世宗睿武孝文皇帝は、本来柴氏を姓とし、邢州龍岡の人である。柴氏の娘が太祖に嫁ぎ、これが聖穆皇后となった。后の兄守禮の子栄は、幼くして姑に従い太祖の家で育ち、謹厚なことで愛され、太祖はついに子とした。太祖が後に次第に貴くなると、栄もまた壮年となり、器量容貌は英奇で、騎射に優れ、書史黄老を少し通じ、性格は沈重で寡言であった。太祖が漢の枢密使となった時、栄は左監門衛大將軍となり、太祖が天雄を鎮守すると、栄は貴州刺史・天雄軍牙内都指揮使を領した。
四年の春正月己丑の朔、死罪に非ざる囚人を赦す。二月甲戌、王朴を東京に留守せしむ。乙亥、南征す。三月丁未、壽州を克つ。夏四月己巳、壽州より至る。己卯、降卒八百人を蜀に帰らしむ。癸未、彭城郡夫人劉氏を追冊して皇后と為す。五月丙申、密州防禦使侯希進を殺す。秋八月乙亥、李穀罷む、王朴を樞密使と為す。癸未、蜀人來たりて我が濮州刺史胡立を帰す。冬十月己巳、王朴を東京に留守せしめ、三司使張美を大内都點檢と為す。壬申、南征す。十二月乙卯、泗州守將范再遇唐に叛き、其の州を以て來降す。庚申、濠州團練使郭廷謂其の州を以て來降す。丁丑、泰州を取る。
五年の春正月丁亥、海州を取る。壬辰、靜海軍を取る。丁未、楚州を克ち、守將張彥卿・鄭昭業之に死す。二月甲寅、雄州を取る。丁卯、揚州に如く。癸酉、瓜洲に如く。三月壬午の朔、泰州に如く。丁亥、復た揚州に如く。辛卯、迎鑾に幸す。己亥、淮南十有四州を克ち、江を以て界と為す。三月辛亥、李景來たりて宴を買ふ。四月庚申、五室の神主を新廟に祔る。壬申、淮南より至り、回鶻・達靼使いを遣はす。六月辛未、降卒四千六百人を唐に放つ。秋七月乙酉、水部員外郎韓彥卿高麗に銅を市ふ。丁亥、均田圖を頒つ。九月、占城國王釋利因德縵莆訶散を使はして來らしむ。冬十月丁酉、民租を括む。十一月庚戌、通禮・正樂を作る。十二月丙戌、州縣の課戶・俸戶を罷む。
六年の春正月、高麗王昭使いを遣はして來る。辛酉、女真阿辨を使はして來らしむ。三月己酉、甘州回鶻來たりて玉を獻ず、之を却く。庚申、王朴薨ず。丙寅、宣徽南院使吳延祚を東京に留守せしむ。癸酉、銅魚の給ふを停む。甲戌、北征す。是の月、吳延祚を左驍衞上將軍・樞密使と為す。夏四月壬辰、乾寧軍を取る。辛丑、益津關を取り、以て霸州と為す。癸卯、瓦橋關を取り、以て雄州と為す。五月乙巳の朔、瀛州を取る。甲戌、雄州より至る。六月癸未、皇后符氏を立つ。封子宗訓を梁王とし、宗讓を燕國公とす。戊子、占城莆訶散を使はして來らしむ。己丑、范質・王溥樞密院事に參じ、魏仁浦同中書門下平章事と為す。癸巳、皇帝滋德殿に崩ず。
顯德六年六月癸巳、世宗崩ず。甲午、皇帝柩前に即帝位す。癸卯、范質を大行皇帝山陵使と為し、翰林學士竇儼を禮儀使と為し、兵部尚書張昭を鹵簿使と為し、御史中丞邊歸讜を儀仗使と為し、宣徽南院使・判開封府事昝居潤を橋道頓遞使と為す。秋七月丁未、戶部尚書李濤を山陵副使と為し、度支郎中盧億を判官と為す。八月庚寅、弟熙讓を曹王に封じ、熙謹を紀王に封じ、熙誨を蘄王に封ず。壬寅、高麗使いを遣はして來る。九月丙寅、左驍衞大將軍戴交高麗に使す。冬十一月壬寅、睿武孝文皇帝を慶陵に葬る。高麗使いを遣はして來る。
七年の春正月甲辰、位を遜る。宋興る。
嗚呼、五代の本紀は備わっている。君臣の間柄は、語り尽くせぬものがある。梁の友珪の反逆、唐が克寧を殺害し、存乂・従璨を殺したことは、父子骨肉の恩情がほとんど絶えんとしたことである。太妃が薨じて朝を停め、劉氏・馮氏を皇后に立てたことは、夫婦の義がほとんど乖離せず禽獣に至らなかったことである。寒食に野祭して紙銭を焚き、喪中に改元して音楽を用い、馬延及び任圜を殺したことは、礼楽刑政がほとんど崩れなかったことである。雷山に賽し、箭を伝えて馬を撲つに至っては、中国がほとんど夷狄とならなかったことである。乱世と言うべきであろうか。而して世宗は僅か五六年の間に、秦隴を取り、淮右を平らげ、三関を復し、威武の声は夷夏を震駭せしめ、また方内に儒学文章の士を延いて、制度を考へ、通礼を修め、正楽を定め、刑統を議し、其の制作の法は皆後世に施すべきものあり。其の人となりは明達英果にして、論議は偉然たり。即位の明年、天下の仏寺三千三百三十六を廃す。是の時中国に銭乏しく、乃ち詔して悉く天下の銅仏像を毀ちて以て銭を鑄す。嘗て曰く、「吾仏の身世を妄りと為し、而して人を利するを急と為すと説くを聞く。其の真身尚ほ在らば、苟も世に利あらば、猶ほ割截せんと欲す。況んや此の銅像、豈に其の惜しまんや」と。是より羣臣皆敢えて言はざりき。嘗て夜読書して、唐の元稹の均田図を見、慨然として歎じて曰く、「此れ治を致すの本なり。王者の政は此より始まる」と。乃ち詔して其の図法を頒ち、吏民をして先づ之を知るを習はしめ、一歳を期として大いに天下の田を均さんとす。其の規為志意豈に小ならんや。其の南唐を伐つに、宰相李穀に計策を問ひ、後ち淮南を克ち、穀の疏を出だし、学士陶穀をして贊を為さしめ、而して錦囊を以て盛り、嘗て之を坐側に置く。其の英武の材は雄傑と謂ふべし。及び其の虚心に聴納し、人を用うるに疑はず、豈に所謂賢主ならずや。其の北に三関を取り、兵血刃に染まらず。而して史家猶ほ其の社稷の重きを軽んじ、而して僥倖一勝を倉卒に於てするを譏る。殊不知らく、其の彊弱を料り、彼我を較べて述律の殆きに乗じ、失ふべからざる機を得たるは、此れ勝を決するに明なるに非ざれば、孰か能く至らんや。誠に史氏の及ぶ所に非ざるなり。