目次
嗚呼、孟子は『春秋に義戦なし』と謂う。予も亦以て謂う、五代に全き臣無しと。無き者は、一人も無きに非ず、蓋し僅かに之れ有るのみ。余は死節の士三人を得たり。其の仕えて二代に及ばざる者は、各其の国を以て之に繫ぎ、梁・唐・晋・漢・周臣伝を作る。其の余、一代にのみ仕えざる者は、以て国に繫ぐべからず、雑伝を作る。夫れ雑に入るは、誠に君子の羞づる所なり。而して一代の臣、未だ必ずしも皆貴ぶべからず。覧る者其の善悪を詳にせよ。
敬翔
敬翔、字は子振、同州馮翊の人なり。自ら言う、唐の平陽王暉の後と。少しく学を好み、書檄に巧みなり。乾符中、進士に挙げられて中らず、乃ち大梁に客す。翔の同里人王発は汴州観察支使たり。遂に往きて之に依る。
久しくして、発は薦引する所無く、翔の客たる益々窘し。人の為に牋刺を作り、之を軍中に伝う。太祖は素より書を知らず、翔の作る所は皆俚俗の語なり。太祖之を愛し、発に謂いて曰く、「君に故人有るを聞く、倶に来るべし」と。翔、太祖に見ゆ。太祖問いて曰く、「子の春秋を読むを聞く、春秋の記す所は何等の事ぞ」と。翔曰く、「諸侯の争戦の事のみ」と。太祖曰く、「其の用兵の法、以て吾が用と為すべけんや」と。翔曰く、「兵は、応変奇を出して以て勝を取るものなり。春秋の古法は、今に用うべからず」と。太祖大いに喜び、軍職を以て補せんとす。其の好む所に非ざれば、乃ち館驛巡官と為す。
太祖、蔡人と汴郊に戦う。翔は時に時に太祖の為に謀画し、多く中る。太祖欣然たり、以て翔を得るの晩きを謂い、動静輒ち之を以て問う。太祖、昭宗を奉じて岐より長安に還る。昭宗、翔と李振を召して延喜楼に升り、之を労い、太府卿に拝す。
初め、太祖常に殿上に侍す。昭宗、衛兵に之を擒える能う者有らんことを意い、乃ち佯りて鞋の結び解けたるを為し、以て太祖を顧みる。太祖跪きて之を結ぶ。而して左右敢えて動く者無し。太祖汗背に浹す。此に由りて復た進見すること稀なり。昭宗、洛陽に遷る。崇勲殿に宴す。酒半ばにして起ち、人をして太祖を召し内殿に入らしめ、将に託すべき所有らんとす。太祖益々懼れ、疾を以て辞す。昭宗曰く、「卿来たらずば、敬翔をして来たらしむべし」と。太祖遽かに翔を麾いて出ださしめ、亦佯りて酔いて去る。
太祖既に趙匡凝を破り、荊・襄を取り、遂に淮南を攻む。翔切に諫め、以て謂う、新勝の兵は、宜しく持重して以て威を養うべしと。太祖聴かず。兵を光州に出だし、大雨に遭い、幾くにか進むを得ず。進みて寿州を攻め、克たず、而して亡失する所多し。太祖始めて大いに悔恨す。帰りて忿躁し、唐の大臣を殺すこと幾くにか尽くす。然れども益々翔を以て信任すべきと為す。
梁の篡弒、翔の謀多く為る。太祖即位し、唐の枢密院故に宦者を用いるを以て、乃ち之を改めて崇政院と為し、翔を以て使と為す。兵部尚書・金鑾殿大学士に遷す。
翔、人と為り深沉にして大略有り。太祖に従いて兵を用うること三十余年、細大の務必ず之に関わる。翔も亦心を尽くし勤労し、昼夜寐ず。自ら言う、惟だ馬上に在りて乃ち休息を得と。而して太祖剛暴にして近づき難く、不可なる所有れば、翔も未だ嘗て顕かに言わず、微かに其の端を開く。太祖意悟り、多く之が為に改易す。
太祖、徐州を破り、時溥の寵姫劉氏を得て、之を愛幸す。劉氏は故に尚譲の妻なり。乃ち以て翔に妻とす。翔已に貴し。劉氏猶お太祖に侍し、出入り臥内すること平時の如し。翔頗る之を患う。劉氏、翔を誚りて曰く、「爾は我が嘗て賊に身を失えりと為すか。尚譲は黄家の宰相、時溥は国の忠臣。卿の門地を以てすら、猶お我を辱しむ。請う、此より訣せん」と。翔、太祖の故を以て、謝して之を止む。劉氏の車服驕侈、別に典謁を置き、藩鎮と交結す。権貴往々之に附す。寵信言事、翔に下らず。当時の貴家、往々之を効す。
太祖崩ず。友珪立つ。翔を先帝の謀臣と為し、其の己を図るを懼れ、翔の内職に居るを欲せず。乃ち李振を以て翔に代わり崇政使と為し、翔を中書侍郎・同中書門下平章事に拝す。翔、友珪の己を畏るるを以て、多く疾と称し、未だ嘗て事を省みず。
末帝即位す。趙巖等用事し、頗る旧臣を離間す。翔愈々鬱鬱として志を得ず。其の後、梁尽く河北を失い、晋と楊劉に相拒つ。翔曰く、「故時に河朔半ば在り、先帝の武を以て、貔虎の臣を御するも、猶お晋に志を得ず。今晋日を逐うて彊く、梁日を逐うて削がる。陛下深宮の中に処り、与に事を計る者は、其の近習に非ざれば、則ち皆親戚の私なり。而して事の成るを望まんや。臣聞く、晋楊劉を攻むるに、李亜子薪を負い水を渡り、士卒の先と為る。陛下委蛇として文を守り、儒雅を以て自ら喜ぶ。而して賀瓌を遣わして将と為す。豈に彼の余鋒に当たるに足らんや。臣雖だ憊れり、国恩深く受く。若し其の材乏しければ、願わくば自ら効するを得ん」と。巖等、翔を以て怨言と為し、遂に用いず。
その後、王彦章が中都にて敗れ、末帝は懼れ、段凝を河上より召す。この時、梁の精兵は悉く凝の軍に在り、凝は異志有り、顧みて来らず。末帝は遽かに翔を呼びて曰く、「朕は常に卿の言を忽せり、今急なり、以て懟と為す勿れ、卿其れ我に安くに帰すべきかを教へよ」と。翔曰く、「臣は先帝に従ひて三十餘年、今相と為るといへども、実に朱氏の老奴爾、陛下に事へること郎君の如し、臣の心を以て、敢へて隠す所あらんや。陛下初めに段凝を用ひし時、臣已に之を爭へり、今凝来らず、敵勢已に迫る、陛下の為に謀らんと欲すれば、則ち小人之を間ひ、必ず聴かれず。請ふ先づ死し、宗廟の亡ぶを見るに忍びず」と。君臣相ひ向ひて慟哭す。
翔と李振は俱に太祖に信任せられ、荘宗の汴に入るに及び、詔して梁の羣臣を赦し、李振は喜びて翔に謂ひて曰く、「詔有りて洗滌し、将に新君に朝せん」と。翔を邀へて俱に入り見んと欲す。翔は夜高頭車坊に止まり、将に旦ならんとす、左右報じて曰く、「崇政李公朝に入れり」と。翔歎じて曰く、「李振謬りて丈夫と為る、復た何の面目を以てか梁の建国門に入らん」と。乃ち自経して卒す。
朱珍(李唐賓を附す)
朱珍は、徐州豊の人なり。少くして龐師古等と俱に梁の太祖に従ひて盗を為す。珍は将と為り、軍を治め士を選ぶに善くし、太祖初めに宣武を鎮むるに、珍は太祖の為に軍制を創立し、将を選び兵を練る甚だ法有り。太祖は諸将の募る所の兵及び他の降兵を得て、皆以て珍に属し、珍は将五十餘人を選び、皆用ふ可し。梁の黄巢に敗れ、秦宗権を破り、東に兗鄆を并すに、未だ嘗て戦中に在らざること無く、而して常に諸将に勇出せり。
太祖と晉王と東に黄巢を逐ひ、還りて汴を過ぎ、之を上源驛に館す。太祖は珍をして夜兵を以て之を攻めしむ。晉王は亡去し、珍は其の麾下の兵を悉く殺す。
義成軍乱れ、安師儒を逐ふ。師儒は梁に奔る。太祖は珍を遣はし兵を以て滑州に趨らしむ。道大雪に遇ひ、珍は兵を趣して疾馳せしめ、一夕にして城下に至り、遂に其の城に乗ず。義成軍は方に雪と為すを以て、梁兵の来らんことを意はざりければ、備へを為さず、遂に之を下す。
秦宗権は盧瑭・張晊等を遣はして梁を攻む。是の時、梁兵尚ほ少く、数へて宗権に困らしめらる。太祖乃ち珍を淄州刺史に拝し、兵を淄青に募らしむ。珍の偏将張仁遇、珍に白して曰く、「軍中に令を犯す者有らば、請ふ先づ斬りて後に白せん」と。珍曰く、「偏将専殺せんと欲するか」と。立たずして仁遇を斬り以て軍に徇す。軍中皆感悦す。珍は募る所の兵萬餘を得て以て帰る。太祖大いに喜びて曰く、「賊吾が郊に在り、若し吾が麦を践まば奈何。今珍至る、吾が事済めり。且つ賊方に兵を息め勇を養ひ、吾が兵少きを度り、而して未だ珍の来るを知らず、吾が過ぎて堅守するのみと謂ふ。宜しく其の不意に出でて之を撃つべし」と。乃ち兵を出して晊等を撃ち破り、宗権是より敗亡し、而して梁軍威大いに振る。珍の兵を得し故なり。
珍は太祖に従ひて朱宣を攻め、曹州を取り、其の刺史丘弘禮を執る。又濮州を取り、刺史朱裕は鄆州に奔る。太祖乃ち汴に還り、珍を留めて鄆州を攻めしむ。珍は鄆を去ること二十里にして、精兵を遣はして之を挑す。鄆人出でず。朱裕は詐りて降書と為し、陰に人をして珍を召し、門を開きて内応するを約す。珍之を信じ、夜其の兵を率ひて鄆城門を叩く。朱裕は陴に登り、門を開きて珍の軍を内る。珍の軍已に甕城に入りて垂門発す。鄆人は城上より磔石を以て之に投ぐ。珍の軍は皆甕城中に死す。珍僅かに身を以て免る。太祖之を責めず。
魏博軍乱れ、楽彦貞を囚ふ。太祖は珍を遣はして魏を救はしむ。珍は黎陽・臨河・李固を破り、分かちて聶金・范居実等を遣はし澶州を略し、魏の豹子軍二千を臨黄に殺す。珍威河朔に振る。魏人彦貞を殺す。珍乃ち還る。梁徐州を攻め、珍を遣はして先づ豊県を攻め下し、又時溥を呉康に敗り、李唐賓等と蕭県に屯す。
唐賓は、陝の人なり。初め尚譲の偏将と為り、太祖と尉氏門に戦ひ、太祖に敗れられ、唐賓乃ち梁に降る。梁兵四方を攻掠し、唐賓は常に珍と俱にし、珍と威名略等しく、而して驍勇之に過ぐ。珍戦ふ毎に小却すれども、唐賓之を佐けて乃ち大勝す。珍嘗て其の家を私に迎へて軍中に置く。太祖は珍に異志有りと疑ひ、唐賓を遣はして之を伺察せしむ。珍と唐賓協はず、唐賓忍ぶ能はず、夜走りて宣武に還る。珍は単騎にて之を追ひ、交りて太祖の前に訴ふ。太祖両ひ其の材を惜しみ、為に之を和解す。
珍は蕭県に屯し、太祖将に至らんとすと聞き、軍中に戒めて館廐を治めて以て待たしむ。唐賓の部将厳郊、廐を治めて期を失す。軍吏之を督す。郊は唐賓に訴ふ。唐賓以て珍に譲る。珍怒り、剣を抜きて起つ。唐賓は衣を拂ひて珍に就く。珍即ち之を斬り、使者を遣はして唐賓の反を告ぐ。使者は晨に梁に至る。敬翔は太祖の暴怒測る可からざるを恐れ、乃ち使者を匿し、夜に至りて之を見る。謂く、雖も発する所有らんも、須らく明旦を要すべし、冀くは其事を少しく緩めて之を図らんと。既に夕となり、乃ち珍の使者を引いて入り見しむ。太祖大いに驚く。然れども已に夜なれば、発する所有る能はず。翔因りて従容として太祖の為に画す。明日、佯りて唐賓の妻子を収めて獄に下す。因りて珍の軍に如く。蕭を去ること一舎。珍迎謁す。太祖は武士を命じて之を執らしむ。諸将霍存等十餘人、頭を叩きて珍を救ふ。太祖大怒し、胡牀を挙げて之に擲ちて曰く、「方に珍の唐賓を殺せる時、独り之を救はざりし邪」と。存等退く。珍遂に縊死す。
龐師古
龐師古は、曹州南華の人なり。初め名は従と曰ふ。梁の太祖宣武を鎮むるに、初めて馬五百匹を得て騎兵と為し、乃ち師古を以て之を将とす。黄巢・秦宗権を破るに従ひ、皆功有り。
太祖時溥を攻めて未だ下さず、兵を留めて師古に属して之を守らしむ。師古其の宿遷を取り、進みて呂梁に屯す。溥は兵二萬を以て出でて戦ふ。師古之を敗り、首二千級を斬る。孫儒は楊行密を逐ひ、揚州を取り、淮南大いに乱る。太祖は師古を遣はし淮を渡りて儒を攻めしむ。儒に敗れらる。是の時、朱珍・李唐賓已に死す。師古と霍存と分かちて其の兵を将ふ。郴王友裕徐州を攻む。朱瑾は兵を以て時溥を救ふ。友裕は溥を石仏山に敗る。瑾は餘兵を収めて去る。太祖は友裕の追ふ可きを追はずと為し、其の兵を奪ひて師古に属す。師古徐州を攻め破り、溥を斬る。太祖は師古を徐州留後に表す。梁兵鄆州を攻め、済水に臨む。師古は木を徹して橋と為し、夜中軍を以て先づ済る。朱宣は中都に走り、見殺さる。
太祖已に兗・鄆を下し、乃ち師古と葛従周を遣はし淮南に於て楊行密を攻めしむ。師古は清口より出で、従周は安豊より出づ。師古は其の微時のより太祖に事へ、人と為り謹甚だしく、未だ嘗て左右を離れず。及び将と為りて兵を出すに、必ず方略を受けて以て行く。軍中に太祖の命に非ざれば、妄りに動かず。師古は清口に営す。地勢卑し。或いは高きに就きて柵を為さんことを請ふ。師古は太祖の命に非ざれば聴かず。淮人は水を決して之を浸す。請ふ者告げて曰く、「淮人は河を決し、上流の水至れり」と。師古は以て士卒を揺動すと為し、立たずして之を斬る。已にして水至る。兵戦ふ能はず。遂に見殺さる。
嗚呼、兵の勝敗は、いかでか易く言わんや。梁の兵は天下に強しと雖も、呉人は軽弱と号す、然るに師古再び挙げて呉を撃つに、輒く再び敗れて死す。その後、太祖自ら将として出でて光山に至り、寿春を攻むるも、亦た敗る。蓋し高駢の死より、唐は梁を以て淮南を兼ね統べしめ、遂に孫・楊と争う、凡そ三十年の間、三たび挙げて三たび敗る。以て強きが至弱に遭いてかくの如きに至る、これ理を以て得べからざるなり。兵法固より寡を以て衆を敗り、弱を以て強に勝つ者有り、顧みるに呉豈にこれを知るに足らんや。豈に適その機会に与るに非ずや。故に曰く、「兵は凶器、戦は危事なり」と。慎まざるべけんや。
葛従周
葛従周、字は通美、濮州甄城の人なり。少くして黄巢に従い、敗れて梁に降る。太祖に従いて蔡州を攻め、太祖馬より墜つ、従周太祖を扶けて復た騎せしめ、敵と歩鬬して面を傷つけ、身に数瘡を被る、偏将張延寿旁より之を撃つ、従周太祖と俱に去るを得たり。太祖諸将を尽く黜け、独り従周・延寿を用いて大将と為す。
秦宗権潁・亳の地を掠め、梁兵と焦夷に戦うに及び、従周其の将王涓一人を獲たり。朱珍に従いて淄青に兵を収め、東兵に遇えば輒く戦い、珍兵を得て帰る、従周の功最も多し。張全義河陽に於て李罕之を襲い、罕之晋に奔り、晋兵を召して以て全義を攻む、全義梁に兵を乞う、太祖従周・丁会等を遣わして之を救わしめ、晋兵を沇河に敗る。潞州の馮霸晋の守将李克恭を殺して以て梁に降る、太祖従周を遣わして潞州に入らしむ、晋兵之を攻む、従周守る能わず、河陽に走る。太祖魏を攻め、従周と丁会先ず黎陽・臨河を下し、内黄に於て太祖に会し、魏兵を永定橋に敗る。丁会に従いて宿州を攻め、水を以て其の城を浸し、遂に之を破る。太祖兗州に於て朱瑾を攻め、未だ下さず、従周を留めて之を囲ます、瑾壁を閉じて出でず、従周詐りて救兵至ると言い、陽に高呉に避け、夜半潜かに還りて城下に至る、瑾従周已に去れりと謂い、乃ち兵を出して外壕を収む、従周掩撃して之を殺すこと千余人。
晋魏を攻め、魏人求救す、太祖侯言を遣わして魏を救わしめ、言洹水に壘を築く。太祖言の戦に出でざるを怒り、従周を遣わして言に代わらしむ。従周軍に至り、益々壘を閉じて出でず、而して三闇門を鑿ちて以て待つ、晋兵之を攻む、従周精兵を以て自ら闇門より出でて撃ち、晋王の兵を敗る。晋王怒り、自ら将として従周を撃つ、従周大敗すと雖も、而して梁兵其の子落落を擒え、魏に送りて之を斬る。遂に徙って鄆州を攻め、朱宣を中都に擒え、又た兗州を攻め、朱瑾を走らす。太祖従周を表して兗州留後と為し、兗・鄆の兵を以て淮南を攻め、安豊より出で、清口に於て龐師古と会す。従周行きて濠州に至り、師古の死を聞き、遽かに還り、渒河に至り将に渡らんとして淮兵之を追う、従周亦た大敗す。是の時、晋兵山東より出でて相・衞を攻む、太祖従周を遣わして山東の地を略せしめ、洺州を下し、其の刺史邢善益を斬り、又た邢州を下し、其の刺史馬師素を走らしめ、又た磁州を下し、其の刺史袁奉滔を殺す。五日にして三州を下す。太祖乃ち従周を表して兼ねて邢州留後と為す。
劉仁恭魏を攻め、已に貝州を屠り、羅紹威梁に求救す、従周太祖に会して魏を救い、魏州に入る。燕兵館陶門を攻む、従周五百騎を以て出でて戦い、曰く「大敵前に在り、何ぞ返顧すべけんや」と。門を閉ざして後戦わしむ。其の八柵を破り、燕兵走り、臨清に追い至り、之を御河に擁して溺死する者衆し。太祖従周を以て宣義行軍司馬と為す。
太祖従周を遣わして滄州に於て劉守文を攻めしめ、蒋暉を以て其の軍を監せしむ。守文其の父仁恭に求救す、仁恭燕兵を以て之を救う、暉諸将に語りて曰く「吾が王我を以て諸将を監せしむ、今燕兵来る、迎え戦うべからず、宜しく其の城に入るを縱ち、倉廩の食を聚めしめ、両方を困らしめて後に之を取るべし」と。諸将頗る以て然りと為す。従周怒りて曰く「兵は上将に在り、豈に監軍の言う所得る所ならんや。且つ暉の言は乃ち常談なる爾、勝敗の機は吾が心に在り、暉豈に之を知るに足らんや」と。乃ち兵を勒して乾寧に於て仁恭を逆い、老鵶堤に戦い、仁恭大敗し、首級三万餘を斬り、其の将馬慎交等百余人を獲、馬三千匹を得たり。是の時、守文亦た晋に求救す、晋為に邢・洺を攻めて以て之を牽制す、従周遽かに還り、晋兵を青山に敗る。遂に太祖に従いて鎮州を攻め、臨城を下し、王鎔盟を乞う、太祖従周を表して泰寧軍節度使と為す。
氏叔琮に従いて晋の太原を攻むるも、克たず。梁兵西に鳳翔を攻む、青州の王師範其の将劉鄩を遣わして兗州を襲わしむ、従周の家屬鄩の得る所と為り、厚く遇して殺さず。太祖鳳翔より還り、乃ち従周を遣わして鄩を攻めしむ、従周遂に鄩を招き降す。太祖即位し、左金吾衞上將軍に拝し、疾を以て致仕し、右衞上將軍に拝し、偃師に居る。末帝即位し、昭義軍節度使・陳留郡王に拝し、其の俸を家に於て食す。卒し、太尉を贈らる。
霍存
霍存、洺州曲周の人なり。少くして黄巢に従い、巢敗れ、存乃ち梁に降る。存将と為りて驍勇、騎射に善し。秦宗権汴を攻む、存三千人を以て夜張晊の柵を破り、又た騎兵を以て秦賢を破り、三千人を殺し、晊を赤岡に敗る。
朱珍に従いて淄青を掠め、龐師古に従いて時溥を攻むるに、皆功有り。朱珍と李唐賓俱に死す、乃ち龐師古を以て珍に代え、存を以て唐賓に代えて溥を攻め、碭山を破り、存其の将石君和等五十人を獲たり。梁宿州を攻む、葛従周水を引いて之を浸し、丁会と存城下に戦い、遂に之を下す。潞州を攻むるに従い、晋人に遇い、馬牢川に戦い、存入れば則ち其の前に当たり、出れば則ち其の殿と為り、晋人却き、遂に東に魏を攻め、淇門を取り、三千人を殺す。梁曹州を得、太祖存を以て刺史と為し、諸軍都指揮使を兼ぬ。
梁鄆州を攻む、朱瑾来りて救う、梁の諸将或いは太祖に勧めて瑾を縱ちて鄆に入らしめ、其の食を耗やし、堅く囲みて戦わず、此を以て俱に弊せしむべしとす。太祖曰く「瑾来らば必ず時溥と俱にす、存を遣わして之を邀うるに若かず」と。存兵を蕭県に伏せ、已にして瑾果た溥と俱に出でて迷離す、存伏兵を発して之を撃ち、遂に瑾等を石佛山に敗り、存流矢に中り卒す。太祖已に即位し、繁臺に於て騎兵を閲し、諸将を顧みて曰く「霍存をして在らしめば、豈に吾が親しく閲するを労せしめんや。諸君寧ろ復た之を思わざるか」と。佗日語また此の如し。
張存敬
張存敬、譙郡の人なり。人と為り剛直にして膽勇有り、少くして梁の太祖に事えて将と為り、危窘に因りて奇計を出すに善し。
李罕之が晋人と共に河陽において張全義を攻めると、太祖は存敬と丁会らを派遣してこれを救援し、罕之は包囲を解いて去った。太祖は存敬を諸軍都虞候とした。太祖が徐・兗を攻めた際、存敬を行営都指揮使とした。葛従周に従って滄州を攻め、老鴉堤において劉仁恭を破った。鎮州に戻って王鎔を攻め、その城中に入り、馬牛を万単位で奪った。宋州刺史に遷った。また諸将に従って幽州を攻め、存敬はその瀛・莫・祁・景の四州を取った。梁が定州を攻め、王処直と懐徳駅で戦い、大いにこれを破り、屍は十余里にわたって枕藉した。梁がすでに鎮・定を平定すると、乃ち存敬を遣わして河中において王珂を攻めさせた。存敬は含山より出撃し、晋・絳の二州を陥落させ、珂は梁に降った。太祖は存敬を護国軍留後に上表し、また宋州刺史に転じさせたが、着任せず、河中において卒去した。太傅を追贈された。
存敬の子に仁潁・仁愿がいる。仁愿は孝行があり、存敬が卒去すると、その兄仁潁に仕え、出るには必ず告げ、帰れば必ず顔を合わせ、父に事える礼の如くであった。仁愿は法令に明るく、梁・唐・晋に仕え、常に大理卿を務め、卒去すると、秘書監を追贈された。
符道昭
符道昭は蔡州の人である。秦宗権の騎将となり、宗権が敗れると、道昭は流離して依る所なく、後に鳳翔の李茂貞に依った。茂貞は彼を愛し、養子とし、名を継遠とした。梁が茂貞を攻めると、道昭は梁兵と戦い、屡々敗れたので、乃ち梁に帰順した。太祖は道昭を秦州節度使に上表したが、乱のため果たして行くことはなかった。太祖が元帥となり、初めて開府した時、李周彝が鄜州を以て降り、これを左司馬とした。右司馬に適任を得難かったが、道昭を得て、乃ちこれを授けた。
羅紹威がその牙兵を誅殺しようとしたが、魏兵の強さを恐れ、敢えて発せず、梁に助力を求めた。太祖は乃ち魏兵を悉く発して燕を攻めさせ、馬嗣勲を遣わして紹威を助け牙兵を誅殺させた。牙兵が既に誅殺されると、外にいた魏兵はこれを聞いて皆乱れ、魏将の左行遷が歴亭を占拠し、史仁遇が高唐を占拠して叛いた。道昭らは太祖に従って悉くこれを破った。
劉捍
劉捍は開封の人である。人となり明敏で威儀があり、賓客の応対に長けていた。太祖が初めて宣武を鎮守した時、客将とし、朱珍に従って淄青で兵を募集させた。
太祖が北進して鎮州を攻め、王鎔と和睦し、捍を遣わして鎔に会見させた。鎔軍は梁の意図を知らず、兵を厳重にしていたが、捍は一騎で城中に馳せ入り、太祖の意を鎔に諭し、鎔は乃ち命に従った。梁兵が定州を攻め、王処直を降伏させると、捍はまた一騎で入城し城中を慰撫した。太祖が鳳翔を包囲した時、捍を遣わして入城させ李茂貞に会見し事を計らせた。唐の昭宗が召見し、梁軍中の事を問うと、その答えは旨に適い、錦袍を賜り、登州刺史に拝され、「迎鑾毅勇功臣」の号を賜った。梁兵が淮南を攻めた時、捍を先に淮口に遣わし、馬頭を築き浮橋を架けて梁兵を渡河させた。太祖が光山より出て寿州を攻めた時、また捍を使わし淮北に浮橋を作らせ、帰還する軍を渡河させた。宋州刺史に拝された。
太祖が即位すると、左天武指揮使・元従親軍都虞候・左龍虎統軍に遷り、外任として佑国軍留後となった。同州の劉知俊が反乱し、賄賂をもって捍の将吏を誘い、捍を捕えて連れ去った。知俊は彼を枷にかけ、李茂貞のもとに送り、殺害された。太祖はこれを哀しみ、捍に太傅を追贈した。
寇彦卿
寇彦卿、字は俊臣、開封の人である。代々宣武軍に仕えて牙将となった。太祖が初めて鎮守に就いた時、通引官とし、累進して右長直都指揮使となり、洺州刺史を兼ねた。羅紹威が牙軍を誅殺しようとした時、太祖は彦卿を魏に遣わして事を計らせた。彦卿は密かに紹威のために計画し、乃ち牙軍を悉く誅殺した。
彦卿は身長八尺、鼻筋が通り顔は四角く、声は鐘の如く、騎射に巧みで、書史を好み、太祖の意を窺うことに長け、動作は全てその意に適った。太祖は嘗て「敬翔・劉捍・寇彦卿は皆、天が我がために生み出した者である」と言った。そのように愛されたのである。愛乗の馬「一丈烏」を賜った。太祖が鳳翔を包囲した時、彦卿を都排陣使とし、彦卿は烏に乗って陣前を馳せ突き、太祖はこれを見て「真の神将なり」と言った。
初め、太祖は崔胤と謀り、都を洛陽に遷そうとしたが、昭宗は許さなかった。その後、昭宗が鳳翔に奔ると、太祖は兵を以てこれを包囲した。昭宗が出た後、翌年、太祖は兵を率いて河中に至り、彦卿を遣わして表を奉じて遷都を迫って請わせた。彦卿は因って長安の居民を悉く東へ追い立て、皆家屋を解体して筏とし、渭水を浮き下らせた。道路上では号哭し、天を仰いで大罵して「国賊崔胤・朱温が我らをここに至らしめた」と言った。昭宗もまた陵廟を顧み眺め、彷徨して去るに忍びず、左右の者に俗謡を口ずさんで「紇干山頭の凍死す雀、何ぞ飛び去って生くる処楽しからざる」と言い、互いに涙を流して衣襟を濡らした。昭宗が華州に行き至ると、人を遣わして太祖に、何皇后に懐妊があるので、華州に留まって冬を待ってから行きたいと告げさせた。太祖は大いに怒り、彦卿を顧みて「汝は行って官家(天子)を来させよ、一日も留めてはならぬ」と言った。彦卿はまた馳せて華州に至り、即日昭宗を迫って出立させた。
太祖が即位すると、彦卿を感化軍節度使に拝した。一年余りして、召されて左金吾衛大将軍・充金吾街仗使となった。彦卿が朝参のため天津橋に至った時、民の梁現が道を避けず、先駆けの者が現を掴み橋上の石欄に投げつけて死なせた。彦卿は太祖に自首して謁見した。太祖は彼を惜しみ、詔して彦卿に銭を以て現の家に償わせて罪を贖わせた。御史司憲の崔沂が彦卿を弾劾上奏し、法に照らして論ずることを請うた。太祖は已むを得ず、彦卿を責めて左衛中郎将に授けた。また相州防禦使に拝し、河陽節度使に遷った。
太祖が弑逆に遭うと、彦卿は太祖の画像を取り出し、生前の如くこれを奉じ、かつて客に対し先朝のことを語るに必ず涕泗交々として下った。末帝即位の後、威勝に移鎮した。彦卿は明敏にして人に仕えることを善くしたが、寵を恃んで威を作し、誅殺を好み、猜忌多かった。鎮において卒す。年五十七。