新五代史

原文新五代史

巻第十

原文卷10

高祖睿文聖武昭肅孝皇帝、姓は劉氏、初めは名を知遠といい、その先祖は沙陀さだ部の人であるが、後世は太原に居住した。知遠は幼少より遊戯を好まず、厳重にして寡言、顔色は紫、目は白目多く、凛然たる風貌であった。晋の高祖と共に明宗に仕えて偏将となり、明宗が梁軍と徳勝で戦った時、晋高祖の馬の鎧が切れ、梁兵がまさに迫らんとした際、知遠は自らの乗馬を彼に与え、再び高祖の馬を取って殿軍となり帰還したので、高祖はその恩を感じた。高祖が北京留守となった時、知遠は押衙となった。

原文高祖睿文聖武昭肅孝皇帝,姓劉氏,初名知遠,其先沙陀部人也,其後世居于太原。知遠弱不好弄,嚴重寡言,面紫色,目多白睛,凜如也。與晉高祖俱事明宗為偏將,明宗及梁人戰德勝,晉高祖馬甲斷,梁兵幾及,知遠以所乘馬授之,復取高祖馬殿而還,高祖德之。高祖留守北京,知遠為押衙。

潞王従珂が反逆し、愍帝が出奔すると、高祖は鎮州ちんしゅうより京師へ朝見に向かい、衛州で愍帝に遭遇し、駅舎に留まった。知遠は勇士の石敢に鉄槌を袖に隠させて高祖に侍らせ、変事に備えさせた。高祖と愍帝が議事をして未決のうち、左右の者が兵を用いようとしたので、知遠は高祖を擁して室内に入り、石敢は左右の者と格闘して死に、知遠は直ちに兵を率いて愍帝の左右を皆殺しにし、帝を駅舎に留めて去った。

原文潞王從珂反,愍帝出奔,高祖自鎮州朝京師,遇愍帝于衞州,止傳舍,知遠遣勇士石敢袖鐵槌侍高祖以虞變。高祖與愍帝議事未決,左右欲兵之,知遠擁高祖入室,敢與左右格鬬而死,知遠即率兵盡殺愍帝左右,留帝傳舍而去。

廃帝が即位すると、高祖は再び河東を鎮守したが、やがて隔たりが生じ、高祖が挙兵せんとした時、知遠は桑維翰と密かに高祖のために謀画し、これを賛成した。高祖が太原で即位すると、知遠を侍衛親軍都虞候とし、保義軍節度使を領させた。契丹きったんの耶律徳光が高祖を潞州ろしゅうまで送り、別れに臨み、知遠を指して言うには、「この都軍は甚だ操剌である(世俗に勇猛を「操剌」という。その本語を記す)。大いなる故なき限りこれを棄てるな」と。

原文廢帝入立,高祖復鎮河東,已而有隙,高祖將舉兵,知遠與桑維翰密為高祖謀畫,贊成之。高祖即位於太原,以知遠為侍衞親軍都虞候,領保義軍節度使。契丹耶律德光送高祖至潞州,臨決,指知遠曰:「此都軍甚操剌,世俗謂勇猛為「操剌」,錄其本語。無大故勿棄之。」

天福二年、侍衛馬歩軍都指揮使に遷り、忠武軍節度使を領した。後に杜重威が知遠に代わって忠武を領することとなり、知遠を転じて帰徳を領させたが、知遠は重威と同制となることを恥じ、門を閉ざして出なかった。高祖は怒り、その兵職を罷めようとしたが、宰相の趙瑩は不可とし、高祖は端明殿学士の和凝をその邸に遣わして宣諭させ、知遠はようやく命を受けた。五年、鄴都留守に転ず。九月、京師に朝し、高祖はその邸に行幸した。六年、河東節度使・北京留守に拝された。七年、高祖崩御。

原文天福二年,遷侍衞馬步軍都指揮使,領忠武軍節度使。已而以杜重威代知遠領忠武,徙知遠領歸德,知遠恥與重威同制,杜門不出。高祖怒,欲罷其兵職,宰相趙瑩以為不可,高祖乃遣端明殿學士和凝就第宣諭,知遠乃受命。五年,徙鄴都留守。九月,朝京師,高祖幸其第。六年,拜河東節度使、北京留守。七年,高祖崩。

知遠は高祖に従って太原より起ち、佐命の功があったが、出帝が立ってから、契丹と盟約を絶ち、北方で兵を用いるようになると、常に知遠の勲位が既に高いことを疑い、晋に多難があるのを幸いとして異志を持つことを恐れ、常に優遇して尊んだ。中書令に拝し、太原王・幽州ゆうしゅう道行営招討使に封ぜられ、また北面行営都統に拝された。開運二年四月、北平王に封ぜられ、三年五月、守太尉を加えられたが、王は未だ出兵しなかった。契丹が澶州せんしゅうを寇し、別に偉王を遣わして雁門を攻めたが、秀容でこれを破った。八月、吐渾とこんの白承福ら一族を殺し、その財貨巨万、良馬数千を取った。

原文知遠從高祖起太原,有佐命功,自出帝立,與契丹絕盟,用兵北方,常疑知遠勳位已高,幸晉多故而有異志,每優尊之。拜中書令,封太原王、幽州道行營招討使,又拜北面行營都統。開運二年四月,封北平王,三年五月,加守太尉,然王未嘗出兵。契丹寇澶州,別遣偉王攻鴈門,敗之于秀容。八月,殺吐渾白承福等族,取其貲鉅萬,良馬數千。

四年、契丹が京師を犯し、出帝が北遷すると、王は牙将の王峻を遣わして契丹に表を奉り、耶律徳光は彼を児と呼び、木柺を賜った。虜の法ではこれを中国の几杖のように貴び、優れた大臣でなければ得られないものである。峻が柺を持って帰ると、虜人はこれを見て皆道を避けた。峻が還り、王に契丹は必ずや中国を保有できぬと述べたので、建国を議した。二月戊辰、河東行軍司馬の張彦威らが牋を上って進むことを勧めた。辛未、皇帝即位し、天福十二年と称した(天福は晋高祖の年号である。天福は八年で止まり開運と改元し、ここに至って四年である。漢は建国したが国号がなく、また晋の年号を称し、開運を捨てて天福を追続して十二年とした。初めから義理はないが、ただその実を書くのみである)。磁州の賊首梁暉が相州を取って来帰した(変じて降ることを「来帰」という。この人を哀れむのである。この時天下に主なく、その主を得れば往きてこれに帰する。彼に叛してここに来る者とは異なる。漢の高祖は徳ある君ではないが、惶惶として主なきこの人々が帰する所を得て、なお帰することができた。故に「帰」という)。武節都指揮使の史弘肇が代州を取り、その刺史王暉を殺した。晋州の将薬可儔がその守将の駱従朗及び括銭使・諫議大夫の趙熙を殺して来帰した。辛巳、陝州留後の趙暉・潞州留後の王守恩が来帰した。三月丙戌朔、河東の雑税を免除した。辛卯、延州で軍乱が起こり、その節度使の周密を逐う。壬辰、丹州指揮使の高彦詢がその州を以て来帰した。壬寅、契丹遁る(漢が太原より起つと聞き、畏れて去った。故に自ら去るのと文を異にし、「遯」は退避の称である)。その将の蕭翰を宣武軍節度使として汴州べんしゅうを守らせた。夏四月己未、右都押衙の楊邠を枢密使とし、蕃漢兵馬都孔目官の郭威を権枢密副使とした。契丹が相州を陥とし、梁暉を殺した。癸亥、魏国夫人李氏を立てて皇后とした。甲子、河東節度判官の蘇逢吉・観察推官の蘇禹珪を中書侍郎・同中書門下平章事とした。乙丑、侍衛親軍歩軍都指揮使の史弘肇が潞州を取る。戊辰、奉国指揮使の武行徳が河陽を以て来帰した。史弘肇が沢州を取る。丙子、契丹の耶律徳光が欒城で卒し、契丹は鎮州に入る。五月甲午、太原尹の劉崇を北京留守とした。丙申、東京に行く。蕭翰が遁れて契丹に帰り、郇国公の李従益に南朝軍国事を知らせた。戊申、絳州に次ぐ。刺史の李従朗が来帰した。六月丙辰、河陽に次ぐ。李従益とその母を京師で殺す。甲子、太原より至る。戊辰、国号を漢と改む(高祖が初め建国した時、国号がなかった。その制詔に皆明文がないため、欠けて書かない。しかし天福十二年と称したことから、国がなお晋と号したことが知られる。ただ明らかな根拠がないため、疑わしい所については慎重にしたのである。ここに「国号を漢と改む」と書くのは、改める前には宜しく何か称すべき所があったはずで、これによって推知できる)。罪人を赦し、民税を免除した。于闐が使者を遣わして来る。この夏、劉昫薨ず。秋閏七月乙丑、契丹の服器の製造を禁ず。天雄軍節度使の杜重威反す(杜重威は晋の出帝の時に出帝の名を避けて「重」を去ったが、漢に至ってこれを復した)。天平軍節度使の高行周を鄴都行営都部署としてこれを討たしむ。庚辰、祖考を追尊して皇帝とし、妣を皇后とした。高祖湍は諡して明元、廟号を文祖とし、祖妣李氏は諡して明貞。曾祖昂は諡して恭僖、廟号を徳祖とし、祖妣楊氏は諡して恭恵。祖僎は諡して昭憲、廟号を翼祖とし、祖妣李氏は諡して昭穆。考琠は諡して章聖、廟号を顕祖とし、妣安氏は諡して章懿。漢の高皇帝を高祖とし、光武皇帝を世祖とし、皆祧らず。八月、護聖指揮使の白再栄が契丹を逐い、鎮州を以て来帰した。丙申、安国軍節度使の薛懐譲が契丹の将劉鐸を殺し、邢州けいしゅうに入る。九月甲戌、吏部尚書の竇貞固を司空兼門下侍郎とし、翰林学士・中書舎人の李濤を中書侍郎・同中書門下平章事とした。庚辰、北征。冬十月甲申、韋城に次ぎ、河北を赦す。十一月壬申、杜重威降る。十二月癸巳、鄴都より至る。

原文四年,契丹犯京師,出帝北遷,王遣牙將王峻奉表契丹,耶律德光呼之為兒,賜以木柺,虜法貴之如中國几杖,非優大臣不可得。峻持柺歸,虜人望之皆避道。峻還,為王言契丹必不能有中國,乃議建國。二月戊辰,河東行軍司馬張彥威等上牋勸進。辛未,皇帝即位,稱天福十二年。天福,晉高祖年號也。天福止八年改元開運,至此四年矣。漢雖建國,而未有國號,又稱晉年號,捨開運而追續天福為十二年,初無義理,但書其實爾。磁州賊首梁暉取相州來歸。變來降曰「來歸」,哀斯人也。是時天下無主,得其主則往歸之,與乎叛于彼而來於此者異矣。漢高祖非有德之君,惶惶斯人之無所歸者,猶得而歸也,故曰「歸」。武節都指揮使史弘肇取代州,殺其刺史王暉。晉州將藥可儔殺其守將駱從朗及括錢使、諫議大夫趙熙來歸。辛巳,陝州留後趙暉、潞州留後王守恩來歸。三月丙戌朔,蠲河東雜稅。辛卯,延州軍亂,逐其節度使周密。壬辰,丹州指揮使高彥詢以其州來歸。壬寅,契丹遯,聞漢起太原,畏而去,故與自去異其文,「遯」者,退避之稱。以其將蕭翰為宣武軍節度使守汴州。夏四月己未,右都押衙楊邠為樞密使,蕃漢兵馬都孔目官郭威權樞密副使。契丹陷相州,殺梁暉。癸亥,立魏國夫人李氏為皇后。甲子,河東節度判官蘇逢吉、觀察推官蘇禹珪為中書侍郎、同中書門下平章事。乙丑,侍衞親軍步軍都指揮使史弘肇取潞州。戊辰,奉國指揮使武行德以河陽來歸。史弘肇取澤州。丙子,契丹耶律德光卒于欒城,契丹入于鎮州。五月甲午,太原尹劉崇為北京留守。丙申,如東京。蕭翰遯歸于契丹,以郇國公李從益知南朝軍國事。戊申,次絳州,刺史李從朗來歸。六月丙辰,次河陽,殺李從益及其母于京師。甲子,至自太原。戊辰,改國號漢,高祖初建國無國號,蓋其制詔皆無明文,故闕不書。然稱天福十二年,則國仍號晉可知,但無明據,故慎於所疑爾。此書「改國號漢」,則未改之前宜有所稱,此可以推知也。赦罪人、蠲民稅。于闐遣使者來。是夏,劉昫薨。秋閏七月乙丑,禁造契丹服器。天雄軍節度使杜重威反,杜重威於晉出帝時避出帝名去「重」,至漢而復之。天平軍節度使高行周為鄴都行營都部署以討之。庚辰,追尊祖考為皇帝,妣為皇后:高祖湍謚曰明元,廟號文祖,祖妣李氏謚曰明貞;曾祖昂謚曰恭僖,廟號德祖,祖妣楊氏謚曰恭惠;祖僎謚曰昭憲,廟號翼祖,祖妣李氏謚曰昭穆;考琠謚曰章聖,廟號顯祖,妣安氏謚曰章懿。以漢高皇帝為高祖,光武皇帝為世祖,皆不祧。八月,護聖指揮使白再榮逐契丹,以鎮州來歸。丙申,安國軍節度使薛懷讓殺契丹之將劉鐸,入于邢州。九月甲戌,吏部尚書竇貞固守司空兼門下侍郎,翰林學士,中書舍人李濤為中書侍郎:同中書門下平章事。庚辰,北征。冬十月甲申,次韋城,赦河北。十一月壬申,杜重威降。十二月癸巳,至自鄴都。

乾祐元年春正月乙卯、大赦し、改元す。己未、名を暠と改む。丁丑、皇帝万歳殿にて崩御(年五十四)。

原文乾祐元年春正月乙卯,大赦,改元。己未,更名暠。丁丑,皇帝崩于萬歲殿。年五十四。

隠帝は、高祖の第二子承祐である。高祖が即位すると、右衛上将軍・大内都点検に任ぜられた。魏王承訓は年長で賢明であった。高祖はこれを愛し、まさに後嗣と定めようとしたが、承訓が薨去し、高祖は病に伏せ、悲しみのあまり病状が悪化したため、承祐を諸将相に託した。宰相蘇逢吉が言うには、「皇子承祐はまだ王に封ぜられておりませぬ。急ぎ封ぜられるようお願い申し上げます」と。封ずるに及ばずして高祖は崩御し、喪を秘して発せず、杜重威を殺した。

原文隱帝,高祖第二子承祐也。高祖即位,拜右衞上將軍、大內都點檢。魏王承訓長而賢。高祖愛之,方屬以為嗣,承訓薨,高祖不豫,悲哀疾劇,乃以承祐屬諸將相。宰相蘇逢吉曰:「皇子承祐未封王,請亟封之。」未及封而高祖崩,祕不發喪,殺杜重威。

乾祐元年二月辛巳、承祐を周王に封ず。この日、皇帝が柩前において即位した。壬辰、右衛大将軍・鳳翔ほうしょう巡検使王景崇が蜀しょく人と大散関において戦い、これを破った。癸巳、大赦を行った。三月壬戌、竇貞固を行皇帝山陵使とし、吏部侍郎段希堯を副使とし、太常卿張昭を礼儀使とし、兵部侍郎盧価を鹵簿使とし、御史中丞辺蔚を儀仗使とした。丁丑、李濤を罷免す。護国軍節度使李守貞が反逆し、潼関を陥落させた。夏四月辛巳、陝州兵馬都監王玉が潼関を攻略した。壬午、永興軍の将趙思綰が叛き李守貞に附いた。客省使王峻が師を率いて関西に駐屯した。楊邠を中書侍郎兼吏部尚書・同中書門下平章事とし、郭威を枢密使とし、鎮寧軍節度使郭従義を永興軍兵馬都部署とした。戊子、保義軍節度使白文珂を河中兵馬都部署とした。黄河が原武で決壊した。五月己未、回鶻かいこつが使者を遣わして来朝した。乙亥、魏州ぎしゅう内黄の民武進の妻が一産で三男子を産んだ。黄河が滑州かつしゅう魚池で決壊した。旱魃と蝗害こうがいがあった。秋七月戊申朔、彰徳軍節度使王継弘がその判官張易を殺した。鸜鵒が蝗を食った。丙辰、鸜鵒の捕獲を禁じた。庚申、郭威を同中書門下平章事とした。癸亥、契丹の鄚州刺史王彦徽が来奔した。庚午、成徳軍副使張鵬を殺した。乙亥、王景崇が叛き李守貞に附いた。八月壬午、郭威が李守貞を討った。九月、西面行営都虞候尚弘遷が趙思綰と戦い、敗北した。冬十月甲申、吐蕃の使者斯漫篤藺氈薬斯が来朝した。十一月甲寅、太子太傅李崧を殺し、その一族を滅ぼした。壬申、睿文聖武昭粛孝皇帝を睿陵に葬った。十二月己卯、彰武軍節度使高允権が致仕した太子太師劉景巌を殺した。

原文乾祐元年二月辛巳,封承祐周王。是日,皇帝即位于柩前。壬辰,右衞大將軍、鳳翔巡檢使王景崇及蜀人戰于大散關,敗之。癸巳,大赦。三月壬戌,竇貞固為大行皇帝山陵使,吏部侍郎段希堯為副,太常卿張昭為禮儀使,兵部侍郎盧價為鹵簿使,御史中丞邊蔚為儀仗使。丁丑,李濤罷。護國軍節度使李守貞反,陷潼關。夏四月辛巳,陝州兵馬都監王玉克潼關。壬午,永興軍將趙思綰叛附于李守貞,客省使王峻帥師屯于關西。峻不命為將,又不令討賊,但令以兵實關西,下文乃見命將。楊邠為中書侍郎兼吏部尚書、同中書門下平章事,郭威為樞密使,鎮寧軍節度使郭從義為永興軍兵馬都部署。戊子,保義軍節度使白文珂為河中兵馬都部署。河決原武。五月己未,回鶻遣使者來。乙亥,魏州內黃民武進妻一產三男子。河決滑州魚池。旱,蝗。秋七月戊申朔,彰德軍節度使王繼弘殺其判官張易。鸜鵒食蝗。丙辰,禁捕鸜鵒。庚申,郭威同中書門下平章事。癸亥,契丹鄚州刺史王彥徽來奔。庚午,殺成德軍副使張鵬。乙亥,王景崇叛附于李守貞。八月壬午,郭威討李守貞。九月,西面行營都虞候尚弘遷及趙思綰戰,敗績。冬十月甲申,吐蕃使斯漫篤藺氈藥斯來。十一月甲寅,殺太子太傅李崧,滅其族。壬申,葬睿文聖武昭肅孝皇帝于睿陵。在河南告成縣。十二月己卯,彰武軍節度使高允權殺太子太師致仕劉景巖。

二年春正月乙巳朔、囚人を赦した。二月丙子、民の紐配租を免除した。夏五月、李守貞の将周光遜が降伏した。乙丑、趙思綰が降伏した。六月辛卯、回鶻の首領楊彦珣が来朝した。西涼府が使者を遣わして来朝した。蝗害があった。秋七月丁巳、郭威が華州留後趙思綰を京兆で殺した。甲子、河中を攻略した。八月、郭従義が前永興巡検喬守温を殺した。丙戌、郭威が使者を遣わして来り、俘虜を献上した。冬十月、契丹が趙・魏を寇し、群臣が添都馬を進上した。契丹が内丘を陥落させた。己丑、郭威及び宣徽南院使王峻が契丹を伐った。十一月、契丹は遁走した。

原文二年隱帝即位至此,宜改元而不改元,具周顯德二年注。而帝名承祐,年名乾祐,舉國臣民共稱而不改避,當時莫大之失,本紀無譏者,但書其實,後世自見也。春正月乙巳朔,赦囚。二月丙子,蠲民紐配租。夏五月,李守貞之將周光遜降。乙丑,趙思綰降。六月辛卯,回鶻首領楊彥珣來。西涼府遣使者來。蝗。秋七月丁巳,郭威殺華州留後趙思綰于京兆。甲子,克河中。守貞自焚死,故不書伏誅。八月,郭從義殺前永興巡檢喬守溫。丙戌,郭威使來獻俘。冬十月,契丹寇趙、魏,羣臣進添都馬。契丹陷內丘。己丑,郭威及宣徽南院使王峻伐契丹。十一月,契丹遯。

三年春正月、西面行営都部署趙暉が鳳翔を攻略した。丙午、郭威が添都馬を進上した。壬子、趙暉が馘と俘虜を献上した。二月甲戌、潁州汝陰の民麴温の門閭を旌表した。三月己酉、寒食の節に、南御園において望祭を行った。夏四月壬午、郭威が枢密使より天雄軍節度使となった。六月癸卯、黄河が原武で決壊した。秋八月、達靼が来附した。冬十一月丙子、楊邠及び侍衛親軍都指揮使史弘肇・三司使王章を殺し、皆その一族を滅ぼした。郭威が反逆した。庚辰、義成軍節度使宋延渥が叛き郭威に附いた。壬午、郭威が封丘を犯し、泰寧軍節度使慕容彦超が七里店に軍を置いた。癸未、北郊において軍を労った。甲申、劉子陂において軍を労った。慕容彦超が郭威と戦い、敗北した。開封尹侯益が叛き郭威に降った。郭允明が反逆した。乙酉、皇帝崩御した。蘇逢吉は自殺した。漢は滅亡した。

原文三年春正月,西面行營都部署趙暉克鳳翔。景崇自焚死,故不書伏誅。丙午,郭威進添都馬。壬子,趙暉獻馘俘。二月甲戌,旌表潁州汝陰民麴溫門閭。三月己酉,寒食,望祭于南御園。夏四月壬午,郭威以樞密使為天雄軍節度。六月癸卯,河決原武。秋八月,達靼來附。冬十一月丙子,殺楊邠及侍衞親軍都指揮使史弘肇、三司使王章,皆滅其族。郭威反。庚辰,義成軍節度使宋延渥叛附于威。壬午,威犯封丘,泰寧軍節度使慕容彥超軍于七里店。癸未,勞軍于北郊。甲申,勞軍于劉子陂。慕容彥超及郭威戰,敗績,開封尹侯益叛降于威。郭允明反。乙酉,皇帝崩,年二十。周廣順元年葬之許州陽翟縣,號潁陵,為賊所葬,故不書。蘇逢吉自殺。漢亡。自隱帝崩後四十二日,周太祖始即位,而斷自帝崩書「漢亡」者,見帝而漢崩亡矣。其太后臨朝,湘陰公嗣立,皆周所假託,非誠實,所以破其姦,故書曰「漢亡」,見周之立遲也,遲而難於自立,則猶有自媿之心焉。

嗚呼、人君が即位して元年と称するは、常事に過ぎず、古はこれを重んじなかった。孔子が春秋を修めざる以前、その前から固より既にこのようであり、暴君昏主、妄庸の史といえども、その事を記す先後遠近は、歳月を以て一二と数えざるはなく、これは理の自然である。一を元と謂うも、また未だ嘗て法があったわけではなく、蓋し古人の語である。後世の曲学の士に至り、初めて孔子が「元年」と書くことを春秋の大法と謂い、遂に改元を以て重事とした。

原文嗚呼!人君即位稱元年,常事爾,古不以為重也。孔子未修春秋,其前固已如此,雖暴君昏主,妄庸之史,其記事先後遠近,莫不以歲月一二數之,乃理之自然也。其謂一為元,亦未嘗有法,蓋古人之語爾。古謂歲之一月,亦不云一,而曰正月。國語言六呂曰元間大呂,周易列六爻曰初九。大抵古人言數多不云一,不獨謂年為元也。及後世曲學之士,始謂孔子書「元年」為春秋大法,遂以改元為重事。

漢以後より、また年号を建てて元と名づけ、正偽紛雑し、称号遂に多く、その紀に勝えざるなり。五代は乱世なり、その事法なくして理に合わざること多し、皆道うに足らざるなり。その年号の乖錯して後世を惑わすに至っては、則ち明らかにせざるべからざるなり。梁太祖は乾化二年に弑逆に遇い、明年、末帝は既に友珪を誅し、その鳳暦の号を廃して、復た乾化三年と称したのは、尚ほ説有るものと為す。漢高祖が建国し、晋出帝の開運四年を廃して、復た天福十二年と称するに至っては、何ぞや。蓋しその愛憎の私によるものなり。方に出帝の時、漢高祖は太原に居り、常に憤然として晋を見下し、而して晋もまた陽に優礼を以てこれに接し、幸いにして未だその隙を見ざりき。契丹が晋を滅ぼすに及び、漢は未だ嘗て赴難の意有ること無し。出帝は既に北遷し、方に陽に兵を以て声言してこれを追い、土門に至って還る。その即位して改元し、而して開運の号を廃するに及びては、則ちその用心知るべし。蓋しその出帝に対するに、復た君臣の義無く、而して禍を幸いとして利と為さんとするは、その素志なり、歎ずるに勝えんや。夫れ所謂、諸の中に有る者は必ず外に形わるとは、その是れに見るか。

原文自漢以後,又名年以建元,而正偽紛雜,稱號遂多,不勝其紀也。五代,亂世也,其事無法而不合於理者多矣,皆不足道也。至其年號乖錯以惑後世,則不可以不明。梁太祖以乾化二年遇弒,明年,末帝已誅友珪,黜其鳳曆之號,復稱乾化三年,尚為有說。至漢高祖建國,黜晉出帝開運四年,復稱天福十二年者,何哉?蓋以其愛憎之私爾。方出帝時,漢高祖居太原,常憤憤下視晉,而晉亦陽優禮之,幸而未見其隙。及契丹滅晉,漢未嘗有赴難之意。出帝已北遷,方陽以兵聲言追之,至土門而還。及其即位改元,而黜開運之號,則其用心可知矣。蓋其於出帝無復君臣之義,而幸禍以為利者,其素志也,可勝歎哉!夫所謂有諸中必形於外者,其見於是乎!