示すものである!

原文嗚呼!至公,天下之所共也。其是非曲直之際,雖父愛其子,亦或有所不得私焉。當周太祖舉兵于魏,漢遣劉銖誅其家族於京師,酷毒備至;後太祖入立,遣人責銖,銖辭不屈,太祖雖深恨之,然以銖辭直,終不及其家也。及追封妻子之被殺者,其言深自隱痛之而已,不敢有非漢之辭焉,蓋知其曲在己也。故略存其辭,以見周之有媿於其心者矣!