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出帝の父敬儒は、高祖の兄なり、唐の荘宗の騎将となり、早く卒す。高祖その子重貴を以て子と為す。高祖六子、五は皆早く死し、而して重睿幼し、故に重貴立つを得たり。
重貴少にして謹厚、騎射に善くし、高祖博士王震をして礼記を教えしむ。久しくして大義を通ずる能わず、震に謂いて曰く「此れ我家の事に非ず」と。高祖契丹に立てられ、一子を以て太原に留守せしめんと謀る。契丹諸子を尽く出だして自ら之を択ばしむ。重貴を指して曰く「此の眼大なる者は可なり」と。遂に拝して金紫光禄大夫、行太原尹・北京留守、河東節度事を知らしむ。
七年六月乙丑、高祖崩ず。皇帝柩前に即帝位す。庚午、右驍衛将軍石徳超をして御馬二を以て相州の西山に撲祭せしむ。夷狄の礼なり。如京使李仁廓をして契丹に使わしむ。契丹梅李を使わしむ。丙子、馮道を大行皇帝山陵使と為し、門下侍郎竇貞固を副と為し、太常卿崔梲を礼儀使と為し、戸部侍郎呂琦を鹵簿使と為し、御史中丞王易簡を儀仗使と為す。旧史・実録に橋道頓遞使無し。置かざるを疑う。或いは闕書か。漢高祖も亦然り。己卯、四方館使朱崇節・右金吾衛大将軍梁言をして契丹に使わしむ。秋七月壬辰、皇祖母劉氏崩ず。視朝を輟むこと三日。高祖の生母なり。高祖の時に尊びて皇太后と為す。其の崩るるや、喪葬后礼を用いず。恩礼の薄きを見る。書して皇太后と曰わざるは、帝に於いて祖母なり。「崩」と曰うは、其の名を正すなり。丁酉、石徳超をして相州の西山に馬を撲せしむ。前に已に備見す。故に文省く。庚子、大赦す。甲辰、契丹通事を使わしむ。八月戊午、高行周襄州を克つ。安従進自ら焚死す。故に伏誅と書せず。庚申、天平軍節度使景延広・義成軍節度使李守貞・彰徳軍節度使郭謹、銭粟を進めて山陵作るを助く。甲子、契丹郎五を使わしむ。庚午、皇祖母を魏県に葬る。癸酉、契丹其の客省使張九思を使わしむ。九月辛丑、李守貞を大行皇帝山陵都部署と為す。冬十月己未、契丹舍利を使わしむ。庚午、回鶻使者を遣わし来たる。十一月、契丹大卿を使わしむ。庚寅、聖文章武孝皇帝を顕陵に葬る。陵は河南寿安県に在り。五代の乱、此に至りて七君、而して其の死を得ざる者五。明宗は善終すと雖も、愍帝葬る克わず。至りて廃帝の時に始めて葬る克う。故に皆書せず。此に至りて始めて子其の父を葬るを得るを見る。故に并せて祔廟詳しく之を書す。己亥、牛羊使董殷をして契丹に使わしむ。庚子、高祖の神主を太廟に祔す。辛丑、高祖の霊車の過ぐる所の民租の半を蠲す。十二月庚午、北京留守劉知遠百頭の穹廬を進む。穹廬は、夷狄の用なり。契丹の于越令骨支を使わしむ。辛未、又野里巳を使わしむ。丙子、于闐都督劉再昇を使わし来たる。沙州曹元深・瓜州曹元忠皆使者を遣わし再昇に附して来たる。旱魃、蝗害あり。
八年春正月、契丹の于越烏多奥を使わしむ。二月壬子、景延広を御営使と為す。己未、東京に如く。広晋府の囚を赦す。庚申、澶州に次ぐ。囚を赦す。乙丑、鄴都より至る。庚午、寒食、南荘に於いて顕陵を望祭し、御衣・紙銭を焚く。衣を焚き野に祭るの類は、皆閭巷人の事なり。之を天子に用うるは、礼楽の甚だしく壊るるを見る。三月己卯朔、趙瑩罷む。晋昌軍節度使桑維翰を侍中と為す。辛丑、引進使・太府卿孟承誨をして契丹に使わしむ。蝗害あり。夏四月庚午、董殷をして契丹に使わしむ。供奉官張福威順軍を率い陳州に於いて蝗を捕う。五月、泰寧軍節度使安審信中都に於いて蝗を捕う。丁亥、皇伯敬儒を追封して宋王と為す。癸卯、馮道罷む。甲辰、旱魃・蝗害を以て大赦す。六月庚戌、皋門に於いて蝗を祭る。癸亥、供奉官七人奉国軍を帥い京畿に於いて蝗を捕う。辛未、民の粟を括借し、粟を蔵する者を殺す。秋七月甲午、皇太后を冊す。丁酉、南荘に於いて射る。契丹梅里等を使わしむ。甲辰、供奉官李漢超奉国軍を帥い京畿に於いて蝗を捕う。八月丁未朔、民を募りて蝗を捕わしめ、粟を以て易う。辛亥、民の青苗を検す。九月戊寅、秦国夫人安氏を尊びて皇太妃と為す。丙申、大年荘及び景延広の第に幸す。冬十月戊申、馮氏を立てて皇后と為す。馮氏は帝に於いて叔母なり。壬子、近郊に畋り、沙台に幸す。丙寅、契丹通事劉胤を使わしむ。庚午、民の粟を括借す。十一月己卯、董殷をして契丹に使わしむ。甲申、八角に幸し、馬牧を閲す。乙未、契丹梅里を使わしむ。戊戌、済州刺史楊承祚青州に奔る。辛丑、高麗其の広評侍郎金仁逢を使わし来たる。十二月癸丑、給事中辺光範・登州刺史郭彦威をして契丹に使わしむ。甲寅、高麗太相を使わしむ。平盧軍節度使楊光遠反す。淄州刺史翟進宗之に死す。
嗚呼、余が『封子重貴為鄭王』と書き、また『追封皇伯敬儒為宋王』と書くのは、豈に意無からんや。礼に曰く『兄弟の子は猶子の如し』と。重貴を『子』と書くは可なり。敬儒は出帝の父なり、『皇伯』と書くは何ぞや。出帝は正しからずして立ち、その生みの親を絶つが故なり。蓋し出帝は高祖に対して子となるは得れども後と為るを得ざるは、高祖自ら子有るなり。高祖の病篤き時、その子重睿を抱きて馮道の懐に置きて託せしに、出帝豈に立つを得んや。晋の大臣、既に礼に背き命を廃して之を立て、出帝を高祖の子と為せば則ち立つを得、敬儒の子と為せば則ち立つを得ずと謂ひ、ここに深くその生みの親を諱みて絶ち、以て天下を欺きて真の高祖の子と為さんとす。礼に曰く『人の後と為る者は、其の父母の為に報ゆ』と。高祖に子無かりせば、出帝後と為りて立ちて正しからんには、則ちその生みの親を絶ちて以て欺くを待たざるなり。故に余が『追封皇伯敬儒為宋王』と書くは、以てその立つこと正しからずして、天性を滅絶し、その父を臣とし爵を之に加へ、以て天下を欺くことを見せんが為なり。