新五代史

巻十四

正室劉氏、次妃曹氏

太祖の正室は劉氏、代北の人である。その次妃は曹氏、太原の人である。

太祖が晋王に封ぜられると、劉氏は秦國夫人に封ぜられた。太祖が代北で挙兵して以来、劉氏は常に征伐に従った。人となりは明敏で智略多く、兵機に頗る習熟し、常にその侍妾に騎射を教え、もって太祖を補佐した。太祖が東に黄巢を追撃し、軍を返して梁を過ぎた時、封禅寺に宿営した。梁王が太祖を城に入るよう招き、上源驛に酒宴を設けると、夜半に兵をもってこれを攻撃した。太祖の左右で先に脱出して帰った者があり、難事を夫人に告げると、夫人は神色動かず、直ちに告げた者を斬り、密かに大将を召して軍を保全して帰還することを謀った。夜明け近く、太祖が帰還し、夫人と向かい合って慟哭し、そこで兵を挙げて梁を撃たんとした。夫人は言った、「公は本来国のために賊を討つのであり、今梁の事は未だ暴かれず、急に兵を返して相攻つは、天下の聞くところ、曲直を分つことができませぬ。軍を収めて鎮に還り、朝廷に訴えるに如かず」。太祖はこれに従った。

その後、太祖が劉仁恭を撃ち、敗れて帰還した。梁は氏叔琮、康懷英らを遣わして連年晋を攻め、太原を包囲し、晋兵は屡々敗れ、太祖は憂い困窮し、為すべきを知らなかった。大将李存信らが太祖に北辺に亡命し、兵を収めて再挙を図るよう勧めると、太祖はこれを然りとした。内室に入って夫人に語ると、夫人は誰がこの謀を為した者かと問い、「存信なり」と言うと、夫人は罵って言った、「存信は代北の牧羊児に過ぎず、安んぞ成敗を計るに足らんや。かつて公は王行瑜が邠州を棄てて走り、遂に人に擒えられるのを笑われたが、今自らこれを為そうとするのか。昔、公が達靼に亡命した時、ほとんど自ら脱することができず、天下多事に頼って、南に帰ることができた。今、屡敗の兵は散亡して幾ばくもなく、一旦その守りを失えば、誰か公に従わん。北辺に至ることができようか」。太祖は大いに悟って止めた。やがて亡失した兵は次第に再び集まった。

夫人には子がなく、性質賢く、妬忌せず、常に太祖に言った、「曹氏は相応に貴子を生むべきです、宜しくこれを善く遇すべし」。そして曹氏もまた自ら謙退し、よって互いに甚だ歓び合った。

曹氏は晋國夫人に封ぜられ、後に子を生んだ。これが即ち莊宗である。太祖はこれを奇異とし、曹氏はこれにより寵愛を専らにした。太祖の性質は暴烈で、怒って多く人を殺し、左右に敢えて言う者もなかったが、ただ曹氏が従容として諫め譬え、往々にして聞き入れられた。莊宗が立つと、曹氏に事えること特に謹み、趙を救い燕を破り魏博を取る、及び梁と河上で戦うこと十余年、毎年馳せてその母を省みること三四度に及び、人皆その孝を称えた。莊宗が即位し、冊して曹氏を皇太后と尊び、嫡母劉氏を皇太妃とした。太妃が往って太后に謝すると、太后に慚愧の色があった。太妃は言った、「願わくは我が児が国を享くること窮まりなく、我をして地に没して先君に従わしめんことを、幸いなり、また何を言わんや」。

莊宗が梁を滅ぼし汴に入り、人を遣わして太后を迎えて洛に帰し、長壽宮に住まわせたが、太妃は独り晋陽に留まった。同光三年五月、太妃薨去。七月、太后薨去、謚して貞簡と曰い、坤陵に葬る。而して太妃には謚なく、魏縣に葬る。太妃と太后は甚だ相愛し、太后を洛に送る時、涕泣して別れ、帰って相思慕い、遂に起たずに至った。太后はこれを聞き、馳せて晋陽に至り病を見舞わんとし、その卒するに及び、また自ら往って葬らんとしたが、莊宗が泣いて諫め、群臣が交章して留まるよう請うたので、乃ち止めた。而して太后は太妃が卒して以来、悲哀して飲食せず、一月余りを経て亦崩じた。

皇后劉氏

莊宗の神閔敬皇后劉氏は、魏州成安の人である。莊宗の正室はえい國夫人韓氏、次が燕國夫人伊氏、次が后であり、初め魏國夫人に封ぜられた。

后の父劉叟は、黄鬚で、医卜を善くし、自ら劉山人と号した。后が五六歳の時、晋王が魏を攻め、成安を掠め、裨将袁建豐が后を得て、これを晋宮に納め、貞簡太后が笙を吹き歌舞することを教えた。既に筓すると、甚だ色有り、莊宗はこれを見て悦んだ。莊宗が既に晋王となった時、太后がその宮に幸し、酒宴を設けて寿を祝い、自ら起ちて歌舞し、太后は甚だ歓び、劉氏に命じて笙を吹かせ酒宴を助けさせ、酒宴が終わって去る時、劉氏を留めて莊宗に賜った。先に、莊宗が夾城で梁軍を攻め、符道昭の妻侯氏を得て、寵愛は諸宮を専らにし、宮中ではこれを「夾寨夫人」と称した。莊宗が四方に出兵する時、常に侯氏を従軍させた。その後、劉氏が子継岌を生むと、莊宗は己に類すと以為い、これを愛し、よって劉氏の寵愛は益々専らとなり、魏博を下し、河上で戦うこと十余年、独り劉氏を従えた。劉氏は智多く、意を迎え旨を承けることを善くし、他の嬪御は進んで見えることができなかった。

その父が劉氏が既に貴くなったと聞き、魏宮に詣でて謁見を求めた。莊宗が袁建豐を召して問うと、建豐は言った、「臣が成安の北塢で劉氏を得た時、黄鬚の丈人がこれを護っていました」。劉叟を出して建豐に示すと、建豐は言った、「これです」。然るに劉氏は諸夫人と寵を争い、門望を以て高く相し、よって大いに怒って言った、「妾が郷里を去る時、略ぼ記憶すべきものがあり、妾の父は不幸にも乱兵に死に、妾はその時屍を巡って慟哭して去りました。この田舎翁がどうしてここに至ることができましょう」。よって命じて劉叟を宮門で笞打たせた。

莊宗が既に皇帝の位に即くと、劉氏を立てて皇后とせんとしたが、韓夫人が正室であり、伊夫人の位次は劉氏の上にあるので、以てその事を難しくして発しなかった。宰相豆盧革、樞密使郭崇韜が旨に迎合し、上章して劉氏を立つべきと言うと、莊宗は大いに悦んだ。同光二年癸未、皇帝は文明殿に御し、使者を遣わして劉氏を冊し皇后とした。皇后は冊を受け、翟車に乗り、鹵簿、鼓吹を従え、太廟に謁見した。韓夫人らは皆これを不平とし、乃ち韓氏を淑妃に、伊氏を德妃に封じた。

荘宗は梁を滅ぼしてより、志意驕り怠り、宦官・伶人が政を乱し、后は特に宮中において権勢を振るう。自ら賤微の出であることを以て、順序を越えて立后されたことを、仏の力によるものと為す。また聚斂を好み、人を分遣して商賈と為し、市肆の間に至るまで、薪芻果茹、皆中宮の売る所と称す。四方の貢献は、必ず二つに分け、一は以て天子に上り、一は以て中宮に入る。宮中の貨賄は山の如く積む。ただ仏書を写し、僧尼に饋賂するのみ。而して荘宗もこれにより仏を佞ぶ。

胡僧有り、于闐より来る。荘宗は皇后及び諸子を率いて迎拝す。僧は五台山に遊び、中使を遣わして供頓せしむ。至る所、城邑を傾動す。また僧誠惠有り、自ら能く龍を降すと称す。嘗て鎮州を過ぐるに、王鎔礼を為さず。誠惠怒りて曰く、「吾に毒龍五百有り、当に一龍を遣わして片石を掲げん。常山の人、皆魚鱉と為らん」と。会う明年、滹沱河大水有り、鎮州の関城を壊す。人皆以て神と為す。荘宗及び后は諸子・諸妃を率いて之を拝す。誠惠は端坐して起たず。是より士は貴賤を問わず皆之を拝す。独り郭崇韜のみ拝せず。

是の時、皇太后及び皇后は藩鎮と交通し、太后は「誥令」と称し、皇后は「教命」と称す。両宮の使者は道に旁午す。許州節度使温韜は、后の仏を佞ぶを以て、因りて私第を以て仏寺と為し、后の為に福を薦めんことを請う。荘宗は数え郭崇韜・元行欽等の私第に幸し、常に后と俱にす。其の後、張全義の第に幸す。酒酣にして、后を命じて全義を養父と為して拝せしむ。全義は日ごとに姬妾を遣わして中宮に出入りせしめ、問遺絶えず。

荘宗に愛姬有り、甚だ色有りて子を生む。后は心に之を患う。荘宗、宮中に燕居し、元行欽侍側す。荘宗問うて曰く、「爾は新たに婦を喪えり。其れ復た娶らんか。吾爾が聘を助けん」と。后は愛姬を指して請うて曰く、「帝行欽を憐れむ。何ぞ之を賜わざる」と。荘宗已むを得ず、陽に之を諾す。后は行欽を促して拝謝せしむ。行欽再拝し、起きて愛姬を顧みれば、肩輿已に宮を出づ。荘宗楽しまず、疾を称して食わざること累日。

同光三年秋大水有り、両河の民、道路に流徙し、京師の賦調充たず。六軍の士、往々にして殍踣す。乃ち明年の夏・秋租税を預借す。百姓愁苦し、路に号泣す。荘宗方に后と畋遊に荒る。十二月己卯臘、白沙に畋す。后は皇子・後宮を率いて畢く従い、伊闕を歴り、龕澗に宿り、癸未にして乃ち還る。是の時大雪有り、軍士寒凍す。金鎗衛兵万騎、至る所に民を責めて供給せしめ、什器を壊し、廬舍を徹して之を焚く。県吏畏懼し、山谷に亡竄す。

明年三月、客星天庫を犯し、星有りて天棓に流る。占星者言う、「御前に当に急兵有るべし。積聚を散じて以て之を禳うに宜し」と。宰相庫物を出して以て軍に給せんことを請う。荘宗之を許すも、后肯わず。曰く、「吾が夫婦天下を得るは、武功に因るも、蓋し亦天命有り。命既に天に在り。人我を如何せん」と。宰相延英に論ず。后は屏間に於いて耳を属す。因りて粧奩及び皇幼子満喜を取って帝の前に置きて曰く、「諸侯の貢ぐ所、給賜已に尽く。宮中に所有するは唯此のみ。請う、鬻いで以て軍に給せん」と。宰相惶恐して退く。趙在礼の乱を作すに及び、兵を出して魏を討つに当たり、始めて物を出して以て軍を賚う。軍士負いて詬いて曰く、「吾が妻子已に餓死せり。此を得て何を為さん」と。

荘宗東に汴州に幸す。従駕の兵二万五千。万勝に至るに及び、進むを得ずして還る。軍士離散し、亡ぶ所太半。罌子谷に至る。道路隘狭なり。荘宗従官の兵仗を執る者を見て、皆好言を以て之を労して曰く、「適に報ず、魏王しょくを平ぐ。蜀の金銀五十万を得たり。当に悉く爾等に給すべし」と。対えて曰く、「陛下之を与うること太だ晩し。得る者も亦恩を感ぜず」と。荘宗泣下す。因りて内庫使張容哥を顧みて袍帯を索めて以て之に賜わんとす。容哥対えて曰く、「尽きたり」と。軍士容哥を叱して曰く、「吾が君を此に致すは、皆爾輩に由る」と。因りて刀を抽いて之を逐う。左右之を救いて免る。容哥曰く、「皇后物を惜しみ、以て軍に給せずして、罪を我に帰す。事若し不測ならば、吾が身万段たらん」と。乃ち水に投じて死す。

郭従謙反す。荘宗流矢に中り、傷甚だし。絳霄殿の廊下に臥し、渇きて飲を得んと欲す。后は宦官を令して飧酪を進めしむ。自ら省視せず。荘宗崩ず。后は李存渥等と与に嘉慶殿を焚き、百騎を擁して師子門を出づ。后は馬上に於いて囊を以て金器宝帯を盛り、太原に於いて寺を造り尼と為らんと欲す。道に在りて存渥と姦す。太原に至るに及び、乃ち髪を削りて尼と為る。明宗入りて立ち、人を遣わして后に死を賜う。晋天福五年、追謚して神閔敬皇后と曰う。

唐末の喪乱より、后妃の制備わらず。荘宗の時に至り、後宮の数尤だ多し。昭容・昭儀・昭媛・出使・御正・侍真・懿才・咸一・瑤芳・懿德・宣一等有り。其の余の名号、紀すべからず。荘宗しい遇せられ、後宮散走す。朱守殷宮に入り、選び得ること三十余人。虢国夫人夏氏は嘗て荘宗に幸せられたるを以て、守殷敢えて留めず。明宗立ち、悉く荘宗時の宮人を放ちて其の家に還す。独り夏氏帰する所無し。乃ち河陽節度使夏魯奇を同姓なりと以て、因りて之に帰す。後ち契丹の突欲李賛華に嫁す。賛華性酷毒にして、人を殺すを喜び、婢妾微過有れば、常に刲灼を加う。夏氏懼れ、離婚を求め、乃ち髪を削りて尼と為りて以て卒す。而して韓淑妃・伊徳妃は皆太原に居る。晋高祖こうその反する時、契丹に虜われせらる。

唐は朱邪より姓を得て李氏と為り、国を得て晋と為り、天下を得て唐と為る。其の始め夷狄に出で、而して終に乱亡を以てす。故に其の世次詳かに見るべからず。其れ見るべき者は、曰く太祖四弟・八子・五孫、三世にして絶つ。太祖四弟は曰く、克譲・克脩・克恭・克寧、皆其の父母の名号を知らず。

克譲

克譲は、少より騎射に善く、振武軍校と為り、王仙芝を討つに従い、功を以て金吾衛将軍に拝せられ、京師に留まる。李氏は憲宗の時より部族を以て唐に帰し、唐之を河西に処す。嘗て一子を遣わして京師を宿衛せしめ、親仁坊に第を賜う。其の後太祖雲中に起兵し、唐の守将段文楚を殺す。唐兵を発して太祖を討ち、王処存を遣わして兵を以て親仁坊を囲み、宿衛の子克譲を捕う。克譲は其の僕何相温・石的歴等十余騎と与に、弧を彎き馬を躍らせて、囲みを突いて出づ。処存千余人を以て渭橋に追い至る。克譲等百余を射殺す。追兵乃ち止む。克譲鴈門に奔る。明年、太祖復た唐に帰す。克譲還りて京師を宿衛す。黄巢長安ちょうあんを犯す。克譲潼関を守る。賊に敗られ、南山に奔り、仏寺に匿る。寺僧に殺さる。

克脩

克脩は字を崇遠とす。龐勛を討つに従い、功を以て朔州刺史に拝せらる。太祖鴈門に鎮す。之を以て奉誠軍使と為す。関に入るに従い、黄巢を討ち、先鋒と為り、左営軍使に遷る。潞州の孟方立邢州に遷る。晋潞州を取り、克脩を表して昭義軍節度使と為す。数え山東に出でて方立を撃ち、又李罕之と与に寇を攻めて懐・孟の間に在り。其の後、太祖自ら将いて方立を撃ち、軍を還して潞を過ぐ。克脩は性儉嗇にして、供饋甚だ薄し。太祖大いに怒り、詬いて之を撃笞す。克脩慚憤し、疾を発して卒す。二子有り、嗣弼・嗣肱。

嗣弼は涿州刺史となり、天祐十九年、契丹が涿州を攻め落とし、嗣弼は虜中にて歿した。

嗣肱は、若くして胆略あり、周徳威に従い数々の戦功を立て、馬歩軍都虞候となった。李存審が胡壁において梁軍を破ると、嗣肱は梁の将一人を捕らえた。梁の太祖が蓨県を包囲したとき、嗣肱は存審に従って蓨を救援し、梁軍は解囲して去ったが、嗣肱の功績が最も多かったため、超えて蔚州刺史、雁門以北都知兵馬使に任ぜられた。累進して沢州、代州の二州刺史となった。新州の王郁が晋に叛き、契丹に亡命すると、山後諸州は皆叛いたが、嗣肱は媯州、儒州、武州の三州を奪取し、新州刺史、山北都団練使に任ぜられた。同光元年春、任地にて卒した。

克恭

克恭は、初め決勝軍使となった。克脩が卒すると、克恭を代わりに昭義軍節度使とした。克脩は人となり簡素倹約であり、潞の人々は元よりその政に安んじ、かつ彼が笞打たれて死んだことを哀しんでいた。克恭は横暴で法を守らず、また軍事に習熟していなかったため、これにより潞の人々は皆怨んだ。克恭は後院の精兵五百人を選び、太祖に献上しようとしたが、銅鞮まで行くと、その将馮が配下を率いて叛いた。太祖は李元審を派遣してこれを討たせたが、沁水で戦い、元審は大敗して傷つき、潞州に逃げ込んだ。牙将安居受もまた叛き、克恭及び元審を殺し、人をやって馮霸を召し寄せたが、馮霸は命令を受けず、居受は恐れて出奔し、長子まで行ったところで、野人に殺され、その首は馮霸に送られた。馮霸はそこで潞州に入り、自ら留後を称し、梁に帰附した。

克寧

克寧は、人となり仁孝であり、諸兄弟の中で最も賢く、太祖に仕えて小心懈怠しなかった。太祖が赫連鐸、李可挙と雲州、蔚州の間で戦い、後に達靼に奔り、黄巢を破って入ったとき、克寧は従わなかったことはなかった。太祖が太原を鎮守すると、彼を内外制置蕃漢都知兵馬使、検校太保、振武軍節度使とし、軍中の事は、大小となく皆克寧に決させた。

太祖が病み、荘宗を側近く侍らせ、張承業と克寧に「亞子を公らに託す」と言い含めた。太祖が崩ずると、荘宗は克寧に告げて言った、「児は年若く孤稚で、未だ庶政に通じておらず、先王の命はあれど、恐らく大事を担当するには足りません。叔父は勲徳ともに高く、先王は嘗て政を任せられました。敢えて軍府の事を季父に煩わせ、児の立つを待ちたい」。克寧は言った、「我が兄の命は、児を我に託されたのであり、誰がこれを易えようか」。そこで下がって北面し再拝して賀し、荘宗はここに晋王の位に即いた。

初め、太祖は雲州、朔州の間より起こり、得たぎょう勇の士を多く養子とし、英豪と戦争して、遂に覇業を成し遂げたが、諸養子の功績が多かったため、特に寵愛し、衣服礼秩は嫡子の如くであった。諸養子の麾下には皆精兵があり、功を恃んで自ら恣にし、先王の時より常に優遇されていた。新王が立つと、年少であったため、ある者は病と託して朝せず、ある者は謁見しても拝礼しなかった。養子の存顥、存実が克寧に告げて言った、「兄亡きときは弟が及ぶ、これ古の道です。叔父が姪に拝する、理としてどうして安んじられましょうか。人生富貴は、自ら取るべきです」。克寧は言った、「我が家は三代、父は慈しく子は孝行であり、先王の領土は、もし帰する所あらば、私はまた何を求めようか」。

克寧の妻孟氏は元より剛悍であり、存顥らはそれぞれその妻を遣わして孟氏を説かせ、孟氏はしばしば克寧を迫った。克寧は仁ではあるが決断力がなく、群言に惑わされ、遂に禍に至った。都虞候李存質が克寧に罪を得ると、克寧は彼を殺し、張承業、李存璋と不和となり、また大同軍節度使を兼ねて領することを求めた。ここにおいて幸臣の史敬鎔が太后に謁見し、克寧と存顥が王及び太后を捕らえて梁に降らんと謀っていると告げた。荘宗は承業、存璋を召して告げて言った、「季父のなすところこのようである、どうしたものか。しかし骨肉は自ら相魚肉すべからず、私は賢路を避けて我が家の禍を和らげよう」。承業らは克寧を誅することを請うた。そこで府中に伏兵を置き、酒宴を大いに開き、克寧が到着したところを捕らえて殺した。

太祖の子(存美、存霸、存礼、存渥、存乂、存確、存紀)

太祖の子は八人:荘宗は長子であり、次は存美、存霸、存礼、存渥、存乂、存確、存紀である。同光三年十二月辛亥、詔して存美ら七人を王に封じた。蓋し存霸、存渥、存紀は荘宗と同母であり、存美、存乂、存確、存礼はその母の名氏号位を知らない。存美は邕王に封ぜられ、存霸は永王、存礼は薛王、存渥は申王、存乂は睦王、存確は通王、存紀は雅王となった。

存乂は建雄、保大の二軍節度使を歴任した。郭崇韜の女を娶った。この時、魏州の妖人楊千郎が権勢を振るい、自ら墨子の術があると称し、鬼神を駆使し、丹砂、水銀を化すことができると言った。荘宗はこれを頗る神聖視し、千郎を検校尚書郎に任じ、紫衣を賜い、その妻は宮禁に出入りし、恩寵を受け、士人の中にはこれによって官爵を求める者もあり、存乂や存渥らは往々にしてその家で朋輩として淫らなことをした。崇韜が族誅されると、荘宗は宦官を遣わして外議がどうなっているかを密かに察させたが、宦官は崇韜の親類与党を尽く誅して後患を絶たんと欲し、誣って言った、「存乂が千郎を訪れ、酒酣のとき、臂を攘ぎ号泣し、婦翁の冤罪を称え、言うところ甚だ怨望を含んでいました」。荘宗は大いに怒り、兵をもってその邸宅を包囲して誅殺し、千郎も併せて誅した。

存霸は昭義、天平、河中の三軍節度使を歴任し、存渥は義成、天平の二軍節度使を歴任したが、皆京師に居住し、その俸禄を食むのみであった。趙在礼が乱を起こすと、存霸を河中に派遣した。李嗣源の兵が反逆し、京師に向かうと、荘宗は再び汜水に行幸し、存霸を北京留守に転じ、存渥を河中節度使としたが、宣麻未だ終わらぬうちに、郭従謙が反逆し、興教門を攻めたので、存渥は荘宗に従って賊を防いだ。荘宗が流れ矢に当たって崩じると、存渥は劉皇后と共に太原に奔り、風谷まで行ったところで、部下に殺された。存霸は京師の乱を聞き、また自ら河中より太原に奔ったが、到着する頃には麾下は皆散り走り、従者下僕の康従弁のみが去らなかった。存霸はそこで髪を切り、僧衣を着て、符彦超に謁して言った、「山僧となりたい、どうか公の庇護を願います」。彦超は彼を留めようとしたが、軍衆に殺された。

存紀、存確は郭従謙の反逆を聞き、南山に奔り、民家に匿れた。明宗は河南府及び諸道に詔して、「諸王が出奔したら、その到着する所で闕に送り届けよ。もし不幸にも物故した者は、収めて埋葬し報告せよ」と言った。存紀らを匿った民家が安重誨に告げると、重誨は霍彦威に言った、「二王が難を逃れ、主上は尋ね求めておられるが、その行方不明を恐れておられる。今上は既に監国として喪を典されているが、この礼はどうすべきか」。彦威は言った、「上は性質仁慈であられ、奏上して聞かせることはできません。密かに適切な処置をなして、人心を安んずべきです」。そこで即座に民家で彼らを殺した。

存美は元より中風の病を患い、太原に居住し、存礼と共にその終わりを知らない。

荘宗の五子(継岌、継潼、継嵩、継蟾、継嶢)。

荘宗の五子:長子を継岌といい、次が継潼、継嵩、継蟾、継嶢である。継岌の母は劉皇后という。他の四人はその母の名号が記されていない。

荘宗が即位すると、継岌は北都留守となり、六軍諸衛事を判じた。検校太尉・同中書門下平章事に遷った。豆盧革が宰相となり、建言して言うには、唐の故事では皇子は皆宮使となると。そこで鄴宮を興聖宮とし、継岌をその使とした。

同光三年、魏王に封ぜられた。この年蜀を伐つに当たり、継岌を西南行営都統とし、郭崇韜を都招討使とし、工部尚書任圜・翰林学士李愚を皆軍事に参じさせた。九月戊申、兵六万を率いて鳳翔より大散関に入り、軍に十日分の糧もなかったが、至る所の州鎮は皆迎えて降り、その粟を食した。興州に至ると、蜀の将程奉璉が五百騎で降り、その兵をもって閣道を修復し、唐軍を通らせた。王衍が兵一万を率いて利州に屯し、その半ばを分けて三泉で逆戦したが、先鋒康延孝に敗れ、衍は恐れて吉柏江の浮橋を断ち、成都に奔り帰った。唐軍は文州より間道を通って入った。十月己酉、継岌は綿州に至り、衍は牋を上って降伏を請うた。丙辰、成都に入城した。王衍は竹輿に乗って昇仙橋に至り、素衣・牽羊、草索を首に繫ぎ、肉袒・銜璧・輿櫬し、群臣は衰絰・徒跣して降った。継岌は下りて璧を取り、崇韜は縄を解き、櫬を焼いた。出師より衍の降伏まで、凡そ七十五日、兵刃に血塗らず、古来用兵の容易なること、これに如くはない。しかし継岌は都統たりといえども、軍政の号令は一切崇韜より出た。

初め、荘宗は宦官供奉官李従襲を遣わして中軍を監させ、高品李廷安・呂知柔を典謁とした。従襲らは元より崇韜を憎み、また崇韜が軍事を専任するのを見て、ますます不平を抱いた。蜀を破ると、蜀の貴臣大将、王宗弼以下は皆競って蜀の宝貨・妓楽を崇韜父子に奉り、魏王の得たものは、匹馬・束帛・唾壺・塵柄のみであった。崇韜は日々軍事を決し、将吏賓客の趨走は庭に満ちたが、都統府では大将の晨謁があるのみで、牙門は閑然としていた。これにより従襲らはその憤りに耐えられなかった。やがて宗弼は蜀人を率いて継岌に謁し、崇韜を留めて蜀を鎮めさせんことを請うた。従襲らはこれに因って崇韜に異志ありと言い、継岌に備えを勧めた。継岌は崇韜に謂う、「陛下は侍中(崇韜)を衡山・華山の如くに倚り侍し、廟堂の上に尊び、天下を一にし四方を制することを期しておられる。必ずや元老を蛮夷の地に棄てることはなさらぬ。この事は私の敢えて知るところではない」。

荘宗は崇韜が蜀に留まらんとするのを聞き、また悦ばず、宦官向延嗣を遣わして継岌に班師を促させた。延嗣が成都に至ると、崇韜は出迎えず、謁見した際の礼もますます怠慢であった。延嗣は怒り、従襲らはこれに因って延嗣に崇韜に異志あり、魏王を危うくする恐れあると告げた。延嗣は帰還し、ことごとくこれを言上した。劉皇后は涕泣して継岌の保全を請い、荘宗は宦官馬彦珪を遣わして崇韜の去就を視察させた。この時、両川は新たに平定され、孟知祥は未だ至らず、所在の盗賊は山林に聚まり、崇韜は任圜らを分遣して招集させており、後日に変が生ずるを恐れたため、軍は直ちには還らなかった。彦珪が将に行かんとする時、劉皇后に謁して言う、「臣は延嗣の言う蜀中の事勢が既に不可となったのを見ます。禍機の発するは、間髪を容れず、どうして三千里を往復して命を稟することができましょうか」。劉皇后は彦珪の言葉を荘宗に告げた。荘宗は言う、「伝言は未だ審らかでない。どうして直ちに果決を命じられようか」。皇后は請いを得られず、自ら教(命令書)を作り継岌に与え、崇韜を殺させた。明年正月、崇韜は任圜を留めて蜀を守らせ、知祥の到着を待ち、崇韜は班師の期日を定めていた。彦珪が蜀に至り、皇后の教を示すと、継岌は言う、「今大軍将に発たんとし、未だ釁端なし。どうしてこのような負心事を行えようか」。従襲らは泣いて言う、「今密勅あり。王もし行わず、崇韜にこれを知らせれば、我らは生き残れません」。継岌は言う、「上に詔書なく、ただ皇后の手教のみでは、どうして招討使を殺せようか」。従襲らが力爭し、継岌は已むなくこれに従った。翌朝、従襲が都統の命をもって崇韜を召し、継岌は楼に登ってこれを避けた。崇韜が入り、階を昇るや、継岌の従者李環がその首を撾き砕いた。

継岌はここに班師した。二月、軍は泥溪に至り、先鋒康延孝が叛き、漢州を占拠した。継岌は任圜を遣わしてこれを討平させた。四月辛卯、興平に至り、明宗の反逆、兵の京師進入を聞き、継岌は鳳翔に退いて保たんとした。武功に至り、李従襲が継岌に馳せて京師に趣き、内難を救わんことを勧めた。渭河に行き至ると、西都留守張籛が浮橋を断ち、継岌は渡ることができず、河に沿って東に進み、渭南に至ると、左右は皆潰走した。従襲が継岌に謂う、「大事已に去り、福は再び来たらず。王は自ら図るべし」。継岌は徘徊して涙を流し、李環に謂う、「我が道尽き途窮す。汝、我を殺すべし」。環はしばらく躊躇し、継岌の乳母に謂う、「私は王を見るに忍びない。王もし生を求める路なきならば、面を伏して待つべし」。継岌は面を榻に臥し、環が縊り殺した。任圜が後から至り、継岌を華州の西南に葬った。継岌は幼少の頃閹病にかかり、子がなかった。明宗が既に即位し、圜が征蜀の師二万を率いて京師に至ると、明宗は久しく慰撫し、圜に継岌は何処にいるかと問うた。圜は継岌の死状を具に述べた。

同光三年、詔して皇子継嵩・継潼・継蟾・継嶢を皆光禄大夫・検校司徒しととす。蓋し皆幼少であったため、封ぜられなかったのである。荘宗が弑逆しいぎゃくに遇った時、太祖(李克用)の子孫で存命の者は十一人いたが、明宗が入って立つと、そのうち四人は殺害され、その余は皆その行く所を知らず、太祖の後は遂に絶えた。(梁・唐家人伝は、皆兄弟を先にし諸子を後にする。兄弟の子は各々その父に従う。これは理の常である。荘宗七弟の書かれた事跡については、長幼を次とせず、各々その死の先後によってこれを書き、事を述べるに便ならしめたのであり、定法ではない。)