新五代史

原文新五代史

巻第十三

原文卷13

嗚呼、梁の悪は極まれり!その盗賊として起こり、唐を滅ぼすに至るまで、その遺毒は天下に流れた。天下の豪傑は、四面より並び起こり、誰かその胸に刃を刺さざらんと欲せざる者あらんや、然れども遂にその鋒を少し挫きて志を得ること能わず。梁の天下に敵無きは、虎狼の強きと謂うべし。その敗るるに及びては、一二の女子の娯楽に因りて困窮し、胸を穿ち腸を流し、羊豕の如くに刲さ(さ)くに至り、禍は父子の間に生ず。乃ち知る、女色の人を敗る能うことを。古より女禍、大なる者は天下を亡にぼし、その次は家を亡ぼし、その次は身を亡ぼす。身苟くも免るれば、なおその子孫に及び、遅速同じからずと雖も、禍無き者あらざるなり。然れどもその本末を原たず(たず)ぬれば、未だ微細を忽ゆるが(ゆるが)せにせざるより起こらざるはあらず。易の坤の初六に曰く、「霜を履ふ(ふ)めば、堅き冰至る」と。家人の初九に曰く、「家に閑いさ(いさ)め有り、悔亡ぶ」と。その言至れり、戒めざるべけんや!梁の家事は、詩に所謂「道うべからざる」者なり。唐・晉以後に至りては、親疎嫡庶乱る!家人傳を作る。

原文嗚呼,梁之惡極矣!自其起盜賊,至於亡唐,其遺毒流于天下。天下豪傑,四面並起,孰不欲戡刃於胸,然卒不能少挫其鋒以得志。梁之無敵於天下,可謂虎狼之強矣。及其敗也,因於一二女子之娛,至於洞胸流腸,刲若羊豕,禍生父子之間,乃知女色之能敗人矣。自古女禍,大者亡天下,其次亡家,其次亡身,身苟免矣,猶及其子孫,雖遲速不同,未有無禍者也。然原其本末,未始不起於忽微。易坤之初六曰:「履霜,堅冰至。」家人之初九曰:「閑有家,悔亡。」其言至矣,可不戒哉!梁之家事,詩所謂「不可道」者。至於唐、晉以後,親疎嫡庶亂矣!作家人傳。

文惠皇后王氏

原文文惠皇后王氏

梁の太祖の母を文惠皇后王氏と曰う、単州単父の人なり。その生むところ三子:長は広王全昱、次は朗王存、その次は太祖。

原文梁太祖母曰文惠皇后王氏,單州單父人也。其生三子:長曰廣王全昱,次曰朗王存,其次太祖。

后は若くして寡やもめ(やもめ)となり、その三子を携えて蕭県の人劉崇の家に傭食す。太祖は壮にして無頼、県中皆これを厭い苦しむ。崇は太祖の慵墮ようだ(ようだ)にして業を為さざるを患い、数たび笞責を加う。独り崇の母これを憐れみ、時時自ら櫛沐しつもく(しつもく)を為し、家人に戒めて曰く、「朱三は常人に非ず、宜しく善く遇うべし」と。黄巢起こる。太祖は存と俱に亡(に)げて盗と為り、黄巢に従いて広州を攻む。存は戦死す。数年を居へ(へ)て、太祖は黄巢に背きて唐に降り、反って以て黄巢を破り、遂に宣武を鎮む。乃ち人を遣わし、車馬を以て蕭県に至り、崇の家より后を迎う。使者門に至る。后は惶恐して走り避け、劉氏に謂いて曰く、「朱三は落魄して行い無く、賊を為して死せり、何を以て此くの如きに至るや」と。使者具つぶさ(つぶさ)に太祖の然る所以を道う。后乃ち驚喜して泣下し、崇の母と俱に載せて以て帰る。晉國太夫人に封ず。

原文后少寡,携其三子傭食蕭縣人劉崇家。太祖壯而無賴,縣中皆厭苦之。崇患太祖慵墮不作業,數加笞責,獨崇母憐之,時時自為櫛沐,戒家人曰:「朱三非常人也,宜善遇之!」黃巢起,太祖與存俱亡為盜,從黃巢攻廣州,存戰死。居數歲,太祖背巢降唐,反以破巢,遂鎮宣武。乃遣人以車馬之蕭縣,迎后於崇家。使者至門,后惶恐走避,謂劉氏曰:「朱三落魄無行,作賊死矣,何以至此邪!」使者具道太祖所以然,后乃驚喜泣下,與崇母俱載以歸,封晉國太夫人。

太祖は酒を太夫人の前に置き、觴を挙げて寿ことほ(ことほ)ぎ、歓甚だし。太祖啓もう(もう)して曰く、「朱五経平生書を読み、一第に登らず。子有りて節度使と為り、先人に忝かたじけな(かたじけな)からず」と。后は惻然として良久くして曰く、「汝能く此に至るは、英特と謂うべし。然れども行義は必ずしも先人の如くを得ざるべし」と。太祖其の故を知らず。后曰く、「朱二は汝と俱に黄巢に従い、独り蛮嶺に死す。その孤皆午溝に在り。汝今富貴なり、独り之を念わざるか」と。太祖は泣涕して謝罪し、乃ち悉く存の諸子を召して以て帰らしむ。太祖は剛暴にして殺戮多く、后は毎にこれを誡め、多く頼りて以て全活す。

原文太祖置酒太夫人前,舉觴為壽,歡甚。太祖啟曰:「朱五經平生讀書,不登一第,有子為節度使,無忝於先人也。」后惻然良久曰:「汝能至此,可謂英特,然行義未必得如先人也!」太祖莫知其故,后曰:「朱二與汝俱從黃巢,獨死蠻嶺,其孤皆在午溝,汝今富貴,獨不念之乎?」太祖泣涕謝罪,乃悉召存諸子以歸。太祖剛暴多殺戮,后每誡之,多賴以全活。

大順二年秋、后疾やまい(やまい)す。卜者曰く、「故郷に還るべし」と。乃ち帰る。午溝に卒ついす。太祖即位し、四廟を立て、皇考を追尊して穆皇帝と為し、后を文惠皇后と曰う。

原文大順二年秋,后疾,卜者曰:「宜還故鄉。」乃歸。卒於午溝。太祖即位,立四廟,追尊皇考為穆皇帝,后曰文惠皇后。

元貞皇后張氏

原文元貞皇后張氏

太祖の元貞皇后張氏は、単州碭山県渠亭里の富家の子なり。太祖少わか(わか)きに婦としてこれを聘へい(へい)す。末帝を生む。太祖貴く、魏國夫人に封ず。

原文太祖元貞皇后張氏,單州碭山縣渠亭里富家子也。太祖少以婦聘之,生末帝。太祖貴,封魏國夫人。

后は賢明にして精悍、動くに礼法有り。太祖剛暴と雖も、亦嘗てこれを畏る。太祖は毎に外事を以てこれを訪う。后の言多く中る。太祖は時時暴怒して殺戮す。后は嘗て救護し、人頼りて以て全く獲う(う)る。太祖嘗て兵を出し、行くこと中途に至る。后の意以て然らずと為し、一介を馳せてこれを召す。期の如くにして至る。

原文后賢明精悍,動有禮法,雖太祖剛暴,亦嘗畏之。太祖每以外事訪之,后言多中。太祖時時暴怒殺戮,后嘗救護,人賴以獲全。太祖嘗出兵,行至中途,后意以為不然,馳一介召之,如期而至。

郴王友裕、徐州じょしゅうを攻め、朱瑾を石佛山に破る。瑾走る。友裕追わず。太祖大いに怒り、その兵を奪う。友裕惶恐し、数騎と山中に亡(に)ぐ。久しくして、自ら広王に匿る。后は陰に人をして友裕に身を脱して自ら帰ることを教えしむ。友裕は晨あした(あした)に馳せて入り、太祖に見え、庭中に拜伏し、泣涕して死を請う。太祖怒り甚だしく、左右をして捽とら(とら)え出ださしめ、将にこれを斬らんとす。后これを聞き、履(くつ)に及ばず、庭中に走りて友裕を抱きて泣きて曰く、「汝身を束ねて罪に帰す、豈に反せざることを明らかにせんと欲せざらんや」と。太祖の意解く。乃ち免ず。

原文郴王友裕攻徐州,破朱瑾於石佛山,瑾走,友裕不追,太祖大怒,奪其兵。友裕惶恐,與數騎亡山中,久之,自匿於廣王。后陰使人教友裕脫身自歸,友裕晨馳入見太祖,拜伏庭中,泣涕請死,太祖怒甚,使左右捽出,將斬之。后聞之,不及履,走庭中持友裕泣曰:「汝束身歸罪,豈不欲明非反乎?」太祖意解,乃免。

太祖既に朱瑾を破り、その妻を納れて以て帰る。后は封丘に於いて太祖を迎う。太祖これに告ぐ。后は遽すみやか(すみやか)に瑾の妻を見る。瑾の妻再拝す。后も亦拝し、悽然として泣下して曰く、「兗鄆は司空と同姓の国、昆仲の間、小なる故を以て干戈を興し、而して吾が姒あね(あね)を此に至らしむ。若し不幸にして汴州べんしゅう守を失わば、妾も亦此くの如からん」と。言已おわ(おわ)りて又泣く。太祖これが為に感動せられ、乃ち瑾の妻を送りて尼と為さしむ。后は嘗てその衣食を給す。司空は、太祖の時の検校官なり。

原文太祖已破朱瑾,納其妻以歸,后迎太祖於封丘,太祖告之。后遽見瑾妻,瑾妻再拜,后亦拜,悽然泣下曰:「兗鄆與司空同姓之國,昆仲之間,以小故興干戈,而使吾姒至此;若不幸汴州失守,妾亦如此矣!」言已又泣。太祖為之感動,乃送瑾妻為尼,后嘗給其衣食。司空,太祖時檢校官也。

天祐元年、后は疾を以て卒す。太祖即位し、追冊して賢妃と為す。初め開封県潤色郷に葬る。末帝立ち、追謚して元貞皇太后と曰い、宣陵に祔あわ(あわ)す。后既に死して、太祖始めて荒淫を為し、卒(つい)に禍に及ぶと云う。

原文天祐元年,后以疾卒。太祖即位,追冊為賢妃。初葬開封縣潤色鄉,末帝立,追謚曰元貞皇太后,祔于宣陵。后已死,太祖始為荒淫,卒以及禍云。

昭儀陳氏

原文昭儀陳氏

昭儀陳氏は宋州の人なり、少にして色を以て進む。太祖既に貴し、嬪妾数百ありしも、昭儀寵を専らにす。太祖嘗て疾ありし時、昭儀は尼数十人と共に昼夜佛法を行ひ、少しも懈ることなかりき、太祖は己を愛するものと思ひ、特に之を寵す。開平三年、度して尼と為り、宋州の佛寺に居る。

原文昭儀陳氏,宋州人也,少以色進。太祖已貴,嬪妾數百,而昭儀專寵。太祖嘗疾,昭儀與尼數十人晝夜為佛法,未嘗少懈,太祖以為愛己,尤寵之。開平三年,度為尼,居宋州佛寺。

昭容の李氏

原文昭容李氏

昭容李氏もまた、色をもって進み出た。殊に謹み深く素直で、未だ左右を離れたことがなかった。太祖が病に臥せり、昼寝をしている最中に、棟が折れ落ちた。独り李氏が側に侍しており、直ちに太祖の衣を引っ張った。太祖は驚いて走り出た。棟は寝床の上に折れ落ちた。太祖は彼女を徳とし、昭容に拝した。皆、その終わりを知らない。

原文昭容李氏,亦以色進。尤謹愿,未嘗去左右。太祖病,晝寢方寐,棟折,獨李氏侍側,遽牽太祖衣,太祖驚走,棟折寢上,太祖德之,拜昭容。皆不知其所終。

末帝の德妃張氏

原文末帝德妃張氏

末帝の徳妃張氏、その父は帰霸、太祖に仕えて梁の功臣となる。帝が王であった時、婦を聘してこれを娶る。帝即位の後、妃を冊立して后とせんとす、妃は帝の郊天を待つことを請う、然るに帝は遂に郊天を得ず。貞明元年、妃病甚だしく、帝急ぎ冊して徳妃と為す、その夕薨ず、年二十四。

原文末帝德妃張氏,其父歸霸,事太祖為梁功臣。帝為王時,以婦聘之。帝即位,將冊妃為后,妃請待帝郊天,而帝卒不得郊。貞明元年,妃病甚,帝遽冊為德妃,其夕薨,年二十四。

次妃は郭氏なり

原文次妃郭氏

次妃郭氏は、父は歸厚、梁に仕えて登州刺史となる。妃は少にして色を以て進む。梁亡び、唐の莊宗汴に入るや、梁の故妃妾は、皆號泣して迎へ拜す。賀王友雍の妃石氏は色有り、莊宗之を召すと、石氏慢罵し、莊宗之を殺す。次に妃を召すと、妃懼れて命を聽く。已にして度して尼と為り、名を誓正と賜ひ、洛陽に居る。

原文次妃郭氏,父歸厚,事梁為登州刺史。妃少以色進。梁亡,唐莊宗入汴,梁故妃妾,皆號泣迎拜。賀王友雍妃石氏有色,莊宗召之,石氏慢罵,莊宗殺之。次以召妃,妃懼而聽命。已而度為尼,賜名誓正,居于洛陽。

初めに、荘宗が汴に入った時、末帝は建国楼に登り、控鶴指揮使皇甫麟に謂いて曰く、「我は、晋の世の仇なり、彼の刀鋸を俟つべからず、卿は我が命を尽くすべし、我を仇人の手に落ちしむるなかれ」と。麟は帝と相い持って慟哭す。この夕、帝に刃を進め、麟もまた自ら剄す。荘宗は汴に入り、河南の張全義に命じて其の尸を葬らしめ、其の首を太社に蔵す。晋の天福三年、詔して太社に先に蔵する罪人の首級は、親族に許して収めしむ。

原文初,莊宗之入汴也,末帝登建國樓,謂控鶴指揮使皇甫麟曰:「吾,晉世讎也,不可俟彼刀鋸,卿可盡我命,無使我落讎人之手!」麟與帝相持慟哭。是夕,進刃於帝,麟亦自剄。莊宗入汴,命河南張全義葬其尸,藏其首於太社。晉天福三年,詔太社先藏罪人首級,許親

葬儀に属し、乃ち末帝の首を出し、右衞將軍安崇阮を遣わして妃と共に之を葬らしむ。妃は洛陽に卒す。

原文屬收葬,乃出末帝首,遣右衞將軍安崇阮與妃同葬之。妃卒洛陽。

太祖の兄は二人、全昱と存と曰う。八人の子あり、長は友裕、次は友珪・友璋・友貞・友雍・友徽・友孜、その一は養子にして友文と曰う。

原文太祖二兄:曰全昱,曰存。八子:長曰友裕,次曰友珪、友璋、友貞、友雍、友徽、友孜,其一養子曰友文。

開平元年五月乙酉、友文を博王に、友珪を郢王に、友璋を福王に、友貞を均王に、友雍を賀王に、友徽を建王に封ず。友裕は即位前に卒し、郴王を追封し、而して康王友孜は、末帝即位の時に封ぜらる。

原文開平元年五月乙酉,封友文為博王、友珪郢王、友璋福王、友貞均王、友雍賀王、友徽建王。友裕前即位卒,追封郴王,而康王友孜,末帝即位封。

友璋は初め壽州團練使・押左右番殿直・監豐德庫となり、友珪の時には鄆州うんしゅう留後となり、末帝の時には忠武軍節度使となり、武寧に移鎮したが、友雍及び友徽は皆その終わりを知ることができない。

原文友璋初為壽州團練使、押左右番殿直、監豐德庫,友珪時,為鄆州留後,末帝時,為忠武軍節度使,徙鎮武寧,及友雍、友徽皆不知其所終。

廣王全昱

原文廣王全昱

廣王全昱は、太祖が即位した時に封ぜられた。太祖と仲兄の存は共に逃亡して盗賊となったが、全昱は独りその母と共に猶ほ劉崇の家に寄食していた。太祖が既に貴くなると、乃ちその母と共に宣武に帰り、山南西道節度使を領した。太師を以て致仕した。

原文廣王全昱,太祖即位封。太祖與仲兄存俱亡為盜,全昱獨與其母猶寄食劉崇家。太祖已貴,乃與其母俱歸宣武,領山南西道節度使。以太師致仕。

太祖が受禅せんとする時、有司が前殿に礼を備え、全昱之を見て、顧みて太祖に曰く「朱三、爾は為し得るか」と。太祖宮中に宴居し、王と飲み博す。全昱酒酣に、骰子を取りて盆を撃ちて之を迸らせ、呼びて太祖に曰く「朱三、爾は碭山の一百姓、天子に遭逢して汝を用いて四鎮節度使と為す、汝に何の負うところあらんや。而して他唐家三百年の社稷を滅ぼす、吾将に汝が其の族を赤くするを見ん、安んぞ博を用いんや」と。太祖悦ばず、会を罷む。全昱亦た京師に在るを楽しまず、常に碭山の故里に居す。三子皆王に封ぜらる:友諒は衡王、友能は惠王、友誨は邵王。

原文太祖將受禪,有司備禮前殿,全昱視之,顧太祖曰:「朱三,爾作得否?」太祖宴居宮中,與王飲博,全昱酒酣,取骰子擊盆而迸之,呼太祖曰:「朱三,爾碭山一百姓,遭逢天子用汝為四鎮節度使,於汝何負?而滅他唐家三百年社稷,吾將見汝赤其族矣,安用博為!」太祖不悅,罷會。全昱亦不樂在京師,常居碭山故里。三子皆封王:友諒衡王,友能惠王,友誨邵王。

乾化元年、宋州を宣武軍に昇格し、友諒を以て節度使と為す。友諒瑞麦一茎三穂を進む。太祖怒りて曰く「今年宋州大水す、何ぞ此れを用いん」と。乃ち友諒を罷め、京師に居らしむ。太祖臥病す、全昱来たりて疾を視、太祖と相い持して慟哭す。太祖為に友諒を釈し、使いて東に帰らしむ。貞明二年、全昱疾を以て薨ず。衡王友諒を徙めて広王を嗣封せしむ。

原文乾化元年,升宋州為宣武軍,以友諒為節度使。友諒進瑞麥一莖三穗,太祖怒曰:「今年宋州大水,何用此為!」乃罷友諒,居京師。太祖臥病,全昱來視疾,與太祖相持慟哭;太祖為釋友諒,使與東歸。貞明二年,全昱以疾薨。徙衡王友諒嗣封廣王。

友能は宋・滑二州留後・陳州ちんしゅう刺史と為り、至る所に不法を為し、奸人多く之に依倚す。而して陳の俗は淫祠左道を好み、其の学佛者は自ら一法を立て、号して「上乗」と曰う。昼夜伏して聚まり、男女雑乱す。妖人母乙・董乙衆を聚めて天子を称し、官属を建置す。友能初め之を縦す。乙等州県を攻劫し、末帝兵を発して之を撃滅す。康王友孜の謀反誅せらるるより、末帝始めて宗室を疎斥し、宗室皆反仄す。貞明四年、友能陳州の兵を以て反し、京師を犯し、陳留に至り、兵敗れ、還り走りて陳州に至る。後数ヶ月降る。末帝之を赦し、房陵侯に降す。

原文友能為宋、滑二州留後、陳州刺史,所至為不法,姦人多依倚之。而陳俗好淫祠左道,其學佛者,自立一法,號曰「上乘」,晝夜伏聚,男女雜亂。妖人母乙、董乙聚眾稱天子,建置官屬,友能初縱之,乙等攻劫州縣,末帝發兵擊滅之。自康王友孜謀反伏誅,末帝始疎斥宗室,宗室皆反仄。貞明四年,友能以陳州兵反,犯京師,至陳留,兵敗,還走陳州,後數月降,末帝赦之,降為房陵侯。

友誨は陝州節度使と為り、州兵を以て乱を為さんと欲す。末帝召し還して京師に至らしめ、友諒・友能と皆幽囚せらる。梁亡び、荘宗汴に入り、皆見殺さる。

原文友誨為陝州節度使,欲以州兵為亂,末帝召還京師,與友諒、友能皆被幽囚。梁亡,莊宗入汴,皆見殺。

朗王 存(子に友寧・友倫あり)

原文朗王存子友寧 友倫

朗王 存は、初め太祖と俱に黄巢に従い広州を攻め、存戦死す。存の子に友寧・友倫あり。

原文朗王存,初與太祖俱從黃巢攻廣州,存戰死。存子友寧、友倫。

友寧は字あざなは安仁、幼くして聡敏、喜慍色に形せず。太祖以て軍校と為し、弓剣を用いるに善し。衙内制勝都指揮使・龔州刺史に遷る。太祖鳳翔ほうしょうを囲み、友寧を遣わし東に宣武を備えしむ。王師範梁を襲い、斉州を囲む。友寧兵を引きて之を撃ち、馬千匹を奪い、首数千級を斬る。太祖昭宗を奉じて京師に還り、友寧を建武軍節度使に拝し、号して「迎鑾毅勇功臣」を賜う。太祖復た師範を攻めしめ、博昌を囲み、之を屠り、清河之が為に流れず。石楼に戦い、兵敗れ、友寧馬より墮ちて見殺さる。

原文友寧字安仁,幼聰敏,喜慍不形於色。太祖以為軍校,善用弓劍。遷衙內制勝都指揮使、龔州刺史。太祖圍鳳翔,遣友寧東備宣武。王師範襲梁,圍齊州,友寧引兵擊之,奪馬千匹,斬首數千級。太祖奉昭宗還京師,拜友寧建武軍節度使,賜號「迎鑾毅勇功臣」。太祖復遣攻師範,圍博昌,屠之,清河為之不流。戰於石樓,兵敗,友寧墮馬見殺。

友倫も幼くして亦た明敏、論語・小学に通じ、音律を暁す。存既に死す。太祖友倫を以て元従馬軍指揮使と為し、右威武将軍を表す。燕人魏の内黄を攻む。友倫先鋒と為り夜河を渡り、馬千匹を奪う。李罕之潞州ろしゅうを以て梁に降る。晋人潞を攻む。友倫兵を以て潞州に入り、罕之を取りて帰る。累遷して検校司空に至り、藤州刺史を領す。太祖鳳翔を囲む。晋人梁を襲う。友倫兵三万を以て礬山に至る。晋人乃ち却く。友倫西に太祖に会す鳳翔にて。昭宗長安に還り、友倫を寧遠軍節度使に拝す。太祖東に帰り、友倫を留めて宿衛せしめ、昭宗の為す所を伺察せしむ。友倫鞠を撃ちて馬より墜ちて死す。太祖大いに怒り、兵七万を以て河中に至る。昭宗涕泣し、為す所を知らず、将に太原に奔らんとす、果たさず。宰相崔胤人を遣わし太祖を止む。太祖以て友倫を胤等殺せりと為し、奏して胤等を誅せんことを請う。昭宗未だ従わず。乃ち友諒を遣わし京師に至らしめ、兵を以て開化坊を囲み、胤及び京兆尹鄭元規・皇城使王建勳、

原文友倫幼亦明敏,通論語、小學,曉音律。存已死,太祖以友倫為元從馬軍指揮使,表右威武將軍。燕人攻魏內黃,友倫以前鋒夜渡河,奪馬千匹。李罕之以潞州降梁,晉人攻潞,友倫以兵入潞州,取罕之以歸。累遷檢校司空,領藤州刺史。太祖圍鳳翔,晉人襲梁,友倫以兵三萬至礬山,晉人乃却,友倫西會太祖於鳳翔。昭宗還長安,拜友倫寧遠軍節度使。太祖東歸,留友倫宿衞,伺察昭宗所為。友倫擊鞠墜馬死,太祖大怒,以兵七萬至河中。昭宗涕泣,不知所為,將奔太原,不果。宰相崔胤遣人止太祖,太祖以為友倫胤等殺之,奏請誅胤等,昭宗未從,乃遣友諒至京師,以兵圍開化坊,殺胤及京兆尹鄭元規、皇城使王建勳、

飛龍使陳班・閣門使王建襲・客省使王建乂・前左僕射張濬を殺す。

原文飛龍使陳班、閣門使王建襲、客省使王建乂、前左僕射張濬。

太祖即位し、既に宗室を封ず。中書上議す。故皇兄存、皇姪建武軍節度使友寧・寧遠軍節度使友倫、皆封ずべしと。是に於て存を追封して朗王とし、友寧を安王とし、友倫を密王とす。

原文太祖即位,已封宗室,中書上議,故皇兄存,皇姪建武軍節度使友寧、寧遠軍節度使友倫,皆當封。於是追封存朗王、友寧安王、友倫密王。

郴王 友裕

原文郴王友裕

郴王 友裕は字は端夫、幼くして騎射に善く、太祖に従い征伐し、寛厚を以て士卒の心を得ることを能くす。

原文郴王友裕字端夫,幼善騎射,從太祖征伐,能以寬厚得士卒心。

太祖晋と黄鄴を西華に囲む。鄴の卒矟を荷い城に登りて敵を罵る。晋王胡騎を使い連射すれども中つること能わず。太祖顧みて友裕に、一発之に中つ。軍中皆大いに讙呼す。晋王喜び、友裕に良弓百矢を遺う。太祖宣武を鎮むるに、以て衙内都指揮使と為す。景福元年、太祖鄆を攻む。友裕先鋒と為り斗門に次ぐ。鄆兵夜之を撃つ。友裕敗走す。太祖後より来るも、友裕の敗たるを知らず。前軍敵に遇い多く死す。太祖村落の間に至り、始めて友裕と相い得る。是の時、朱宣濮州に在り。太祖乃ち友裕を遣わし先ず二百騎を以て前に進ます。太祖後より至り、友裕と相い失う。太祖卒に敵に遇い、敗れて走る。敵兵之を追うこと甚だ急なり。前に大溝に至り、幾くんか免れざらんとす。溝中に積薪有るに頼り、馬乃ち得て過ぐ。梁の将李璠等死者十余人。

原文太祖與晉圍黃鄴於西華,鄴卒荷矟登城罵敵,晉王使胡騎連射不能中。太祖顧友裕,一發中之,軍中皆大讙呼,晉王喜,遺友裕良弓百矢。太祖鎮宣武,以為衙內都指揮使。景福元年,太祖攻鄆,友裕以先鋒次斗門,鄆兵夜擊之,友裕敗走。太祖從後來,不知友裕之敗也,前軍遇敵多死。太祖至村落間,始與友裕相得。是時,朱宣在濮州,太祖乃遣友裕先以二百騎前,太祖後至,與友裕相失。太祖卒與敵遇,敗而走。敵兵追之甚急,前至大溝,幾不免,賴溝中有積薪,馬乃得過,梁將李璠等死者十餘人。

冬、友裕濮州を取り、遂に徐州に於て時溥を囲む。朱瑾兵二万を以て溥を救う。友裕瑾を石佛山に破る。瑾走る。都虞候朱友恭之を太祖に讒し、瑾は追うべくして友裕追わずと為す。太祖大いに怒り、其の兵を奪い龐師古に属し、友裕を吏に属せしむ。

原文冬,友裕取濮州,遂圍時溥於徐州。朱瑾以兵二萬救溥,友裕敗瑾于石佛山,瑾走。都虞候朱友恭讒之太祖,以為瑾可追而友裕不追。太祖大怒,奪其兵屬龐師古,以友裕屬吏,

使者誤りて書を友裕に致す。友裕惶恐し、為す所を知らず。張皇后之を教うるに頼りて、免るるを得。権めに許州きょしゅうを知る。許州は蔡に近く、大寇に苦しみ、居民残破す。友裕流散を招撫し、戸三万余を増す。

原文使者誤致書於友裕,友裕惶恐,不知所為,賴張皇后教之,得免。權知許州。許州近蔡,苦於大寇,居民殘破,友裕招撫流散,增戶三萬餘。

諸軍都指揮使に遷り、兗州えんしゅう・鄆州を平定し、許州を領して還る。崔洪は淮南に奔り、友裕は兵を率いて蔡州さいしゅうを平定し、市は肆を易えず。太祖が護国軍を兼鎮すると、友裕を留後とした。忠武軍節度使に遷る。太祖が鳳翔を攻めて未だ下さず、去って邠州を攻む。友裕は霊台・良原を破り、隴州を下し、楊崇本は邠州を以て降る。後に崇本復た叛き、太祖は友裕を遣わして之を攻めしめ、永寿に屯す。友裕は疾を以て卒す。

原文遷諸軍都指揮使,與平兗、鄆,還領許州。崔洪奔淮南,友裕引兵定蔡州,市不易肆。太祖兼鎮護國軍,以友裕為留後。遷忠武軍節度使。太祖攻鳳翔,未下,去攻邠州。友裕破靈臺、良原,下隴州,楊崇本以邠州降。後崇本復叛,太祖遣友裕攻之,屯于永壽。友裕以疾卒。

博王友文

原文博王友文

博王友文は字は徳明、本姓は康、名は勤。幼より風姿美しく、学を好み、談論を善くし、頗る詩を作る能くし、太祖養いて以て子と為す。

原文博王友文字德明,本姓康名勤。幼美風姿,好學,善談論,頗能為詩,太祖養以為子。

太祖が四鎮を領するに及び、友文を度支塩鉄制置使と為す。太祖四方に兵を用うるに、友文は賦を征し斂を聚めて以て軍実を供す。太祖即位し、故に領する所の宣武・宣義・天平・護国の四鎮の征賦を以て、建昌宮を置きて之を総べ、友文を以て使と為し、博王に封ず。太祖西都に幸す、友文は東京に留守す。

原文太祖領四鎮,以友文為度支鹽鐵制置使。太祖用兵四方,友文征賦聚斂以供軍實。太祖即位,以故所領宣武、宣義、天平、護國四鎮征賦,置建昌宮總之,以友文為使,封博王。太祖幸西都,友文留守東京。

庶人友珪

原文庶人友珪

庶人友珪は、太祖初め宣武を鎮むる時、宋・亳の間に地を略し、逆旅の婦人と野合して生めり。長じて弁黠多智なり。博王友文は材芸多く、太祖之を愛し、而して年又長し、太祖即位し、嫡嗣未だ立たず、心嘗て独り友文に属す。太祖張皇后崩じてより、継室無く、諸子鎮に在り、皆其の婦を邀えて入侍せしむ。友文の妻王氏は色有り、尤も之を寵す。太祖病久しく、王氏と友珪の妻張氏、常に房を専にして疾に侍す。太祖病少しく間あり、王氏に謂ひて曰く、「吾終に起たざるを知る、汝東都に之き、友文を召して来らしめよ、吾之と決せん」と。蓋し心に以て後事を之に属せんと欲するなり。乃ち敬翔に謂ひて曰く、「友珪には一郡を与ふべし、趣かにして之を任に使へ」と。乃ち友珪を以て萊州刺史と為す。

原文庶人友珪者,太祖初鎮宣武,略地宋,亳間,與逆旅婦人野合而生也。長而辯黠多智。博王友文多材藝,太祖愛之,而年又長,太祖即位,嫡嗣未立,心嘗獨屬友文。太祖自張皇后崩,無繼室,諸子在鎮,皆邀其婦入侍。友文妻王氏有色,尤寵之。太祖病久,王氏與友珪妻張氏,常專房侍疾。太祖病少間,謂王氏曰:「吾知終不起,汝之東都,召友文來,吾與之決。」蓋心欲以後事屬之。乃謂敬翔曰:「友珪可與一郡,趣使之任。」乃以友珪為萊州刺史。

太祖素より剛暴にして、既に病みて喜怒測り難し、是の時左降する者は、必ず後命有り、友珪大いに懼る。其の妻張氏曰く、「大家伝国の宝を以て王氏に与へ、東都に使はしめて友文を召さしむ、君今禍を受く」と。夫婦相対して泣く。左右友珪に勧めて曰く、「事急なれば計生ず、何ぞ早く自ら図らざる」と。友珪乃ち衣服を易へ、微行して左龍虎軍に入り、統軍韓勍を見て事を計る。勍夜に牙兵五百を以て友珪に随ひ、控鶴衛士に雑じて入る。夜三鼓、関を斬って万春門に入り、寝中に至る。疾に侍する者皆走る。太祖惶駭して起き呼びて曰く、「我此の賊を疑ふこと久し、早く之を殺さざるを恨む、逆賊父を殺すに忍びんや」と。友珪の親吏馮廷諤、剣を以て太祖を犯す。太祖柱を旋りて走り、剣柱を撃つこと三たび、太祖憊れて牀に仆る。廷諤剣を以て之を中て、其の腹を洞く。腸胃皆流る。友珪裀裖を以て之を寝中に裹み、喪を秘すること四日。乃ち府庫を出だし、大いに群臣及び諸軍に賚ふ。受旨丁昭浦を遣はし詔を矯めて馳せて東都に至らしめ、友文を殺す。又詔を下して曰く、「朕艱難創業すること、三十年を踰ゆ。人の上に託すること、忽焉として六載、中外力を叶へ、期すること小康に在り。豈図らんや友文陰に異図を畜へ、将に大逆を行はんとす。昨二日の夜、甲士こうし大内に突入す。頼むに友珪の忠孝に依り、兵を領して勦戮し、朕躬を保全す。然れども疾恙震驚し、弥に危殆なる所なり。友珪兇逆を克く平げ、其の功倫無し、宜しく権を委ねて軍国を主とすべし」と。然る後に喪を発す。乾化二年六月既望、友珪柩前において即ち皇帝位に即き、韓勍を忠武軍節度使に拝し、末帝を以て汴州留後と為し、河中の朱友謙を中書令と為す。友謙命を受けず。而して懐州の龍驤軍三千、其の将劉重覇を劫ひ、懐州に拠り、自ら賊を討つと称す。三年正月、友珪天を洛陽南郊に祀り、元を改めて鳳歴と曰ふ。

原文太祖素剛暴,既病而喜怒難測,是時左降者,必有後命,友珪大懼。其妻張氏曰:「大家以傳國寶與王氏,使如東都召友文,君今受禍矣!」夫婦相對而泣。左右勸友珪曰:「事急計生,何不早自為圖?」友珪乃易衣服,微行入左龍虎軍,見統軍韓勍計事,勍夜以牙兵五百隨友珪,雜控鶴衞士而入。夜三鼓,斬關入萬春門,至寢中,侍疾者皆走。太祖惶駭起呼曰:「我疑此賊久矣,恨不早殺之,逆賊忍殺父乎!」友珪親吏馮廷諤以劍犯太祖,太祖旋柱而走,劍擊柱者三,太祖憊,仆于牀,廷諤以劍中之,洞其腹,腸胃皆流。友珪以裀裖裹之寢中,祕喪四日。乃出府庫,大賚羣臣及諸軍。遣受旨丁昭浦矯詔馳至東都,殺友文。又下詔曰:「朕艱難創業,踰三十年。託于人上,忽焉六載,中外叶力,期于小康。豈意友文陰畜異圖,將行大逆。昨二日夜,甲士突入大內,賴友珪忠孝,領兵勦戮,保全朕躬。然而疾恙震驚,彌所危殆。友珪克平兇逆,厥功靡倫,宜委權主軍國。」然後發喪。乾化二年六月既望,友珪於柩前即皇帝位,拜韓勍忠武軍節度使,以末帝為汴州留後,河中朱友謙為中書令。友謙不受命。而懷州龍驤軍三千,劫其將劉重霸,據懷州,自言討賊。三年正月,友珪祀天於洛陽南郊,改元曰鳳歷。

太祖の外孫袁象先と駙馬都尉趙巖等、末帝と謀りて賊を討たんとす。二月、象先禁兵を以て宮に入る。友珪妻張氏と北垣の楼下に趨り、将に城を踰えて走らんとす。果たさず、馮廷諤をして進みて刃を其の妻及び己に進めしむ。廷諤も亦自殺す。末帝即位し、友文の官爵を復し、友珪を廃して庶人と為す。

原文太祖外孫袁象先與駙馬都尉趙巖等,謀與末帝討賊。二月,象先以禁兵入宮,友珪與妻張氏趨北垣樓下,將踰城以走,不果,使馮廷諤進刃其妻及己,廷諤亦自殺。末帝即位,復友文官爵,廢友珪為庶人。

康王友孜

原文康王友孜

康王友孜は、目重瞳子にして、嘗て窃かに自ら負ひ、以て天子と為るべきと為す。貞明元年、末帝の徳妃薨じ、将に葬らんとす。友孜刺客をして夜寝中に入らしむ。末帝方に寐るに、夢に人己を害する有り。既に寤りて、榻上の宝劍鎗然として声有るを聞き、躍り起き、剣を抽きて曰く、「将に変有らんや」と。乃ち寝中を索めて刺客を得、手ずから之を殺し、遂に友孜を誅す。明日、趙巖・張漢傑に謂ひて曰く、「幾くんぞ卿輩と相見えざらんや」と。此れより遂に宗室を疎弱にし、而して趙・張を信任し、以て敗亡に至る。

原文康王友孜,目重瞳子,嘗竊自負,以為當為天子。貞明元年,末帝德妃薨,將葬,友孜使刺客夜入寢中。末帝方寐,夢人害己,既寤,聞榻上寶劍鎗然有聲,躍起,抽劍曰:「將有變邪!」乃索寢中,得刺客,手殺之,遂誅友孜。明日,謂趙巖、張漢傑曰:「幾與卿輩不相見。」由此遂疎弱宗室,而信任趙、張,以至於敗亡。

嗚呼、春秋の法、是非と奪の際、難きかな。或人問ふ、「梁の太祖は臣を以て君を弑し、友珪は子を以て父を弑す、一なり。与りて弑し即位し、年を踰えて元を改む。春秋の法、皆以て君と書す。而るに友珪本紀に列するを得ず、何ぞや。且つ父子の悪均しくして、其の子を奪ふは、是れ其の父に与するなり。豈に春秋の旨ならんや」と。予之に応へて曰く、「梁の事著はりたり。其の父の悪は、其の子を与奪するを待たずして後彰はる。然れども末帝の志は、伸べざるべからず。春秋の法、君弑されて賊討たれざる者は、国の臣子其の責に任ず。予が友珪の事に於ける所以は、討賊する者の志を伸ぶるなり」と。

原文嗚呼,春秋之法,是非與奪之際,難矣哉!或問:「梁太祖以臣弒君,友珪以子弒父,一也。與弒即位,踰年改元,春秋之法,皆以君書,而友珪不得列于本紀,何也?且父子之惡均,而奪其子,是與其父也,豈春秋之旨哉?」予應之曰:「梁事著矣!其父之惡,不待與奪其子而後彰,然末帝之志,不可以不伸也。春秋之法,君弒而賊不討者,國之臣子任其責。予於友珪之事,所以伸討賊者之志也。」