太祖聖神恭肅文武皇帝本紀
太祖聖神恭肅文武皇帝は、姓は郭、邢州堯山の人である。父の簡は、晋に仕えて順州刺史となった。劉仁恭が順州を攻め落とし、簡は殺害され、子の威は幼くして孤となり、潞州の常氏を頼った。
潞州留後李継韜が勇敢な士を募って軍卒とすると、威は十八歳で、勇力をもって応募した。人となりは気概に富み、酒を振る舞うことを好み、継韜は特に彼を異才と認めた。威がかつて市に遊んだ時、市に屠畜業者がおり、常に勇をもって市の人々を服させていた。威が酒に酔い、屠者を呼び、几を進めて肉を切らせたが、切り方が法に合わないので叱りつけると、屠者は腹をあらわにして示して言うには、「お前は勇者ならば、我を殺すことができようか」と。威は即座に前に進んで刀を取り、刺し殺した。市は皆驚いたが、威は平然としていた。吏に捕らえられたが、継韜はその勇を惜しみ、密かに逃がして亡命させ、やがてまた召し出して麾下に置いた。継韜が晋に叛いて梁に附くと、後、荘宗が梁を滅ぼし、継韜は誅殺され、その麾下の兵は悉く従馬直に編入され、威は書算に通じていたので補われて軍吏となった。閫外春秋を読むことを好み、兵法を少し知り、後に侍衞軍吏となった。漢の高祖が侍衞親軍都虞候であった時、特に親愛し、後、高祖が臨んだ鎮には、常に威を従わせた。契丹が晋を滅ぼすと、漢の高祖は太原で兵を起こし、皇帝の位に即くと、威を枢密副使に任じた。
威が軍中にいる時は、賓客を引見して、褒衣博帯の姿であったが、陣に臨み行営する時は、幅巾に短後衣で、士卒と異なることがなかった。上から賜与されたものは、諸将と会射して、彼らの望むままに取らせ、残りは悉く士卒に分け与えたので、将士は皆歓楽した。威が河中に至ると、自ら城の東に柵を築き、常思は南に柵を築き、白文珂は西に柵を築き、五県の丁壮二万人を徴発して連塁を築き、三つの柵を守護させた。諸将は皆、守貞は窮した賊寇で、破れるのは旦夕の間であり、このように人を労すべきではないと言ったが、威は聞き入れなかった。やがて守貞がたびたび出兵して連塁を撃ち破ると、威はすぐに補修し、守貞はまた出撃し、出るごとに必ず亡失があった。久しくして、城中の兵糧が共に尽きると、威は言うには、「攻め時である」と。そこで攻具を整え、期日を定め、四面から攻撃し、その羅城を破ると、守貞は妻子と共に自焼死し、思綰、景崇は相次いで降伏した。
隠帝は玉帯をもって威を労い、検校太師兼侍中を加えようとした。威は辞して言うには、「臣は先帝に仕え、功臣を多く見てきましたが、玉帯を賜ったことはありませんでした」と。そこで言うには、「臣が幸いに行伍を率い、漢の威霊を仮りて賊を破ることができたのは、ただ臣の功だけでなく、皆将相の賢があり、朝廷を安んじ、内外を撫で、饋餉を時に合わせたからこそ、臣は征伐に専念することができたのです」と。隠帝は威を賢臣と認め、そこで楊邠、史弘肇、蘇逢吉、禹珪、竇貞固、王章らを悉く召して玉帯を賜い、威はようやく受けた。威はまた功を大臣に推し、爵賞を加えるよう請うた。そこで貞固に司空を、逢吉に司徒を、禹珪、邠に左右僕射を加えた。やがてまた言うには、「これはただ漢廷の親近の臣のみです。漢の諸宗室、天下の方鎮、外は荊、浙、湖南に至るまで、まだ及んでいません」と。これにより濫賞が天下に遍く行き渡った。
隠帝は李業らと謀り、すでに史弘肇らを殺した後、詔して鎮寧軍節度使李弘義に澶州において侍衞歩軍指揮使王殷を殺させ、また詔して侍衞馬軍指揮使郭崇に魏において威及び宣徽使王峻を殺させようとした。詔書が先に澶州に至ると、弘義は事が成就しないことを恐れ、かえって詔書を殷に見せ、殷は弘義と共に人を遣わして威に告げた。やがて威、峻を殺す詔の使者も馳せて至ると、威は詔書を隠し、枢密使院の吏魏仁浦を召して臥内で謀った。仁浦は威に反逆を勧め、留守の印を倒用して、改めて詔書を作るよう教え、詔して威に諸将校を誅殺させて彼らを激怒させた。将校は皆憤然として効用した。
十一月丁丑、威はついに兵を挙げて河を渡った。隠帝は開封尹侯益、保大軍節度使張彦超、客省使閻晉卿らに兵を率いて威を拒がせ、また内養の驡脱を遣わして威の向かうところを窺わせた。驡脱は威に捕らえられたので、威は脱に附して奏上し、李業らを縛って軍中に送るよう請うた。隠帝が威の奏上を得て、業らに見せると、業らは皆、威の反状はすでに明白であると言い、そこで威の家屬を京師で悉く誅殺した。庚辰、威は滑州に至り、義成軍節度使宋延渥が漢に叛いて来降した。壬午、封丘を犯した。甲辰、泰寧軍節度使慕容彦超と劉子陂で戦い、彦超は敗れて兗州に奔った。郭允明が反逆し、趙村において隠帝を弑した。丙戌、威は京師に入り、火を放ち大いに掠奪した。戊子、百官を率いて明徳門において太后に朝し、嗣君を立てるよう請うた。太后は下令した。文武百寮、六軍将校は、賢明を議して選び、大統を承けしめよ、と。庚寅、威は百官を率いて明徳門に詣で、武寧軍節度使贇を嗣として立てるよう請うた。太師馮道を徐州に遣わして贇を迎えさせた。辛卯、太后に臨朝聴政を請い、王峻を枢密使とし、翰林学士、尚書兵部侍郎范質を副使とした。
十二月甲午朔、威は契丹を北伐し、滑州に軍を駐めた。癸丑、澶州に至って引き返した。王峻は郭崇に騎兵七百を率いさせて宋州において劉贇を迎え撃ち、これを殺した。その将の鞏廷美、楊温は贇のために徐州を守った。戊午、皋門に駐屯すると、漢の宰相竇貞固、蘇禹珪が来て即位を勧めた。庚申、太后の制により、威を監国とした。
二月辛丑、西州回鶻の使都督来る。丁未、契丹の兀欲、使い䮍骨支を遣わして来る。癸丑、寒食、蒲池に望祭す。丁巳、尚書左丞田敏、契丹に使す。回鶻の使い摩尼来る。
三月甲戌、武寧軍節度使王彦超、徐州を克つ。夏四月甲午、夫人董氏を立てて徳妃と為す。五月辛未、祖考を追尊して皇帝とし、妣を皇后とす:高祖璟、諡して睿和と曰い、廟号を信祖とし、祖妣張氏、諡して睿恭と曰う;曾祖諶、諡して明憲と曰い、廟号を僖祖とし、祖妣申氏、諡して明孝と曰う;祖蘊、諡して翼順と曰い、廟号を義祖とし、祖妣韓氏、諡して翼敬と曰う;考、諡して章肅と曰い、廟号を慶祖とし、妣王氏、諡して章徳と曰う。
六月辛亥、范質及び戸部侍郎判三司李穀、中書侍郎・同中書門下平章事と為る。竇貞固・蘇禹珪罷む。癸丑、范質、枢密院事に参ず。丁巳、宣徽北院使翟光鄴、枢密副使と為る。秋七月戊寅、王峻の第に幸す。八月壬寅、契丹来たりて趙瑩の喪を帰す。冬十月丙午、漢人討ち来る。攻むること晋州よりす。十一月、王峻及び建雄軍節度使王彦超、これを拒ぐ。十二月、慕容彦超反す。