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皇后柴氏
太祖の后妃は一后三妃である。聖穆皇后柴氏は、邢州堯山の人であり、太祖と同郷であったので、これに嫁いだ。太祖が微賤の時、酒を好み博奕をし任侠をなし、細行に拘らなかったが、后は常に諫めて止めさせた。太祖の状貌は奇偉であり、后は心の中でその貴人たるを知り、これを事えて甚だ謹んだ。太祖が即位した時、后は既に先に卒していたので、詔を下して「故夫人柴氏を追冊して皇后とし、謚して聖穆と曰う」とした。
淑妃楊氏
淑妃楊氏は、鎮州真定の人である。父は弘裕、真定少尹であった。妃は幼くして色によって選ばれて趙王の宮に入り、王鎔に事えた。鎔が張文礼に殺され、鎮州が乱れると、妃もまた民間に流寓し、後に里人の石光輔に嫁ぎ、数年居住して光輔が死んだ。太祖の柴夫人が卒すると、妃に色有りて賢であると聞き、遂にこれを娶って継室とした。太祖が漢の高祖に事えて太原に在った時、天福年間に妃が卒し、遂に太原の近郊に葬った。
貴妃張氏
貴妃張氏は、鎮州真定の人である。祖父は記、成徳軍節度判官、検校兵部尚書であった。父は同芝、趙王王鎔に事えて諮呈官となり、官は検校工部尚書に至った。鎔が死に、鎮州が乱れると、荘宗は幽州の符存審を遣わして兵をもって張文礼を討たせた。裨将の武従諫が妃の家に宿した時、妃の尚幼きを見てこれを憐れみ、従諫の家が太原にあったので、遂に妃を帰してその子の婦とした。
久しくして、太祖が漢の高祖に事えて太原に在り、楊夫人が卒し、武氏の子もまた卒すると、遂に妃を納れて継室とした。太祖が貴ぶに及び、累ねて呉国夫人に封ぜられた。太祖が兵をもって京師に入ると、漢は劉銖を遣わしてその家を戮し、妃と諸子は皆死んだ。太祖が即位し、追冊して貴妃とした。
徳妃董氏(子に侗、信、姪に守愿、奉超、遜あり)
徳妃董氏は、鎮州霊寿の人である。祖父は文広、唐の深州録事参軍であった。父は光嗣、趙州昭慶尉であった。妃は幼くして穎悟であり、始めて言葉を話すことができた時、楽声を聞いてその律呂を知った。
年七歳の時、鎮州が乱れ、その家はこれを失い、潞州の牙将に得られて、褚中に置かれて帰された。潞将の妻は嘗て女を生んだが、辄ち育たず、妃を得てこれを憐れみ、養って子とし、己が生んだ子よりも過ぎた。五六年居住して、妃の家は悲しみ思い、その兄の瑀がこれを人間に求めたが、所在を知る者無かった。潞将が京師に仕え、瑀に遇い、欣然としてこれを帰した。時に年十三であった。
妃の兄三人:瑀は官、太子右賛善大夫に至り、玄之・自明は皆、刺史に至る。
世宗顕徳四年夏四月癸未、詔して曰く、「礼は情に縁り、恩は往きを悼む。況んや友于の列に在りては、尤も惻愴の情に鍾る。故皇弟贈太保侗・贈司空信は、景運初めて啓くも、大年登らず、予をして終に鮮くせしむ。実に予が懐を勤む。侗は太傅を贈るべく、追封して郯王とす。信は司徒、杞王とす。」また詔して曰く、「故皇従弟贈左領軍衛将軍守愿・贈左監門衛将軍奉超・贈左千牛衛将軍遜等は、頃に季世に因り、遐齢を享けず。毎に非辜を念うに、有慟を忘れ難し。守愿は左衛大将軍を贈るべく、奉超は右衛大将軍、遜は右武衛大将軍を贈るべし。」